『邯鄲』『卒塔婆小町』 公演情報 もんもちプロジェクト「『邯鄲』『卒塔婆小町』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    もんもちプロジェクト:第二回本公演「近代能楽集」
     去年は、「近代能楽集」の「邯鄲」のみの公演だったこの舞台、今回は「邯鄲」と「卒塔婆小町」の2本立て。

                【邯鄲】

     「邯鄲」は、18歳の次郎が幼少の頃に自分の乳母であった菊の家を訪ね、10年ぶりの再会に喜ぶ菊に、菊の家に邯鄲の里から来た枕があると噂で聞き、菊の家系が代々宝物にしていたその枕で寝たいと告げる。

     夢から覚めると、何もかも虚しく馬鹿らしくなるという邯鄲の枕で寝た菊の夫も家を出たまま戻らず、それ以来菊の家の庭の花が咲かなくなったと言う。

     人生が始まってもいないのに、全てを悟りすませたように、生きようとする覇気も熱もなく、ただ死んでいるように生きていた次郎。

     精霊や秘書、踊り子、妻などが登場する夢の中でさえ生きようとせず眠り続けている次郎は、眠っているうちに独裁者にされた挙げ句、自分の意思に反して毒薬を飲ませて命を費えさせようとする者に迫られた時、初めて「死にたくない!生きたいんだ!」と叫ぶ。

     夢から覚めて菊の庭を見ると、枯れていた花が、活き活きと美しく咲き乱れる生命の輝きに溢れた庭であり、次郎の心にも変化が現れるという物語。

     観た瞬間、去年の「邯鄲」と違うと感じた。

     去年の越前屋由隆さんの次郎が、最後に「生きたいんだ!」と叫ぶまでは、生きてもいないのに悟りすませた鼻持ちならない次郎だったのに比べて、今回の次郎は、菊に対して最初から温かい気持ちを持って接している感じがし、次郎自身にも人間味や血の通った温かさを感じた。

     悟りすませたように見せている、次郎の中にある諦観や其処に至る孤独のようなものを感じて、最初から次郎に対して鼻持ちならない反発感を感じずに、「生きたい!」と思える何かをその手に掴んで欲しいと祈りにも似た気持ちを持ちながら観ていた。

     森川裕美子さんの夢の中の次郎の妻も、去年の次郎とどこか似た独りよがり危うさを醸し出していたのに比べ、人間味のある血の通った痛ましいまでのいじらしさと寂しさを感じた。

     石上卓也さんの老国主は、コミカルさを見せつつも、徐々に迫力を増して行き、次郎の矛盾と真理を鋭く突いて迫力がある。

     宇都恵利花さんの菊は、去年以上に次郎を慈しんだ乳母そのもので、包み込むような温かさを感じ、菊そのものだった。次郎とのやり取りでは、乳母と次郎の間に血の通った温もりと結び付きが感じられた。

     最後の「生きたいんだ!」と叫んだ次郎の言葉と庭に咲き乱れる花を見て、清々しく綺麗だと呟いた次郎に良かったと思うと同時に、次郎と言う人間が腑に落ちた。

     美しい言葉と幻想的な夢の世界で誘い、突きつけられたような素晴らしい舞台であることに変わりはないが、今年の「邯鄲」は、去年より更に深く濃く人間味のある観終わった後に胸に温かな光が射すような舞台だった。

               【卒塔婆小町】

     夜の公園で煙草の吸殻を拾う老婆が、ベンチの恋人たちの邪魔をしながら拾った吸殻を数えているのを見ていたほろ酔いの詩人が老婆に声をかける。

     詩人は、ベンチで抱擁している若いカップルたちを生の高みにいると言うが老婆は、向こうは死んでいて、生きているのは、自分たちだと言う。

     そのうち老婆は自分が昔、小町と呼ばれた女だと言い、自分を美しいと云った男はみな死んでしまうと言い、笑って取り合わない詩人に老婆は、80年前、参謀本部の深草少尉が自分の許に通ってきたこと、鹿鳴館の舞台のことを語り出すと、公演は、舞踏会に招かれた男女が小町の美貌を褒めそやす鹿鳴館の舞台に変わる。

     詩人(深草少尉)は19歳の令嬢となった美しい小町とワルツを踊り、小町(老婆)の制止も聞かず、何かをきれいだと思ったら、たとえ死んでもきれいだと言うと断言し、「君は美しい」と言ってしまう。そして、百年もしたら、また同じ場所で、僕は又きっと君に会うだろうと言って死ぬと言う物語。

     この「卒塔婆小町」は、以前からずっと観たかった演目。小野小町と深草の少将の百夜通いの伝説を、舞台を三島由紀夫が明治の鹿鳴館とその百年後(三島執筆当時)の現代に移し交錯させて描いた小説。

     百夜通い伝説では、小野小町は言い寄る男を完膚なきまでに拒絶し、深草の少将にも百夜通いをしたら、想いを受け入れると一見すると傲慢で鼻持ちならない条件を突き付けるイメージで語られる平安時代の美貌の歌人であり、歳を経て老いさらばえた小野小町は、嘗ての美貌は見る影もなく落ちぶれて亡くなったという末路が多く語られている。

     それらを合わせて、三島独自の小説にしたのが「卒塔婆小町」である。

     笠川奈美さんは、99歳の小町と19歳の小町を舞台装置は公園のまま、扮装も99歳の小町のままで演じている。

     腰も曲り、節くれだった手、茶色く煤けた膚と肉の落ちた胸で襤褸を身に纏い、出て来た瞬間に99歳の小町として佇んでいた小町が、80年の時間を遡り、19歳の小町になってゆくのを目の当たりにして息を飲む。

     声も顔も19歳の綺麗な小町が其処に居て、心底美しいと思った。百夜通いする深草の少尉の思いに心動かされ、いとおしく思う深草の少尉が百夜通いの成就で、命を落とすことを怖れると同時に、成就して共に生きられたらと思う期待の狭間で、怯えながら幸せを感じている小町の微妙で繊細な心の揺れを奈美さんの小町から感じた。

     小町は、百年ごとに生まれ変わり、深草の少将を待ち続け、出会い、亡くし、また生まれ変わって待ち続ける、永遠のループの中で生き続ける小野小町の生まれ変わりであり、これからもまた、その永遠のループの中で生き続ける永遠の愛の孤独のようだ。

     橘爽太さんの詩人(深草の少尉)もまた、小町と出会い、想いを寄せ、命がけで愛を伝え、死に、また生まれ変わって思い続ける永遠のループの中で生き続ける深草の少将の生まれ変わりであり、永遠のループの中で心を捧げ続ける。

     最後の台詞は、小町にとってはまた待ち続け喪う孤独と絶望であり、深草の少尉にとっては、また出会う希望であり未来でもある。

     けれど、100年後にまた出会う希望が、小町の胸に仄かに兆したのではないかとも思う。

     胸がきゅっと掴まれて、心にじんわりと染み込む「卒塔婆小町」だった。

     冒頭の細谷彩佳さんの即興のソロの踊りも、とても美しく、この「卒塔婆小町」の幻想的な世界へとするりと導いてくれる。

     大内秀一さんのソロの踊りも、惹き込まれる美しさと鋭さがあって素敵だった。

     美しく儚い夢の中を彷徨っているような、濃密な時間を過ごした舞台だった。


                           文:麻美 雪

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    2016/05/22 11:31

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