丘田ミイ子の観てきた!クチコミ一覧

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ずれる

ずれる

イキウメ

シアタートラム(東京都)

2025/05/11 (日) ~ 2025/06/08 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

演劇を初めて観るアートの仕事をしてる人(実は結構いる!)とシアタートラムへ。ここは間違いないものを、という思いで選んだ。「凄いものを観たことはわかるけど説明する言葉が見つからない」「こうなったら演劇もっと観たくなる」。その言葉に心から誘ってよかったと思った。

十数年前私が初めてイキウメを観た時もそうだった。鋭く繊細な戯曲、非現実的な展開に予見的とすら思えるリアリティを、目に見えぬ耳では聞こえぬものの存在を握らされる。無機質な美術の中言葉によって露わに立ち上がる生命の活発、有機的風景に息を飲む。照明と音楽、そして沈黙と行間の雄弁さ。ここにきて、ここまできてもなお劇団の、演劇の力を更新し続ける圧倒と魅力にただただ心身を揺すぶられる。

配役そのものが魔法の様にすら思える俳優の所業、美しさと悲哀。奇怪に侵食される世界、そこに浮上するのはいつだって可笑しく愚かで生々しい人間の姿で、今回ももれなくそれに射抜かれた。普遍的でない物語の中で普遍的な人間の業をどこまでも詳らかにする卓越した技術に目眩を覚える。イキウメがやっている事はずっと変わらず、それらが変わり続ける世界やずれ続ける人々に向かって放たれる。その鋭角に私は自身の愚かな生を見る。ずれているのはこの世界か、はたまたこの魂か。果たして。

『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』再々演ツアー2025

『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』再々演ツアー2025

趣向

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2025/05/09 (金) ~ 2025/05/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

CoRich舞台芸術まつり!2024GP作でもある『べつのほしにいくまえに』にも通じる、やりきれないこの社会でなんとか明日を生きるために、できたら他者と共に生きるために居場所をつくろうとする人々の物語。

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ネタバレBOX

時がコロナ禍ということもあり、あの頃は一際それが困難だったこと、そのことにより体は罹患せずとも心を闇に追いやられがちだったことを生々しく思い出す。虐待やグルーミングによるトラウマや希死念慮...様々な理由によって心に傷を負った人たちは『サロメ』の読書会を機に演劇の上演を試みる。医療・介護機関や企業など様々なところでケアや相互理解の文脈で演劇が運用されることはあるが、本作はそのリスクも掬っていたように思う。「演劇」というものが心身に与えるショック、登場人物にエンパシーやシンパシーを抱くことがもたらす心的影響や負担。ケアの物語の側面を大いに持ちながら、「演劇の凶暴さ」が念頭に据えられていることに私は深い信頼を寄せた。

一方、登場人物の大半に自身の生い立ちや心中を語る場が用意されていた中、学生と不倫関係にあった年配の講師の女性だけがそれらを自身の言葉で話す機会が与えられなかったことについてもいつまでも考えていた。『サロメ』に準えるならばそれは自然であるし、彼にとって彼女は加害者で、彼女を信じていた人々にとってはたしかに裏切り者であるので真っ当な判断でもある。ただでさえ傷ついているあの場の人々をさらに傷つける言葉が必要だとも思わない。だけど、それでも私は彼女の言葉が聞きたかった。「不倫させられていた」と主張する彼が学生である以上彼女の罪は重い。だけど、それすらも彼女の口から語られなかったことについて私は考え続けてしまった。女性から男性へのグルーミングや性被害やハラスメントがきちんと扱われた戯曲に意義深さを感じるとともに、あの二人にどんな被害と加害が、そして依存あるいは共依存があったのかを私は知りたい。知りたいから想像をする。教師と生徒の不倫という出来事にのみ回収しないように想像をする。そうしているうちに、きっとあの場にいた人々も家に帰って一人になってからこんな気持ちだったかもしれないな、と思った。本当は誰だって他者の存在をよすがに生きるなんてしたくない。だけど、ついやむにやまれず救いを求めてしまう。祈りを見出してしまう。あの光景が、この体感が伝えていたのはそういうことだったのかもしれない。そうしてやりきれないこの社会でなんとか明日の前にまず今日を生きるために。
アタラント号・サマーベッド・浮遊

アタラント号・サマーベッド・浮遊

端栞里と高熱

早稲田小劇場どらま館(東京都)

2025/05/09 (金) ~ 2025/05/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

味変of味変of味変を堪能する90分。一番好きが選べない程各々の余韻が大きい。sweetな装いに包まれながら毒づく端栞里、舞台を駆け回りやっぱり毒づく端栞里、ロマンスと手を取り合ってそれでも毒づく端栞里。赤ちゃんみたいで猛獣みたいだった。「僕らは天使で悪魔さ、どちらも愛の化身だよ」はイエモンの歌詞だが、まさにそんな姿が身一つで体現されるのを目撃したような。川上さわ、マツモトタクロウ、こんにち博士という3名の作家の腕が引き起こす最高温度&最大風速の交互浴。口悪く暴れ回る俳優を浴びる清々しさよ。LOVE LOVE LOVE SHOW〜!

