ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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Were Born / ワー・ボーン

Were Born / ワー・ボーン

舞台芸術集団 地下空港

表参道 NORA HAIR SALON(東京都)

2018/04/14 (土) ~ 2018/04/15 (日)公演終了

満足度★★★★

 前回に続く移動型公演である。演者達が、何時何処でどのような動き、発話をしているかに応じて、観客は積極的に動くべし。荷物は預かって貰えるが、持ち物は少ない方が良かろう。(華4つ☆)追記2018.4.17

ネタバレBOX

観客自身が、好奇心と探究心そしてイマジネーションを持って作品に接することに加えて、論理的に自分の頭で考えながらキチンと判断しなければ、余りヴィヴィッドに関われないタイプの作品だと考えられるからである。積極的に関われば、作品構造がハッキリ見えるし決して難しい作品ではない。
 何しろ、一時の寺山作品のように同時に様々な場所で別々のことが行われたりするので、観客が動き回りながら、何をどのように観るかを的確に判断しながら観ないと全体像のイマージュを掴むことも難しくなる可能性があるからである。何、構造が見えてしまえば、後は観客個々人の知性・イマジネーション等の問題で可也深読みができる理知的な作品である。
 タイトルが示していることのみならず、war born、和盆、和本等このタイトルの音が示す様々な概念・イマージュが喚起する内容が包みこまれた作品である。多様な解釈が可能であるが、自分は現代日本の現実を映しているように解釈した。
 契機は、それぞ:れの役者が演じている役割を見ることだろう。皇帝というか支配者と目される人物が居る。官僚が居る。治安維持を担う軍人或いは警察官が居る。弱者が居る。浮動層はダンサーによって表されている。
  次にこれら各々が何を表象しているのかを考えてみるのだ。支配者は、プロパガンダをし、それによって大衆をマッスの次元で操縦しようとするがプロパガンダは魔物である。情報操作が時に為政者の目論見を超えて暴走すると、為政者が大衆に担がれ破滅の責任者として総括されることにもなる。
 官僚は、為政者の意図を汲み、忖度して大衆管理に携わるが、その方法は、彼らの目論見や単に気紛れによって方向づけられるから、大衆にとっては単なる不条理でしかないが、機構がこの隔絶を絶対化してしまうので、大衆の反抗は役に立たない。本質的な革命のみが、この機構そのものを変質させる可能性を持つ。
 治安維持を担う連中は、知的に一段劣るから、唯上の言う事を、実行に移す暴力装置として機能する。
 浮動層は、以上の三階層の欺瞞を見抜き、自分の力の限界も知っているから、揺蕩いつつ、力から巧みに身を逸らしている。
 残る弱者たちは、最も無防備なまま、暴力の犠牲になる。彼らは願う事しかできない。そして唯一の武器は記憶することだ。
 これらの社会的要素が総て役者達の演技によって同時多発的にあちこちで行われているのが、今作である。2階部分には、洗髪用のタンクを備えた理髪店用のシンクで、水責めの拷問が行われるシーンもあるが、これは更に大きな1階部分で同時に進行している別の様々な演技からは隠されている。無論、これは、ロシアなどがシリア政権軍に加担したことを責めるアメリカがラッカ攻撃に関しては西側に報道させなかった一般市民の犠牲者被害と同等の性質を持つものであり、アメリカがイラクやアフガニスタン、キューバのグエンタナモで散々やった拷問が殆ど報道されなかったこと、イラク戦争については、インベッド取材でアメリカ軍にとって極めて有利な報道しかできないように企まれた手法の発明、これらに深く関与し軍事オブザーバーとして指導したイスラエルの暗躍を見えなくさせていることとも同等である。
 その上で構造的に捉えるなら、先ず我々の生きている世界がどのようであるか? を考えてみる必要があろう。そこには様々な層が堆積している。我々が日々食わされている物は、果たして本当に安全か? 空気は? 水は? 土は? インフラや社会システムは? 信じていることは? という生きる条件に直接、密接にかかわっている事・もの等は、リアルな局面に於いてホントに確かか? 
 エネルギーは完全に足りているにも関わらず、原発再稼働に走る自民党を中心とした政権とそれに追随するしか能の無いアホダラ官僚、マスゴミ、フェイクニュースを捏造し続けることによって事実を隠蔽し、地球生命を危機に陥れる命の敵共、森友、加計、自衛隊、自民党政府、東電、アメリカの植民地政策に見るような隠蔽、虚偽、無責任、切り捨て、弾圧、頬っかむり等々を貫く為にこそ、諸々のプロパガンダが用いられ、そのプロパガンダに踊らされ、フェイクをファクトと勘違いさせられていないと言い切れるか? 寧ろ、我々の日常は、既にバーチャルとフェイクで覆われ尽くしているのではないか? 仮にそうであるとしたら、どうやって我らはバーチャルやフェイクから自由になれるか? ということをこそ次に考えなければならない。
 今作は、このような生活環境に意図的でないかも知れない人々に、状況を提示して見せる試みであろう。この姿勢を高く評価したい。
組曲~touch 2 you~

組曲~touch 2 you~

touch my brassiere? company

上野ストアハウス(東京都)

2018/04/13 (金) ~ 2018/04/15 (日)公演終了

満足度★★★★

 やや情緒に流れるきらいはあるが、新宿という街のかつての優しさの背景には、或いはこのような事情があったかも知れない。(追記2018.4.17)

ネタバレBOX

何れにせよ、この街に深くかかわる者総てが抱えていた寂しさや侘しさ遣る瀬無さばかりは本当だっただろう。だから喧嘩も多かった。今なら喧嘩を態々買ってやろう、などという優しさを身に纏った人種は絶滅してしまっているであろうから。今作でヤクザが大切な役割を果たしているのは、そして実際、ある意味見捨てられた者達の最後のケツ持ちをするのは、右翼や不良であろう。彼らは人の痛みを良く知っている。計算もするが、その上での優しさもそれを知らなかった者にとってはとても温かなものに思えるのも事実だからだ。今作に登場する女の子も泣くことを知らずに育った。そんな人間は、世の中の底辺にはごまんと居るものなのだが、大衆的懶惰に慣れ切った愚衆には見えないし感じられない。これが現実である。思春期、怒るべき時にキチンと怒ってやれなければ子供達は横道に逸れる。そして子供達はその瀬戸際で必ずシグナルを出す。大人の役割は、子供らの出すシグナルをキチンと捉え、的確な対応を為すことだ。そして仮にその能力が己にないならば、その無能を意識し然るべき対応を採ることである。そういうことのできる人は必ずいる。そういう大人への橋渡しだけはすべきなのである。
 どんな人間も、生まれた状態から殺人鬼ということは殆ど無い。仮に遺伝的にそのような要素を持つと分かった場合には、では、どうすれば、当事者が己の欲求をセーブしつつ幸福を得られるか? 社会参加が可能になるかを一緒になって考えることができるような方法を考え抜くことが第1の問題として施行されるべきであろう。一緒に考える姿勢を取ることで殺されるリスクを回避する手法も含めてであることは当然だ。まあ、今作では此処までシビアな状況は措定されていないが。その甘さも含めて情緒に流されている点が問題なので、深く考えた上で、無駄を削って作品作りをして欲しい。
山の上のHOTEL・別館~2018~

