ココロコロガシ(26日完売!)
カプセル兵団
ワーサルシアター(東京都)
2016/06/16 (木) ~ 2016/06/26 (日)公演終了
満足度★★★★★
ココロコロガシ
まず、度肝を抜かれたのは、あの小さな空間であれだけの高速で激しいアクションと迫力と、うわーっと押し寄せる役者さんたちの熱量と思いだった。
心は何処にあるかと問われたら、大抵の人は、胸を指し示すだろう。しかし、確かに其処に心が在ることを確認した人もまたいない。
目に見えないもの、その在りかを目で確認出来ないもの。けれど、『星の王子さま』も言うように、見えなくても確かに在って、「大切なものは目に見えない」のである。
『ココロコロガシ』は、その目には見えない「心」をめぐる物語。
人の心を喰い尽くし、吸収して自分の力の素とするマギーもまた、その切っ掛けになったのは、大切な友を助ける為だったのに、人の心を喰い尽くして行く内に、大切なものを自ら壊し、その事に傷つき、邪悪な存在へと変わって行った悲しい存在でもある。
マギーによって、次々と憑依された人達はトラウマを思い起こさせられ、心を壊されそうになり、喰い尽くされそうになりながらも、心を喰い尽くされなかったのは、人は、そのトラウマと対峙し、自ら乗り越えた時、心は強くなり、何度も自分の力で立ち上がって来たからである。
想いは人を変える。想像すること、こうなりたいと願うこと、自分の為だけでなく、大切な誰かを守りたいと強く思った時、人はとてつもない心の強さを手に入れる。
人を思うこと、自分の思いを信じること、 それは心を変え、強くする。
強い思いはやりきれない、悲しい現実を変える力がある。
その強い思いを乗せた言葉で紡がれた物語は、世界を変える力があると思っている。
ココロを悪い方へとコロガシ弄んではいけないけれど、良い方へと転がして行けば、平和で幸せな世界になるのではないだろうか。
その事を、全編を貫く笑いの中に、しっかりと紛れ込ませながら、きちんと伝えている素敵な舞台だった。
文:麻美 雪
cramurer/sirènoyer
幻想芸術集団Les Miroirs
シアターシャイン(東京都)
2016/06/03 (金) ~ 2016/06/05 (日)公演終了
満足度★★★★★
幻想芸術集団 Les Miroirs 10周年記念公演
幻想芸術集団 Les Miroirsの10周年の記念公演は、「sirènoyer -シレィノワイエ-」と「cramurer -クラミュレ-」の2本同時上演。
どちらも、仄かに美しく甘美な毒に彩られた世界。
ベラドンナの毒とアンスリウムの甘く儚く危うい香りを孕んだ、耽美で幻想的な舞台。
【sirènoyer -シレィノワイエ-】
舞台に立ち込めた白い靄が消えると、其処は、鈍色(にびいろ)の空、吹き募る嵐、見えざる運命の手に引き寄せられ辿り着いたのは、黒衣の未亡人の住まう館。
「sirènoyer -シレィノワイエ」-の物語が緩やかに紡がれ始める。
「sirènoyer -シレィノワイエ-」は、水妖と一人の青年の幻想的で、儚く美しい悲恋の物語。
けれど、その結末は、果たして本当に悲恋だったのだろうか?最後まで観て行くと、この物語の結末は、二人にとってはある種、幸せな結末だったのではないかと思う。
水妖と青年の悲恋。幼い頃から好きだったオンディーヌとローレライの伝説が、記憶の底から蘇る。
青年になる前の少年だった頃の可憐な水妖との恋は、水界からも人間界からも祝福されるものではなく、水界の王に知られれば、少年の命を奪うか人魚姫のように自らの命を儚くするかしかない。
少年は命の代わりに、片目を失い、少年の前から水妖は姿を隠し、水妖をも失う。
やがて、少年は水妖を探し尋ねる隻眼の旅人となり、嵐の夜、黒衣の未亡人の住まう館へと辿り着く。
謎と悲しみを纏った黒衣の未亡人の正体が、露になる時、隻眼の旅人の長い旅は終わり、旅の終わりはまた...。
一見悲恋に見える結末は、長い時間の果てに辿り着き、水妖が余儀なく奪った旅人の目を返し、互いの腕(かいな)に互いを抱いたふたりにとっては、幸せな結末だったのではないかとも思う。
朝霞ルイさんの苦悩と水妖への消えることのない恋情を抱えたまま旅を続ける、一途で凛とした隻眼の旅人の佇まいの美しさと切なさが、胸を貫いて涙が込み上げた。
麻生玲菜さんの水妖は、可憐で儚く、乃々雅ゆうさんの美しさと恐れと悲しみを湛えた謎めいた黒衣の未亡人の痛みが胸を刺す。
「sirènoyer -シレィノワイエ-」は、海のように深く静で悲しみの媚薬を垂らしたような蒼の愛。舞台の隅々までが、美しい物語に包まれた舞台だった。
【cramurer -クラミュレ-】
「sirènoyer -シレィノワイエ-」が、蒼の愛だとしたら、「cramurer -クラミュレ-
」は、紅蓮の色をしたアンスリウムか曼珠沙華の花のような紅の愛。
「cramurer -クラミュレ-」を観ている間中、一枚の絵がずっと、頭の中に浮かんでいた。
速水 御舟の「炎舞」である。
紅蓮に捲れるように、追い縋る炎から逃れようと舞う様にも、敢えて炎に身を投じようとするかの様にも見える蝶と炎の絵だ。
篝火の炎のように、紅蓮に身を焼く紅の愛。
恋人しか目に入らない実の兄に心を寄せる妹(池下真紀さん)の、報われることも、気づかれることも、受け入れてもらえることもない、痛ましく哀しい愛。
火祭りの日を境に姿が見えなくなった恋人を狂おしく焦がれる絵描き(朝霞ルイさん)の愛。
小鳥の中に身を移し、恋人の絵描きに知られぬように寄り添う恋人(祐妃美也さん)の儚く切ない愛。
絵描きに寄り添い、やがて、絵描きの恋人と同化して行くかのような小鳥(風祭鈴音さんの)自分の思いをも抑え、絵描きと恋人の恋を見守る愛。
ファム・ファタールとそれに焦がれる者、更にはファム・ファタールに焦がれる者に焦がれる者の狂おしく哀しく美しい紅蓮の愛が身を貫き、心を刺して痛い。
けれど、その痛みは何処か心の奥底に隠した、憧れの痛みのようでもある。
最後にはらはらと舞い落ちる深紅の羽根は、絵描きと恋人の昇華した愛の血のようで、心が震えるほどに美しい。
薔薇色のため息が零れるほどに儚く幻想的で美しい耽美に満ちた舞台。子供の頃から大好きな世界だった。
幼い頃にとっぷりと身を浸した、幻想的で美しいも物語の中で、遊んでいた懐かしい記憶が頭と身体の中にまざまざと甦って来る、濃密でいて儚く美しい時間に漂った素敵な時間と舞台。
久しぶりに、幻想的な物語を書きたくなった。
空間に紡がれる台詞が、シェイスクピアの「真夏の夜の夢」のようにとても美しくかった。
美しい言葉が水のようにゆるやかに滔々と流れているような 心地好さ。幼い頃に好きだった物語や中学生の頃に夢中になって読み耽った小説に綴られた言葉と似ていて、懐かしい記憶が次々と呼び覚まされた舞台だった。
文:麻美 雪
紅牢夢
Dangerous Box
上野ストアハウス(東京都)
2016/05/26 (木) ~ 2016/05/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
書けない作家の頭の中と業
事前に解っていたのは、「謝罪ファンタジー」であるということと、冨永さんたちから、役者さんたちが死にそうに心身ともに大変だということだけ。
謝罪ファンタジー?死にそうに大変、一体どんな舞台なのか、頭に幾つもの疑問符だけが渦巻く状態で、舞台が幕を開けた瞬間、意味が解った。
オープニングから、激しい動きのダンス、軸になる役者はほぼ出ずっぱり、次々と被さるように重ねられて行く台膨大な台詞、叫ぶように、相手にぶつけるように発せられる言葉、劇中に何度も差し挟まれる激しいダンス、自身を抉るような台詞、肉体的にも精神的にも消耗するだろうと思った。
「謝罪ファンタジー」の意味は、内容が書けない時の脚本家、作家の頭の中の話だからだと解る。
この舞台を観ると書けない時の脚本家、作家の頭のがよく解る。交錯し飛び交う言葉と、右往左往する脚本家の頭の中の言葉と思考。それは、産みの苦しみだなんて月並みな一言では言い表せないものがある。
私自身の事を話せば、作家になると決心した12歳の春、決めたことがひとつある。作家になるなら、自分の痛みと傷にも目を背けずに、自分の中に存在する負も闇も情けなさ、不甲斐なさも見つめること。
そして、腑分けして、敢えて痛みや傷を抉る覚悟もした。逆に言えば、その覚悟をし、そうして来たから悲しみも痛みも越えられたとも言える。
脚本家にしろ作家にしろアーティストにしろ、物を創り出したり、言葉を紡ぎ書くということは、そういうことに目を背けないことであり、時にそれは自分の触れたくない部分を抉る作業でもある。
書けない、創り出せない状態というのは、そこから目を背けたい、逃れたいという、ものを創ること、ものを書くことを生業とした者が陥る苦しみであり、業なのだと思う。
それでも、創り出し、書いてしまう、創らずには、書かずにはいられない、創り、書くという行為から逃れられないのもまた、アーティストやものを書くことを生業にした者の業である。
それは、ただ創ること書くことが好きというだけでなく、創りたいもの、書きたいこと、創り、書かなければいけないことがあるから創るのであり書くのであり、創り、書くことを止めた時、自分の中の何かが死ぬような気がするのだと思う。
そんな事をつらつら考えながら観た舞台だが、そのややもすると重苦しくなりがちな内容を、笑いを散りばめエンターテイメント溢れる舞台にしたDangerous Boxの「紅牢夢」は、濃厚な時間を過ごした舞台だった。
文:麻美 雪
セリフを下さい
Theatre劇団子
テアトルBONBON(東京都)
