旗森の観てきた!クチコミ一覧

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悪魔をやっつけろ~COVIDモノローグ~

悪魔をやっつけろ~COVIDモノローグ~

燐光群

座・高円寺2(東京都)

2021/09/13 (月) ~ 2021/09/14 (火)公演終了

実演鑑賞

イギリスの代表的劇作家・デヴィッド・ヘアのコロナ罹病記。体験をモノローグとして書いているのを、同じ劇作家の坂手洋二がリーディングに近い形で読む。
体験記だが、劇作家だけあって、罹病の経緯など生々しく実感でき、さらにこの病(悪魔)に打ち勝つための周囲の人間の取り組みまで冷静に見ているところがいい。政治家(保守系首相ジョンソン)に辛らつだが、それも客観性を失っていない。
 ロンドンでは、昨年の秋このモノローグドラマを九百人規模の劇場を三分の一の席にして上演。今もレパートリーにしているとウイキには出ているから、ロングランになっているらしい。ヘアは俳優もやるいわば演劇界有名人だが、本人がやっているわけではない。知名度のある俳優が演じ演出家もついている。
 こちらは坂手洋二の演出,出演。坂手もたまには芝居にも出ている。小劇場での実績も承知しているからリアリティはある。しかし、日本の劇作家でも、もしくは俳優でも、一人くらいはこう舞台でこういう手の実感モノローグを聞かせてくれてもいいのではないか(。かって、谷賢一の同工異曲を見て相当がっかりしたことがある)。社会の、差別と偏見へのモノ言わぬ深さがやはりこの国は深いと実感させる公演だった。55分。

友達

友達

シス・カンパニー

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2021/09/03 (金) ~ 2021/09/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久しぶりに観客がワクワクする演劇界の対決上演である。
この一月の間に安部公房の代表作、「砂の女」と「友達」の意欲的な再演を見ることができた。「砂の女」(1962)は今や、日本演劇界の顔となったケラリーノ・サンドロヴィッチの台本・演出。片や「友達」(1967)の台本・演出は弱冠まだ二十代の俊英・加藤拓也。この公演のネット動画広告では、出てもいない人気俳優が次々に登場して、稽古場で「友達!」と叫ぶ。フェイスブックをもじった駄洒落だ。出演者の自己紹介の最後には童顔の加藤拓也が登場して「加藤拓也でーす、演出やりまーす」という。30年前のケラならやりそうな秀逸なプロモーション(CMグランプリ!!)で舞台への期待も高まる。シスカンパニーの制作。劇場は新国立のピット。トラムに負けない満席である。
結果は、随分肌合いの違う安部公房が出来上がったが、演出者がそれぞれの視点から原作を現代に引き寄せた再演にしていて、ともに当年屈指の舞台になった。大家に挑んだ加藤拓也も負けていない。
甲乙つけるのは野暮と言うものだから、感想を列記する。
安部公房と言う作家について。現代社会の不条理を抽象的に把握していく戦後作家の世界が、今や、現実化してしまったことが、今回の新しい上演でよくわかった。これで、安部公房は現代に生命をもって再臨することになった.もちろん、砂の女の家も、闖入してくる家族も、抽象的な存在ではあるが、観客は現実社会と同じ水平でみて共感している。安部公房は、古典の位置を確かにしたとでもいおうか。
「友達」の上演台本は、スマホも登場するし、生活環境も現代にしているが全く違和感がない。その点では、慎重に昭和三十年代の時代設定にこだわったケラの「砂の女」よりも軽やかに現代のドラマになっている。「民主主義」の空洞化は書かれた時代よりも進んでいるのでリアリティもある。
「砂の女」の上演時間はほぼ3時間。映画よりも長い。「友達」はもともと二幕13場の舞台を数回の暗転で休憩なしの1時間半にまとめている。テンポも速い。時代に合わせたアダプテーションが成功している。(勝手な感想になるが)しかし、この台本だと、原作のラストを踏襲していいのだろうか。それはケラの時にも感じたが、その辺に安部公房の時代性があるのかもしれない。
演出。この演出家は若いのにステージングがやたらにうまい!平面の板の中央に上下に出入りを作って効果的に使うのは以前も見た記憶があるが、この舞台でも孤独でガランとした主人公(鈴木浩介)の部屋に闖入者が地面から湧き出すように板の中央に作られたドアからドカドカと現れる。ここで芝居の構造がはっきりわかる。ほとんどの時間舞台の上には十人の登場人物がいる。一人一人芝居がついていてその集団が息をするように膨らんだり、締まったりする。セリフのあるところはほぼ、舞台中央で処理される。舞台演出の基本と言えば基本なのだが、このリズム感がいい。
俳優。キャステキングがうまい。家族の山崎一(父)キムラ緑子(母)男女三人づつの兄弟姉妹たちもバランスがいい。客寄せも考えて(有村架純(次女)あるし、浅野和之(祖母)鷲尾真知子(管理人)大窪人衛(三男)の、普段は飛び道具の人たちもうまくはまっている。もっと面白くなりそうなのは、西尾まり(婚約者)内藤裕志(弁護士)。皆好演である。
スタッフでは美術(伊藤雅子)。後半、遠見に街のシルエットが出てくるが、これが観客を和ませる。この奇妙な寓話劇に巧みに情感を残している。音響効果は電子音のノイズを軸として、ここは、昔の阿部公房風だ。
この新国立の劇場へ来たから言うのではないが、こういう演劇界の刺激になる企画は新国立劇場が試みるべきではないか。普段、この劇場で見る日本の演劇は毒にも薬にもならないものがほとんどで、意味のある企画は、ここのところほとんどシスカンパニーの手で行われている。今の時代に「友達」を上演するという企画力、加藤拓也と言う若い演出者を起用して、地方も含めて長期の公演を成功させる(前売りは完売していた)興行力、演劇界を知り尽くした広範な分野からの的確な配役力、スタフィング。どれをとっても、この芝居をどう作るかと言う意図がはっきりわかる。流行の言葉で言えば「説明責任を果たしている」。そこが素晴らしい。



