ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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時代絵巻AsH 其ノ拾弐『白煉〜びゃくれん〜』

時代絵巻AsH 其ノ拾弐『白煉〜びゃくれん〜』

時代絵巻 AsH

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2018/06/06 (水) ~ 2018/06/11 (月)公演終了

満足度★★★★

 真の主人公は、誰か?(華4つ☆)

ネタバレBOX

 幕開きは平家琵琶の音と共である。謳われるのは、日本最大の叙事詩、平家物語である。誰でも知っているその冒頭“祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらはす 奢れる人も久しからず ただ春の世の夢の如し 猛き者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ”というアレである。今作、表向きは、頼朝、義経の父に当たる義朝が主人公であるが、この冒頭、そして史的人物評価の点から見ると、矢張り真の主人公は、後白河ということになろう。
 扱われた時代は、保元・平治の乱の頃であるから1156年から1159年辺りを中核とする鎌倉幕府成立前の一時期。権力の実権が、貴族から武士へ移行するきっかけになった時代ということになる。義朝、清盛も未だ若く、各々が源氏の棟梁、平家の棟梁となった頃である。天皇の実権が揺らぎ、上皇や摂関家は実力を互いに行使し合うことも、己の力と政治力だけでは最早困難となって千日手のような、三竦み状態にあったと見て良い時期、各有力者は、何かを目論見、実行に移す時、新たに台頭してきた武士階級に依存せざるを得なくなっていた。だが、制度及び権威は相変わらず貴族の側にあったし権謀術数も貴族サイドに牛耳られていた。興味深いことに、新興勢力である武士の意識も己が棟梁としての正当性を担保する為には朝廷の権威を必要とした点だ。桓武平氏、清和源氏という呼称を上げるまでもなく、その根底にあったのは、血の、即ち血統の優位性である。このような意味合いに於いて、日本という国の現代にも続く前近代性という特質は、顧みられねばなるまい。
 閑話休題。自分が今作の真の主人公だと思うのは、実は今様狂いの後白河である。彼の編ませた「梁塵秘抄」に登場する“遊びをせむとや生まれけむ戯れせむとや生まれけむ”は、今作の中で何度も繰り返される。双六も同様である。一方、囲碁や将棋も政治の駆け引きに散々用いられてきたことは、歴史の示す通りであり、今作では双六が用いられていることは一目瞭然である。
 第七十七代の天皇として即位した後白河は、己が、中継ぎでしかないこと、己のように高位な皇族にあっては、バカのふりをすることが生き残る条件であること、有為転変の憂き世を過ごすには、倦怠の直中で遊びに活を求める他に道が無いこと等々を実に良く知っている。その彼が、他者に君臨するに当たり一種のゲームセオリーを用いている点にこそ、彼の抱える地獄が現れているのであり、彼の命令の非人道性も単に時代や封建体制の産物というより、アンニュイという名の怪物の所為であると捉えたい。同時に彼自体、このアンニュイの中で、唯一の武器である知を用いる怪物として顕現している。
 以上のこと総てが、冒頭の平家物語に照応していると見るのだ。従って、自分の解釈では、後白河こそが主人公なのである。
連鎖の教室

連鎖の教室

甲斐ファクトリー

OFF OFFシアター(東京都)

2018/05/30 (水) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★

 苛めを扱った作品。
 この問題は、根深い。殊に皆と同一、同質であることを良しとするこの「国」の苛めは陰惨だ。(追記2018.6.3 09:36 華4つ☆)

ネタバレBOX


 その陰惨を補完しているのが、人間的な尺度で物事を捉えず、世間体や評判で善悪を処断してしまう我ら日本人の傾向だろう。総てはファクトから始めねばならぬ。そして、ヒトが人として存在する為には人倫が守られなければならない。その為の基礎が、罪を背負う姿勢なのである。
我らは五感で、多くのことを認識する。そして認識を基に、判断を下し、行動する。苛めの問題でことが深刻になるのは、今作でも示されている通り、知って居ながら知らんぷりをすることによってである。だから、今作でも示されているように、苛めを無くす為に一番大切なことは、シカトせず悪いこと悪いこととして指弾し、行動することである。その為には戦わなければならない。時には命の危険を覚悟しなければならないこともあろう。自分が苛めの対象となることも容易に察しが付く。だが、己が人間になる為に、人間であり続ける為には、このような戦いが必要なのは言うまでもない。そしてそれは、非暴力の戦い、ディベートによる戦い、実践による戦いでなければならないのだ。
 ところで、苛めの問題を報復の連鎖として捉え、これをメディアの安易な表現「テロの連鎖」、民族紛争や収奪・被収奪と等値してしまうのは、矢張り違うだろう。少し具体的に考えてみれば、この過ちは誰の目にも明らかだからである。
一例を挙げればガザのデモに対するイスラエルの攻撃では死者だけで60人以上。日本の新聞は、このように派手な、TVで絵になるようなニュースしか流さない。然しガザが巨大な監獄と形容されるのは今に始まったことではない。西岸でもパレスチナ人の土地が、日々収奪され、テロ対策を名目に作られた延々たる壁は、中東では時に血や金よりも貴重な取水源をパレスチナ人から奪う為だという事実は、多少世界に目を向けている人間の目には余りにも明らかな事象である。
 また、ガザのデモ弾圧での彼我の軍事的力量の圧倒的な差異からも分かるように、力を背景にした軍事占領・収奪と差別、支配は国際法、ジュネーブ条約などでも到底許されることではない。比較するなら、何故このような問題が、こんなにも長く続いているのかについて、イスラエルに住むシオニストや、彼らの政策を支持するイスラエル国籍の人々のだんまりをも描くことで示して頂ければ幸いである。
 しっかりした作品を創ることのできる力量のある劇団と観た。いつかこのような問題にもチャレンジして欲しい。
大正浪漫に踊る~天空を翔るハイカラ姫たち~

大正浪漫に踊る~天空を翔るハイカラ姫たち~

劇団Brownie

小劇場B1(東京都)

