満足度★★★★★
罪の置き場所。
人間の無意識層に眠る本性をスケルトンにあぶりだし、リアルタイムの日常を鼻歌でも口ずさみながらスラスラとスケッチしてしまうようなところにこの作品の凄さがあり、恐ろしさがあります。そしてグロい、キワドい、カルト、ヴァイオレンスなどという使い古された言葉を粉々にした怪人の手招くほどよく壊れた世界にただもうひたすらヤバイくらい満たされていくだけ。何だろうこの感じ。とにかく観て欲しい。なんかもう、それしか言えない。
ネタバレBOX
日々のタイムスケジュールの中に組み込まれているルーティーンワーク化された暴力行為に忌々しささえ抱きながらも制裁を下し続ける被害者家族と、暴力行為を受けることによって犯した罪を償い続ける加害者という逆転の構図。
肉体的な暴力をひたすらフィルムに収めることに心血を注ぐ映像作家の視点は観客の心理を代弁し、同級生を殺害した美少女は、加害者の青年の思惑を背負っているかのよう。
善悪で割り切れないグレーの世界は病的で狂ってる。と言ってしまえばそれまでだけど、事を追っていくと、怖いくらいつじつまが合う。
傷を舐め合うように罪とか罰とか擦りつけ合って。
犯した罪を償う手段はあるものの、互いを許し合える決定的な方法はない。
もうこれ以上、手の施しようがないことを知っているから、誰もが核心に触れることを諦めていて。
誰かが殺されたり、誰かが自殺しても不思議と憤りを感じない。
同情のないあっけない死は事件というよりも、不慮の事故に近いから。
嘆いたり悲しんだりなんかしないで自分の立場を気にしてる。
思いやりがすっぽりと抜け落ちている。
見つかったらヤバイ。だからなかったことにする。
口が軽そうなヤツもまとめて処分してしまえ。
そう、すべては合理的で、利己主義で、理にかなっているのだ。
当団体は初見だったが、終始、演劇という名の虚構の枠組みからはみ出している印象を受けた。芝居くさくない役者の振る舞い、嘘くさくないダイニングキッチン、完成されたテキストからあえてひとの心の動きを停止させ、部分的にそぎ落とし、曖昧にぼかしたような演出の仕方、共感されるキャラクターが誰ひとりとしていないこと、凄い画を撮るためならひとり死ぬくらい別にいいし。とか本気で思ってそうな映像作家の、正気の面したクリーチャー等の殺意に満たない小さな悪の集まりが、圧倒的なリアリティを獲得していたからだ。人を殺した人間は、殺されて然るべきだろう。という誰もが一度くらいは感じたことのある素朴な正義感を、被害者側と加害者側に優劣をつけずに同レベルから捉える試みも秀逸だった。残虐なシーンをあえて見せずに、観客の想像力のみで暴走させる不健全さ。魂を浄化させるような柔和な光の傾き。醜悪さと美しさのアンビバレンス。ゾクゾクきた。クセになりそう!
満足度★★★★
名前にまつわるエトセトラ。
”名前”に対して多角的にアプローチをしていき、人と名前がどう関わりあって来たかを探る―例えばその名前のルーツや名前からイメージされる何か、あるいは”名前”そのものの概念を、寸劇をしながらオムニバス形式で分かりやすく解説していきます。ストーリーテラーは実験シリーズの名を裏切らないいでたちの研究員4名。我々観客は一般特別研究員の一員として参加する形になりますので、協力的な姿勢で参加することが望まれますが、アットホームな空間ですのでリラックスして楽しめます。終演後は、劇団の方々が手作りされた特製エコバッグが配布されます。更に30分間の反省会&意見交換会(自由参加)があり、ジュースやビール、お菓子が劇団員の方々の奢り(!)で用意されています。私はひとりで行ったのですが、お誘いの上行かれた方が断然楽しめると思いますよ(もちろんひとりでも充分楽しめます!)。それから劇中は、名指しで指名されることもしばしばありますが、質問された答えを間違えてしまっても叱られることはありませんので、心配御無用です。演劇に参加する1時間45分。
ネタバレBOX
いやはや恐れ入りました。一歩会場に足を踏み入れるとそこには、白い紙が御札のようにペタペタ貼られた花瓶、カウンターチェア、ごみ袋、樽など謎の光景が目に止まります。そのどれもが既存の名前とは明らかに違う、しかしながら妙に納得できる、非常にナンセンスでナイスなネーミングセンスなのです。これはひょっとして私も名前を頂けるのかしらん。と思っていたら、受付を済ませると間もなく名前を頂けたのでほっと一安心。その名前は一枚のリストの中から好きなものを選ぶことが出来、海外のミステリー作家の名前だったり、フェリーニの映画に出てくる登場人物の名前だったりするのです。(ちなみに私は海外児童文学作品の主人公の名前を選びました)そして研究員の方から実験中はその名前で呼ばれるとの説明があり、ツァラトゥストラはかく語りきが流れ、影絵を用いたアクトから実験がスタートします。