音楽朗読劇「シャーロック・ホームズ#1」

音楽朗読劇「シャーロック・ホームズ#1」

ノサカラボ

サントリーホール ブルーローズ(小ホール)(東京都)

2021/08/28 (土) ~ 2021/08/29 (日)公演終了

実演鑑賞

古典の活かし方もいろいろあって、古典ミステリの人気キャラクターは、最近流行の2・5ディメンション系の舞台では重用される。8月には最強キャラのホームズにタカラヅカ宙組と、この舞台が用意された。こちらは音楽朗読劇と銘打って、名作ミステリを次々と舞台に上げようという企画の第一弾。劇場もサントリーホールのブルーローズと小洒落ている。
俳優に人気の声優を配し、劇伴を生演奏で、朗読劇として上演する。内容は初期の「冒険」から三話。入り口ではイギリス公認の輸入グッズも販売している。客は日ごろ顔を出さない建前の声優の演技が見られるというのでファンが多い。これが、ミステリの中身で客が来るようになれば、新しい展開があるのかもしれないが、時代をくだるにつれて、ホームズ=ワトソンのような朗読劇には使いやすい人物関係が少なくなる。仕掛けも複雑になってこういうリサイタル形式ではできなくなるだろう。
宝塚宙組はコロナ拡大でかなり公演中止することになった。こちらは前途多難である。

『砂の女』

『砂の女』

キューブ

シアタートラム(東京都)

2021/08/22 (日) ~ 2021/09/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

かって親しんだ世界をいま、目前に見て、それに勝る興奮を感じられるか、そこが、古典を再演する肝だろう。「砂の女」(1962)は日本の戦後文学の里程標となった作品、作者自身の脚本による映画(1964・勅使河原宏監督)もまた、世界的な評価を得た。その後、芝居にもなったようだが、草月ホールで見たような、見なかったような。それから六十年。
今回はケラリーノサンドロヴィッチによる舞台化である。
『鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい。』というのは安部公房自身の言葉だ。このシンプルな構造の中で、作者は戦後日本の課題を二人の男女に託して描いたわけだが、それを世紀を超えた今、舞台で見るとどうか。
コロナ禍で、全国に「非常事態」が拡がろうかという酷暑のなかのでトラムの公演は、観客の肌にも砂がこびりついてくるような迫力のある舞台だった。古典を今に生かしたケラの力量は大したものだ。それは、丁寧に追われる原作のストーリーの功績よりも、脚本・演出家の舞台あらではの工夫がこの成功につながっている。この欄で言えば、筋は原作で周知なのだから、いまさら「ネタばれ」でもあるまい。舞台に積み上げられたその細かい演劇ならではのネタが見事な舞台だった。
観客は老若男女取り混ぜた芝居好きで満席だった。舞台の上も下も芝居好きが集まった一夜の愉しみがここにあった。コロナの憂さも晴れようというものである。..少し長くて十五分の休憩をはさんで二時間五十分。..










ネタバレBOX

そのネタバレから行けば、まず、場面設定。昭和二年生まれの男が昭和三十年に僻村で砂の穴に落ちる。
舞台は砂に囲まれた崩れ落ちそうな家の一杯セット。周囲が砂の高い壁に囲まれていて、村人たちはその上から縄梯子をかけて上り下りする。褐色で統一された家には、無色のマッピングで時に砂が滑り落ちる。原作の時代設定は変えていないのに観客を異質の世界に運んでいく。加藤ちかの美術とマッピングの使い方がリアルで実にうまい。
男は仲村トオル、女は緒川たまき。映画の岡田英治、岸田今日子で刷り込まれている二人の役柄だが、全く違う。映画では、眉をひそめて登場する複雑な感じの不機嫌な二人だが、こちらは肉感的で即物的。この配役で、作品が現代につながった。
例えば二幕の幕開けの場面。雨が降ってきたと妄想するシーンの繰り返し。ソラメントウナベスの曲(昭和三十年代にはもっともはやったラテン音楽だった)で二人が躍るシーン。このあたりは原作にないが、ケラが演出した優れたシーンだ、それに続く上野洋子の音楽。
上野洋子の不思議な演奏もこの劇世界に大きく貢献している。ここで、作品の持つ抽象性が担保された。今までのケラ作品(例えばカフカ連作)とは別の世界を作り出した。
ラジオの効果的な使い方。原作の時代にはまだテレビが普及していない。メディアと生活を巧みに取り入れて、外の生活と仲の生活をドラマにしている。
こういう、演劇で遭遇するさまざまの問題を、現代に通じるように細かく処理しているところが今回の上演の「ネタ」だろう。ここまでくれば、原作の終末は全部ではなくとも少しは変えて見たくなったのではないだろうか。原作通りで幕は下りるが、ここは、ケラによる新しい結末も見て見たかったような気がする。芝居を見てきて、この結末はなぁ、とも感じたのである。


4

4

ティーファクトリー

あうるすぽっと(東京都)

2021/08/18 (水) ~ 2021/08/24 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