再生数

再生数

よた

水性(東京都)

2025/05/09 (金) ~ 2025/05/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

戯曲に縛られ過ぎず、演出も俳優も果敢に空間や時間を更新し続けようとする姿がとても印象的だった。演劇と連動して"再生"される映像も効果的で、視聴者であり観客でもあるという錯乱状態も大きな体感に。現役大学生の若いカンパニーと俳優陣、今後どんな展開をしていくのか気になります。

あるアルル

あるアルル

やみ・あがりシアター

北とぴあ ペガサスホール(東京都)

2025/04/30 (水) ~ 2025/05/06 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

誰かを深く愛するということは、その人だけの"あるある"を一つ二つと見つけていく行為なのかもしれない。そしてそれは私やあなたが思うより遠く永く続いていく。生まれくる人を祝し、去りゆく人を弔う。この後の人生、幾度となくこの演劇を思い出すと思う。
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ネタバレBOX

感想を書き進めるごとに胸が詰まる。落ち着くために入ったカフェで断続的に涙を流し続ける情緒が大変な人になってしまっている。もう会えない大好きな人を今はすごく近くに感じてここをはなれられない。大切な人みんなと分かち合いたい演劇ここにいる間ここにいなかったんじゃないかと思うくらい遠くに、そしてあの人の近くにいた気がする。風に舞う黄色いポストイットをいくつも追いかけていた。

重い腰をあげてそのカフェを出る時になってお話してみたかった方々が同じお店にいたことに気づき、少しだけ話せた。

全部全部忘れたくないな。昨日から心を占拠されてしまった。演劇は勿論それぞれの好みに尽きるのだけど、それでも観てほしい人の顔が次々浮かんだ。私はこれを人生の弔いと祝福の物語と受け取りました。

普段こういう言い方はしないようにしてるんだけど、先日のはえぎわに心打たれた人には観てみてほしいと思ったりもしました。お話も演出も全然似てないしどちらも独自の個性を追求した演劇だけど、なんというか観終わった時の景色の見え方に通じるものがあって、この作品もあの時みたいに空席が次々埋まるようなことが起きていい作品だとも思った。演劇は情報が少ないし、タイパやコスパが決していいとは言えないし勇気がいると思うから少しでも情報の足しになるといいなと思い書いてみました。ちょっと普段言わないことを言ってでもおすすめしたいと思った作品でした。

大切な誰かを失ったことのある人とこの作品について話したい。

私はそう思った。
惚て並み拝見

惚て並み拝見

惚てってるズ

ユーロライブ(東京都)

2025/04/25 (金) ~ 2025/04/30 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

無人島に男3人、そこに突如女が1人現れて...

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ネタバレBOX

という筋書きが招く諸々の危うさにヒヤヒヤしつつも、どちらかというとホモソーシャルとそこ特有のヒエラルキーや権威勾配の方が色濃く描かれていて、(恐らくあえての?)不穏な結末も含めて示唆的な作品に思えた。2作目は端的な情報を削ぎ落とした高度な会話劇。これ、あれなどの指示語で通じるコミュニティのノリやムードが生々しく立ち上がる。出ハケも有効で、明け透けなやり取りや特有の偏狭さを一切の説明なくして伝える石黒さんならではの作演出(珍しく標準語!)とそれをあっさり体現する俳優の技に唸った。3作目も地元特有の閉塞感の中、人間関係の錯綜が描かれる。権力のあるイヤなやつとシフト貢献度の高い変態、果たしてどちらが職場にとって有害か。というアジェンダをよそにフェティッシュによって妙な繋がりを果たす男女。同僚に自慰の材料にされるのも、いつも片手間で会話が成り立たず、親や近所にとって"いい妻"になるよう矯正を強いる夫と店を切り盛りするのもどっちも地獄だけど、今逃げたいのはどっち?という極めて地獄的問いに私は刹那的リアルを感じたりも。好意のあるなしによって地獄度全然変わるなあとか...同じ立場なら自分はどうするのかなとか...考えすぎかもしれないけど。そんなこんなで「笑い」だけでは乗り切れぬ、乗り切らせぬ、一筋縄ではいかない作品群。前作とは個性の全く異なる作家や演出家と手を取り合ってガラッと違う作風に挑むスタイルにも、ストイックなアプローチや洗練されつつも大体な身体の使い方にも、俳優の果敢な惚て並みを拝見。次回は何するの?!
逆光が聞こえる

逆光が聞こえる

かるがも団地

新宿シアタートップス(東京都)

2025/04/24 (木) ~ 2025/04/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

加害とその先を描く作品が多い中、加害の前とその根深さが掘り起こされていた。
過去はぼんやり眩しくて、時に逆光の写真の様に見える。そうして見えにくくなってるもの、あるいは見えにくくしたものに目だけでなく耳をもすませるような。文字通りそんな作品だった。

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ネタバレBOX

私は昨年観た加害者の更生を描いた演劇を受け止めきれず、長い間引きずってしまった。だけど、いや、だからこそこの作品を観られてよかったと心から思った。
学校でのいじめ、会社や創作現場でのハラスメント、そして性加害。それら暴力を決して同列に、相対的には扱わず、しかしどの問題の根元にも潜むものをともに探すような時間だった。簡単に答えを出さない、ドラマに持ち込まない真摯さに貫かれた作品だった。チラシの写真、観る前後で全く印象が変わる。見えていなかったのか、そう思い込みたかったのか。どちらだろうと問われた気がした。そう"自らの加害性を見つめる、冷たい春"だ。加害も被害も発生した以上消える事はない。和解や更生は収束でも終息でもなく、そこを通過して人生が続くだけ。そして誰もが何方もの可能性を等しく持っている。その前提から物事や人々が照射されていたことに私は光を見たのです。
今の私に必要な演劇だった。
見上げんな!

