麻美 雪の観てきた!クチコミ一覧

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チューボー ~SECOND HOUSE Ver~

チューボー ~SECOND HOUSE Ver~

SECOND HOUSE

シアターシャイン(東京都)

2019/06/12 (水) ~ 2019/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2019/06/13 (木) 14:00

座席1階1列

 2019.6.13㈭ PM14:00 阿佐ヶ谷 シアター・シャイン

 梅雨の晴れ間の青空の下、阿佐ヶ谷のシアター・シャインへ、葵ミサさんが出演されているSECOND HOUSE旗揚げ公演「チューボー 〜SECOND HOUSE Ver〜」Bチームを観に足を運んだ。

 最前列真中の席に着き、舞台に目を転じるとレストランの厨房がある。この厨房を舞台に繰り広げられる物語。

 高林は、イタリアンの名店『ル・ブリラーノ』のオーナーシェフで、雑誌等で天才シェフともてはやされていた。

 元洋食屋のオーナーシェフの山辺は、借金を抱え閉店した自分の店の再起を図るため、高林の店『ル・ブリラーノ』に再就職したのだが、正反対の二人は事ある毎にぶつかるが、ぶつかり合いながらも山辺は料理人としてのプライドと喜びを取り戻して行く、そんな中『ル・ブリラーノ』にも不景気の波が押し寄せ、今度は高林が追い詰めらて行く…。

 今日が千穐楽であり、これからご覧になる方もいられると思うので、あまり詳細な感想は記すことは控え、観終わったあとに感じた事のみを簡潔に書くに留めます。

 身体と厨房にある物を叩いて音を奏で、それがやがて音楽のようなリズムになって行くストンプで始まるオープニングが見事で、圧巻。まずこれを観るだけでも観る価値がある。あのオープニングで、これから繰り広げられる世界に一気に引き込まれた。

 帰宅してフライヤー読み、旗揚げ公演だった事を、知って驚いた。面白いのは勿論だが観た瞬間、凄いと感じた。

 この時代に生きて働いていたら誰でも1度は感じ、立ち止まって考える事がある物語に、どの登場人物にも頷ける部分があり、それ故に、それぞれが話す言葉にハッとしたり共感出来る涙あり、笑いあり、歌ありの現代の日本と働く人全てに起こり得る、抱える問題を重過ぎず軽過ぎず、けれど肩に力が入ることなく舞台を観る事で自然に自分に置き換えて見入り、考えてしまう舞台。

 要所要所で登場人物たちが放つ、仕事に関する世界の著名人の言葉にも、頷いたり、胸に染みたり。

 父から受け継いだ洋食屋をこのままずっと、料理を作り、家と店の往復だけで終えて行くのかと心に迷いが生じ、料理を作る事に身が入らなくなり自分が店を傾け、閉店した事で自分を責め酒に溺れ、酒でしくじってはレストランを転々とし仕事が続かない山辺(梅木駿さん)は、1つの仕事をずっと続けて来た人が、誰でも1度は感じる焦燥、迷いであり、自分にとって仕事とは何だろうという疑問であり抱く思いである。
 
 高林(宮川智之さん)にしても、天才と言われながらその事に馴染めない自分と、ただひたすらに美味しいイタリア料理を気軽に楽しんで欲しいと価格を中途半端に手頃に設定した事が、自らの首を絞め始めた状況を打開する為に、経営コンサルタントの上原(花咲まことさん)に付け込まれ、店を乗っ取られる形で店を閉店せざるを得なく追い込まれるながらも、そこから初心に立ち返りつつシェフとしてだけでなく、経営者としての手腕も身につけ、また、同じメンバーで店を再開する為に立ち上がり、立ち向かう姿に、1つの仕事に魅入られ、その好きを変わることなく続け手放さずに極めて行く事で、その先にある自分にとっての仕事と何かを見つけ、辿り着き、また、歩き続けるその姿もまた、仕事をする人、働く人、人が誰でも感じることだろう。
 
 上原(花咲まことさん)も、確かに計算高く、言う一言一言が、嫌な奴ではあるがひとつの真理でもあり、それは、仕事の持つ1つの事実でもある。こういう人間はどの会社、どんな世界にもいる。上原という存在があったから、高林始め、山辺も『ル・ブリラーノ』のスタッフも仕事とは、自分にとっての仕事とは何かに向き合ったのかも知れない。

 高林の恋人香(葵ミサさん)は、ただ欲望に忠実なだけに見えるけれど、高林への愛はあったのではないか。けれど、高林の真ん中にあるのは料理を作る事であり、店であり、弱音すら自分に吐いてくれない、一番言葉を必要とする時に、自分の思いを言葉にしてくれない、自分ではなく自分の後ろを常に見ているような寂しさ故に、高林の元を去ったのではないのか。彼女にとっては、仕事より愛若しくは心地好く楽しく生きる事、生活させてくれる人が一番大事だったのでは無いか、それもまた1つの生き方である。

 全編を通して、自分にとって仕事とは何か、働くとは何か、自分は仕事に、働く事に何を求めるのか、観ている側に、そして、その役を生きる者に問いかけてくる。

 私自身が何度も考えて来たテーマ、『自分にとって仕事とは何か、働くとは何か、何をしてどう生きたいのか』を改めて考えた笑あり、涙あり、歌ありの素敵な舞台だった。

                文:麻美 雪

叫べ!生きる、黒い肌で

叫べ!生きる、黒い肌で

アブラクサス

サンモールスタジオ(東京都)

2019/05/09 (木) ~ 2019/05/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2019/05/09 (木) 14:00

 2019.5.9㈭ PM14:00 サンモールスタジオ

 花曇りの風の強い昼下がり、小西優司さんが出演されているアブラクサス『叫べ!生きる、黒い肌で』を観に新宿御苑駅からサンモールスタジオへと向かった。

 劇場に入り、前から二列目の席に着き、目を前に向けると、舞台奥2段上がったところにピアノ、その上に金のフリンジで作ったようなシャンデリア、舞台右手前には木製の丸いテーブルと三脚の椅子がある。

 この舞台は、1960年代アメリカで、公民権運動に参加し、肌の色によって差別されていた人々の自由を求めたアーティストニーナ・シモンをモデルとし、彼女が親友の事を思いながら作曲した『若き、才気ある、黒い肌で』という歌からインスピレーションを得て生まれたアブラクサスのオリジナルストーリー。

 1960年代のアメリカ、400年に渡る人種差別への抗議運動が盛んな時代、アフリカ系アメリカ人のシバーナは、幼い頃からアフリカ系アメリカ人初めてのクラッシックピアニストになる為、教育を受けて育ち、音楽大学に受験するが大学に入れずピアニストを諦め、生活の為に酒場でピアノを弾くようになり、そこで、アフリカ系アメリカ人の自由と人間としての尊厳を求める公民権運動に身を捧げるビリーと出会い、親友になり、自らも運動に参加しのめり込んでゆく。

 アフリカ系アメリカ人が、電車や交響施設、レストラン等で、人種差別により、白色人種と分けられ、選挙権すらなかったのは、そう遠い過去ではない。そんな公民権運動激しい時代、行き過ぎるまで、その運動に身を投じ、歌い続けたシバーナの人生を回想シーンを中心に紡いで行く舞台。

 今日が千穐楽であり、テーマになっている内容が内容なだけに、私自身まだこれからも考え続けなければいけない問題でもある為、詳しく感想を書く事は難しい。なので、今は、観終わって感じた事をそのまま書く事で留めたいと思う。

 人種差別とその差別により奪われ、虐げられて来たアフリカ系アメリカ人の自由と人間としての尊厳を求める公民権運動という、内容に一言では言えない、様々な問題やテーマが織り込まれているが、ニーナ・シモンがモデルのシバーナの、音楽にかけた思いと情熱、歌に込めた祈りと闘いに、胸が軋み、圧倒的な熱と命を感じた。

 時に暴走するまで、公民権運動に傾倒して行くシバーナの葛藤と痛みと想いは、Setsukoさんだからこそなし得たシバーナだと思う。ニーナ・シモンがモデルのシバーナの全身から噴き出すような思いと叫びのような歌は、Setsukoさんだからこそ、表現し歌えたと思う素晴らしさだった。

 小西優司さんのリチャード・フォレストは、最初の目的はどうあれ、敢えて自分を悪者にし、自分の命をかけてビリーとビリーのお腹に宿った命を護ったその思いが、切なくも深く胸に沁みた。

 遅々として変わらない事に苛立ち、暴走して行くシバーナや仲間たちの中にあって、非暴力による公民権運動を成すことで変えようという強い信念を貫く羽杏さんのビリーの真摯で凛とした姿に、心動かされた。

 シバーナの人気と名声、シバーナの歌声が生み出す金と名誉を護る事に汲々としているように見えた石田太一さんの夫アンディの一連の発言や行動は、シバーナとシバーナのお腹に宿った命を護ろうとして、宿った命を守り切れなかった彼のせめて、シバーナだけでも護りたいという愛ではなかったか。

 明るくなく、重いテーマの話である。けれど、目を背けてはいけない問題でもあり、この頃より大きく改善されたとは言え、今でもまだ根強く残る人種差別。

 マイケル・ジャクソンですら、黒い肌を持つという事で、差別に苦しみ葛藤したという。それ程に根深い問題である。

 いつの時代であろうと、国や人種、肌の色で差別や排除されることなく、国、環境、人種や肌の色に関係なく、自分自身に誇りを持ちたいという思いが、膚に胸にキリキリと刻みつけられるように伝わって来る舞台だった。

                文:麻美 雪

毛皮のマリー(オリジナルver./未公開ver.)

毛皮のマリー(オリジナルver./未公開ver.)

青蛾館

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2019/03/14 (木) ~ 2019/03/21 (木)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2019/03/16 (土) 14:00




 2019.3.16㈯PM 13:00 東京芸術劇場シアターウェスト

 麗らかに暖かいお昼の池袋駅の中を通り、東京芸術劇場シアターウェストへと、演劇集団アクト青山の小西優司さんが出演されていた青蛾館『毛皮のマリー~オリジナル~』を観に足を運んだ。

 『毛皮のマリー』と言えば、美輪明宏。美輪明宏の『毛皮のマリー』をずっと観たいと思いつつ、チケットもなかなか取れず未だ観れずにいた舞台。寺山修司の筆になるこの舞台、アングラと言われるものに振り分けられるのだが、あけすけな描写や台詞、動きがあり、話自体も平成も終わろうとしている今でも、刺激も衝撃も強い内容ゆえ、俳優や演出の力量が問われる舞台でもある。

 力量のない俳優と演出で上演したら、ただ醜悪で悪趣味、下品なだけの舞台になってしまうだろう。

 今回、青蛾館が上演する『毛皮のマリー』には、美輪明宏により演じられ続けているオリジナルの寺山修司の戯曲の「オリジナル」版とニューヨークのラ・ママ劇場での公演の際に別のエンディングが書かれた戯曲が発見された「未公開ラ・ママ」版の2つを上演。

 私は、「オリジナル」版を観劇。「未公開ラ・ママ」版の美少女役は中村中さんだったので、両方観たかったのだが時間の都合で観られなかったのが悔やまれる。

 舞台上に置かれた浴槽に身を沈めるマリー(のぐち和美さん)が、執事(加納幸和さん)に体毛を剃刀で剃ってもらいながら、養子の欣也(安川純平さん)の話をする所からこの舞台は始まる。

 贅沢に設(しつら)えた一室に住む中年の男娼「毛皮のマリー」は、産後の肥立ちが悪くて亡くなった、かつての同僚、金城かつ子の息子、美少年の欣也を引き取り共に暮らしている。

 欣也はその部屋から出たことがなく、マリーが部屋に放った蝶を捕まえては標本にして暮らしていたが、ある日、上の階に越してきた謎の美少女によって、マリーと欣也の関係がかき乱されて行き、やがて欣也とマリー、それぞれに隠された秘密を欣也が知った時、思いもかけない結末に向かってゆく。

 描写や台詞、動き、所作、衣装全てが淫靡で猥雑でありながら、嫌悪感を持たずに惹き込まれて観てしまったのは、そこにどうしようもなく残酷でありながら不器用で、狂おしいまでのマリーの欣也に対する母親の愛というものを感じ取っていたからだと思う。

 生い立つに従って、自分の中にいる少女に気づき、身体と心の性が違う事に恐れ惑った時、そんな自分を受け止め少女として接し、優しくしてくれたかつ子が、マリーが美しい少女になって行くことに嫉妬し、マリーが男である事を他の同僚の前で暴き、笑いものにした事で、マリーは金で雇った男に襲わせ、孕み産み落とし絶命したかつ子の息子欣也を最初は復讐のために引き取ったにしろ、産まれたばかりの頃から自分を母と呼ぶようにしつけ、母として振舞っているうちに、母性が目覚めて行ったのではなかったか。

 そしてその母性は、欣也の出生に関わる秘密と自分が生みの母にした仕打ちを知られたくない、欣也を失いたくないあまり、欣也を部屋から外に出さず、世にある醜いもの、醜い事から隔離し、羽根をもがれて飛べない蝶のような、時を止め、標本にされた蝶さながら欣也の成長を止め、永遠に美しい少年のまま留めようとするマリーの心情が、18歳の欣也に子供のような半ズボンを履かせたのではないだろうか。
 