2016/05/25 (水) ~ 2016/05/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
Theater劇団子:「セリフを下さい」
昨日の夜、中野テアトルBONBON大高 雄一郎さんの出演されているTheater劇団子「セリフを下さい」を観に行って来ました。
とある廃校になった高校の放送部室、青春コメディかと思ったら、んっ?ミステリー?いきなり、この高校卒業生で放送部の部長だった七瀬(竹中 さやかさん) にかけられた殺害容疑を晴らすべく、訪れた弁護士川端(和田 裕太さん)と元放送部の顧問松平(杏泉 しのぶさん)の会話からはじまる舞台は、シリアスな雰囲気が漂う。
が、しかし、次の瞬間から舞台には、9割笑い、1割しみじみの世界が展開される。溢れるばかりの笑いの中に、散りばめられたしみじみが、お汁粉に入れるひとつまみの塩のように、舞台全体の味を締め、高校生だった七瀬の最後の「セリフを下さい」という一言がしみじみと胸に染み、胸を刺す。
最初から観て行くと、「セリフを下さい」と言う一言の台詞に込められた意味と重さ、七瀬の過去から現在に至る心の叫びであることに気づく。
そしてそれは、七瀬以外の人間には、優しく美しいマドンナを演じた、高校時代の親友であり、七瀬自身が気づいていない美点を見抜き、それ故に、自分に持っていないその美点に嫉妬し、嫉妬から七瀬の自己肯定力を奪うように支配しようとし、陥れる事件を引き起こし、後年その事を深くい続けた有希(斉藤 範子さん)の心の底に眠った叫びでもあったのではないか。
七瀬とは違う、本当の私の言葉、本当の私の思いを吐き出せる言葉を下さいという叫び。
小学校の頃に、全クラス対一人といういじめを受け、自分に自信を失くし、人が恐く、言った言葉は全て曲解され、ねじ曲げられ、家以外で言葉を発することが恐くて、教室では一切話さなくなった私の姿を七瀬に見て、七瀬の「セリフを下さい」にこめられた思いと痛みが胸を刺し、胸に染みた。
高校ぐらいまでは、大なり小なりのいじめはあったものの、小学校の3年間の地獄のような日々を思えば、大したことはなかったが、それを乗り越えることが出来たのは、理解し信じてくれた母と担任教師のおかげであり、どんな時も、母と行く先々で、理解し助けてくれた恩師に出会えたこと、そして書くという自分だけの世界があったことが支えとなった。
人は、一人でも理解してくれる人がいたら、絶望はしない。
「あなたを信じてる」「あなたが必要だ」その一言があれば、その一言を言ってくれる人がいれば、人は生きて行ける。
「セリフを下さい」は、七瀬の「信じて」という心の叫びと「あなたを信じてる」と言って欲しいという願いではなかったのか。
そう思いながら聞いた七瀬のこの台詞で、涙が溢れた。
この1割のしみじみを9割の笑いが包み込む。その9割の笑いの中の4割は恭介の大高雄一郎さんが醸し出していたようなきがする。男前なのに、なぜか出て来る度に可笑しい。
シリアスなだけでなく、全編笑いに溢れた楽しい舞台。でも、ちゃんとひとつまみの潮がぴしっと効いた素敵な舞台だった。
文:麻美 雪
『邯鄲』『卒塔婆小町』
もんもちプロジェクト
シアターX(東京都)
2016/05/19 (木) ~ 2016/05/22 (日)公演終了
満足度★★★★★
もんもちプロジェクト:第二回本公演「近代能楽集」
去年は、「近代能楽集」の「邯鄲」のみの公演だったこの舞台、今回は「邯鄲」と「卒塔婆小町」の2本立て。
【邯鄲】
「邯鄲」は、18歳の次郎が幼少の頃に自分の乳母であった菊の家を訪ね、10年ぶりの再会に喜ぶ菊に、菊の家に邯鄲の里から来た枕があると噂で聞き、菊の家系が代々宝物にしていたその枕で寝たいと告げる。
夢から覚めると、何もかも虚しく馬鹿らしくなるという邯鄲の枕で寝た菊の夫も家を出たまま戻らず、それ以来菊の家の庭の花が咲かなくなったと言う。
人生が始まってもいないのに、全てを悟りすませたように、生きようとする覇気も熱もなく、ただ死んでいるように生きていた次郎。
精霊や秘書、踊り子、妻などが登場する夢の中でさえ生きようとせず眠り続けている次郎は、眠っているうちに独裁者にされた挙げ句、自分の意思に反して毒薬を飲ませて命を費えさせようとする者に迫られた時、初めて「死にたくない!生きたいんだ!」と叫ぶ。
夢から覚めて菊の庭を見ると、枯れていた花が、活き活きと美しく咲き乱れる生命の輝きに溢れた庭であり、次郎の心にも変化が現れるという物語。
観た瞬間、去年の「邯鄲」と違うと感じた。
去年の越前屋由隆さんの次郎が、最後に「生きたいんだ!」と叫ぶまでは、生きてもいないのに悟りすませた鼻持ちならない次郎だったのに比べて、今回の次郎は、菊に対して最初から温かい気持ちを持って接している感じがし、次郎自身にも人間味や血の通った温かさを感じた。
悟りすませたように見せている、次郎の中にある諦観や其処に至る孤独のようなものを感じて、最初から次郎に対して鼻持ちならない反発感を感じずに、「生きたい!」と思える何かをその手に掴んで欲しいと祈りにも似た気持ちを持ちながら観ていた。
森川裕美子さんの夢の中の次郎の妻も、去年の次郎とどこか似た独りよがり危うさを醸し出していたのに比べ、人間味のある血の通った痛ましいまでのいじらしさと寂しさを感じた。
石上卓也さんの老国主は、コミカルさを見せつつも、徐々に迫力を増して行き、次郎の矛盾と真理を鋭く突いて迫力がある。
宇都恵利花さんの菊は、去年以上に次郎を慈しんだ乳母そのもので、包み込むような温かさを感じ、菊そのものだった。次郎とのやり取りでは、乳母と次郎の間に血の通った温もりと結び付きが感じられた。
最後の「生きたいんだ!」と叫んだ次郎の言葉と庭に咲き乱れる花を見て、清々しく綺麗だと呟いた次郎に良かったと思うと同時に、次郎と言う人間が腑に落ちた。
美しい言葉と幻想的な夢の世界で誘い、突きつけられたような素晴らしい舞台であることに変わりはないが、今年の「邯鄲」は、去年より更に深く濃く人間味のある観終わった後に胸に温かな光が射すような舞台だった。
【卒塔婆小町】
夜の公園で煙草の吸殻を拾う老婆が、ベンチの恋人たちの邪魔をしながら拾った吸殻を数えているのを見ていたほろ酔いの詩人が老婆に声をかける。
詩人は、ベンチで抱擁している若いカップルたちを生の高みにいると言うが老婆は、向こうは死んでいて、生きているのは、自分たちだと言う。
そのうち老婆は自分が昔、小町と呼ばれた女だと言い、自分を美しいと云った男はみな死んでしまうと言い、笑って取り合わない詩人に老婆は、80年前、参謀本部の深草少尉が自分の許に通ってきたこと、鹿鳴館の舞台のことを語り出すと、公演は、舞踏会に招かれた男女が小町の美貌を褒めそやす鹿鳴館の舞台に変わる。
詩人(深草少尉)は19歳の令嬢となった美しい小町とワルツを踊り、小町(老婆)の制止も聞かず、何かをきれいだと思ったら、たとえ死んでもきれいだと言うと断言し、「君は美しい」と言ってしまう。そして、百年もしたら、また同じ場所で、僕は又きっと君に会うだろうと言って死ぬと言う物語。
この「卒塔婆小町」は、以前からずっと観たかった演目。小野小町と深草の少将の百夜通いの伝説を、舞台を三島由紀夫が明治の鹿鳴館とその百年後(三島執筆当時)の現代に移し交錯させて描いた小説。
百夜通い伝説では、小野小町は言い寄る男を完膚なきまでに拒絶し、深草の少将にも百夜通いをしたら、想いを受け入れると一見すると傲慢で鼻持ちならない条件を突き付けるイメージで語られる平安時代の美貌の歌人であり、歳を経て老いさらばえた小野小町は、嘗ての美貌は見る影もなく落ちぶれて亡くなったという末路が多く語られている。
それらを合わせて、三島独自の小説にしたのが「卒塔婆小町」である。
笠川奈美さんは、99歳の小町と19歳の小町を舞台装置は公園のまま、扮装も99歳の小町のままで演じている。
腰も曲り、節くれだった手、茶色く煤けた膚と肉の落ちた胸で襤褸を身に纏い、出て来た瞬間に99歳の小町として佇んでいた小町が、80年の時間を遡り、19歳の小町になってゆくのを目の当たりにして息を飲む。
声も顔も19歳の綺麗な小町が其処に居て、心底美しいと思った。百夜通いする深草の少尉の思いに心動かされ、いとおしく思う深草の少尉が百夜通いの成就で、命を落とすことを怖れると同時に、成就して共に生きられたらと思う期待の狭間で、怯えながら幸せを感じている小町の微妙で繊細な心の揺れを奈美さんの小町から感じた。
小町は、百年ごとに生まれ変わり、深草の少将を待ち続け、出会い、亡くし、また生まれ変わって待ち続ける、永遠のループの中で生き続ける小野小町の生まれ変わりであり、これからもまた、その永遠のループの中で生き続ける永遠の愛の孤独のようだ。
橘爽太さんの詩人(深草の少尉)もまた、小町と出会い、想いを寄せ、命がけで愛を伝え、死に、また生まれ変わって思い続ける永遠のループの中で生き続ける深草の少将の生まれ変わりであり、永遠のループの中で心を捧げ続ける。
最後の台詞は、小町にとってはまた待ち続け喪う孤独と絶望であり、深草の少尉にとっては、また出会う希望であり未来でもある。
けれど、100年後にまた出会う希望が、小町の胸に仄かに兆したのではないかとも思う。
胸がきゅっと掴まれて、心にじんわりと染み込む「卒塔婆小町」だった。
冒頭の細谷彩佳さんの即興のソロの踊りも、とても美しく、この「卒塔婆小町」の幻想的な世界へとするりと導いてくれる。
大内秀一さんのソロの踊りも、惹き込まれる美しさと鋭さがあって素敵だった。
美しく儚い夢の中を彷徨っているような、濃密な時間を過ごした舞台だった。
文:麻美 雪
愛情の内乱
ティーファクトリー
吉祥寺シアター(東京都)