※以下、内容をおおまかに。
「父と子」(”名”は体を表す→”名”は体を表さない)
横道という名の父親に正道という名の子供が説教されている。
正道はイケナイ妄想で頭がいっぱい。
正道の妄想を天井からスーパーのビニール袋に”犬” ”女”などと書かれているものを天井から吊るすことで具現化し、横道はそれらを掃除機で吸い取り(このシュールさがたまらない。)
”なまえ”のように正しい道を行く子になりなさい。と説教するが、正道は血まみれの包丁(マジギレと名前が与えられている)を振りまわし、狂ったように暴れまくる。
名は体をあらわす。とは昔からよく言われるが、6月に生まれたからジュンコ、長男だから一郎というように、人の名前が願いを込められた何かではなくて、その時々の事象、都合として用いられる場合も多々ある。
その例えとして出てくるのがミロのヴィーナス。
ミロのヴィーナスはミロ島で発見されたからミロのヴィーナスと名付けられた。では、発見された場所がミロでなくミト(水戸)だったら?ミブ(壬生)だったら?ミコ(巫女)だったら?とだんだんナンセンスになっていくものの、それぞれ検証した結果、そう言われてみれば、見えないこともないとのことで終止する。
「取り調べ」(”名前”の認識)
ふたりの男が出てくる。ひとりは犯人。ひとりは警官。犯人の男は、取り調べを受けている。男は自分の名前には愛着がなく、故に自分が誰だかわからないのだと言う。警察官はお前は相田 初だというが、男はそれを信じようとしない。
「外科医」(”名前”のイメージ)
藪という名前の医者に対し、ポリープを切断されるよう言われた患者は懸念を抱く。藪は当て字であるが、ひとは概念として藪を腕の悪い者だと信じて疑わない。
「私の叔父さん」(定義がよくわからない”名前”)
チェーホフのワーニャ叔父さんのラストシーンを引用しながら、
おじさんの定義はよくわからないが、あじながおじさんにしろ、風船おじさんにしろとにかくおじさんは胡散臭いという言い分を検証する。
「列車にて」(”名前”なんて何だっていい)
自殺志願の男のところに牧師が来て、自殺を止めようとする。
男は牧師の説得によって自殺することを止める。
牧師は、お布施を要求する。更に聖書を売りつけようとする。男は持ち合わせがないと言う。
肩を落としその場を立ち去ろうとする牧師に男は
「あなたの名前は・・・?」と聞く。
牧師は適当な名前をいくつか言って立ち去る。
牧師にとって、名前なんて何だっていいのかもしれない。
「荒木又衛門」(”名前”に意味はない)
百姓であることにコンプレックスを持っている七郎次はある日、伝説の武士、又衛門に弟子入りを志願する。
七次郎は一通り刀を使いこなせるようになったが、又衛門は大切なのは強いことではなくどれだけ自分を無にできるかであり、身分を使い分ける”名前”など無用だ。と七次郎に諭す。
「ブランド」(”名前”だけで選ぶ怖さ)
ヴェルサーチのスーツにアルマーニのネクタイ。ロレックスの時計を身につけた男、成田金蔵(略して成金)が女と連れだってブランドショップに入ってくる。
男は女はGUCCIの指輪を買い与えるためブラックカードで支払いを済ませる。ここまではよかった。
問題はショップバッグ。店側はエコと称し、コンビニやスーパーで使われるレジ袋に黒いマジックで”GUCCI”と書いて渡そうとする。男は、金はあるから、ショップバッグをよこせという。女もこーいう所はエコなんてどうだっていいのよ。とご立腹。が、店側はエルメスなら”H”、ヴェルサーチなら”V”と書いたお粗末なものしか渡さない。店と客のやりとりは、ドリフっぽくコミカルだが、ネームバリューだけで物を選ぶ人間の怖さを露呈していた。
「市民土木課の一日」(不可解な”名前”)
朝、出社した課長は今日から自分をたーくんと読んでほしいという。
部下たちは不審におもうがスルーする。
市民土木課という名前が頂けないとの事で次々と考案していく部下たちはやがて、無数の”名前”の中に埋もれていく。
実験シリーズに参加したのは今回がはじめてだったが、性質の異なる”名前”を考察する過程はたくさんの小さなアイデアで散りばめられていてとても楽しく、また非常に興味深かった。それから役者が、想いを前に飛ばそうとするエネルギーに満ち溢れているのが良かった。しかも役者が全員、芸達者。古典演劇のワンシーンを演じるにしても、ちょっと刀を振り回す仕草にしてもそれが何かの真似事ではなくて、”技”の域に到達しているのである。劇団のHPに役者は週5でレッスンに励んでいると書いてあったが、確かに素晴らしい身のこなしであった。