 自分の出生の秘密を知り、マリーの元を出で行ったもののマリーの『欣也!帰ってらっしゃい』という、叫びに手繰り寄せられるように戻って来た欣也を世の醜いものから守る為に、ドレスを着せ、カツラをかぶせ、口紅を塗り、少女にして部屋から、そしてマリーという、母という檻もしくは胎内にも似た繭のように閉じ込める事で、欣也を護ろうとしたそれは歪み過激ではあるがマリーの母としての愛だったのではないだろうか。

 美少女(日出郎さん)の出現により、マリーとマリーの世界を屈託もなく信じていた欣也は、揺さぶられこの世界が壊される事をおそれたのではないだろうか。出生の秘密を知り、母に憎まれているのではないかと思い、心と神経が乱された時、美少女にキスされそうになったり、身体に触れられ、無意識下に育まれて行った欣也の中の「大人になりたくない」という、ピーターパンのような大人になる事への恐れ、大人になる事によって、世の中の醜いことを知らなければならない戦(おのの)きから、美少女の首を絞め、我を失くし、美少女からもマリーからも、自分に絡みつき縛るものから解き放たれたくて外へ出てみたものの、そこは欣也を受け入れる世界ではなく、汚い言葉や嘲り、無垢で無知な心を傷つける場所だったのではないだろうか。

 だからこそ、マリーの呼ぶ声に、蜘蛛の糸に絡め取られ引き寄せられるかのように戻り、マリーのされるがまま少女の姿をさせられ、自らもまたそれを受け入れたのではなかったろうか。

 内容が内容なだけにかなり濃厚な艶っぽさはあり、好悪が分かれる舞台だと思うが、私は嫌悪感なく 毛皮のマリー の世界に見入って、好きだ。

 美少女役の日出郎さんが、時に可愛く、時に綺麗で、時に毒を孕んでいてとても素敵だった。

 寺山修司独特の耽美な猥雑さと暗い水底に潜むような毒を孕み媚薬のような、アンセリウムの危ない香りのような世界に彩られた舞台だった。

                文:麻美 雪

女優たちのための冬の夜の夢

女優たちのための冬の夜の夢

LIVEDOG

新宿村LIVE(東京都)

2019/02/16 (土) ~ 2019/02/24 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2019/02/21 (木) 14:00

 2019.2.21㈭ PM14:00 新宿村LIVE

 うらうらと暖かな昼下がり、新宿村LIVEに、REONさんが出演されるLIVEDOG『女優たちのための冬の夜の夢』を観る為に足を運んだ。

 劇場に入り、チケットに示された最前列真ん中の席に着くと、目の前には、屏風のような壁にレースの貼り絵を施したような真っ白な木立ちとその前に白い靄で覆ったような白い3段程のひな壇、舞台の左右に、太く枝先が羊の角のように丸まった真っ白なレースの貼り絵のような木。舞台装置はそれだけ。

 妖精の女王ティターニアが、インドの美しい少年を引き取り自分のお小姓として片時も離さずそばに置いていると聞いた、夫の妖精の王オーベロンが、そのお小姓の美しさに執心し、妻ティターニアに、下げ渡すように言うも拒絶されたことから、妖精界を二つに分けるような夫婦喧嘩を繰り広げている所に、二人の統べる森に迷い込んだ、相思相愛のながらハーミアの父に結婚を反対され駆け落ちしようとしているハーミアとラインサンダー、ハーミアに横恋慕するディミトーリアスとそのディミトーリアスに想いを寄せるヘレナの二組の人間と妖精たちが森で巻き起こす恋の騒動を描いたシェイクスピアの祝祭的喜劇『夏の夜の夢』を原作に置き、就職活動に打ちひしがれ、厳しい現実を感じていた夢子が、『夏の夜の夢』の公演に向け女子演劇カンパニーの冬合宿に参加し、夜の森での稽古中、森に霧が立ち込め、姿を変えた森が部員たちを夢の中へと誘ってゆく所から始まる、夢か、舞台か、現実か、境目のない不思議な冬の夜の夢の世界へ誘われ、夢子は、いつしか失っていた「生きる喜び」を思い出してゆくという、かつて少女だった大人たちへ送る、歌とダンスとロマンスが織り成す物語へ誘(いざな)われる。

 男女で演じられるこのシェイクスピアの戯曲を、女優だけで演じるからタイトルが夏の夜の夢ではなく冬の夜の夢、シェイクスピアが男の目線で『夏の夜の夢』を書いたとするなら、『女優たちのための冬の夜の夢』は、女の目線で描かれているのではないだろうか?

 シェイクスピアの原作の『夏の夜の夢』を忠実に踏襲し描きながらもそこに、現代を違和感なく自然に持ち込み、溶け込ませシェイクスピアの時代と現代、シェイクスピアの創り出す夢と現代の夢子の現実とが融合し、境目のない夢を観客は観る。

 夢子が(佐々木七海さん)演じるはパック、夢子はパックと夢子を行き来しながら、夢子はパックを演じ、パックが夢子の中で蠢き、夢子が夢を追いかける限り解けない魔法をかけたかも知れない魔法で、夢子は生きる喜びを見出したのではなかったろうか。

 この舞台を観たいと思ったのは、REONさんがオーベロンを演じると聞き、REONさんにオーベロンはピッタリ、絶対に面白い舞台に違いないと思って観たら、創造を更に上回る面白さだった。

 REONさんのオーベロンは、妖精の王としては堂々とした押し出しなのに、インドの美しいお小姓を巡る争いでは、駄々っ子のような子供っぽさと、妻に頭が上がらない夫の片鱗が見え隠れしつつ、時にさっそうと夜の森に吹く5月の風のような色香を漂わせるオーベロンそのまま。

 門田紗苗さんのティターニアは、妖精の女王としての気品はありながら、オーベロンとの仲違いでは、子供のような利かん気とオーベロンの成すことに呆れる母のような心持ちを仄かに漂わせながら、艶やかさもあり、最後にオーベロンと仲直りをした時に見せる睦まじさに、本当はオーベロンをこよなく愛おしく思っているのが垣間見え、可愛らしい女性の一面が好ましく感じた。

 そしてそれはまた、オーベロンにしても、妻ティターニアに対して抱いている愛でもあるのではないか。

 REONさんのオーベロン、門田紗苗さんのティターニアが、とてもイメージにピッタリで好み。

 夢のように不思議で美しく、110分間笑いっぱなしで、観終わった後、清々しい幸福感に包まれた舞台。

 シェイクスピアの『夏の夜の夢』もきちんと描かれていながら、オリジナルのコミカルな台詞や動きがおふざけにならない、心地の良い軽みのある面白さになっていて観ていて気持ちの良い幸福感に満たされた舞台だった。

                文:麻美 雪

ビョードロ

ビョードロ

おぼんろ

新宿FACE(東京都)

2019/02/14 (木) ~ 2019/02/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2019/02/16 (土) 13:00

 2016.2.16㈯ PM13:00 新宿FACE

 冬の合間の麗らかに晴れて暖かな土曜日の昼下がり、歌舞伎町の元新宿コマ劇場があった斜め前にある新宿FACEへと、劇団おぼんろ第17回本公演『ビョードロの森~月色の森で抱きよせて~』を観に向かった。

 劇場に入り、左手前から数列目の席に座り、目の前中央に四角い数段高くなった舞台とその右手側に櫓のようなものがあり、その中央の四角いリングのような舞台と繋がって、櫓のようなものがある劇場正面に舞台があり、四角い舞台の左下手に木造の電信柱のような物があり、そちこちに櫓や電信柱には、とりどりの布が旗のように布を巻き付け、ランプの下がった柱が在り、舞台を囲むように配置された客席がある。舞台装置としてはそれだけの削ぎ落とされた空間、それを、補いビョードロの森を自らの前に出現させるのは、役者たちのかける魔法と観客それぞれの想像力。想像力と役者たちの魔法で現れたビョードロの森へ迷い込む。そこで観た物語とは…。

 末原拓馬さんの紡ぐ物語、おぼんろの創り出し、織り成す世界は、やはり、美しくて悲しくて、胸がぎゅっとなる程、残酷で切ないけれど、とてつもなく優しくて温かくて幻想的な世界で、涙が溢れて止まらない。

 悲しく美しい絶望の後に、その先にきっと、優しい世界に行き着ける、絶望の中にも、絶望のその果てにも、1粒の砂金のような微かな希望と美しく咲く人の心はきっとあると、祈りにも似た一縷の望みを必ず後に残してくれた、素晴らしい舞台。

 愛して欲しいのに人の命を奪う『病原菌』として忌み嫌われ、愛されないジョウキゲンの絶望的ナ悲しみ、愛したいのに、ただ仲良くしたいだけなのに、自分が触れたら命を奪ってしまう。それが解っているから、大好きなタクモに抱きしめて欲しいという願いを、命尽きようとしている最後まで言えずにいる、ジョウキゲンの純粋で無邪気な無垢が胸を抉られるほど悲しい。

 そのジョウキゲンの健気さが、タクモに、ワクチンを打ったから大丈夫と嘘をつかせ、ジョウキゲンを抱きしめさせたのだろう。ジョウキゲンを抱きしめた時、タクモもまた、だれを傷つけ生命を奪いたい訳ではなかったのに、ビョードロの民に生まれたと言うだけで、蔑まれ、疎まれ、排除されようとするその事に傷つき、自分をジョウキゲンと一緒に、この世界から消し、きっとある絶望の果ての1粒の光の世界へと行き、生きたいと願ったのではなかったか。

 そして今回、実はパフォーマーの方たちも観る前から楽しみにしていたのだが、これがまた素晴らしかった。あのパフォーマンスが更に ビョードロの森 の世界が鮮やかな美しさを増したと思う。特に、渡邉翔史さんのバトントワリングは、チケットを取った時から楽しみにしていて、間近で見て本当に素敵だった。

 残酷で、ヒリヒリと痛くて、悲しくて、どうしようもない程切なくも、美しく、最後に一筋の希望の光と温かさを胸の奥に灯してくれる舞台だった。


                文:麻美 雪

朝に死す

朝に死す

Ortensia

演劇集団アクト青山・烏山スタジオ(東京都)

2019/01/30 (水) ~ 2019/02/02 (土)公演終了

満足度★★★★★

 2019.2.2㈯ PM18:00 千歳烏山 演劇集団アクト青山アトリエ

 暗くなり始めた夕方の空の下、千歳烏山の駅から演劇集団アクト青山のアトリエへと、小西優司さんと飯田南織さんのユニットOrtensia第四回公演『朝に死す』を観る為に急ぐ。

 思えば、去年の丁度2月から、毎月このアトリエにOrtensia、演劇集団アクト青山の公演と足を運ぶようになって丁度1年になる。

 まさかこの時、演劇集団アクト青山が3月末で解散するとは思わずにいた。だが、何とはなしに、演劇集団アクト青山のアトリエが移転するのかも知れないとは漠然と感じていた。このアトリエで観る最後のOrtensiaの公演。

 アトリエの中に入ると、いつもとは違う舞台の設いに、胸が高鳴る。

 入って右手側、普段は客席になっている所に舞台が設えてある。その舞台に向かって横一列に並んだ客席が4、5列後ろ数列が少しずつ高くなるように並べらていた。2列目の真ん中の席に座り舞台に目を向けると、その舞台はピンクベージュの緞帳が下ろされ、人ふたりがすれ違える程の幅しか無く、舞台の左手には電信柱が1本あるだけ。

 18:00幕が上がるも、照明は、2人の姿が浮かび上がる程度の極限まで落とされた薄暗い状態。それだけに、声とその所作や動きから2人の表情を探り、情景を自らの中に思い描こうとし、その表情を確かめようと食い入るように集中して舞台を観て、全身と全神経、五感を総動員して『朝に死す』の世界へと引き込まれて行った。

 今まで、小西優司さんの書き下ろしOrtensiaの舞台だったが、今回は清水邦夫の『朝に死す』を小西優司さんの演出で、Ortensiaの『朝に死す』を作り上げている。

 簡潔にあらすじを書くと、中は工場か何か大きな建物と思われる大きな灰色のコンクリートの壁の前に、若い男(20歳)が女(18歳)を背負ってやって来てくるのだが、どうやら男が仲間を裏切ったことで撃たれそうになったところに、飛び込んできた女の脚に弾があたり、歩けない女を背負いここまで逃げて来たが、男は追っ手から逃げている為、女を置き去りにしようとするが、何故か出来ずにいるうち、それまで顔も知らなかった2人が、片隅で生きるという共通項を持つことを知り、追っ手から逃げる男と男に捨てられたばかり女の奇妙な会話が始まる…という話。

 殆ど舞台装置もない舞台の上、照明も極限までに絞り、音楽や効果音もほぼ無い、あるのは2人の役者と発せられる息遣いと言葉と、抑制された動きから発せられる音と追っ手から狙われる男と男と別れたばかりの女の2人の心情感情の動きという、限界まで削ぎ落とされた舞台での芝居は、この2人だから成し得、成り立ったと言える。

