ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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銀河鉄道の夜

銀河鉄道の夜

東京演劇アンサンブル

ブレヒトの芝居小屋(東京都)

2013/12/23 (月) ~ 2013/12/26 (木)公演終了

満足度★★★★★

本質を捉えながら独自の解釈
 賢治の世界を4次元というコンセプトで括り、この解釈に従って独自の世界を表現している点が創作者の主体的関与を表して小気味よい。余りにも当たり前のことで、殆ど誰も指摘しないが大切なことを言っておくと、作品が発表されたら、厳密な意味では、それは既に作者の意図を越えたものになっている。従ってそこから先、作品に起こることは受け手の解釈なのである。作品はそのものとして自立しており、受け手は己の想像力やロジックを最大限にして解釈する。今作では、ファーストシーンで、解釈宣言が行われ、その解釈に従って作品は、諸要素毎に咀嚼され、再構成されている。無論、原作の意図が、捻じ曲げられることはない。何故なら、原作の意図した所と向き合う為に、深く考え、作品と向き合って創られたことは、今作の隋所に現れているからである。(追記2014.1.1)

ネタバレBOX

以下、小生の解釈である。
 ザネリを中心に「お父さんがラッコの上着を云々」とジョバンニをからかうシーンが出てくる。その後のシーンで、ジョバンニの父らしき人物が、銀河鉄道の停車場に降り立ったジョバンニに語り掛けるシーンがある。将来、ジョバンニが、父を理解するであろうことが、その期待と共に語られるシーンには、無論、ジョバンニの父は獄に繋がれていることが含意されており、その嫌疑は、盗みや暴行、傷害などでは無い。思想犯としてである。所謂、社会主義者やアナーキスト、リベラリストとしてより、恐らくは凡人には理解できない何者かとしてである。型にはまらない人間を権力は煩がるのだ。それは官僚にとって面倒なことであるから。自分達が、箍を嵌めた軌道上を走らない者には、何故そうなのかを問わなければならないし、答え如何によっては、官僚自身のアイデンティティーを崩すからである。彼らは、裸形に向き合うことを恐れているのだ。無論、彼らが裸形に向き合った時点で彼らの構築してきたつもりの論理一切は崩れ去る。故に、彼らは自分の頭で考え、其処から演繹された結論に従って判断し行動を起こす者を恐れるのである。
 仮に百歩譲って普通の思想犯としてみようか。現在、この「国」で起こっている未曾有の事態は無論、この「国」だけで収まる問題ではない。安倍という阿保なボンボンだけの話ではないのである。石破や菅、竹中 平蔵等を取り込んでも話にならない。日本を植民地化しているアメリカに対してキチンとい物を言わなければならないのだ。自民党中枢は、そのお粗末な頭脳でアメリカを利用しているつもりかも知れないが、アメリカは、彼らよりしたたかである。そして自民党の影に隠れて暗躍しているのが、外務省、通商産業省、、防衛省の官僚達の多くであり、警視庁の公安部・警察庁所轄署警備課、道府県警察本部警備部などは組織の生き残りを賭けて情報隠蔽に血道を挙げていると見られている。その結果がどうなったか、火を見るより明らかであろう。無辜の民が拘束され、時に凄まじい拷問の為に命を落とし、或いは体を壊して例え釈放された後でも後遺症の為多くは短命でその生を終えた。無論、村八分などの社会的制裁を恐れて人々は見ざる聞かざる言わざるをその生活信条として自らを守ったのである。どれもこれも茶番だと知りながら。そのような排除社会で、命の根底から助け合いの必要を説き実践した者は、為政者の目にどう映ったであろうか? そして、民衆は、これら民衆の英雄をどう裏切ったのか? そういったことまで考えさせる深い内容である。
 最初に隠されるであろう情報の一つに福島第一原発人災の消息がある。隠して被害を更に取り返しのつかない物にする危険性が大だ。結果、地球上に生きる総ての動植物、細菌やウィルスに至る迄が、変異を受ける可能性がある。それも、数十万年に亘ってだ。僅か百年前の日本語ですら満足に読めない日本人がたくさんいるのに、こんな長い間、仮に放射性廃棄物の管理が出来た後、その危険性を過不足なく後世に伝える技術が確立されているとでも思っているのだろうか? 本気でそう考える連中が居るとすれば、愚か極まりない。大体、そんな厄介な廃棄物を管理する主体は国家だろう? だが、国家としてそんなに長く存在した国が歴史上一つもないのはどうしたことだ? 管理者も無し、伝え得る素材や技術も無しで何をしているのか? そういう問題に対しても、一つしか無い命にどう向き合うかを示すことで今作は向き合っているのである。
 蠍の話やタイタニック号沈没の話、鳥に含まれる水銀の話等々、何れも賢治作品に繰り返される普遍的テーマを含んでいる。蠍は、多くの小さな命を奪って自らの命を永らえてきたにも拘わらず、自分が追われて食べられそうになった時に一目散に逃げ、井戸に落ちて溺れ死んだことを悔やんで、黙って食べられてやれば良かったと考える。これは、「よだかの星」に共通する、皆の本当の幸せの為には自己犠牲も厭わない姿を、一つきりの命の弱さと靭さを示して深い。タイタニック沈没に関しては、死を前にした人倫の問題、身の処し方等本質的な問題が決して声高でもまた強制的でもない形で表現されており、受け手のイマジネーションに委ねられていることも重要な点である。本当に大切なことは、其々が、気付くべきことであって強制されるべきではないのだ!
にじいろ幼稚園のクリスマス

にじいろ幼稚園のクリスマス

演劇集団LGBTI東京

新宿ゴールデン街劇場(東京都)

