
世界は嘘で出来ている
ONEOR8
ザ・スズナリ(東京都)
2017/04/02 (日) ~ 2017/04/09 (日)公演終了
満足度★★★★
「ゼブラ」at 雑遊以来のONEOR8、OR田村孝裕作の舞台。二、三度だけ目にした田村作品の印象は、笑わせてwel-made、少量の毒も終演時には100%解毒。
しかし今回はタイトルから、「毒」有り覚悟せよとの挑戦状? 受けて立つべし・・と観劇に至る(会場がスズナリというのも大きかった)。
甲本雅裕(どこかで見た俳優だと後部座席から見たが終演後その通りだったと確認)、あとカラテカ・矢部(こちらは一目瞭然、確か以前別の舞台でも見た)。
客席に流れる空気が少し違うのは、著名人を見に来てるモードが(大型であるかどうかはこの場合あまり関係ない)じわっとある・・これが嫌なんだと今回改めて自覚したがそれはともかく。・・ONEOR8は著名俳優を使うとはいえ、本来の面構えは普通の劇団・・・つまり舞台を軸足に置いた「作品勝負」の演劇活動に勤しむ風貌だ、と勝手に理解している。
従って断りもなく「普通に」批評対象として扱うが、さて、どんな出来だったか・・。
舞台の平均値的な「出来」はともかく、メジャー・映像系の俳優で作られた舞台の持つ弱点が、どうにも見えて仕方がなかった、そういう舞台であった、という事に残念ながらなる。出来はそこそこ、いやもっと、かなり良い「はず」なのだが・・何故そう感じるのか・・・。(また後日)

ノドの楽園
studio salt
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2017/04/06 (木) ~ 2017/04/09 (日)公演終了
満足度★★★★
ここ4、5年の数作しか知らないが、saltにとって恐らく満を持してのKAAT公演はsaltらしさ(小世界なドラマ、一見淡白)を保ちながらも、膜の向こうの世界へと浸潤して行きそうな、何かが産み落とされそうな、リアルには儚く消えそうだがそれでも何かを残しそうな、そんな感触を残す舞台だった。
各登場人物の「らしさ」に、愛着が持てた。やはり断片的で側面的な描写ではあるが、人が集まって形成された「世界」(芝居上の)が見えた。
「原発事故以後のドラマ」のカテゴリー(というものがあるとすれば)の中でも独特な設定だった。だが奇妙なこの状況が最後には馴染んでおり、かつ、この設定でなければ際立たない、美しい言葉が最後に響いていた。降り続ける灰を雪と見まごう風景のごまかしは人間の素朴な「生きる」願望を切なく、力づよく照らす。
・・とある公園。70年代あたりに作られたような、在りげな造作物が配置されたリアルな美術がまず目を惹く。中央の大きなそれはピラミッド型に左右から階段が中央に二段階延びて、中央上部には昔風のUFOからピコンと飛び出たようなアンテナ様のバーが突き出る。その下は人が通れる。そこから舞台側には石だかコンクリ製のベンチが幾つか配されており、上手手前のベンチに寝るホームレスの他、階段の上や途中にそれぞれ尻を落ち着けている者二人。この場所で幾組もの人物らの小さなやり取り(ドラマのさわり)が演じられ、暗転、時間経過の後、打って変わった後半に入るという仕掛けだ。
「みなとみらい原発の事故」後であるという全体状況の飛躍、そして、各人物のドラマの展開の飛躍。それらがこの上演時間内に、有機的に繋がったリアルな関係図として見えて来るには、役者の力量も要っただろう。
作家の意を汲むstudio saltのマスター=後半の中心人物となる役を演じた浅井氏が芝居の血液となり、同劇団員東氏、その妻を演じた客演の松岡氏の突き抜け具合、他の役者の「らしさ」もそれぞれにこの劇世界に貢献していた。
行間の広い、ややもすれば危うく解け落ちそうなsaltの虚構世界にあって、KAAT大スタジオを広く感じさせず「群像」を見出させてくれた事が嬉しく、つかんだ雪の結晶は会場出口付近ではもう蒸発していたが、記憶の欠片を大事にかき集めながら歩いた帰り道であったぞな。