山の上のHOTEL・別館~2018~

劇団カンタービレ

ウッディシアター中目黒(東京都)

2018/04/13 (金) ~ 2018/04/16 (月)公演終了

満足度★★★★

 2012年に初演を迎えた今作、自分は初めて拝見したが、3回目の上演ということである。(追記2018.4.17)花四つ☆

ネタバレBOX


 国家と自治体、官僚が愚かなことしかしないこの植民地ではもっと上演されても良い作品だろう。尖閣、竹島等、棚上げしておくという多国間の知恵を使ってきた多くの問題を、また慎重に対応してきた北方領土問題を、植民地支配と言う負の要素をキチンと解決してこなかった北朝鮮問題を、己の知恵の欠如を残酷なまでに示している現首相とやら、妖怪の血を引き、己も妖怪、それも最悪の鵺である晋三とかいうパシリが、学生時代だけで卒業しておけばよかったものを、今はアメリカのパシリとして機能して良い気になっている。嘘、隠蔽、権柄ずく、冷淡、無責任、詭弁、空とぼけ、厚顔無恥、偽善等々枚挙に暇のない国賊が、総てのテクニックを使って国民を欺こうとしているが、どっこいそう簡単に問屋が卸すものか! こんな下司の抜かす恫喝に屈しない者達も居るのである。それが、決定的に疎外された者達、今作の影の主人公である脱走犯2名。犯罪者であることで正義を貫こうとする立場は、金嬉老によっても実行された。被差別的立場に置かれた者が真に正義を実行しようとする場合、このような方法に拠る他現実にはあり得ないケースがまま在り得よう。何せこの腐り切った「国」の為政者は、小栗上野介が幕末に指摘した通り、当に無責任によってこの国を運営してきたからである。こんなものは本当は運営でもなければ運用でも何でもない。唯の出鱈目である。主権者であるハズの国民がまともでないから、最も虐げられて在る者達が、犯罪者となって正義を遂行するしかなくなるのではないか? 今作が真に問うのはその点であろう。それだけ大切で本質的な問いが今作には含まれている。
 超能力者達が、国家、東電などの組織の怠慢と歴史の事実に対する瞞着によって殺された子供達の親であることも重要である。我々が心しておくべきは、国家や独占組織というものは、必ず嘘を吐くということを肝に銘ずることであろう。そして何より肝心なことは、こういう欺瞞しか為さない者共の言うことなど、その欺瞞に根差した事象については何ら聞く必要がない、とハッキリ態度で示すことである。
誰も寝てはならぬ

誰も寝てはならぬ

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2018/04/12 (木) ~ 2018/04/18 (水)公演終了

満足度★★★★

 「」内も「」外も凄いタイトルとサブだが、先ずこれにイカレテしまった。(華4つ☆)追記楽日以降

ネタバレBOX

実際、これ以上にインパクトのあるキャッチ・コピーは、そうあるものではない。尺は70分程の中編だが、捻りの効いた作品であるということは直ぐに察しがつくだろう。
 それも其の筈。このタイトルは、プッチーニの歌劇「トゥーランドット」の有名なアリアから採られているのは、そう音楽に詳しくない人でも知っていることだろう。劇中のシナリオも、無論、この歌劇と関連させてある。だから尺は短くても内包している意味は大きいのだ。このような世界的な大風呂敷を広げた上で、終盤の科白が活きてくる。実際にどんな科白にこの物語が収束するか? それは観てのお楽しみ。楽終演後には、明かすことにしよう。
春の花びら3回転!!

春の花びら3回転!!

チームまん○(まんまる)

シアターKASSAI【閉館】(東京都)

2018/04/11 (水) ~ 2018/04/15 (日)公演終了

満足度★★★★

 “下ネタは世界を救う”を標語にぐぁんばっている劇団だが、お客さんには、若く美しい女性も結構多い。花四つ☆

ネタバレBOX

今回は短編3作のオムニバス公演で、当初90~100分位を考えていたのですが120分と長くなりました、と前説の時に説明があったより長くなった。が、全然退屈などはせず、最後まで楽しませてくれた。というのも、下ネタというのは、生命現象にそのまま結びつくので、結構哲学的な傾向を持ち易いと同時に羞恥心など社会的・文化的問題とも深く関わる為、社会学、心理学、社会心理学等々にも結びつき易いのだ。その上、社会ヒエラルキーの上層、下層を分けるメルクマールにもなり得る。当然、タブーとも結びつくのだ。
上演順に作品タイトルを挙げると
花びら①:おめこ星 
花びら②:じまんげ 
花びら③:うんKOである。
ところで硬いことを言った序でに“下ネタというのは案外哲学なのである”という事を実証するのも面白かろう。16世紀ヨーロッパを代表する知識人であったフランソワ・ラブレーの書いた「ガルガンチュワとパンタグリュエル物語」には、エスプリ・ゴロワがふんだんに登場するから下ネタがかなり作品中に描かれるのだが、それはルネサンスの光であると同時にそれまで中世キリスト教によって散々抑えられてきた人間性解放の讃歌でもあったことは明らかであり、そこに描かれる教育論など当に天才の発想そのもの。医学者としても超一流の医者であったラブレーの人間性を余すところなく描く傑作であるから、時間の在る方は一読されたい。岩波文庫で絶版になっていなければ入手可能なハズ。但し、注釈がごまんとついているから覚悟して読むべし。注を入れて2500~3000ページくらいだろうか。もう何十年も前に読んだのでハッキリページ数までは覚えていないが大体その程度である。
 他にも能書きを垂れれば「金環蝕」という小説はご存じだろうか? このタイトルは無論、天体の美しい現象ではない。初代芥川賞受賞作家の石川達三が、政治の世界を汚穢そのものとして描く為に敢えて天体の美しい現象を穢す下司としての政治屋を糞に例えたのである。糞を黄金に例えるスラングは誰しも知る所だ。つまりアイロニーである。蝕の使い方が何とも微妙ではないか。「生きている兵隊」で発禁処分を喰らった石川 達三の意地が見えるような気がする。因みに「生きている兵隊」に描かれていることは、日本軍が中国で行った戦争犯罪行為である。
 閑話休題。①は、スマホに代替されているAIと我々人間存在の正しく現在に於ける対比である。利便性に侵食された我らの人生は、更なる利便性を求めて自己崩壊してゆくのか否か? 更にこの先他の技術とも結びつきつつ進化・深化してゆくであろうテクノロジーに、支配される可能性の高い我らヒトの存在をも根本から考え直させる契機を含んでいると見た。
②は、性に目覚める頃の男の子と母との関係を面白おかしく描いたものだが、男の羞恥心と女性の現実的な生々しさがすれ違う滑稽味が見所か。
③は、ストレスと胃腸との相関関係を心理学的なレベルを中心に追った作品で、自律神経失調と便意との関係が分かり易く描かれて示唆的である。
だが、何れの作品も密接に生きるということに関わっている点で実に人間的であり、エコロジカルな視点で描かれている点が良い。
これに対し我々・ヒトが発明してしまった核などは、暴走すれば、人間だけではない。死滅するのは。地球上の総ての生き物である。この責任は我ら、人間にこそある。
やさい

