心の声など聞こえるか 公演情報 範宙遊泳「心の声など聞こえるか」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    私には幼少期から夢にまで見る恐れてる事があって、私の身体はすっかりと、それ=世界の終わりとサジェストされている。それこそが心の声がきこえてしまうこと。だけど、私は今もしかしたら終わらないかも、愛によって終わらないかもと思っている。
    『心の声など聞こえるか』という演劇に出会って。
    (以下ネタバレBOXへ)

    ネタバレBOX

    サトラレという漫画・ドラマが流行ってた頃はとくに毎日怖かった。自分の心の声の全部がはずかしくておそろしくて、「思うことをやめたい」ということばかりを思って過ごしていた。絶対に嫌われるし、嫌いになっちゃう。それが世界規模で起きたらもうそこらじゅうが戦争で世界はじき終わっちゃう。そんなトラウマは尾鰭背鰭をつけて私の中を長く漂っていた。
    だから、劇中で喧騒から逸れた妻たちが心の声を飛び越えて小さくも壮大な耳打ちをしていたとき、そのあと宴席に戻って心の声を介さなければ通じ合うはずない合図で交信をしたとき、次から次から涙が出てきた。その涙でやっとわかった。私がこわかったのは心の声がきこえることじゃない。それで世界が終わることじゃない。人を信じていないこと、信じられないことなんだと。30年以上かかってようやくわかった。浄化だった。範宙遊泳に、山本卓卓という劇作家に、この作品に出会えてなければこのままずっとわからなかったかもしれない。

    目の前の人が言っていることを、隣の人が信じていることを自分はどれだけ剥き身で受け取れるだろう。心の片隅でどれだけ微細にも馬鹿にせず、呆れず、その声のままを受け取ることができるだろうか。それはとてもむずかしい。でも、信じたいし受け取りたい。そう思うことからでも何か変わるかな、そう思うことも愛ってよんでもいいのかな。

    自分と圧倒的に違う他者やその声を異質と排することで守られる世界があるとしても、そんな世界に守れるものなんてたかがしれてるのだろう。
    妄想とたたかうこと。他者が差し出す声を信じようとすること。隣人への愛を全うした妻が「しあわせ」と言ったことおめかしして選挙へ出かけたその夜に誓う様に飛び立ったこと。喜びも哀しみも抱えたいくつもの風景を多分この先もずっと思い出す。信じる力が小さくなるたびにこの演劇に、この演劇を心の底から信じた自分に、その心の声の在処に何度も触れるのだと思う。

    「この演劇信じられる」と思うことも「この作家や俳優信じられる」と思うこともあるけれど、「この演劇に、作家に、俳優に、観客じゃなく人間としての自分が信じられている」と思う経験は多くない。そんな演劇だった。目の前の俳優が素晴らしすぎての落涙もあった。

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    2024/07/21 17:45

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