あるいは友をつどいて
ハツビロコウ
【閉館】SPACE 梟門(東京都)
2017/03/28 (火) ~ 2017/04/02 (日)公演終了
満足度★★★★
鐘下辰男作品の台詞がそこにあった。ハツビロコウ第3弾は、後で調べると2004年THE・ガジラで初演の作。というと、三菱重工爆破事件(1974年)から30年。今年は何と43年後。
限りなく犯人グループ=武装闘争に身を投じた者の側に立って論理を汲み取り、そして批判にもさらす。動機が正しければ手段は正当化される・・訳ではない厳粛な事実について言及される・・。
聞き取り役の男(ゴーストライター)が、語られる事件の当事者の関係者だった、という展開は、第三者の視線による風通しのよさを歓迎していた観客には閉塞感が増したが、犯人グループへの批判と、問題意識への傍観者性は凝縮され、議論は熱を帯びて本質に迫る。
正義感の向けどころを失ったまま突き進んだ彼らを「特攻精神」=日本の悪しき習性すなわち非論理的精神主義=への回帰として彼ら自身が疑問に感じていたことなども語られ、なぜその行動へ至ったか、人間ベースの理解を深めるための補助線が引かれていく。
60年代から70年安保の山を越えた後の「政治運動」は、敗勢の焦燥からか連合赤軍事件など「暴力」が前面に出てしまい完全に世論を敵に回してしまう。
だが、「日本が」という主語で語られる国家・社会が構造的に負っている悪・・朝鮮戦争・ベトナム戦争で兵器産業が潤い日本経済成長の原動力としたこと、それは日本がアジアを植民地化した論理(経済第一主義)の延長と言え、「あるべき関係」からの乖離であるこの実態は是正される必要があり、日本の富が他国の(人民の)犠牲や貧困の上に成り立っているならば、その恩恵に与る自己を批判し、公正さを求めて行動するか、怠って為さないかのどちらかしかない・・・。
この問題意識。「行動」の中身は多様にあれど、行動するか・しないか の問いからは逃れられない。・・そして彼らは「行動する」事を選択したわけだが、効果が早急に、目に見えるような行動でなければならない、という縛りに彼らは必然にハマり込む。迅速な効果を狙わなければ、今も搾取される人民は苦しみ続けなければならないからである。そこで「多少の犠牲」も尊い目的のためには正当化される、という事が起きる。
終盤、既に故人となった二人のメンバーがようやく当事者としての身体から解放され、「私は自己批判します。」と始め、簡潔に一言「当時の私達は人の命を軽視していた」と総括する。己の非を認めた発言は、全編でここだけである。
つまり、再び「現実」に向き合った時、何を選択するのか、正解は何なのか、彼らには判らないのだろうと思う。
そして私たちも、実は分かったようでいて、それは単に今の「常識」がそうだというだけに過ぎず、自ら出した答えでも何でもなく、結局分かっていないのだ、と思う。
考察はつづく。・・・

くじらの墓標 2017
燐光群
吉祥寺シアター(東京都)
2017/03/18 (土) ~ 2017/03/31 (金)公演終了
満足度★★★★
新作も期待される坂手洋二だが、過去作品にもじっくり取り組んで欲しいと思っていた。『カムアウト』に続く再演物は、坂手氏の好きなアイテム(分野?)くじらを題材にした戯曲の一つ。場転は殆どなく、使われなくなった作業場(鯨の解体所?)の中に、多彩な光景が位相となって出現する。
主人公の青年とその婚約者、彼の亡くなったはずの6人の兄たち(鯨捕りの一家であった)、母の死後引き取られた養母、婚約者の叔父、謎の女(婚約者と存在が重なり、兄弟の母でもあるかのよう)とその姉らが、幽霊かと思えば生きてる人、かと思えば間違いなく死者である者が出現、また幻視か錯覚か解釈不能の者、だがそれら全て夢と知って納得、と思いきや最もナイーブな部分は現実で・・といった具合に関係性の転換も実はめまぐるしく起こっていて最後まで観客を翻弄する。
そして舞台上には常に、風というのか、音、空気の肌触りが通奏低音のように流れている。それまでたった一人不在であった者が、最後に異形の者として現われた時、能の構図をみて合点させられる。人間の「死に繋がる」心の風景が、結語として置かれざるを得なかった(戯曲執筆当時の)作者の時代観察を想像させられるが、今に連続する風景である。