2016/05/12 (木) ~ 2016/05/25 (水)公演終了
満足度★★★★★
TFactory:「愛情の内乱」
夏のような陽射しの照る土曜日の昼下がり、吉祥寺シアターで末原拓馬さんが出演されているTFactoryの舞台、「愛情の内乱」を観て参りました。
今回の舞台は、私にとっても、色々と感慨深く特別な舞台でした。
なぜかと言えば、生前母が好きだった白石加代子さんがこの舞台に出演されていたからで、母の影響で、私も白石加代子さんが好きになり、1度白石さんの舞台を観たいと10代の頃から思っていたのが今日、末原拓馬さんと共演のこの舞台で拝見出来たからだ。
若かりし頃の母の写真をバックに忍ばせて、母と一緒に観ている気分になる。生きているうちに母にも観せてあげたかった。
舞台に置かれたちゃぶ台と襖、舞台に有るのはそれだけ。ちゃぶ台は家族の象徴。
そこで繰り広げられるのは、母と3人の息子の「愛情の内乱」。
遠い未来の近い過去。とある地方の大きな家。立ち退きを迫られているその家に暮らすのは、母と次男と謎の家政婦。
家族を絶対的な力で支配しているのは、母。その母から逃れる為に志願して戦場に行った長男と母を愛していながら恐れ、長い間家を出ていた三男。
退去勧告を受けても尚、家に居座り続ける一家に興味を持つ男が、TVのドキュメンタリーを撮りたいとやって来たのと時を同じくして、戦争で英雄になった長男アニと長い間家を出たままだった三男のジンが帰って来て、家族の歯車は思いもかけぬ方向に回って行く。
顕になってゆく家族の問題と過去の記憶。最後に待ち受けている結末とは....。
あらすじを言うとこういう物語なのだが、これはきっと、誰もが思い当たる親と子の物語であり、私の、そしてあなたの物語でもある。
良くも悪くも母は子供が老人になったとしても母なんだと思う。私の母は子供の顔を見ただけで子供の心や状況を理解して、見守ってくれる母だったが、白石加代子さんの母は、どちらかと言えば、私の父に近い。
そんな父から逃げたくて、逃れたくて、煩悶し葛藤し、時に憎みもし、父と離れたいと思い続けた母が亡くなった15歳の時から、父が兄の家の近くの施設に入って離れるまでの34年間を、この舞台の白石加代子さんの母を観て思い起こした。
高圧的で支配的、息子たちにとっては、ある種恐怖でもあり、疎ましくもあり、心の奥底では愛している白石加代子さんの母を見ているうちに、ふと思う。疎ましく重く思っていた父の高圧的な態度は、私への父なりの愛情を間違った発露の示し方だったのだと。
母を愛し過ぎていた故に、容貌は年々母に似て来ながらも、母のようにはなれない娘の私への苛立ちと失望と、そのことで、私にあたってしまう自分への苛立ちと多少なりとも持ち合わせていた私への愛情を上手く表現できず、誤った表現と発露で埋め戻す事の出来ない溝を作ってしまった父の心に思い至る。
白石加代子さんの演じる母がそうだったように。
認知症が進み、苛立ちを暴力で表し始めて兄の近くの施設に入り離れた父は、もう、私のことも忘れ始め、私を私と認識することさえ覚束無くなりつつある。「愛情の内乱」を観て、 ふと、その事に気づいて少しだけ父を赦し、少しだけ理解できた気がして最後に泣いた。
大場 泰正さんの長男アニは、もしかしたら、私の兄と重なるのかも知れない。両親に反抗したこともなく、親思い、友達ともめることもなく、良く出来た兄と言われ、其れに比べてお前はと比べられて育った私。
大場泰正さんのアニも正に、良く出来た兄と言われて育った長男。しかし、そう言われ続ける長男のプレッシャーと、「良く出来た兄なのに、反抗ばっかりして、お兄ちゃんを見習いなさい。」と言われ続けていた私は、兄にとっては、家では言いたいことを言える、気楽で我が儘勝手で反面、羨ましいとも見えていたかも知れない。
誰よりも私の味方で、私を判ってくれた母だったけれど、唯一今でも、それは言わずにいて欲しかったのは、「お兄ちゃんに比べて」「お兄ちゃんを見習いなさい」という言葉と、死のひと月ほど前に言われた、「あなたは、打たれ強いから心配ないけど、お兄ちゃんは打たれ弱いから心配。私に何かあったら、お兄ちゃんを頼むわね。」という言葉であり、その言葉に長らく呪縛され、苦しんだ事を兄は知らないだろう。
二人兄妹の末っ子でありながら、長女でもある私は、どちらの面も持ち合わせ、どちらの立場も何となく解る。
そういう意味において、一番感情移入をして観られたのは、兼崎健太郎さんの次男ドスと末原拓馬さんの三男ジン。
兼崎健太郎さんのドスは、心の奥底では母に愛して欲しかった寂しさと愛情を持っていながら、絶対的な力で支配する母を疎ましく思い逃れたい、家を出たいと思いつつ、残された母と母への思いが踏みとどまらせ、逃れたいと思いながら息子としての葬り去ることの出来ない、家族の愛情というに引き裂かれそうになりながら、自らをこの家と母に縛りつけているという事にさえ気づいていながら、行くも戻るも出来ない自分への苛立ちと諦め、其れに抗う気持ちを持て余し、葛藤しているように思った。
それは、嘗ての私の姿と重なり、胸が軋んだ。
末原拓馬さんのジンは、母を好きで愛しているが、その反面、母の絶対的な支配力に、自分が搦め捕られていつか、自分が自分として生きることが出来ないのではないかという不安と、これ以上この家にいて、母の影響下に居続けることへの恐怖から、家に居られないと家を出ることを選んだ。
その、ジンの葛藤と不安もまた、私が父に対して長年感じ続け、呪縛されていたものでもあった。
ここまで読むと、重くシリアスな母と子の愛憎の話のようだが、コミカルでユーモラスな笑いも随所に散りばめらていて、鬱々とした感じは一切ない。
随所に笑いを散りばめながらも、しっかりとそれぞれの抱える痛みと葛藤、母と子、家族の愛情という、厄介で、でも、どうしようもなく愛しい家族の姿がある。
最後の最後に、母の自分達への愛を知った息子たちは、その先に新しい家族の愛情の形があるのではないかと思わせる。
その意味で、これはある種のハッピー・エンドの物語なのではないかと思う。
心に様々な思いが兆した舞台だった。
文:麻美 雪
神芝居
X-QUEST
王子小劇場(東京都)
2016/04/20 (水) ~ 2016/05/01 (日)公演終了
満足度★★★★★
X-QUEST:「神芝居~アリス・イン・ギガニッポンノワンダーランド~」
ルイス・キャロルの「不思議の国アリス」にお馴染みの日本の昔話を混ぜ合わせ、再構築した物語はどこか懐かしくも全く新しい世界が目の前に繰り広げられる。
アリスが迷い込んだのは、不思議の国ではなく月人(つきんちゅ)と海人(うみんちゅ)が相争う世界。そこでは、ウラシマとカグヤヒメの使いと名乗るものたちが代理戦争をし、一方ではウサギとカメがゴールを目指すのだが、そのゴールに待ち受けているのは衝撃の事実。
膨大な情報量と言葉遊び、ダンス、殺陣。セットは何もなく、真ん中に四角いリングのような舞台があり、観客はその四方を取り囲む。
それはまるで、クロード・ルルーシュの映画「愛と哀しみのボレロ」で音楽の高鳴りと共に、神憑りのようなトランス状態になるジョルジュ・ドンの踊る「ボレロ」のシーンを思い出させた。
四角い舞台は神の掌。その掌の上で、人も月人も海人もウサギもカメも、歴史という壮大な芝居を神によって踊らされ、演じさせられているのではないだろうか。
紙芝居のように、様々な場面が息も吐かせぬ速さで捲られ展開して行く。
そして、観て行くうちに気づくことがある。タイトルのギガはギリシャ語で「巨人」、PCやスマートフォンの容量の単位では大容量の意味で使われるが、戯画でもあるのではないかと。
戯画と言えば「鳥獣戯画」。カエルとウサギが相撲を取っている絵図が有名であり、「鳥獣戯画」とは当時の思想を反映した風刺を動物や人を戯画化しているものであり、「不思議の国のアリス」に多数引用されているマザーグースもまた、伝承、童謡でありながら、紐解くと底には恐い意味や由来を含む物が多い。
X-QUESTの「神芝居~アリス・イン・ギガニッポンノワンダーランド~」は、四角い舞台の上(それは、神事である相撲の土俵にもつうじるのではないか。)で、繰り広げられる現代の「鳥獣戯画」だと感じた。
こう書くと、難しく重い内容の舞台のように思われるが、これを、言葉遊び、ダンス、殺陣と華やかな衣装、美しい照明と音楽と笑いで、最高に面白いエンターテイメントとして紡がれて行く。
そして、笑いながらじわじわとこの舞台に散りばめられた皮肉と諷刺と水底にゆらゆらと揺らめく、この世界も歴史も実は、神の巨大な掌の舞台で踊らされ、演じさせられている「神芝居」なんじゃないかという事に気づいた。
殺陣も迫力があって面白くて、役者さんたちの動きかがとてもキレイでキレがあって、個人的には、塩崎こうせいさんと小玉久仁子さんの動きがとてもかっこよく、きれいで、高田淳さんのウサギの目線と目の表情が艷っぽかったのがとても印象に残っている、笑えて、観終わったあとに、頭と心の中でずっと反芻してしまう舞台だった。
文:麻美 雪
華蝶WHO月
朱猫
テアトルBONBON(東京都)
2016/04/13 (水) ~ 2016/04/17 (日)公演終了
満足度★★★★★
朱猫:「華蝶WHO月」
舞台は時代の流れと共に、苦しい経営状態のキャバレー。そんなお店を立て直すべく、一人の女性が立ち上がり、店の従業員たちと共にアイデアを出し合い、店を盛り上げようとするのだが・・・という粗筋の舞台。
粗筋だけ見ると、涙と笑の奮闘記のような舞台かと想像するが、そんなありきたりの想像を軽々と超える、「トムとジェリー」「バックス・バニー」「トゥイーティ」「バッドマン」「ポパイ」「チキチキマシーン猛レース」などのアニメーションで知られる、カートゥーンネットワークの・スタジオアニメのような動きのオープニング。
