愛情の内乱 公演情報 ティーファクトリー「愛情の内乱」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    TFactory:「愛情の内乱」
     夏のような陽射しの照る土曜日の昼下がり、吉祥寺シアターで末原拓馬さんが出演されているTFactoryの舞台、「愛情の内乱」を観て参りました。

     今回の舞台は、私にとっても、色々と感慨深く特別な舞台でした。

     なぜかと言えば、生前母が好きだった白石加代子さんがこの舞台に出演されていたからで、母の影響で、私も白石加代子さんが好きになり、1度白石さんの舞台を観たいと10代の頃から思っていたのが今日、末原拓馬さんと共演のこの舞台で拝見出来たからだ。

     若かりし頃の母の写真をバックに忍ばせて、母と一緒に観ている気分になる。生きているうちに母にも観せてあげたかった。

     舞台に置かれたちゃぶ台と襖、舞台に有るのはそれだけ。ちゃぶ台は家族の象徴。

     そこで繰り広げられるのは、母と3人の息子の「愛情の内乱」。

     遠い未来の近い過去。とある地方の大きな家。立ち退きを迫られているその家に暮らすのは、母と次男と謎の家政婦。

     家族を絶対的な力で支配しているのは、母。その母から逃れる為に志願して戦場に行った長男と母を愛していながら恐れ、長い間家を出ていた三男。

     退去勧告を受けても尚、家に居座り続ける一家に興味を持つ男が、TVのドキュメンタリーを撮りたいとやって来たのと時を同じくして、戦争で英雄になった長男アニと長い間家を出たままだった三男のジンが帰って来て、家族の歯車は思いもかけぬ方向に回って行く。

     顕になってゆく家族の問題と過去の記憶。最後に待ち受けている結末とは....。

     あらすじを言うとこういう物語なのだが、これはきっと、誰もが思い当たる親と子の物語であり、私の、そしてあなたの物語でもある。

     良くも悪くも母は子供が老人になったとしても母なんだと思う。私の母は子供の顔を見ただけで子供の心や状況を理解して、見守ってくれる母だったが、白石加代子さんの母は、どちらかと言えば、私の父に近い。

     そんな父から逃げたくて、逃れたくて、煩悶し葛藤し、時に憎みもし、父と離れたいと思い続けた母が亡くなった15歳の時から、父が兄の家の近くの施設に入って離れるまでの34年間を、この舞台の白石加代子さんの母を観て思い起こした。

     高圧的で支配的、息子たちにとっては、ある種恐怖でもあり、疎ましくもあり、心の奥底では愛している白石加代子さんの母を見ているうちに、ふと思う。疎ましく重く思っていた父の高圧的な態度は、私への父なりの愛情を間違った発露の示し方だったのだと。

     母を愛し過ぎていた故に、容貌は年々母に似て来ながらも、母のようにはなれない娘の私への苛立ちと失望と、そのことで、私にあたってしまう自分への苛立ちと多少なりとも持ち合わせていた私への愛情を上手く表現できず、誤った表現と発露で埋め戻す事の出来ない溝を作ってしまった父の心に思い至る。

     白石加代子さんの演じる母がそうだったように。

     認知症が進み、苛立ちを暴力で表し始めて兄の近くの施設に入り離れた父は、もう、私のことも忘れ始め、私を私と認識することさえ覚束無くなりつつある。「愛情の内乱」を観て、 ふと、その事に気づいて少しだけ父を赦し、少しだけ理解できた気がして最後に泣いた。

     大場 泰正さんの長男アニは、もしかしたら、私の兄と重なるのかも知れない。両親に反抗したこともなく、親思い、友達ともめることもなく、良く出来た兄と言われ、其れに比べてお前はと比べられて育った私。

     大場泰正さんのアニも正に、良く出来た兄と言われて育った長男。しかし、そう言われ続ける長男のプレッシャーと、「良く出来た兄なのに、反抗ばっかりして、お兄ちゃんを見習いなさい。」と言われ続けていた私は、兄にとっては、家では言いたいことを言える、気楽で我が儘勝手で反面、羨ましいとも見えていたかも知れない。

     誰よりも私の味方で、私を判ってくれた母だったけれど、唯一今でも、それは言わずにいて欲しかったのは、「お兄ちゃんに比べて」「お兄ちゃんを見習いなさい」という言葉と、死のひと月ほど前に言われた、「あなたは、打たれ強いから心配ないけど、お兄ちゃんは打たれ弱いから心配。私に何かあったら、お兄ちゃんを頼むわね。」という言葉であり、その言葉に長らく呪縛され、苦しんだ事を兄は知らないだろう。

     二人兄妹の末っ子でありながら、長女でもある私は、どちらの面も持ち合わせ、どちらの立場も何となく解る。

     そういう意味において、一番感情移入をして観られたのは、兼崎健太郎さんの次男ドスと末原拓馬さんの三男ジン。

     兼崎健太郎さんのドスは、心の奥底では母に愛して欲しかった寂しさと愛情を持っていながら、絶対的な力で支配する母を疎ましく思い逃れたい、家を出たいと思いつつ、残された母と母への思いが踏みとどまらせ、逃れたいと思いながら息子としての葬り去ることの出来ない、家族の愛情というに引き裂かれそうになりながら、自らをこの家と母に縛りつけているという事にさえ気づいていながら、行くも戻るも出来ない自分への苛立ちと諦め、其れに抗う気持ちを持て余し、葛藤しているように思った。

     それは、嘗ての私の姿と重なり、胸が軋んだ。

     末原拓馬さんのジンは、母を好きで愛しているが、その反面、母の絶対的な支配力に、自分が搦め捕られていつか、自分が自分として生きることが出来ないのではないかという不安と、これ以上この家にいて、母の影響下に居続けることへの恐怖から、家に居られないと家を出ることを選んだ。

     その、ジンの葛藤と不安もまた、私が父に対して長年感じ続け、呪縛されていたものでもあった。

     ここまで読むと、重くシリアスな母と子の愛憎の話のようだが、コミカルでユーモラスな笑いも随所に散りばめらていて、鬱々とした感じは一切ない。

     随所に笑いを散りばめながらも、しっかりとそれぞれの抱える痛みと葛藤、母と子、家族の愛情という、厄介で、でも、どうしようもなく愛しい家族の姿がある。

     最後の最後に、母の自分達への愛を知った息子たちは、その先に新しい家族の愛情の形があるのではないかと思わせる。

     その意味で、これはある種のハッピー・エンドの物語なのではないかと思う。
     
     心に様々な思いが兆した舞台だった。

    文:麻美 雪

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    2016/05/19 15:06

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