エレファント・ソング
名取事務所
「劇」小劇場(東京都)
2017/03/17 (金) ~ 2017/03/26 (日)公演終了
満足度★★★★
小さな編成での濃密会話劇、名取事務所の海外戯曲公演は今回で三作目だったか。
ミステリー要素が強い作品は、思わせ振りな展開の最後に、思わせ振りに見合うオチがしっかり用意されているかどうか、またオチをしっかり含み込んだ(客の関心を惹き付ける狙いに終始しない)人物像の形成が為されているかが、要かと思う。
今作は惹き付けは十分、人物形象は理事長はOK、青年は頑張っており、看護師は出番が少なく形象の如何を問うまででない、とすると戯曲の(オチの)問題か。
会話をぶっ通す二人の技に感心しつつも、やはり評価はまずは戯曲、物語に対してだ。

The Dark
オフィスコットーネ
吉祥寺シアター(東京都)
2017/03/03 (金) ~ 2017/03/12 (日)公演終了
満足度★★★★
思い出し投稿・・ 大竹野正典戯曲の上演で知ったオフィス・コットーネの非・大竹野関連作品を初めて観劇した。海外戯曲上演のメリットは「良いものを選んでいるに違いない」という計算が観る側に働く。デメリットは「遠い問題」「他国の文化を理解しないと難しい」といった懸念が働く。ポストトークでは演出家が10年来やりたいと願ってきた作品とか。さて、蓋を開けると。
構図が明確で意図も分かりやすい(気がする)、名品の香りがある。停電の一夜に隣り合った(同じ構造のそれが寄り集まった)ハウスの各世帯の構成員が互いの家を誤り、あるいは意図して入り込む等し、普段見られない事態が展開、その中で家族の問題が露見し、最後には闇の中で語り合う場が生まれる。と、通電し現実に戻るがそれまでの関係から何らかの変化を起こしている(良い変化に見える)。・・三世帯それぞれに抱える問題が現代の病理を表し、シリアスさが勝った芝居になっていた。そう見えたのだったが、基調が喜劇に作られたほうがシリアスさが浮上したのではないか・・と思った。
個人的には、後方席からは人物が区別しづらい俳優がおり、「判らない」状態に睡魔が襲う時間が生じてしまった。・・装置は上段まで高くそびえ、不規則に繋がる部屋が配置されているが、三世帯それぞれが芝居の中で占有する自宅領域が、ダブっていたり、また「判らない人物」が家を出て他人の部屋に入り込んだりすると、混乱である。説明的でない台詞だと尚の事だし、停電の夜という薄暗い照明もそれに加担した。どれか一つでも、我が方に歩み寄ってくれていたら・・と。特に「判別しづらかった」のは十代男性と中年男性。演技なり衣裳なりでもっと工夫できなかったのか・・とは正直な感想。