 観て初めて、『朝に死す』の意味が解る。照明も極限までに抑えられ、中盤近くまでは表情すら目を凝らさなければ解らない中、声だけで、身じろぎの音ひとつで、何が起こり、どんな表情をしているか解る。

 そこには、それぞれの追い詰められた理由こそ違え、確かに追い詰めれた20歳の若い男と、18歳の僅かに少女を脱したばかりの若いオンナが居て、ヒリヒリと焼かれキリキリと胸を引き裂かれそうな痛みと葛藤が、この身に移されたような感覚を味わった。

 1時間という時間の中、舞台装置もなく、照明も極限までに絞られている事が、緊迫感を生み、乗り出すように息を詰め、じっと耳を澄まし、目を凝らし、神経を集中して観ればこそ、目の裏と脳裏に場面、表情、情景が浮かぶ。凄い舞台であり、ゾクゾクする面白さのある舞台だった。

                文:麻美 雪

雪華、一片に舞う

雪華、一片に舞う

Dangerous Box

上野ストアハウス(東京都)

2018/08/16 (木) ~ 2018/08/21 (火)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2018/08/18 (土) 14:30

 劇場に入ると、左右に分けて客席があり、その真ん中に舞台へと続く花道がある。舞台の真ん中には、白い箱を2つ並べた机のような物があり、その左右としょうめんに白い箱が椅子のように一脚ずつ置かれており、その後ろに背の高い脚立があり、人形が吊り下げられている。その横には、短い階段があり、それを登りきると椅子が二脚膝突き合わせるように斜めに置かれている。舞台装置はそれだけ。


 その空間に描き出されるのは、先週のゆめまち劇場での『大脚色』から、繋がる名探偵小暮一片シリーズ第3弾、小暮一片の物語。


 ここから、濃縮したあらすじをかくところなのだが、この舞台それがとても難しい。なぜと言うなら、この舞台、『考えるな、感じろ!』としか言えない舞台だからである。


 ストーリーが有るようで無く、無いようで有る。無限に広がらない筈の狭い空間で、男は自分に対して自分の存在が自分の理想であるようにと強く願い、男が、いや男だけでなく誰か一人が言葉を紡ぎ始めるとそこは無限に広がる空間へと変わり、ならば無限に広がるのかと思えば、それぞれが抱える内なる精神世界にまるで反物質のように存在を打ち消す存在が生まれた時に起こりうる個と個、1と0が出現するが、それさえも虚なのか実なのか、ぐるぐると円が繋がり回り続けるように、目まぐるしく物語が生まれ、遺伝子の様に螺旋を描いて絡みつくように打ち消す物語が存在し始めると、そこは元いた狭い空間ではなく、そこには男が求める理想があった。


 探偵と推理、刑事と犯人。 犯人は誰?犯人は存在するのか?言葉が交錯し、連帯する事で、共依存のような物語が紡ぎ出され、果てないとにも思える言葉の羅列が繰り返し行われる事で
一つの真実の物語が浮き彫りになってゆく、名探偵木暮一片シリーズ第3弾。


  なぜ犯人は犯行を起こし、起こった犯行はどんな結末へと帰結して行くのか、虚ろで後ろ向きな思考が生み出す演劇のような短編オムニバス小説のような、上手く説明する言葉を持たない永遠に続く誰かの狂おしい夢の中に迷い込んだような世界を超高速度の言葉と思考と動きと感情の交感と交感で紡ぎ出す舞台。


 何とか粗筋らしき物を書いてみるとこんな感じなのだが、これさえも何処まで捉え、受け取り切っているのか定かでない。


 なので、此処からは観て感じたままを書いて行く。その為、矛盾や齟齬があるやもしれないがお許し頂きたい。

 昨日から、つらつらとこの『雪華、一片に舞う』の事を考えていて、ふと、思いついたのは、3年前に初めて観たDangerous Boxの『姦~kashima~』の欠片が幾つか散りばめられているのでははないかという事。

 『姦~kashima~』は、確か小暮一片シリーズ1作目だったと記憶している。

 篠原志奈さんの森田は、『大脚色』にも出て来た森田と同じであるなら『大脚色』とは印象が違う、観ていて感じたのは3年前この劇場で観た『姦~kashima~』で、志奈さんが演じたカラクリ遊郭のからくり生き人形の欠片としてこの物語に存在しているのではないかということ。動きや台詞の発し方が、何処か『姦~kashima~』のからくり生き人形を彷彿とさせた。『大脚色』の森田が、『大脚色』という物語を書き物語を操っている様に見えて、それさえも神の大いなる手に動かされているのかも知れないとしたならば、この物語での森田もまた、話を導いて行く語り手であり、からくり生き人形を身を滅ぼす程に狂おしく愛してしまった一人の男(林 里容さんが演じた役)を結果として破滅に向かわせた存在とするなら、この物語でももしかしたら…と思ってしまった。

 そこから連なる林 里容さんの入山三郎は、『大脚色』では、もう1人の小暮一片、小暮一片と鏡合わせのような存在だったのではと思ったのは変わらず思いながら、先程上げた『姦~kashima~』のからくり生き人形を破滅的に愛してしまった男の欠片としてもこの物語に散りばめられているのではないかと思った。そして、そのイメージは、 『 綾艶華楼奇譚 晩餐狂想燭祭』の八文字と重なるのではないかと不意に思った。八文字が篠原志奈さん演じる一華、零華にあれ程までに執着して追い求めるのは、『姦~kashima~』のこの男の記憶が引き継がれているのだとしたら…とするなら、『 綾艶華楼奇譚 晩餐狂想燭祭』の欠片も忍び込ませているのだとしたら…。

 この舞台のタイトルの雪華は、一華、零華を準え繋がり指し示しているとしたら、雪華という花魁に繋がりいつか登場するのではないかというのはあまりにも考えすぎだとは思うが、ふと感じてしまった。

 『雪華』とは、雪の結晶、雪の降るのを花に例えた言葉であり、冬の季語でもある。

 この『雪華、一片に舞う』は、私が観た限りの小暮一片シリーズの名探偵小暮一片が、『姦~kashima~』『大脚色』と関わって来た事件の全ての欠片と小暮一片という一人の探偵であり男のこれまでの人生の欠片が、小暮一片の上に雪の華のようにヒラヒラと舞い落ちてくる物語という事であり、全ては小暮一片の仲に無限に或いは有限に広がる世界を描いたものなのかと感じた。

 『姦~kashima~』の冨永裕司さん、ゆめまち劇場での『大脚色』のREONさん、そしてこの『雪華、一片に舞う』の滝沢信さんの小暮一片は、印象が移ろい変わり、更新されて行く。

 千穐楽前なので、結末は言えないが、行き着く末、行く末、あの膝の上の人形の意味は私の感じた通りだとすると、胸が軋む。

 滝沢 信さんの小暮一片は、厨二病だなんだと言われる小暮一片という一人の男、内に抱え、巣食った孤独と愛される事への渇望と、その愛される事への渇望は、人に必要とされたいという切望のように感じて、遣る瀬無い切なさに胸が軋んだ。

 と何とかここまで書いたが、この舞台、目が幾つあっても追いつかない。全方向に役者さんたちがいて、言葉と動きと照明が超高速度で交換、交錯し、更に感情と思考が目まぐるしく交感し合い、干渉し、関わり繋がり、崩壊し、消えてゆき、現れる。

 観終わった後は、何だか分からないけれど、物凄いものを観てしまったという放心状態の感覚と、細胞や脳内、軆内と感情が翻弄され、滾り、何かが駆け巡り、揺さぶられる。

 所々に白薔薇が置かれている席があり、そこに入れ替わり立ち替わり、役者さんたちがすわり芝居が紡がれるという、中々に嬉しくもあり、ドキドキする仕掛けもある。

 私の隣の席には、JEYさんが座られて芝居が進行して行くことが多く、JEYさんカッコイイなと思いつつ、ドキドキしながら舞台を観ていた。

 そんな緊迫感のある中で、宮岡志衣さんの添島猿彦が、出てくるとふと和んだのは、『大脚色』の千穐楽のラストを観た人は、添島が持っていたフランスパンの意味が分かると思うので、ちょっと楽しめるかも知れない。添島が鞄に付けている猿のぬいぐるみが困ったような、何とも言えない愛らしい顔をしているのに、途中からちょっとパンクっぽく変わっていたり、フランスパンが出てくる度に短くなっていて、その意味って、ああいう事なのかなと思ったりして面白かった。

 兎にも角にも、五感と持てる感覚全てを総動員して、フル稼働させて観た、物凄い舞台であり、面白い舞台だった。


                文:麻美 雪

大脚色

大脚色

Dangerous Box

浅草六区 ゆめまち劇場(東京都)

2018/08/08 (水) ~ 2018/08/11 (土)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2018/08/11 (土) 13:00

 2018.8.11㈯PM13:00 浅草 ゆめまち劇場でDangerous Box『大脚色』を観た。

 今回、この『大脚色』とこの後に上野ハウスで上演される『雪華、一片に舞う』とがどうやら関係するらしい。

 この『大脚色』の主人公、木暮一片(こぐれ ひとひら)、次の『雪華、一片に舞う』も木暮一片の話。

 膚にベッタリと蒸し暑さが纏つく、土曜日のお昼に、私は、Dangerous Boxの『大脚色』を観る為に、浅草にあるゆめまち劇場に居た。

 劇場に入ると、真ん中にランウェイの様に設えられた舞台の両側に、1人がけのテーブル席があり、その後ろに役者が駆け回れる通路分の間を置いて4人がけの席、階段を上がると丁度その4人がけの席の上が二階席になっている。

 私は、左側の出入口に近い、1人がけの席に着いた。舞台の上には、私から見て左手奥の正面に二人がけのソファーと白い本棚が両側に並べられ、ソファーの受けには、白いホープで吊るされたブラコンのようなものがあり、右手端にもそのソファーと相対する様に二人がけのソファーが置かれている。舞台装置はそれだけ。

 飛んでもない世界の幕が開く。

 人気作家の突然の死と残された一冊の小説。それは、担当編集者に残された最新の原稿。残された原稿に取り残された編集者が巻き込まれていく「嘘」というの名の真実と嘘を真実と思い込むために、嘘が真実に塗り替えられて行くパラドックス。

 現実が小説にリンクするのか、小説に真実がリンクして行くのか、はたまたそれさえも、誰かが書いたシナリオなのか。答えを求めた時、結論は嘘に包まれ、何が真実かなのさえ靄に包まれる。

 ざっくりあらすじを説明するとこういうはにしなのだが、一度観ただけでは目で追えきれず、その目で追えきれなかった部分にまた、別の真実が隠されているような気がしてしまう。一度観ただけで、この舞台を語ることは難しい。

 飛んでもない熱量と膨大でリンクし合い、交錯し、ぶつかり合い、重なり合う台詞、幾つもの世界の端っこが互に重なり合った部分が、現実に、小説と小説の世界に関わり、干渉し合っているような、目まぐるしく展開される話と時間、クラクラと目眩に襲われながらも、気づけば『大脚色』という大きな話の世界に巻き込まれ、呑み込まれ、引き込まれて行き、気づけば2時間が経っており、現実に引き戻されても尚、不思議な時間軸の中にいるような気分になる舞台。

 幾つもの円が重なり合ったという所から、観ながら、小学生の算数で習った、円の重なり合った部分の面積を求めましょうという図形がずっと頭の隅に浮かんでいた。

 『大脚色』は、その重なり合った部分の物語で、面積の代わりに真実を求めると言うような話なのではないかと思った。

 『カーテンコール~ポアロ最後の事件~』は、とある殺人事件の真犯人が実はポアロ自身であり、自ら掲げていた信条に則り、自らを裁き死ぬという結末を迎える。ポアロの殺人の動機は、この話とは違う所にありはするのだが。

 幕開け早々、二人の小説家が現れ、死ぬ。

 1人は人気小説家緒方乱、1人は小田修一。この2人があるに突然、死んでいるのが発見される。他殺か事故かはたまた…。事件を解決する為に、一通の手紙を受け取り、小田家の屋敷を訪れた、妹に頭の上がらない中二病の探偵木暮一片が現れ、やがて、結末は思いもかけない終焉を迎える。

 石橋知泰さんの端正で美しく知的で気品溢れる小説家小田修一に目を奪われ、REONさんの木暮一片と石橋さんの修一をずっと目で追っていた。

 血の繋がらない兄弟姉妹、清楚で控えめな美しい使用人楓を想う修一、その修一を想う故に楓にきつく接する妹雨音、楓に恋情を抱く故に兄を疎む弟俊之、その弟俊之に密かな思いを抱く故に楓に酷く当たる姉の真梨。

 こんな複雑な横溝正史か江戸川乱歩の小説には出て来そうな環境に生まれ育ちながら、どこまでも繊細で優しい修一。けれど、それ故に胸の中に孤独や懊悩が巣食ってはいなかったろうか。漠然とした不安、絶望の影が忍び込みはしなかったろうか。その中で、楓への思いだけが一時修一に安らぎを与えはしたが、その楓への思さえも抑制しなければならなくなった時、修一の中の何かが限界を超えて、あの結末へと向かったのではなかったか。