やさい

劇団うけつ

新宿ゴールデン街劇場(東京都)

2018/04/07 (土) ~ 2018/04/07 (土)公演終了

満足度★★★★

 今回は“野菜”をキーワードにしたコント公演と銘打たれた作品だ。

ネタバレBOX

①母さんいるよ②友情③僕の眉毛は細い④初恋をもう一度⑤急須に藤の花を添えて~土橋を叩いて人は渡る~の五話である。尺は1時間程。
 板上は、下手観客席側に設けられた小テーブルの上に俎板、包丁、鍋、コンロ、野菜。調味料などの調理関連品が置かれている以外はフラット。
 ①母と子の絆に絡んだ話、②は、友情に男女関係が割り込むハナシ等々。中々ウィットに富んだシナリオで笑える。最後には、ゲームもあるのだが、上演中に即席キッチンで作られるのはカレー。登場した野菜は、この具になり、可也好い加減な調理で作られたカレーを負けたメンバーが食べなければならないという罰付きで、これも気の毒ながら笑ってしまった。
母の桜が散った夜

母の桜が散った夜

“STRAYDOG”

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2018/04/04 (水) ~ 2018/04/08 (日)公演終了

満足度★★★

 一応、粗筋で作次郎と母のことが記されているのであるが、これを作劇だけで分からせて欲しい。

ネタバレBOX

 母・光代が春を鬻ぎ、キャバレーで働いて育ててくれたことを恥じたとて、ホントに自分・作次郎が殺したようなものだと感じているのであれば、その経緯を迷わずに告白できる訳もない。脚本が甘いか、演出が甘いかどちらかであろう。しょっぱなで、こういったリアリティーの欠如に白けてしまった。少なくとも長めの間を置くべきである。中盤まで脚本の粗さが際立った。
 このような作りは、若い役者と老年に差し掛かった役者が亡くなった光代の息子を演じていることを終盤まで明確に示さない演出にも表れている。質の低いギャグで観客に媚びるよりも、実際描きたいものを中心にキチンとした構成を目指すべきであろう。
 個々の科白が、メディアから切り取ってきたようなレベルであることも気に掛かった。薄っぺらいのである。心底悩み地獄と手を繋いで生きてゆくしかない人々の吐く科白は、一般人には、思いもつかないような視点から提示される。この辺りの掘り下げが欲しい。
 子役の女の子の演技とキャバレーで働いていた母を演じた女優の演技が最も気に入った。
ストラタ

ストラタ

一十口企画

新宿眼科画廊(東京都)

2018/04/06 (金) ~ 2018/04/08 (日)公演終了

満足度★★★★★

 タイトルのストラタはウィキで調べると、どうやら3Dプリンタなどの製造メーカーらしい。(華5つ☆)終演後発表部分追加 2018.4.9

ネタバレBOX

シュールなシーンがたくさん飛び出す芝居だが、この手法自体が芝居をメタ化する方向に働いている。それも極めて有効に。

 物語は、単純だ。或る男が、交通事故を引き起こした。被害者は3歳の男の子。場所は世田谷区の一角。小屋入口の脇が小さな踊り場に設えられこの踊り場に接するようにして家屋の壁。壁には小さな窓があり、普段はカーテンで仕切られている。踊り場から小屋の長辺に沿って奥の方まで歩道が延びており、奥の壁の手前1mほどの所で切れているが、この切れ目には、車両の進行方向を記した掲示板。歩道が車道に面した場所に信号機操作盤があり、板突き当りはスクリーンになっていて、この先の道路が映し出されている。
 異様なのは、丁度歩道の切れる辺り、天井部分から電線に巻きつかれた子供用自転車が宙吊りになって居ること位だ。この自転車こそ、被害者が撥ねられた時に乗っていたチャリである。
 さて、撥ねられた子供は、大きな音にカーテンを開いた主婦が連絡を取り、救急車で病院に搬送されたが2日後に息を引き取った。運転手は、子供が急に飛び出してきたのだが、動転していてどこからどのように飛び出してきたのか定かでは無い、と主張。運転手にも子が生まれたばかりでもあり、警察の細かい調査は、後回しになっていたのだが、この日は、被害者の母親、運転手とその妻子らも現場に集まることになっており、担当刑事も到達したのだが、中々被害者の母親が現れない所へ通行人が通りかかり、色々と詮索をしてくる。信号機が変わらないのをいいことにああだ、こうだと口を挟んでくる等々が非常にシュールレアリスティックに描かれてゆく。刑事は刑事で自分はインコだと言い張るばかりでなく実際、そのように鳴き、仕草も鳥のような場面を多々演じる。そこに現れる運転手の母は、何やら意味不明の言葉と通じる言葉のちゃんぽんで話す等々。
 一方、歩道に面した家の主婦には、小さな子供が居て子供は事件の現場を見ていたということが判明した。他にも特殊なことがいくつもあるのだが、大人は全員、シュールレアリスティックな世界の住人であるのに対し、唯一子供だけがノーマルで物語全体の錘として機能している。扇で言えば要部分だ。主として歩道で展開する物語のキモ部分は、終演後に明かそう。