亡国のダンサー
劇団黒テント
ザ・スズナリ(東京都)
2017/03/25 (土) ~ 2017/03/29 (水)公演終了
満足度★★★★
佐藤信10数年振りの新作という。とすると・・私の観劇対象が二、三劇団だった2000年頃初黒テントの音楽劇「メザスヒカリノサキニアルモノ、若しくはパラダイス」の初演と再演(野外)の衝撃を再び、と足を運んだあの、スタイリッシュだが難解で暗く、案内はがきの地図では会場に辿りつけず開演30分以上を見逃した者には一層絶望的に晦渋であった「絶対飛行機」以来という事か。
アングラ演劇の一角を担った佐藤信の、10数年を経ての現代批評を確認するべく、スズナリを訪れた。
パンフに唯一作品内容に関して記述された「乙巳の変」(以前は大化の改新と学校で教えた)の説明。この史実の劇化でないことは容易に推測され、なおかつ「この史実でなければならない」理由も無さそうで、以前の「絶対・・」に漂っていた抽象の度数からして、これはこの芝居の「現代」(から類推される近未来の雰囲気)と「過去」をつなぐラインを形成するために持ち出したに過ぎないようにも見えた。
この古の物語を朗誦するグループと、近未来のリアル芝居グループがあって、時折朗誦グループが「乙巳の変」の一節を語る。
ただし近未来グループの芝居も抽象度が高く、「部屋」が何かの象徴になっていたり、記憶喪失らしい男(服部吉次)が彼を取り巻く人間から何を掴み取るかは自由なので(何を選ぼうと成立するので)、さまざまな着想を描きこむキャンバスがそこに設えられた格好だ。そして瑣末だったり遠大だったりするやり取りの中に、佐藤信が仕込んだ「問い」が、時間や世界や人間についての問いが、ひょこと顔を出す。佐藤氏は思考の結論を書いてはおらず、確定したストーリーも無い(自分が読み取れなかった可能性はあるが・・もっともその場合は戯曲に理由がありそう)。どこまでも抽象画なのだ。
もっとも、私は面白く観た。因果律を疑い、忘却を評価し、(因果=物語を語る演劇でなく)舞踊に人間の生のあり方への接近をみる、といった知的な「揺さぶり」は、現代の病理への処方として、急務であるのかも知れない・・。そこから佐藤氏がこの芝居を打ち出していると推測することはできた。
・・とは思いつつ、それらの含意を「負」としてでなく「正」の叙述に転換するなら、「メッセージ」になる。人は芝居からそれを得ようとし、作者がそれを与えたいという双方合意があるなら、より分かり易く伝えてよいのではないか・・そんな思いを持つのも当然だろう。
しかし、言葉の抽象レベルの「遊び」に見合う演出が施されていたのも確かで、やはりこの芝居の形は全体で一体のものだ。
やはり近未来劇?と「乙巳の変」との重なりの薄さが、ネックであるという事になるか・・・
役者が良かった・・・服部氏を見にいったようなものでもあるが、皆一段高いステージでの演技が要求されている。ただ私の観た回では役者がうまくない噛み方をした箇所が二三あり、台詞が身体化してない証左に見えてしまった。観劇中は興醒め感を振り払ったが。
まあ挙げれば諸々、減点要素はあったものの、なぜか気持ちよく会場を出たのは、佐藤氏の現在の「現代批評」を覗き見、その輪郭だけはお土産に持たされた気持ちからだろうか。
記憶喪失とはある面では因果や意味(しがらみとも言う)からの救済であり、一方現代は記憶喪失の世紀である、との警句とも解せる。
・・汲み取った(つもりになった)のはそんな所。

悪童日記
サファリ・P
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/03/25 (土) ~ 2017/03/29 (水)公演終了
満足度★★★★
戯曲も書いてるアゴタ・クリストフ原作の世界的な話題作は90年代前半だったか・・二人の男の子(兄弟)が親戚の家であくどい所業をはたらく話、と憶えていた。二人は双子だった。親戚の家は一人暮らしのおばあさんの家だった。おばあさんは温和な人でなく激烈な人だった。二人は人の生殺という領域に手を延ばしていた・・等々のストーリーの断片、そして原作の持つ雰囲気を徐々に思い出してきた。
その意味でこの60分のパフォーマンスは、原作を尊重し、原作の魅力を具現しようとしたもので、「悪童日記」のタイトルに惹かれてやってきた人間の期待を裏切らず、しかも身体を酷使して全体の美や雰囲気(狂気など)を形作ってみせた極めてクォリティの高い「芝居」だった。
5名のパフォーマーの内俳優が二人、他は舞踊系のようだったが、皆が発語に優れ、身体性にも優れており、判別がつかない。
小さな双子の男の子と、自分の娘が自分に預けていった二人の孫を「あのあばずれの子が!」と罵る祖母の関係。戦争がもたらす社会と人間の歪みが二人の子供の中に悪魔を住まわしめたという、たしかこの物語で描かれる子供の所業を正当化する逃げ道があるが、むしろ二人の大人を出し抜く所業のほうに悪魔的な快哉を上げたくなる。一方「芝居」のほうでは終盤に哲学的な世界に入り、粛然とした。原作ではどうだったか・・