何もない舞台にホリゾントが立てられていてそこにマッピングで様々の模様が現れる。そこへ机やいすをもって次々に男たちが現れる。彼らは、そこで、客観も主観も交えて、死の前の人間をみようというのだ。
 死の前の状況を人工的に作り出すには死刑執行と言う格好のが素材がある。その死にかかわる人たちと言えば、死刑を命じる法務大臣、判決に関わる裁判員、裁判官、具体的には死刑執行人の首に縄をかける役をつとめる刑務官。刑を受ける無差別殺人を行った罪人、その父親、などの役割を五人の俳優がそれぞれの人物となって、死刑を行う経緯とそれにかかわる人間の心境を語る。ドラマがかみ合う場面は少なく、証言ドラマのような形だが、どうやらこれは結論を求めてまとめようというわけでもない。話の流れが死から離れそうになると、男たちの一人司会者(今井朋彦)役の手でもとへ、戻されたりする。
 こう書くと、なんだか、取り留めなさそうなのだが、これが結構緊張感をもって2時間10分の舞台になっている。
 それは一つには、死は人間誰も避けられないが日常はあまり見ようとしないで過ごしている大きなテーマだという事もあるが、このコロナ禍で突然その死が身近になったという事があるかもしれない。舞台としてはあまりなじみのない形式なのだがバラバラの人物や場をつなげる作劇術もうまい。話題も、死刑反対派の議員が大臣の職につくと刑を実行せざるを得なくなるとか、死刑囚を前にした刑務官の精神的圧迫とか、シーンとしての若干の説明もあるが、独白の方が物語のテンポも速く舞台の引き寄せられる。極め付きは死刑執行時に誤って失敗する執行官のエピソードで、このことで刑務官は神経を病み離職する。
 だが、俳優たちはそれぞれの役から発言するが、それがどこへ向かうかはわからない。死の実態は経験できないのだから、そこまで、と言う感じ。そのさまざまな距離感を、ロールプレイイングゲームのように描いて見せた死をめぐるアラベスクと言った感じのユニークな舞台で、作者は十年前のワークショップからリーディングや上演を重ねて今回作者自身の演出による上演となった由。そういう練り上げられた、と言う感じはよく出ている。いつもながら小劇場にしては洒落た舞台づくりに、小劇場のベテランの俳優たちに素敵な新人(池岡亮介)が加わったを俳優陣もよく演じ切って小劇場ならではのいい舞台になった。

ジェイミー

ジェイミー

ホリプロ

東京建物 Brillia HALL(東京都)

2021/08/08 (日) ~ 2021/08/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

17年初演のロンドン ウエスと・エンド ミュージカル。イギリスモノだけあって、16歳のゲイの男の子ジェイミー(私が見たのは高橋楓の回)が根強く残っている家族、学校、社会のゲイ差別の中でドラッグ・クイーンを目指すというサクセスストーリだ。
もともとは、テレビのドキュメンタリーから発想された作品という事で「社会派」である。ミュージカルには古くは「マイフェアレディ」の階級、言語差別、「ウエストサイド」や最近の「インザハイツ」に至る移民差別、など差別をテーマにした名作があるが、これは性差別がテーマである。イギリスは同性愛を犯罪としていた時期もあって、それだけに社会の中にある種の緊張感がある。それがこの本来は無邪気な若者の成功物語にも影を落としていて、このミュージカルはよく考えられている本なのだが弾まない。
物語は、義務教育終了まじかの教室から始まる。これから社会へ出て行って何者になるか、と言うだれしも経験する期待と不安の門出である。
ゲイの主人公は、母(安蘭けい)には理解されているが父(今井清隆)はきもいと言って家を出てしまった。居場所はそんな母子家庭とかつてのドラッグクイーン(石川禅・この俳優はホントに日本のミュージカルには欠かせない名脇役だと思う)が営んでいる貸衣装やである。卒業前のイベントが迫っていて、そこで主人公は女装を見せようとするが、それをめぐって家を出た父親との葛藤、イスラムのヒジャブを被った恋人(山口乃々華)、ゲイを理解しない男友達、理解はするが解決しようとしない教師(樋口麻美)などの学校でのドラマが展開する。
 日本でも様々な場でジェンダーの問題が表面化してきた昨今、時期を得た企画にもとれるが、やはり、イギリスとは社会環境が違う。切実さが伝わってこない。ストーリーは平凡な進行だが、曲に終演後も残るような名曲がない。ダンスにも際立ったナンバーがない。一つには時節柄、イギリス人の演出家を起用しているがリモート演出だという事も影響しているのかもしれない。言葉は悪いがずるずると締まりがない。
 俳優で言えば、私も見た若いカップルは残念ながら力不足。特にまずいという事はないのだがドラッグクイーンと言い、イスラムの美女と言うならやはり、ハッとするよううな地の魅力が欲しい。今回は脇に支えられたと言う感じだ。
一幕・1時間20分、15分の休憩をはさんで二幕1時間15分。


風吹く街の短篇集 第五章

風吹く街の短篇集 第五章

グッドディスタンス

小劇場B1(東京都)

2021/07/14 (水) ~ 2021/07/19 (月)公演終了

実演鑑賞

「ステージ」
折角、この事態の中で、舞台を開けるなら、何か一つ、ここは!と言うところが欲しかった。なにもかも、今後を期待するしかない舞台だった。

hedge 1-2-3

hedge 1-2-3

serial number(風琴工房改め)

あうるすぽっと(東京都)

2021/07/08 (木) ~ 2021/07/19 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

「経済」をドラマの中心に置いた舞台は、なかなかその成功例が思い浮かばない。
貿易商が舞台になった「女の一生」の支那貿易についてのシーン以上に、うまく芝居にならないのだ。この作品は経済から日本を描く金融エンタティメント、とうたっているが、表面的には、今をはやりの投資ファンドや、金融規律を守るためのインサイダー取引の規制を素材にし、その英語をそのままタイトルにしているところなど、目新しい趣向ではあるものの、内容的にはよくある中小企業の古めかしい企業小説の世界以上に出ていない。
長い歴史のある工場内の物品移動の工場用クレーン専業の中小企業の企業改革に投資ファンドが力を尽くす前半、1時間50分と、その投資ファンドがインサイダー情報の取り扱いで証券取引等監視委員会の摘発を受ける後半一時間。ほぼ三時間の長丁場が今の企業社会を映すように男性のみのキャストで演じられる。
冒頭には、現在の銀行金利の低下から、投資でなければかつての金利生活者のような生活は望めない、という事や、投資が狙うのはヘッジも含め、金融の広範な領域にわたるというようなことが、解説されるがそれは、劇中でも言われるようにドラマの中身にはほとんど関係がないし、観客もそれくらいはご承知だろう。
タイトルのヘッジは前半のドラマの軸になっていないし、後半は結局は男女の人情噺に落ちていく。素材に飛びついたのはいいが、処理に困ってありきたりな世間話でまとめてしまった印象である。
今どきのドラマにするなら、現に活躍が見えてきた女性の企業社会への進出のどのほうが、ドラマチックだろう。またリズム楽器にトランペットの演奏をナマで見せる音楽も、内容にマッチしているとは思えず趣向倒れになってしまっている。