それからもう一点、この劇団の素晴らしいところは、観客をもてなす心があること。それは一枚のチケットを送ることにしてもそうだし、客入れ時の挨拶ひとつにしてもそうなのだけれど、観るひとたちをわくわくさせ、楽しんでもらおうという心意気がひしひしと感じられる。特記すべきは終演後、アンケート記入に協力を呼びかける団体は一般的だが、夢現舎の場合は、違う。80円切手を同封した封筒が終演後全員にもらえるエコバッグの中に入っており、”実験レポート”と称したそのアンケート用紙を送ると、返信が送られてくる仕組みなのだ。そして更に、観劇日の夜にお礼のメールが届いた。それも、実験に参加した時の私の名前入りで、だ。たった一度の公演を観ただけでこれほどまでのことをして頂いたことははじめてだったので、ちょっと驚きもし、恐縮もし、感動もしてしまった。
満足度★★★★
闇の中に醗酵するもの
究極の環境に置かれた時、人間はどんな行動を取るのだろう。もしも何者かに試されているとしたら?それが姿を現さないとしたら?あまりにも恐ろし過ぎて身震いすることすら忘れてしまいそうだ。本作は、生物兵器の実験台になったとある町の話。人々が恐怖感を抱く隙を与えずに生物兵器を投入したため、人々はただ、崩壊してゆく様を見届ける間も無く息絶えていく。悲しくて、絶望的だ。
蜘蛛の巣に囚われ、身動きのとれない小さな虫のように無力な人間たちの複雑な境地が、妖しく醗酵する黴と艶やかに絡みあう。体をくねらせ宙に舞うように町を泳ぐ黴。心に届くまえに皮膚の上をすべり落ちる言葉。とぎれとぎれの会話。断絶された線路。絶滅する生命体。歩いても歩いても光のない、温かさのかけらもない世界で人間の本能が絶叫する。
ネタバレBOX
リレー方式で行われる今回の公演はセットも楽屋もないらしく、舞台に上がった4人の役者がウォーミングアップをするところからはじまった。柔術を応用したような動きが合図によって繰り返され、瞬く間に世界が作られた。リラックスしていていいですよ。主宰はそうアナウンスしていたが、客席にいる誰もが目を見張り、その張りつめた空気感の中に息つく間もなく取り込まれてしまっていた。
簡素な照明装置と音響、何もない真っ黒な舞台で4本の白いロープを使い、物語のすべてを構成する発想力にも脱帽した。特に目立った演出は、Pit 北区域の特徴でもある宙二階の二階部分の柵に2本のロープを引っ掛けたものを両サイドで引っ張り、行き止まりを表現していたこと。この町が、外部と遮断されていることがより強く伝わってきた。
又、ウォーミングアップ時に見た柔術を応用したような動きは手の施しようのない町や町を侵食し、人々をストイックに追い詰めていく黴を立体的に造形していて、見えない何かは確かに見えた。
パンフレットの挨拶を読み、この作品が主宰の亡き祖父へのオマージュを捧げたものなのだと知る。最後、夜空に降り注ぐ星のような雪黴が先人が笑って希望を与えているような。そんな風に受け取れた。
それから本編には直接関係はないが終演後、主宰自ら出口に立ち、観に来た一般客に対して挨拶をする姿は好印象だった。こうした誠実な姿勢が、作品にも顕著に表れていると感じた。
満足度★★★★
原始を巡る旅の果てに・・・
進化論を軸に、創世記からこれまでに人間が深く関わり合ってきた物々(亀類、魚類、恐竜の化石、おたま、しゃもじ、運動靴、ツボ、鍋、杖、アンモナイトなど)がざっくばらんに標本化されうず高く積み上げられた無数の箱をルーティンワークさながら機敏な動作で繰り返し移動して組み替える個を排し無に徹した人々は舞台装置のとして機能し、反復される素朴な単語の数々はドラマティカルな響きを放ちながら、言葉の無意味さを裏付けているかのよう。変拍子の電子音は脳髄に響く。ショーケースの中でくるくると回り続けるお人形を見ているような舞台だった。
ネタバレBOX
漆黒の宇宙空間に浮遊する無数の隕石のプロジェクターを背に、突如として姿を現した原人が、少しづつ進化して程なく知恵を獲得し、文明を築きあげていく。立方体の中には、人類が関わりあってきたモノやコトが収められ、手際のよい積み木遊びを観ているよう。
構築、解体、反復を繰り返しながら積みあげられていく歴史。
断片的な原始のかけらの集積が示す時間の流れ。
移動し、消化される箱の群れ。