夏の夜の夢
青年団リンク・RoMT
サンモールスタジオ(東京都)
2017/03/10 (金) ~ 2017/03/20 (月)公演終了
満足度★★★★
印象的だった前回の「十二夜」を朧ろに思い起しつつ、期待しつつ。これまた、新鮮な「夏の夜の夢」であった。
四角い石板の上に一本の樹という簡素な装置、入場すると仄かな赤色灯がそこここに吊られ、客席上にも。登退場は下手手前と、客席上手側の通路を通って背後中央の会場入口で、退場しながらの(またその逆の)科白と芝居がたっぷりやれる。衣裳は現代のものを独特にコーディネート、人物は皆端麗。
発語が独特である。「十二夜」で驚かされた、戯曲を変えず現代の日常感覚での発語に落し込んだ流れるような台詞回しが今回も健在、各場面は剥きたての果物みたく新鮮で飽きない。しかも物語を壊していない、どころか蘇らせている。
役者に大きな負荷を課してもいるが即ち役を楽しむ演技に通じ、俳優の魅力が香っている。ガッツリ最後のシーンまで演じきり、静かな大団円に終る。
恋騒動の男女二組の一人ライサンダーを美形の(男性的な訳でない)女性が演じ、相思相愛の様子が女性同士に見える事もある。親に反対される場面は現代のそのシチュエーションに見えて面白い。場面や役に施された趣向を吟味し出すと切りがないが、ただこの舞台全体をどう受け止めるか、までは思いが到らない。「現代」が舞台に「寄与」している、が、作品を現代に引きずり出す、までではない。その意志を私はみたいと潜在的に願っているのかも。(結論に至らず。)

身毒丸
演劇実験室◎万有引力
世田谷パブリックシアター(東京都)
2017/03/16 (木) ~ 2017/03/19 (日)公演終了
満足度★★★★★
寺山修司作、37年ぶりの再演という。演出のJ.A.シーザー曰く「最後の公演だろう」とは今回僅か5ステージなのに淋しい限り。そんな事とは露知らず、以前映像で見た蜷川版「身毒丸」から(目にした蜷川舞台(5本程度だが)の中でも印象深かった)作品世界に惹かれて、また寺山・天井桟敷直系の万有引力の舞台装置も拝みたく、三階立見席を購入。蜷川演出版に及ぶや否や・・などという危ぶみなど吹飛び、不見識を恥じる暇すらなく魅入った。
副題は「説教節の主題による見世物オペラ」。音楽(生演奏)の存在は毎度大きいながら、今回は桁違いだ。世田谷パブリックの高さを今回も(「奴婢君」同様)使った壮観な舞台装置を峻険な山とすると、中腹に一列並ぶボイス(バリトン・ソプラノ)7人、傾斜の残るその下の下手にドラム、その下は広く、上手が鍵盤エリア、下手が打楽器(シーザー)とベースが陣取り、さらに舞台面にせり出した裾野には上手に二十五弦筝、下手に琵琶・謡。どのパートの音もクリアで存在感がある。
そして楽曲が提示するリズム上に、主に平場で展開する「しんとく・継母」の物語に直接関わらない有象無象が「譜面」に従うように移動したり仕事をする。ステージ最も手前の左右に立つ赤いべべの操り人形にいたっては開始から終演まで、人形の動きをやり続けている。黒子要員の男たちを筆頭にコロス的な存在総勢が全て機械仕掛けにも見え、迫力ある楽曲ともども、怪しい世界観を確信的に顕現させた恐るべき見世物であった。
一昨年のパルコによる『レミング』(松本雄吉演出)には圧倒されたが、天井桟敷はどうやったのか・・その問いに間接的に答えたかのような(私の類推に過ぎないが)圧巻の2時間。
少年から青年となるしんとくの継母(撫子)への眼差しを叙述した幻想譚ではなく、撫子の側を一人称として描く部分もあり、整然とした解釈を拒んでいる。代わりに得体の知れない「力」「熱」様のものが、ビリビリと流れている。

いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した
ロロ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/03/04 (土) ~ 2017/03/13 (月)公演終了
満足度★★★★
久々のロロ(アゴラの大吾君以来)、いつ高シリーズも初。高校演劇仕様で高校の演劇をやる。準備10分+本編1時間。恋バナ・学園モノなら万人共通のあるあるの宝庫だが、盛り付けは程よく、詰め込まずちょっといい感じな時間であった。
ただベンチの裏側に書かれた短歌を夕暮れどき、覗き込んでは読めないだろう、携帯のライトを照らすとか、最初みたくひっくり返すとか。
何だかわかんないけど夕日に向かって叫びたい身体の発熱のやり場に困って短歌を詠みまくる、聞えてきたバンド練習の伴奏に合わせて歌っちゃう・・閉じ繰りとして私にはベタ過ぎると思えたのだが、終盤、気を張ってる感じの失恋女子がふと見せた背中に、電流が走ったかのような半端ない寂寥感、この凝縮の一瞬に免じて合格☆ 拍手を惜しまず。

親愛ならざる人へ
劇団鹿殺し
座・高円寺1(東京都)
2017/03/02 (木) ~ 2017/03/12 (日)公演終了
満足度★★★★
ほぼ2時間。珍しく2度観劇した。鹿 at 高円寺は『山犬』(だったか)以来の2作目。イベントらしいのが鹿番外編的な公演には合うんでねが・・と今日は思ったさァ。

白い花を隠す
Pカンパニー
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2017/02/28 (火) ~ 2017/03/05 (日)公演終了
満足度★★★★
石原燃は女性劇作家だった。昨秋坂手氏の芝居のトークに呼ばれて登壇、永井愛が新作(『ザ・空気』)で扱おうとしているNHK番組改編問題に、折りしも彼女は取り組んでいるとの話に色めき、予定をやりくりして、少し迷ったが観劇。見て正解だった。呆気にとられた。勝手な思い込みでもう少し拙い戯曲を想像していた(無意識に永井氏の作と比べようとしていたのだろう)。
永井のフィクションと異なり事実に相当に踏み込んだ本で、問題の照射角度は硬軟自在、基本「人間」の素朴な感性から「現象」を問い、自分が何にとらわれているかを問う視点も加味し、「私たちに何ができるのか」を示唆する結語まで書き切った驚きの完成度、と感じさせる舞台だった。
幾つか前のPカンパニー公演でも石原氏の書下ろしを上演、反応の良い口コミが多々あったのを思い出した。もう一つ、嶽本あゆみ作の上演も思い出す。2時間を超える長編だったが、微妙な難しい部分もありそうな戯曲をPカンパニーは「自分たちのレパ」として舞台に上げていた、という言い方も変だが、役者力を感じた。今回も同様かも知れない。
テレビ番組制作を職人として作るディレクターのキャラや、「戦犯法廷」を見た思いを熱く語る新人ディレクターのキャラが、物事を普通な健全な見方で見る者である事を、信じさせるのに成功し、掘れるだけの深さが掘られた役作りが為されていたのだな、と後々思われてきた。
永井氏のに通じる特徴として、圧力に屈したり忖度したり自粛したり、空気に抗えなかったりする事って、そもそも「何なんだろうね」・・という素朴な疑問への一つの答えを答えようとした事、が言える。ミクロな家族の物語が、番組制作の現場の問題と並び、十分に問うに値するエピソードとして、立ち上がってくる。現実には、こうした問題は矮小なものとして葬られがちな所、本質的には対立構図にある姉妹の、姉の存在感が要だっただろうか。一方の妹が、夫に最終的に「通告」を突きつけられたのだとしたら(解釈の幅を与える部分だが)、あまりに哀れで夫も(正義をまとったように見えるが)身勝手ではないか・・。このあたりの処理は微妙で、妻にも希望の種を残して終わって欲しかったが、既にその種はある、とも解釈できなくない。(続く・・・か?)