幕が開いて数分、音楽に合わせてそれぞれの登場人物の性格や話の粗筋が仄かにわかるような動きが賑やかに繰り広げられる。
その動きが、「トムとジェリー」を思わせ、子供の頃にリアルタイムで見ていた、カートゥーンネットワーク・スタジオのアニメーションを感じさせる動きが懐かしくも、楽しく、その動きは、舞台の中に随所に散りばめられている。
全編小粋で、ハチャメチャに馬鹿馬鹿しく、華やかで、艶やかで、ラスト近くにはしみじみした所もありつつも、くるくると回るミラーボールのようなきらめきを放つ、軽やかなコメディ。
條原志奈さんのかえでが、子供の頃に好きで何度も見た、カートゥーンネットワーク・スタジオの「ドラドラ子猫とチャカチャカ娘」「ドボチョン一家」に出て来る、女性キャラクターの色っぽい動きを彷彿とさせる。志奈さんは、うごきや表情が艶やかで、動きに色気があって美しい。
かつては指名No.1、今は自分に反発してくる若いホステスまいと丁々発止とやりあいながらも、店や若いホステスの面倒を見る、艶やかな色気が一本芯の通った、凛として潔い姉御肌のカッコイイ女。
志奈さんの座っている時の脚の置き所の綺麗さとカウンターに背中を見せて座っている時の後ろ姿が色艶気(いろけ)があって、かえでそのものでとても素敵だった。
江島 雄基さんのバーテン、タスクはおちゃらけて賑やかに見えて、まいを一途に思っている誠実さもあり、堀広道さんの服部と掛け合い漫才のような言葉のやり取りが絶妙なテンポで面白い。
堀 広道さんの服部が、縦横無尽に馬鹿馬鹿しくも可笑しくて、ちゃらんぽらんに見えて、随所で、店とかえでたちの事を思っている深い表情が印象に残った。
舞台中に、会場の観客も参加する所があり、役者さんと観客が一体になり、会場が
文字通り一体になって楽しかった。
洒落て小粋で、可笑しくて、楽しく艶やかで、キラキラしたエンターティメントなコメディの素敵な舞台だった。
文:麻美 雪
【公演終了】箱の中身2016【感想まとめました】
映像・舞台企画集団ハルベリー
テアトルBONBON(東京都)
2016/04/06 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了
満足度★★★★★
箱の中に最後に残ったものは
昨日、初夏のような陽気の昼下り、中野のシアターBONBONで、劇団おぼんろのわかばやし めぐみさん演出、ハルベリーオフィス特別公演:「箱の中身2016」を観て来ました。
人は、心の中に開けてはいけない「パンドラの匣」と、開けられたくない「記憶の匣」を頭の中に持っている。
その匣が開けられた時、噛み合ってはならない歯車が噛み合い、回らずとも良かった歯車が動き出す。
舞台の幕が開くと目の前に広がるのは、歯車と振り子のある柱時計の中。
それは、この物語の開けられたくない「記憶の匣」を開けられようとしている、夥しい血痕を残したまま姿を消してしまった妻の行方に大きく関与しているのではと疑われ、精神鑑定を受けている、無口だけれど、悲しいほどに善良で、切ないほどに妻を愛している時計屋の主人の頭の中であり、記憶の箱である。
佐藤正宏さんの時計屋の主人佐藤の妻えみ子に手痛いほどに裏切られても、赦し続け愛し続ける姿が、最初から最後まで、哀しいほどに切なく、その切なさは、物語が進行するほどにしんしんと心に降り積もって来る切なさだ。
さかいかなさんの妻えみ子は、離婚歴があり、子供を産めない自分と結婚してくれた夫に、最初は引け目を感じながらも夫の誠実な温かさに、夫を好きになろうと謙虚であったのに、ある日を境に夫のお金や財物を売ったお金を愛人に貢ぎ、夫を見下し、やりたい放題をする女へと変わって行く、ここだけを切り取ると、「なぜ?」という憤懣やる方ない思いを抱く妻になっている。
が、この後に続くもうひとつの物語を見ると、そこには別れた夫への一途な想いとその夫が、偶然店番をしていた夫の店に訪れ、再開した瞬間に開けてはならない「パンドラの匣」が開いてしまったが故に、夫の財産を別れた夫へ貢ぎ、大量の血痕を残して姿を消す事へと繋がって行く、哀しい一途さが、夫佐藤への仕打ちになって行くことを知ると、妻えみ子の哀しい切なさもまた、胸に痛い。
そして、もう一つ。かつては喝采を浴び今は落ちぶれたボクサーの物語へと流れて行く。
その流れた先は、えみ子の別れた夫であり、愛人であり、今は収監されている大和さんのボクサーの「記憶の匣」とえみ子に再開したことで開けられてしまった「パンドラの匣」をたどって行く物語へと続く。
そのボクサーと同じ房に入って来た、かつてのライバルであり、引退を余儀なくされた最後の対戦相手のさひがしジュンペイさんのボクサー。
落ちぶれたボクサーの中に見える、身を持ち崩していない人の一抹の清潔さと生きる力が時々一粒の砂金のように光っていたさひがしジュンペイさんのボクサーが色っぽく見えた。
終演後、演出のわかばやし めぐみさんとお話しした時、この舞台の作りはやはり、時計屋の主人の頭の中をイメージしたものなのだと感じた。
それはまた、開けてはならない「パンドラの匣」であり、開けられたくない「記憶の匣」でもある。
匣とは、ぴったりと蓋を閉じる箱の意味であり、箱はだけで編んだ隙間のあるもの、蓋のないもの。
開けてはならない「パンドラの匣」が開き、噛み合ってはならない歯車が動き出し、開けられたくない「記憶の匣」に出来た隙間から零れ出てしまった記憶の行き着く果てのどうしようもない切なさと哀しさを描いたのがこの舞台である。
「パンドラの匣」に最後に残ったのが希望ならば、この「箱の中身2016」に最後に残ったのは、哀しみ、怒り、絶望、苦しみ、憎しみ、痛さ、辛さだったのか、それらを纏った一抹の希望だったのだろうか?
願わくは、一抹の希望であって欲しいと思って止まない。心にしみじみと降り積もる哀しい切なさに、涙が零れ落ちた心揺さぶる舞台だった。
文:麻美 雪
スパイ大迷惑
ホチキス
劇場MOMO(東京都)
2016/03/17 (木) ~ 2016/03/21 (月)公演終了
満足度★★★★★
ハチャメチャで粋な笑いの詰まったエンターテインメント
このタイトルを見て、懐かしいあの海外テレビドラマのパロディだとわかる方は、5、60代以上の方だろう。
「スパイ大作戦」、1996~1973年にアメリカで放送された人気テレビドラマで、日本でも1967年に放送され人気を博したドラマのタイトルのパロディ。
さすがに、2歳の私にこのドラマを見た記憶はないが、両親は見ていたようで、両親から話を聞いたことがあるのと、この「スパイ大作戦」のテーマソングは今でも、いろいろな番組で使われているので、聞けばこの曲かとわかる方も多いと思う。
さて、舞台の粗筋を説明しようと思っても、これが説明出来ない。
なぜかと言えば、いくつものストーリーが同時に絡み合って、最後の盛り上がりまで一気に怒濤の勢いで、笑いとハチャメチャな展開とテンションとエネルギーで駆け抜け、駆け上がって行くからであり。
そのストーリーがまた、ストーリーがあるようでないようで、説明するのが難しいと言うか、敢えて説明する必要があるのかとも思い、そもそも、説明など必要ないというか、しちゃいけないんじゃないかとさえ思うのだ。
ひたすらに、馬鹿馬鹿しいことを真面目にやっている。その真面目に馬鹿馬鹿しいことをしているのが、最高に面白い。
もう、ひたすらにハチャメチャで、細かく散りばめられた笑いが、老若男女問わず、昭和生まれも、平成生まれも世代や年代、性別も越えて、観に来た全ての人たちが共有出来る笑いに身を委ねられるエンターテインメントに溢れた舞台。
出演された役者さんの全てが、強く印象に残る。
「天満月のネコ」「君の瞳には悠限のファクティス」に出演されていた織田 俊輝さんや「メイツ」に出演されていた立道 梨緒奈さんが出られていて、その時の舞台とはまた、全然印象の違っていて素敵でした。
立道 梨緒奈さんの二階堂 誉が見せる「コマネチ」が、キレがあって、何だかカッコイイ。こんなに男前でカッコイイ「コマネチ」を見たことはなく、それは、変に恥ずかしがらずに、吹っ切って思いっきりやっていたからなのだと思う。
男より男前でありながら、細やかな繊細さと温かさを持って、さらりとした色気もある二階堂 誉は好きなキャラクターだった。
一番驚き、印象に残っているのは、主人公の諜報部員余怒峰 怒(よどみね いかり=松田 将希さん)をサポートする科学者アルフッド九の石倉 来輝さん。
小玉久仁子さんがゲストで出演されたこの日のアフタートークで、米山 和仁さんから石倉さんがまだ18歳と言った途端に、会場から「え~っ!」と驚きの声が上がり、私も同じように驚いた。
それほどに、アルフッド九の石倉 来輝さんは、落ち着いていて大人っぽかったのだ。観ていて、ご本人には申し訳ないのだけれど、30歳前後の方かと思って観ていた。アルフッド九もハチャメチャであるのだが、表情や立ち居振舞いがとても大人っぽく色気があって、とても印象に残った。
全編、エンターテインメントに徹した、ハチャメチャで、粋な笑いがぎゅっと詰まった最高に面白い舞台だった。
文:麻美 雪
四月の魚
劇団水中ランナー
ワーサルシアター(東京都)
2016/03/17 (木) ~ 2016/03/21 (月)公演終了
満足度★★★★★
儚くて、優しくて温かい嘘
エイプリルフールは、フランスが発祥の地であり、フランスでエイプリルフールのことを「Poisson d'avril [ポワッソンダヴリル」=「4月の魚 (Poisson d'avril)」と言う。