見上げんな!

万能グローブ ガラパゴスダイナモス

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2025/04/24 (木) ~ 2025/04/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

あるシーンで高い所にいる人々を食い入るように見てたら首が少し痛くなって、ああこれはこの人たちの痛みと切実の欠片なのだ、と思った。何年もの間、空高く、遥か遠くを祈るように見上げた彼らの。見上げてばかりいないで前を向こうとも思った。今を見落とさないように。
福岡出身の人は故郷が恋しくなるかもしれないし出身でない人はただただ福岡に行きたくなるかも。『見上げんな!』はそんな演劇だった。コラボ&ツアー公演の本気を見た気持ち。福岡で観てたら間違いなく観劇後はタクシー乗って(ここ重要)聖地巡礼、ラーメンも食べる。もちろん小山田壮平を聴きながら。

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ネタバレBOX

誤解がなきよう念のため。人々がずっと高い所にいる訳ではないし、見上げなくても観られるのでご安心下さい(笑)

ふと舞台の上を仰ぐように人々を見つめる自分と空の彼方を見上げ続ける人々の姿が重なって、その場その時間に立ち会ったような気持ちになったのでした。この追体験感、観た方と話したい。
小山田壮平さんライブ、選曲も含め心ふるえる時間。演劇部の頃のことや椎木さんとの出会いと今、お母様のお話にも胸がいっぱいに。しばしば子をおいて演劇の仕事に出かける自分にとってもお守りみたいな言葉だった。忘れない。
遠巻きに見てる

遠巻きに見てる

劇団アンパサンド

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2025/04/18 (金) ~ 2025/04/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

日常から望外の展開を生み出す発想とその描写力、それを実現する演出と俳優(と秘密装置)の技術たるや!遠巻きで見るには勿体ないので最前の食い気味で観ました。別日に娘も観劇。我が家の遠巻きに観た率75%、エンゲルに迫るエンゲキ係数!困った顔で困り続け、最後に観客を最も困惑させる西出結さんが素晴らしかったです!

幽霊のような青

幽霊のような青

翠月瞳自主企画

スタジオ空洞(東京都)

2025/04/18 (金) ~ 2025/04/22 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

『銀河鉄道の夜』を下敷きにラップやダンスを交えつつ「演劇」がなくなった世界とそこに生きる人間の孤独≒俳優の孤独が描かれていた。

ネタバレBOX

と私は感じたのだけど、俳優によって俳優の孤独が作演される以上観客としてはある種の反射としてどうしてもそこに自己憐憫やナルシズムを感じ取ってしまう。のですが、演劇がなくなった世界で孤独を感じるのは俳優だけではない。そう立ち返った時に原作に通底するメッセージ性が色濃く乱反射する様でもあった。自己犠牲もその一つ。何の/誰のためにと問うシーンがあり、これがあるのとないのとでこの作品の印象は全く違うものになると思う。男は何度も独りぼっちだ、と溢すが、その度にそこでは終わらせまいと言葉が降り注ぐ。海や空やその青が誰のものでもないように演劇も孤独も誰のものでもない、とでも言うように。それだけに、もう少し"二人の物語"感からの脱出も見たかったようにも思った。構図としてそうならざるをえないことは分かりつつ、もっと原作から解き放たれてほしいという思いもあった。

列車というある意味ワンシチュエーションながらラストにかけて拓けていく空間の中、そんなことを思っていた。そして私は踊り子を演じたアヤ・アラネイさんから目が離せなかった。はける度に早く出てこないかなとすら思うほどだった。ずっとここから見ていたい身体性。ずっとどこかから見られているような瞳。美しくて妖しくてどこかこわい佇まいだった。踊り子の存在があるのとないのとでもやはりこの作品の印象は全く違ったものになると思う。衣裳も好き。
ハローボイジャー

ハローボイジャー

アヲォート

インディペンデントシアターOji(東京都)

2025/04/16 (水) ~ 2025/04/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アヲォート『ハローボイジャー』、そしてインディペンデントシアターOji柿落としへ。
様々な葛藤を抱えながらの船出に、数々の思い出を含みながらの新たな始まりに立ち会いました。
時に静かに、時に荒々しく。海に浮かぶとたまらなく小さく心細い私たちは、海のように果てしない心を抱えて生きている。(以下ネタバレBOXに公式にお寄せした劇評を転載します)