未来への道しるべの陰で0.1ミリの弾丸をつくる機械工。
歯車の一部として機能する歯車と化した人間の精密な運動。
工場のすぐ横を駆け抜ける虫取り網をもった純朴な子供は戦前、あるいは戦後の高度経済成長時の古き良き日本の情景を思わせる。
だいだいいろの夕陽。夕陽が照らす人々の営み。春夏秋冬。路地裏のノスタルジア。非日常的な事柄を電話で話す3人の郵便配達員。
やがて日常の単調さを象徴するものへと変わっていく積み木遊び・・・。
モノに頼らずに人類が大地を踏み鳴らし、踊る、原点回帰。
アジアを目指して歩き出す原人の大陸移動のようなラストに強い戦慄を覚えた。
それから特記すべきは会場の門をくぐると、つげ義春原作、石井輝男監督の映画「ねじ式」で主人公が迷い込む世界が具現化されたような木造の屋台村が現れて、その先に縄文時代の竪穴住居を模した物、更に地球のような、太陽のような巨大な円形のオブジェ、その奥に聳え立つ体育館にくねくねと会場に繋がる底板が、現実と非現実世界の境界線をつないだ”ろじ”として機能していた空間。とても素敵だった。
満足度★★★★★
ダメ人間パラダイスへようこそ。
社会性に乏しく、人との会話が長続きしない。
基本、なげやり。わがまま。身勝手。恐ろしいほどマイペース。奇妙、奇天烈、ダメ人間。そんな風に一般的にカテゴライズされてしまうような、しかしながら強烈な個性やらエネルギーやらを放出しているひとたちばかりがそれぞれ、何やらぼそぼそとやっているようです。
ふわふわしてますね。失うものなど何もないからでしょうか。あまり危機感もないようです。
でも、これが何だか妙にしっくり来るんです。そして、好き勝手に振舞えた時に集団として成立してしまう不条理さが現代っぽくもあり、超現実的でもあり、いわゆる”夢と現実を混同しがちな若者”的なさじ加減が絶妙です。
後半、ある出来事をきっかけに全体がゆるやかな狂気となってじわじわと上昇していく様は凄まじいですが、お腹が空いたのでコンビ二にお弁当を買いに行く時のようなフットワークの軽さで観劇しても全然大丈夫です。
ネタバレBOX
80年代に一世を風靡出来なかった芸人、孔子大先生の弟子たちは師匠の事務所に入りびたりだらだらと、非生産的に過ごしている。
大先生は沖縄に仕事に行っていて、テレビのニュースによると、何でも沖縄にミサイルが打ち落とされたらしい。先生の安否はわからない。
弟子たちは、明日予定されている草野球をするか否か考えるが、何分、やる気がないひとたちなので、議論することも、先生の安否を心配することに対してもだんだん”やる気”をなくしていく。
もちろんヒトの話に耳を傾けることに対しても”やる気”がないのでどうしても話が一方通行になるが、そこを何とかしようとする”やる気”もない。
それではコミュニケーションとして成立しないだろう。と本来ならば突っ込みを入れるところなのだが、”やる気”がないことだけは弟子たちに共通しているためか、一定の秩序は保たれているのである。
先生が死んだらどう思う?と聞かれて「ワーと思う」と答えるアラタの俗っぽさ。川でナンパされてきたメカルの腐女子っぷり。事務所の雑務を何なくこなす、事務所の近くにコンビニしかなく、酒を買うしかなく、アル中になるしかなかった。と言い訳する女、コマキリ。孔子大先生のゴーストライターを務めるサンサンに至っては、弟子の中では一番まともな人間に見えてきたりしてくる始末なのだ。そして、リアルというよりも、ナチュラルという言葉の方がしっくりと来るような空気感が時間を追うごとに漂いはじめ、ほのぼのとした気持ちにもなり、時折笑ってしまったりもするのだが、しかし後ほど冷静に事を追っていくとやっぱり何かがおかしいのである。その何ともいえないぼんやりとした違和感にも似たおかしさは、舞台に何かが存在していることへの異常さに対し、どれだけ親身になれるか、というジエン社の精神論的な部分が反映されているように思えるのだ。そして論理的な側面だけで捉えるだけではなく、舞台に存在する異常さ(=おかしさ)を、お笑い芸人のおかしさとトンチのように掛け合わせ、ステージ上で結果を出すおかしさは、オカシすぎてブラボーとしか言いようがない。
とどのつまり、孔子大先生の事務所だけが行き場の無い人間たちの、心のよりどころになっているやるせなさと、事務所にいたら辛うじて生活できる安直さに苛まれながら、感傷的になることも、社会のせいや自分のせいにすることにすら”やる気”をなくした人たちの、虚空にうたうレクイエムが心の奥にずっしりと響く。
満足度★★★★★
演劇はひとを幸せにするか。