なぜ「四月の魚」というのか。それは、昔、4月から魚が産卵期に入るため、4月初旬から禁漁になる、漁獲期最終日である4月1日に、魚を釣れずに戻ってきた漁師をからかい、ニシンを川に投げ込み釣らせてあげたのがジョークの始まりだと伝えられている。
その言い伝えが基になり、フランスではエイプリルフールの4月1日に、同僚や友達同士で嘘をつきあったり、いたずらをしあって「Poisson d'avril(四月の魚)」と叫ぶのだという。
この舞台「四月の魚」は、嘘の世界を創り出す作家と嘘の話し。
書けなくなった作家に、有名な作家のゴーストライターの依頼が舞い込み、作家を見守る女性ともう一度作家に書かせようとする編集者に押しきられる形で作家が書き始めた物語は、余命幾ばくもない恋人に見せるため、エイプリルフールに百連発の花火を仲間と共に上げようとする物語。
物語と現実の思い出が交錯しながら進む物語は、やがて、何度も立ち止まろうとする作家の背中を、自らの意思を持ったように動き始めた物語の中の人物たちが押して書き上がる。その書き上がった小説の行き着いた結末は希望か哀しみか...。
私も、物を書く仕事の末席にいるものとして、思うことがある。
それは、物語とは1つの本当を99の嘘で包んで紡ぐ。それが、物語を書くということ。
童話作家になるために、学んだ専門学校の講師も、「100%の嘘で書いたものは物語ではなく、人の心に響かない、1つの本当があれば99の嘘が本当になり、ファンタジーになる」と言い、子供の頃、母が私に言ったのも、「嘘も100回言ったら本当になる。だから、今はそうでなくても、こうなりたいと思う姿、こうしたいと思うことを100回言い続ければ、本当になる。嘘をつくなら人を欺く嘘ではなく、自分も人も幸せになる嘘を吐きなさい。」と言うことだった。
「嘘」というと、負のイメージがある。けれど、時に人を励まし、救い、幸せにする嘘、やさしい嘘もある。それは、ただ、甘いことを言う優しさではなく、嘘を言う側の心が本当に強くないと言えない嘘だからこそ、やさしく温かな嘘になる。
舞台「四月の魚」は、余命幾ばくもない女性とその彼女に、彼女の命を少しでも長く止め、励まそうとするために花火を見せようと奔走する恋人と二人の友人たち、女性の弟と女性と一緒に入院していたことがあるその恋人たちの儚くて、切ないまでに優しくて温かい祈りにも似た嘘の物語。
それぞれに、事情や痛みや苦しさを抱えているのに、一人の人のために、それぞれが一生懸命、嘘を本当にしようと奔走し、必死に優しくて切ない嘘を吐き続け、嘘を本当にしようとする姿が、胸にひしひしと伝わり、深深と胸に沁みて、涙がぼろぼろと頬を伝い、喉を流れ落ち、胸を濡らした。
出演された役者さん、誰一人が欠けても、きっとこの物語は紡げなかったと思う。役としてではなく、その人としてそこに生き、存在していたからこそ、時間も劇場であることも忘れて、その物語の中に身も心も委ね、入り込み、皮膚感覚として感じ体感して、涙が溢れた。
薄青い4月の空に滲む淡い春の陽の光のように、仄かな希望が感じらる素敵な舞台だった。
文:麻美 雪
羅刹の色
武人会
明石スタジオ(東京都)
2016/02/10 (水) ~ 2016/02/14 (日)公演終了
満足度★★★★★
武人会プロデュース:「羅刹の色」
「羅刹」とは、鬼神の総称。この舞台は、その羅刹(鬼)の物語。
今日が千秋楽なので、舞台の粗筋は、詳しくは書きませんが、色彩(いろ)を失くした一人の男と、男に出会い焦がれてしまった色彩(いろ)を持たない鬼の、切なくて、愛おしくて、儚く、美しい哀しみの色を纏った物語。
子供の頃から好きだったのは、切ない鬼の話。母に読み聴かせてもらう度に思っていたのは、なぜ鬼と言うだけで、人間というだけで、十把一絡げに敵対するものとして描かれるのかと言うことだった。
人の心の中にも、外面菩薩内面如夜叉と言われるように鬼も居れば、鬼の中にも「泣いた赤鬼」のように、優しい心があるのにと。
この「羅刹の色」を観た時、その時の思いが甦ってきた。
真っ暗な場内から、浮かび上がって来たのは鬼の住む羅刹の森。気づけば深い深い森の中に迷い込み、時に巌陰に身を潜め、時に木のうろに身を隠し、息を潜めて、目の前で繰り広げられる物語を観ているような、物語に取り込まれているような、不思議な感覚が身を浸す。
命を繋ぐために、人間を喰らわなければ生きられない鬼、潰えようとする命を繋ぐために鬼の血を飲めば永らえられると、鬼を殺めようとする人間、命を繋ぐために鬼に妻を殺された男、男に焦がれて人間になろうと人を喰らうことをやめた鬼。
妻を殺され色彩(いろ)を失ったように、生きている藤井としもりさんの月島朧。羅刹の森で出会った宮本京佳さんの鬼の姫累(かさね)によって、朧の中にあった鬼に抱いていた羅刹の心が変化してゆく様、それ故に生じる朧の苦渋、色彩(いろ)をその身に取り戻した朧の選んだ結末は、あまりに深く、あまりに切なく、今こうして書いていても涙が溢れる。
宮本京佳さんの鬼の姫として生まれ、色彩(いろ)を持たずに生きてきた累が、朧に出会った事によって色の無かった自分の世界が彩られ、その身に色彩(いろ)を持ったが故に、朧に焦がれて、人間になろうとする累が健気で、切なくて、朧への想いの哀しいまでの美しさに、観ている間中止めどなく涙が溢れた。
姫を思い守ろうとする、上口あやかさんと佐野実紀さんの橙亜(とあ)と赤妬樺(せっか)の健気さ。
太田旭紀さんの貝は、言葉を発せず、時に優しい笑みで、時に胸の内で号泣し、姫や仲間を見つめ、見守り、静かに寄り添うその心の動きが表情と所作から伝わって来る。
妻の命を繋ぐため、鬼を殺めようとする戸川真さんの愛丞(あいすけ)の中に鬼を見て、鬼気迫り恐ろしさを感じ、村上芳さんの樹虎(しげとら)に、臣下としての累への思いではなく、胸の奥に累への秘めた想いを感じた。
誰が正しく、誰が間違っているとか、悪だとか正義とかではなく、在るとすれば人の中に住む羅刹と人の心、どちらに染まるかは自分次第、人はそれぞれの色彩(いろ)を持って生まれて来るということ。
その色を纏えるか否か、本来の自分の色彩(いろ)を見つけられるか否かは、自分次第、もしかしたら人は自分の色彩を(いろ)を見つけるために生まれて、生きているのかもしれない。
この舞台を観て、感じ取る色彩(いろ)は観る人によって違うと思う。
私が観た「羅刹の色」は、舞い散る桜に薄墨色のヴェールをかけた、儚くて切なく、しなやかに強い美しい色だった。
文:麻美 雪
値千金のキャバレー
ホチキス
座・高円寺1(東京都)
2016/01/23 (土) ~ 2016/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★★
ホッチキス第34回公演:「値千金のキャバレー」
開場の声と共に、扉を開けると「あらっ、開演時間は19時の筈だけれど?」と舞台上から漂ってくるバンドの奏でるジャズの音。
それは、まるで、子供の頃にテレビで見た石原裕次郎の映画の中に出て来た、グランドキャバレーと呼ばれた場所で演奏されていたバンドの奏でる音楽そのもの。
開演前から劇場の中は、温泉街の寂れたキャバレーの雰囲気を醸し出していた。
この話の舞台は、舞台は寂れた温泉街、神流(かみな)市。昔は、神が疲れを癒すために訪れたとの言い伝えがあり、年に1神を歌で接待するために作られたキャバレーがあった。
かつては、多くの観光客で賑わいを見せていたが、温泉偽装が発覚し今はすっかり寂れてしまった温泉街にかつての賑わいを取り戻すため、市役所は、温泉復興委員を設立。観光客の呼び戻しを図る。
委員は話題作りにとイベントを催すことに。そこで会場として寂れたキャバレーに白羽の矢が立つのだが、そのキャバレーには重要な秘密が隠されていた…。
その秘密が、この舞台の軸になってキャバレーを舞台に絶縁したはずの母娘、人間に見えて実は...のアイドルグループ、町興しを企てる市役所が入り乱れる、破天荒なストーリーに、20人を超える出演者、生演奏にダンサーが舞台で織り成す、ド派手でゴージャス、ドラマチックな夢の空間が繰り広げられるミュージカル。
31日迄の公演なので、内容に詳しく触れられないのだけれど、2時間5分笑いっぱなしの楽しくて、面白くて、スペクタクルもあって、歌も芝居もダンスも演奏も最高の舞台。
服部翼さんの組長の息子、北郎は、80年代の最近話題になったアイドル事務所のアイドルに憧れ、自分の名前になぞらえて、名前に東西南北をもつメンバーを集めて、コンパスというアイドルグループを作ろうと一見、お気楽な昭和アイドル好きな少年?に見えて、なんだかんだ最終的にある意味ピュアなそのお気楽で強い思い込みの力が、村を変える力に一役かって活躍する、憎めない存在。
末原拓馬さんの組員東風綿吉は、北郎に半ば無理やりアイドルグループに入れられ、最初は渋々ながらだったのに、衣装を着せられ、歌って踊るうちにすっかり、アイドルを楽しむようになるその変化が面白い。拓馬さんの歌とダンスが、正にアイドルになっていて、楽しそうにきらきらして見ているこちらも、何だかとても楽しくて、幸せな気持ちになる。
片山陽加さんのメルト、以前ブロ友さんの今西哲也さんと春川真広さんが出演していた舞台「リボンの騎士」の時とは全く違う、はっきりキッパリした性格と強さを持ちつつも、自分を捨てて出て行ったと思っていた母に憤りを抱きつつ、幼い時の優しい母の面影を忘れずにいる故に憤りと恋しさのせめぎ合う気持ちを抱えなんがら、真っ直ぐに物を見つめる強さと明るさがあった。
小玉久仁子さんのヌラリは、再会した娘メルトと丁々発止を繰り返しながらも、娘メルトを大切にいとおしく思い、メルトを守るためにひとり、メルトを置いてこのキャバレーに戻って来た、強くて優しくて、不器用な母。