ネタバレBOX

『小さな声の届きにくい世界で、それでも私たちは「ハロー」と叫ぶ』/丘田ミイ子

5歳くらいの頃だっただろうか。隣に住む同じ歳の幼馴染を半ば強引に誘って、2歳年下の妹の手を引いて、親に行き先を告げずに子どもだけで旅に出たことがある。旅といってもその行き先は家から徒歩10分ほどのスーパーの屋上にある小さな遊園地だ。アンパンマンカーやパトカー、『線路は続くよどこまでも』のメロディに合わせて小さな円周を2周だけ回る汽車、屋外を周遊できるパンダカーもあったけれど、その中で私がとりわけお気に入りだったのが、宇宙船の乗り物だった。おじいちゃんに連れて行ってもらえる時にだけできるそのアトラクションを楽しむ時間、私はここにいるようでここにはいない、どこか遠くへと勇ましく旅立っていくような心持ちでいた。「1回だけやで」と渡された100円玉をギュッと握りしめ、それがうっすらと手の平にくっつくほどに汗をかいた熱い手で宇宙船のハンドルを取る。その乗り物には無線機のようなものが付いていて、それを手にして「きこえますか、きこえますか」と私は叫ぶ。ややあって、少し遠くに立ったおじいちゃんが手を無線機に見立てて「きこえますよ」と笑って応答する。この瞬間がどうにもこうにも嬉しくて好きだったのだ。近所の公園で遊んでいた時、ふと天啓を受けるかのように「今すぐどうしてもあの宇宙船に乗りたい!」と思った私は、そんなこんなで隣の家のインターホンを押し、幼馴染と妹を道連れに宇宙へと駆け出した。
「ハローハロー聞こえますか。そこに誰かいますか。誰か聞こえますか」
ハロー、ハローと繰り返す度に切実さが増していく少女の声を客席で聞きながら、遠く遠くへ向かって声を絶やさぬ人の姿を見つめながら、私はぼんやりとあの瞬間を思い出していた。

演劇ユニットアヲォートの第二回公演『ハローボイジャー』(作・演出:佐藤正宗)は、港町に暮らす女子高校生4人が海に墜落した幻の宇宙探査機「ボイジャー3号」を探すべく漁船で太平洋を航海する物語だった。数々の歴史と思い出を含んだ「王子小劇場」がその名を「インディペンデントシアターOji」と改めたその柿落としに、奇しくも“船出”の物語が重なったこと。ある種の感慨深さとともに新たな始まりに立ち会う気持ちで観劇に向かった。
船内を模した舞台上に一人黙々と甲板を磨く少女の姿がある。漁師一家に生まれ育ったマミ(冨岡英香)は幼い頃から歳の離れた兄に漁船に乗せてもらっていたことから船の運転ができた。そんなマミに目をつけたのが、学校をサボり音楽ばかりを聞いているリカ(宮内萌
々花)であった。リカは波止場で偶然知り合ったアマチュア無線機に夢中のヨウコ(小野里満子)を味方につけ、「ボイジャー3号の第一発見者になって一躍有名人になろう」という計画を持ちかける。さらにその噂を聞きつけた、カメラを趣味とするチヨ(アラキミユ)がスクープ撮影目当てに参戦。最初は気乗りしなかったマミもそんな3人に押される形で渋々運転を承諾し、4人は太平洋へと乗り出していく。
舞台上で描かれるのはその出発から帰還までの約一ヶ月、つまり本作はおおよそ全編が海の上で繰り広げられる。ほとんど互いの素性を知らない4人は、物理的にも精神的にも荒波の航海をともに過ごす中で互いを知り、時にぶつかり、そして絆を深めていく。