2018/05/30 (水) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★

 タイトル通り、踊るシーンの多い舞台だ。当時の女子学生の典型的なスタイルは、現在でも女子大の卒業式でお目に掛かるような黒の短靴に袴、上は華やかな振り袖、頭髪にはリボンを添え、その色は、彼女達それぞれの自己主張のようでもある。

ネタバレBOX

 板垣 退助の率いた自由民権運動が盛り上がりを見せ、川上 音二郎のオッペケぺ節が大流行した時代には、この潮流を面白く思わない連中も居た。板垣は、こういった連中によって暗殺された訳だが、今作で何度も言及されている民撰議員設立建白書が提出されたのは1874年、岐阜遊説中に刺殺されたのが1882年であるから、今作で語られる時代は、敢えて錯誤が解消されないまま設定されている。いくらエンタメとはいえこれはちと酷い。
 例示すれば、彼は妾腹の娘をこの政治的状況から護る為、妻の経営する女学校へ入学させていたということになっているが(これは大正時代であるから1912~26年)同期には、後の平塚らいてう(1886.2.10生まれ)、与謝野晶子(1878.12.7生まれ)、宮家筆頭の娘らも居ることになっており、女子の恋話を咲かせていたことは言うまでもない。然し、らいてうと晶子の年齢差から、これも在り得ない。今作は、エロ、グロ、ナンセンスと評される大正時代を、踊りを多用することで艶やかな側面から見せようとした物語と言えようが、その分時代が急転直下してゆく動静を伝える点では弱い。というより余りにもハチャメチャである。実際に存在した時代の浪漫を描くのであるなら、創作と雖もこれは外し過ぎという感がしてならない。艶やかさを描くだけなら、完全に架空の世界を設定した方が良いように思うからだ。

















 タイトル通り、踊るシーンの多い舞台だ。当時の女子学生の典型的なスタイルは、現在でも女子大の卒業式でお目に掛かるような黒の短靴に袴、上は華やかな振り袖、頭髪にはリボンを添え、その色は、彼女達それぞれの自己主張のようでもある。
板垣 退助の率いた自由民権運動が盛り上がりを見せ、川上 音二郎のオッペケぺ節が大流行した時代には、この潮流を面白く思わない連中も居た。板垣は、こういった連中によって暗殺された訳だが、今作で何度も言及されている民撰議員設立建白書が提出されたのは1874年、岐阜遊説中に刺殺されたのが1882年であるから、今作で語られる時代は、錯誤が解消されないまま設定されている。いくらエンタメとはいえこれはちと酷い。
例示すれば、彼は妾腹の娘をこの政治的状況から護る為、妻の経営する女学校へ入学させていたということになっているが(これは大正時代であるから1912~26年)同期には、後の平塚らいてう(1886.2.10生まれ)、与謝野晶子(1878.12.7生まれ)、宮家筆頭の娘らも居ることになっており、女子の恋話を咲かせていたことは言うまでもない。然し、らいてうと晶子の年齢差から、これも在り得ない。今作は、エロ、グロ、ナンセンスと評される大正時代を、踊りを多用することで艶やかな側面から見せようとした物語と言えようが、その分時代が急転直下してゆく動静を伝える点では弱い。というより余りにもハチャメチャである。実際に存在した時代の浪漫を描くのであるなら、創作と雖もこれは外し過ぎという感がしてならない。艶やかさを描くだけなら、完全に架空の世界を設定した方が良いように思うからだ。

















あなたの名前を呼んだ日

あなたの名前を呼んだ日

ふれいやプロジェクト

シアター711(東京都)

2018/05/29 (火) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★★

 タイトルから察しがつくように初産の母と子を中心に据えた物語なのだが、無論それだけで済むほど単純ではないのが世の中である。(追記後送華5つ☆)

ネタバレBOX

一方、人間は理性と感情とを持つ。そして、大抵の日本人は、世間体を大変気にする。だから、権威に頼りがちだ。経験の無かったことに関しては猶更である。
 核家族化の進んだ現在では、初めて子を産んだヤンママに適切なサジェッションを与えてくれる年配の女性が周りに居ないことが少なくない。そして旦那は仕事に追われて中々、女房の相談に乗ってやることもできないケースが多い。女性雑誌には、こんな状況に追い詰められたヤンママに「権威」の威光を嵩に着たテクニカルな記事がこれでもか! といった按配で載っている。こんなあれもこれもが、そして夜泣きをする赤子が、独り悶々とするヤンママを襲うのだ。
寂しい時だけでいいから

寂しい時だけでいいから

劇団フルタ丸

浅草九劇(東京都)

2018/05/30 (水) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★

 舞台はグレードの高い不動産物件の展示場。主人公は、この展示場のガードマンである。舞台正面がリビング。リビングの奥はガラス戸で向こうが見える。下手に上の階へ上がる通路。リビングのやや左手上階にガードマン控室。その下手が煙草などが吸えるスペースになっており、上手がこの部屋への入り口という間取りだ。この舞台美術も素晴らしい。側面の壁には、樹木の表皮で紡いだような如何にも高級感の漂う、落ち着いた壁が見え、調度もしっかりした作りの物が据えられている。(華4つ☆追記2018.6.19 01:19)

ネタバレBOX

  寂しさという意味でも、マッチがキーポイントになるという点でも、「マッチ売りの少女」と似たテイストの作品である。然し、今作ではその寂しさを抱えるのが男、それも大の大人であり、この寂しさは単に個人の力量や判断違いが齎した結果であるというより、個人というものが成立する以前の精神状態しか持たぬ多くの日本人が、核家族化し、グローバリゼーションの齎した社会に対する防御も持たずに日々向き合っている現実との中で、じわじわと敗退していることから来ている点で大きく異なる。
 この心寒い状況を偶々警備の先輩から貰ったマッチを擦ると見せてくれた夢現が、彼をその一員として迎え入れた“家族”として立ち現れるという設定は見事である。何となれば実家にもずっと戻らぬ彼を、丁度、マッチ売りの少女が求めたぬくもりそのもののような幻影家族が、癒し、生きる喜びを与え、彼自身が生まれ変わったのであるから。ここには、単にDNA継承者でしかない乾ききって無味乾燥な「家族関係」ではない理想が具現化されている。このことによって、家族を構成する各々にとっては痛く、而も深い内省を強いるのである。
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しあわせ学級崩壊