以下終演後に発表する部分だ。
 大人達が総てシュールなのは、要するに人工的な世界に生きているからである。通行人らは総て事故に関わる人々をからかうかのような野次馬(世間)であり、人が死んでいるにも拘らず、無責任極まる批評や茶々を入れて楽しんでいる。これらの大人の行為を対象化しているのが、自然でしかない子供である。この子供が居ることで、この人工的な檻が即ち大人達のベースになって観客という第三者に提示される。この構造が、作品をメタ化しているのである。一見、何気ないシュールレアリスティックで不思議な遊びに見えるかも知れないが、ちょっと構造を考えてみるとこのような面白い観方が可能である。

Be My Baby

Be My Baby

enji

吉祥寺シアター(東京都)

2018/04/04 (水) ~ 2018/04/08 (日)公演終了

満足度★★★★

 子が授かるだの、安産だの何かとお目出度伝説の湧く団子屋。(追記2018.4.17)

ネタバレBOX

この店の脇を上がると神社があり、願を掛けると子宝に恵まれるという噂が流れて、こんな辺鄙な場所にある団子屋にもお恵みが回って来るとか来ないとか。どういう訳か近場に産婦人科の医院がある。
 それも其の筈! この伝説は、この産婦人科院長の事実婚の女性が作り出したものであった。何れにせよ、ネットで拡散され訪れる者も居るのが実情だ。
 “石胎女”という言葉がある。子を欲しがっても生まれない場合、その原因を女性に負わせた場合の言い方だ。実際にその為に苦しむ女性が居ることは事実であり、今作にもそのような女性が登場する。団子屋の妻である。一方、今作に登場する団子屋のケースでは、夫側にも問題があることが指摘されているので実際には、どちらが指弾されていると区分けすることはできないものの、精神的負担としては、産む性としての女性の方が精神的負担が掛かりそうである。何れにせよヘテロセクシュアル中心の社会で男女の微妙な人間関係が、健常者同士ではあっても、若く而も見た目はヤンキーでリストラに遭い乍ら、連れ合いに告げていない実際には生活苦を抱えたカップルの妊娠や、院長の内縁の妻でありながら、入籍はしていない熟年女性などが、各々の悩みを抱えながら生き、生活している日常を劇化した作品だ。舞台美術がかなり凝っている。舞台奥上手の一番高い所に神社があるのだが、そこへ行くアプローチの階段の登り口入り口が何か所にも分かれていたり、それらが踊り場を通じて一つの階段に集約された上の方で、神社側、医院側と分れていたり等である。因みに団子屋は、下手、階段が一つに纏まる踊り場の高さが屋根に中る辺りに建てられており、店の手前には床机が置かれている。上手壁際には、医院への行き方を示した案内板が貼られている。
 今作の弱い所は、舞台美術などにこれだけ凝りながら、内容的には上に挙げたような苦しみを描くのであればもう一段深い突っ込んだ表現迄到達して欲しい、と思わせてしまう点と最終的な集約点に昇華するのに成功していない点があるように思われることである。
ピヨピヨレボリューション公演『Gliese』

ピヨピヨレボリューション公演『Gliese』

オフィス上の空

ザ・ポケット(東京都)

2018/04/03 (火) ~ 2018/04/08 (日)公演終了

満足度★★★★

Aチームを拝見。
 舞台美術も暖色系を多数使用し、女の子らしさ、温かさを出すと同時にステージとしても使える踊り場、円筒形や四角形、半円などを組み合わせると共にマネキンをアレンジした出捌け口が作られて居たりと作品内容にピッタリでおしゃれ。追記2018.4.9(華4つ☆)

ネタバレBOX

 女の子憧れの雑誌Glieseは、発行部数日本一。妄想癖の強い由依は、読者の誰からも近そうなルックスと親しみを感じさせる絶妙な表情から、その読モに選ばれカリスマモデル、可憐の対抗馬として着々と人気を上げてゆく。
 ところでGlieseのスタジオは、地球から遠く離れた宇宙空間に浮かぶ惑星Glieseにあり、ロケバスは、いつの間にか宇宙を旅しスタジオに到着していたのだった。
 一方、可憐には秘密があった。Glieseの生命体と合体して顔を整形していたのだ。これには母、一の醜さに対する強いコンプレックスが絡んでいた。女子の顔が醜いということは、即ち幸福からの脱落だと固く信じていたのである。
 カリスマとしての重圧と、自分を偽ることにより己のアイデンテティーそのものの危機を抱えた可憐の苦悩は彼女の身体を蝕んでゆく。ところで、モデルという職業は傍目に見るほど華やかなだけの職業ではない。トップモデルともなれば、歩き方、姿勢、ポージング等々にも厳しい視線が向けられるばかりでなく、これらの動作総てを美という基準に際立たせる為に身体訓練は、かなり厳しいものになるのは必然である。おまけにショーなどのイベントでは楽屋裏は着替えや早変わりの為に戦場と化す。更にモデルとしての対抗馬が現れ、自分より年が若ければ肌の色つや、張りも負けることになる。合体したGlieseの細胞との相性も完全ではない。おまけに自分が自分でないもの・ことを演じ続けるカリスマモデルの役割にもホトホト嫌気が差している。彼女は限界を迎えていたのである。精神を病むに至っていた。だが、それを素直に表明することも適わなかった。何故なら、カリスマモデルとして生き続けること、それが母の唯一の期待であったからである。母は整形していた。自分が醜かったことで得られなかった幸福を整形によって入手し人生をドラスティックに変えることに成功していた。それ故、DNAレベルでは、自分と同じ醜さを抱えた娘は整形によって幸せにする他ないと考えていたのである。娘の意志は彼女の意識に反映されてはいなかったということになる。
 結局、以上は破綻を来したが、ラストはハッピーエンドに導かれている。

僕をみつけて/生きている

僕をみつけて/生きている

かわいいコンビニ店員 飯田さん

OFF OFFシアター(東京都)

2018/04/04 (水) ~ 2018/04/08 (日)公演終了

満足度★★★★

「僕をみつけて」を拝見。

ネタバレBOX

 人狼ゲームを仲立ちにし男と女、生まれの不平等、他人からのレッテル貼り、学歴や容姿等々の差によって生じるコンプレックスや優越意識などの坩堝で身悶えする我々の遣る瀬無さを、性行為によって逃れようとする甘えや誤魔化し、また寂しさという感情を具現化することで等身大に描いた作品。
正しい顔面のイジり方

正しい顔面のイジり方

スマッシュルームズ

シアター711(東京都)

