
シンクロナイズド・ウォーキング
劇団青年座
青年座劇場(東京都)
2016/11/01 (火) ~ 2016/11/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
「障害を描く」という障害への果敢でしなやかで、涙ぐましくも爽やかな挑戦。
数年前の燐光群での同作初演は作家清水弥生のデビュー公演で、師匠坂手洋二に及ばない二番手レベルか、との先入観で眺めたものだが、モノローグ(またはモノローグの分担)の多い坂手作品に比べて普通の芝居、対話によってこまやかに事態が動く、ただしモノローグやスローガン的台詞もあって坂手色。対話(ダイアローグ)とモノローグの二つのバランスを、燐光群寄りの演出(全体でモノローグを分担して言い合う雰囲気が支配的)でまとめた、私としては消化不良の舞台だった。
劇作家協会新人賞を争って惜敗した秀作「ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド」を経て、昨年はフィリピン・日本を題材にとった作品がまた優れていたが、私にとっては清水氏の船出になったこの作品の「リベンジ」への期待、また女優・西山水木演出への未知なる期待をもって観劇した。
戯曲は東京オリンピックに向けた実際の動きとリンクした改稿が見られ、他にも随分書き改めた跡があったように思う(記憶は朧ろで確証はないが)。初演の粗い印象は残るが、障害者と路上生活者を絡ませる設定は「硬さ」「盛りすぎ感」を生む反面、この場所・人にしか出せない台詞を発せしめることで自立と連帯のテーマを新鮮に浮かび上がらせていた。「ブーツ・・・」にも描かれた障害を持つ者の「欲求」への悲痛で美しい叫びがあった。
西山演出、終始生演奏が幅広い音楽性で舞台を全面的に支え、脇役でポイントとなる男二役には外部からの役者を当てた。内一人が音楽絡みでもヤクザの演技でも場をさらっていたが、全体のポテンシャルの中に溶け込んでいる。時として飛躍気味なテキストに、丸みとユーモアを与え劇空間に馴染ませるのを高いテンションが可能にしていた。動線やシーンのまとめ方、映像の仕込みなど、多彩な趣向は(「本当は俳優だと見るせいか)見事に演出を果たしたと感服。
これは一長一短だが、決め台詞が多い。あれだけ言い切ってもまだ「無理解」になびく要素は残る、その退路を断ちたい思いは痛いほど分かる(と、自分では思っている)。が、「感動」の色合にまとめるシーンの決め台詞がたび重なるのはきつい。涙はもっと振り払っていい、一度泣いて、そして最後にもう一度、泣けばいい・・というのが体の正直な反応。
ただ、この作品の(私にとっての)真価は、(これも「ブーツ・・」にあった要素だが)障害者の恋愛に触れていることだ。そのシーンをこの舞台上に作れた事に、作者の心尽しと演出の粋に、拍手である。
(演劇の力とは既成事実をそこに作り出すこと。)