ART THEATER 上野小劇場(東京都)

2018/05/30 (水) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★

 舞台中央に斜めに置かれたテーブルを挟んで左右一脚、奥に3脚椅子が置かれている。手前には、紐で恰も出入りを防ぐ鉄条網のように結界が張られている。開演前、着衣の形は異なるものの白の衣装を纏った女5人が、或いは立ち、或いは座るなどを繰り返しながら揺蕩っている。背後には、音響のような効果音のような雑音でもあり得るような音が続いている。(華4つ☆追記2018.6.19 0:47)

ネタバレBOX


 開幕と同時に男が一人加わり、舞台前面に出てきて中央に胡坐をかくように座る。上演中、殆どのシーンでディスコにでも行ったような大きな音が鳴っており、役者達はマイクを用いて科白を発してゆく。皆役者が若いので、噛むようなことはないが、兎に角音が大きいので科白が聞き取りにくいのは事実である。
 女たちは姉妹という約束事の中で暮らしているが、血の繋がりはない。描かれるのは、2011年3月11日を挟んだ3日間。女たちは、罪を抱えていると考える者、慕う者、屹立しようと足掻く者など様々な態様は示すものの、揺蕩っているようである。それは、津波で流され、或いは原発人災で故郷を追われて流離い、デペイズマンを抱えてアイデンティファイしようの無い己を醒めた意識ばかりが突き放すような状況から及び己の内側に蠢く混沌そのものから発する正体不明な何者か双方からの追放である。他にどうしようがあると言うのだ! 己の罪ではなく、否寧ろ献身故にこそ追い込まれたこのような立場に対して。世間の風はあくまで冷たい。
女の平和

女の平和

劇団櫂人(解散しました)

上野ストアハウス(東京都)

2018/05/30 (水) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★★

 描かれているのは、スパルタの属したぺロポネス同盟とアテネを盟主としたデロス同盟との27年に及んだぺロポネス戦争の頃であるから、今から2200年以上も前のことになる。作者は、戦争に反対し続け、批判的な喜劇を書き続けたアリストパーネスである。(追記2018.6.1 03:08)

ネタバレBOX


 自分はもう数十年前に岩波文庫で今作を読んでいるが、今回の上演で使われている訳は佐藤 雅彦さんという方が10年程前に訳したものだという。分かり易い現代語の訳が選ばれ、シャチコバらず、エンターテインメントとしての本領を発揮しながら而も同時に本質的であるという作品に仕上がっているのは、櫂人の劇団員各々が原作の登場人物に近い実年齢の役者達で、演技が自然なこと、演出家の作品への本質的な理解が正鵠を射ていること、そして我々の生きている現代日本との橋渡しが上手くいったということである。
 無論、今上に挙げたことだけで、此処までバランスの良い作品となった訳ではない。冒頭、現代日本が戦争に巻き込まれそうな状況や世界の紛争が示唆されたり、今作の舞台が遺跡と看做され観光客らが訪れて写真を撮りあったりしている所からギリシャ時代に飛ぶという形で始められているなど、時代と空間の橋渡しが工夫されているばかりではなく、ぺロポネス戦争以前の戦争を戦った世代であるジジ、ババ世代が現にぺロポネス戦争を戦っている後代に対するコロスとなって登場し、而もコロスの役割である現実情況への距離を置いた観方や批評性を示すと同時に時には示唆するという役割すら与えられていることを最大限利用し、舞台上での現役世代VSリタイア世代という距離が、劇を観ている我々と2400年前の時代との距離の縮図であるという構成を為している。
 但し、アリストパーネスの凄さは、このジジババ達の関与は、彼ら、彼女らの合意も又、合戦紛いの舌戦を幾度となく繰り返した結果漸く得られた知恵であり、それが彼らの年の功という経験知を通して漸く後代に伝えられる賜物であるという点だ。ここにも、アリストパーネスの揶揄が潜んでいるとみるべきであろう。
 女たちの戦略は、講和が結ばれるまでは徹底的に、性の相方を拒む、ということであったが、アテネ側、スパルタ側何れも男共は、己の性的欲望の未遂に欲望を肥大させ既に爆発寸前なのであるが、この状態を極端に肥大化した陽物で表し、これが本人の頭や顔とごっつんする様で、何とも言えぬ陽性な可笑しさを現出させた演出は見事である。
 また、終盤、講和の為った祝いの席で、素面の時の外交をけなす弁とその論理はアリストパーネスの真骨頂を表し流石に古典として残るだけの作品であると感心させられる。全く古びていないどころか、改めてこの天才の尋常ならぬ才能を感じさせるに充分なのだ。実際、どんな科白がどんな具合に表現されるか。舞台で確かめて欲しい。
はこぶね

はこぶね

劇団おおたけ産業

新宿眼科画廊(東京都)

2018/05/25 (金) ~ 2018/05/30 (水)公演終了

満足度★★★★

 Bチームを拝見。(華4つ☆)