2018/04/04 (水) ~ 2018/04/08 (日)公演終了

満足度★★★★

 ちょっと変わった舞台美術である。(花4つ☆) ネタバレ追記2018.4.9

ネタバレBOX

板を構成する部分には横6×縦8の比率で箱馬をビッシリ繋いだような形で底上げされた舞台が作られ、奥には、細めの角材を組み合わせて横6天地5の比率で正方形を並べた枠が作られている。舞台上手には、矢張り箱馬が等間隔に奥から5つ観客席側に向かって伸びるように置かれている。対面は、奥の1個だけが欠けた4個であるが、1つ足せばシンメトリーになる。こんな置き方をされている理由がある。下手奥が唯一の出捌けになっているからである。開演と同時に入場して来た役者達は、下手奥に設えられる箱馬を1つ持って入ってくる仕掛けなのである。
 このような作りだから演じていない役者は、板から降りて箱馬に座る。
 この2段構えの構造が、作話にも見て取れる。物語が、明らかに2段構造になっているのである。一つは作中で演じられる役者達の捻りの入った演技の相互関係についての構造であり、もう一つは、この推理劇が観客に対して挑む知恵比べという遊びレベルでの構造である。
 早い段階でネタバレしてしまわぬように書いているが、謎解きは面白くついつい引き込まれてしまった。この辺りの脚本の展開、演出の手際の良さ、そして役者陣のそつのない演技は見ものである。

 ネタバレは、無論、観れば観客にも終盤でハッキリ分かるのだが、描かれている女は、実は1人だということだ。つまり、殺人者であるこの女は、逃亡する為に整形手術を繰り返しては、様々な男と関係を持ち今迄暮らしてきたのである。登場する女優達総ては、この女が整形した各々の顔を持つ役柄の女優であると同時に作中人物としての逃亡する犯人の擬態即ち、容姿を含めた“演技”であるということができよう。
シェイクスピアではないが、人生は演技なのである。ホントの自分を探すなどということが、結構作品化されたりするのだが、そんなものがある訳もない。有為転変そのものが、総ての事象の実相なのであり、演技をすることが仮面を被ることと同義であるなら、仮面を取ってもその後に残っているのは仮面でしかあるまい。素顔などと信じているものが、どこかに在る訳もあるまい。一般に素顔という幻想が成り立ち得るのは、それが不定形の混沌か、或いは有為転変する変化そのものであるからに過ぎない。実存レベルで観るならば、それは存在をずり落ちてゆく昏い穴そのものであろう。
 演じられるのは以上の事実を良く理解したしたたかな女が、男をたらし込んで上手く世の中を渡ってゆく話だ。一種のピカレスクものと言えよう。大人が楽しむべき作品である。
高校演劇マルシェ

高校演劇マルシェ

高校演劇マルシェ

中野スタジオあくとれ(東京都)

2018/03/30 (金) ~ 2018/03/31 (土)公演終了

満足度★★★★★

 桃谷高校文芸部ドラマ班による「この高校4年生はフィクションです。」と盛岡市立高校演劇部の「絶対恋愛王政」の2本を約115分で上演。どちらの劇団も遠方からの参加で実際の高校生が演じているので、上演日程が2日間しかないのが勿体ない。素晴らしい出来であった。(花5つ☆)追記第1回2018.4.6 02:03 追記2回目(終)2018.4.9

ネタバレBOX

 桃谷と言えばかつて猪飼野と呼ばれた地域である。大阪環状線の鶴橋に近い。開高 健の「日本三文オペラ」の舞台になった場所であり、小松 左京の「日本アパッチ族」が活躍した場所でもあるばかりでなく、梁 石日や金 時鐘を輩出した場所でもある。
 歴史的には、4.3事件を逃れた済州島民が、当時済州島からの直行船便で大阪に到着し住み着いたという経緯があるので住民には済州島出身者が多い。日本最大の朝鮮民族集落である。4.3事件で亡くなった方の正確な人数は、分かっていない。(2011年当時)何となれば米韓連携軍による大虐殺は、一家皆殺しというケースも多数にのぼり、確認しようと努力する係累も絶えたり離散の果てに分からなくなったケースもあるからである。何れにせよその惨殺被害者は4万人以上と考えられている。こんな地獄から逃れてきた人々の多くがパスポートも無い状態で日本に逃れてきたことについては人道的保護があって当然のことだが、現実には、不法滞在という廉で地元警察からは散々苛められたようである。而も朝鮮半島が分断されたことの歴史的背景をみれば、日本の責任は重大だと言わねばならないにも関わらずだ。この辺りに日本人の傾向が端的に表れているように思う。都合の悪いことには、しっかりシカトである。こんなことだからいつまでも周辺諸国と真の友好が結べないのだ。安倍 晋三の悪をキチンと批判できない者達がこんなにも多いのも、実は自分達自身が、恥ずべき存在であると「自覚」はしているからであろう。
 閑話休題、自分は単に差別を糾弾することで正義感を満足させたいのではない。差別の多くは、被差別に対して無自覚であることから生じる。つまり被差別経験が無い者は、差別に対して鈍感極まる存在なのである。
 一方人間は、己が己であることを自覚する為だけにさえ、他者を必要とする存在である。そして、己を極めるということに目を向けず、唯成長の過程で己の生育環境から抜け出す努力も怠って自分と似たような者達だけと付き合って、それを自然と看做して一切の土台をここにお根拠を置いてノンベンダラリと過ごすことができた者達が、差別者となり、望んでも、己の状況を変えられない者の多くが被差別者となる。
 而も被差別者の状況が、露骨な差別だけに現れるとは限らない。寧ろ空気として、或いは生きている状況そのものの地獄化にあるのだとしたら、その差別は単に被差別在日外国人だけの問題ではなく、被差別者全体が抱える問題としての普遍性を持つに至るであろう。今作の描く所は正しくこのような地点、地平である。
 だからこそ、今作には、他高校から演劇に参加するメンバーが登場するのであり、互いに地獄の住人であることが即座に了解されるのみならず、一緒に表現活動に携わることが可能になるのだ。
「絶対恋愛王政」
 聖絢爛学園高校は文科省からスーパーハイソサエティハイスクールに指定された名門校、リア充だけが成功者と看做され、そうで無い者は下層のレッテルを貼られて浮き上がる術もない状況に落とし込められ、生徒会執行部の独裁に喘いでいた。然し生徒会長を始めとして執行部の面々は実力者ぞろい。彼女らの高い能力と魅力に勝てぬ面々は服従せざるを得ぬ屈辱を耐える他に術を持たなかった。
 然し、この学校のアニメ研究会が全国アニメクイズ選手権大会で優勝。オタ高としての評判を得、勇名を馳せることとなった。
 一方、生徒会執行部は、スーパーハイソサエティハイスクールを“オタ高”と呼ばれることに屈辱を感じていた。全国優勝したことは立派な業績であるが、それがもとで“オタ高”と呼ばれることは肯んじなかったのである。結果、アニメ研究会は活動停止勧告を受ける。だが、アニメ研究会にはアニメ研究会としての独自のプライドがある。全国大会優勝という実績もありそれは当然のことであろう。而も各サークルのうちでも文化系サークルのメンバーは自由をその根本的価値と考える者が多い。表現する者としての必然である。その自由に表現することを禁止され、部室に立て籠もったとして部室を奪われたばかりか彼らの宝物である資料、フィギア、レア物、超レア物、人気キャラクター直筆サイン入りグッズなども没収の憂き目に遭わされた。アニ研部長も中々にしっかりしたキャラクターと主張の持ち主であった為、生徒会と決定的に対峙することとなった。
 互いの論戦が見事である。而もラストには、生徒会長とキャプテンが、互いの高い認識を認め合い、恋に芽生えネット上で拡散していた非難合戦を終息させる方向に持ってゆく。
 ここには、オーダーを決めたら、論理の唯一の展開である尖鋭化を免れる道が呈示されている。この点をも高く評価すべきであろう。
生き返るなら早めに言って