北郎、ヌラリで何となく、解る人は解ると思いますが、人間じゃない、墓場で運動会をするあのアニメのキャラクターたちを中心に、あれやこれやを彷彿とさせるパロディや細かな笑いのしかけがあちこちにあるこの舞台。
そして、もうひとつ、私には、共通点のあるキャストが3人いました。
「リボンの騎士」に出演していた、末原拓馬さん、片山陽加さん、大河内美帆さんがその3人。
大河内美帆さんは、村役場の女性所員、秋田紅葉で出演されていて、今回もキレがあって、しなやかなダンスも見せてらした。大河内美帆さんは、こちらもさらみさんが出演していた「野郎華」のこはるを観たのが最初で、役と共にとても印象に残っている女優さん。
舞台を見た途端に、もしや大河内美帆せんではと思ったら、やはりそうだった。「天満月のネコ」にも出ていたように錯覚していたけれど、「野郎華」「リボンの騎士」そして「値千金のキャバレー」で大河内美帆さんを見るのは三度目。毎回、印象が見事に違う。
よく、面白くてあっという間と云うけれど、この舞台は本当にあっという間で、2時間5分、休憩なく座りっぱなしであるにも関わらず、時々ハラハラ、ドキドキ、時にしみじみしながらも、ほとんど笑いっぱなしの楽しくて、華やかで、面白くてお尻が痛くなる間もなく終わった初めての舞台。
実は、この日酷い頭痛だったのですが、お腹の底から笑って、楽しんでいるうちに
劇場を出る頃には、頭痛がぶっ飛んでいた。
本当に最高に面白い舞台です。
個人的にツボに入ったのはぬりかべの壁ドン(*'∀`*)v
「ぬりかべの壁ドンって何?」と気になった方は、31日迄公演しているので、ぜひ劇場に足を運んでみて頂きたい、素敵なエンターテイメントな舞台です。
文:麻美 雪
泡の恋
Xカンパニー
アサヒ・アートスクエア(東京都)
2015/12/21 (月) ~ 2015/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
Xカンパニー旗揚げ公演:「泡の恋」
内容は、
近未来の浅草。
日本という国は今は無く、新しい合併国へと変わり、元日本の、現外国の領土となってしまった東京の街ASAKUSA。
そこは3つのグループが街を納める縄張り争いをする、昭和と未来が混在するカオス街になっていた浅草は、人が集まり、懐かしくも新しい街を作るための想いが交錯していた。
日本だった頃から浅草で育った美咲は、賑わう浅草を微笑ましく見つめながらも、変わっていく景色をどこか物憂げに眺めていた、そんな最中、時代は残酷にも人々を翻弄し、想いをねじ伏せて行き、わずかしか残されていない時間を前に、アサヒグループの朝日昌三は、街のため、美咲のため、対立する3つのグループを統合して1つの巨大な祭を打ち上げる決意をするのだが...。
日本人だった人々の、泡のような恋物語というもの。
こう書くと、シリアスな舞台に思えますが、ところがどっこい、大人の玩具箱をひっくり返したような、9割お腹から笑って、1割のしみじみがとっても素敵なバランスで散りばめられた1年を締め括るのに最高の楽しい舞台。
今までに観たことのないような舞台。舞台なのだが、単なる舞台ではない。舞台をポンと飛び越えたような、自由奔放、縦横無尽、てんやわんやで時間も時空も自在に行き来して、芝居、舞台というものの平衡感覚が一瞬失われて、今、自分は何処に居て、何を観ているのか、現実なのかファンタジーなのか、その境界があいまいであやふやになる不思議な感覚へと陥る。
だが、それ故に、気づくと違和感無くすっとファンタジーの中へと入り込み、物影から、覗いているような臨場感がある。
いつもなら、印象に強く残っている役者さんお一人お一人について、書かせていただくのですが、出演されている全ての方が、印象強くて、書ききれないので、舞台を観ての感想のみを綴らせて頂きます。
目まぐるしく駆け巡る舞台、3つのグループが、それぞれ存在感のあるキャラクターと強烈な印象を残しながら、時間と時空を行きつ戻りつ、縦横無尽に、自由奔放に交錯し、繋がり、滑らかに、物凄い熱量とスピードで展開して行くのに、せわしなさは感じず、どこかゆっくりと時が流れ、時が止まり、また動き出す。
笑いながら観て行く内に、「恋の泡」ではなく、「泡の恋」である意味が解って来る。
恋が儚く泡のように消えるのではなく、儚く消えて行く泡のような恋。
それは、昌三と薄野のマドンナ、美咲の病によって失われて行く記憶と命であり、美咲との時間であり、泡のように儚く消え想いであっても、誰かが誰かに恋をしたその時間。
その切なさといとおしさ、仄かに感じる温かさが、胸に沁々と染み透って行く。
「泡の恋」。
それは、淡く儚い初恋のようで、ほろ苦いビールの泡のような恋なのかも知れない。
パチンと弾けて消えてしまう恋。
それは、美咲だけに向けられたものではなく、美咲と昌三が愛した浅草という街への、今ここで生きているということへの恋なのかも知れない。
そのひとつまみの切ないしみじみさが、スパイスとなって、舞台を包む9割お腹から笑える忘年会のような自由奔放な舞台を、泡のように弾けさせつつも、胸にじんわりと沁みて面白い舞台にしていた。
年の瀬にぴったりの笑って、ほろっとして、思いっきり楽しめた、1年を締め括るのに最高に面白い舞台でした。
文:麻美 雪
SEX
劇団時間制作
サンモールスタジオ(東京都)
2015/12/16 (水) ~ 2015/12/23 (水)公演終了
満足度★★★★★
劇団時間制作第九回公演:「SEX 」Bチーム
体は女性、心が男性の性同一性障害の女性が、男性として愛する男性と、結婚すれば、「女性」、「妻」になれるのではないかと葛藤の末、結婚をしたものの、心は男性、体は女性であることのアンバランスに悩み苦しむ。
嫁ぎ先の銭湯を舞台に繰り広げられる人間関係。深夜の銭湯に通って来る、女性同士の同性愛カップルの苦悩と自らの苦悩を重ね合わせる主人公。
全てを相手に告げることが、相手を信頼していることになるのか?自分の中の秘密は、誰のため?人を愛することは、本当に平等なのか?
多くのものに縛られながらも必死に生きる人々を描いた舞台。
とても難しくデリケートなテーマを、当事者が抱えるであろう苦しみや思い、他人事だと公平になれるのに、身内になると偏見と戸惑いを持つ人、自分が受け入れられないから排除しようとするもの、理解出来ない、気持ち悪いと言葉の刃を向ける人。
その全ての立場、全ての意見と思いを、何の衒いも偏見もなく、きっちり描いていた舞台だから、観ていて嫌な生臭さがなく、すっと胸にテーマが落ちて来る。それは、脚本だけだなく、役者それぞれが、自分の中の感情と向き合って、それぞれの今の思いを真摯にぶつけていたからだろう。
性同一性障害、同性愛と十把一絡げにされるが、心が男性で体が女性、心が女性で体が男性、女性として女性が好き、男性として男性が好き、体は男性だが心は女性として男性が好き、体は女性だが心は男性として男性が好き、その逆もまたしかりと、個人個人によって、様々でとても十把一絡げに出来るものではない。
それだけ、難しくもデリケートなテーマを、恐らく、この世にある思いつく限りの立場の見方でしっかりと描かれているから、違和感も嫌悪感もなく、素直にひとつの愛の物語として、人間の物語として観られた。
それは、役者それぞれが、その人として苦しみ、葛藤し、生きているからに他ならない。
森田このみさんは、性同一性障害の抱えているであろう全ての葛藤と苦しみと悩みを麗美として、目の前で必死で向き合っている姿に胸が詰まった。
他人事だと冷静に、偏見を持たずに接しられるのに、身内になると排除しようとする本能が働いてしまう、奈苗さんの麗美の夫明人の姉の反応は、きっと一番世間で多い反応のひとつだろう。
頭では理解していても、身近な人が性同一性障害や同性愛と知った時、哀しいけれど、冷静に受け入れられるかと問われたら、きっと誰しも「うん」とは、即答出来ないのだろうかと考えさせる存在でもある。
事実を知ってもなお、麗美を受け入れる小川北人さんの夫の明人は、完全に理解し受け入れたとは言えないものを心にまだ残しているものの、麗美がかつて明人に自分の性同一性障害を秘密にしてたように、麗美には、性同一性障害など関係なく男性の麗美を愛していると嘘をつく。
だが、それは綺麗事の嘘ではなく、心底麗美を愛しているが故の嘘。きっと、理解して乗り越えてみせるという自身に対しての近いとしての真実に転化させるための嘘。
永井李奈さんの直美は、同性愛者であることを、理解してもらえないだろうと母に隠し続けている女性。
ずっと隠して生きて行くのは嫌だという肥沼歩美さんの志保と、その考え方の違いですれ違いそうになる葛藤と向き合って行こうとする姿に切なくなった。
肥沼歩美さんの志保の結婚や家族にカミングアウトして、二人の関係を認めて欲しいと主張する志保の、心に抱えた不安と苦しみに心がヒリヒリと痛かった。
倉富尚人さんの明人の従兄弟聖也は、性同一性障害や同性愛に嫌悪感を顕にし、麗美を排除しようとする掻き回す存在。
最初から最後まで嫌な奴なのだが、口には出さないけれど、心の中でそう思っていることであろう世間を表す存在なのだろうなと思う。
その偏見にいつか、自らの足元を掬われるかもしれない、それでもこの人は変わらないんだろうなとも思わせる。それは、世間の認識そのものとも言える。「吐き気がするほどに」とは、真逆の人物。聖也以外の何者でもなかった。
あなただったら?私だったらどうなのか?そんな問いを観ている間ずっと突きつけられていた。
これは、人と人との関わり方、愛というものの本質をも考えずにはいられない、いい舞台だった。
文:麻美 雪
イエドロの落語其の参 再演!!