ネタバレBOX


 旧約聖書に出てくるノアの方舟と絡めて、神の声らしきものが聞こえるようになった引き籠りの弟・タロウは、魂の形状も見て取れ、その形状から前世のことが分かるということで、信者が生まれてきた。
熱心に魂の浄化を求める者・瀬村(ミシュマル)は、そのストイシズムによって世界を裁断し、周囲との人間関係を緊張させている。一方、現実に生活能力の乏しいメシア(グル)を頂点として、このままでは滅亡してしまう世界を救済する為には信者たちがガーディアンとなって彼の生活を支えるべきだと考える者・烏丸は、魂の浄化を通して自他の関係を改め世界変革に一石を投じようとする宗教のようなこの精神活動を、一種の経営理念の下に政治的に変質させ組織化してゆこうとする。また在る者・八幡(ヤヌーカ)は、インドへの旅で放浪の持つ本質、生きながらの死を通じて精神世界へ旅立ってきた者として独自のスタンスを保っている。またストイックに精神世界を追及するミシュマルの目付け役として参加したものの、ミイラ取り変じてミイラとなった浜(ピンケサン)、そしてタロウの面倒をみている姉(ハナコ)、自分が子供の頃から繰り返し見る夢とタロウの見立てが合致したことから前世の話に興味を持ち、傍目からはデートと看做されるような付き合いになりながら、タロウはあくまで友達と考える女(鳩山)と既に信者となっている者達との齟齬や彼女を連れて来た張本人である烏丸の嫉妬を通して紡がれてゆく物語は、緩やかな紐帯によって平和と安穏に満たされていたエデンの園に知恵が毒を注いだように、烏丸が方法的・政治的組織制覇を目指すことによって生まれた他メンバーとの距離感やよそよそしさ、ざらつく苛立たしさと烏丸の鳩山への嫉妬、タロウの鳩山への片恋という感情が崩壊を齎してゆく過程を描いて秀逸。ラストへの飛躍に必然性を感じられないことが残念である。このラスト部分は自分にとっては余分であった。日本の伝統的詩歌の形式として用いられる返歌のような効果を狙っているのであれば、もう一捻り工夫が欲しい。登場人物たちが、物語の進展に応じて衣装をキチンと変えてくる丁寧な作りもグー。
 
注:信者たちの名の横についている()内の名は、タロウが信者たちに与えたホーリーネームである。
キリグス

キリグス

AnK

北千住BUoY(東京都)

2018/05/25 (金) ~ 2018/05/28 (月)公演終了

満足度★★★★

 3つの短編で構成された舞台、上演順に①「インクルージョン」「ウーノ」「マイアポカリプス」の3作、2時間強。BUoyはちょっと変わった空間だが、この奇妙な空間に非日常性を上手に生かした舞台づくりと観た。(追記2018.5.28 4つ☆)

ネタバレBOX

若者らしい素直な感性に好感を持てる舞台であった。①の作品では、妙なことにヨルダンの世界遺産であるペトラ遺跡のことを思い出してしまった。2004年に行ったのだが、その壮大に、流石に世界遺産と驚嘆した遺跡である。興味のある方は以下でどうぞ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%A9
https://travel-noted.jp/posts/7447
 2本目の「ウーノ」は古典落語をベースにした作品だが、天狗を出し抜き、更に歯死神まで出し抜いて上手くやってゆく人間という生き物のしたたかさを表して苦笑いさせてくれる。捻りの効いた作品。
 3本目が「マイアポカリプス」だ。アポカリプスとは黙示録のことだが、今作では顔の国に住む住人が山を越え水も食べ物も豊かなユートピアへ出向き、其処から故郷を観て故郷の資源を収奪しつつ生きることに汲々をしている故郷の生活を振り返るという構造を持っている。中々に示唆的な作品である。役者の演技以外に映像とのコラボなども取り入れファンタスティックな舞台に仕上げている。


ゼロバヤシモトコたち

ゼロバヤシモトコたち

ジョン・スミスと探る演劇

新宿眼科画廊(東京都)

2018/05/24 (木) ~ 2018/05/27 (日)公演終了

満足度★★★

 ポール・ヴァレリーの文章に固定観念について書いたものがあるのだが、無論、彼は知性の人であったから論じられている内容も至ってノーマル、而も普遍的である。

ネタバレBOX



 ところで、今作実験的といえばそのように見ることもできるだろう。だが、その場合でも劇団名が、植民を進めたイギリスの尖兵として主として17世紀に活躍した人物のことを指しているのか、あるいは単にありふれた人名として用いられているのか、さっぱり分からない。
 何れにせよ、極めてパセティック否、パトスそのものを表現しようと努めているように思える。それは、“そのようである”ことによってエトス的次元を無視し、世の中がどうなろうが、自分の感知する所ではない、と宣言しているようにも見える。そしてその先のことを提示してはいない。
 主演の熱演は評価するが、もう少しパースペクティブを理知的次元で構成してほしい。
Silent Majority

Silent Majority

劇団龍門

サンモールスタジオ(東京都)