今回このお芝居をはじめて日本で上演するにあたり、セルビアの歴史的背景、心情、文化を理解し、受け入れることからはじめられたことに、深い尊敬を抱きました。
一滴の血のしたたるにおいまで漂ってくるかのような繊細な演出、色味のない淡々とした舞台の中で繰りひろげられる演技は、配役の枠組みを超えて、とても生き生きと輝いていました。そして、観るひとを選ばずにすべてのひとに楽しんでもらおうとする姿勢が素晴らしく、それは本来の演劇のあるべき姿なのではないか、と痛感致しました。深い共感と感動を与えてくださったこと、この作品を観る機会に恵まれたことに心から感謝いたします。
ネタバレBOX
ナチスの指揮下にあるセルビアのウジツェでは毎日多くのセルビア人が殺害されて家族を失った多くの人々が喪に服し、暗い影を落としている。
そんな失意に暮れた町にやってくる(おおよそ場違いな一座)流浪の劇団ショパロヴィッチ巡業団。
ウジツェの人々は彼らを、こんなご時世に化粧をして派手な衣装を着て、芝居をする。なんてお気楽な人たち!と言い放ち、ジーナに至ってはパンは食べてたらお腹が満たされるけど、演劇は観てもどうってことはない。という考え。
劇団員は、パンを食べることと演劇を同じに扱うのは、優劣を競い合うことではないと主張するが、洗濯して、ご飯を作って、掃除を毎日するだけのジーナにはそれが理解できない。
そして、会話を遮るかのように聞こえてくる銃声におどおどしながら暮らしていて彼らの生活は心の豊かさと隔絶した場所にある。
そんなウジツェの人々の心情をあざ笑うかのように現れる男。
自分のことを『潰し屋』と名乗る彼は、ドイツ軍に殺されたセルビア人の内臓をえぐり出し、全身をムチで叩き、広場の絞首台にみせしめのようにして死体を吊るす。全身血まみれで奴が歩く度に地面にくっきりと血の足跡が残る野蛮でグロテスクな男。
ある時、ジーナの息子が何も悪さをしていないにも関わらず、警察に逮捕されてしまう。潰し屋の手に渡らないか危惧するジーナと街人たちは、闇夜の中刑務所へ向かう。
その道すがら、川で泳ぐソフィアの元に、突然現れる潰し屋。
彼はソフィアを痛めつけようとしたがソフィアは自分を怖がらなかったため、それを止める。草原に生えるいくつもの薬草や花の名前、その効能を教え合った後でソフィアはどうしてあなたは潰し屋になったのか聞く。
彼は何かが足りなかったからだ、と潰し屋は言う。
ソフィアはあなたをどこかへ連れて行ってくれるかもしれない。と言って、なでしこの花をひとつ掴んで彼に渡す。
ソフィアと短い会話を終えた後、潰し屋の血の足跡は消えていた。
時同じくしてフィリップは、舞台の小道具の”木の剣”を持ち、刑務所へ向かう。彼は実はテロリストで、”この時をずっと待っていた”。
フィリップは芝居をすることで警察を欺き、ギーナの息子を救い、彼のロマンティックな遺書だけが残る。皮肉なもので、巡業団はウジツェの人々に、シラーの『盗賊』の演劇ではなくフィリップの死によって感謝されるのである。
そして、喪に服す理由からこれまで白い服を着ることをこれまで拒んでいたシムカがキレイな白いドレスで登場し、巡業団を見送るところで話は終わる。
巡業団とウジツェの人々の関係性が、戦争の当事者である国と傍観する国として捉えられるような構図が非常に興味深かったです。たとえばギーナの息子が何も悪いことをしていないのに、警察に逮捕されても巡業団は、積極的に助けることを行わない。(彼らには演劇の素晴らしさを伝える使命があり、生活があり、生きていかなければならい故。)
それから演劇は戦場で必要とされ、また人を幸せにするものか。という難問。
演劇にはひとの人生を変えてしまう力があり演劇はひとを生かしも殺しもするということなのかという疑惑。
不思議なもので、この物語の中では、戦争を日常として受け入れざるを得ない街の人々の暮らしがリアルで巡業団はどこか浮世離れしていて、現実と最も遠い所に存在しているとすら思えます。それでも表現の自由が不自由の上に成り立っていて革命には犠牲が伴うのは否めません。
得るものがあれば失うものがあるのも致し方ないことです。
しかし芸術の呼吸は息絶えることなく後世に語り継がれなければならないものです。なぜならば、クーデターを起こせるのは、いつの時代も芸術だけなのですから。
最後、巡業団も、街の人々も、警察官も、ナチスもつぶし屋も、舞台に登場した全員がそれぞれ楽器を手にして明るいマーチを演奏したのは、世界がひとつになることを願うことへの回答だと信じて・・・。
満足度★★★
シリアスすぎない。