 そんな修一を繊細に端正に描いて見せられたのは、石橋知泰さんだから成し得たように思う。

 REONさんの木暮一片は、駄目な兄に見せながら、どこか危うい魅力があった。自分の夢の為、殺人事件だと思っていたものが、実は犯人が存在しない自殺だと知った時、自らが次々と殺人を犯し、推理するというサイコパスな役なのに、禍々しさや怖さよりも切なさを感じてしまうのは、REONさんの木暮一片だからなのだと思う。

 それまでの、中二病で妹に弱い、どこか飄々として憎めない木暮一片、ただ探偵として事件を颯爽と解決したかっただけ、すわチャンスかと駆けつけた事件が自殺だった時、自分の夢の為に、次々と小田家の人々や果ては妹まで殺すのは確かに身勝手ではあるのだが、そうと一言のもとに弾劾出来ない何かが、REONさんの木暮一片にはあった。それが、木暮一片が持つ翳りとそこから来る切なさなのだと思う。

 個人的にREONさんが歌い、踊りながら台詞を言う場面が、色っぽくてカッコよくて好きだった。

 林里容さんの入山三郎は、緒方乱の小説の中に登場し、木暮一片と同じ状況。ここでふと思う。緒方乱の小説と小田修一の小説は、鏡合わせの、鏡の向こうとこちらのかんけいなのではないかと。とすれば、入山三郎と木暮一片も鏡の中とこちら側の関係だとすれば、入山は木暮、木暮は入山、だから、入山もまた大好きで大嫌いな妹を殺してしまったのではないかと。

 優しくて頼りない兄から、狂気が迸る瞬間、その中にも、妹に対する愛しすぎたが故にまた、憎しみもし、手にかけてしまった痛いまでの切なさを感じた。

 『大脚色』の中で展開される小説と幻日がリンクした世界は、実は、篠原志奈さんの小説家森田が書いた小説世界かと思わせて、森田もまた殺される。いや、もしかしたら、森田を殺したのは森田自身なのかも知れない。

 森田の台詞を聞いて、作家になると決めた小学生の時に、よく思っていた事を思い出した。この世は、この世界は、神様の描いた大いなる小説で、その中で生きる私たちの人生も神さまが書いた小説なのかも知れないと。

 だとしても、であったなら尚更に、今の私は思う。神様の書いたシナリオ通りになんか生きたくなくかないと。今までの人生だって、自分でのたうち回りながら選び取って生きてきた人生なのだと言い切りたい。

 例えそれさえもが、神様の書いた小説だとしても。やっぱり、私は私として私を生きてやると言いたい。

 そんな事をふと思った。

 愛は面倒くさい。愛し過ぎても、愛が足りなくても、人を殺す時がある。それは、命を奪うという直接的な事ばかりでなく、心を殺す、愛を殺すという事をも含めてであり、また、生きることも果てしなく、面倒くさい事が山ほどある。

 けれど、生きているだけで、命があり、明日という時間があると言うだけで、本当はとても幸せな事なのかも知れない。

 たがらこそ、神様が書いたシナリオに抗ってでも、自分を生きたいと思った舞台であった。

                文:麻美 雪

輸血

輸血

演劇集団アクト青山

演劇集団アクト青山・烏山スタジオ(東京都)

2018/07/04 (水) ~ 2018/07/08 (日)公演終了

満足度★★★★★

 2018.6.30㈯ 18時 千歳烏山 アクト青山

 演劇集団アクト青山主宰の小西優司さんから、7/4㈬~7/8(日)まで上演するテアスタ(夏)『輸血』の観劇ブログ執筆の依頼を受け、アクト青山で通し稽古を観た。

 床の数ヶ所に、微妙な距離を置き、1畳~2畳の畳が敷かれ、それぞれに卓袱台や火鉢、柿の種の皿や湯呑み、座布団が1枚っきり敷かれていたり、1段上がった所に敷かれた畳には、酒瓶が所狭しと置かれており、その部隊装置をコの字に囲むように客席が設えられている。

 将棋盤を持った男が入って来て、駒を並べ終えると将棋を打ち始めた所に、1人の青年が入って来て、虚ろな目を斜め上空に向け、暫し無言でぼんやりと見上げた後、壁に向けて置かれた座布団に膝を抱えて座ると、次々とこの芝居の登場人物が入って来て、それぞれの位置に着き、『輸血』の世界がゆっくりと織り成されて行く。

 『輸血』は、坂口安吾が二本だけ書いた芝居のうちのひとつであるが、そこは坂口安吾である。始まってすぐは、まず浮かぶのが『?』である。

 なので、大まかにではあるが、舞台のあらすじを紹介しておく。その方が、多少なりとも観た時に面食らわずに済むかも知れない。

 『詩も音楽も冷蔵庫と同じように実用的なもんなんだがなぁ』という夫を持つ姉夫婦の家に、何やら離婚問題が持ち上がっている妹夫婦と姉妹の母親との3人が訪れる。卓袱台を囲む早々、姉妹と母親の間でかしましい丁々発止が始まり、妹の夫は、壁に向かって膝を抱え周囲の話し声を意識して耳に入れないように押し黙ったまま、一言も発しない。

 かしましい姉妹と母親の横では、何故そこにいるのか解らないが、なぜか居る飛行士と駆け落ち同然で彼女と姉の家に身を寄せる弟とが、将棋を打っている。姉の夫は、聞くともなく、妻たちの話を耳に入れながら、時々話に言葉を差し挟みつつ、だらしなく気流した着物姿でごろりと横になっている。その間を縫うようにお手伝いさんが、雑巾がけをし、棚を作りに来た大工が昼の弁当をつかい、機織りの仕事を習っている弟の彼女が帰宅し、姉妹と母親の会話に加わる。

 部屋のそちこちに散在している家族たちが、いつの間にかそれぞれの会話に干渉し、関わり、それでいて擦れ違って行くような、交わらないようでいて、交差する人間たち。

 空気のような旦那たちと唯一何の関わりも無いのに、なぜか居る飛行士の会話が紡いで行く、家族とは?世間とは?愛とはなんなのかを『無頼派』の代表、坂口安吾が描く家族の物語である。

 とまぁ、こう言った内容の芝居なのだが、『桜の下の満開の森』や『風博士』などを読んでも解るように坂口安吾は、1度読んだだけでは『?』となる、変な小説、不思議な小説を書く作家である。小説でさえそうなのだから、『輸血』は尚のこと、1回観ただけでは解らない事も多く、変で、不思議な舞台である。

 通し稽古後、少し、小西さんとお話しをした時に、安吾は変な話を書く作家であるし、この舞台も1度観ただけでは『?』となるだろうし、実際に観ないと解らないであろうこと、事前に知って観たとしても、1度観て全てを解る事はないのじゃないかと言うような事を仰っていた。

 実際に観た私も、その場で感想を言うのは難しく、一旦、観た時に感じた事や感情を家に持ち帰り、後々じっくりと頭の中を整理しないと書けないと思い、それがまた、この舞台に見入ってしまう面白さでもある。

 『?』となるからと言って、難解と言うのともまた違う。ひと言で言えば、やっぱり『変』な話なのである。大体、先ず以てなぜタイトルが『輸血』なのかというのは、芝居の中盤の母親の言葉を聞くと、なるほどそういう事なのかと腑に落ち、膝を叩く。

 家族=血の繋がり、血の繋がり=家族の絆かと言えば、そうとばかりも言い切れないのではないだろうか。

 親と子は、実子である場合、確かに血の繋がりはあり、殊に母と子は、正しく血を分け、母の腹から産み落とされるという点では、成程、確かに血の繋がりもあり、臍の緒で繋がっていたものが、身二つになる訳だから、“ 絆”もあるとは言える。

 がしかし、その子供の乳と母は、元々は血の繋がりのない赤の他人であり、赤の他人の男と女が出会い、縁あって夫婦になり、家族になるわけである。そこには血の繋がりはない。

 けれど、例えば、怪我や病気で手術をして輸血をした場合、赤の他人の血液が自分の体内に入れば、そこに血の繋がりというものが出来ることになりはしないだろうか。昨日まで見知らぬ人の血が、自分の体内に入り、血が混じる=繋がりはするが、だからと言って血の繋がりが出来、絆が生まれ得る確率は極めて低い。

 だが、夫婦、親子、恋人同士など、近しい人や近しい関係であったなら、血は濃くなり、強くなり、絆めいたものが出来、その絆が強くなる確率は高いようにも思う。

 軋轢のある親子や夫婦、兄妹姉妹が、一方に自分の血を分け与えたら、相手の血の中に自分の血が混じり、自分の血が相手の血に混じり合う事により、絆が生まれ、或いは、きずなが強くなったりしないだろうか。

 そして、それは、膠着した関係を打開する一助にならないだろうか?もし、なり得るとするならば、諍う親子の関係が少しはマシなものになり、離婚問題を抱えた夫婦の絆を繋ぎ直し、繋ぎ止める事が出来はしないか。

 そう思う反面、そうまでして繋ぎ、結ぶ絆と言うのは何なのだろうかとも思う。血の繋がりや家族の絆というものは、そうまでして結び、繋ぎ、強固なものにしなければいけないのか?家族ってなんだろう?世間て何なのだろう。そもそも、形も実態も目で確認する事が出来ない愛ってなんなのだろう?

 そんな事を、ふと考えてしまった私は、無頼派、坂口安吾の愛だの家族だの、血の繋がりだのを、何の疑いもなく信じているお前さんたち、果たしてそれは、そんな確固たる揺るぎないものかね。血の繋がりだの何だのと言うが、他人の血を輸血し、自分の血と混ざったらそれも血の繋がりというのか?そこにさえ血の繋がりだけを言うなら、血の繋がりは生まれるというのか?血の繋がりだの絆なんぞと言うものは、1度は疑ってかかって然るべきものじゃないかね。という声を聞いたような気がした。

 そんな事を強く感じたのは、今の自分の状況に負う所も大きいのかも知れない。先日、天寿を全うして亡くなった父と私にも確執があり、4年前認知症が酷くなり、兄の家の近くの施設に入所する迄の29年間を父と二人きりで暮らし、父の面倒を見る中で、確執のある親子であり、日々記憶が壊れて行く父と対峙し続ける生活は、父の、又、自己の中の修羅を見つめ続ける事でとでもあった。母の亡くなる前年の14歳から、最後の4年は離れて暮らしたとは言え、家族、血の繋がり、父と娘である自分の関係、その中で、引き起こされ渦巻く自分の中の感情や、綺麗事だけでは済まされない、黒く紅い感情を鑑みて、この『輸血』のテーマが、膚を通した感覚として感じたと同時に、何処か腑に落ち、14歳の頃からずっと考え続けて来た事と重なった。

 この舞台は、今の私が出会う必要があり、最も良いタイミングで出会う事が出来たと思う。こう書いて行くと、一見難しい舞台だと思うかも知れないが、観始めて気がつくと、その不思議で変な安吾の『輸血』の世界に惹き込まれて行き、観終わる頃には前のめりになって観ていた事に気づく。

 最後まで、一声も発せず、殆ど動きもしなかった夫が、最後の妻の中に一粒残っていた愛情から出た計らいに、言葉は無いが、僅かに動いたその夫の虚ろだった目の中にも、妻への一粒の愛情の欠片を見た時、この妹夫婦に残った最後の儚い絆を感じた。

 1時間弱とは思えない、濃密で面白い舞台だった。一度観たら気になって、もう一度観たくなる舞台である。

               文:麻美 雪

時代の言葉と女優たちの声と

時代の言葉と女優たちの声と

演劇集団アクト青山

演劇集団アクト青山・烏山スタジオ(東京都)

2018/04/26 (木) ~ 2018/04/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2018/04/29 (日) 17:00


 2018.4.29(日)17:00 アクト青山。

 『春の朗読会2~時代の言葉と女優たちの声と~』を観て、聴く為に私は此処に居た。

 ぐるりを囲む客席。真ん中に少し斜めに置かれた机と一脚の椅子。床には、小山を築いた本や、一見無造作に見えて計算されたように、ばらばらと置かれた本がいい塩梅に散らばっている。

 『春の朗読会2~時代の言葉と女優たちの声と~』の千穐楽。この夜の回で読まれたのは、原民喜の『夏の花』、上司小剣の『鱧の皮』、太宰治の『あさましきもの』の3作品。

 途中、15分と10分の休憩を挟み、2時間程の朗読会だったろうか。

 この日、私は、敢えて机に対して正面ではなく、背面の最前列に座った。朗読者の表情を見たくもあったけれど、朗読者の背中しか見えない位置に座ったのは、言葉と声だけで読む小説の世界を味わい、脳裏に、目蓋の裏にその世界が広がるかをじっくりと味わいたかったから、敢えて、微かに横顔が見える程の背面の席へと着いた。

 原民喜の『夏の花』は、著者自身の原爆体験を描いた作品の中でも、『夏の花』三部作と言って、被爆直後の終末的世界を、その数ヵ月後に正確な筆致で一見淡々と、しかし、まざまざと目の前に突きつけるような正確な筆致で描き出した小説。