2013/12/24 (火) ~ 2013/12/25 (水)公演終了

マイノリティー
 2002年4月イスラエル軍は、ベツレヘムにも侵攻、聖誕教会へも銃撃が続いた。またイスラエル兵の投げた手榴弾による出火も伝えられた。この後、イスラエルは、クリスマスミサをも妨害、人々の祈りを踏みにじり続けた。現在も続くシオニストによる占領、封鎖、無辜の市民・子供殺害、差別、人道に対する重大な罪、バンツースタン(イスラエルは否定するが、実質バンツースタンであるとの認識は、内実を知る者には明らかである)侵略の為の入植地建設等々に、アメリカの援助等も大きな影響力を持っていることは衆知の事実である。おまけに、イスラエルの持つ核兵器の数はイギリスをも凌ぐとの研究者がいる位だから、実数は中々見定めることができないものの、中東の不安定要因で最大のものがジャボティンスキーの流れを汲むシオニスト「国家」イスラエルであることは明らかだろう。
 ところで、今回、自分が、LGBTIの作品を観に行ったのは、メンバーがマイノリティーだからであった。残念乍ら、演劇というより、セラピーという方が理解しやすい構成と内容であった。もっと、マイノリティーとして生きて行かねばならない、マジョリティーとの関係に正面から対峙して自分達の哲学を深め、関係を見切って欲しい。先ずは、そこからである。演劇としては評価できない。

THE BELL

THE BELL

CHAiroiPLIN

神楽坂セッションハウス(東京都)

2013/12/21 (土) ~ 2013/12/23 (月)公演終了

満足度★★★★

サンドイッチ
 ループVS始まりと終わりのあるもののコラボ。その真ん中に日常のルーティンワークがある。スズキ拓朗君の形態模写と動きが清々しい。(追記2014.1.2)

ネタバレBOX

 まど みちおさんの“やぎさんゆうびん”白やぎさんからお手紙ついた。黒やぎさんたら読まずにたべた。という例の歌である。これは、無限ループの世界だ。それに対して郵便屋さんが配達をするのは、ルーティンワークであっても、毎日、少しずつ何かが違う。お手紙を落とした、とか。こちらは、大枠は決まっているものの、ループはしない世界だ。
そして、もう一つ。始まりがあって、終わりがある。物語の世界がある。
 例えば名前(宛名)の無い荷・郵便物は3カ月保管するが、その後は、焼却される、と枕を振っておいて、エジプトで史上初めて沖の船から漁獲高を知らせる為に数千年も前に伝書鳩が用いられた話や千Km以上離れた所からでも正確に目的地に到着する能力を持つ故に数千年も用いられてきた伝書鳩が、近年、レースで一羽も目的地に辿り着けないケースが増加しており、その原因に携帯などに用いられる電磁波の影響が疑われている等の情報が入ることによって、人為的な技術が、家畜・野生動物に与える負の影響を喚起すると共に、その後の悲劇を仕込む為の前提要件を紡いでいる。
 飛べなくなった伝書鳩は、名前の無い荷物に手紙を出す。手紙には飛べない現状と荷物の保管されている場所の傍らで飛び立つ訓練を繰り返していること、再び飛べるようになったら、海を見せてあげたい、海に沈む夕日を見せたいとの内容だ。朝日でないことが、荷物の消滅と鳩の死を立ち上げる。つまりここでは名前の無い荷物との淡い恋物語が、ものの哀れを誘ってアンカーのような物語として打ち込まれる。
 今作ではその後郵便物達の配送や、途中で起き得る宛先不明などによる配送不能、郵便物の辿る旅等がパフォーマンスで示された後、床面が引き上げられる。と客席側に向かって床に置かれていた巨大な封筒が立ち現れ、舞台奥から当てられた照明に浮かび上がるのは狐などの影絵。巨大封筒と客の間では黒山羊さんと白山羊さんの間を郵便屋さんが行き交いその度に手紙が届けられる。無論、その度毎に山羊さんたちは、読まずに食べる。
ンメ~~~、ンメ~~~~というループ構造が明らかにされて幕。
積む教室

積む教室

SPINNIN RONIN

森下スタジオ(東京都)

2013/12/20 (金) ~ 2013/12/21 (土)公演終了

満足度★★★★★

切れのある身体遊戯
 玄武館武術専門学校、功夫の専門学校である。生徒達は師博の指導の下、功夫の修行を積む。気風はかなりおおらかで、男女差による区別・差別も、先輩・後輩間での序列も基本的には無い。そうは言っても、新体操を目指していたミシェルは、新体操に代わって一所懸命に打ち込めるものを探して、ここへ来たのだし、シオリはダンサーを目指していた。また、サトルはアクションスターを目指していた。功夫に共通する部分を多く持つジャンルからの移行組に対し、才能はからっきしだが、功夫が大好きでやる気だけは満々のケンジ等、個性豊かな面々が繰り広げる、身体パフォーマンスの華麗でシャープな動き、ザックリ分かり易い内容の物語は、無論、その身体性を強調する為の演出である。音響効果も巧みで舞台を盛り上げているし、照明も自然に見える。(追記2014.1.2)

ネタバレBOX

 何より鍛え上げられた身体が空間を切り裂くような鋭い動きや赤いリボンを用いた新体操演技、剣を用いた殺陣など見所豊かである。
 ストーリーテリングな部分としては、この学校の出方がメインストリームを為す。出るには2つの方法がある。1つは下山すること。もう1つは最強と言われる男と戦って勝ち、達人として見事卒業すること。然し、今迄誰一人、この男に勝って山を降りた者はいないことも語られる。このような状況で18回も落第したサトルは、厳しい修行をしても今時功夫が何の役に立つのか? と疑問を持ち、意を決して下山することを宣言するが、師博は彼の心を見透かして、最強の男と戦って勝ったら師博になるよう勧める。
 一旦、山を下りてアルバイトに入ったサトルだが、試合は彼の出勤日、午前0時と定められた。場所は、武術学校内である。午前0時の鐘が鳴り始めた。だが、サトルは現れない。相手は師博に撃って掛かるが、刹那、1時間の休憩を取ったサトルが現れる。早速、2人の戦いが始まった。前半、押され気味だったサトルはノックダウンを食らい、もう駄目かと思われたが立ち上がり酔拳を用いて逆襲、終に勝利をものにする。達人の称号を得てめでたく卒業し職場へ戻る。
 舞台は飛んで1年後である。皆がサトルがコンビニの店長を辞めたらしいと噂をしている。師博が出欠を取る。新任の師博を紹介すると挨拶をすると、現れたのはサトルである。早速、先代の師博に代わって教鞭を取るが、教科書を使った授業は余り上手くないことが直ぐバレてしまう。実技指導に移るが、生徒達の要請に負け、一緒になって体技を演ずる所で幕。
犯行予告

犯行予告

劇団肋骨蜜柑同好会

サブテレニアン(東京都)