10月歌舞伎公演「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」
国立劇場
国立劇場 大劇場(東京都)
2016/10/03 (月) ~ 2016/10/27 (木)公演終了
満足度★★★
昔からある方の国立の劇場で昔からある歌舞伎というものを覗いてみた。
そう言えば国立劇場には知人の舞踊発表で小ホールに、また別の知人が出るというので演芸場に、一度だけ随分前に来ていたことを思い出した。が大ホールは初めてである。
第一部の終盤あたりから観劇。当然安い三階席。見晴らしはよく、かき割りや人物の輪郭ははっきり見えるが、表情が見えない。芝居鑑賞の上では視覚からの情報がなかなかに少ないという事になりそうだ。途中から観たという事もあって、何も分からない。睡魔が半端なく寄せては、寄せっぱなし(体調の問題もあり)。せめて場割りごとの粗筋位は、予習して行くのが正しかったと反省した。
唯一、切腹のシーン「由良之助はまだか~」のくだりは落語で馴染みがあり、ああこういう場面だったのか・・、と楽しんだ。
江戸の当時の丁稚風情が芝居にうつつを抜かして団十郎とかナニ左衛門を目にしていたというのは、(それが実態を反映しているならだが)一つの目から鱗体験だった。仕事の最中に芝居見物をしたのが旦那にバレて、お仕置きに蔵に入れられたところが、大の芝居好き、今頃どのシーンをどんな風に、と考え出すと矢も楯もたまらず腹の空いた事も忘れてすっかり覚えたシーンをやり始める。やりながら感極まって熱が入って来るのがこの場面で、いかに感動的なシーンかを、丁稚が演じながら雄弁に説明してくれるのだ(蔵丁稚)。
国立劇場の三階席でも、これから切腹のシーンと見てとれ、いかなるクライマックスかと待ちかねた、もとい、待ちわびた。落語の紹介の仕方は正確であった。 駆け付ける由良之助役は松本幸四郎、観劇中は誰が誰であるなど皆目分からないが、花道を歩くテンポや空気でこの者が主役だと判る(腹を切る殿ではなく)。その由良之助は一際声が大きく、花道から現われる場面では、今逝かんとする主君を見てすぐさま駆け寄らず、無残な姿を見てガックリと腰が落ちる、という芝居をする。この間が、「早く行かなきゃ、時間無いっショ」と素人に思わせ、おまけに上体がやや反り気味になるので、偉そうに見える。悠長だし偉そうだが、否、こちらが主役なのだろうから、たっぷりと大芝居を打ってもらわねばならず、無念さや悲しみをこの男の仮託して観客は胸を詰まらせるのだな、と脳内で補足しつつ眺める。
・・ガックリと来たあと、仰天するような「反り返った」声を発する。これが主を失う無念さ、悔しさ、理不尽さへの怒り、己の無力への落胆・・・・などなどの心情を天井を突き抜けんばかりに表現する、のコーナーであるようだ。
「忠臣蔵」の話じたいは第三部まで続き、殿の切腹はその序、第二部からも観てみたいが残念ながら午前11時から5時間を確保できる日がない。
驚いたのは客が全て、ご高齢の方々だった事(0.1%位は40代が居たかも知れない)。もっと下の世代が居ても良いと思ったが。確かに平日の昼間に4時間も5時間も劇場の中で過ごせる現役勤労者は滅多に居ないだろう。
それよりも気になったのは、本当に観たくて来てるのだろうか・・。伝統芸を一度は観て置こう的な、半ば観光の対象になっておるのではないか。・・帰って行く客の様子をみてその事を感じた。
舞台を観た率直な印象は、「歌舞伎」である事の要素はぞんぶんに味わえるが、どこか古典芸能の領域に収まっている感があって、「演劇」であれば求めたい新鮮さはない。市川猿之助や勘九郎(勘三郎)の活躍を「演劇」の側は目にしているけれども、「本体」の方は保存・保護の意識が強いのではないか、と勝手な推測をしてしまった。
もっとも、素人が三階席から眺めた印象で決めるのは不遜かも知れない。見慣れた人なら遠目でも、芝居の空気が彷彿として来る、という事がある。
完敗の歌舞伎観劇のリベンジはいつになるか・・・

ゴドーを待ちながら
Kawai Project
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/10/19 (水) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
こまばへやってきたゴドー
原田大二郎のウラジーミル(ディディ)、高田春夫のエストラゴン(ゴーゴ)が自由に動けるスタンスで時折前方を眺める、即ち観客を睥睨する。時には極接近して目を合わせたり若干声をかけたりする。この距離、狭さ、こまばくんだりまで興業にやってきた感覚?
特に原田氏の、身体の角度、表情、意図的な演技は、演劇における「見せ物」として成立、心情が(作られた)キャラクターと一体となってどんどん入って来る。
あまりに有名なこの作品を何度も観た気がしていたが、実際は十数年前世田谷パブリックで柄本明、石橋蓮司、片桐はいり、松村克巳のを観てその後戯曲を読んだのみ。その舞台も当時は第一線俳優の舞台など興味なく友人に誘われて付いて行き、大半眠ってしまった観劇だった。二人のキャラはこんなに違っていたとは・・・同じような境遇の男が二人、とぼけた会話を延々とやっていると思っていた。
・・その舞台は最初二人が「いかにも」な、つまり「お芝居ですよ」と判る結界のごとき枠の中に入って、「さあ、どう出る」と挑むように見合って始まった印象がある。素を出して笑わせる瞬間はいかにも「知ってる」間柄の空気、どうも好きに慣れず、しかも本編の芝居とは繋がらない。必死に台詞を出して、名高い二人の俳優の「競演」を、汗を流すスポーツのようにやってどうする。台詞を必死に出し合い、とちった回数の少なさを競う競技のレベルに下げた、と感じた瞬間があったように思え、その印象は「そぐわないもの」として素人ながらに記憶に刻まれて、今思い出している(記憶の書き換えなるものがあるいうから要注意ではあるが・・)
ポッツォとラッキーのくだりは戯曲の謎を深める要素で、今回も興味深かった。桟敷童子の稲葉能敬のラッキー。桟敷童子の役者の客演舞台を最近複数目にしたが、「桟敷童子らしさ」は演技の土台になっていて、ある種の信頼感がもてる。ポッツォ(中山一朗)は戯曲から湧くイメージにピッタリの造形で、台詞も秀逸で作者の才能が迸る部分である。自らのアクションが相手(主役二人)に及ぼす影響を鋭く察知し、ないしは彼流の理解の仕方で理解して先回りした心遣いを彼流の仕方で行なう台詞を迅速に置いて行く。それらの言葉全て己の優位を確信するために吐かれていると見えて、実はナイーブな実態が、後半の展開と合わせて見えて来る。
この、「どうでもいい」人達の顛末が、「変化」を強烈に奇天烈に暗示しながら、主役二人にも訪れる「時間」の存在を思い出させる(普段は全く忘れているかのようだ)。
何につけ悩んでしまうゴーゴを気遣うディディ、二人の会話が「そろそろ帰ろう」という展開になると必ずディディが「ゴドーはどうする」と思い出したように言い、この時ばかりは相手を難じる事なくゴーゴは、「そうだ・・」と言う。
「ゴドー」はゴーゴにとっても否定し得ない、というか肯定的な何か、と想像する事くらいしかできないが、二人の間だけで出来上がった代物でない事が、子どもの登場で知らされる。「ゴドーさんは今日は来られなくなった、明日は必ず来る」と伝言を授かったと子どもは告げる。第三者も知っている存在、それがゴドー。
一幕ののんびりとした時間に比べ、二幕はよりゆっくりと時間が流れ、薄暗く重くもの悲しい。相変わらず会話を交わし続ける二人だが、そこで語られている事は何なのか、何を証そうとする行為なのか。
恒久の時間の中に、今二人が確かに存在し、出会っており、時間は未来に向かっていること。それ以上の事実は何もない・・。存在する事の実態を言い表わすとすればそんな程度でしかない、それを悲しいと感じるなら悲しいし、それでも未来に希望を見出すというならそれもいい。・・様々な思いが心の奥底に潜んでいるようにも想像される二人の姿が、モノトーンの照明の中で静かに浮かび上がっていた。終幕。