2018/05/23 (水) ~ 2018/05/27 (日)公演終了

満足度★★★★

 今作に主人公は居ない。このことが一般的にドラマツルギーを旨とする演劇的カタルシス構成の難易度を上げている。

ネタバレBOX

 どういうことかというと、描かれているのはあくまでサイレントマジョリティーだ、ということだ。これは、葛藤を通じて何らかのメッセージを伝える演劇としては、かなりの冒険である。こういった事情が齎す結果見えてくるのが、男女の存在様式の差異であろう。生物としては、女性がプロトタイプである。従って存在様式は、その生物学的基礎によって女性の方が、男性よりより深いと言わねばならぬ。つまり男は女性と比較した場合、非在に近いのである。このことが理由で男は縛られることを嫌い、自由やロマンを求めるのだ。そしてそれらは、未来へ向けての自己投棄によってのみ可能である。即ち男の存在とは、常に今非ざるもの・ことへの可能性追求である。
 だが、演劇は板の上で実際の人間が演じるのが普通であるから、物語として、主人公を置かぬ作りでは、滲み出る存在感が、観客に訴えてくるものの割合が高まる。こうなると、女優の方に分があるのではないだろうか?
 今作にはLGBTの人々も出てくるが、バーのママは、役の上ではン千万も掛けて自らの肉体を改造した人であるし、そのことの凄みは、パフォーマンスを披露する際の指使いなどに端的に見て取れる。
 一方、もぐらに嵌められて懲役を喰らった悪徳デカを支える外国人女性役の演技は、女性の存在感とその本質を表して見事であった。何より主人公の居ない今作にあって、存在の在り様と存在によって未来を孕む女性の深く狭い愛を表した演技が自然で得心のゆくものであった点がグー。
 主人公が居ない今作であるから、或る意味、宿命がその中心課題になるのは必然である。何度も出てくる自殺への道程、また恋に絡んだ刃傷沙汰、憧憬から一夜限りのアバンチュールまで、そしてLGBTとの・・・等々、この世に存在する愛のカタチが、それとなく織り込まれ擽りを入れてくれる。自殺へ至る場面は、陸橋下を走る列車が観客側に向かって灯される2つのライトによって単純明快に示される。無論、音響効果で臨場感が醸し出される。舞台中ほどから奥へ張り巡らされた鯨幕にも出吐けが設えられ、他にも上手、下手に1か所ずつ設けられた出吐けと共に合理的に使われている舞台美術もグー。
 更に完成度を高めるというか、実験的に創り上げてゆくのであれば、演出がシュールになって構わない気はする。即ち宿命を主人公と見做し、宿命に翻弄される人間を描く喜劇として舞台化するやり方だ。毀誉褒貶相半ばするリスクは容易に想像がつくが、成功すれば話題性・注目度はかなり増すように思う。

隣のゾンビ

隣のゾンビ

タッタタ探検組合

赤坂RED/THEATER(東京都)

2018/05/16 (水) ~ 2018/05/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

 ホラーなのだが、タッタタの手に掛かると喜劇だよ~~が、滲み出てくる。

ネタバレBOX

この辺り流石と言わざるを得ない。陰謀もある。裏切りというか色仕掛けもある。而もゾンビだからホラーなのであるが、ソフィスティケイトされたホラーで、タップゾンビとパフォーマンスゾンビ、それからペットゾンビ迄揃っていて、墓守とはツーカーなのである。墓守の仕事は、毎朝、朝刊を持ってきてやること、だから南北戦争で戦死した元南軍兵士も世情に詳しい。序でと言っては失礼だろうが、墓守は、墓掃除もしている。こういったことも笑えるではないか⁉ 
 思いがけない場面で、観客の予想を裏切ってくれるパフォーマンスや科白があって擽りを入れてくれると同時に、舞台美術がシンメトリーを基調としていることから見て取れるようにベースが非常に安定しているのでソフィストケイトされた笑いが精巧なパズルのように実にキチンと収まるのだが、上に記したように予期せぬ擽りが入るので一瞬たりとも目が離せない。
 無論、ゾンビの話だから、舞台は墓場である。墓地を囲むように後景には、白い柵が張り巡らされている。舞台中央には、遺体安置所へ入る暗渠が口を開けており、下り階段が設えられている。その両側には墓石へ続く上り階段、墓碑銘は無論アルファベットで書かれている。アレンジされた南軍の旗の飾られた墓地すらある。墓石によっては、十字架を彫り込んだもの、十字架の形のものもある。下手墓地の手前には、木製ベンチがある。
 このようなセットで演じられるのは、実はゾンビの話ではない。それは添え物である。実際描かれているのは、ゾンビという形でしか表現し得ないほどに歪んだ我々の家族関係である。単純だが、深い。最高の料理の持つシンプルな深さを味わう為に、我々はここまで捻りを利かせなければ最早素直に現実と向き合えない時代にいるということが喜劇なのである。お見事!
キャガプシー

キャガプシー

おぼんろ

キャガプシーシアター(東京都)

2018/05/16 (水) ~ 2018/05/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

 粗筋については、劇団の説明にもあるから割愛する。

ネタバレBOX

極めて切ない物語であるのは、登場人物たちの命名を見ても分かる通りだ。自分は、パレスチナの現状に思いを馳せながら観ていた。実際、パレスチナへ出掛けると障碍者の多いことに驚かされる。無論、ナクバ前から既に70年を超えるシオニストらのパレスチナ人に対する苛烈極まる虐殺の歴史の中で生き残ってきた人々の肉体に刻まれた痛々しい傷である。ホロコーストこそ、実行していないものの、その差別、弾圧の苛烈及び抑圧を旨とする占領政策は、ナチがユダヤ人に対して行った政策と変わらないことは、ホロコーストサバイバーの子供(サラ・ロイ)たちの証言などにも明らかである。
 大方の見方と異なり、つまり自分は現実の隠喩としてこの作品を見た、ということになるだろう。例えば不自然な表現が一か所、ツミがネズミに実父を殺害されたシーンの解釈である。ツミの父を殺害した直後家に戻って来たツミをネズミは切りつけ最初に両目の視力を奪うのだが、その後恰も勘違いをしたかのようにツミが、自分を襲った暴漢を追い払い助けてくれたのがネズミだと信じて、その後ネズミの齎した企画、キャガプシーショウに協力し続けることになる場面である。合理的に考えるなら力が男性より弱い女性が、己の命を守る本能レベルで咄嗟にこの嘘を自分にも信じ込ませたという風に考えなければちょっと納得できない。
 何れによ、エリザベス朝の演劇よろしく、白昼のテント公演は、太陽光の下での演劇公演としてシェイクスピアの作品を当時の人々が観たような環境で観るという極めて面白い試みでもあった。実際、物語の展開には、シェイクスピア的な要素がふんだんに入っている。どこがどのようにシェイクスピア的であり、ギリシャ悲劇にも通じるような普遍的な部分であるのかは、観て確認してほしい。
  ところで、シャイクスピア自身は作品で問題提起はしているが、回答は出していない。一方、今作は、ラスト間際で、回答のヒントを与えている。それは、矛盾率を如何に解決するか? に対するヒントであり、人は、夢見なければ生きられないという切実な“命”、生きるという命題に対するとても大切なヒントである。
俺の屍を越えていけ

俺の屍を越えていけ

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2018/05/12 (土) ~ 2018/05/20 (日)公演終了