イエロー・ドロップス
新井薬師 SPECIAL COLORS(東京都)
2015/12/18 (金) ~ 2015/12/20 (日)公演終了
満足度★★★★★
イエロー・ドロップス:「イエ・ドロの落語 其の参 再演」
先週の土曜日、西武新宿線新井薬師前から歩いて5分程の所にある、Art Live Space 「Special Colors」にイエロー・ドロップスの「イエ・ドロの落語 其の参 再演」を観に行って来ました。
前回の「イエ・ドロの落語其の参」に新たに2つの落語を加えて、再演というより、これはもう、新作と言ってもいいような、パワーアップして、面白さも、ホロッとした切なさも増量していて、私の中では、「イエ・ドロの落語 参.五」と言った感じ。
前回と同じ、八幡山の秘密の見世物小屋でやるはずだったこの芝居を新井薬師前のArt Live Space 「Special Colors」に移しての上演したその意味が、始まった途端にすぐにわかった。これだけのパワーと熱量、秘密の見世物小屋では、収まりきらなかったと思う。
より、近くにおぼんろのわかばやし めぐみさんとさひがし ジュンペイさんの息遣い、間合い、表情のひとつひとつが感じ、観られる。
物語コーディネイターの末原拓馬さんの紡ぐイエ・ドロの落語の世界は、更に滑らかに、濃く、深く、ホロリと切なくて、とてつもなく可笑しくて、笑って泣いて、ラストに向かうにつれて、さひがしさんの金蔵が前回以上にしみじみといいお男(ひと)になっていて、めぐみさんのお染は、情のあるいい女になっていて、胸にきゅんときて、ほろりっと涙が頬を伝ったりなんぞして、この芝居が観られたことを幸せに思った。
今回新たに加わった、追い剥ぎならぬ「追い剥がれ」、さひがしさんのセクシー・シーンに一瞬、目のやり場に戸惑いながらも、追い剥がれて行く時のめぐみさんとのやり取りの間合いが可笑しくて、可笑しくて好きな箇所。
イエ・ドロの落語を観ると、「やっぱり、落語っていいよね~」と思う。
今回、物語コーディネイターの末原拓馬さんも、短編作品だぼだぼラボラトリー の「ズタボロが捧げる聖夜の祈り」で出演。
前回の「イエ・ドロの落語 其の参」、「ゴベリンドン」にしても、「イエ・ドロの落語」、「だぼだぼラボラトリー」にしても、末原拓馬さんの紡ぐ物語の世界が私は大好きなんです。
紡がれる世界はもちろん、紡がれ、声となって空間に放たれるその言葉のひとつひとつが、五感をフル稼働させ、感情がうねり、水が静かに染み込むように心を浸す。
放たれた言葉が、シンと冷えたクリスマスの夜空に昇って、きらきらと星の雫になって落ちて来る、キュンと痛かったり、切なかったり、寂しかったりするのだけれど、掌に落ちて溶けた雪が暖かいように、いつもどこかに仄かな温かさとやさしさがある。
クリスマスの夜空、頬を掠める冬の夜の風、温かな部屋の空気、ひとひら、ふたひら、心の中に、言葉の雪の華が舞い落ちて、何かをぽつりぽつりと残して行く「ズタボロが捧げる聖夜祈り」。
クリスマス近い、師走のとある土曜日の宵、笑って泣いて、いろんな想いと感情を胸に抱いて、外に出れば冬の夜の冷たい風とキンと清んだ美しい夜空。
心はぽかぽか、たくさんの幸せな気持ちとわくわく、楽しい心を胸の中に両手いっぱいに抱えて帰路に着いた「イエ・ドロの落語 其の参 再演」だった。
文:麻美 雪
君の瞳には悠限のファクティス
進戯団 夢命クラシックス
新宿村LIVE(東京都)
2015/12/02 (水) ~ 2015/12/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
「君の瞳には悠限のファクティス」
日曜日は観劇三昧。一本目お昼は、新宿LIVE村で、佐藤歩さんの出演する、戯団夢命クラシックス #19「君の瞳には悠限のファクティス」を観て来ました。
前回の「「君の手には夢幻のファクター」」を、予定が重なっていて観られなくて残念だったので、あゆさんからご案内を頂いて、拝見するのを楽しみにしていました。
内容は、
聖歴2015年、1月11日
帝都S区に、突如巨大な隕石が落下し、直径約1km、深さ約100mの巨大なクレーターを作った。
後に、1.11の悪夢と呼ばれるこの出来事は、戦後最大の超災害となる。
それだけの天災でありながらも、旧S区民の生存率は約60%という奇跡の数字を出し、政府は他国からの支援により、帝都の機能回復と旧S区の復旧を10年かけて行う。
しかし、旧S区は今もなお、政府の特別監視区域として隔離され続けている。
その背景には、隕石落下で生き残った旧S区民のごく一部の中から
「ファクト」
という異能力を発症する人間が確認されたことが挙げられる。
「ファクト」とは、人間が持つ心的複合体(コンプレックス)や、決して叶わない望みに対する欲求、鬱屈した精神、それらが何らかの影響(※恐らくは先の災害)で膨張し、それによる自己の崩壊を防ぐ為、
「人類を次なるステージへと昇格」させる能力とされている。
そして能力者を「ファクター」
と称し、瞬く間に人々の恐怖の対象となった…。(非営利フリー百科事典:Kimipediaより一部抜粋)
復旧を続ける旧S区、そこに住まう人々、ファクター、災害の恐怖からの離脱、変わりゆく政府、様々なモノが水面下で錯綜する中、旧S区裏陽(ウラハル)にて、ひっそりと探偵事務所を営む二人のファクターがいた。
リンゴ(紅葉美緒)とベリィ(丸山直之)
ファクター絡みの仕事を、法の外から解決する、彼らに待ち受ける運命とは…。
というもの。
前回の舞台を観ていなくても、すんなりと話の中に入り込んでいけて、初めて観る人でも十二分に楽しめる。
出ている役者さんの全てがかっこよくて、素敵なのもありますが、ストーリー自体がとてもいい。
昨今、ニュースを見る度に、自分と相容れないものを、歴史に学ぶ事もせず、相も変わらず、力で、暴力で押さえつけよう、排除しようというニュースと映像の多さに、暗澹とし、憤りを感じていた。
人と違う能力を持っているのは、悪いことなんかじゃない。人と違う考えを持つことは、いけないことじゃない。皆が同じ意見に悪く傾いた時、そこに戦争が起きる。
この舞台もまた、ファクトという他の人には備わっていない能力を持ってしまった故に、排除されようとするファクターたちと、それを排除しようとする政府との戦いの話である。
しかし、それは、力対力ではなく、力で潰そうとする政府に対し、人間としての思い、人が笑顔で幸せに普通に暮らせる事を守るために戦うファクターたちの心の戦いなのではないか。
いつもなら、印象に残った役者さん、お一方お一方について、書かせていただくのですが、ベリーもサクラも、グレイプもライチも、サツマもレモンも、スモモ、アンズもユズもブロッコも....全ての役者さんが印象に残っていて、書ききれないので、今回は、観たまま感じたままの感想だけを書きます。
アンズのファクトである、思いを乗せた言葉を聞いている内に、頭を過ったのは「言魂(言霊)」という言葉。
私は経験から、言葉には魂が宿ると思っている。悪い事を考え、悪い感情、思いを乗せて発すれば、悪い状況が生まれ、悪い感情、悪い思いが人に移り、悪いものに取り巻かれるが、優しい思い、善い感情、温かな思いを乗せて発すれば、その逆に、善い状況が、感情が、思いが人に移り、温かで優しいものに取り巻かれる。
言葉は刃にも人の心を包む毛布にもなる。刃の言葉は切っ先鋭く、人を傷つけるけれどその反面とても脆い。刃こぼれもする。
けれど、毛布は例え破けても、縫い合わせ、繕い、傷はついても元に戻せる。優しく温かく善い言葉の毛布にもしっかりと一度でも包まれた人の心は強い。
人を思う心の強さは、そのままその人の持つ言葉の持つ血からの強さでもある。
もし、善い思いを乗せた言葉で、しっかりと相手の話を聴き、話し合うことが出来たら、力ではなく、武力ではなく、それよりも強固な言葉で歩より解決出来るのではないか。そうすれば、人を受け入れ、争いはなくなるのではないだろうか。
笑って、泣いて、感じて、考えた舞台だけれど、エンターテイメントとしても思う存分楽しめ、アクションがかっこよくて、血沸き肉踊る舞台でもあり、観られて良かった。
文:麻美 雪
ヴァギナ・デンタータ
芸術集団れんこんきすた
ART THEATER かもめ座(東京都)
2015/12/03 (木) ~ 2015/12/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
芸術集団れんこんきすた Vol.23『ヴァギナ・デンタータ』
ご案内を頂いた時、美佐さんも人前では口には出来ない衝撃的なタイトルで、登場人物たちも声に出来ない悩みと傷を持っていて、それは、観て頂くお客様にも同じ思いを持ってもらえると思いますという事をおっしゃっていました。
タイトルだけ観ると、衝撃的なこの舞台を観ようと思ったのは、前出の内容の言葉とぜひその思いを同じ空間で共有して頂きたいという一言でした。
観に行って、美佐さんの言っていた意味が痛いくらいに解りました。
この舞台は、女性が誰しも一度は感じたり、悩み、感じ、思うであろう痛みと傷が皮膚を通して、水がじわじわと静かに染み込むように心の底深く、体の奥深くに染み通ってくる。
生々しいと言えばあまりにも生々しい、自らの意識と心の奥深くに隠して、蓋をして、見ないように、気づいているのに気づかない振りをし続けて来た、女の体と心の痛みと傷を赤裸々に描いている。
けれど、嫌悪感を微塵も感じずに、目の前にいる6人の女性の痛みと傷に自分を重ね、時に同化し、時に共感し、時に痛みを感じて、気づけば自身の痛みやトラウマから負った傷に向かい合い、泣いた。
舞台は、出入り口もドアもないとある一室。そこに縁も所縁もなく、何処をどうして、いつ此処に来たかも分からない、年齢も職業も性格も全く違う6人の女。
唯一の共通点は、声に出せない、赤の他人以外には話すことの出来ない傷と痛みを持っているということ。
この部屋を出る方法はただひとつ。それぞれが抱える痛みと傷に向き合い、受け入れること。その事に気づいた時、女たちは誰にも話せずにいた傷と痛みを自ら話始めたその先にあるものは一体何だったのか?
その答えは、観て感じた一人一人各々違い、胸の中に見出だすものだろう。
正解はない。あるのはあくまでも、自分が感じ、思い、掴み取った各々にとっての正解である。それすらも、何年後かに鑑みた時に、また違う答えが出るのかもしれない。
木村美佐さんの女3は、付き合う男が悉く浮気をした挙げ句、「体が緩いから浮気した」と別れて行くことに、慣れっこになっててと言いながら、その事に深く傷き、痛みを感じていたこと認め、受け入れて行くまでの心情が伝わって来て切ない。
個人的に、まるで、その当時の自分と同じ悩み、不安、痛みを感じている岩畑里沙さんの女2は、一番共感出来、同化し、皮膚を通してその痛みが伝わって来た。
32歳位だろうか、男性と付き合ったことがない女優の女2は、このまま一生自分を抱き締めてくれる人も、愛してくれる人にも出会えず、身も心も交えることなく朽ち果て、死んで行くのかと悩み苦しむ女の姿は、実は32歳の時の私の姿そのものだった。
それまで、私も女2と同じ不安と悩みの中にいた。その痛みと孤独は、同じ思いをした女にしか解らないだろう。その痛みを思ったた時、涙が溢れた。
小松崎めぐみさんの女1は、匂わせはするが、はっきりとその傷と悩みとは何のなのか描かれてはいない。けれど、女たちの中で一番深い、傷と痛みを負っているのではないかと、最後の慟哭を聞いて、きりきりと胸に迫り、泣いた。
でも、もしかしたら、一番深く濃く、絶望的な痛みと傷を負っていたのは、濱野和貴さんの女たちの部屋の花を取り替えに出て来る男だったのではないかとふと思う。
男の人が書いたら、生々し過ぎて生臭くなったり、嫌悪感と違和感なくは観られなかったと思う。
女性が、描いた舞台だから共感し、嫌悪感なく違和感なく受け入れられ、自分の痛みと傷と向き合い、感じ、泣き、観終わったあと、不思議にさっぱりとして内から力が沸き上がり、時の流に何時しか自分のトラウマや古傷や痛みが瘡蓋になり、剥がれ、苦しさを感じずに静かに見つめられるくらいに、少し強くなっていた自分に気づいた舞台だった。
文:麻美 雪
Jugend~青春~
Team ドラフト4位
シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)
2015/11/27 (金) ~ 2015/11/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
Team ドラフト4位 :Team ドラフト4位 旗揚げ公演『Jugend~青春~』
「ヒーローに憧れる一人の高校生が自分を変えるため、
仲間達と学園祭のステージで《 ヒーローショー 》を目指す!