と、こんな風にあらすじのみを書くと、物語としては他にも例がある、ありふれた“ひと夏の冒険”が想像されるかもしれない。しかし、本作で描かれていたのは「冒険」そのものではなかったように私は思う。そして、彼女たちが本当のところ探していたのは「ボイジャー3号」それそのものでもなかったようにも。
海の上ではたしかに嵐があり、エンジン故障があり、食料不足があり、そして極め付けには遭難がありと、ピンチに次ぐピンチを果敢にくぐり抜ける4人の姿があった。そうして予定よりも随分遅れ、彼女たちは無事救出されることになるのだが、こんなにも心細い状況下でありながら、彼女たちが「家に帰りたい」とはまるで思っていないように見えたのだった。本作が掬い上げていたのは、そんな心の海であり、波であったように思う。果てしない海にひとりきり、岸に向かっているのか、沖に向かっているのかわからぬ不安や焦燥を抱えた少女たちの姿がそこにはあった。
何にもやる気を見出せなくなっていたリカが本当は将来を期待されたテニスのプレイヤーで怪我をきっかけに周囲に見放され、自暴自棄になっていたこと。より大きなものを、強い景色をとカメラを構えるチヨがジャーナリストであった亡き母の幻影を追っていたこと。ゴミ箱に捨てられた型落ちの無線機を見つけた日からアマチュア無線機に異常な固執を見せるヨウコが人知れず親から暴力を受けたいたこと。そして、マミが海に出たきり行方不明となった兄を想って、来る日も来る日も使うことのない船を掃除していたこと。それぞれの胸に秘められた、それぞれ異なる孤独や喪失や葛藤が、俳優たちの繊細な表情の変化、揺らぎを映した瞳や声色によって少しずつ詳らかになっていく。そういう意味でこの海は、この船は、居場所のない彼女たちが自ら見出した、たったひとつの居場所でもあったのだろう。時にぶっきらぼうに、時にまっすぐと、ひとりぼっちの胸の内を少しずつ分け合うように大きな海の上でささやかな対話を重ねる4人の姿にそんなことを思った。
そうして、遭難する心と体を連れて、命からがら辿り着いたある島で4人はついにボイジャー3号を見つけ、この海に漂流していたいくつもの声を、そこに混線するマミの兄の「生きろ!」という声を聞く。
「どんなことがあっても声を出し続けろ!誰かに届くように!誰かが聞いてくれるまで!それはきっと、きっと聞こえる」
そんな兄の無線越しの必死の声に応答するようにマミは叫ぶ。ハロー、ハロー、ハロー、ハロー!
この兄の懸命な声は、彼女たちが背負っているいくつもの人生に、ひいては世の中で起きているいくつもの出来事に対しても置き換えられるように思う。
喪失や傷跡を抱えながら、「さみしい」、「かなしい」「こわい」、「助けて」といった声をあげられずにいた少女たちの小さく、しかし痛々しいほど切実な心の声。それを誰かに聞いてほしい、届いてほしい、そして願わくば、その声に誰かに答えてほしい、という祈りに重なる。「ボイジャー3号」は彼女たちにとってそんな祈りの集積、叫びのメタファーだったのではないだろうか。時に静かに、時に荒々しく。海に浮かぶとたまらなく小さく心細い私たちは、海よりも果てしのない心を抱えて生きている。無線から途切れ途切れに聞こえた声が、やがて少女たちのあげられなかった声になる。
「私たちはここにいます。海原にたったひとりぼっちです。この音を聞いていたら、誰か返事をして欲しいです」
海は海ではない。心の海である。心の音である。そうしてマミは一際に大きく叫ぶ。4人分めいいっぱい叫ぶ。ハロー、ハロー、ハロー、ハロー!

子どもだけで辿り着いた屋上遊園地はいつもよりもうんと遠く広く思えて、急に心細くなった。それでも私はあの宇宙船へと乗り込んだ。お金を持っていないので、当然宇宙船は動かない。無線機も動かない。「きこえますか、きこえますか」と叫んでも、答えてくれるおじいちゃんもいない。あの日のえも言われぬ不安と焦燥はもしかすると、「自分の声に応答してくれる人がいない」という漠然とした喪失や絶望からだったのではないだろうか、と今になって思う。それから随分経って、屋上遊園地は壊され、おじいちゃんも死んでしまって、他にもたくさんの喪失や絶望や、声をあげられなかった、もしくは届かなかった様々な出来事を経験しながら、私は大人になった。「さみしい」、「かなしい」、「こわい」、「助けて」…。そうした小さな声が未だ届きにくい世界を見渡すような気持ちで、私もまたあの少女たちとともに叫ぶ。空の彼方の宇宙船から海の奥底までくらい、遠い遠いその距離を睨むように見据えて、それでも諦めてたまるかと叫ぼう。ハロー、ハロー、ハロー、ハロー!
彼女たちの決死の声が、どうか本当の意味で岸にいる者へと届くように。届いて、この果てしのない航海がどうか本当の意味で終わりますように。そう願いながら、荒波を耐え忍んだ船のそばで頬を寄せ合う4人の笑顔を見つめていた。

熱風

熱風

Nana Produce

サンモールスタジオ(東京都)

2025/04/04 (金) ~ 2025/04/08 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

スキャンダラスにみえて、「夫婦」や「結婚」に躓いた身としては全く他人事でない、他者と密に生きる上での普遍的問題を貫く作品だった。”熱い風”が吹く相手が必ず恋人や夫婦とは限らない。誰に心や体を開示し秘匿するかはいつだって自分の心と体が決める。誰も誰かを所有などできない。そんな実感を握りしめ、そわそわと帰路に着く観劇体験でした。

地図にない

地図にない

玉田企画

小劇場B1(東京都)

2025/03/27 (木) ~ 2025/04/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

あまりに強すぎる布陣による、あまりにクリティカルな配置。そしてその絶妙な配役とこちらの想像を盛大にはみ出す俳優の魅力が合わさり、もはや妙な様式美すら感じる仕上がりに!(笑)。可笑しみゆえの哀切、哀切ゆえの可笑しみ...今回も類に漏れず人間のみみっちさ、コミュニティの煩わしさの解像度の高さったら!爆笑しながらちゃんとヒヤッともしました。

煙に巻かれて百舌鳥の早贄

煙に巻かれて百舌鳥の早贄

劇団肋骨蜜柑同好会

中野スタジオあくとれ(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ある土地(焼鳥屋)を巡る事件のルポルタージュ。観劇後焼鳥食べるにはあまりに恐ろしい内容なのに食べたくなる。そんな人間の業と欲を煮詰めた結果こうなりましたよ、の世界。不穏で陰鬱で口の中に血の味が広がっていく。土着的なムードを生み出す力よ...!怖いもの見たさで見て、しっかり震えられる作品でした。