生き返るなら早めに言って

劇団鴻陵座

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2018/03/28 (水) ~ 2018/04/01 (日)公演終了

満足度★★

 流れは後程書く。(ネタバレ追記2018.4.2)

ネタバレBOX

だが、脚本は粗い。というのも母親たちの吐く嘘は、直ぐに嘘だとバレてしまうような稚拙なものなのでリアリティーがないこと。こんなに小さな小屋で科白をがなったりするので滑舌の悪さばかりが目立ち肝心の科白が聞き取れないこと。物語の論理展開から必然的に導き出されるような重層的で尚且つ芯のしっかり通った文章構造を作り出し得ていないこと。これらの欠点を演出がキチンとダメ出しをして直していないことなど。演劇の基本が全然できていないことに対して自覚が無いことを意識できていないようであること等が気に掛かった。
 以上のように感じたのも、序盤、中盤、終盤の殆どで余りにも杜撰な嘘が、通ってしまう展開になっていることが大きい。安倍政権じゃあるまいし、隠蔽のシステム、共謀のシステム、権力者への媚び、そのほか諸々の利害が絡んだ土壌と腐敗の上に成立している仇花システムを持つわけでもなく、キチンとアイロニーとして描かれている訳でもない今作は、折角コンプレックスの持つダークな面を描いていても、その効果が減殺されてしまうと考える。
さあ、ネタバレと参ろう。
 無名校ではあるが、名門校相手にノーヒット、ノーランを何度も達成し、しかも4番で打者としても大活躍していた達樹が、突然事故で亡くなった。当然、甲子園へ出場の予定も崩れ地区予選で惨敗を喫したが、バッテリーを組んでいた孝史郎は望んでいた進路を変え、高校教師になる道を選んだ。墓前で野球部の顧問になりチームを甲子園に連れてゆくと約束したからである。
 幼馴染から自然に恋人になった三奈美は、矢張り一緒に子供の頃から遊んでいた弟・和樹の彼女になっていた。野球を達樹に教えたお兄ちゃん英二は、今や弁護士である。
 物語は達樹の死後3年の後、彼の人気が未だに高いことに目を付けた出版社が、彼の人となりを周囲の人物に取材して本を作ろうと取材に現れる所から始まる。偶々、編集者が売れる本を作りたい一心から、取材中に「弱い」などと口走ってしまったものだから、唯でさえ、カッコを付けたがり嘘をでっち上げていた母の暴走ぶりがエスカレートしてしまう。彼女は、霊媒師の能力を持つという女迄呼んでいやが上にも効果を盛り上げようとしていた。当にその時であった。達樹が生き返ったのは! 無論、皆仰天した。そして、その後少し落ち着いた。で彼は似てはいるものの、本人ではないのではないか? と当然の疑問を抱く。それで実験をしたのだが、内情を知る者達にとっては、彼が本物であることがハッキリしてしまった。
一方、それまで嘘を吐いて丸め込んでいた編集者は、嘘を真実と思い込み、現れた人物は偽物だと判断する。
さて、死亡診断書も火葬許可証も未だ手元にある。実際、達樹は死に、火葬に付されたのである。その彼が生き返ったなど誰も信じまい。而もプロのスカウトも注目していた天才であったから、事故の賠償金も異例の額が認められていた。その金も詐欺ということにされてしまえば返還する必要も生まれてこよう。更に損害賠償請求の裁判が待っているかも知れない。既に3年も経った今、父母は離婚もしており、父は売れない役者で金も無いので母が働いているのに、裁判を起こされ詐欺で起訴された上、損害賠償請求訴訟等を起こされたら堪ったものではない。おまけに弟の和樹には、天才である兄に対する強いコンプレックスもあって、衆議一決、生き返ってきた達樹殺害の計略が練られ実行されたのだ。


小栗上野介忠順

小栗上野介忠順

劇団め組

劇場MOMO(東京都)

2018/03/28 (水) ~ 2018/04/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

 大抵の人が一所懸命に勉強をしていた頃、遊び呆けていた自分は、寡聞にして上野介のことを知らなかったが、今作を拝見、ちょっと調べてみると勝 海舟に勝るとも劣らぬ人物であったようである。(B組を拝見 追記2018.3.29 )

ネタバレBOX

アメリカへ渡る途上、咸臨丸に乗り込んだ勝が船酔いに苦しめられたのは、事実である。但し、帰路は、日本人が操縦して日本までの航海を無事に済ませた。何れにせよ“どうにかなる”と無責任に総てを差配した結果、幕府が滅びるに至った、という小栗の認識の正しさは決定的であろう。
 実際、今現在の日本が沈没寸前なのは、一切の責任から逃れ、攻撃の根拠を与えないように、隠蔽と嘘、詭弁と恫喝そして雲隠れを繰り返す安倍晋三のような国賊が頂点に立ち続けている現状を見れば良く分かろう。而も人事権を握られることで格好の逃げ場を見付けた腐れ官僚共は、主人が国民であることを都合よく「忘れ」、人事担当者の顔色伺いに躍起である。硬直した思考を変える努力などは、馬鹿にして数の多い東大文Ⅰ及び学士会の繋がり等の土壌に安堵して腐るがまま。腐り切った屋台骨が何時崩れてもおかしくない状態にある。今、我々民衆が為すべきことは、我々の力で社会を変えてゆくことであろう。そのような活力の素を頂いた公演であった。