満足度★★★★

 90年代以来猛威を揮ったリストラという身近な問題を、通常とは別角度から扱って興味深い展開をみせた。

ネタバレBOX


 リストラ会議に参加しているのは男女3名ずつの都合6名である。若手から中堅の地方ラジオ局の社員達だ。自分達を育ててくれた上司を自分達の手でリストラしなければならない、という事実に罪悪感を感じている者が多いことが如何にも日本らしいといえば日本らしい。仕事は利害関係に過ぎないのだからと割り切る者が今作で意見表明することはない。
会議は他言無用、新社長命令である。実は時代の流れで斜陽産業となったラジオ局は、かなりの危機に陥っているのだ。意見が中々でないこと。多数決という日本人が最も選びそうな方法さえ、結果的に出てくる選択肢であり、仮に上司の首切りが自分達に出来なければ代わりに出席者の首が切られるということが判明して初めて有効な選択肢として多数決が選ばれるという有様。予め多数決をより有効にする為の奇数化策すら取られない。まあ、この点は、無効票や棄権などによって結果オーライとはなるのだが。
地方のラジオ局ということもあるのだろうが、中堅幹部になっているメンバー入社当時の競争率が僅か二十倍と描かれていることは少々驚きであった。自分達が新入社員の頃、メディアの東京での競争率は新聞記者で百数十倍、出版社編集部でも百倍を超える所はザラだったしTVも競争率は高かったからである。無論、コネありとなしでは結果として大きな差があった。まあ、余り些末的なことは良いのだ。
日本的は日本的で、尊敬する上司をリストラされることが決まった段階でその上司を切ることに最も強硬に反対していた中堅幹部の参加メンバーが、自らの意志で退社を決意するというオトシマエもつけたのだから。また、決定票を投じたのが、件の幹部が最後に目を懸け、自らが引くことを前提に未来を託した若者であった点から、このタイトルが採られていることを思えば、キチンとしっかりした流れが構築されていて、作品として評価できるものであったのだから。楽しめる。
13番地のパブロ・ピカソ

13番地のパブロ・ピカソ

新宿公社

サンモールスタジオ(東京都)

2018/05/09 (水) ~ 2018/05/13 (日)公演終了

満足度★★★★

 13番地は、無論、フォービズム/キュビズムの牙城として有名になった洗濯船(Le Bateau-Lavoir)の番地である。(追記2018.5.13 01:06 )

ネタバレBOX

時は1907年、ピカソのパリ時代という訳だ。酒と女と麻薬に盛り上がっていた時代でもある。未だ芸術家としては殆ど無名の彼ら若手芸術家が、自由と本来の芸術を求めて夢と現の間を彷徨う丁度アルルカンのように、漂っていた時代である。今作は、この時代と第2次大戦終了7年後を織り交ぜながら描いている。そして舞台の主役はピカソではない。彼に関わろうとした若手画商である。
 面白いのは、芸術には本来値段なんかない、という当たり前の事実と、気に入れば例え身代を擲ってでも、という程惚れ込む人もまた居るということである。絵画ではなく、焼き物であるが、古薩摩の茶碗に馬喰碗と言われる名器があって、これは、さる御大尽が、身代を擲って贖い馬喰にまで身をおとしたと伝えられる器。実際、頗る魅力的な器である。
 ところで、今作、光っているのは、ピカソの科白だ。このようなことをピカソが本当に言ったという資料が残っているのか、創作かは分からないが「女の涙が俺の絵具の色になる」だの「金持ちになっても貧乏人の生活がしたい」などは、可也デモーニッシュな雰囲気を漂わせる科白であり、仮に史実であるなら、ピカソが戦っていたものが何であるのか? を示唆しているのではないか? と考えると頗る面白い。
また、ピカソを世界的な画家として売り出すに最大の功績のあった画商とピカソの契約に関して、その成立の時の握手が左手で為されていることも極めて意味深長である。
 
カッター

カッター

シアターノーチラス

RAFT(東京都)

2018/05/10 (木) ~ 2018/05/13 (日)公演終了

満足度★★★★★

 いつも通り丁寧な作り。(追記2018.5.13 01:18)

ネタバレBOX

 街場のデザイン事務所、代表を含めて社員は8名(2週間前迄)だったが、うち1名は2週間前に自死。現在は7名で仕事を回している。だが、自殺したのは、最もセンスが良く、仕事の出来も良く、クライアントからの信用も厚い上に同僚からも爽やかな奴と見られていた社員(榎本)だったので、彼の死後、会社全体が何やらぎくしゃくしているのも事実である。彼の自殺の原因は、この所、皆の使う電車の車内で女性のスカートが何者かによって切られるという犯罪が起こっており、警察がこの事務所にも捜査に来、その際最も長時間警察から尋問を受けていたのが原因で、彼がその犯人だと疑われたことであった。
 だが、彼の死から2週間後の今朝、出勤して来た女子社員のスカートが切られていた。ということは、自殺した榎本はシロだったということではないか? この疑義が、では真犯人は誰か? との問いを各自に促した。一番仕事ができた榎本が亡くなり、他のメンバーでは彼の埋め合わせができない中で、仕事上のストレスと疑心暗鬼が、都市生活者のアイデンティティーの脆さと人間関係の浅さを詳らかにしてゆく。根底にしっかりした信頼関係が無い都会人の上っ面だけの信頼やスマートな人間関係はあっという間に崩れ落ち、瞬く間に現れたのは、猜疑心、妬み、コンプレックス、自己否定、空虚等のマイナス感情であった。疑いは疑いを呼び、互いに消耗戦に入った。
 だが、7名の中にキーマンが居た。そのキーマンは、総ての謎を解く鍵を握っていた。然しその人物は、真相を警察に話そうとは思っていないし話さないだろう。キーマンがキーマンたり得るのは、その人物が榎本のことをいつも見ていたからであり、彼が自殺した時にも彼と話していた。
 一方、社内コンペの対象にすらならない作品ばかりを創っている社員は、クライアントと自分達デザイナーの現実的社会関係を理解できておらず、自らのファンタジーを社に持ち込んで作業に従事しており、その傾向は今後も変わる気配を見せない。そんな彼女のデザインした、子供向けツールの中には、たくさんのカッターが入っていた。(幕)
火遊び公演「焔の命--女優の卵がテロリストになった理由」