 華奈さんの静かで、しんと露を含んだ苔むした深い森のような声で、読まれ空間に『夏の花』の世界が揺蕩い織り成されて行くにつれ、軆の中に灼熱の熱風が吹き、膚をジリジリと焼かれるような痛みを感じ、あの夏の日、原爆に吹き飛ばされ、焼かれ、水を求め、渇きと煉獄の炎の熱さにもがき苦しみ、累々と築かれて行く炭と化した遺体、何もしていないのに、たった一発の原爆で老若男女問わず、奪われ吹き飛ばされて行った多くの命と奪われ遺された家族や人々の想像を絶する悲しみと絶望、炎の色、空気、熱、目を覆う惨状と景色が、目の裏にくっきりと視え、膚に感じ、内臓をギリギリと引き絞られるような痛みを感じた。

 華奈さんの朗読だからこそ、最後まで聴き、自分自身が主人公の私と一緒に、地獄のような瓦礫と惨たらしい光景の中を歩いているような感覚を持ちえたが、本を、その文字その文章を最後まで読み終える事が出来るかと、自身に問いかけた時、私はきっと最後まで読み終える事は出来ないだろうと思った。

 原民喜の『夏の花』は、それ程に、読むのに覚悟がいり、言葉では言い表せない痛みと酷さを伴う小説なのである。きっと、朗読する華奈さんも辛く、きつかったと思う。華奈さんの朗読でこの作品を読む事が出来て真底良かったと思う。

 上司小剣の『鱧の皮』は、女盛りで気丈夫に店を一人で預かり切り盛りするお文と、婿養子で芝居の興行で一発当てようとしては失敗を繰り返した挙句、借金と共に家出する福造を軸に、まだ芝居町だった頃の大阪道頓堀、坂町、法善寺を舞台に描かれた人間の織りなす日常と心理描写が描かれている小説。

 岩崎友香さんの声と、読むテンポと抑揚、言葉と言葉の間のとり方が心地好くも絶妙で、ずっと聴いていたくなる間合いの良さ。

 亭主の福造に対す気丈なお文の中にある自身でさえ、気づいているような気づかぬふりをしているような未練と、山師のような事を言っては失敗し、にっちもさっちも行かない程の借金を拵え、後をお文一人に押しつけて家出をしてのめのめとしている福造に愛想を尽かしながら、どこか憎み切れず、スパッと断ち切る事も出来ない、女心と亭主に対しての埋火の様に残る情がじんわり伝わって来た。

 岩崎友香さんの朗読が心地好くて、これを活字で読んだらどんな感じを抱くのだろうと、図書館に予約して借りて、読んだ程。

 太宰治の『あさましきもの』は、愛くるしいたばこ屋の娘と交際する大正、昭和の無声映画時代の二枚目として知られ俳優であり、女優岡田茉莉子の父でもある岡田時彦がたばこ屋の娘に禁酒の誓いを立てながら破ってしまったことを娘に告げるも俳優だから飲んだ芝居をしているのだろうと言われた事、夜道を歩く女と恋人、身だしなみが良いが肺を患っている男をめぐるそれぞれエピソードが、「こんな話を聞いた。」という書き出しで始められ、「弱く、あさましき人の世の姿」として描かれた作品。

 この、「こんな話を聞いた。」という書き出しは、吉田兼好の『徒然草』を思わせ、「あさましきもの~」という書き方は、清少納言の『枕草子』を彷彿とさせる。

 “あさましい”とは、驚き呆れる、ガッカリする、思いがけない、情けない、貧乏たらしい事を言う。
 
 そんなあさましいエピソードを描いた5頁程の短編を小西優司さんの声が、アクト青山の空間に描いて行く。

 太宰がこの作品を書いてから、時を経た今、此処に描かれている以上の“あさましきもの”
が連日、ニュースに取り上げられている現状を見たら、果たして太宰は何と言うのだろうかとふと考えてしまった。

               文:麻美 雪

リチャード三世

リチャード三世

芸術集団れんこんきすた

アトリエファンファーレ高円寺(東京都)

2018/04/19 (木) ~ 2018/04/22 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2018/04/21 (土) 14:00

 夏の陽射しのような土曜日の昼下がり、3年前に出来た高円寺アトリエファンファーレの扉を開け、劇場の中へと入る。


 3年前(2015年)と言えば、奇しくも芸術集団れんこんきすたの『リチャードⅢ世』の初演も、3年前の4月だった。


 昼の回は、最前列の真中の席に座り、ふと正面を見ると、すぐ目の前には、長方形の舞台、舞台奥の天井から吊り下げられたシャンデリアがひとつ、その下に白木の飾りひとつないベンチが2台。

 舞台装置と言っては、それしかない。

 その舞台の片隅に、影のように蹲り座る黒いマントを身に纏い顔さえも黒い布に覆われた人影。時に舞台の周囲をゆっくり巡ったり、隅の暗さに隠れるように蹲ったりする内に、開演時間少し前にもう一人、黒いマントに身を包んだ人影が現れ、舞台の周りをゆっくりと歩く。

 3年前、シアターノルンで初めて観た芸術集団れんこんきすたの『リチャードⅢ世』を思い出す。

 初演時、この人影は両側を椅子で囲まれた正方形の舞台の下で、蠢いていた。

 開場から開演までの30分近く、最初の黒い人影が、途中からは2人の黒い人影が、舞台の周りを巡り、佇み、蹲る。まるで、影のように。

 開演数分前、後から現れた黒マント(中川朝子さん)の人影が、舞台の中央に倒れるようにうつ伏せる。その周りをもう一人の黒い人影(濱野和貴さん)が舞台の片隅に蹲る。それはまるで、舞台の上でうつ伏せる黒いマントの人影から抜け出した魂のように....。

 やがて、時が満ち、ザワザワと言葉を交わしながら、この物語のリチャード三世を除いた人々が現れ、ベンチへと座り、『リチャードⅢ世』の物語の扉が開かれる。

 ベンチから立ち上がったの内、手に白い薔薇を持った5人の男女が、舞台に歩み寄り、続いて残りの6人男女が歩み寄り、11人の男女が黒マントの人影のうつ伏せる舞台を取り囲み、その名を囁くようにくぐもった声でよぶ“リチャード”と。

 その男“リチャード”を取り囲むのは、“リチャード”こと、グロスター公リチャード後に悪名高きイングランド国王リチャード三世の陰謀術数により、命を奪われた者達とリチャード三世に寄って全てを奪われた者達。

 憎んでも憎み足りない、殺しても飽きたりないその者達が、イーリー司教の手を借りて、既に死んだリチャード三世の軆にもう一度その邪悪でおぞましい魂を戻し、神の裁きが下り永遠の地獄に落ちるまで、弾劾しその手で復讐する為にその名を叫ぶ。

 “リチャード起きろ!リチャード!!”と軆の底から憎しみのマグマ吹き出すように激しく強くその名を叫び、陰謀術数、奸計渦巻く、おぞましくも残虐で胸えぐる悲しみに彩られた『リチャードⅢ世』の幕が開いた。

 歴史は、その時の為政者、権力者、統治者、勝者にによって、都合の良いように書き換えられ、歪められる事があるというのは、よく言われる事である。

 そしてまた、リチャード三世も実像を歪められ流布され続けた一人と言えるのではないだろうか。

 初演から3年の時を経て、更に深く濃く、熟成され、自分の中の奥深くに埋まっている醜さの種を抉られ目の前に突き付けられるような、胸に鋭く突き刺さる『リチャードⅢ世』になっていた。

 息を潜め、息を殺し、2時間40分という時間さえ感じずに魅入った舞台だった。


                文:麻美 雪

ロミオとジュリエット=断罪

ロミオとジュリエット=断罪

クリム=カルム

スタジオ空洞(東京都)

2018/03/20 (火) ~ 2018/03/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2018/03/24 (土)


 2018.3.24㈯19:00。池袋スタジオ空洞。

 地下へと続く階段を降り、スタジオに足を踏み入れる。

 舞台と客席の境はなく、人が横に3人も並んだらいっぱいになってしまう広さの正方形に真ん中を切り抜かれ灰色の床が見える。そのぐるりを人ひとりが佇むめる幅の紅いカーペットが囲む。

 客席と舞台は地続き平らであり、唯一くり抜かれた灰色の正方形が舞台と言えるが、その正方形の上には、12個の透明な硝子の電球が吊り下げられており、その中で動こうとしたなら頭や肩にぶつかりそうな程の低い位置までその電球は吊り下げられている。

 芝居をする場所は、紅いカーペットの上が大半で、正方形の中での芝居は座ったまま繰り広げられる場面だけ。

 客席と舞台を分けるのは、その紅いカーペットのみ。それはまるで、結界である。14世紀のヴェローナと2018年の桜咲開く3月の東京を隔て、『ロミオとジュリエット=断罪』の世界と現代を分ける境界線。

 時が来て、時空の境界線が解かれ、『ロミオとジュリエット=断罪』の世界が現れる。

 シェークスピアの描いた14世紀のヴェローナ、映画やバレエで描かれるお馴染みのあの裳裾を引いたドレスや煌びやかな宝石のついた衣装、ロミオと言えばあの衣装と頭に浮かぶ衣装を身に纏ってはいない。

 これから、登場して来る人物誰一人として、その当時を思わせる衣装を身に着けた者はいない。

 ロミオが着ているのは、体に合った白いシャツに黒のパンツ、ジュリエットは、白いシャツに白のパンツに白のヒール、腰に白いシャラャラとしたストールを結んでいるだけ。

 この時点で何となく、『ロミオとジュリエット=断罪』はロックだなと思った。と同時に、きっと今まで見たことの無い『ロミオとジュリエット』が観られると期待に胸が弾んだ。

 たぶん、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』や、シェークスピア版を基にしたバレエや映画、舞台、フィギュアスケートを良しとする人には、賛否分かれるところだと思うが、私は好きだ。

 『ロミオとジュリエット』の現代版として描かれた『ウエスト・サイド・ストーリー』が好きな方ならきっと好きになるだろう。

 ロックだなと思う部分は、ジュリエットやこのクリム=カルムの『ロミオとジュリエット=断罪』では、ロレンス神父の養女であり、亡き神父の後を継いで神父となり、ロミオとジュリエットを結びつけるヴェロニカの存在や台詞にも現れている。

 原作を基にして、本筋と要所要所は抑えつつも、大胆に自由に変身していた『ロミオとジュリエット=断罪』。

 なぜ、『断罪』がタイトルにくわえられているのか。ずっと、考えていた。

 『断罪』とは、罪を裁き、罪に対して判決を下すこと、斬首の刑のことを言うと辞書にはある。

 『ロミオとジュリエット』と罪とは、『ロミオとジュリエット=断罪』の罪とは何なのか。

 敵同士の息子であるロミオと娘であるジュリエットが愛し合った事なのか、ふたりの恋がもたらした悲劇なのか、ふたりの恋を悲劇へと導いた、ロザラインの罪なのか、両家の争いの為にふたりの恋をこの世で結ばせず、死という結末へと向かうしかないように仕向けた原因を作ったモンタギュー家とキャピュレット家の罪なのか、更には両家が争う大基を作った教皇派と皇帝派の争いの罪なのか。

 その全てであるようで、違うようでもあり。

 結果として、ロミオの親友マキューシオとベンヴォーリオー、ジュリエットの兄(シェークスピア版では従兄弟)ティボルト、そして、ロミオとジュリエット、(舞台上には出て来ないがロレンス神父も或いは)の血が流れ、命が失われている。

 若気の至りと言えば、余りにも幼く、自分たちの恋しか見えていなかったふたりの恋によって多くの血を流し、犠牲を生んだ若気の至り極まれりの話ではある。

 そのふたりが、結果として自ら命を絶ったのは、ある種の断罪であり、神がふたりに下した罰の様でもあるが、それだけには留まらない。

 登場する全てのものに下された判決であり、断罪であると同時に、今を生きる私たち一人一人の中に息を潜め、隠し、抱えている、妬み嫉み、憎しみ、悲しみ、羨望に対しての、人間すべてが何かの拍子で発芽し発露する「悪心」や醜さへの断罪なのかも知れないと思った。

 美しく儚くやわやわとしただけでない、格好良くて、可愛くて、けれど、胸に突き刺さるロックなクリム=カルムの『ロミオとジュリエット=断罪』だった。

 この舞台が観られたことを心から良かったと思う。

                文:麻美 雪

さくら盗り

さくら盗り

武人会

調布市せんがわ劇場(東京都)

2018/03/07 (水) ~ 2018/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2018/03/08 (木) 14:00

 扉を開けて劇場の中に入り、最前列のほぼ真ん中の席に座ると、目の前には坂道とそこから続く上に続く道があり、舞台が上下2段になった舞台装置があるだけ。


 開演直前、ふーっと薄紅色を一滴垂らし込んだような靄のような煙が、春の陽射しのような淡い光を纏わせながら天に吸い込まれて行きゆらゆらと立ち昇ったその一瞬、桜の花の香りがふわっと薫った。本当に薫ったのか、自分が何かに瞬間誑かされて薫ったように錯覚したのかは定かでないが、確かに瞬間桜の花が薫った。


 焦点が引き絞られるように暗くなり、滲むように明るくなった舞台の上には、なにかに怯え戦くような、不安げで切なげな一人の桜の精を彷彿とさせるような少女が頭を抱えて蹲っている。