2013/12/20 (金) ~ 2013/12/23 (月)公演終了

満足度★★★★

良く練られたシナリオ
 ヒトはマトリョウシュカのように入れ子構造になっている。そんな哲学を持つ怪盗キースは、神田川専任警部が追う謎だ。(追記2014.1.2)

ネタバレBOX

 必ず犯行予告を出すのだが、狙う物が何なのか、皆目見当がつかない。被害者にとって一番大切な物を盗むという特徴があり、決して殺しなどの手荒な真似はしない。いささかダンディーな怪盗である。被害者も大人とは限らない。女の子のキャンディーをごっそり盗んだこともある。ところで、今回狙われたのは、資産家の石倉 金蔵。彼の持つ高価な宝石がターゲットと一応考えられるのだが、確実にそうだとは言い切れない。何せ犯行予告をして来たのはキースなのである。
 一方、編集者の御手洗は校正に追われて徹夜態勢だが疲れて居眠りをしている。が終電を逃したという同じ社の山田に起こされる。彼女はタクシーで帰宅するつもりだったのだが、経費で落ちない、と言われ社に泊まることにする。徒然に御手洗と尻取をしたり、去年御手洗が嵌っていた怪盗キースに思いを致したりして夜を明かすが、舞台そのものが、この編集部の演じられる場面を外側としその内側に犯罪現場が設定してある。それも単に、犯罪エリアを示す床に画かれた境界線によって。2次元で示されたこの境界は、役者陣の演技によって見事に演じ分けられ3次元として機能するのだが、この辺り、実に上手い。というのも物語自体、入れ子細工になっているからである。
 犯罪現場に登場する人物は4人。石倉 金蔵と息子の琢己、宝石のガードをしている黒澤、そして神田川警部である。警部はキースは必ず来ると確信しており、既に4人のうちの誰かに化けて忍び込んでいると考えた為、4人全員が現場で夜を明かすことを提案するが、手洗いなどのこともあり、2人ずつが必ず現場に残るという形でシフトは息子が組んだ。
 だが、犯罪は実行された。大切な物は盗まれたのである。それも、各々が仮面をつけて生活を送りながらも密かに、人によっては自分がそうと気付きもせずに大切にしていたものが盗まれていた。更に、最後のドンデンでは、盗品は、犯罪場面を描いていた舞台にではなく、編集部に置かれている。入れ子構造そのままに。
永遠の存在者【ご声援ありがとうございました!】

永遠の存在者【ご声援ありがとうございました!】

劇団ゴールデンタイム!

阿佐ヶ谷アートスペース・プロット(東京都)

2013/12/20 (金) ~ 2013/12/21 (土)公演終了

満足度★★★★

100年後
 100年後、とある家族に起こった不思議な告別式。永久保存が可能になったと原理的には考えられる体組織と最先端技術を組み合わせて、新たな亜世界をヒトは構築した。(追記2014.1.3)注:終わり方は自分の拝見した他に2通りあるそうだから、都合3通りの終わり方があるということになる。

ネタバレBOX

 すずと健が話している。所は、戯想博物館。すずは健の娘だが、父の事を何でも知りたいと話をせがんでいるのだ。母とのなれそめや学生時代のことなどを。実は、ここで告別式が行われているのである。死後18時間以内の脳を取り出して、電子機器と繋ぎ、電荷を掛けて脳の見た夢や記憶を再生したり新たな記憶を書き込んだりできる装置の試作機が、この博物館にはあるからだ。技術的には、以上述べたようなことが理論的に可能なのだが、倫理的には様々な問題があるとして研究は封印され試作機だけが、この博物館に引き取られていたのである。最近、この博物館には幽霊が出るという話もあった。幽霊の件については、健の勤める会社の社長が、周りには隠していたものの病に掛かり自分の寿命を覚悟していたのだろう。亡くなる前に、この機械を使って亡くなった御主人に会いたい、と御主人の保存された脳を持ち込み機械を操作してバーチャル逢瀬を実行していた為であった。今、それを館長がやっている。誰の為に? 健の為だ。健と彼の大切な人々の為だ。健は昨日、不慮の事故にあって亡くなっていた。そのままでは、親しい誰にも会えずに彼は亡くなる他なかった。そこで、館長は健の勤めていた会社の社長がやったのと同じ方法を用いて、健の脳に機器を繋ぎ、彼の家族や大切な人々に最後の別れを告げさせたのであった。悲しい話ではあるが、人々の思い遣りや、何気ない日常の大切さがしんみり埋め込まれて心に残る作品になっている。
アルバローザの花嫁

アルバローザの花嫁

ミュージカルグループMono-Musica

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2013/12/20 (金) ~ 2013/12/23 (月)公演終了

満足度★★★★

ジタン
 シナリオ、歌、踊り、振付、曲、編曲など何れも高いレベルで、キャスティング、演出、演技も良いのだが、ジプシーの踊りに関してだけは、やはり、これだけ、高いレベルのグループでも踊り切れないのか、と改めて感じる。命を燃やす、野性的で危険な印象が無いのが、最大の理由で、品が良すぎるのである。この点は、被差別民であるロマ族の真似はできない、と言われても致し方ないか。(追記2014.1.2)

 楽日に体調を崩した方が居られた由。お大事に。

ネタバレBOX

 ミュージカルの基本的なレベル、キャスティング、演技、歌、踊り、曲、アレンジ、振りつけのレベルは随分高い。シナリオもストーリー展開に無理、無駄な部分が殆どなく(観客サービスはあるが)終盤の幾重にも重なるドンデンも見事である。
 ジプシーの踊りはフランスに住んでいた時に何度か見た。これは凄まじいまでの迫力とリズム感に彩られて、激しさの表現で言えば、「血は立ったまま眠っている云々」と書いた若い寺山 修司の焦燥の激しさに匹敵しようか。ステップを踏む度、生と死を跨いでいるかと錯覚する程の迫力で観る者に迫る。浅黒い肌に黒い瞳、黒く長い髪が独自のリズムとスタッカートで挑むように踊るのだ。だからこそ、かけがえのない、一度見たら忘れられない強烈な印象を伴って迫ってくる。


カルネ・ウァレ

カルネ・ウァレ

朋澤精肉店

d-倉庫(東京都)

2013/12/19 (木) ~ 2013/12/23 (月)公演終了

満足度★★★★

カーニバルの本義
 カルネ・ウァレの原初的な形態の持つ始原の人間の持つカオスを舞台化して見せた。その表象の形に衝撃的なシーンを含む、興味深い公演であった。(追記2014.1.1)