一九一一年

一九一一年

劇団チョコレートケーキ

シアタートラム(東京都)

2021/07/10 (土) ~ 2021/07/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

大逆事件からはすでの百年以上たっている。日本が近代国家としてようやく成立したばかりのころに起きた事件が、今なお、観客の心をうつのは事件がこの国の構造に深く根付いているからだ。その構造の上部構造にも下部構造にも触れた優れた社会劇である。
この国土に生きる観客は、現代の愚昧な政府の権力志向とちっとも変っていないなぁ、という悲しい詠嘆を超えて、心を打たれ、考えさせられる。
二十世紀初頭の社会主義思想の平民への衝撃は、近代国家ではそれぞれに受け止められていて、アメリカでは「赤狩り」が、ヨーロッパでは「ロシア革命」がしばしば芝居の素材になる。日本でも戦後大逆事件が解禁になってからは、いくつもの作品があるが、今回の作品はそれらとかなり趣を異にしている。世俗的な事件の経緯に沿ってはいるが、近代国家で生きるという事を、集団を率いる権力と、個人の生きる自由の対立に絞っている。そこがいい。
舞台は、東京地裁の予審判事、田原(西尾友樹)と潮(佐藤弘幸)が大逆事件を裁く大審院の予審判事として呼び出されるところから始まる。山縣有朋(谷仲恵輔)によって仕組まれ検察によって実行された政府転覆の事件への嫌疑で当時生まれたばかりの平民社関連の人びとがとらえられ、当時の法律でもせいぜい数年の禁固刑が最高の被疑者たちが死刑台に送られる。爆裂弾とか判決後の天皇による恩赦とか、劇場性もしっかり組み込まれたこの専制国家確立のためのドラマの一翼を担ぐことになる。ドラマは国民平等の近代法と、専制国家の政治の論理のはざまで、職として判事の務めを果たそうとする予審判事に対し、被告として唯一登場する菅野須賀子(堀奈津美)は毅然として人間の生きる自由を主張する。
2時間20分余り、休憩なしの舞台の前半は、国家が仕組んだ国家権力のドラマに巻き込まれていく平民の予審判事の苦悩が描かれ、後半は人間は自由に生きるという原点から全くブレない菅野須賀子との取り調べになる。これらの事件の素材や対立軸は現代の観客にも通じるようによく吟味されていて、全く飽きない(よくある時代物のように、メロドラマに媚びていない、ここもいい)。
ことに、菅野須賀子を演じる堀奈津美が自分の信念を鼻っ柱の強さで表現していて、今までに見たさまざまの菅野須賀子のなかでは異色の面白い出来であった。
今年のチョコレートケーキはコロナ禍でも大活躍で、今年の春の「帰還不能点」に続く日本の権力構造についての優れた舞台であった。権力をその中から見るというのは新しい視点で、そこに新しい日本観もあって、大いに評価できるが、観客としては、かつて「80’エレジー」のような、市民のなかに巣くっている権力ドラマもぜひ見てみたいと思う。
このコロナ禍でも、特に動員したとは見えない老若さまざまに入り乱れた観客でトラムは9分の入り。これからもっと混んでくるかもしれないが、芝居を見たという充足感のある舞台である。


別役実短篇集  わたしはあなたを待っていました

別役実短篇集 わたしはあなたを待っていました

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2021/06/25 (金) ~ 2021/07/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

別役実戯曲の新しい発見のある公演だ。
戯曲そのものは手を入れていないというから、かつても同じような本からいくつもの別役作品を見てきたのだが、早稲田小劇場でも、文学座でも、円でも、木山事務所でも、ケラでもない、いままでになかった上演である。それが、燐光群風社会ドラマと言うのではなく、戯曲に寄った新しい舞台になっているところがいい。
今回は四作品の上演でその二作を見た。
「いかけしごむ」と「眠っちゃいけない子守唄」は登場人物が二人づつ。
「いかけしごむ」は町はずれの行き止まりの路地の奥の小さい広場。“ここに座らないで下さい”と張札を付けたスタンドの前にベンチ。上手に運命鑑定の行灯のあるテーブル。その上からいのちの電話につながる黒電話がぶら下がっている。
女性(鬼頭典子)が現れ、そのベンチに座る。何事も起きない。そこへ平凡なサラリーマン(萩野貴継)がごみ袋を手に現れ、追われているという。女に問われ、追われている理由は彼がいかけしごむを開発してその秘密を東欧の秘密結社に狙われているからだ、と答えるが、女に追及されて、実は妻に逃げられ、原料と称して持っているごみ袋の中の「いか」は実は捨て場を探している殺した子供の死体だ、という事が分かってくる。
別役作品についてよく言われる不条理演劇(と言う翻訳は適訳とは思えないが)風ではなく、原語で言えばabsurdな展開である。しかし、ヘンテコながら物語はコントのような、ホラーのような、小市民ドラマのような、論理的な筋を追って進み、別役作品ならではの世界になっていく。
、緻密に計算された本を、坂手演出は本に忠実に演出していて、いままでのように演出者があらかじめ決めた世界(多くはいかにもの不条理な世界)に作りこんでいないので戯曲の魅力がはっきり出ている。そこが新しい。面白く見られる。
「眠っちゃいけない子守唄」では眠れない男(さとうこうじ)が派遣サービスから話し相手の男(大西孝洋)を呼ぶ。男は、自分が何者かも知らず、知ろうともせず、眠ることで最後が来るのを避けるために派遣の男を呼んだのだ。解説によれば、眠らない男はナチ迫害下のユダヤ人であり、派遣の男は現代人という事になるが、そのような寓話的解釈によらずとも、
雪の降る夜に、自らも何者か知らず、理解できない他者を話相手にせざるを得ない(そのために会話は常に方向を失う)人間の孤独と滑稽は切々と伝わってくる。
ここでも、男が記憶している過去は「よっちゃん」と呼ばれていたこと、自分に寝るなと命じた人は「としこ」という名だったと日常的な言葉がポイントに使われていること、通じない言葉で会話をすることを夢想するなど、日常の中にある人間関係を言葉から効果的にドラマに仕組んでいる。別役作品ならではの面白さだ。
俳優はそれぞれ、演出の意図を心得て好演。余計なものを見事に切り落としている。
かつて、坂手洋二が「マッチ売りの少女」を新国立で再演した時、鈴木忠志演出で見ていた筆者は非常に違和感を覚えた。それから、20年たって今見る坂手演出はまた変わって、意外にしっくりした。今なら白石加代子は70年代の「時代」の舞台だったと言い切れるかもしれない。観客もまた変わっているのを実感する。
他の芸術と違って、演劇の戯曲は時代とともに様々な衣装を着けることができる。そして新しい観客に触れる。一期一会、演劇の面白さの一端に触れる公演でもあった。

