満足度★★★★★
書けない作家の頭の中と業
事前に解っていたのは、「謝罪ファンタジー」であるということと、冨永さんたちから、役者さんたちが死にそうに心身ともに大変だということだけ。
謝罪ファンタジー?死にそうに大変、一体どんな舞台なのか、頭に幾つもの疑問符だけが渦巻く状態で、舞台が幕を開けた瞬間、意味が解った。
オープニングから、激しい動きのダンス、軸になる役者はほぼ出ずっぱり、次々と被さるように重ねられて行く台膨大な台詞、叫ぶように、相手にぶつけるように発せられる言葉、劇中に何度も差し挟まれる激しいダンス、自身を抉るような台詞、肉体的にも精神的にも消耗するだろうと思った。
「謝罪ファンタジー」の意味は、内容が書けない時の脚本家、作家の頭の中の話だからだと解る。
この舞台を観ると書けない時の脚本家、作家の頭のがよく解る。交錯し飛び交う言葉と、右往左往する脚本家の頭の中の言葉と思考。それは、産みの苦しみだなんて月並みな一言では言い表せないものがある。
私自身の事を話せば、作家になると決心した12歳の春、決めたことがひとつある。作家になるなら、自分の痛みと傷にも目を背けずに、自分の中に存在する負も闇も情けなさ、不甲斐なさも見つめること。
そして、腑分けして、敢えて痛みや傷を抉る覚悟もした。逆に言えば、その覚悟をし、そうして来たから悲しみも痛みも越えられたとも言える。
脚本家にしろ作家にしろアーティストにしろ、物を創り出したり、言葉を紡ぎ書くということは、そういうことに目を背けないことであり、時にそれは自分の触れたくない部分を抉る作業でもある。
書けない、創り出せない状態というのは、そこから目を背けたい、逃れたいという、ものを創ること、ものを書くことを生業とした者が陥る苦しみであり、業なのだと思う。
それでも、創り出し、書いてしまう、創らずには、書かずにはいられない、創り、書くという行為から逃れられないのもまた、アーティストやものを書くことを生業にした者の業である。
それは、ただ創ること書くことが好きというだけでなく、創りたいもの、書きたいこと、創り、書かなければいけないことがあるから創るのであり書くのであり、創り、書くことを止めた時、自分の中の何かが死ぬような気がするのだと思う。
そんな事をつらつら考えながら観た舞台だが、そのややもすると重苦しくなりがちな内容を、笑いを散りばめエンターテイメント溢れる舞台にしたDangerous Boxの「紅牢夢」は、濃厚な時間を過ごした舞台だった。
文:麻美 雪