ネタバレBOX

 先ずは祭壇のように設えられた舞台に先生と名付けられた者が目隠しをされ後ろ手に縛られた姿で導かれ、その内包を知る由もない女性徒達の前で己の哲学を述べた後、犠牲の羊よろしく寄って集って刺され死ぬ。ここで重要なことは死と哲学が接していることである。また、意味する所が未だ分からないにせよ生徒達は哲学の産まれてくる場所即ち死を臨む場所に居たことだ。彼女達の過ちは、見ていた者総てが殺戮に参加してしまったことだ。この間違いが後の総ての錯誤・錯乱に通じて行く。結果、異相の者を呼び込み終には、安定層に在った己の世界を混沌層に投げ込んでしまうのだ。以降、この混沌層が世界を呑む。その「形」は奇妙で各々は混沌の中に定規を置こうともがく。もがけばもがくほど深みに嵌ってゆく。丁度、蟻地獄に落ちた蟻そのものだ。そして深みに嵌れば嵌る程、彼女らは、定規によって自らをも他者をも縛ろうとするのである。そして自らの欠点より他者のアラの方がよく目につくものだ。状況は混沌そのものであるのに、状況を無視して各自が其々他人のアラを見付けることによって他者を否定してゆく。一方の極にあるのは無限の自己保存本能である。従って理屈は以下のようになる。自己保存本能によって生きようとする自分は正しく、他者には悪いことしか見ない。こうなれば後はもう狩る者だけが存在する。こうして人々は一人一人が他者を血祭りにあげる存在として機能してゆく、一切の状況を顧慮することもなく何故他者を狩るのかも問わず。
 興味深いのは、世の中が乱れるとファシズムの温床になり、ファシズムが蔓延すると規制が強くなる。その規制によって人々は、理性の保ってきた安定や平和を自ら壊して、喜々として戦いに赴くという歴史的事実である。カルネ ウァレの原初の形が生まれたのは遥かな昔だが、ヒトに進歩はあったのだろうか? 人類等という総称を簡単に用い得るほど、人々は互いに手を繋いでいるのだろうか? このように問い掛けた時、この作品が持つ黝いユーモアが働きだす。
池田屋

池田屋

劇団ロストキッズ

戸野廣浩司記念劇場(東京都)

2013/12/18 (水) ~ 2013/12/22 (日)公演終了

満足度★★★

劇としてはもう少し完成度を上げて臨んで欲しい
 新撰組と尊攘派を歴史という舞台上で廻して見せることによって、現在、我々の暮らす場所、時をも考えさせる。情報の質と判断、政治と志との関係や、若者の恋なども、

ネタバレBOX

 フェートン号事件以降もアジアの制海権を握っていたイギリスは、度々、日本近海を荒らしたため1825年異国船打ち払い令を幕府は出す。然し、彼我の軍事力には圧倒的な差があった為、1846年の黒船襲来以降、幕政内部でも強硬派と厭戦派が意見を戦わせることになった。1854年、元号は嘉永から安政に移り、幕府は、米、露、英と不平等条約を結ぶ。58年には、蘭も他の3国と共に、修好通商条約を結ぶが、国内は、未だ、欧米との武器の差を知らぬ者も多く、幕府の弱腰を批判的に捉え、雄藩であった薩摩、長州は、交戦して散々な目に遭う。幕府、雄藩、諸藩其々が、欧米の世界的な植民地支配に対して試行錯誤していたのである。何れにせよ、幕府だけで対抗できるものでもない。雄藩といえど一つの藩だけで対抗できるわけでもない。幕府、諸藩一体となって戦わなければ、話にもならないのは明らかであった。だが、それまで慣れ親しんで来た体制は捨て難い。そんな人々も居た。強固なリーダーシップをとって民族を統一するようなリーダーも居ない。憂うべきことには、長い鎖国の結果、必要な情報は、ごく限られた人々にしか伝わっておらず、而も、新旧の思想間に於ける自由な討論が為されるような社会では無かった。
 そのことが災いしたのだろう。進歩派も旧主派も、高い志を持ちながら、政治イデオロギーの違いだけで殺し合うことになったのだ。それを越え得た人物は、勝海舟と西郷隆盛、吉田 松陰。可能性のあったのが、坂本龍馬ということだろうか。佐久間象山は、ちょっと年上でタイプが異なるが勝、松陰などの門下を抱えた面白い人物ではある。残念なことに、これら傑物も象山は攘夷派に、松陰は安政の大獄で殺されている。こんな時代背景の中で、矢張り、知的レベルに於いては劣る新撰組の面々が、良いように利用され捨てられた(近藤勇の最後を見よ!)今作では、池田屋に残って居た人物の中の大物、宮部 鼎蔵と近藤との切腹、介錯のシーンに知的レベルの差による人生選択の差が表されている。何れにせよ新撰組人気というのは、利用され捨てられた事にあり、庶民はその点に与し、ガス抜きされているのだろう。因みに宮部らの情報の質が高かった点は、宮部、真木 和泉、吉田 稔麿三人が酒を酌み交わすシーンでの襲撃時期の会話に端的に現れている。若い吉田が、即刻の襲撃を主張して認められないとみるや、宮部が真木に具体的な時期を問い糺す。真木もそれに具体的日程で答える。この辺り、革命的行動の成否を決定する最も重要な判断の一つだから、背景に語られる判断の根拠も含めて、持っている情報の正確さと適確な分析に資する理性が必要なのである。
 安倍のようなアホウが、国家を私物化するのみならず、仕切っている以上、我ら、民衆は、まやかしのガス抜きや、嘘で固めた「イデオロギー」によって体制に利用され捨てられるのではなく、不服従という不良になって抗おうではないか
第5回公演「傍白」終演致しました

第5回公演「傍白」終演致しました

いきずり(劇団はへっ 改め)

ギャラリーLE DECO(東京都)

2013/12/17 (火) ~ 2013/12/22 (日)公演終了

満足度★★★

one₋way 
 作家は老婆の不如意を描きたかったということなのだろうが、人々の多くが老いということの意味する所に気付いていないと感じているらしい。だが、それは、本当だろうか?