個性的なキャラクターを置くことで殺伐した空気が緩和され、コミカルな笑いまで飛び出して、会場を笑いの渦に巻き込みながら、安全、戦争、平和について考えさせられるスケールの大きなお話ですが、堅苦しくありませんので安心して楽しめました。
時間にして約90分。本当に会話だけで勝負する役者さんの力量がないと成立しないお芝居は、チームワークのよさが滲み出ていました。
舞台美術、非常に迫力があります。メカニックな造形物がお好きな方、必見ですよ。
心が覚醒する瞬間に
命懸けで挑まれた一ことがひしひしと伝わってきました。
ネタバレBOX
開演前、シングルベッドで横になっている男と女。
ビートルズが流れてる。愛のうた。
時々キスをしたりじゃれあったりしている微笑ましい関係。
ふたりはまるで、シド&ナンシー。
午前5時。男は部屋を出る。
再生する記憶。
午前4時48分。
彼女の心が立ちあがる時刻。
それから1時間12分間、彼女は正気でいられるという。
彼は彼女の意識下の一番深いところにクリックする。
彼女と向き合うために。
恋人と担当医師を演じることを繰り返し、あらゆる手立てを使って交信するが
彼女の心はまるでピースのかけたパズルのように、どう組み合わせても完成しない。
よって、ピースの欠けた部分は彼自身が補うことになる。
客席に背を向けてデスクに向かいキーボードを叩く男。
ほほ笑む彼女のポートレートに笑いながらオモチャのピストルをぶっ放す男。
サイケデリックなグラフィックスが映し出される大型プロジェクター。
ざらついたロックンロールミュージックを時々、口ずさむ男。
酒を飲み、精神安定剤を飲み、頭を抱えてうなだれる男。
すぐにディレートされる、記憶の断片。
記憶が更新されていくテープレコーダー。
宙ぶらりんの”わたし”の告白。
崩壊していくアイデンティティ。
彼女は彼女自身が納得し、安心できる言葉を捕まえようと試みる。
彼女は自分自身に出会おうとする。
彼女は彼女が嫌いだ。
白い腕に自然な動作で引かれる無数の赤い口紅はリストカットを暗示する。
自分を傷つければ傷つけるほど、痛みに慣れ、強くなれるような錯覚。
血で塗り込められていく心の空白。
彼女は死にたい。
彼女は生きたい。
彼女は彼女と対峙する。
彼は彼女と対峙する。
彼は彼女を助けようとする。
彼は彼女を求めようとする。
彼は自分自身は救えない。
彼は彼女が投げる走り書きのメッセージを必死に追いかけて掴み取ろうとするが追いかければ追いかけるほど、心理的な距離感はどんどん遠ざかっていく。
彼らは理解し合うことを恐れ、欲していたが、
どんなに対話を続けても理解し得ないことを知っていた。
それでも理解し、愛そうとする彼の熱意が彼女を加速させたのか?
彼女は光の速さで燃え尽きた。
恐ろしいほどに美しく。
彼女の病室のベッドの窓からはうっすらと光が差し込んでいて
それはとても幸福そうな死に見えた。
これは、ある男がサラへ宛てた究極のラブレター。
でたらめに鉛筆で殴り書きしたデッサンがたくさん詰まったスケッチブックをいたずらに交換し合う真剣なお遊び。
本人ですらどんな思いで描いたのか説明できないようなぼんやりとしたそれらにわたしたちは共鳴し、恍惚し、熱狂する。
わたしたちはいつまでも彼らの物語を忘れない。
想いを抱えて、歩いていく。
そしていつの日か、いろんな色の油絵の具を塗りたくって、ゴージャスな額縁なんかに入れて、誰かのハートに飾るかもしれない。
満足度★★★
雨はまだ、降らない。
この4編のオムニバスは観る側のセンスが求められるお芝居です。
積極的に参加しようとする心意気がないと、サインを逃してしまうこともあるでしょう。
しかし昨日と同じ雲の形をつくらない空ははまるで人間のうつろいやすい心を映し出す鏡のようですね。
ネタバレBOX
1話:悪意の研究
ひとりの女子高生がビルの屋上から花瓶を落としている。
その行為を止めさせようとする住人の女A(仮)。
屋上の様子が気になってしゃしゃり出てくる隣の住人の女B(仮)。
Aは、通行人の頭に花瓶が当たったら大変だから、やめなさい、と諭す。
Bは、そんなこと言ってもムダと言う。なぜって、通行人に花瓶が当たる確率と当たらない確率は50/50で変わることはないのだから、という持論を展開し、こんなわかりやすいことはやらないで、もっとズルくなりなさい、と諭す。
結果、女子高生は花瓶をビルの屋上から落とす行為をやめる。
後日、刑事が現れる。このビルのオーナーがメッタ刺しで殺されたのだと言う。
事情聴取をされるAとB。
なぜって犯人は、彼女だから。(たぶん)
犯罪の起きる可能性(確率)と降水確率を掛ける斬新さ!