病気だからね。

病気だからね。

冗談だからね。

OFF OFFシアター(東京都)

2018/03/23 (金) ~ 2018/03/26 (月)公演終了

満足度★★★★

 病気どころか、極めて健全である。(余談だが、下北南口は工事の為封鎖中、来年の頭頃に工事は終わって居るハズとのこと)

ネタバレBOX

こんな閉塞状況を強いられている若者が、その縛りを壊そうとするのは、病の証では断じてない。真反対に健全な精神の証である。表面的には、かなりアナーキーな感触を持つ観客も居るだろうが、同世代の観客にとっては、とてもスッキリする作品作りと言えよう。極めて若い人達だから今後どのように変わっていくのかは未知数である。然しながら、板の手前を劇場の床の高さそのままとした上で、奥には40㎝ほどの高さに床を設え、多少、時間や科白をずらして、そのそれぞれの板上で物語を進行させることにより、互いの演技が干渉し合って、自然な物語の進展を妨げる。このような作りはラスト迄続くのだが、これを喩として解釈すれば、思い通りにはならない世の中であるとか、大人達の強いる閉塞状態だとかに茶々を入れる為の仕組みと捉えることが出来よう。アナーキーな雰囲気になるのは、従って必然である。
 また、一見雑然とした舞台美術も良く考えられているのは、終盤の舞台の使い方を見れば分かって頂けよう。作中に出てくるダメ出しのシーンなども中々良い雰囲気を醸し出している。今後、どのようになるのか、全く未知数であるが、古典をしっかり勉強すると同時に、常に真っ直ぐ物を観、事実が何たるかを見極め、自分の頭で考え、判断して欲しい。
 因みにスタッフの対応もグー。
Ten Commandments

Ten Commandments

ミナモザ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/03/21 (水) ~ 2018/03/31 (土)公演終了

満足度★★★★

 文化系の物理学レベルでよく健闘している作品。夫婦役を演じる二人の演技が良い。(追記2018.3.28)

ネタバレBOX

 核物理学に携わる科学者たち。キューリー夫人のポロニウム及びラジウム発見から説き始め、相対性理論を唱えたアインシュタインを代表とする物理学者らを巻き込んだ核兵器開発経緯を通して(タイトルの大文字でそれぞれの単語が書かれている)“十戒”を俎上に載せる。無論、モーセのそれではない。レオ・シラードのものである。ブタペスト生まれの彼もユダヤ人であったが、ナチスが原爆を作ってしまう前にとアインシュタインらと共にアメリカ大統領に請願書を出した。
然し、太平洋戦争末期日本への原爆投下にシラードは最後まで反対した。∵ナチスは原爆を持つ前に降伏し初期の目的は既に達成されていたこと。原爆を都市に落とせばその人的被害は途方もない規模になること、そしてその被害は人的被害に留まらずありとあらゆる生命に対してであること。その絶大な威力を見た他国が開発に乗り出し開発競争の結果、地球全体の危機を招くことなどが反対の理由であった。慧眼と言わねばなるまい。
その彼の提起した十戒が、今作で何度も語られ科学者というものの持つ純粋な好奇心の発露の莫大なエネルギーポテンシャルの可能性と、それらを通して稔った果実を利用する者達の利害故の功罪を予め気付かせるべき提言として提示されている。物語は、表現する者として自らを開花させた主人公が、己の表現手段である言葉を封印し、連れ合いである夫とも6年に亘って口をきかない状態を通して、3.11人災及び人災後にも除染技術。廃炉技術などがトレンドとなることで、自殺率が異様に高いポスドクであっても研究職に従事できるなど好奇心を萎ませないですむと目論見を立てられることが、未だこのジャンルで研究者が存続していることの条件として在ることを本当は隠しているのであろう。
 但し、ディベートシーンでは、作家が正しく文化系であることを露骨に晒す結果になってしまっている。内実がトウシロウレベルの議論に終始しているからである。更に、アメリカが日本に2度タイプの異なる原爆を投下し、人道に悖る罪を犯していることについても、言葉に責任を負わせるという形で処理してしまっている。問題にされかねないという懸念を理解せぬ訳ではないが、表現する者の覚悟としては聊か情けない。∵言葉を用いる主体があるのであり、その主体は判断を下す。その時言葉を用いるのである。その思考過程に於いても、また言葉を用いて命令を下す場合にも。
 周知のとおりマンハッタン計画には、莫大な金がつぎ込まれた。而も秘密研究であったから、その内実を知る者は政治を担当する者の中でもごく僅かであり、他は軍上層部、そして研究に携わった研究者らであった。もし使わずに戦争が終結したなら、戦後、それまでマンハッタン計画を推し進め、実際に予算をつぎ込ませた大統領など政権幹部は、国民からの訴追を免れない。原爆投下判断は、これだけではないが、余り知られていない大切な要素である。それかこれか、原爆を投下する前、アメリカは、日本のエネルギー動脈、鉄道などの運搬手段、最も重要な幹線道路などは、破壊していない。戦争遂行能力を残して置く為である。
 これらの事実から浮かんでくるファクトとは何か? 無論、原爆を使わなければ、アメリカ軍の被害は甚大なものになった云々という嘘である。更にウラン使用の広島型、プルトニウム使用の長崎型とタイプの異なる原爆を投下し、人体に与える影響をABCC等を使って調べ続けられていたことも日本人の常識である。また、日本の戦争遂行に関与した科学者が、被災地に乗り込み183冊の大学ノートに詳細な記録を書き込み、僅か数か月の間に英訳して、罪の減刑を狙いアメリカに送付したことも知らねばなるまい。因みに冷戦時代に、仮想敵国の何処にどの程度の威力を持つ原(水)爆をどれくらい落とせば敵の戦闘能力を破砕できるかを計算する際、基礎資料とされたのは、日本の学校で無惨な死を遂げた子供たちのデータであった。これだけのことをされながら、核被害を言葉の問題だけに矮小化することは、自分には矢張り納得できない。現在も福島県立医科大で暗躍する山下 俊一は、ABCC、放影研などを経て現職に就き、福島の被ばく状況を矮小化し続けている。主として言葉によって。そして嘘を吐き続けようとする意志及び利害判断に基づいて。

人間になったらしい

人間になったらしい

サッピナイ

ひつじ座(東京都)