ネタバレBOX

 少なくとも今作の作家は、高齢化社会に対応すべく気付いておいて欲しい、ということではあるようだ。であれば、それを効果的に表現する為の形式が演劇でなければならない必然性は、何処にあるのだろうか? 私見を述べるなら、ドラマツルギーに重きを置かない今作のような創りであれば、「演劇」より「は、寧ろ暗黒舞踏のような身体性そのものをその表出手段、表現と為すような形式の方が、ずっと有効だとは思う。
 演劇として表現するのであれば、思いやセンチメンタリズムをベースにしたメッセージをではなく、ドラマツルギーをキチンと成立させるべきである。つまり劇の科白としての強度とダイアローグを構成する構造、その為の仕掛けをシナリオ内に持っていなければならない。無論、今、ここでその具体的在り様を指摘することはできるが、若い作家の内面迄、土足で踏み込むのは趣味ではない。若干抽象的ではあるが、これで、今作のレビューとする。
ROSE ローズ

ROSE ローズ

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2013/12/16 (月) ~ 2013/12/16 (月)公演終了

満足度★★★★★

何度も観たい作品
 身近な者には秘して話すことが出来なかった体験を、ベンチに座った老女が、語り出す、という設定で、どこにでも居そうな普通のユダヤ人の生涯を一人芝居に仕立てた作品。その体験が、余りにも強烈な歴史的事象と重なる為、敢えて政治色を可能な限り控え、同時に、深刻な余り、身近に暮らす者達には明かすことが出来ないという意味で一人芝居にする必然を伺わせる、実に良く練られた作品

時々は、水辺の家で

時々は、水辺の家で

monophonic orchestra

新宿眼科画廊(東京都)

2013/12/16 (月) ~ 2013/12/25 (水)公演終了

満足度★★★★★

芸術家たちの共同生活
 アーティストの持つ揺蕩いを見事に具現化し得ている。

ネタバレBOX

 個性の異なる様々なジャンルのアーティスト達個々人のテイストを、適確なキャスティングと多くのアテ書きで抽き出し、各々の立ち位置を丁寧且つ適切に、諸関係のあるべき場所に定めることによって、アーティストが、一般の人々から、気儘、自由、変わり者と評されるような揺らぎまでを表現し得た稀有な朗読劇。
 シナリオの良さに加え、役者達のアーティストとしての質の高さ、これらを過不足なく自然な表現に仕立てた要を得た演出センスが光る。一方、始まりと終わりがあれば、物語は成立する、と信ずるの作家の創作フィールドは、良いことも悪いことも総てひっくるめて取り込ませ、煮詰らせて生きる力に変えて行こうとするたくましさに通じ、今作に、一種の爽快感を漂わせているのも印象的である。
命の池

命の池

劇団演奏舞台

演奏舞台アトリエ・九段下GEKIBA(東京都)

2013/12/13 (金) ~ 2013/12/15 (日)公演終了

満足度★★★★

我らは何処から来て何処へ行く のか?
 命の池と名付けられた小さな池には、河童が棲むとの伝説があり、噂を聞いて、立ち寄る人々もある。

ネタバレBOX

 中には、外国で綺麗で安全な水を供給する為、井戸を掘る作業に従事していて紛争に巻き込まれ息子を失くした母、20年前に、池の底から発見された娘の自殺への心に寄り添ってやることができなかった為に、娘は失踪したまま戻ってこないだけで何処かで生きているという幻影に取り込まれてしまった施設に暮らす母親、この国のタブーを暴いた為に、支配層から睨まれ、村八分にされた元売れっ子作家、女優を目指しこの道に足を踏み入れた頃、河童と遊んだという記憶を持つ女らが、何かを求めてやって来る。河童池だとか河童に因んだ名で呼ばれることの多くなったこの池の古名を“命の池”。
 人々は、己の抱える存在の何たるかを訊ねる為に、或いは、意識の謎を明かしてしまわないようにやって来て、幻影に包まれる。
 その様を、半分透過するような幕を用いて幻想的に観せると共に、登場人物の役割転移によって現実世界と幻影との歪みを表現した幻想的な舞台。鈴の音や背後に流れる生演奏が興趣を添える。
幻しの王

幻しの王

ピープルシアター

阿佐ヶ谷展望スタジオ(東京都)

2013/12/13 (金) ~ 2013/12/17 (火)公演終了

満足度★★★★

熱演
 タイトルの“幻し”は無論、通常の日本語では誤用である。だからこそ、作・演出の森井 睦氏は、“し”を送ったのだ。それは、この物語に一種の浮力をつけたいが為であったと考える。つまり、日本でありながら、通常の日本ではない、夢見られた国、或いは幻想を纏った日本を描きたかった、ということでもあろうか。
 「リア王」で当たりをとった老俳優を演じるのは、ピープルシアターの看板役者、二宮 聡氏。非常に難しい役作りを熱演して見応えがあるのは、流石だ。娘役を演じるのは、これまた、この劇団になくてはならない名花、伊藤 知香さんとコトウ ロレナさん。(追記2013.12.17)

ネタバレBOX

 先の原稿で“浮力”という言い方をしたが、深読みを許して貰えるならば、それは、既成日本への死刑宣告ですらあり得よう。実際、今作で描かれるリアは、真の自己たる道化も伴わず、一国の王であるより単に一家族の夫と妻子の関係に矮小化されている。
 即ち、老人養護ホームに遺棄されたリアとは、その本質に於いてシェイクスピアのそれとは根本を異にしていると言わねばならない。ここで描かれるリア否リア俳優として名を為した役者の人生は、あくまで、日本の現代史のある時期迄、実際アジア東端の生活として実在した家族の在り様をこそ原点にし、その崩壊を描くに当たって、シェイクスピアを援用しているのだ。
 従って、実際この作品で描かれるのは、妻と夫と愛人の三角関係と妻自殺をメルクマールとした娘三人との事後関係だ。末娘と姉二人との父に対する対応の差は、シェイクスピアの原作に近い。
 この関係は、然し乍ら、日本と幕末以降不平等通商条約を結んで大儲けをした欧米列強との関係を端的に表してもいるだろう。この不平等を克服しようと追いつき追い越せというスローガンの下に敗戦迄を突っ走った、という側面が確かに、日本近代史の過程にはあったと思えるのである。それは、無論、コンプレックスであるが、自分はそれを単純化した訳語、劣等感で済ませたいとは思わない。寧ろ、複合意識と訳したいのである。この方が、より原語にも近い訳だと考える。
 今作は、殆ど一人芝居という形式になっているが、この辺り、シナリオにもう少し工夫が欲しい所だ。自分の美意識レベルを意識化する為の内面的ストラグルを演じて欲しかったのである。それが出来ていない為に、劇団を代表する役者が熱演して尚、隙が出来てしまった。才能ある女優達も殆どファントームとしてしか出て来れない設定では、己の内面を曝け出す演技はおろか、自分自身を演じ切ることもできなかったのではないだろうか?
 この点、責を負うべきは、作・演出の森井 睦氏であろう。つか こうへいが、作・演出家として傑出していたのは、役者に合わないと思えば、本公演中であっても口立てで科白を変え、役者にフィットさせていったことだろう。役者本人が、それまで気づいていなかったような本質をつかが掴み取り科白化し得たからこそ、役者にも短時間で科白が入ったのではなかろうか? この辺り、演劇創造の場に於ける日本及び日本人の対人関係の創り方と在日の方々の持つ優しいメンタリティーの差が現れているようにも思う。その意味で今作は、単に演劇作品というレヴェルで観られるべきではなく、作品自体が文明・文化批評の方向性を持っていることに注意すべきである。
空想、甚だ濃いめのブルー