ネタバレBOX

「いかけしごむ」の男が、クモの糸のようにぶら下がったいのちの電話に裏切られて死ぬという結末は残酷だが、この物語の結末としては秀逸だと思った。
黄色い叫び

黄色い叫び

TRASHMASTERS

サンモールスタジオ(東京都)

2021/06/23 (水) ~ 2021/06/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

何度も再演されている中津留のディスカッション・ドラマで初演以来十年もたつのに、色あせないばかりか、コロナ禍のもとの中央政権のあやふやで頼りない無責任体制を見るにつけ、このドラマが描いた国民の怒りは地方からふつふつと中央に押し寄せているのを感じる。政治を担うものと国民との乖離は長く言われてきたがいま、それは、一層明らかになっていて、オリンピックを機会にそろそろ手が付けられない状態になっている。
この作者はそれが人間なのだ、と、図式的にならないように多くの作品を書いてきているが、ここに至れば、このドラマも、今こそ見るべきドラマ、という事になる。小さな劇場での再演だが、満席の客席の空気は重かった。

首切り王子と愚かな女

首切り王子と愚かな女

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2021/06/15 (火) ~ 2021/07/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

劇場新装のこけら落としがコロナ禍にぶつかったのは、不運だった。
ステージに向かって扇型に広がるスロープのある芝居を観るのは最適の700程の客席を持つパルコ劇場の自前の制作作品である。ここで新しい渋谷劇場文化を打ち出そうという意欲が作・演出・キャスティング、美術など、舞台のすみずみまで溢れている。
なかでも、意表を突いたのは物語。
タイトルだけを見ると、時代錯誤かと思うようなタイトルだが、中身はいまをはやりのコミック原作を思わせる奔放なファンタジーだ。しかし、2・5ディメンションとは全然違う。作・演出の蓬莱竜太はもともと小劇場の出身で、小さな世界を得意としていた。それがデビュー以来20年地道に経験を重ねてこの大型のファンタジーの世界で演劇を作った。時代も場所も架空の王国という現実の手掛かりが全くない世界を舞台にするのはかなり難しいが、成功すれば「スターウオーズ」のように大きく化ける。内々、そういう狙いがあるのかと思わせる器量の大きさがあるところが面白い。するとこれはエピソードXなのだろうか。
没落が忍び寄っている女王(若村麻由美)王国の跡継ぎ王子(井上芳雄)をめぐる権勢争いに揺れる王宮に庶民の若い女(伊藤沙莉)が巻き込まれる。愚かな身分の低い女と言われながら、不運な運命を背負った王子とともに王国の明日を開いていく。まぁ、なーんだと言われるような話ではあるが、変に時勢批判や時流に媚びたりしないでまっとうに現代のファンタジーを作ろうとしているところを評価したい。広いステージを生かして多くの構成デッキを組み合わせて舞台を作っていく美術も、歌える主演者を生かした印象的な音楽も、ベテランの中に一人入っている新進の女優伊藤沙莉も、なかなかいい。王子と愚かな女の違いをセリフで見せているところなど蓬莱らしい工夫である。
昼間の公演だがほぼ9割の入り。ファン客ばかりでないところも頼もしいが、こういう演劇がどのように発展していくかは、よくわからない。劇場の力量にかかっている。

目頭を押さえた

目頭を押さえた

パルコ・プロデュース

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2021/06/04 (金) ~ 2021/07/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

開場したころから独特のカラーで都会の芝居好きの心をくすぐる芝居を作ってきたパルコ劇場がフレッシュなキャスト・スタッフで、次世代の商業演劇を創ろうという新路線。新装なった劇場の「ショーガール」から三谷幸喜に次ぐ、柱になる路線を開発しよう、と言うわけだ。目の付け所はいい。
ジャニーズ男性タレントに代わり女性タレントを主役に広い分野からのキャスティング。芝居の書ける若い作家。収まりのいい演出家。日常生活とつながるアクチュアルな素材。まずは、外の一回り小さい劇場でのトライアウト。正攻法のトライアルがこの東芸イーストでの「目頭を押さえた」40公演だ。
コロナ禍でのスタートは不運だったかもしれない。芝居の組みはよく時勢を見ているが、舞台には狙いが行き届いていない。最初から当てようというつもりもなかったかもしれないが、座組はきちんとできているのに、どこも際立っていない。おもいきってどこか、突出するところがないと舞台は動き出さない。商業演劇なのに、Iakuの公演ほどにも盛り上がっていない。残念だった。一つ言えば、素材にもなっている「遺影」をなぜ、もっとさまざまに生かさないのか。物語りが始まるのも意外な女子高校生の受賞だし、そこに山村に生きる人々の生活や哀歓も象徴的にうつしだしていただろうに。おまけに現実に主人公は写真を「今撮っている」。人生をかけようとしている。なじみのない「喪屋」よりももっと素直に観客の心に物語の芯が入って行けただろうに。