様々な困難を乗り越え、
彼らは無事にステージに立つことが出来るのか――
あの頃に置いてきたものを、もう一度…。」
熱くて、弾けて、キラキラした読後感の良い青春小説を読んだような爽快感が、見終わった後に残る舞台。
子どもの頃、夢中になったヒーローも、成長するに連れて、遠い存在、思いでの一部になって行く。
それを人は「大人」と呼ぶ。
子どもの頃に見たご当地ヒーローがきっかけで、ヒーローにあこがれる一人の高校生が、自分を変えようと友達や仲間と学園祭でヒーローショーを実現する為に、目の前に立ちはだかる困難を乗り越えて行く姿を、たっぷりの笑いとスパイスのようなホロリとする甘酸っぱさで魅せる熱くて、爽快な青春に、思わず高校生の頃を思い出す人もいると思う。
「青春だなぁ~」と思う。いいな、こういう高校時代と思う私には、こんなキラキラと甘酸っぱい高校生活の思い出はないからだ。
中学3年、15歳の春に母を亡くした私は、自分の悲しみしか見えなくなった父と兄と住む私には、家での居場所はなく、悩んでも親兄弟は当てに出来ず、「これからは、一人で悩み、答えを出し、乗り越えて行かなければいけないんだ」と思い決め、まともに育って当たり前、少しでも曲がったり、グレたりしたら、「そら見たことか。あそこは母親がいないからああなった」と世間や大人に後ろ指さされてはならじと、気を張って、生きるだけで精一杯、ただただ、必死に生きてきた。
戻りたい過去も、若い頃にも戻りたいとは思わない。
それだけに、この高校生たちのきらきらした熱さと将来を考え始める思春期の不安とハチャメチャさが、甘酸っぱくて眩しい。
普段は可愛いのに、殺陣の稽古になると男っぽくなる橘奈穂さんの真琴のギャップがおかしくて可愛くて。
最初は、真琴のおっかけっぷりにちょっと引いてしまうところのある松下芳和さんの松谷が、真琴が落ち込んだ時にかける言葉と態度に、何だかいい奴だなぁと印象が変わって行く。
女手ひとつで育ててくれた母の為に、いい大学に入ろうと勉強に打ち込みながらも、最初はしぶしぶ参加したヒーローショーの練習との狭間で現役合格か人生に二度と訪れない高校生活最後の今しか出来ないヒーローショーかで、悩む横山展晴さんの広瀬はぴったりと合っていた。
最後のヒーローショーのシーンは、殺陣とアクションが本当にかっこよくて、わくわくしながら見ていた。
兵頭結也さんとヒーローに憧れる小暮の河村悠基さんの動きが綺麗でかっこよかった。
人によって、青春の時期は違う。
高校生の彼らに、今が、青春という実感はないのかも知れない。若い時の青春は、後からしみじみと振り返った時に、あれが青春だったと思うものだと思う。
高校生の時に、こんなにも熱くて、きらきらした思い出を仲間と持てたら彼らは幸せだと思う。
けれど、大人には大人の青春がある。
人によって違いはあるものの、きらきらしている、楽しいと充実している時がその人の青春だろう。
だとすれば、私の青春は今だと言える。
人は、一生の内に一度でも何かに夢中になったり、熱くなった思い出があれば、その先にどんな事があっても、生きて行けるのだと思う。
そんな事を考えながら観ていたら、ポロリと涙が頬を伝った。
見終わった後に、スカッとカラッとした爽快感のある舞台でした。
文:麻美 雪
緋色、凍レル刻ノ世界、永遠
黒薔薇少女地獄
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2015/11/24 (火) ~ 2015/11/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
黒薔薇少女地獄:『緋色、凍レル刻ノ世界、永遠』
昨日は、観劇三昧の一日。お昼は、新宿のSPACE雑遊で、松本稽古さんの出演される舞台、黒薔薇少女地獄の『緋色、凍レル刻ノ世界、永遠』を観劇。
「少女は右手にカッターナイフを握ったまま、動かなくなった相手と唇を重ねた。
その瞬間を永遠にして、凍らせるように。
だが15年の刻を経て、時間は再び溶けだしていく。
2000年と2015年、4人の少女、ふたつの物語は今、重なり合う……。」という内容としては重いもの。
地下へと続く階段を下り、扉を開けると真ん中にぽつんと置かれた白い小さな台の上に白い一脚の椅子。
その椅子の周りを、深紅に染まった少女の絹糸のような長い髪を思わせるような、細いリリアンを編んだような糸のカーテンが取り囲む。
その椅子に座る一人の少女と、その少女と背中から抱き締めるように立つ一人の少女がいる。
寮生活を送る女子学院の中、少女漫画にあるような、閉ざされた世界の中で芽生える少女期の危うい耽美な少女たちの恋の話かと一瞬見紛うが、背中に立つ少女の手に握られていたのは、一本のカッターナイフ。
そのカッターナイフがもう一人の少女の喉に触れ、少女の白く柔らかな喉を切る。切られた少女の顔には微かな微笑、切った少女はその唇をそっと重ねる。殺めた少女の面影をその胸の中に凍らせて、永遠に閉じ込めた少女と、少女の胸に自らの面影を凍らせて閉じ込められることを望んだ少女は13歳だった。
「なぜ、人を殺してはいけないのか?」彼女に問いかけられた同じ問を、15年後、同じ女子学院の同じ場所で、同じ事件を起こした少女15歳の麻緋(あさひ)は、投げ掛けられる。
虐め、実父からの暴力と性的虐待、救いのない孤独という緋色の檻に閉じ込められ、追い詰められた二組の少女。
なぜ、彼女たちは、大切なただ一人の親友を自らの手で殺めたのか?
凶悪な未成年者の犯罪が増えてきている現在、こういう事件があると必ず言われるのは、家庭環境や虐めの問題。今まで見て見ぬふりをしてきたくせに、一度事件が起こると、今の子供たちの心の闇だとか、周りの大人たちは虐めに気づかなかったのかとか、命の大切だとか、虐められて命を自ら若しくは奪われた子を可哀想な子としたり顔で解ったような事をいう人々。
そんな報道を耳にする度に、小学生3年~6年まで、全クラス対一人という虐めを受けていた私は冗談じゃないと思う。家庭環境とか、親とかは関係ない。
本人の中に巣くう、本人さえ得体が知れない毒や、残酷さ、苛立ちをぶつける生け贄を探してぶつけたということだ。
加害者はいつ被害者になるかも知れず、被害者がいつ加害者になるかもわからない。
生きている限り、先の見えない、永久に続く闇と孤独から逃れられないと絶望した茜と真朱(まじゅ)、そこから解き放とうとした深緋(みあか)と麻緋(あさひ)。
酒井香奈子さんの深緋は、たった一人真朱だけが居ればいいと望み、「私を可哀想な子にしないで」という最後の言葉に自ら呪縛される事を選んだのではないかと思う。
自分の心に、真朱と真朱の記憶を消えないように凍らせて、永遠に刻み込み閉じ込めるために。その為に、「なぜ、殺したのか」と聞かれても、沈黙を貫く。
それは、とても孤独で苦しくて痛いことだ。それでも、なんと謗られ、残酷な言葉の礫を投げつけられても沈黙を貫き、守り続けた深緋の強さは、強さというには余りにも過酷で痛ましい。
松本稽古さんの麻緋は、きっと本当は普通の子でいたかっただけなのだと思う。それなのに、閉ざされた少女の残酷さが苛立ちとなり、生け贄のように捌け口にされ、教室に入れなくなった麻緋の代わりに標的になり、限界まで追い詰められた茜を解き放とうと深緋と同じ事件を起こした麻緋は、それ故に、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問を続けられる内に、くず折れて行き沈黙を貫けず、自分の中で凍らせた茜と茜の記憶が溶け出し、薄れて行く事に、孤独と痛みを抱えて行く。
普通の子として生きたかった麻緋が痛くて胸が締め付けられた。
生きることに絶望するまで追い詰められた、榎あづささんの真朱と星秀美さんの茜の闇の中の孤独と痛みが伝わってきて、胸が軋む。
時として、少女の世界は残酷だ。否、少女の世界だけでなく、学校、会社、社会、世間という、ある種の閉ざされた世界は、時に人に対して残酷なのかも知れない。
誰もが加害者にも被害者にもなる。
そして、その中には、茜と麻緋、真朱と深緋のように、追い詰められ痛みと孤独の闇の中で、たった一人の親友を救うために、一人が加害者となり一人が被害者となるり、自分達を可哀想な子と何も知らない大人や世間に括られたくないから、沈黙を貫いている事件があったとしたら。
そう考えると、この舞台の描く世界は、他人事ではない。もしかしたら、この舞台は、一歩間違えばもうひとつの自分の人生だったかも知れないのだ。
内容は、社会派のものだけれど、それを残酷で痛いけれど、美しい世界になり得ているのは、出演されている女優さんたちの美しさ、可愛さと、衣装と幻想的な照明の醸し出す世界感なのだと思う。
「社会派お耽美サスペンスファンタジーエンターテイメント」と言われる所以だと実感する。
人によって、好みが分かれる舞台だとは思うけれど、私は好きだ。
自分の中の感情が、蠢く素晴らしい舞台だった。
文:麻美 雪