出口なし/芝居
双身機関
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/02/25 (土) ~ 2017/02/27 (月)公演終了
満足度★★★★
動きの無い演出であったからだろう、寝てしまった。「起きよう」とは努めたが・・。
ビジュアル的には、えも言われぬ奇怪さに飲まこまれた。「出口なし」は一昨年d倉庫で観ていたが全く異なる演出(と思う)。
少しの暗転の後、同じ装置(衣裳?)で「芝居」が上演さる。こちらは戯曲も知らず、ほぼほぼ眠っていたため演目が変わったこと自体に気付かず、周りの拍手が起きたので「さあ次は『芝居』だ」と思ったら終わっていた。不覚。

月の姉妹
(旧)下北澤姉妹社
シアター711(東京都)
2017/02/22 (水) ~ 2017/02/26 (日)公演終了
満足度★★★★
まず本業の俳優で度肝を抜かれた『BUG』(燐光群)、そして『ゴルゴン』(ガジラ)。昨年は青年座の『シンクロナイズド・ウォーキング』で演出を執り、音楽劇に生まれ変わらせた西山水木が、今度は自作を演出、やはり音楽劇であったが不思議な味わいのある芝居に仕上がった。随所にきらめきと工夫があったが、戯曲はもっと練られる余地があった。

コドモ発射プロジェクト「なむはむだはむ」
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2017/02/18 (土) ~ 2017/03/12 (日)公演終了
満足度★★★★★
特記すべき演劇的試みであり、成功事例である。冒頭の岩井氏の前説(毎度の楽しい、「飴のチリチリ」も有り)から、区切りなく会場に語りかけ、キーワードをゲットして「物語」を進めて行く。事前に仕込んだのでは恐らくないだろう。子供たちのワークショップで集めた「物語」に取り組み形にした(仕込んだ)出し物も、自由で破天荒で素晴らしかったが、ライブ性が何より「驚きの時間」=本当の遊びの時間にしていた。森山氏はダンスを随所に、前野氏は楽器と唄を。
遊びの最後は三人が静けさの中で石ころを転がすように言葉を、交わすのでなくそれぞれに発し、何となく「また明日」な気分になった頃(だと思う)、さよならの代わりに終演の挨拶をボソッと岩井氏。
客席に混じる子どもたちと一緒に遊んだ気分をほくほくと、持ち帰った。時間が過ぎ行く切ない感情を思い出しつつ。

食いしん坊万歳!
文学座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2017/02/18 (土) ~ 2017/02/27 (月)公演終了
満足度★★★★
アトリエ以外での文学座公演を初観劇。広い新宿サザン、と思いきや装置の案配なのか小劇場規模の公演にも見えなくない。もっとも最前列からでは視界も中央に寄る。ただ、演技エリアである日本家屋の内とその周囲の両脇は、袖との間をさり気なくパネルで埋めてある。主な登退場の一つである手前両袖へ、演技エリアから離れる移動時間が僅かに残念。
ナレーションなど装置(具象)を離れた舞台手前の演技は元気モードだがそれ以外は家屋の具象に縛られる。要は、小さな空間が似合う質感の芝居に思えた。
もっとも間近で見ての印象は「大きな芝居」。主役(子規)の母役は新派混じりの「型」芝居だし皆大声を持ち味の喜劇色に寄っている。そこは、大劇場を想定した作りなのだな、と理解できたが、舞台から離れた客席で観たらどんなだったろう。
アトリエでの息の抜けない密なリアル演技が成立させた舞台をみて、文学座という集団を見直した(漠然とあった先入観を払拭した)自分には、これも発見であった。
正岡子規という人物の短歌もよく知らない者には入門編になったが、戯曲化のポイントは既に病苦に苛まれていた子規の身体的な状態と、文芸運動にそそぐバイタリティの両面(陰と陽)を如何に渾然と(どちらにも偏らず)描くかにあったとみえた。
そう考えると、喜劇風の筆致は必然だったと言えるだろうか。