 やがて、少女は面を上げて、はらはらと何かに圧され、儚く戸惑、何かから逃れようとするかのように舞う。


 少女の名は咲来(さくら)。

 咲来をめぐる物語。


 『ある町に、金持ちが持つ宝を狙う盗賊たちがいた。その宝とは、さくら。やがて騒動は町を巻き込みんでいく。“さくら”に込めたそれぞれの想いが舞い吹雪く。


「俺の大事なものだけは、盗まないでくれよな。」』


 そう、さくらは咲来。咲来をめぐるふたつの想いとふたつの愛情。


 それぞれがそれぞれの為の大事なものを護る為に起きた切なく哀しくも温かく美しい物語。


 心を許し合った友であった麓(ろく)と勘助。


 金持ちの勘助(藤田健彦さん)は、自分が町の者たちから取り立てた金を麓(佐藤正行さん)に盗ませ、町の者たちへと分け与えさせていた。


 麓率いる盗賊は義賊のように町の者たちに慕われ、金持ちの勘助は、町の者たちから恐れ嫌われていた。


 勘助が麓にひとつだけ願った事。それは、故あって勘助が育てる事になった、血の繋がらない一人の幼い乳飲み子、咲来(五十嵐愛さん)だけは盗まないでくれということ。その事を麓も約束したはずだった。


 時が流れ、麓の娘雪霧(ゆき)の物心ついてからの願いを叶える為、麓は勘助の大切な宝である咲来を盗もうとする。


 なぜ、麓は心許し合いった友の勘助のたった一つの願い、約束を反故にしてまで咲来を盗もとするのか?それは、雪霧(宮本京佳さん)もまた、麓の血の繋がった娘ではなかったから。


 かつて、何処からともなく幼い雪霧を連れて咲来身篭った躰で村に流れ着き、いつしか町に居付き、咲来を産んで間もなくなくなった一人の女に想いを寄せた麓と勘助。


 二人はそれぞれ、女に想いを寄せながら、どちらも女との間に何があるでもなく、それは、友情のような不思議な間柄のまま、女の死によって終わったかに見えた。


 どちらか一方が姉妹を引き取っていれば、後の悲しい結末には結びつかなかったのだろうか?


 そうしていれば、雪霧と咲来、麓と勘助には違う行末にたどりついたのだろうか?それは、解らない。麓は、雪霧を引き取り、勘助は咲来を引き取った。かつて愛した女の形見として、少なくとも勘助は咲来に想いを寄せた女の面影を重ねていたのではなかったか。だからこそ、咲来を盗まれることにあれ程恐れ、護ることに必死になったのではないのか。


 友を倒し、その為に雪霧の命を奪う程に執着したのではなかったのか。咲来に対する父としての愛情にどこか、女への想いが重なり合ってしまったのだろう。


 母であるその女と同じ、舞うと固く閉じた桜の花が咲き、桜吹雪が舞うという力を持つ、咲来への想いは女への想いと裏表。


 雪霧は、亡くなった母が絵に描いたただ一つの願い、雪霧と咲来と母とみんなが一緒に笑って、共に暮らすというその事を叶える為に、麓たちと共に咲来を盗もうとした。


 誰が悪いのでもない、それぞれが、それぞれの愛する者を守る為、自分の大事なものを護ろうとするあまり、掛け違い、雪霧の命という犠牲を払った後に、自分にとって大事なものは他人もそうだと思い込み、勘違いした事から起こる悲劇に思い至り、気づく。

 こう書いていてふと思う、形を変えた『ロミオとジュリエット』のようだと。


 尊い命、愛する者のかけがえのない生命が潰えてから、初めてその事に気づき、過ちに気づく。


 勘助に言われ、捕えられた雪霧を斬る工藤(村上芳さん)にしても、己の正義から見れば、雪霧を斬るのは正しい事ではないと解っていながら、愛する妻の病を治す為の薬代を稼ぐ為に勘助の理不尽な命令を聞かざるを得なかった。それもまた、自分の愛する者、大事なものを護る為である。


 雪霧は、咲来が自分たちと共に暮らすのが咲来の幸せであると思っていた。


 一度は盗み、咲来と共に居られたのも束の間、捕えられ斬られ息絶える瞬間、勘助の息子で友の彌(あまね/清水廉さん)に請われ、事情を知らず勘助の用心棒になり、本人の意図ではなく後をつけられた結果、雪霧を捕らえるきっかけを与えてしまった水門(みなと/太田旭紀さん)が支える腕の中で命果てて行く最後の瞬間、物心ついた時から笑わなかった雪霧の最後に見せた儚い笑顔に救われた思いがした。


 雪霧の死後、麓によって語られた咲来と雪霧と3人で笑って暮らす事が女の最後の願いであった事を知った勘助の『何故それを言わなかった。俺がお前が欲しいと言ったもので駄目だと言ったことはなかっただろう。与えて来ただろう。そうと言ってくれれば、拒みはしなかった』という言葉が悲痛に胸に刺さる。


 なぜ、心許し合い、解り合っていたはずの二人が、盗み盗まれまいとする前に心を割って話し合わなかったのか?なぜ、麓はその事を勘助に伝えなかったのか?見終わってから今までずっと考え続けている。


 伝えていたら、あの悲しい結末はなかったかも知れないし、それでも、結局変わらなかったかも知れない。それでも、何かは変わっていた筈。


 正義も大事なものも人それぞれ違う。その事に気づき、認め合えていたなら、変わっていたかも知れない。


 世間から隔離されて育ち、雪霧たちによって外の世界を知り、世間を知り、無垢な幼女のようだった咲来が、最後に自分の足で立ち、自らの意思で選び取ったのは、育ての父勘助と血の繋がらない兄に彌と共に暮らす事、二人と家族で居続けること。この時、三人は本当の家族になったのではないのか。


 そしてまた、雪霧の死によって、麓と雪霧も本当の家族になり、麓率いる盗賊一味と雪霧もまた、かぞくになったのではないか。


 雪霧と母が望んだのとは形を違えたが、みんなが笑顔で暮らす家族になったのではないだりうか。


 その犠牲は余りにも大きく、悲しいけれど。


 最後の咲来が舞い、桜が咲き、はらはらと舞い散る儚く、悲しくも凛として美しい場面が2年前観た『羅刹の色』の最後の場面と重なり、胸に深く染み入り、涙が溢れて止まらなかった。


 最後に観た、あの切なくやさしい桜のラストシーンは、きっとずっと忘れない。


                文:麻美 雪

アルラウネの滴り

アルラウネの滴り

幻想芸術集団Les Miroirs

シアターシャイン(東京都)

2017/11/02 (木) ~ 2017/11/05 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2017/11/04 (土) 14:00

 毒気を含んだ禍々しい赤紫色の灯りに染まり地から生えたように、手の甲を苦し気に天に向けた肘から先を象った石膏像が舞台中央に置かれている。

 観た瞬間に、一年前のあの妖しく美しく濃い空気が甦って来た。

 赤紫色に染まった腕が血のような、燃えるような紅に染り、ぞくりとする妖しさに震えた瞬間、アルラウネの舘の扉が開いた。

 去年は、その天に差し向けられた手の真上に、絞首台の縄が下がっていたが、今回はその縄はなく見えるはずはないのに、それは確かに今年もまた、指し伸ばされた腕の上に視えた。

 去年は、まるで、焦がれても手の届かないい何かを求め、掴もうとして掴み得ず踠く(もがく)ように天に向けて伸ばされたと見えたその手が、今年は、悲しみや苦しみ、憤り、何かを引きずり込もうとするような、去年よりももっと強い何かを投げかけて来るような感じがした。

 何かとは何だろう。それは、自分を無実の罪に陥れ、処刑した者へ向けての憤怒若しくは悲しみ、残して行く娘フローラへの気がかり、この世に残す未練なのか、それら全てを引っ括めた絶望だったかも知れない。

 冒頭のこの瞬間から、去年とは違う『アルラウネの滴り‐改訂版‐』を感じ、引き込まれて行った。

 どう言えばいいのか、私の中で『アルラウネの滴り』は、紫のイメージで、その紫の中に緋や黒、蒼い闇の色がちらちらと瞬き煌めいているイメージなのだが、今年はその紫の悲しみと愛憎が、去年より更に色を濃くし、仄見える緋や黒、蒼い闇の色がより強く妖しく煌めいて目を射抜く感じがした。

 罪なき罪を着せられ、絞首台の露と消えた父の亡骸を抱き慟哭するフローラ(乃々雅ゆうさん)の前に現れた黒衣を纏い絞首刑台の元に咲き、無実の囚人の嘆きが滴る土の下で、世にも美しい娘の姿を育む毒花アルラウネの花の精を仲間とする謎の男カスパル(朝霞ルイさん)。

 カスパルにより、トレッフェン通り十番地の賑やかな歓楽街の片隅で、娼館“アルラウネの館”の女主人となったフローラは、その軆自体が毒である人の姿を纏ったアルラウネの花の化身、妖しい笑みを投げかける娼婦達を紫の飾り窓に綴じ、共犯者カスパルと共に、仮面の宴で都の夜と館に訪れる男たちを酔わす。

 アルラウネの娼婦たちの接吻は死の接吻 、その蜜は天上の媚薬。彼女たちと愛の交歓は、その毒に徐々に侵され、やがて齎(もたら)されるのほ狂気若しくは死。

 計略と愛憎が渦巻く館で、フローラの父を陥れた男たちは灯蛾を焦がすようなアルラウネ達の甘美な罠に溺れていく。

 『アルラウネの滴り』は、烈しい毒と妖しさ、鬩(せめ)ぎ合う愛憎、一滴の孤独と紫の悲しみ、緋(あか)い憤りと息を詰めるような頽廃の馨が濃く薫る世界。

 『アルラウネの滴り‐改訂版‐』は、紫のイメージ。紫の悲しみと愛憎が、去年より更に色濃くなっていたように思う。

 1年前に『アルラウネの滴り』は、エーヴェルスにあの日、愛を根刮ぎ引き抜かれたカスパルの涙だったのではないだろかと書いたが、1年を経た『アルラウネの滴り‐改訂版‐』のアウラウネが滴らせたものは、エーヴェルスによってあの日、フローラは大切な父を無実の罪に落され絞首刑にされ、カスパルはエーヴェルスに微かに寄せていた子としての思慕と怯えながら求め、僅かにでも自分に持っていると思っていた父性が偽りだと知り、悲しみと愛を憎しみに変えたエーヴェルスへの紫の愛憎、復讐の毒だったのではないかと思った。

 そしてまた、人は変わるものであり、どう変わるか、何に変わって行くかは、その人次第であり、それが、生身の人間であれ、舞台の中の人物であれ、どちらも時間と共に成長し、歳を重ねて行けるのだと思った。

 変われなかった、変わらなかった、エーヴェルス(高山タツヤさん)、ブリンケン伯爵、カール殿下(杉ブリンケン伯爵と一人二役の杉山洋介さん)を置き去りにして、フローラもカスパルもフランツも、クロリス(マリコさん)やアルラウネたち(麻生ウラさん、小川麻里奈さん、武川美聡さん、中村ナツコさん)もアルラウネの館の中で、時代の中でも、関わる人達の中で、強くしなやかに生き生きと変わって行く。

 烈しい毒と妖しさ、鬩(せめ)ぎ合う愛憎、一滴の孤独と紫の悲しみ、緋(あか)い憤りと息を詰めるような頽廃の馨が濃く薫る世界。 

 幻想的かつ耽美で美しい紫の毒を宿し、その紫の中に緋(あか)と黒の愛憎、蒼い闇の色がちらちらと瞬き、その紫の悲しみと愛憎は、去年より更に色を濃くし、仄見える緋や黒、蒼い闇の色がより強く妖しく煌めいて胸を射抜く刹那く美しいアルラウネの物語だった。  

               文:麻美 雪 

木立によせて

木立によせて

芸術集団れんこんきすた

新中野ワニズホール ( Waniz Hall )(東京都)

2017/10/19 (木) ~ 2017/10/22 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2017/10/21 (土) 14:00

 芸術集団れんこんきすた主宰の中川朝子さんからも、出演される木村美佐さんからもこの舞台への思いなどを聞いて、きっとすごい舞台になると思っていたけれど、私の予想など遥かに超える本物の素晴らしい舞台。

 今回、作・演出の奥村千里さんの緊急手術や入院もあり、奥村さんご自身のみならず、出演される中川朝子さん、木村美佐さん、石渡弘徳さんも 『木立によせて』を書き上げ、上演できるのか、不安に思った事も焦りを感じた事もあっただろうし、奥村さん退院後の舞台稽古も想像を絶する程大変だったに違いない。

 そんな、予期せぬ事態をも微塵も感じない程の質の高さと完成度、そして何よりも『木立によせて』への思いとそれぞれが演じる人物そのものの想いと熱が膚身に心の奥底奥深くにビリビリと感じる圧巻の素晴らしい舞台で、魂が震えた。

 学ぶという事の大切さ。勉強は知識と情報を身に付けるために必要だが、ただ知識が有ればいいのではなく、得た知識、情報を基に自分で考え、精査し、何が真実で何が誤りか、得た知識と情報をどう活かすか、何が大切かを知り、その知識と情報を軆に染み込ませ消化し、昇華するのが教養と知性。

 そうして得た教養と知性は、何があっても、誰であっても、何者にも奪われることはなく、自分の中の教養と知性は、誰にも奪う事は出来ないという事、1度手に入れたら奪われないもの、自分の中から無くなりはしないものが教養と知性だと、アルティナイの言葉を聞いて思った。

 何の為に勉強をするのか。それは、いついかなる時も、誰にも奪う事が出来ない、知識を得、自分で考える力をつけ、教養と知性を身に付ける為である。無知は時に残酷な事態を引き起こす。その無知が引き起こした最も愚かなものが戦争だと思う。

 『木立によせて』は、学ぶ事の意味と大切さ、学んだ事をどう活かし生きるのか、自分で考え、判断する力を持つという事とその意味、そして、本物の教養と知性は常に自分の中にあり、誰にも奪う事が出来ない宝物であるという事を感じた舞台だった。

     
                文:麻美 雪

アラタ~ALATA~

アラタ~ALATA~

スタジオアルタ

オルタナティブシアター(東京都)

2017/07/07 (金) ~ 2017/12/23 (土)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2017/10/06 (金) 19:00

座席1階F列14番

 これだけの内容のものを、殆ど台詞を発さず、1時間10分踊りと殺陣、動きと表情だけで表現するノンバーバルで観せるのが凄い!