まちがった考えを正そうとする時にひとはよく、”モラル”という言葉で片付けようとするけれど言葉の意味は理解できても、それ以上の領域に人が踏み込む危険性を阻止するのは否めない恐怖についての掛け合いが非常に面白かったです。
2話:Fool on The Roof
屋上にぶつぶつひとりごとを言っている貧しい身なりの浮浪者。
彼は恐らくかつて兵士で、デッキブラシを銃に見立て空に向かって攻撃している。
そこに現れるアルバイトの男。
このビルがもうすぐ取り壊されるので浮浪者を退去させるミッション遂行のために来た。
浮浪者はマイワールドに入ってるので、なかなか聞く耳を持ってくれない。
そんな折、不思議な女が現れる。
たぶん、彼女は水の女神でこの世界を滅ぼしに来た。(そしてこのビルはバベルの塔)
浮浪者は天に召され、アルバイト君は浮浪者になる。
時空を超えた、スペクタクル。
3話:オドル
は、非常にイメージ的な作品です。
アマガエルや先生、と呼ばれてるひとが出てきます。
よく雨蛙が鳴くと雨が降る。とかいう言い伝えがありますが
先生と呼ばれるひとは天候をどうするのか決めていて、アマガエルはそれに従う・・・。
リボンを使った踊りと幻想的な照明が印象的な不思議なお話です。
4話:彼らは雨を連れてやってくる
盲目のおばあちゃんは、ビル清掃員のひとりを故人だと信じ、さまざまなメッセージを送ります。
ビル清掃員は同僚にはやし立てながらもおばあちゃんの気持ちを踏みにじらずにやさしくくみ取って”生きること”を約束します。ちょっとホロっとくるようなお話でした。
生と死の曖昧な境界線で
言葉を記号として認識させるミニマルな情景描写と張りつめた沈黙によって紡がれていく信頼は言葉を追い越して感情をやわらかに愛撫する。
ネタバレBOX
ルーベックは彫刻家で確固たる名声は彼を苦しめたが、名声は彼を生かしもした。
中身がカラッポの他人によく似せた彫刻(フェイク)を作る、自分はニセモノなんだとあざ笑い、絶望しながら自分の存在をなくすことでやり過ごす空虚な日々を送る彼にとって、若い妻マイアは不要な存在で突然現れた、彼に名声を与える彫刻のモデルとなった女、イレーネこそが本当の人生を生きるためのたったひとつの希望だった。だが、出会って間もなく彼女は残酷な言葉をルーべックに叩きつける。
魂をあなたに差し出したから私はもう生きられなくなったのよ。
あなたは私のすべてを世界の人々に曝した・・・。
ルーべックは自分のなかに横たわる大きな虚無感を、イレーネはすべてを捧げた見返りを期待しているそれは奪い合い、与えあうものがなくなった瞬間に消滅する関係性でしかなく、劇的な再会という運命のいたずらに翻弄され、死神に導かれ、霧がかる深い森の頂きへと足を進めていき・・・。
そして彼は気が付く。
自分の命を放り投げればイレーネは救われ、報われるのではないか?
ルーべックにとって死は、破滅や憧れではなくてイレーネの願いを叶えるための手段であった。もしかしたらそれをひとは、愛と呼ぶのかもしれないが、最後のあのすべてから解き放たれた、けれど不安そうなルーべックの顔はほんとうにこれでよかったのだろうか。と彼自身、永遠に問い続ける命題からは逃れられないように思えた。
イプセンの死から100年以上経っても尚、何のために生きるのか?
