かつて女神だった私へ 公演情報 芸術集団れんこんきすた「かつて女神だった私へ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    鑑賞日2017/07/29 (土) 14:00


     先週の土曜日、湿気を孕んだ暑さの両国・スタジオアプローズに芸術集団れんこんきすたの26回公演『かつて、女神だった私へ』を観に行って参りました。

     今回も、定時開演。作・演出の奥村千里さんと、芸術集団れんこんきすたの舞台にもよく出演される木村美佐さんの素敵な笑顔と行き届いた心配りに迎え入れられ、劇場の中へと歩を進める。

     定時開演の為、早めに来場したお客様に舞台の見たら面白いかも知れないポイント3つを書いた『感謝のお気持ち小冊子』が配られたり、いつものマスクやフリスクの配布など、観客が何物にも邪魔されず、舞台の世界へ没頭出来るように細部に至るまでの心地好い心配りがされていた。

     劇場に一歩足を踏み入れると、雨を孕んだ蒸し暑さを忘れるような涼やかな風が吹く。

     一番前の真中の席へと腰を落ち着け、正面へと目を向けると、椅子一脚を置くのがやっとの三角形の一段高い段の上に据えられた玉座のような椅子。

     左右には青と赤のネパールの提灯が灯り、ネパールの音楽が流れる。

     そう、此処はネパール、カトマンズ。『クマリ』と呼ばれるネパールだけに存在する、生き神信仰の話。

     遠い昔、日本にも国の内外を問わず、生き神信仰や生き仏信仰自体はあった。だがしかし、ネパールの生き神信仰、『クマリ』は、2017年現在の時点でも未だに維持され、存在している。

     生き神信仰や生き仏信仰の事は、薄らとは知っていたが、ネパールの生き神信仰と『クマリ』の事は、この舞台を観るまで知らなかったし、ましてや現在でもまだ維持され、『クマリ』が存在している事すら知らず、この舞台を観た後で、『クマリ』という存在がいまも在る事に、胸中複雑な思いを抱き、考えせられた。

     作・演出の奥村千里さんも、クマリを演じた小松崎めぐみさんも、1人の年端も行かぬ少女をクマリに選んだ女性と十代の少女になった今もクマリであり続ける彼女に、クマリを存続させるか審議するために調査に来た女性とカトマンズではないネパールの他の地方でかつてクマリをしていた老女を演じた中川朝子さんも、この舞台を通して、『クマリ』の存在とクマリに選ばれたために奪われた少女たちの時間とその世界しか知らずに育った少女たちの存在とクマリという制度、生き神信仰が今も存在している事などを知り、考えて欲しくてこの舞台を作ったのではないかと感じた。

     この舞台を観た直後の感想は、この舞台の事を言葉にするのは、難しく、時間が必要だと言う事だった。

     終演後、奥村さん、めぐみさん、中川さんとお話しした時も、御三方とも言葉や分掌にするのは難しいと思うと言ってらしたし、私も、「今回は書くのに時間がかかると思いますし、じっくり考えて書かせて頂きます。」とお伝えをしたくらい深い内容でした。

     テーマは決して軽いものじゃない。日本にもかつてあった生き仏様やそれに纏わる信仰が存在したし、生き神信仰も外国でも国や地域によって、遠い昔には存在したという様な事を読み知っていた記憶がある。

     しかし、この『かつて、女神だった私へ』の舞台になったネパールでは、生き神信仰は、遠い昔の事ではなく、2017年の今でも連綿として受け継がれ存在しているのである。

     日本では、生き神は『現人神(あらひとがみ)』と言い、この世に人間の姿で現れた神を意味し、古くは日本全国各地にあったと考えられていた。

     一方、ネパールの『クマリ』は、密教神、ネパールに住む生きた女神のことで、カトマンドゥのクマリの館に住むロイヤル・クマリが最も有名であり、ロイヤル・クマリは、ネパール国王もひれ伏すという程、国の運命を占う予言者であり、『クマリ』という場合、概ねこのロイヤル・クマリの事を指す。

     『クマリ』は、笑ったり(大声で笑うも含まれる)、泣いたり、目を擦ったり、身震いしたり、手を叩いたり、供物をつまむこと、地に足をつけること(地に足をつける時は、紅い布を敷きその上を歩く)ことを禁止されている。

     それぞれの禁止されている行為は、深刻な病や死、差し迫った死、投獄、国王のおそれ、財務損失などを表しており、その為に『クマリ』でいる間は、これらの行為をすることを禁じられているという。

     なぜ、禁じられているかと言えば、『クマリ』が静かな上体であれば、依頼者である国王に安心をもたらすからであり、ひいては国を安泰を保つという事でもあるのだろう。

     『クマリ』になるには、32もの条件があり、その条件を満たした初潮前の少女が『クマリ』に選ばれるのだが、初潮前ということから、選ばれるのは2、3歳~の年端も行かなければ、物事もよく分かっていない少女で、初潮を迎え、退任させられるまで、祭り以外は一歩たりともクマリの館から出る事を許されない事などが、上記に挙げた禁止行為と相俟って、非人道的とも捉えられており、『クマリ』を見直す動きも見られるが、今の時点では存続しているという。

     物心ついた時からその閉ざされた世界しかしらなければ、『クマリ』になった少女たちは、自分達が幸せか不幸かも分からないし、感じないと思う。

     それが、正しいとか間違っているとか、その国に生まれ、育ち、住んでいない身としてはおいそれと言及することは出来ないが、それでも、初潮を迎えた途端に退任させられ、無垢無知(世間の情報から隔絶されて暮らしている為)のまま、世間に放り出された後の少女たちのその後を想像すると、何とも言えない暗澹とした気持ちになるのを禁じを得ない。

     恐らく、その事を思い、そういう世界で現代もまだ生きている少女とその現状を知って欲しいその気持ちでこの舞台を奥村さんは描き、中川朝子さんと小松崎めぐみさんは、演じて具現化したのではないかと思う。

     良いとか悪いとか、幸せか不幸という単純な事ではなく、『クマリ』を通して、女性として、人としての尊厳、在り方、生き方、その過酷な閉ざされた世界の中で、敢えて水から決断して『クマリ』である事を選んだ少女たちもいたであろう、その少女たちの試に兆したものは何だったのか。

     そんな諸々の事も含めて、『クマリ』という者について、『クマリ』として生きた一人の少女の姿と今もネパールに存在する『クマリ』という生き神信仰について、かつて、女神だった彼女たちの見た世界、その世界を通して私たちは何を感じ、考えるのかと向き合ったこの舞台は、奥村千里さんにしか描けず、芸術集団れんこんきすた出なければ織り上げることの出来なかった舞台だと思う。

    文:麻美 雪

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    2017/08/05 14:54

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