『ロデオ★座★ヘヴン』
ロデオ★座★ヘヴン
スタジオ空洞(東京都)
2016/10/25 (火) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
異なる作家の3短編上演
ロデオの二俳優を中心に、三作品それぞれ異なる作・演出とキャスティングで磨きをかけてのご機嫌窺い。三作いずれも風味が異なり、文学の薫り高き「私家版・罪と罰」(柳井祥緒作演出)を挟んで、オープニング「four face eight」(ひがしじゅんじ)はヒューマン・コメディ、トリを飾る「キミがお金を食べるなら」(成島秀和)はファンタジック・ラヴ・ストーリー。
軽快さとスピード感、美しき心を旨とする両者に対し、「罪と罰」は人間探究の姿勢ゆえ「醜き心」をあぶり出す。断然後者が好みである。
「four」は、後に登場する「兄」をカッコに括り、それ以外の者がドタバタを演じる。10年以上会っていない兄に自分の変貌ぶりを見せたくない、という弟の主観が周囲の人間(たまたま出会ったその場所でバイトをしていた三人)を振り回すが、最後の兄とのやり取りでは二人がそこで会う事になった本当の理由も判明する。
ただ私としては、そこで感動が作られるのは兄が多くを語らず、また去って行く兄を弟は追わず、「次はない」という事になっている(=「別離」に等しい)からである。兄の事情、兄の生の現場に、弟は踏み込まないと決めた。二人の間に出来てしまった絶対的な距離が、そこで問題にされているなら、それなりの深み、感動というものがあったろうが、兄は去り、弟の杞憂が判ってホッとした(それとて重要な事だが、弟のちっぽけな主観以上の問題が兄に降りかかっているのにそこには干渉しない)、という展開はちょっとすっきりしない。(注文を付けすぎかもしれないが)
「お金を食べる」も大きな声でスピード感と動きのあるタイプの芝居だったが、それなりにしっとりと「感動」を残したのは女優の佇まいが、同じものを指す言葉でも「欲求」「わがまま」といったネガティヴな概念を、「純粋な願い」「夢」「切望」といった「良い感じの概念」に置き換えさせる容姿を備えているから、である。女がその男に惹かれた理由、・・女自身の生きた背景がそこに影を落としているはずだが、そこは見えない。解釈の幅は広く、観客に委ねている格好だ。私は、つい悪い方、卑小な方に見てしまう。
劇団の形態がユニークで、確か今回3度目の観劇。成り立ちを今回ようやく理解した所。作・演出・キャスティングに磨きをかけた次回作に期待。

劇場-汝の名は女優-
劇団NLT
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2016/10/25 (火) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
女優。
役にハマりすぎな旺なつき。最後に至ってメーターを振り切り、瞠目した。
つい二三ヶ月前、新宿のさびれた古本屋で古びた背表紙を見せていたのが件のサマセット・モーム作「劇場」で、かの作家に劇作があったと発見したばかり、という縁にかこつけて、普段は観ない喜劇を得意とする印象のNLTを初観劇。
社交界に名を馳せる往年の名女優(現役)が主人公だが、その特殊な役柄の背景は、芝居では奥へ引っ込み、もっと日常な、卑近な、立場を他に替えた庶民にも起こり得る出来事として見え、女優ならではの(その地位を利用したと言えなくもない)行動が喝采を浴びる理由が、作劇にある。
そして「天晴れ」と言わしめる自在な演技を見せた主役女優、こちらも初見だったが、特権的な意味で称される(狭義の)「女優」を見た。彼女でなくてはこうはならない、見事な仕上がり。(勝手な印象ながら)チープなイメージのシアターグリーンがこういう華やぎのある空間に・・化かす技が演劇の手管なら、相応しい劇場だったと言えるか。