ガラスの動物園

ガラスの動物園

滋企画

すみだパークシアター倉(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/31 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

美しい程に哀しい緊迫と柔和な瞬間こそ詳らかになる脆さ。まさに硝子を重ねる様に繊細でそれでいて果敢な芝居と演出。そして私は人間の影の雄弁さに息をのんだ。それはつまり沈黙の行間の饒舌さ。そこに音楽が流れるというよりゆらめいていた。それもまた硝子の影の様だった。
前作『OTHELLO』の時も思ったのだけど、何となく苦手で敬遠していた翻訳劇や取っ付きづらいと感じてる名作が滋企画の上演で克服される、ということが人によっては起こるかも。少なくとも私がそうでした(それだけに『K2』を観逃したことがやはり悔やまれるのだけれど!)

CARNAGE

CARNAGE

summer house

アトリエ第Q藝術(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

水野小論さん率いるSummerHouse『CARNAGE』。
子どもの揉め事をおさめようと集った2組の夫婦によるめくるめく口撃(&劇)。

ネタバレBOX

芸達者な4名のクロスバトル、水野さんと伊東沙保さんの他では見れぬコメディエンヌっぷりが痛快で爆笑しつつ、同じく11歳の子を持つ親としてはヒヤリも。面白かった!俳優陣の緩急がピタッとハマる清々しさ!職人技でした!
痕、婚、

痕、婚、

温泉ドラゴン

ザ・ポケット(東京都)

2025/03/20 (木) ~ 2025/03/30 (日)公演終了

実演鑑賞

「国が国にやったこと」でなく「人が人にやったこと」から目を背けない、その取り返しのつかぬ"痕"から目を逸らせない演劇だった。あの人はそんな酷い事しない。親類に程そう思うけど悲しいかなそうではなくて。「私たちはまだ野蛮人」という言葉が虐殺の続く"今"を穿つ。
山﨑薫さんの慟哭に胸が抉られるような気持ちになりました。圧巻の、何かしらの賞に値するお芝居だと強く思いました。忘れられません。

内容の深度や俳優の凄みはさることながら、温泉ドラゴンの演劇って照明がとても印象的で、人の心を縁取り、灯していると感じます。あと出はけもすごく丁寧で...。2階や台所や窓や扉。見えてないだけで"向こう側"が在ること、空間が続いていることを毎回きちんと信じさせてくれる。

※題材に深く切り込んだ、とても素晴らしい作品ですが、これを観たり、誰かにオススメするだけで満足してはならない気もするため「満足度」は差し控えます。
気持ちとしては☆5です。

牧神の星

牧神の星

劇団UZ

アトリエhaco(愛媛県)

2025/05/10 (土) ~ 2025/05/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

愛媛県松山市を拠点に活動する劇団UZ。その拠点を劇場化した「アトリエhaco」の柿落とし公演として上演されたのが、本作『牧神の星』である。

ネタバレBOX

物語の舞台は1945年、若手将校を中心とした決起部隊に占拠されたとある放送所。しかしそれは劇中劇パートであり、2025年にとある地域で劇団を運営する俳優たちがその上演の稽古に挑む様子が同時に描かれる。

「歴史」を現代の視点から、また「現代」を歴史の視点から。時代を相互に往来する眼差しを通じて、都市部ではない地域で活動をする劇団の奮闘といった当事者性のある人間ドラマを交えつつ、生々しい実感を以て戦後80年という節目を縁取った作品であった。
社会における孤独や孤立、SNSの暴走、匿名で飛び交うヘイトコメントなども盛り込みながら、自身の劇団の現在地と社会や世界への懸念や疑問を一つの物語にぶつけたメタ要素を含む社会劇。また、そうした構造からさらに飛躍し、「過去」の過ちであったはずの戦争が実は「現在」と近い「未来」に起きている、という結末には今の世の中に対する危機感をもはっきりと感じた。
声を届けるための「放送所」という場の仕組みを活用した物語の流れや人間ドラマの抑揚も効果的であり、とりわけ声をあげるための場所で、声のあげられない弱い立場の人々が心身の危機にさらされていく描写は今日性のある喫緊の問題が忍ばされていると感じた。

本作において私が最も興味を惹かれたのは、やはり「戦争」を終わったもの、過去の歴史として描いていない点である。今の社会を見渡すと、それこそ戦前のような恐れを抱くことが日常的にある。そんな中で、「戦争」を単なる過去の過ちとしてのみ描くことはもはや不足を否めない。実際に世界では今もなお戦争は続いており、終わる気配もない。そうした状況下で戦争を「かつてあったもの」ではなく、「やがて始まるもの」として描いた点は、劇団UZという団体と時代との一つの対話とも言えるのではないだろうか。そのリアリティをより際立たせるべく、自身らにとって最も身近で普遍的である稽古場での日々を伴走させた点も理解ができた。