ネタバレBOX

横山拓也の今の力量はこんなものではないだろう。十年近く前の旧作をこの公演脚本としたのは、幕内ならではの理由があるのかもしれないが、観客としてはこの有望な作者をつぶしたりすることがないよう、切望する。劇場が作者をつぶすという事はたまにはあることなので一言。
未練の幽霊と怪物

未練の幽霊と怪物

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2021/06/05 (土) ~ 2021/06/26 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

能舞台のような舞台と出入りの橋掛かりが白いマットで黒い空間に浮かんでいる。いくつかの現代演劇の秀作を上演してきた神奈川KAATの大スタジオ。
演技スペースを囲んで、中央に見慣れない伝統弦楽器を電子楽器につないだような楽器を演奏する音楽監督は内橋和久。上手に謡手の七尾旅人。意表を突く鋭い弦の音が鳴り響いて第一部の「敦賀」が始まる。チェルフィッチュ特有の体の動きとともに、さりげない口調で自分の敦賀をドライブした体験を語りだす旅人(栗原類)。旅人は敦賀のさびれた海辺で、世界の永遠の循環を夢見ながら失敗した高速増殖炉(石橋静河)に出会う。
チェルフィッチュの新作は、今までにない工夫がある。一つは、能の形式を積極的に取り入れていて、その伝統に沿って見るとドラマの世界に入りやすいということだろう。
ステージのセッティングだけでなく、物語のつくりも、ナレーションの音楽化も、第三の登場人物・聞き手の作り方(片桐はいりが狂言のアドで登場する)も、人間ならぬものに人格を与える手法も能・狂言の伝統を利用しているが俳優の演技、セリフ、衣装、舞台の内容も様式も全く現代である。それが混然一体となって、この「未練の幽霊と怪物」という非常に現代的なテーマを浮き上がらせる。
第二部「挫波」では、建設中の国立競技場の周辺を散歩している男(太田信吾)が、斬新な設計をしながら、世俗的な理由から実現しなかったオリンピック国立競技場を設計したザハ・バディッド(森山未來)に出会う。高速増殖炉も国立競技場も人間の叡智を集めて実現を願ったモノではあるが、その夢はいまも人びとの脳裏に残りながら葬られている。そして、その夢への思いは形のない「未練の幽霊」になって今の世にさまよい、廃墟や間に合わせのの「怪物」となって立ちすくんでいる。現代を表現するのに、最も象徴的な二つのモノは極めて政治的な色彩を持つが、その背後には現代に生きる名もない人びとの見果てぬ夢にも裏打ちされている。「三月の五日間」で見た世界を覆いつくすような舞台がここに出現した。
今までにないことで言えば、もう一つは既成俳優や、音楽家の登場である。それで、細部への完成度が高くなった。
演劇は、今見た時点で完結してしまうものではあるが、いつまでも見たという事がに観客の記憶に残ることは非常にまれな幸福だと思う。本年随一の傑作だと思う。一部二部共に55分。間に休憩10分



インク

インク

劇団俳優座

俳優座スタジオ(東京都)

2021/06/11 (金) ~ 2021/06/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

海外の新作の翻訳上演は、世界の動きを知る上でもうれしい試みで、この舞台は17年の初演で英米で上演された舞台だ。実話ネタで、70年代に英米のメディア界を席巻したマードックの英米進出の嚆矢となった、イギリスのタブロイド紙「ザ・サン」の成功譚である。
オーストラリア出身のマードックが、イギリスの地方紙のデスクでくすぶっていたラリー・ラムと組んで、それまでになかった徹底的に大衆迎合の新聞を作ってそれまでの高級新聞や一般紙に肉薄する。英米の脚本によくある要領を得たテンポのいいホンで、真鍋演出は装置・振付の助けを得て、一気呵成に物語を展開する。さすがに俳優座だけあって、俳優たちもみな早い翻訳のセリフを見事にこなして一幕1時間25分、あれよあれよと言う間にロンドン最低の売り上げだった「ザ・サン」は、ラムがかつて働いていた競争紙、「デーリーメール」を追い上げる。二幕は、大衆迎合が幾つもの壁に突き当たるが、遂に一年でデイリーメールを凌駕する。物語も新聞と大衆をめぐる人間的な新聞人のドラマに。触れていく。

見ている間は全く飽きずに面白いが、しかし、この話は1969年のことで50年も前のことだ。このドラマの内容は既に日本のジャーナリズムも十分に咀嚼して、週刊文春は「文春砲」も撃つし、セックス記事にも余念がない。テレビのゴールデンはお笑い芸人のひな壇番組ばかりになって、健康番組ですら芸人の助けがなければ成立しない。世界に共通して起きたメディアの形態と内容の変化だから、誰でも思い当たるところはあるが、今後の処方箋は見えていない。英米でもさしてヒットしたようでもないから。時期的にいささか遅かったか、という気がしないでもないが、今の日本の忖度全盛のジャーナリズムを見ると、何年か後には面白い忖度ドラマが見られるかもしれない。休憩10分を入れて3時間。



ネタバレBOX

ラストはマードックの興味は「ザ・サン」が成功するとたちまちアメリカのテレビネットワークに移っていきラムたちは取り残され、スタッフは同じような路線を求め始めた競争紙に引き抜かれていく。日本のように、賢しらにジャーナリズムの衰退などと嘆いて見せるだけでケリをつけた気になっていないところはいいのだが、既に故人であろうラムがその後どうしたのか、知りたいところだ。いつも思うのだが、俳優座は配役表を配ってほしい。今回も脇役は皆うまいのだが誰が誰だかわからない。これでは贔屓のしようもない。クラウドファウンディングも求められても雲をつかむようではね。
六月大歌舞伎

六月大歌舞伎

松竹

歌舞伎座(東京都)

2021/06/03 (木) ~ 2021/06/28 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