アントニーとクレオパトラ
うずめ劇場
シアターX(東京都)
2016/10/25 (火) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
ペーター・ゲスナーの仕事
うずめ劇場の過去レパに「夜壺」(唐十郎)があった。ちょうどその頃北九州の劇団として知り、同レパは既に終えていて見逃したが、なるべく追いたいと思って以来、今日まで。
とにかく演劇が好きで(演劇的)遊びに貪欲で(演劇的)食欲旺盛なゲスナー氏の世界、とでも称する以外ない毎回趣向の異なる舞台だが、今回もユニークな作り。
台詞の多い長い芝居に役者も必死に食らいついている様子であったが、不思議な味のある・・最後は情趣溢れる光景が焼き付く舞台になった。
ワイン・サービス付休憩を挟んで、3時間。
21年目からの活動を待望する。

『哀れ、兵士』
フェスティバル/トーキョー実行委員会
あうるすぽっと(東京都)
2016/10/27 (木) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
日本語字幕だが観れる(ら抜きで悪いか)
うまい。演技が的確でシーンが端的で無駄がなく、ステージ上部の字幕を見ながらの観劇でも、伝わる。観れる。
兵士とはどのような存在か・・犠牲者の観点から、望まぬ加害者という観点から描いている。だから「哀れ」な存在。
舞台処理がうまく、俳優が必要な芝居をきちんと(笑わせるタイミングも)やっている。
劇団コルモッキルは日本との演劇交流の実績のある劇団(私は初見)だが、若い俳優が一回り年上の母役をやったりもしていて、「若い集団」の印象が強い。若い作演出家が、年上の俳優を使うのは韓国では難しいのかな・・などと想像したりしたが、堂々たる舞台だった。

夜壺
劇団唐組
雑司ヶ谷鬼子母神設紅テント(東京都)
2016/10/29 (土) ~ 2016/11/06 (日)公演終了
満足度★★★★
風雨と歳月にさらされて。
紅テントがよく見ないと赤だと判らないのが、いつも夜だからなのか・・少し淋しい。
宵闇に浮かぶ幻のような唐十郎の芝居の中でも、比較的時空がとっ散らからないストレートプレイだ(少女仮面レベルの)・・と、今回主役を張った女優赤松由美の舞台での「日常」感覚を新鮮に眺めていたが、二幕ではとっ散らかった混沌モードに変容。毎度の唐芝居、ラストの屋台崩しに照準した作りになって行く。
序盤に流れる「日常」、ナンセンスが挿入しながらも戻るべき「日常」に回帰するとホッとする。「こんな感じが続いて欲しい」と思わせる雰囲気は赤松の持つ「日常」な空気によるが、混沌の二幕では「日常」な赤松が息の上がる様を見ることになった。
たぶん自分には混沌の中の「日常」を観たい欲求があり、既に混沌である所の現実にあっては、日常が混沌化して行く様はあまり観たくない、と感じているのだろう。本来それは飛躍への想像力を称揚するものだったのだろうが、今、そういう形での飛躍を求める時代ではないのではないか・・。
そんな事を思った。

ここはカナダじゃない
オイスターズ
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2016/10/22 (土) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
オイはスターや。
不条理、というよりこの劇団の、ナンセンスは最近のコントや漫才の主流であるボケ役のシュールさに通じる。人としておかしな反応や奇妙な行動でツッコミ役を呆れさせ、憤慨させるアレ。「おや?」「おかしいな」と思わせるタイミングと手順に技が求められ、結句その態度が意表をつく原因に発していたと判明した時の落差=「緊張の緩和」。
奇ッ態も極まった時点で如何にもマトモな提言をする者が出て来るのが、この作家の特徴だろうか。出来過ぎな台詞が、ミスマッチな状況で発せられ、皆をまとめ上げ、美談の主人公のように振る舞い始めたりする。終盤に近づくにつれ何やら「感動的な話」に見えなくもないやり取りが交わされ、熱を帯びて行く。演劇だから「劇的」であるべき、との使命に呼応しているが、皆動機はバラバラで各人が「形」をなぞっているだけの皮相的なありようである。
しかし、信じ続ければ真実になる、との要素も混じって芝居は本当に「良い話」になってしまったのか、それとも「そんな阿保な・・」と突っ込んで良いのかが微妙であったりもする。
過去作「トラックメロウ」を映像鑑賞した印象は、風刺であったものが何か良い話になっている、チグハグさであった。その後生で観た2本は風刺が勝ち、そして今回、困惑が極まった状況ではせめて良い話にして上げても良いかな・・という気にさせる「感動あり」のパターンと見えた。
皮肉の効いたやり取りが、私たちの生きる現実の「根拠のあやふやさ」を奇妙な仕方で炙り出す、この味がこの劇団に人を惹きつけるのだろう。
旅の話。荒唐無稽で、かなり無理のある「認知」における欠陥が、ちぐはぐなやり取りをどうにか成立させる。本気なのか暇つぶしなのか分からないアジテーションが大いに笑えるが、おちゃらけか本気か、という峻別も意味のない事かも知れぬ。言葉は状況・文脈で意味を変えるのであって正しい命題などない・・・と思えば、どんな熱っぽい言葉も冷静に受け止められるし、価値あるものと受け止める事もできる。

