満足度★★★★★
鑑賞日2018/08/18 (土) 14:30
劇場に入ると、左右に分けて客席があり、その真ん中に舞台へと続く花道がある。舞台の真ん中には、白い箱を2つ並べた机のような物があり、その左右としょうめんに白い箱が椅子のように一脚ずつ置かれており、その後ろに背の高い脚立があり、人形が吊り下げられている。その横には、短い階段があり、それを登りきると椅子が二脚膝突き合わせるように斜めに置かれている。舞台装置はそれだけ。
その空間に描き出されるのは、先週のゆめまち劇場での『大脚色』から、繋がる名探偵小暮一片シリーズ第3弾、小暮一片の物語。
ここから、濃縮したあらすじをかくところなのだが、この舞台それがとても難しい。なぜと言うなら、この舞台、『考えるな、感じろ!』としか言えない舞台だからである。
ストーリーが有るようで無く、無いようで有る。無限に広がらない筈の狭い空間で、男は自分に対して自分の存在が自分の理想であるようにと強く願い、男が、いや男だけでなく誰か一人が言葉を紡ぎ始めるとそこは無限に広がる空間へと変わり、ならば無限に広がるのかと思えば、それぞれが抱える内なる精神世界にまるで反物質のように存在を打ち消す存在が生まれた時に起こりうる個と個、1と0が出現するが、それさえも虚なのか実なのか、ぐるぐると円が繋がり回り続けるように、目まぐるしく物語が生まれ、遺伝子の様に螺旋を描いて絡みつくように打ち消す物語が存在し始めると、そこは元いた狭い空間ではなく、そこには男が求める理想があった。
探偵と推理、刑事と犯人。 犯人は誰?犯人は存在するのか?言葉が交錯し、連帯する事で、共依存のような物語が紡ぎ出され、果てないとにも思える言葉の羅列が繰り返し行われる事で
一つの真実の物語が浮き彫りになってゆく、名探偵木暮一片シリーズ第3弾。
なぜ犯人は犯行を起こし、起こった犯行はどんな結末へと帰結して行くのか、虚ろで後ろ向きな思考が生み出す演劇のような短編オムニバス小説のような、上手く説明する言葉を持たない永遠に続く誰かの狂おしい夢の中に迷い込んだような世界を超高速度の言葉と思考と動きと感情の交感と交感で紡ぎ出す舞台。
何とか粗筋らしき物を書いてみるとこんな感じなのだが、これさえも何処まで捉え、受け取り切っているのか定かでない。
なので、此処からは観て感じたままを書いて行く。その為、矛盾や齟齬があるやもしれないがお許し頂きたい。
昨日から、つらつらとこの『雪華、一片に舞う』の事を考えていて、ふと、思いついたのは、3年前に初めて観たDangerous Boxの『姦~kashima~』の欠片が幾つか散りばめられているのでははないかという事。
『姦~kashima~』は、確か小暮一片シリーズ1作目だったと記憶している。
篠原志奈さんの森田は、『大脚色』にも出て来た森田と同じであるなら『大脚色』とは印象が違う、観ていて感じたのは3年前この劇場で観た『姦~kashima~』で、志奈さんが演じたカラクリ遊郭のからくり生き人形の欠片としてこの物語に存在しているのではないかということ。動きや台詞の発し方が、何処か『姦~kashima~』のからくり生き人形を彷彿とさせた。『大脚色』の森田が、『大脚色』という物語を書き物語を操っている様に見えて、それさえも神の大いなる手に動かされているのかも知れないとしたならば、この物語での森田もまた、話を導いて行く語り手であり、からくり生き人形を身を滅ぼす程に狂おしく愛してしまった一人の男(林 里容さんが演じた役)を結果として破滅に向かわせた存在とするなら、この物語でももしかしたら…と思ってしまった。
そこから連なる林 里容さんの入山三郎は、『大脚色』では、もう1人の小暮一片、小暮一片と鏡合わせのような存在だったのではと思ったのは変わらず思いながら、先程上げた『姦~kashima~』のからくり生き人形を破滅的に愛してしまった男の欠片としてもこの物語に散りばめられているのではないかと思った。そして、そのイメージは、 『 綾艶華楼奇譚 晩餐狂想燭祭』の八文字と重なるのではないかと不意に思った。八文字が篠原志奈さん演じる一華、零華にあれ程までに執着して追い求めるのは、『姦~kashima~』のこの男の記憶が引き継がれているのだとしたら…とするなら、『 綾艶華楼奇譚 晩餐狂想燭祭』の欠片も忍び込ませているのだとしたら…。
この舞台のタイトルの雪華は、一華、零華を準え繋がり指し示しているとしたら、雪華という花魁に繋がりいつか登場するのではないかというのはあまりにも考えすぎだとは思うが、ふと感じてしまった。
『雪華』とは、雪の結晶、雪の降るのを花に例えた言葉であり、冬の季語でもある。
この『雪華、一片に舞う』は、私が観た限りの小暮一片シリーズの名探偵小暮一片が、『姦~kashima~』『大脚色』と関わって来た事件の全ての欠片と小暮一片という一人の探偵であり男のこれまでの人生の欠片が、小暮一片の上に雪の華のようにヒラヒラと舞い落ちてくる物語という事であり、全ては小暮一片の仲に無限に或いは有限に広がる世界を描いたものなのかと感じた。
『姦~kashima~』の冨永裕司さん、ゆめまち劇場での『大脚色』のREONさん、そしてこの『雪華、一片に舞う』の滝沢信さんの小暮一片は、印象が移ろい変わり、更新されて行く。
千穐楽前なので、結末は言えないが、行き着く末、行く末、あの膝の上の人形の意味は私の感じた通りだとすると、胸が軋む。
滝沢 信さんの小暮一片は、厨二病だなんだと言われる小暮一片という一人の男、内に抱え、巣食った孤独と愛される事への渇望と、その愛される事への渇望は、人に必要とされたいという切望のように感じて、遣る瀬無い切なさに胸が軋んだ。
と何とかここまで書いたが、この舞台、目が幾つあっても追いつかない。全方向に役者さんたちがいて、言葉と動きと照明が超高速度で交換、交錯し、更に感情と思考が目まぐるしく交感し合い、干渉し、関わり繋がり、崩壊し、消えてゆき、現れる。
観終わった後は、何だか分からないけれど、物凄いものを観てしまったという放心状態の感覚と、細胞や脳内、軆内と感情が翻弄され、滾り、何かが駆け巡り、揺さぶられる。
所々に白薔薇が置かれている席があり、そこに入れ替わり立ち替わり、役者さんたちがすわり芝居が紡がれるという、中々に嬉しくもあり、ドキドキする仕掛けもある。
私の隣の席には、JEYさんが座られて芝居が進行して行くことが多く、JEYさんカッコイイなと思いつつ、ドキドキしながら舞台を観ていた。
そんな緊迫感のある中で、宮岡志衣さんの添島猿彦が、出てくるとふと和んだのは、『大脚色』の千穐楽のラストを観た人は、添島が持っていたフランスパンの意味が分かると思うので、ちょっと楽しめるかも知れない。添島が鞄に付けている猿のぬいぐるみが困ったような、何とも言えない愛らしい顔をしているのに、途中からちょっとパンクっぽく変わっていたり、フランスパンが出てくる度に短くなっていて、その意味って、ああいう事なのかなと思ったりして面白かった。
兎にも角にも、五感と持てる感覚全てを総動員して、フル稼働させて観た、物凄い舞台であり、面白い舞台だった。
文:麻美 雪