空想、甚だ濃いめのブルー

キ上の空論

新宿眼科画廊(東京都)

2013/12/06 (金) ~ 2013/12/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

マンネリ打破(Bチームを拝見)
 「私は大きな樹になります」で始まり、同じ科白で終わるゲームという形式の中で、大筋だけを与えられた役者達が、アドリブで創作して行く、という実験的な手法の芝居だ。

ネタバレBOX

 時折、演出家が、ストップを掛け、ダメダシをして、作品が創り変えられて行く。
 大枠だけ決めてアドリブで作って行くという方法が、一種の緊張感を持たせるので、観ている側も常に、軽い緊張感を伴い乍ら観劇することになるのも心地良い。更に、隋所に役者達の芸質が見える点、演出家のダメダシが、演出プランに組み込まれてメタ構造化している点、その舞台裏を見せている点でも興味深い。
 また、タイトル横の劇団名に“キ上の空論”とあるのは、机と樹或いは木の掛け詞であることは今更指摘するまでもあるまい。この公演では、効果に音楽を一切使っていないが、無論、意識的にである。その代わりと言っては何だが、時間や空間を役者達の発声によって代置してゆくことによって作品のリズムを醸し出している。殊に、3.11直前のシーンでは、暗転し分単位で時を告げるだけの科白の切迫感で、当時の記憶を生々しく再現される。2年前、自分は、川崎のアパートに居たが、あの時の揺れに纏わる有象無象が追体験されるようであったのには、我ながら驚かされた。
 ところで、今作は、キ上の空論初の実験公演であるが、作・演出の中島 庸介君は、リジッター企画の主宰者でもあるので、ちゃんと社会との接点を持つ、このような作品を創作し得たのでもあろう。
 3.12以降のことで言えば、メルトダウンする前の段階で消防車を用いて、1~3号機の格納容器内にある燃料棒を冷却する為に、注水を試みたことがあったのだが、毎時必要な約10tの水に対して75tもの水を注入し続けたにも拘わらず、メルトダウンが防げなかったことの背景にあったのが、机上の空論(複雑過ぎる配管構造を無視した)であったことを思えば、この作品は、この事実が新聞発表される遥か以前に、この事態を予見していたと見ることもできよう。表現というものの持つ力の一端がここに在る。
(参考までに東京新聞の以下のコーナーで関連記事を読むことが出来る)http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013121402000120.html
ザ・ランド・オブ・レインボウズ

ザ・ランド・オブ・レインボウズ

天才劇団バカバッカ

六行会ホール(東京都)

2013/12/11 (水) ~ 2013/12/15 (日)公演終了

満足度★★★

米日関係
 映画好きの仲間が集まって制作会社を興した。資本金は500万円。これ迄、何本かは撮ってきたのだが、取り立てて言う程の作品ではない。然るに、今回は、プロデューサー、江崎の祖父で名映画監督だった江崎 幸男の未完作品を撮ろう、ということになったのだった。そこでハリウッドの大物スターと出演契約を結んだのだが、撮影発表の記者会見の時になってドタキャン。(追記2013.12.17)

ネタバレBOX

 おまけに分厚い契約書に記された規定では、本人以外の家族などの事情によって出演がキャンセルになった場合、ギャラは全額支払うことになっており、6000万円の金が宙に消えることになった。
 これなど、相手がアメリカでなければ悪質な詐欺と突っ込まれてもおかしくない所だろうが、結局、この金をおとなしく支払った上、後に江崎宛てに送られて来た、ラスクと短いレターで「やっぱりいい人だったんだ」などと妙に納得してしまう日本人達の目出度さは、アメリカ人の格好のからかい相手だろう。日本人は、屈辱を感じないで居られるのだろうか? 
 大量のプルトニウムを抱え続け、更に増殖プロジェクトを放棄しない日本に未来など微塵もないが、こんなことをしているのは、日本の為政者共が、アメリカを殿とし、自らを滅私奉公する臣下と位置付けているからだろう。而も、アメリカが容認しているというより、やらせているのは、核戦略体制下で核戦場となる場合、少なくとも最初の核被災地は、米本土でなく日本という前線基地であるという「事実」に持っていっておく方が、敵に対して優位に立てるからにほかなるまい。実際の核戦争になれば、ミサイルに核弾頭を装着して飛ばすのは、当たり前だし、ミサイルのスピードは、航空機は愚か、戦闘機や爆撃機の比では無い。1分1秒を争うのである。米日関係を軍事的に強化することは、メリットよりデメリットの方が遥かに多くまた大きいと認識すべきである。尖閣の問題にしても、サンフランシスコ条約に中国もソ連も参加することが出来なかった事情を汲むべきであり、平和的交渉によってしか問題は解決しないことを認識すべきであろう。
 TPPでも甘利が、重大局面で降りるという芸を披露したが、出来レースっぽくないか? 
 米日の諸関係を見ていると滅茶苦茶な不均衡を相変わらず、唯々諾々と受け入れてゆく、この植民地官僚と国賊政治屋共の、奴隷というより家畜そのものでしかないメンタリティーが、我々、庶民のではなく、為政者共のメンタリティーであるように思われる。
 だから、我々、庶民は、このドロドロの腐りきったヘドロ=自民・公明(この名前も恥ずかしいね)を中心とし、すり寄る野党を、唾棄すべき必要には迫られているが、安倍が強制するように愛する対象としては考えることなど出来ない、とハッキリさせておく必要がある。無論、本来、この国の風土は、温暖で複雑微妙な多くの層を含む、豊かで多様なものであった。その宝をどんどん潰し、永久に回復不可能にする権利も必要もない、未来へ向けての展望がキチンとここに住む我らの判断ででき、実現できるのであるなら、愛など強制されずとも、自ずと誇りも持ち、愛するようにもなろう。それは断じて強制するべきものでもなければ、強制されるべきものでもない。そうではないか?