一方で、メタ演劇パートとなる稽古場や劇団のバックヤードを描いた箇所の強度がやや弱く感じられたのも正直なところであった。都市部ではない地域で劇団を運営する上での葛藤や苦悩、社会の矛盾などに触れることはできたが、その創作活動や表現活動が「戦争」という主題とどう繋がっているのかが見えづらく、予想を越えた演劇の風景には今ひとつ及ばなかったという実感が残った。
また、劇団を描く上で、いくつかの個人の物語をトピックとして盛り込む手法自体には好感を持てたのだが、そこにあまり広がりが見られなかった点も惜しく感じられた。戦時中の劇中劇で幸子、久保田、本多、頼子、尚子を演じたのがそれぞれ現代のサチコ、クボタ、ホンダ、ヨリコ、ナオコという設えになっているのだが、劇中劇のパートのそれぞれの印象が鮮烈であるだけに、現代を生きる個人の日々やその苦悩や葛藤が尻すぼみしてしまっていたように感じた。劇団以外に何で生計を立てているかということや、劇団に対してどんな不安や不満を抱えているかなど、膨らませようのあるリードは敷かれていたので、そこが粒立つことによって、時代との対話性はさらに強度の高いものになるのではないかと感じた。メンバーが個性的であるだけに、もう少し個人の背景に切り込んだ描写(※俳優個人の事実を盛り込むという意味ではなく、あくまで登場人物の造形として)があってもよかったのかもしれない。

とはいえ、地域性の持つあらゆる特質と向き合いながら、プラットフォームとなる場づくりに真摯に取り組む劇団の在り方には感銘を受けるばかりである。アクセス面での不便さや気候の厳しさを感じる観劇ではあったが、それも込みで、文字通り「山をひらいて場所を作る」ところから始まったこの公演に立ち会えたことは、これまでにない手触りの貴重な経験だった。
絵本町のオバケ屋敷 〜愛!いつまでも残るの怪!〜

絵本町のオバケ屋敷 〜愛!いつまでも残るの怪!〜

優しい劇団

高円寺K'sスタジオ【本館】(東京都)

2025/04/19 (土) ~ 2025/04/19 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

名古屋を拠点に活動する優しい劇団による大恋愛シリーズ第8弾。本シリーズは普段は別の土地で活動する俳優が公演当日の朝に初めて顔を合わせ、稽古、そして本番と“1日の限りの演劇”を上演する試みである。今回は名古屋から5名、東京から5名、計10名のキャストが出演した。

ネタバレBOX

物語の舞台は、絵本町という町に古くからある謎のお屋敷。ある住人(土本燈子)の語りから始まる。「絵本町と呼ばれているわりにはドライでシビアなこの町」を「メルヘンがまかり通る町」にしたい。そんな思いから彼女はこの町で唯一メルヘンの匂いを感じるこの屋敷を訪ねる。そして、そこで出会った老婆(尾﨑優人)からありとあらゆる可笑しくも愛おしいオバケたちの話を聞く。
劇中には今は亡き偉大な劇作家である唐十郎や天野天街が築いた作風へのオマージュも散見され、それらがただの模倣ではなく、リスペクトを前提に練り上げられたものであることを感じることもできた。

1日で出会い、別れる俳優への手紙でもあるような台本、そして、その手紙への返事を9名の俳優が心身を以て応答するような熱く、眩しい時間だった。個性豊かなさまざまな「オバケ」が登場するが、オバケたちには当然それぞれが生きていた、それぞれの唯一無二の時間が、出会いが、思い出がある。その魂を一つ残らず抱きしめようとする物語の運びには、生まれた時から永遠の約束を持つことのできない私たちの人生や、ひとたび上演されれば終わってしまう演劇という営みへの深い眼差しが滲んでいたようにも感じた。2人1組のペアの物語をいくつか紡いでいきながら、その心情の集積がやがて全員を同じ場所へ、同じ歌へと誘われていく。その描写には人間を信じ、その生命を祝福する力があった。
別々の場所で別々の日々を生きる私たちが同じ空を見ているということ、同じ季節を生きているということ、同じ歌を歌うということ、同じ物語を読むということ。そして時に世界で起きている同じ出来事に喜んだり、悲しんだりすること。そうして、何かの拍子にあなたとわたしがどこかで出会い、やがて別れるということ。俳優も観客もそのことは同じであるということを、この演劇は力強い言葉と身体、そしてその時限りの瞬間瞬間を以て伝えてくれたように思えてならない。全体のグルーヴ感のみならず、ペアとなる俳優がそれぞれ名古屋と東京の俳優の組み合わせになっている点など、物語と演劇における構成にもその信条が隙間なく差し込まれ、1日限りでありながら、いや、1日限りであるからこそ叶えられる風景の連続がそこにはあったと思う。