 台詞と言っても、名前を一言呼ぶのが数回あるだけで、この物語の全てを殺陣と踊りと動き、役者の表情の動きのみで演じて観せ、台詞無くして観客にしっかりと伝え切る事の凄さは言葉にし尽くせない程の熱量と演じる役者、ダンサー全ての演技者として、表現者としての質が高くなければ成し得ない事だと思う。

 以前にもノンバーバルと称するものは何度か観たけれど、『ALATA~アラタ~』の比ではなく、『ALATA~アラタ~』のこの質の良さと高さまでいっていないものをノンバーバルなんて、言ってはいけないと思った。

 踊りも殺陣も芝居もプロフェッショナルの人達がやってこそノンバーバルの芝居と言えるのだと『ALATA~アラタ~』を観て思った。

 現代にタイムスリップしたアラタ(塚田知紀さん)の戸惑い、こころと心が通じ合った瞬間、戦国時代を生きる侍としての矜恃と姫を守る為に戦う侍としての生き方、アラタに会うまで、毎日繰り返される同じ日常に感じる閉塞感と孤独に疲れ切っていたこころ(Elinaさん)が、アラタ出会い行動を共にするうちに、閉ざされていた心が開き始め、当たり前であった変わらない毎日が当たり前ではなく、愛しいものだと気づいてゆく変化、捕えられながらも妖術使いの怨霊・玉野尾と戦う、楚々して儚く見えながら、しなやかでなよやかな中に秘めた凛とした強さを繊細な千代姫(吉田美佳子さん)、妖術使いの怨霊・玉野尾(Kanaさん)の凄みのある悪は、単なる悪ではなく、心に抱える孤独や他者から決めつけられ向けられた偏見が凝り固まり悪になるに至る原因となったのではないかと思わせる、黒い悲しみのようなものを感じた。

 これだけの事を、言葉を殆ど用いず、伝え切り、観せる凄さ。

 天井や舞台上に写し出されるプロジェクトマッピング、音、照明が皮膚や軆全体を通して、観客もまた、『ALATA~アラタ~』の世界に生きている感覚にさせる臨場感と、ワイヤーフライングや玉野尾のエアリアル(空中ヨガ)の迫力、客席をふわーっと前から後ろに覆い流れる真紅の布が頭上を掠めた時は、玉野尾の烈火の如く燃え、全てを焼き尽くす情念に呑み込まれたような実感を膚に感じるようだった。

 外国人の観客も数人いたが、動きと芝居だけで伝わっていて楽しんでいたし、大人から子供まで、言葉の枠を越えて楽しむことの出来るこんな凄くて、面白いエンターテインメントな舞台を久しぶりに観た。

 台詞は殆ど無く、動きと踊りと芝居そのもので観せる舞台は、圧巻で、観せるだけでなく魅せる舞台でもあった。一人でも多くの人に観て欲しい舞台。

こんな凄くて、面白いエンターテインメントな舞台を久しぶりに観た。台詞はほとんど無く、動きと踊りと芝居そのもので観せる舞台は、圧巻で、観せるだけでなく魅せる舞台でもあった。一人でも多くの人に観て欲しい!

               文:麻美 雪

 

三英花 煙夕空

三英花 煙夕空

あやめ十八番

旧平櫛田中邸アトリエ(東京都)

2017/09/26 (火) ~ 2017/10/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2017/09/30 (土) 19:00

 上村松園の『焔』は、謡曲「葵の上」に着想を得て、源氏物語に登場する光源氏の正室葵の上への嫉妬に身を焼き、生霊となって、源氏との子を産み落とそうとしている葵の上を取り殺そうとする六条御息所を描いた、美人画作家といわれる上村松園の作品の中では異色の主題の作品。

 髪の端を噛んで振り返る蒼白い般若のような顔には、嫉妬に翻弄される苦しげな姿が現われ,白地の着物に描かれた清楚な藤の花にからむ大きな蜘蛛の巣が,執拗な怨念と自らもまた持て余し断ち切るに断ち切れない嫉妬の怨念に絡め取られて懊悩する情念を不気味に暗示させる上村松園の『焔』。

 この『焔』をそのまま写し取ったようなフライヤーを観た時、嫉妬に絡め取られた女の情念、怨念が引き起こした殺人事件の話かと思っていたが、事はそう単純なものでは無かった。

 確かに、それはある意味歪んだ情念、怨念が別の形となって現れた事件とも言えるのではあるが…。


 『焔』は、持主を取り殺すという噂のある浮世絵師・乾宝山による『夜行四十六怪撰』の中の一つ、幽霊絵の『お駒』として登場する。

 盲目の骨董商『尼子鬼平』(あまごきへい)には、その名から横溝正史の『八つ墓村』に出て来る八つ墓村の由来になった金目当てに村人に殺された落武者尼子一族の長・『尼子義孝』(あまこよしたか)が、にっかり笑う幽霊を斬った逸話で知られる『にっかり平左兼正』は、『刀剣乱舞』の『にっかり青江』(調べたところにっかり青江は実在する刀らしい)を、唐の時代に創られた、副葬(器具・調度などを遺骸に添えて埋葬する事)に用いられる万年壺『三梅花文六耳壺(さんさいかもんろくじこ)』は、盛唐期の8世紀前半頃に貴族の墳墓に副葬するための明器として盛んに焼造された唐三彩の『三彩梅花文壺(さんさいばいかもんつぼ)』や、胴部に花文、裾部に蓮弁文を線刻した華南三彩の六耳壺。『華南三彩刻花文六耳壺(かなんさんさいこっかもんろくじこ)』が、頭を過ぎった。

 実際に存在する骨董品を下敷きにしている事により、『三英花 煙夕空』の世界がぐっと真実味を帯びた虚構の世界になり、観ているうちに事件を物陰に隠れて目の当たりにしているような、骨董品の目戦になって観ている感覚に陥って来る。

 その独特の雰囲気は、横溝正史に江戸川乱歩の妖しさを数滴落したような、禍々しくも狂おしい切なさと悲しみ、人の持つ業とエゴイズム、軆の奥底に潜む歪んだ狂気をも暴き出すようでもあった。

 旧平櫛田中邸アトリエの空間の使い方、光と影、闇、ガムランを思わせる間演奏の音楽と随所にその場面場面で奏でられる生の音、骨董たちの声が聞こえる尼子鬼平と骨董たちのだけしか、自分の声で話すことが出来ず、骨董たちの声の聞こえない普通の人間である刑事は、自らの声で喋る事はなく、声をあてられ、動きまでも人形遣いによって操られ、その姿は人形浄瑠璃のようである。

 骨董たちと尼子鬼平のやり取りを、天井から観ているのは、蜘蛛の棕櫚。役者の手の影絵によって、蜘蛛の影が大きくなり、その蜘蛛の影が闇となり、役者と観客が呑み込まれ、『三英花 煙夕空』の扉が開かれ、迷い込んで行く感じが、膚身に粟立つような怖さを犇々(ひしひし)と伝わって来た。
 
 骨董商として師匠の織部を越える目利きの才を持つ尼子鬼平への織部の嫉妬、その嫉妬から鬼平の目を事故を装い潰した織部への怨み、織部の持つ骨董たちのへの執着と骨董商としての尼子鬼平の業。

 書生に夢中になり、一緒になりたい余りに二人の仲を割こうとする父織部を無邪気な理由でにっかり平左兼正で殺害したものの、書生と駆け落ちすれば贅沢が出来ないと知り、これまで通りの贅沢を続ける為書生を捨て、織部の財産と骨董と自分を得る為に近づいて来た鬼平の妻となった娘はるの無邪気なエゴイズム。

 はるの愛を一時なりと得た書生斉木に対する鬼平の嫉妬と自分の怨みを晴らし、欲望を満たそうとする鬼平の業とエゴイズム、唯一、織部の死を悲しみ、織部を慕う骨董たち。

 ミステリーやサスペンスと言うより『因果応報』の物語。そこに在るのは幾重にも絡み合った業と嫉妬とエゴイズム。

 織部殺害は、娘はるの犯行と思った後に訪れる、どんでん返し。直接手を下した訳では無いが、織部に死を至らしめた元凶であり、手に入れた証言者の骨董たちを葬った鬼平に死の鉄槌を下したのは、葬られた骨董たちの怨念であり、織部の仇を打った骨董たちの思いであり、それは正しく『因果応報』であった。

 最後には、誰も居なくなった屋敷に残ったものは、人の持つ業とエゴイズム、軆の奥底に潜む歪んだ狂気だったのかも知れない。

 響き渡る読経、闇に沈むアトリエ。『三英花 煙夕空』の扉が閉じられた後に残ったのは、背筋に走る言い知れない怖さであり、それは、猟奇的な怖さではなく、人間の奥底に巣食う業とエゴイズムと欲望の怖さである。

 役者さん達の表情、動き、空間に放たれ漂う言葉と声、奏でられる音、光と影、全てがこのアトリエに『三英花 煙夕空』の世界を出現させ、観客を取り込み、呑み込み、世界の一部へと化してしまったような凄みのある舞台だった。

                文:麻美 雪

かつて女神だった私へ

かつて女神だった私へ

芸術集団れんこんきすた

studio applause (スタジオアプローズ)(東京都)

2017/07/27 (木) ~ 2017/07/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2017/07/29 (土) 14:00


 先週の土曜日、湿気を孕んだ暑さの両国・スタジオアプローズに芸術集団れんこんきすたの26回公演『かつて、女神だった私へ』を観に行って参りました。

 今回も、定時開演。作・演出の奥村千里さんと、芸術集団れんこんきすたの舞台にもよく出演される木村美佐さんの素敵な笑顔と行き届いた心配りに迎え入れられ、劇場の中へと歩を進める。

 定時開演の為、早めに来場したお客様に舞台の見たら面白いかも知れないポイント3つを書いた『感謝のお気持ち小冊子』が配られたり、いつものマスクやフリスクの配布など、観客が何物にも邪魔されず、舞台の世界へ没頭出来るように細部に至るまでの心地好い心配りがされていた。

 劇場に一歩足を踏み入れると、雨を孕んだ蒸し暑さを忘れるような涼やかな風が吹く。

 一番前の真中の席へと腰を落ち着け、正面へと目を向けると、椅子一脚を置くのがやっとの三角形の一段高い段の上に据えられた玉座のような椅子。

 左右には青と赤のネパールの提灯が灯り、ネパールの音楽が流れる。

 そう、此処はネパール、カトマンズ。『クマリ』と呼ばれるネパールだけに存在する、生き神信仰の話。

 遠い昔、日本にも国の内外を問わず、生き神信仰や生き仏信仰自体はあった。だがしかし、ネパールの生き神信仰、『クマリ』は、2017年現在の時点でも未だに維持され、存在している。

 生き神信仰や生き仏信仰の事は、薄らとは知っていたが、ネパールの生き神信仰と『クマリ』の事は、この舞台を観るまで知らなかったし、ましてや現在でもまだ維持され、『クマリ』が存在している事すら知らず、この舞台を観た後で、『クマリ』という存在がいまも在る事に、胸中複雑な思いを抱き、考えせられた。

 作・演出の奥村千里さんも、クマリを演じた小松崎めぐみさんも、1人の年端も行かぬ少女をクマリに選んだ女性と十代の少女になった今もクマリであり続ける彼女に、クマリを存続させるか審議するために調査に来た女性とカトマンズではないネパールの他の地方でかつてクマリをしていた老女を演じた中川朝子さんも、この舞台を通して、『クマリ』の存在とクマリに選ばれたために奪われた少女たちの時間とその世界しか知らずに育った少女たちの存在とクマリという制度、生き神信仰が今も存在している事などを知り、考えて欲しくてこの舞台を作ったのではないかと感じた。