『第二部・桜姫東文章下の巻」四月の上の巻の時は初日の前まで席があったのに、下の巻は前売り初日で完売。やっと手に入れた最悪の一等席(上手二階の四列目の端)で見た。いかにも歌舞伎劇の面白さが詰まった舞台で、当代の花も実もある名優二人の名演が見られた。渡辺保さん曰く、これは「画期的」「戦後歌舞伎の代表的な名舞台」「一代の傑作」。つまりは、観劇経験豊かな碩学・渡辺さんが生きて目にした舞台の中では一番と言っているのだ。いつも書くが、ご自身の「歌舞伎劇評」は本当にタダで読ませていただくには申し訳ないような充実した内容で教えられることばかりだが、それだけでなく、今の現代人が古典に接してどこを面白がればいいかも示唆してくださる。同じネットのメディアだから、具体的な観劇体験はすべてそちらにお任せして・・・・、「見てきた」をいうと、
歌舞伎座がまだ、律義に一席明けの観客席とは思わなかった。多くの公立劇場は既に全席売っている。全席売っていれば、もっといい席が手に入ったかもしれないのに。
どこかで話題になっていたが、コロナで掛け声が禁止になっている。これは歌舞伎を殺す。岩淵庵室の長い立ち回り。二人の型が決まるたびに客席から締まりのない「拍手」がおきる。
「松島屋!」「大和屋!」と瞬時の掛け声で次にいけるのに、間があく。次のセリフの頭にかかると聞こえない。勧進帳で飛び六法で引っ込むところ、手拍子が起きると聞いた。手拍子では六法は踏めない。役者は無視するだろうが、これでは歌舞伎と言う演劇のリズムやテンポを殺す。本人はいいつもりでも芝居を邪魔している。だれか言うべきだ。
劇場で、話すのも禁止、食べるのも禁止と言うのは演劇の歴史を無視した近代科学至上主義者の暴挙であろう。劇場では話すのも食べるのも、息をするのと同じである。昔から「かべす」と言うではないか。それも人と接する劇場の役割である。東宝は爆撃下でも劇場を開けた。松竹にこの規制は劇場の根本を揺るがす、と言う人がいないはずはない。科学者は、それは場内弁当屋の提灯持ちと言うかもしれない。だが、演劇人にも、それがダメなら、死んでもいい、と言う人がひとりくらいいてもいい(内心ではみな思っているだろうが)のではないかと思った。
孝・玉で75年に京都南座で初演した桜姫は、NHKが当時3時間番組で収録放送した。その再放送が、なんと、大みそかの紅白歌合戦の裏番組(Eテレ)で編成された。終わると大みそかの除夜の鐘。バブル以前の日本は小粋な文化国家だった。


キネマの天地

キネマの天地

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2021/06/05 (土) ~ 2021/06/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

 井上ひさしもあれだけの作品数を書けば、全部が傑作と言うわけにはいかないのは承知だが、何でよりによってこの作品を再演するのかわからない。新国再演なら、作者も力を入れて書いた「紙屋町さくらホテル」や「夢三部作」のような、井上ひさしらしいいい作品があるではないか。今やる意味も分かりやすい。確かに「キネマの天地」は商業劇場で初演されて以来ほとんど再演されていないと思うが、それは、初演の松竹への忖度、というより、この作品の器量が小さかったからだ。個性のある女優を四人並べて、その一人が犯人に違いないと殺人事件を解明していくのがあらすじだが、推理劇にするか、ドタバタ笑劇にするか、バックステージものにするか最後まで腰が決まっていない。セリフの中身には、映画界の女優のさや当てや、舞台となった東劇の芝居への思いもあるが、通り一遍で、深くない。それではならじと、屋上に屋を重ねてどんでん返しのつるべ打ちになるが、なんぼなんでもそれはないだろうというような結末になる。役者も棒立ち芝居が多くて締まりがない。このシーズンの主演公演三作を見たが、なぜ、この公演をするのか意図不明の上演が多くて残念だった。ことに「東京ゴッドファーザーズ」とこの「キネマの天地」。客もよく知っているのか、今日が三作の内では一番よくてようやくすれすれ5分の入り。ジャニーズを動員していないところは健気だが、これは正直な客の評価である。井上作品が出たから言うのではないが、栗山民也が芸術監督の時は意図が明確だった。今はただただ訳が分からない。困ったものだ。


夜への長い旅路

夜への長い旅路

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2021/06/07 (月) ~ 2021/07/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アメリカ演劇の原点、といわれるほどの有名作品でありながら、日本ではあまり上演されることのなかった現代劇古典(1956)がコロナ禍真っ最中に幕を開けた。コクーンが始めた「世界演劇発見シリーズ」で演出はイギリスのフィリップ・ブリーン。どこかで見たつもりになっていたが、初見である。3時間半もかかるのだから見ていれば忘れない。
なるほど、アメリカ演劇が詰まったような作品で、かの国に生きる人々の個人と社会への見果てぬ夢への渇仰が切々と描かれる作者の生い立ちを映した家庭劇だ。現代のアメリカ演劇にまで続くテーマがすべて埋まっている。
過去の栄光にとらわれている父(池田成志)と母(大竹しのぶ)、父は20歳代にそこそこの成功を収めた舞台役者。いまはわずかな不動産を転がして生計を立てている。母はクリスチャンの女学校を出て舞台に惹かれて父と結婚、慣れない巡業暮らしの中で二人の男の子を育てた。薬物依存症。上の子(大倉忠義)は定職に就かずアルコールにおぼれている。作者を映すように文弱な弟(杉野遥亮)は当時不治の病と恐れられていた肺結核の宣告を受ける。一家はアメリカ的な愛に満ちた家庭を持つことを切望しているが、現実はその夢をことごとく打ち砕いていく。
舞台は終始、一家の居間で、二幕、場数はそれぞれ4場か。一幕は1時間20分。二幕は1時間50分。休憩は20分。セリフ劇でしかも70年近く前の本なのに、ダレない。
演出は多分この時世だからリモートだったのだろうが、実に細かい。この興行は時節柄ジャニーズ興行で、それが当たってか、見た回(11日夜)は満席の盛況で女性客ばかり(若い層ばかりでなく年齢幅は広かったから、年長組は大竹のファンクラブか)、男性客は二十人はいなかったと見たが、前にこの劇場で見た「ハウンド警部」のような客引きのいやらしさはない。演出はこの名作を役者人気に頼らないで誠実に舞台化している。後半にはそれぞれの登場人物がお互いのエゴをぶつけ会うシーンが続くが舞台の人間像に引き込まれる。大竹ができるのは当然としても、あまりこういう陰のある役でいいところを見たことがなかった池田もぐずぐずしただらしなさを演じ切る。大倉はかつてグローブで蜘蛛女を見たことがあって、大丈夫かと思ったが、健闘。あまり舞台経験がない杉野はその素直さが生かされていた。
舞台には舞台全体を覆うように大きな白一色の吊り幕がつられていて、それが形を変えて上下することで抽象性が加わり、見たことのない室内劇になった。舞台に置かれた古いピアノ、海が近くてかすかに聞こえる波や海鳥の声、霧笛などの音響効果、少ないが音楽も効果を上げている。
3時間半を飽きないように作られている。芝居好きは男女老若を問わず、喜んでみる舞台になっているが、果たして満場を埋めたファンクラブ客はこの芝居をどう見ただろうか。
ともあれ、この名作を、思いがけずいい座組で見られたことはよかった。「発見」である。