そして、何より私が素晴らしいと感じたことは、この試みを通じて優しい劇団という団体が展望する新しい演劇の形、その可能性に触れられたことである。この国において演劇という表現活動を、俳優という生き方を選ぶことは決して容易なことではない。そんな中で、「演劇はいつどこで誰が始めてもいいのだ」と思える瞬間はやはりなかなかない。しかし、この作品は1日限りというパッケージによって、そんな普段は叶えられない、観られない演劇の「場」と「形」を実現していた。それは、「演劇」という営みの価値と可能性を見つめ直し、外へとひらいていくための一つのモデルの発明であると感じる。そのことはやはり希望であるのではないだろうか。普段は別々の土地で生活をしている俳優がエリアや世代を横断して集まり、1日限りの演劇を作りあげる。それは、「演劇がこうでなければならない」、「俳優はこう在らなければいけない」といった固定概念を解体し、新たな創作や場を作る挑戦そのものだと思う。地方出身の超若手劇団が、そんな前例のないことに果敢に挑み、同時に演劇の根本的な魅力を追求し、実現させていること。そのことはやはり今の演劇シーンにおいて貴重な在り方であり、ムーブメントであると思う。1日限りの演劇の終わりに客席から絶えず飛び交った大向こうを聞きながら、私はそんなことを強く感じた。
おかえりなさせませんなさい

おかえりなさせませんなさい

コトリ会議

なみきスクエア 大練習室(福岡県)

2025/03/14 (金) ~ 2025/03/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コトリ会議らしいチャーミングなパペットやその見た目に呼応したコミカルなやりとり。あるいは温かな灯りに照らされた趣深い純喫茶での日常。そうした柔らかな手触りの始まりからは全く想像もできない展開、劇世界へと誘われる、狂気と脅威の物語であり演劇であった。

ネタバレBOX

同時にそれらには「決してこの世界では起こり得ないとは思えない」といった生々しさがあり、終始胸を騒つかせ続けられる作品であった。愛らしい言葉の裏面にあるリアルでグロテスクなディストピア。ファンタジックな印象や情報を与えつつ、ファンタジーを全く描かないというその姿勢に作家の、そして劇団の覚悟を見るような思いに駆られた。タイトルにもまた同じことが言えるのではないだろうか。幼い子ども言い間違いのようなその印象は、観終わった時反転した鋭利さを以て心を襲う。「おかえりなさい」をさせません、と、「おかえりなさい」をなさい。この二つの言葉の組み合わせは、「自己を損なわず兵士になるか、自己を奪われ不死身になるか」という究極の選択を強いられた家族の帰る場所のなさと、されども帰る場所を求めるやるせなさが忍ばされているように感じる。家族というもの、家という場所がもたらす、ある種の「帰巣本能」というものについても、考えさせられる作品だった。

舞台となる近未来の日本は、もう今が何度目かの世界大戦かも定かではないくらい戦争が日常と化している。父・三好(大石丈太郎)、母・水(花屋敷鴨)、長男・椋尾(吉田凪詐)、長女・飛代(三ヶ日晩)、そして次女で末っ子の愛実(川端真奈)。5人家族の山生家が常連である純喫茶「トノモト」で家族会議を展開する。その議題は、飛代とその夫・一永遠(山本正典)が人間とツバメが合体した謎の生物「ヒューマンツバメ」になるという決断についてだった。この世界において、「ヒューマンツバメ」は徴兵を逃れる一つの手段であり、しかもほぼ不死身の身体になることを意味しているが、引き換えに記憶の7割が犠牲になる。その選択を巡って、家族がそれぞれの思いが交錯していく。そのことと同時に、子どもたち3人の間に性愛を巡る三角関係が渦巻いていることがぼんやりと知らされていく。時折カットインする、ツバメたちが口移しで餌を分け合うシーンがその手触りを生々しくさせていく。

戦争に行く立場と行かせる立場、あるいは行かせたくないとする立場。「誰の命を、あるいは記憶を犠牲にすべきか」といった命題を様々な角度から照射していく家族の会話が素晴らしいのだが、その家族を一歩外から見つめる白石(原竹志)の存在感がまた本作の大きなキーとなる。彼は、すでにヒューマンツバメになった側の元人間として、それがいかなるものかを家族たちに、そして観客に訴えていく。ある種のグルーヴから独立した非常に難しい役どころだが、時にコミカルに、しかしそのコミカルの積み重ねが至極シリアスに結びつくような白石の表現力は本作の主題の切実を物語っているようでもあった。

一方で、近親内での性愛の描写に対する消化不良感がやや否めず、生理的嫌悪というのではなく、複雑に交錯する愛情の矢印が一体何であったかを知りたいという気持ちになってしまった。要所要所に入るツバメの兄妹間の咀嚼行為にそのヒントが隠されているとは思いつつも、動物の戯れに回収されてしまうことで肩透かしをくらった感触が残った。愛情と性愛の境目というテーマ自体にはむしろ心を引かれたので、その詳細を追い、それがこの物語の根底でどう繋がっているのかを知りたいという思いに駆られたのだと思う。

しかしながら私は本作の核となっているのはやはり戦争問題。今世界で起きている様々な戦争に明確に意義を唱えた作品であると捉えた。そのことの意義はやはり大きく、それを独自の世界観の中で描き切ったことに本作の強度が示されていると感じた。近未来を舞台に描かれる、すぐそばにある戦禍。人間の身体とその生命に備わっている記憶、その「価値」が揺らぐ世界。「人間が人間でなくなっていく」その様にAIをはじめとするテクノロジーの侵食をもが浮かび上がる一面も興味深かった。

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