火遊び公演「焔の命--女優の卵がテロリストになった理由」

オフィス上の空

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2018/05/09 (水) ~ 2018/05/13 (日)公演終了

満足度★★★★★

 東京オリンピック開催の2020年が舞台である。(追記2018.5.13 03:47)

ネタバレBOX

演劇の本質を追及し続けてきた劇団・焔の命は、オリンピック関連施設、建造物などに爆弾を仕掛け爆発させた。ニュース速報は、死者数十名、負傷者百数十名と告げた。
 今作は、この事件の2年後ドキュメンタリー作家が、加害者の一人真理子の実家への取材、関わりのあった人々への取材を通して、事件直後唯事件を囃し立てることでセンセーショナル化し、加害者家族を追い詰めた世間への異議申し立てとして、ファクトを追い求め、集めたファクトを積み重ねて、何故極めて当たり前の劇団員であったメンバーが事件を起こすに至ったのか? を検証してゆく。
 自分は、1人の友人と1つの事件を思い出し乍ら拝見していた。1人の友人とは、大宅賞受賞後、講談社ノンフィクション賞も別作品で受賞しドキュメンタリー作家としては王道を歩んでいた友人の取材方法であり、もう一つ、事件とは、あさま山荘事件である。
 友人は、センセーショナルな扱い方を嫌い、丹念にファクトを追い、綿密な取材を積み重ねることによって、優れたドキュメンタリーを多く残した。今作に描かれたドキュメンタリー作家も同じ方法を用いている。何故か? 状況次第でどんな人も、ここに描かれたような行動を起こしかねないし、それは人間というものの持つ本質的属性であるからだ。良いことも悪いことも、ヒトは起こし得る。
 あさま山荘事件についても、最初期、マスコミは若干好意的であった。山荘所有者らが「人質」として取られた時も、立て籠もったメンバーは、人質の不快にならないようかなり配慮してくれたとの報道もあったが、それらの報道はセンセーショナルな情報洪水の中に埋没させられていった。立て籠もりメンバーを凶悪犯とイメージさせるような方向に変わったのである。この経緯で国民殆どが熱狂的に山荘立て籠もりメンバーを冷酷無比と断罪する方向に走った。自分達が冷酷無比に彼らを断罪していることは棚上げしつつ。
 社会の様々な矛盾や、政治の瞞着、司法(殊に最高裁判断)の三権分立否定等々、国民がキチンと筋道立てて社会を変えようとしても合法的手段では埒が明かないこの植民地為政者たちの施政等々の問題は、このセンセーショナリズムによって何時もの通り一掃され、祭りが挙行されるのは、この「国」の習わしである。
 これらのことが、合算されて諦め切った「国民」と共に為政者がいくら嘘を重ね、隠蔽を繰り返し、無責任に無責任を重ねて、総ての責任を負うことなく為政者として在り続けても、総てスルーすることで鵺のような社会を作り上げていることによって、抗議が届かない社会が完成してしまうのである。こう言うといつも茶々を入れてくるダニが、またパラノイアそのままの下らないアヤをつけてくるのだろうが、この下司共の主張する社会とは、誰も責任を負わないから、何でもアリ。正義を気取ってその実、何も自分の頭では考えることのできない杓子定規が大手を振って歩き出す。結果、法などで、表面だけは収まっているように見えても、一旦ことあれば、内実のカオスは直ぐに頭を擡げてくる。その結果が、事件を起こした人物の家族苛めである。欧州諸国でも、非難が全く起らないということは無かろう。だが、加害者家族の側に立ち、彼らを擁護する人々が声を上げるであろうこともまた確かである。ラストシーンで、日本の家族が置かれる状況を本質的なレベルで描いている点は、強烈なアイロニーである。
ルナ・レインボウ

ルナ・レインボウ

うわの空・藤志郎一座

紀伊國屋ホール(東京都)

2018/05/03 (木) ~ 2018/05/06 (日)公演終了

満足度★★★

  時期と場所が良ければ、実際にルナレインボーを見ることが可能だそうだ。ちょっとググってみたら、写真つきのサイトがあった。

ネタバレBOX

 今作自体は、演劇的冒険や、人生の深みを覘く哲学や普遍性を追及したものではない。冒険と言えば言えそうなのは口立てだということだが。
幸せな家庭の父と7人の子供達、孫や子供達の連れ合いが、家族の年中行事になっている28日の家族旅行に出掛け、其処で起こすよしなしごとを淡々と描きながら、亡くなった母と父のなれ初め、子供達に託した母の念などが、父母の関係の間にサンドイッチの如く挟まれて描かれる。
 アクセントとして、河童が出るという噂のあるこの景勝地にTVクルーが取材に入り、家族と出演者が仲良くなったり、実際に河童が登場したり、とかなりファンタジックな要素も組み込みつつ、終盤ルナレインボーを見るに至る。
 父は人物写真のプロで著名な写真家であり、長女の夫は、極めて珍しい自然現象を撮影するプロとして世界屈指であるが、父の弟子である。そして子供たちのうちの1人もまたプロカメラマンで、義兄の弟子という構図。この3人が集まると写真談義で盛り上がり他の人間は入ってゆけない。そんな家族の物語である。
塵、舞う

塵、舞う

早稲田大学舞台美術研究会

早稲田大学学生会館(東京都)

2018/05/04 (金) ~ 2018/05/05 (土)公演終了

満足度★★★★

 起承転結、起の部分でアコースティックギターが小道具として用いられているのに、音響がエレキのサウンドを被せてきたので、何だこれは! と思ったのだが承の辺りから、うん!?、 ひょっとして!! と思い始めたら、キタキタキタ!! (華4つ☆)