棘/スキューバ
不思議少年
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/10/12 (水) ~ 2016/10/16 (日)公演終了
満足度★★★★
「棘」70分/「スキューバ」20分
後者は短編のコンペで賞を取った三人芝居、軽快な場面処理が湿っぽい「家族・感動モノ」をサラリ、ふんわりとレノアに仕上げていた(自分は好みでなかったが・・)。
前者が公演の本編に当たる、二人芝居。最期を迎えようとする老女(男が演じるので女性だとは後半で気づく)が、うら寂しげな声と共に薄暗がりの中に浮かび上り、向こうに対面しているらしい傷ついた「坊や」を呼び抱き寄せ、孤独の淋しさを隠し立てせず吐露するのを端緒に、女の告白が始まる。初めての男、その次の男・・・人生の節目での異性との出会いはいずれも「痛い」結末で、その折々の女の赤裸々な姿が、変顔をモノとしない女優の全力の演技(怪演)でかたどられていく。
男女二人は、性別を障害とせず絶えず役割を替え、現在と過去を往復する。告白された人生の時間、それをこれから歩もうとする「坊や」は今、その一歩(異性との遭遇)を踏み出そうとする・・そんなラストだったか。
薄靄に浮かび上る様が、荒涼たる被災地の亡霊のように見え、泣く「坊や」は親を亡くした子ども・・・熊本から来た劇団という前知識は、観る目に作用した。だが、被災しようがしまいが、描かれているような痛い人生は存在する。
敢えて震災に関連づける意図は作者にはなく、メーターを振り切りそうな女優の演技は逆に感傷を退けているようでもあった。

星回帰線
パルコ・プロデュース
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2016/10/01 (土) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
蓬莱戯曲の世界
大枚と言える額をはたいて、蓬莱竜太の芝居を観に行く。
蓬莱のモダンスイマーズ時代(今もあるが)からの戯曲世界は現代的な、かつ都市に対する地方の、上層より下層の、コンプレックスや下世話な感情を抉り出しながら止揚するものだったが、ここ最近の芸劇での舞台(今回もだが)での冴え渡り方は何だろうか・・と感慨しきり。
今回は一つの「答え」には到達しない・・・人物の内心には畢竟立ち入れない、分からない、是非はつけられない、という微妙な線上を行く感じ。主人公(向井理)と、彼が職場=故郷の群馬を離れて訪れた中学時代の恩師の作る北海道のコミュニティ、その代表としての恩師藤原(平田満)とのシーソーゲームは、サスペンス劇のように「最後はこちらが正しかった」という結末にはならず、「実態」が知らされることで図が描けるような結末にもならない(それに近い所までは迫るが)。
実態が「何」であるか、という事よりも、この芝居は、「今、こうである」なら、「どう評価するか」でなく「どうするか」に踏み出すべきなのであり、その事で何かが生まれる、一個人の中にある限界を超える可能性をはらんでいる、言葉にすればわざとらしいが、現代人が(現代の状況ゆえに)ぶち当たるテーマに丁寧に触れられている。
この芝居で作演出の意図が、主人公を「痛い人」として描くか、誤解されやすい被害者的位置づけにするか、明確には見えない。
観た客がどちら側の感性に近いかで、違ってくるかも知れない。
向井理が責められた挙句に声を荒げて相手の非を、鬼の首を取ったように指摘する・・その時、主人公の側に「理がある」と感じさせる響きがあって、しかし客観的に見ると自分が他者に及ぼす影響力を知らない「甘い」主人公にこそ非があるでしょう・・と感じる。
ここで気になるのは主人公の年齢だ。
中学時代の恩師と「あれから10年」と言ったのを卒業以来とすれば、現在25歳。だが彼は医学部を卒業して実家の産婦人科に雇われて一定程度の経験をつんでいる(日は浅いと考えられるが)。ならば通常20代後半だろう。
さてそうなると、彼が倫理的な大きな落ち度がないとするには年齢が高すぎ、しかし行動じたいは若すぎる。「イケメン」にしては女性との接触の多さから学んでいない、いじめの影響か・・など推察するが戯曲にはそのあたりは書かれていない。
この倫理的な落ち度の程度によって、彼という人物への評価は変わってくるのだが、戯曲はその問題への拘泥を回避して、「そうであれば、どうするか」へと物語を進めて行く。
彼のあり方の問題は人の社会の平和にとって深刻なもので、現に芝居の中では「痛い」存在に成り下がって行くのだが、運命は彼らの破綻をつくろい、掬い上げて行くかのようで、芝居の大半で見せられる醜さ、痛さに比して最後は美しい。がその美しさも、痛々しさを孕む。人は痛々しくも生きて行く・・そんな余韻もあるが、解釈次第かも知れない。
「行動」を記す蓬莱戯曲のストイックさ、その流儀じたいがテーマとして芝居の世界に重なったような、面白い出し物だった。
満天の星が見える空の下での暮らしの空気も、よく出ていた。
的確に演じる役者の力は言うまでもなし。