2018/03/24 (土) ~ 2018/03/25 (日)公演終了

満足度★★★★

 旗揚げ公演とは思えない完成度である。(花4つ☆)追記2018.3.25 11:28

ネタバレBOX

タイトルからして何やら心をザワツカセルではないか。人間になったらしいと感じている主体は一体何なのか? 換言すれば、何から人間になったのか? ということである。おまけに“らしい”が付いている以上、その存在は、自己認識に正当性があるとは信じかねているのだということが類推できる。
 どこか、分かったようで分からない不思議な世界が呈示されているのである。尺が70分程の作品なので、ヒューマニアと称される新生物を何のために人間が作り出したのか? は説明されていない。然しiaという接尾語が意味する所は“~に由来する”ということであるから元は何から創られているかに拠らず、humanがベースになっていると解釈するのが適当かも知れない。何れにせよ、この部分は謎として提示されており、解も示されない。にも拘わらず今作が呈示していることの面白さと不気味は、ヒューマニアに対する人間の態度・対応が如何にもありそうなリアリティーで描かれている点にある。更にヒューマニアにも個別に知的差異があり、知的に勝る者が、人間の側に立って知的に劣るヒューマニアを苛めたり、大変な努力をして人間の言葉を覚え、姿も人間そっくりになったヒューマニアを元の動物に戻すというような、ヒューマニアのヒューマニアに対する裏切り行為が、余計な説明なくゴロリと提示されている醒めた視座にある。
汚れた空をかいくぐり

汚れた空をかいくぐり

劇団みなみ

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2018/03/23 (金) ~ 2018/03/25 (日)公演終了

満足度★★★★

 かなりトートロジカルな手法で書かれた脚本だが、

ネタバレBOX

この原因はデュアリズムと、敵とされているAIが、実は反対勢力幹部には、実体化されていないということではないだろうか? というのも、ここで話されているのは、確定した事実を根拠にした話ではなく、あくまで“~だそうだ”という伝聞をベースにした論理である。而もそれが、話者の立ち位置を各々のベクトルとしたデュアリズムなのではあるまいか? 一見、複雑そうに見える論理は、その根底が根拠づけられていないように思う。一所懸命演じているのだが、真に論理的である為には、根拠づけなければならないし、真に敵対する各々の項があるのであれば、その2項を裁定する視座は最低なければならない。デカルトは二元論を定式化した哲学者であろうが、キチンと定式化する為の目を持っていた。(方法序説でそれを為したと自分は考えている)
 論理が疑似的であるが故に、結論が決意性一般という非論理的なものになってしまうのではあるまいか? 若い人ばかりのグループのようだし、これからいくらでも勉強はできるだろう。たくさん勉強をし、自分の頭で考え大きく育って欲しい。期待している。
ハムレットマシーン

ハムレットマシーン

OM-2

日暮里サニーホール(東京都)

2018/03/22 (木) ~ 2018/03/24 (土)公演終了

満足度★★★★

 無規定の直接性を訴える作品。(追記2018.3.24 01:30 花4つ☆)

ネタバレBOX


 従ってストーリーを追おうとするのは、余り面白い観方とは言えないように思う。客電が落ちた後、数分間何も起こらない。なが~~~~い間である。次にアナウンス。演目の終了を告げている。立ち上がって出口に向かう人々も居る。
 が、無論演出だと見抜いているから桜以外は皆座っている。板を円形に囲む形で観客席が床に設けられると同時に2m強ほどの高さに櫓が組まれて床の観客席の外側をひと回り大きい形の円で囲んでいる。
 中心の板部分が役者達が演じるスペースだが、この中ほどには、巨大なパネルが置かれ、観客の視線を遮っているのだが、このパネルには、ローレンス・オリビエ主演のハムレットの映像が映し出される。(追記後送)
 この映像を背景に、巨大パネルの各々の面の前に登場した男性俳優と女性俳優が、携帯で連絡を取り合う。男は自分がハムレットであることを自覚、そうすると女優はオフェーリアということになるのだが、彼女は超小型撮影機で自らの足、足指、首筋などを撮影、オリビエの映像と交叉するように己の身体映像をスクリーンに映し出す。終には口腔内に撮影機を入れ、食道を映写し続ける。この間、男性俳優はハムレットであることを演じ続けている。その周りを自転車に乗った者が走り続けているのは無論のことだ。
 場転で、巨大パネルが天井に吊り上げられると、巨漢が登場、身体的パフォーマンスを展開するのだが、科白は殆ど聞き取れない。運び込まれた机や冷蔵庫、TVなどを思いっきりバットで叩いてゆく。机は結局完全に壊れてしまった。この間、板上の一角で巨大なポリエチレンか何かの透明な袋に空気が送られている。巨漢は一連の乱暴な動作が一段落すると、この袋の中に入ってファスナーを閉じる。そして暫く動き回った後、何とも驚くべき行為に及んだのだ。消火器をこの袋を閉じた密閉空間の中で噴射したのである。泡がこの袋の内側に飛び散り、透明だった部分に白い膜ができる。これは圧巻であった。
 この場面が終わると、白い衣装を纏った女が現れ、バケツを跨いだ状態になると、出産を思わせる仕草をする。するとバケツの中に多量の水が流れ落ちる。女はその水から魚を掴み上げ食べる。それが済むと今度はバケツの水を頭からかぶり倒れる。休みなく周囲を回り続けた自転車が相変わらず回っている。
 これが、今作の大体の流れである。観ている最中は余り考え込まない方が良い作品であると考える。そう考えたのは、極めて人工的なオープニングで、余りちまちましたことを観るより、本質を掴みだすべき作品だと考えたからである。直接の原テキストは「ハムレットマシーン」という作品で自分は読んでいないが、その基になったシェイクスピアの「ハムレット」は読んでいるからシェイクスピアのハムレットを念頭に置きながら拝見していた。そして、今作もまたシェイクスピアの「ハムレット」の本質を掴みだした作品であると評価する。
 死と生、復讐(という名の暴力・殺人)、これらを回してゆく運命(東洋的には輪廻)が、この作品の描きたかったことだと考えたからである。
 同時に女が、生命の故郷である海を生んだのなら、その後、其処で生まれ進化した命も、生まれた以上他の命を喰らう。生き物は喰らい、繁殖し、死んでゆく訳だが、女が海を枯らしてしまったとすると。そして女が人類を象徴していると考えるならば、ヒトが人類という形で纏まる時、その愚かな思考は、初めての連帯で地球上の生命の故郷である海を死の枯れ地に変えるという喩にも取れる。
 相変わらず輪廻を表す自転車は回り続けている。


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