という問題の、明確な答えは出ていない。
欲望に正直に生きることもいいだろう。
人間に対する、根源的な憎悪を抱き、疑い深く生きるのも、いいだろう。
・・・ひょっとすると自己犠牲のみでしか人は、生きることへの不安を拭うことはできないのかもしれない。なんて、漠然とした想いを胸に抱えながら今晩は眠りにつこう。
満足度★★★★
やさしい嘘とはったりについて。
人間は誰しも自分自身を肯定し、あわよくば人様からも認められたいと願う欲張りで狡猾な生き物です。
ひとりの青年のモノローグからはじまるこの物語は、人を信じることを忘却した人でなしが、人を信じる気持ちを取り戻すまでの過程が描かれます。静と動。光と影。生と死。弱さと強さ。相反するふたつのコントラストを強調しながらも柔らかな雰囲気が舞台全体に流れるのは、人とのつながりを本当に大切にしたいという気持ちのあらわれではないでしょうか。見終わった後は、何だか無償に誰かにやさしさをおすそ分けしたくなるようなあたたかな気持ちになりました。
ネタバレBOX
髪はボサボサ、スエット姿の冴えない作家、宮坂の元を訪れたひとりの青年。
彼は宮坂に「これはトップシークレットなのだが、あと1年で地球は滅亡する。人々が最後に、幸せだった。と思えるようなハッピーエンドで終わる話を書いて欲しい。5000万円で。」と持ちかける。(実はコレ、宮坂を苦しめるために青年のついた、ビッグジョーク)
自分には秘密にしているが、奥さんが妊娠していることを知っている宮坂は、
破格の報酬に目がくらみ、ふたつ返事で承諾するが中々思い通りに書けない。
時同じくして、青年はある女の子に出会う。彼女はセツナといい、重い病気をわずらっていて、そんなに長く生きられないが、明るくてやさしい女の子で”幸せ”を集めている。
彼女はボイスレコーダーを持ち歩いていて、
「あなたの幸せは何ですか?」といろいろなひとに聞いては録音している。
たくさんの幸せをあつめたら幸せになれる気がするから。なんて言いながら。
自分にはないものを持っているセツナにだんだん心を開いていく青年。
自分には幸せなんてない。と言う殺伐とした青年にある日、読んだらとても幸せな気持ちになれる本があるので読んで欲しいと言って彼女が持ってきたのが宮坂が書き、12年前に書籍化された唯一の本。
実は青年は、宮坂が本を出した出版会社の息子で、父親が数年前に自殺をした父のすぐそばには宮坂の書いた本があり、宮坂のせいで自分の父親は死んだと信じ、宮坂を心から憎んでいる青年はセツナの好意を跳ね返し、彼女が持ち歩いていたボイスレコーダーを壊してしまう・・・。
そしてセツナが危篤に陥っていることを知った青年は、
「あなたが幸せになることが私の幸せだ」とセツナが言っていたことを思い出し、宮坂の元を訪れる・・・。(この後は劇場にてご確認ください)
補足:
宮坂と奥さんの住んでいる四畳半フォークソングが似合いそうな和室が舞台の中心に配置され、上手と下手を使って青年とセツナの話と、宮坂の友達の売れない作家(宮坂に金を借りに訪れる&ウクライナへ逃避する予定)とホステス(元同級生)の3つの話がほぼ同時に進行していきますので誰にスポットを当てて観るかによって、印象は大きく異なると思われます。(ちなみに私は、青年にスポットライトを当てて鑑賞しました。)
満足度★★★★
窓際に時代を投影させて
時代が変われば窓から映る景色も、町並みも、人もおのずと変化する。それまで貫いてきた何かを変えて柔軟に対応し、ニーズに応えていかなければ生き残れない危機に直面することも、ある。都市開発、バブル崩壊、就職氷河期、金融危機・・・。時代の残した傷跡は完全に治癒しないまま、新たな傷をつくっていく。自らの命を犠牲にするほか、すべのない悲しい現実は事実、ある。「あると思えばそれは、あることになる。」その言葉が今も耳から離れない。と書いたところで何だか重くてとっつきにくい内容のように思われるかもしれないが、そんなことはまるでなくて、一般的に好き嫌いが分かれやすいホラーという分野で誰でも楽しめるエンターテイメントを創るという離れ業を北京蝶々はやってのけた。誰にでもオススメできる芝居とはまさこのことを言うのだろう。ビフォアー、アフター両方で是非楽しみたい作品だ。
満足度★★★
夏は終わるが人生は終わらない。
音と映像、空間の使い方がとてもセンスが良く、ぐんぐん物語に惹きこまれていきました。海の家。という期間限定でしか成立し得ないある種、浮世離れした場所において、とりとめもなく交わされる会話は、何も言わなくても分かり合えるような、イージーな関係性でないために、注意を払いながら行われ、善と悪に割り切れない何かを抱えているようにも思われました。 海の家はある意味、自分と社会をつなぐコンセントのようなものなのかもしれません。夏が終れば、海の家という名のコンセントは自動的にOFFになる。だからこそ彼らは思いきり楽しみ、笑い合いあおうとするのかもしれません。社会という荒波に備えて。
安保闘争になぞらえて。
閉塞感が漂う世論は現代と共通するものでもあり、ブルジョア階級に生まれ育った青年が己の境遇に苦悩を抱え、否定しながら理想郷を目指そうとする姿勢は非常にエモーショナルで、二十歳のエチュードとシンクロした。苦行としか思えない上映時間、登場人物がカタカナの名前ばかりで時折混乱したが、これもまた、良い思い出ということで。