KUDAN  ~この地球(ほし)の汚れた片隅で生まれた命~☆無事終演致しました。ご来場ありがとうございました!☆

KUDAN  ~この地球(ほし)の汚れた片隅で生まれた命~☆無事終演致しました。ご来場ありがとうございました!☆

TOKYOハンバーグ

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2013/12/11 (水) ~ 2013/12/16 (月)公演終了

満足度★★★

内部被曝
 雌牛の出産シーンで幕を開けるが、無論、人の言葉は無い。牛の鳴き声だけである。母牛の名はハナコ、擬人化されているので、当然、ハナコの感情は人間に近い。漸く産み落とした母としての喜びを期待してハナコは、子を見た。途端、悲痛な呻きとも悲鳴とも取れる鳴き声を挙げる。産まれた子は、人間の形をしていた。(追記2013.12.17)

ネタバレBOX

 所謂、件(KUDAN)である。この森は、毎時18μ㏜の空間線量だ。2か月前迄ハナコらの居た牧場の畜舎は3μ㏜/hであった。ハナコの体には、白い箇所が斑点状に出来ていた。体毛だけが白くなっている場合と皮膚迄そうなっている場合とがあったが、海岸通り近くの大きな構造物で爆発が起き、煙のような物が出て、人間どもが右往左往して以来、これ迄一度も無かったおかしなことが、ハナコたち、牛の体にも現れるようになっていたのである。牧場主の一雄は、有能で人情味のある酪農家だったが、自らもF1人災の為被曝しながら、退避勧告を跳ねのけて牛たちの面倒を見て来た。だが、終に倒れ、病院に担ぎ込まれた。然し、飼っていた牛300頭を、殺処分にさせるのは忍びなく、病院を抜け出して、畜舎を開け放ったのである。牛達はこうして外に出、近くの森へ来た。既に、鳶、犬、猫が森で共同生活を始めていたが、牛達も仲間として暮らすことになったのだった。無論、一雄は、3μ㏜/hの空間線量の出ていた牧場で働いていた為、牛たちを逃がした直後に亡くなった。
 牛達の逃げた森は小さく、充分な食物は入手できない。動物達は餌を求めて、ヒトの居た地域へ出掛けて行く。その度にヒトは見付け次第、牛を殺処分していた関係で1年後には、生きている者の数は10分の1に減っていた。若い牛の中には戦おう、という者も出てくる。長老と雖も、若い牛達総てを抑えることは既にできなかった。件は、牛の成長速度と同じ早さで育ち、既に少女に見えたが、森で彼女に会った者達は、彼女がテレパシーを用いて話し掛ける術を持っていることを噂にしていた。彼女は、牛達を救って下さい、と訴えていたのだ。然し、人間共の彼女に対する反応は、妖怪や幽霊に対するそれであった。人々は、彼女に出合うと、筧を乱して逃げ去ったのである。だがある日、核廃棄物の処理に困った人間共は、終に森の木を伐採して、廃棄場を作る為、森の住人狩りを始めた。流石に、人の姿を残す件だけは、人間共も殺すことが出来なかったので、以前、研究用に拉致された若い被曝牛(雄雌各1頭)を除き一雄の牛舎の牛は全滅させられた。森に残された唯一の生命、件の叫びが痛烈である。曰く「何故、私は生まれて来たの?」
 内部被曝についての認識が浅い。表現する者が、体制側が垂れ流す情報をそのまま信じてどうするのか? まして、今作は、動物の側に立って、ヒトを見ているという側面が結構出されている作品ではないか。だったら、尚のこと、この点は、キチンとしなければなるまい。チェルノブイリの被爆者に関しても、IAEAとWHOのデータは共通している。これは、WHOとIAEAの間に結ばれた協定の為であるが、背景にあるのは、露骨な力関係によって事実が捻じ曲げられている事態である。WHOは単に、国連の一機関に過ぎないが、IAEAのバックには安保理がついているという差である。最低限、この程度のことはチェックしておくべきである。

 
アシュラ

アシュラ

平熱43度

ワーサルシアター(東京都)

2013/12/11 (水) ~ 2013/12/15 (日)公演終了

満足度★★★

この植民地のかたち
 政府は軍事目的で人間改造研究をしていたが、開発に成功したウィルスの一部がラボから漏れる事故が起きた。緊急事態警報が鳴らされ、主要スタッフ協議の結果、事故が影響を及ぼさない可能性を選択、隠蔽してしまう。間もなく、20歳以下の若者に風邪に似た症状が蔓延、予後彼らはエスパーになっていた。(追記2013.12.17)