亡国の三人姉妹
東京デスロック
横浜赤レンガ倉庫1号館(神奈川県)
2016/10/14 (金) ~ 2016/10/16 (日)公演終了
満足度★★★★
テキストのコラージュ
主宰多田淳之介の日韓共同製作「カルメギ」(チェーホフ「かもめ」の翻案)、「台風奇譚」(「テンペスト」の翻案)に続く、同趣向の自劇団版と思されるが(この二つは残念ながら見ていない)、この古典をどういう視点で料理するのか。「カルメギ」「台風」は企画上からも明確に朝鮮史を舞台にとった作品になったが、今回はそうではない。ばかりでなく、物語としての「三人姉妹」はそれとして原作の登場人物名(ロシア人名)で演じられながら、戯曲「外」の要素が折々に浸潤してくる。(幕開きの舞台の光景から既に奇妙だ。)
場面はおそらく抜粋で、時系列も戯曲通りなのか不明、そのように作られてもいる。場面と場面の間には、前の語り手がゆっくりと歩いて去る間や、「音」が主役になる場(間?)によって、実にスローな時間が流れる。それらの場面は「何」によってチョイスされ、並べられているのか・・ いずれにせよこの舞台は人物がある状況で語るテキストが「固有の状況」を離れて言葉自体として浮かび上がるように切り取られ、強調され、繋げられている。「三人姉妹」はそのコンテキスト(文脈=物語)を語らない、言葉の集合としてそこにあるようであった。
言葉自体を独立させる事で、言葉は「現在」を指し示そうとする。俳優の「語り」の作法(技術)から、その意図が伝わる。
つまりこの「亡国の三人姉妹」は現代の「亡国」の風景に翻案した「三人姉妹」だ、ということになるだろう。
浮かんでくる疑問は、「三人姉妹」である必要はあったのか・・という点だが、連想を逞しくすれば、故郷=モスクワから遠く離れたわびしい田舎の生活に押し込められ、いよいよ待ち望んだ旅立ちの日に望みが断たれる結末は、故郷を思えどいまだ土を踏めない境遇、また故郷が他者のほしいままにされた状況にある人達にも、重ね得るかも知れない。
にしても、この舞台は知られ過ぎた戯曲だからやれた異色の翻案だったかと思う。

慕情の部屋
スポンジ
新宿眼科画廊(東京都)
2016/10/14 (金) ~ 2016/10/18 (火)公演終了
満足度★★★★
豚箱友情物語、ではないが。
初スポンジ、名前もこの度知った。
タテに長い新宿眼科画廊(地下スペース、逃げ口無し)の奥行きを使った、多場面を作りだす装置の活用で、「物語」はテンポ良く、スリリングに進んでいた。
スーパーのバックヤード、ビデオ屋店内、主人公の部屋、上野、留置場、接見室・・。
印象的なのは、狭い横幅をさらに狭める上手側の小さなエリアで、機材を駆使して無機質系の「音楽」未満ただの音以上の幻想音を「生演奏」する姿、ドラマを「不穏」に盛り立てていた。
当て書いたように物語上のキャラに合う人達は、一劇団に属する同質感がないが、持つキャラによって物語の中に嵌め込まれ、総体で一つの芝居をこなし切った感じ。
悪行の果てであるはずの檻の中が、最もヒューマンな空間だというのも皮肉が利いて好きである。