十一夜 あるいは星の輝く夜に

十一夜 あるいは星の輝く夜に

江戸糸あやつり人形 結城座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2021/06/02 (水) ~ 2021/06/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

四百年近い歴史のある人形操りの劇団「結城座」の記念公演。糸操りの人形による職業劇団は見たことがないから、多分唯一の伝統芸の劇団なのだろう。
今回はシェイクスピアの「十二夜」の結城座劇化である。鄭義信の脚本演出で、軸に、藝達者な花組芝居出身の植本純米が客演していて、純粋な人形劇ではないが、こういう融通が利くところもこの劇団の特色らしく、他の普通の劇団に客演して人形の役割を演じているのは見たことがある。
人形劇で一夜芝居にするのはなかなかむつかしく、人形だけでなく浄瑠璃というもう一つの強い味方のいる文楽も苦戦している。しかし「国立」の助けを借りながらでも定期公演が可能な文楽が、かなり前にシェイクスピアの確か「テンペスト」だかをやった時にも、なんでこれを?と言う感想を持った。
「十二夜」はもともと、クリスマスの祝祭劇で、男女、身分の取り違えの面白さに徹したロマンス劇だから、人形を人間と交錯させやすい構造だ。筋がこんがらかるところは植本純米が主人公の従者の阿呆という役柄で面白おかしく芝居に入ったり、説明したりできる。他愛ない話なのだが、蜷川が歌舞伎座でもやったし、旧新劇団はよく上演する。今回は、糸操りで、一メートルに足らぬ人形たちが舞台を作っていく。鄭義信が新たに書いたのは部分は少ないが、その工夫は生きていて、糸操りの人形の動きだけでは避けられない退屈さを救っている。
しかし、この長い歴史のある糸操りの劇団が存続していくのは、厳しい道が待っていることだろう。現に、客席はほぼ満席だが、若い観客はほとんどいない。一方演者には若い女性もいるが、一夜の興行を打ち続けるのは厳しい。伝統演劇の継承存続は歌舞伎のように現状保存で「生きている」ことが望ましいが、文楽や沖縄の演劇をはじめ、時代の波に洗われている演劇も少なくない。あらためてこのよく出来てはいるが新古折衷の結城座の舞台を観て時代の非情も感じた。

ネタバレBOX

鄭義信が新たに書いたのは終幕に付け加えたエピローグで、すべてが阿呆の見た星の輝く夜の夢でした、と言うくだりと、東北の大震災をプロローグの船の難破に重ねて、舞台の地中海の僻地の海岸を東北に見立ててセリフの多くを東北弁にして(植本の出身地も確か東北)いるだけだが、この辺の工夫は生きている。
外の道

外の道

イキウメ

シアタートラム(東京都)

2021/05/28 (金) ~ 2021/06/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

イキウメの世界も、このコロナ禍の一年余で変わってきたようだ。
以前は天体の運行とか、宇宙人の襲来とか、SFでも飛び道具のような設定で、現代社会の奥に潜む人々の不確実性を鮮やかに描いて見せてくれた作品が多かったが、今回は、SF的ではあるが、設定はだいぶ変わった。
舞台は相変わらずの北の小さな町。故郷へ帰ってきて、配送屋で生活している四十過ぎの男寺泊(安井順平)が地元の行政書士事務所で働いているかつての同級生の山鳥(池谷のぶえ)に再会して、全国からひそかに客が来るという町はずれの喫茶店で、店主(森下創)の手品を見に行く。それは個体を人間の中に埋め込んでしまうという手品で、実際に政治家がパーティの会場で、その場で割れたビール瓶のかけらを頭に埋め込まれて急死する超現実的な事件があった。
手品を見たころから寺泊の周囲に奇妙な事件が起き始める。妻〈豊田エリー〉が美しくなり始め、どうやら、山鳥の弟と浮気しているようでもある。配送する荷物は行き先が分からず、誤配で返送されてくる。配送物の中身は「無」と書かれている。中にはマックロクロスケ、闇が入っていて、そこから漏れ出した闇は時に舞台を暗黒の世界に誘っていく。
・・とイキウメらしい展開になっていく。しかし、それは、全社会に及んでいく超自然現象ではなくて、個々の人間の、個人の記憶と認識から始まり、見知らぬ子ども(大窪人衛)が家族と主張して入り込んできたりする。
SFファンタジーのような、ホラーのような、イキウメ独特の舞台の感触は変わらないが、仕掛けが壮大な宇宙から個人になった。同級生の間の人間関係や喫茶店のマスターの手品など、いままでになかった人間的な味わいやユーモアがあるし、どこか、幼いころ読んだ、小川未明の童話の街の雰囲気もあって、なかなか面白い。
休演している間にブラッシュアップする時間もあったのだろう、完成度も高い。見終わったあと、あれはどういう事だったのだろうと思い返して、はたと手を打つ楽しみも大きい。


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