実演鑑賞
満足度★★★★
すごろくや人生ゲームでいうところの「一回休み」、自分だけ時が止まったようなそんな時間こそがその実人生でもっとも大切なきせつだったりする。そんな極私的な記憶の蓋があき"今"と"かつて"の切なるユニゾンにいつしか私も加って、叫んで、泣いて、笑っているような。
そんな演劇だった。
ある"かつて"を巡る旅の様で、まさに目の前にある"今"へのエンパワメントの様で、多分それはどちらでもあるということ、ともにある他ないのだ、ということだったようにも思う。
だから時に希望は絶望に翻るし、しかしそれは私たちが絶望を希望に翻すことができる、というやはり希望であったりもする。
そして、それらのキャッシュやトラウマを「言葉を書くこと」、「文字で刻みつけること」で乗り越えんとする人間の姿、それでしか全うできぬ浄化を描いた物語でもあった気がして、ものを書く人間にとっては厳しく迫るものもあった。
それを書かねばここから前にはすすめない、という主題を持ちながら筆を執れずにいる自分、それとはまるで別の言葉を世の中に届け続けることで精神を保っている自分、そういう自分から自分を解放するのはやはり自分しかない。だけど、そのことに記憶や思い出の中に存る誰かが「あっちだぞ」「さあいこう」と手を差し出してくれることもある。そうしたときに、その冒険に乗る勇気を持っていたい。ラストシーンを見つめながら切にそう願った。
だからこそ蓋のあいた極私的な記憶についても綴りたい。
私は学校という小さなしかしそれが全てに思えていた世の中とうまくやれず、中2で不登校になった。その頃、丁度ロンドン留学中の姉が夏休みで一時帰国をしていて、私は姉や朝晩問わず気まぐれに訪れるその友人たちとひと夏を過ごした。
彼や彼女は一度も私に「学校に行け」とは言わなくて、その代わりに平日の湖や朝方のドライブ、夜明けまでの夜更かしに私を連れ出し、先々でする少し大人な話をきかせ、縮こまって暮らしていた私に存分な背伸びをさせてくれた。
思えば、詩を書き始めたのも、ピアスをあけたのも、古着を買ったのも、初めての恋を失ったのもあの夏だった。「一回休み」にこそ人生が詰まったような。そんな"かつて"の夏の終わり。
激しい感情を持て余すかのようにどしどし、ぺたぺたと部屋中を歩き回るエミルはまるであの夏の自分みたいで、感情移入だけを演劇の没入にしたくない、してはならない気がするという理性とは裏腹に、私には自分と重ねて観る他なかった。
幼く、隙だらけなのにすっかり覚悟を決めているエミルが書く詩を読んでみたい。
嵐のように現れ、そして去ったトキの詩もやっぱり読んでみたい。
そうも思った。
劇中唯一出てきた俗世を思わせる「浜辺美波」という固有名詞に、彼女たち、彼たちの"かつて"が"今"に繋がっている可能性を見て、それはやはり希望のように思えて、嬉しくなった。
あなたもわたしもいる。"かつて"にも"今"にも。だから、きっと、溶けたアイスのひとしずくの中にだって踊る私はいる。