あの大鴉、さえも
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2016/09/30 (金) ~ 2016/10/20 (木)公演終了
満足度★★★★
デラシネラな運び屋達
ネタバレ注意。であるが少しばかり。珍しく俳優目当てにチケット(安くない)購入、戯曲は以前読んでいたから「短い」「盛り上がりはない」「不思議な雰囲気(何ならゴドー)」「どんな趣向かに拠るが・・小野寺修二」と、考え得る舞台の形を想像してもよく分からず、俳優の選定に答えがあるかな・・と推定してみたのである。
答えは三人の取り合わせ、には必ずしもなく(私の目には)、個々の持ち味は発揮されていたが、三人三様に得意とする所が異なるため、あのような形になったかと思う。とは言え、多くは三人が息を合わさない訳に行かない場面。さて如何。

北村想名作戯曲リーディング
流山児★事務所
Space早稲田(東京都)
2016/10/12 (水) ~ 2016/10/15 (土)公演終了
満足度★★★★
リーディングの愉楽
何年か前の山元清多特集リーディングの一つを見たときの多くの発見・・作品「海賊」の世界、俳優、「リーディングがこれほど沸騰する舞台になるのか・・・」という、この(まぐれかもしれない)遭遇を思わず期待したのは、今回の北村想特集4作品の一つにあの「海賊」の座組み(演出=東京ミルクホールの佐野バビ市=演出、黒テント片岡哲也その他)の賑やかな面々の名を見たからで。それ以外の演目・座組も気になりつつ、幸いお目当てのBチーム「DUCK SOAP」が観れた。
小アフタートークでの流山児祥・演出佐野氏のやりとりから北村想という作家の背景、演劇界での位置、人となりが知れて興味深い。
作品は演出による大きな加筆によりメタシアター(入れ子構造)化され、お笑いが勝っていたが、俳優が目一杯やっている舞台を作っている。「そう言えば台本持ってやってたっけ?」という位に動き回る印象。1演目をたった2ステージでは役者も淋しい事だろう・・と、「存分に楽しんだ」観客=私は勝手に想像する。

「お国と五平」「息子」
(公財)可児市文化芸術振興財団
吉祥寺シアター(東京都)
2016/10/06 (木) ~ 2016/10/13 (木)公演終了
満足度★★★★
近代古典という世界
日本の戦前に書かれた戯曲は骨っぽい。「確かな言葉」で紡がれ、言葉として普遍性が高いと感じさせるものがある。高度情報社会である現在より、人や権力の「眼」の監視の度合いがもっと粗く、「個」としての内心の自由度が(制度上はともかく実質上)大きかった分、「他者」に伝達すべき言葉の使い様に丁寧さがあった、という事ではないのか・・そんな事を想像させられる。
近代古典の世界を味わいたく観劇。私としては感動の『息子』が目当てだったが、最初に上演した『お国と五平』の尺が長く充実しており、『息子』はあっさりと終わった。前者は谷崎潤一郎作。高校の一時期ハマって以来何十年ぶりに谷崎文体に相見え、武家の女房と家臣が交わす台詞の端麗さもさりながら、後半登場し「女々しく」憤怒と哀願の言葉を繰り出す男の居直った人生観には、谷崎の底に流れるものに思い当たった感でハッとした。人々にもてはやされ颯爽と生きる者は元々その素養(この場合は武術の覚え・それに発する自負、勇気等)を生まれながらに持ちえた事でその誉れを手にしているに過ぎない。してその身分が約束されている条件では多少の欲もかき、隠し通せると高を括っている。それを「目撃した」と暴きながら、「生まれながら」の素養に恵まれず白眼視され捨てられた身で卑怯な刃傷に及んだその男が免罪されることは大義として無い・・・それだけに相手を謗り情けを語りながら「命乞い」をするしかない哀れな男であったが、彼に「一言」言わせたかった谷崎の、顧みられぬ人の人生を見つめる眼差しを彼の作品を思い出しながら思った。喜劇仕立てである。
一方『息子』は難しい芝居だ。約30分の短いやり取りの中に、台詞とは別に「いつ気付くのか」、探りと確信のプロセスがしぐさとして表現されねばならず、その微妙な線をどこに引くか、どう振舞うか・・そしてあの距離でその関係を成立させるキャラ作りからして大変である。老父は元気すぎ、息子はもっとくたびれ切っていい。谷崎作との関連で言えば、彼がそうなった全責任が彼にある訳ではない、が世間は冷たい。微かながらに、情が通った片鱗が、彼らを取り巻く冷たさを逆照射する。そして近づく捕り物の音が、哀れな彼らの存在を浮き上がらせる。芝居の方はまだ、作り込む余地があった。