 この舞台を観た直後の感想は、この舞台の事を言葉にするのは、難しく、時間が必要だと言う事だった。

 終演後、奥村さん、めぐみさん、中川さんとお話しした時も、御三方とも言葉や分掌にするのは難しいと思うと言ってらしたし、私も、「今回は書くのに時間がかかると思いますし、じっくり考えて書かせて頂きます。」とお伝えをしたくらい深い内容でした。

 テーマは決して軽いものじゃない。日本にもかつてあった生き仏様やそれに纏わる信仰が存在したし、生き神信仰も外国でも国や地域によって、遠い昔には存在したという様な事を読み知っていた記憶がある。

 しかし、この『かつて、女神だった私へ』の舞台になったネパールでは、生き神信仰は、遠い昔の事ではなく、2017年の今でも連綿として受け継がれ存在しているのである。

 日本では、生き神は『現人神(あらひとがみ)』と言い、この世に人間の姿で現れた神を意味し、古くは日本全国各地にあったと考えられていた。

 一方、ネパールの『クマリ』は、密教神、ネパールに住む生きた女神のことで、カトマンドゥのクマリの館に住むロイヤル・クマリが最も有名であり、ロイヤル・クマリは、ネパール国王もひれ伏すという程、国の運命を占う予言者であり、『クマリ』という場合、概ねこのロイヤル・クマリの事を指す。

 『クマリ』は、笑ったり(大声で笑うも含まれる)、泣いたり、目を擦ったり、身震いしたり、手を叩いたり、供物をつまむこと、地に足をつけること(地に足をつける時は、紅い布を敷きその上を歩く)ことを禁止されている。

 それぞれの禁止されている行為は、深刻な病や死、差し迫った死、投獄、国王のおそれ、財務損失などを表しており、その為に『クマリ』でいる間は、これらの行為をすることを禁じられているという。

 なぜ、禁じられているかと言えば、『クマリ』が静かな上体であれば、依頼者である国王に安心をもたらすからであり、ひいては国を安泰を保つという事でもあるのだろう。

 『クマリ』になるには、32もの条件があり、その条件を満たした初潮前の少女が『クマリ』に選ばれるのだが、初潮前ということから、選ばれるのは2、3歳~の年端も行かなければ、物事もよく分かっていない少女で、初潮を迎え、退任させられるまで、祭り以外は一歩たりともクマリの館から出る事を許されない事などが、上記に挙げた禁止行為と相俟って、非人道的とも捉えられており、『クマリ』を見直す動きも見られるが、今の時点では存続しているという。

 物心ついた時からその閉ざされた世界しかしらなければ、『クマリ』になった少女たちは、自分達が幸せか不幸かも分からないし、感じないと思う。

 それが、正しいとか間違っているとか、その国に生まれ、育ち、住んでいない身としてはおいそれと言及することは出来ないが、それでも、初潮を迎えた途端に退任させられ、無垢無知(世間の情報から隔絶されて暮らしている為)のまま、世間に放り出された後の少女たちのその後を想像すると、何とも言えない暗澹とした気持ちになるのを禁じを得ない。

 恐らく、その事を思い、そういう世界で現代もまだ生きている少女とその現状を知って欲しいその気持ちでこの舞台を奥村さんは描き、中川朝子さんと小松崎めぐみさんは、演じて具現化したのではないかと思う。

 良いとか悪いとか、幸せか不幸という単純な事ではなく、『クマリ』を通して、女性として、人としての尊厳、在り方、生き方、その過酷な閉ざされた世界の中で、敢えて水から決断して『クマリ』である事を選んだ少女たちもいたであろう、その少女たちの試に兆したものは何だったのか。

 そんな諸々の事も含めて、『クマリ』という者について、『クマリ』として生きた一人の少女の姿と今もネパールに存在する『クマリ』という生き神信仰について、かつて、女神だった彼女たちの見た世界、その世界を通して私たちは何を感じ、考えるのかと向き合ったこの舞台は、奥村千里さんにしか描けず、芸術集団れんこんきすた出なければ織り上げることの出来なかった舞台だと思う。

文:麻美 雪

荊の肖像/櫟の館

荊の肖像/櫟の館

幻想芸術集団Les Miroirs

新中野ワニズホール ( Waniz Hall )(東京都)

2017/06/08 (木) ~ 2017/06/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2017/06/10 (土) 14:00

        【荊の肖像】

 舞台中央に置かれた、一輪の真紅の薔薇。その紅は、まるで血を吸って紅く染まったような真紅。

 原作は、シェリダン・レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』。

 主人公ローラが 19 歳の頃に起きた話を、回想して手記にしたためたという形式で展開される物語で、馬車の事故に遭い、偶然居合わせたローラの父に助けられたカーミラは、急ぎの旅の途中だからと、カーミラの母によりローラの父に託されローラの人里離れた古城に留まる事になる。

 カーミラの母は、ローラの父に自分たちの素性を探らないようにと念を押して去り、その日からカーミラと共に生活するようになったローラはカーミラに夢中になるが、カーミラには寝る時は部屋に鍵をかけ、部屋に他人が居ることを拒絶し、素性は家柄が良いこと、名をカーミラということ以外は明かさないという、いくつかの不思議な点があった。

 たびたびローラを愛撫しながら愛を語るが、語られる言葉は生死に関わる謎めいた言葉ばかり。起きるのは毎日正午過ぎ、食事はチョコレート1杯で、いつも蒼白い顔をし、気だるそうな様子をし、賛美歌に異常な嫌悪感を表す。

 やがて、城周辺の村で異変が次々に起きるようになり、何人かの女性が相次ぎ死亡し、村に蔓延る奇病の流行が噂されなか、ついにローラ自身も体調の不良を訴えるようになる。

 ローラの家で見つかった、カーミラと瓜二つの美しい貴婦人の描かれた不思議な肖像画。その肖像画の謎が解かれた時、あまりにも切なく痛ましい結末が待っている。時をかける吸血鬼の悲哀を描いた作品。
 
 幼い頃、互いの夢の中に現れた事を思い出し、急速に親しくなり、心を許し合うカーミラとローラ。

 白城さくらさんのローラは、初めて出来た友だちに、疑うこともせず、カーミラの言葉を信じ純粋な友情としての愛を真っ直ぐにカーミラに向ける無垢な白百合のような乙女のような可憐なローラ。

 乃々雅ゆうさんのカーミラは、ローラへの友だち以上の、恋愛感情を孕んだような愛を秘め、恋人に囁くような愛の言葉を事あるごとにローラに囁きながらも、自らの呪わしい運命に抗おうとする心の葛藤が、眼差しに映していて、その如何ともし難い深い悲しみが伝わって来て胸が痛んだ。

 武川美聡さんのローラとカーミラを温かく見守るローラの家庭教師ラ・フォンテンとカーミラに吸血鬼としての生き方を強要し、普通の少女として生きたいと願うカーミラを支配しようとする冷徹な母という全く違う性質の女性をを声色や身ごなしで描き切る。

 朝霞ルイさんのローラの父の友人で、溺愛していた姪が村に蔓延る奇病で亡くなったとされているが、実は怪物によって命を奪われたたのではないかと考え、怪物探索をして退治しようとしていたスピエルドルフがカーミラの正体を見抜き、葬ろうとする時にカーミラに向けた眼差しの奥に宿る憎しみと姪の命を奪われた事の絶望的な悲しみを感じた。

 佐藤まどかさんのフルートとチェンバロの生演奏が物語を更に美しくドラマチックに、刹那な悲しみを彩ってゆく。

 吸血鬼が題材になってるのに、血が滴ることもなく、猟奇的なおどろおどろしさもなく、其処にあるのは、カーミラという一人の少女の悲哀と深く絶望的な孤独のもたらした美しくも儚い物語として描かれていた。

 カーミラがローラに囁く言葉やスキンシップに、同性愛を彷彿とさせるが、スキャンダラスでもなく、ステレオタイプでもなく、初めて自分を理解しようとし、受け入れてくれる人に出逢い、血を吸わなければ永らえる事が出来ない自分の命を賭しても、ローラが生き延びることを願い、呪わしい自分の運命を断ち切る為に自らスピエルドルフに討たれ命果てて行ったカーミラの悲しみに胸が軋み、心に涙が溢れた。

 最後にスピエルドルフが空に放ったカーミラの首が、真紅の薔薇の花弁(はなびら)となり、舞台と客席に飛び散り、床に散り敷かれたその花弁は、カーミラの血であり、カーミラが流した涙のようにも見えた。

 1時間10分の舞台とは思えない、濃密で深く美しい舞台だった。

 『耽美童話の会~荊の肖像・櫟の館~』、幻想と幻影が手を取り合い、睦み合い、混ざり合い、融け合った言葉が唇から零れ落ち、指先と眼差しから迸り、紡がれた美しい物語に幻惑された2時間10分。

 細胞のひとつひとつがため息に満たされた甘美で刹那な時間に漂った舞台だった。

                文:麻美 雪

荊の肖像/櫟の館

荊の肖像/櫟の館

幻想芸術集団Les Miroirs

新中野ワニズホール ( Waniz Hall )(東京都)

2017/06/08 (木) ~ 2017/06/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2017/06/10 (土) 14:00

 目の前には木のベンチがひとつとその上に、蝋燭を灯した銀の燭台がひとつ置かれている。

 ヴィリエ・ド・リランダの『ヴェラ』が原作の『櫟の館』は、サンジェルマン通りの櫟(いちい)の樹に囲まれた館に亡き妻ヴェラの亡霊と共に暮らすダトル伯爵の狂気の日々を描いた作品。

 美しい貴婦人ヴェラと運命的な出会いをしたダトル伯爵の恋を超越し、過ぎた愛は狂愛と化し、烈し過ぎた愛は、ヴェラを妻とし何者をも寄せ付けず、下僕1人と妻のヴェラと3人だけで寂寥に閉ざされたダトル伯爵の城に住み、尽きることのない狂愛の宴の中、妻ヴェラが亡くなり、ヴェラの死を否定し続けたダトル伯爵は、ヴェラの亡霊と対話する日々を過ごす。

 最初はヴェラの亡霊が見えなかった下僕もやがて伯爵と同じような幻影を見るようになり、幻影のヴェラが空間を超越して世界に再現出するその刹那、ダトル伯爵は遂に妻の死を認め、その時、一瞬のうちにこれまでの幻想が儚い夢と消え、絶望の中、悲嘆に暮れる伯爵は、偶然床に落ちた墓の鍵を見て、高貴な微笑を浮かべて物語としては終幕する。

 終幕はするのだが、ダトル伯爵の命も人生もこの先まだ続く。狂おしい程に愛した者を喪い、拒否し続けた末にその死を認め、愛する者の亡霊さえ見失った時に、絶望したダトル伯爵の末路には何が待っているのだろうかとその事をずっと考え続けている。

 愛する者と永遠の別れをした者は、果たしてどの様な念い(おもい)に囚われるのだろうか?

 私にも、15歳の時、最愛な人との永遠の別れがあった。

 それは、恋人でも伴侶でもなく、母との別れではあるが、15歳の私には死によって分かたれたその時、半身を全て捥がれた様な、半身が空ろになって、感情も思考痛みも何も感じない、機能停止したような感覚に陥った。

 母との別れですらそれ程の悲しみと衝撃を伴うものならば、狂愛する者との別れであれば、それは尚のこと痛ましく、どれ程の悲しみと苦しみと痛みを伴い、どれ程の喪失感と虚無感に苛まれ、蝕まれてゆくことだろう。

 それは、幻影を視せ、他者からは見えない愛の狂気の淵へと遺されて行く者を誘いなかったろうか。

 墓の鍵を拾ったダトル伯爵は、その鍵でヴェラの墓に入り、閉じ篭ったまま妻の棺の横で枯らすように自分の命を終えさせて行ったのか、妻との記憶を反芻させながら、自然な死が自らに訪れるまで、死んだように生き続けたのか。

 どちらにしても、ヴェラへの狂愛は死ぬ事はなく、寧ろ熱のない蒼い焔のように、ダトル伯爵の中で燃え続け、焼き尽くしてしまったのではないかと思えてならない。

 朝霞ルイさんの指先の動き、眼差しの色の、目線の動き、仕草のひとつひとつに、ダトル伯爵のヴェラへの狂おしく烈しい愛と、ヴェラを喪った悲しみと痛み、絶望と苦しみが膚を刺し、胸を軋ませる切なさと寂寥として滲み通って来た。

 神剣れいさんのヴェラは、儚く美しく、伏せた睫毛の先、物言わぬ唇の代わりに、その眼差しとダトル伯爵へと伸ばした指先、ダトル伯爵を見つめる瞳の表情と、身ごなしの全てで夫への静かで深い愛を伝えていた。

 真横から聴こえる、髑髏海月さんの静かで、夜を震わす露のような美しい声で空に紡がれて行く、ギターの弾き語りの音楽が幻想的で悲しく美しく、荘厳なひとつの愛の物語を彩っていた。

 幻想と幻影が手を取り合い、睦み合い、混ざり合い、融け合って言葉となり唇から零れ落ち、美しい渾沌となって紡れた物語は、40分弱とは思えない、2時間の舞台を観たような濃厚で濃密で素敵な舞台だった。


                文:麻美 雪

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