サーカス物語 公演情報 SPAC・静岡県舞台芸術センター「サーカス物語」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    『モモ』『果てしない物語』の作者としてのみならず、現代文明の終焉を警告する「ファンタジー」の効用の主唱者という印象のあるミヒャエル・エンデ。その理由は例えば「モモ」で暗躍する<時間どろぼう>というキャラ一つ思い起こせば、納得できる。だが彼の晩年の作品(戯曲作品)である『サーカス物語』には彼の言わせたい言葉がバタ臭いほど率直に、道化のジョジョの口から出てくる。作者の意図というか思いが伝わる分「人物の具体的な行動」をみせる演劇の舞台としては、最後はいささか観念的な、語りの攻撃に対して敵が崩壊して行く形になっている。この戯曲の難しさを、どう克服しているのか・・・それが最大の関心でまた静岡くんだりまで足を運んだ。
    ユディというインドネシアの演出家による、観れば合点されるだろうインドネシア色の、従ってアジア的要素の強い舞台だった。とはいえ異国情緒に傾かず、広がりのある普遍性の高い表現になっている。
    この戯曲のもう一つの難関である「大きな溝を隔てた向こうの山とこちらで勝負する」場面では、逆光を当てると影絵風の陰影が模様に浮き上がる布を吊って「山」を表現し、その背後で、「語り」に即した影の演技が展開する格好。これもなるほど、だ。
    また、「難度」の高さは、サーカス団員が「技」を心得た「様子」である必要。これも、大技を見せずともそれらしく見えていた。人形片手に腹話術で皮肉なコメントを挟む役が一人、技術をこなし、他は動きの身軽さ、全体のアンサンブル、白のメイク。
    だが・・実際はそんな審査をする暇も隙も舞台にはなく、俳優らが「俳優」として立ち喋る冒頭からの「サーカス物語」、また物語上の「現実」から劇中物語へと、入れ子構造の大半は最も「内側」のファンタジックな物語だがこのモードの推移に目が離せず、持って行かれた。
    劇中で語られる方の物語世界のルールは、「語り手(ジョジョ)の気まぐれ」のせいかいささか都合が良いが、これには聞き手が居て、半年前からこのサーカス団に加わったらしい少し知恵遅れのエリがジョジョに「お話」をせがんだのである。このエリという存在が、「現実世界」で団員たちをある選択の場に立たせる事になる。劇中物語(魔女の住む世界での、お姫様と、彼女がその「影」に恋した王子との物語)は、途中「現実」の場面を挟むが、この「現実」にも「劇中物語」の要素がはみ出ていて、現実世界がファンタジーに浸食されている風だ。(現実の)団員たちも「物語」に参入し、力を合わせて難題に立ち向かう事となる。
    この劇中物語が一つの尊いメッセージを紡いで(その力をもって)大団円に至った後、サーカス団の「現実」が待っている。彼らはこの仕事を続けていく(生きのびる)方途を探していた折り、会社が長期契約を希望しているとの朗報がもたらされたが、それには条件が付されていた。一つ、サーカス団は会社の宣伝に協力すること。そして、不要なもの、付加価値を下げると予想される存在は切り離すこと。苦渋の選択を迫られた時、彼らはどうしたか・・
    思えば随分ステレオタイプなドラマの図式が、新鮮に感じられたのは、彼らの行為が自然で、切実で、美しかったから。皆一様に「弱い」存在、だから「切り捨てる」事は出来なかったとも言えるが、うまい話を蹴らざるをえなかった「悲しみ」も、深い。「良い生活」への憧れは彼らには正当なものだ。

    その前、「物語」において敵=蜘蛛女の山が崩壊したとき、落ちた布の向こうにサーカス団員たちが一列に敢然と立つ姿が現われる。どこか欠陥のある個性的な一人一人を興味深く眺めていた私は、彼らが初めて見せる姿・・心を一つにして力強く、頼もしく・・演出は彼らの頭上から灼けるばかりの光を降り注がせたが・・地を踏んで立つ勇姿に涙せずにいられなかった。(Gメン75が懐かしかったか)

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    2016/12/27 01:37

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