アンダーグラウンド
無隣館若手自主企画vol.14 小林企画
アトリエ春風舎(東京都)
2016/10/07 (金) ~ 2016/10/10 (月)公演終了
満足度★★★★
巻き込まれ型舞台
「参加型」とは露知らず参加した。トークに招かれた女性が「参加型」に一家言ある人らしく、今回の趣旨の曖昧さについて指摘していた。その様子からすると、「参加型」のスタイルは何らかの理念を原点に持つようだ。舞台→客席の一方向コミュニケーションの限界、といった所だろうか。
地上人である所の観客が、大きなエレベータに乗って地底世界へ向かっている。会場は客席がなく、地底人であるキャスト5人の誘導でまずは紙製眼鏡作りと地底世界についてのレクチュア。観客が何らかの「態」でその場に居る中で、いつしか芝居(地底人として名を持つ彼らのやり取り)が始まっていたり、地上人集団に語りかけたりする。「劇」の要素に観客が組み込まれている形は珍しくないが、同じ平場でそうなっている、という感覚はまた別である。
ポイントは「原罪」を背負った歪な存在となった地上人を地底人は蔑視しており、地底世界の人口が減ってしまったため労働力として、しかし生活と身分を保証する約束で地上人が移住させられる途上である、という構図が後半に判ってくること。白の衣裳で統一されたキャストは高等な人種らしく、無垢で情熱的な演技によって我々とは異質なものとして存在し、「今ここ」が地上世界の劇場である「現実」から離れた、「地底」というフィクションを成り立たせている。
紙製眼鏡をかける事で「現実」に属する観客同士の対面を回避し、照明や音の効果、そして地底にまつわる詩的な言葉によって、普段は舞台上で観る架空世界を自分らもそこに紛れ込まされた形で観る、という体験になった。もっともストーリー自体は単純だが。
それらがフィクションのモードだとすれば、冒頭の作業と、もう一箇所途中でキャストがちょっとしたゲーム的な動きを観客に指示してやらせる場面、これはフィクション世界とは違う質に感じられた。フィクションの世界は観客が想像を逞しくして架空世界を理解しようとする時間になるのに対し、フィクションにあまり寄与しない動きをやらされる時間は、自分の身体という現実に引き戻されそうになる。もっと別な動きならどうだったか・・。
さて先述した「参加型」が目指すのは、フィクション世界よりは、それとは異質に感じられた時間、つまり観客が自分の身体(自分自身の現実)を意識させられ、他者の前にさらされる条件で何らかの物語に参加する形なのだろう。
その意味では今回の舞台は、参加型というより、フィクションに巻き込まれる体感型舞台とでも言ったらよいだろうか。
いずれにせよ、興味深い「観劇」ではあった。私には待遇の良い奴隷船に乗せられた感覚、そうなった場合の自分の感情を垣間見る瞬間があり、それなりに新鮮な体験であった。

夜明けに、月の手触りを ~2016~
mizhen
【閉館】SPACE 梟門(東京都)
2016/10/05 (水) ~ 2016/10/10 (月)公演終了
満足度★★★★
「みずへん」、また一つ発見。
5名の女優による、それぞれの切実な物語--モノローグによる--が舞台上で交差しつつも融合せず、互いの動線が絡み合いつつも整理され、それぞれに展開する。舞台処理がユニーク。独白で綴るテキストにはキレがあり、それ以上に俳優がそれを飲み下して十二分に生き生きと演じていた。
小野寺ずる登場。やがて全体の中心に来る彼女の役、なりきり具合と言い、凄みあり。

篦棒 べらぼう
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2016/09/28 (水) ~ 2016/10/09 (日)公演終了
満足度★★★★★
中津留氏の言語が「新劇」舞台で命を得る
「中津留らしさ」について、ここ最近否定的な意味のそれを語っていた気がするが、今作は出色であった。休憩を挟んで三時間にわたる、ある一家の叙事詩は細密画でありながら中津留氏らしい豪快な線も入る。最終局面などイプセンかハウプトマンかの戯曲か、と思わず唸った。今の中津留氏の文体に、劇団民藝が持つ演技態が合ったのやも知れぬ。

狂犬百景(2016)
MU
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2016/10/01 (土) ~ 2016/10/10 (月)公演終了
満足度★★★★
初MU
短編ではあるが、作者の思い描く架空の「狂犬な世界」での幾つかのエピソード4編、となっている。つまり、全体として「狂犬な世界」を構成する、規模は違うが「火星年代記」的な、一つの未来形、あるいは「あり得るもう一つの世界」を提示する一まとまりの出し物だ。
「百景」の名の通り、作者によれば「狂犬」エピソードは百あるのだとか。その事を言わせるだけの、創作意欲の源泉がこの架空世界である「狂犬な世界」にはあるのだろう。
個人的には、「初」のMU式文体に不慣れのせいか?、台詞が入って来ず、前半の二編は意識が途切れがちになり、目の前の現象が何であるのか、分類すれば喜劇か悲劇か、そこで起こっているのは対立か迎合か、さえも判別しづらい(中々味わえない)状態となった。
後半二編では、はっきりした感情、激した感情を乗せやすい台詞と展開があり、俳優から発した「感情」をよすがに、芝居に入ることが出来た。