ネタバレBOX

 個々の能力、力量は個体差があって一様ではないものの、テレパシー、サイコキネシス、テレポーテーション、予知等の能力を備えるに至った。その結果、エスパー達は、苛め、差別等の他、収容されれば、モルモットとして実験材料にされるなど被差別者が蒙る総ての苦悩を背負わされていた。
 ミュータントでもある彼らの中に反逆の狼煙が上がるのは必然であった。彼らを纏め、自分達が、権力を握る社会建設の為に、現政治体制を転覆しようとする勢力が現れた。彼らは自らをアシュラと呼んだ。そのウィルスの形が、阿修羅像に似ていたからだと言われる。
 無論、現体制も黙っていない。当然の如く、特殊部隊を投入、アシュラ狩りに集中した。政権側には、戦闘能力の高さや、先端技術のプロ、対特殊能力保持者に対抗し得る能力を持つと考えられる者が集められ、チームを組んだ。この中に、エスパーになった恋人を持つ者も含まれていた。恋人同士が敵になったのである。だが、この設定はもっと、突き放した視点から描かれるべきであっただろう。
 恋人たちの恋心を無残に蹴散らしてゆくような現実のシリアスなレベルが避けて描かれている点で、作品が、センチメンタルになっていることが、劇的効果を半減させている。
 3.12以降の与党の動きを見ても明かなように、植民地としてしか機能していない我が「国」は、緊急時には、兎に角、必要な情報を隠蔽することに走る。「殿」であるアメリカが、何と指示するか、無能な彼らには、対応しかねるからである。結果、守るべき国民は見捨てられ、見捨てられたことについても頬っ冠りされ、気付いた国民から追及を受ける場合は、司法が、それを棄却して、遂には、責任を問われることの無いよう原告が死に絶え、追及者が居なくなるまで放置する。それが、植民地保守政権、司法の役割であり、現在、秘密保護法だなどと、「1984年」に出て来そうな特殊変態思考方法のような言い方(完全な情報操作)がまかり通る。因みにこの法を内容に沿って正しく言いなおすのであれば、国民に不可欠な正しい情報を永遠に葬り去る、”必要情報隠蔽法”なのである。内容に沿った正しい呼び方を広めたいものだ。
『どこか遠くへ行く日』 たくさんの御来場ありがとうございました!!! 次回は4月中旬★

『どこか遠くへ行く日』 たくさんの御来場ありがとうございました!!! 次回は4月中旬★

シアターノーチラス

RAFT(東京都)

2013/12/07 (土) ~ 2013/12/09 (月)公演終了

満足度★★★★★

詩的・知的作品群
 ヒトは、その実存に於いて必ず宙吊りである。過去と未来の間に、あちらとそちらの間に、そして彼らとあなた達の間に。この日常の陥穽のような状態こそが、実存の裸形に近い。だから、ヒトは、通常それを見て、見ぬふりをしている。

ネタバレBOX

 そのようなヒトの在り様を三編の小品でオムニバス形式に描いた作品群だが、その詩的感性、人間存在の本質を、手堅く、自然に提出する手際の良さが光る。更に日常とはいえ、其々、層の異なる、例えてみれば位相数学を詩に代入したような明晰さと、抑えられてはいるが知性の煌めきが、作品に適度な緊張感とそれゆえのバランスを保たせている。
 また、三編とも短編である為、話の展開の仕方が頗る重要になるわけだが、その辺りの構成力も抜群なのは言う迄もない。一編一編の内部でもそうなのだが、全体の構成も良く考えられている。本当にありきたりに見えるシチュエイションで始まる第一話、サスペンス要素の強くなる第二話、そして社会の最小単位と通常考えられる家族の中に起こるトラウマの深刻さを抉る第三話。人称で言うと、一話は二人称の物語、二話は三人称の物語、そして三話は一人称の物語で、演劇を観に来る観客の日常に近い所から入り、昼間働く生活に対応した二話が続き、次に家族という単位で、己を振り返る構造になっているのだ。
 見事である。そして、これら三編の其々に、矢張り適確な小物やイマージュが、宙吊りの登場人物達の振り子の支点のような作用を及ぼしている点も見逃すわけにはゆくまい。
 これだけの要素を巧みで知的な演出と気の利いた音響、抑え気味で効果的な照明、矢張り、会場のサイズに合わせて抑えた丁寧な科白回しと演技とで、ひたひたと観る者に迫る舞台であった。
EgofiLterの犀

EgofiLterの犀

EgofiLter

MAREBITO(東京都)

2013/12/07 (土) ~ 2013/12/08 (日)公演終了

満足度★★★★★

秘密保護法成立の日本にぴったり
 流石、名作! 憲法違反の悪法、秘密保護法は、自民の狂犬、安倍らの目論見通り、強行採決という形で、形式上成立した。この作品の背景にあったものは、無論、ルーマニアの極右宗教組織、鉄衛団である。(ネタバレ追記2013.12.10)

ネタバレBOX

 原作の翻訳をそのまま、上演すると2時間を超える作品だが、Egofilterの演出家は、イヨネスコの主張を活かしつつ、筋の展開を入れ替えたり、割愛したりして、スッキリ、クッキリ現代を生きる我々の皮膚感覚にフィットしたものに創り直している。非常にラフな言い方になるが、不条理演劇の特徴を短い単語で表すならば、それは可塑性と言うことになりはすまいか? 今作の眼目は、マジョリティーVSマイノリティーと、その移行過程でのメンタリティーの変化である。それが、表現されていれば、あとは、いじれる。乱暴な言い方になるが、そういうことだ。
 ベケットの「ゴドーを待ちながら」についても、それは言えよう。待っている間 の二人の会話に例えば、特定秘密保護法の話を入れても構わないし、米日の主従関係を入れても作品のバックボーンに変化は無いのである。
 因みに緑という単語が何回も現れるのは、鉄衛軍の制服のカラーを表しているのであり、犀への変身が黒で表されているのは、単に犀のグレイの肌を表すより寧ろ、枢軸同盟の仲間であったイタリアの右翼民兵組織、黒シャツ隊を暗示しているように思われる。
 つまり、今作のアップデイトな読みとしては、秘密保護法が衆参共に強行採決され、反動そのものである最高裁ですら、違憲状態を認めざるを得なかった選挙(それも不正があったとの内部告発がネット上に出回った)で“選ばれた”議員”達が、民意を無視し、アメリカの圧力に唯唯諾諾と従った官僚、政治屋、多くのマスメディア、財界はもとより、司法等々と共に、これから齎すであろう世の中を、過去の極右宗教組織、極右民兵らと重ね合わせて透かし見ることができるのである。
 実際、舞台を拝見しながら、特定秘密保護法と名付けられた違憲法が、アメリカにすり寄るのが大好きな駐米日本大使や駐英日本大使以下の外務官僚、TPPどころか、自動車で揉めた時ですら、何らキチンと物の言えなかった現経済産業省官僚主導の下、狂犬・国賊・嘘吐きの安倍、詭弁国賊、石破、菅、佐藤等々らの手で、強行採決された現況を見、即刻、罷免を要望すべきだと思った次第である。法律に詳しい方々、これが実現できるかできないか検討して頂ければ有り難い。(まだ法執行までには、日にちが多少ある。現時点では共謀罪は適用されないかもしれぬし)

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