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イキナリ日本海溝に引きずり込まれるような深い疑義が湧いたのだ。アサハラの名に対してである。伏線として起の部分から鳴っていたどこかインド風の音曲が、実はアサハラの企画した世界壊滅戦争の武器だったのである。彼はしょっぱな、シンジの所へ転がり込んだヤサグレJKアスカが、そのような生活を送るようになった理由をある意味共有していた。アスカは、中2の時、兄が少女をレイプしたとしてパクられて以来、犯罪者の妹という理由で散々苛めを受けたばかりか、母は事件後ショックが因で死亡、父も発狂してしまい、家を飛び出していたのである。誰が彼女を非難できようか? 誰一人、彼女の窮状を助けなかった我々であれば。
 一方アサハラは、口がまともに利けないのを理由にツマハジキにされ地獄を生きていたのであった。アスカはアンパンだけが慰めであり、遂には死を求めて集団自殺を図る所まで追い詰められていた。アサハラも死の淵に居た。そして2人はSNSを通じて自殺決行の場所へ向かい、知り合ったのであった。
 然し、地球に500万年前に飛来し以降ヒトの進歩に関わってきた神の力によってアサハラの言語能力は回復、そのほかに与えられた不思議な音楽を醸し出す能力によって楽曲と踊りによるコミューンを創り、世俗と離れて暮らしていた彼らの生活は象徴化された森友の籠池氏と安倍 昭恵が登場してくることによって取り上げられてしまう。彼らのコミューンのあった土地が力によって奪い去られてしまったのである。再び、ツマハジキ者とされたアサハラは復讐を誓う。
 以前少し書いたが、麻原はその眼を水俣病との関連で患ったという話を聞いたことがあったことに結びつき、而も彼が下腹部を常に弄っていることは、既に精神が崩壊しており、失禁が常態化していると囁かれる麻原の現状を示唆しているのではないか!? とも感じたからである。更にその後のシーンには、森友問題も出てくるので、この件で囁かれている或るタブーともオーバーラップしながら日本の暗部と其処で働いている力とにはじき飛ばされ、社会の埒外に置かれたアサハラらが俯瞰した世界もまた利用され、消費されてゆくであろうこともまた明らかである。
 今作は、このような不条理に対する異議申し立てであろう。若い人達の抗議の叫びが聞こえてくるような作品である。
(*いうまでも無いことだが、ここで描かれていることはフィクションである)
イギリスの演劇

イギリスの演劇

朗読・演技 ワークショップ

東中野稽古場(東京都)

2018/04/17 (火) ~ 2018/05/03 (木)公演終了

満足度★★★★★

 一幕三場。途中2度、5分の休憩を挟んで約3時間の公演。
(追記2018.5.4)

ネタバレBOX

舞台は、犯人たちの住居の一室。中央に函。下手には荷物などの置ける台。下手奥にソファなど。スタンド式の帽子掛け、上手奥は部屋への入り口が斜めに設えられ入り口左手には電話などが置かれている。上手壁際には本棚や、お茶や飲み物の置かれたテーブルがある。
 真っ暗な中で舞台は始まる。Aは、危険を冒す為に殺人を犯した。完全犯罪を為したつもりだ。その為、遺体はこの部屋でこれから行われるパーティーの料理を載せるテーブルとして用いられる棺桶の中にしまわれている。このパーティーの客は、被害者の父B、大学の同級生の男C及び女D、インテリの代表と目される詩人E。他の登場人物は、召使Fと共犯者Gである。招かれている客のセンスから分かるようにAは自信家で虚栄心が強い。ガイシャは、スポーツで華々しい成績を残し、映画や音楽などの好きな誰からも好かれる爽やかな20歳の好青年。Bはサーの称号を持つ紳士で書籍収集家としても知られる。Aは最近亡くなった親族から貴重書などの蔵書を譲り受け、今日は、その蔵書をBに見せる約束もしていた。
 Gは、Aほど居直ってもいなければ自信家でも無い。従ってAが犯した殺人の共犯者としての自分の犯罪行為に怯えてナーバスになっている。謂わば小市民である。
 パーティーは21時からだが、20時45分に服装はどうするのか? について尋ねる為にEが電話を入れた時、ナーバスになっていたGは、うろたえた状態を悟られてしまった。而も、彼らが、殺したBの息子が、その日行っていたコンサート会場の入場券は、Eの入手する所となっており、Eは彼らの犯罪を告発するばかりになっていたのである。Eはパーティーの最中、折に触れて証拠固めをしてゆく。その間、参加者の会話や態度を通してイギリスの差別社会の実体、陽の沈まぬ国と言われてきた歴史の裏にある狡猾極まる外交と主として海軍力を用いて力によって支配を貫徹し、被支配地の少数派を支援することで被支配地を分断統治する冷徹さ、及び差別意識による道徳観麻痺などの策術など、英国式気取りの背景が浮かび上がる。この辺りの脚本の良さ、この雰囲気を浮かび上がらせる演出、演技の良さは見事である。(国外の作品を日本で上演する際、良く体験するワザトラシサや浮いた感じが無い。代わりにイギリスの上に挙げたような社会の在り様が滲み出てくるのである。)
 Eは、アイロニーを込めて己が足を引きずることになった原因として殺人を挙げる。その殺人は戦争に於いて犯した殺人であるが、彼にとってそれが殺人であることに変わりはないからである。この公平性にこそ、Eの真骨頂がある。彼は真正の芸術家として、偏見に囚われず真正な判断を下すことができた。その証拠に彼自身、己を許していない。そしてそれ故にこそ、最後の確証を掴むために、遺体を運び出そうとするパーティーの部屋に舞い戻ってきたのであった。この最後のパートでも息詰まる展開を極めて緊迫感のある演技で支えている。
 最期には喧嘩の強いAを、冴えた論理と冷静沈着で謙虚な態度のEが打ち負かして幕。

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