満足度★★★★★
鑑賞日2017/06/10 (土) 14:00
目の前には木のベンチがひとつとその上に、蝋燭を灯した銀の燭台がひとつ置かれている。
ヴィリエ・ド・リランダの『ヴェラ』が原作の『櫟の館』は、サンジェルマン通りの櫟(いちい)の樹に囲まれた館に亡き妻ヴェラの亡霊と共に暮らすダトル伯爵の狂気の日々を描いた作品。
美しい貴婦人ヴェラと運命的な出会いをしたダトル伯爵の恋を超越し、過ぎた愛は狂愛と化し、烈し過ぎた愛は、ヴェラを妻とし何者をも寄せ付けず、下僕1人と妻のヴェラと3人だけで寂寥に閉ざされたダトル伯爵の城に住み、尽きることのない狂愛の宴の中、妻ヴェラが亡くなり、ヴェラの死を否定し続けたダトル伯爵は、ヴェラの亡霊と対話する日々を過ごす。
最初はヴェラの亡霊が見えなかった下僕もやがて伯爵と同じような幻影を見るようになり、幻影のヴェラが空間を超越して世界に再現出するその刹那、ダトル伯爵は遂に妻の死を認め、その時、一瞬のうちにこれまでの幻想が儚い夢と消え、絶望の中、悲嘆に暮れる伯爵は、偶然床に落ちた墓の鍵を見て、高貴な微笑を浮かべて物語としては終幕する。
終幕はするのだが、ダトル伯爵の命も人生もこの先まだ続く。狂おしい程に愛した者を喪い、拒否し続けた末にその死を認め、愛する者の亡霊さえ見失った時に、絶望したダトル伯爵の末路には何が待っているのだろうかとその事をずっと考え続けている。
愛する者と永遠の別れをした者は、果たしてどの様な念い(おもい)に囚われるのだろうか?
私にも、15歳の時、最愛な人との永遠の別れがあった。
それは、恋人でも伴侶でもなく、母との別れではあるが、15歳の私には死によって分かたれたその時、半身を全て捥がれた様な、半身が空ろになって、感情も思考痛みも何も感じない、機能停止したような感覚に陥った。
母との別れですらそれ程の悲しみと衝撃を伴うものならば、狂愛する者との別れであれば、それは尚のこと痛ましく、どれ程の悲しみと苦しみと痛みを伴い、どれ程の喪失感と虚無感に苛まれ、蝕まれてゆくことだろう。
それは、幻影を視せ、他者からは見えない愛の狂気の淵へと遺されて行く者を誘いなかったろうか。
墓の鍵を拾ったダトル伯爵は、その鍵でヴェラの墓に入り、閉じ篭ったまま妻の棺の横で枯らすように自分の命を終えさせて行ったのか、妻との記憶を反芻させながら、自然な死が自らに訪れるまで、死んだように生き続けたのか。
どちらにしても、ヴェラへの狂愛は死ぬ事はなく、寧ろ熱のない蒼い焔のように、ダトル伯爵の中で燃え続け、焼き尽くしてしまったのではないかと思えてならない。
朝霞ルイさんの指先の動き、眼差しの色の、目線の動き、仕草のひとつひとつに、ダトル伯爵のヴェラへの狂おしく烈しい愛と、ヴェラを喪った悲しみと痛み、絶望と苦しみが膚を刺し、胸を軋ませる切なさと寂寥として滲み通って来た。
神剣れいさんのヴェラは、儚く美しく、伏せた睫毛の先、物言わぬ唇の代わりに、その眼差しとダトル伯爵へと伸ばした指先、ダトル伯爵を見つめる瞳の表情と、身ごなしの全てで夫への静かで深い愛を伝えていた。
真横から聴こえる、髑髏海月さんの静かで、夜を震わす露のような美しい声で空に紡がれて行く、ギターの弾き語りの音楽が幻想的で悲しく美しく、荘厳なひとつの愛の物語を彩っていた。
幻想と幻影が手を取り合い、睦み合い、混ざり合い、融け合って言葉となり唇から零れ落ち、美しい渾沌となって紡れた物語は、40分弱とは思えない、2時間の舞台を観たような濃厚で濃密で素敵な舞台だった。
文:麻美 雪