春の為の習作
こまばアゴラ演劇学校“無隣館”
アトリエ春風舎(東京都)
2017/02/23 (木) ~ 2017/02/26 (日)公演終了
満足度★★★
無隣館という奇妙な館の実態は謎のベールに包まれている・・なんて事もないだろうが、俳優部は若く理知的でセンシティブ、演出部は実績重視、という勝手な印象。若手企画の公演は演出部所属の者が立ちあげるもので、己の路線追究の姿勢で実験的な印象があり、苦手意識もあったが、この所意外に「みられる」「みごたえある」舞台に遭遇した事でそれなりの才能が棲む館と認識を改めた。
三浦企画は太宰作品(「晩年」)が題材。原作の面白さと作り手の工夫の面白さの境目が微妙に不明(取り上げた作品を読んでいないので)だったが、俳優は躍動的で「見せ方」は面白く作られていると感じた。
太宰の作品に対応した幾つかの場面と繋ぎ方、テンポ感が快いが、全体に明確な筋立ては無いので(無論構成は考えただろうけれど)、ラストは淡白な処理が似つかわしく思われたが、台詞の間隔がたっぷり空き(静寂が基調)、照明は落ち、リタルダンドで終幕を知らせるアプローチだった。重厚感を出そうとしたかも、だが、台詞と台詞の長い間は、ただの間に感じられた。太宰のテキストは所詮語り切れず、(絶筆を最後に置いたらしき様子だが、その文章自体にさほど意味は無いのではないか)、ああまで引っ張らず、あっさりと終わりたかったかと。
感想としては太宰治の「読んでみて思い出す面白さ」を、久々に思い出した気分、それ以上でないのはやや淋しい。
春風舎の客席を斜めに置いて台形となった舞台空間の、風通しの良さは悪くない。若い俳優が殆ど目の前で堂々と、柔軟に、時に鋭く言語を発するのは(珍しい演出でもないが、何故か)新鮮だった。
(小編なので☆1つお預け)

見よ、飛行機の高く飛べるを
劇団青年座
練馬文化センター(東京都)
2017/02/28 (火) ~ 2017/03/01 (水)公演終了
満足度★★★★
2014年に行なった再演の地方ツアー(神奈川、北海道)、東京にもお立ち寄りが一般対象で2ステージ。1日目の夜公演は受付体制悪く15分押しでの開演。
この戯曲は印象的だった(非の打ち所がない)ため、かなり期待を脹らませてしまったのだが、まず上々であった。青年座の新劇風演技が前半では「人物判別」の邪魔をしたものの、大きな舞台での表現としては勘所を押さえ、「つらい現実」(文字にすれば平板だが)が、リアルに押し寄せて来る怖さ、悔しさ、切なさ、哀しさがくっきりと描かれ、彼女らの内心に共感し思わず涙であった。
「ザ・空気」も「歌わせたい男たち」も、端からみれば滑稽だがその状況の渦中にあって右往左往し、四苦八苦する、彼らの中での必然性が、否応にも理解させられる。
自分自身にしてからがこの時代という状況の中で右往左往している存在であって、それはそれは哀しい光景なのだろう、とは思いたくないから思わないのだが、多分そうであるな。そう思った方が良いのだ。あまりに赤裸々に、最後には己の本当を話さないではいない彼女らの潔さの眩しさ、美しさが、そのままメッセージである作品。リアルさに裏打ちされた分、女学生の苦悩しながらの、既に敗北を実感しながらの行動さえ、自分らはやれてるの? そうマジに問うてしまう。ドラマの中の人物は私の実感を伴った記憶に刻まれてしまった訳である。

ピーピング・トム『ファーザー』
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2017/02/27 (月) ~ 2017/03/01 (水)公演終了
満足度★★★★★
以前映像で観た演劇的なダンス(確か「フォーレント」)の、物語性の深さ(つげ義春的、最近の演劇で言えばペニノ的)に惹かれて、初めて実物を観た。舞踊の身体の切れ、動きのバリエーションと物語性に、圧倒される。その部分を担っていた若い中国女性と韓国男性(母国語で喋るので判る)が狂気じみて凄みがある。また欧州顔の女性二人(一人はポルトガル語らしき言語)、ボーイっぽい役の白人男性が若手。ところが鋭利な踊り手以外にも、年齢層の高い男女が相当数、何かと登場して賑やかしている。老人ホームを舞台にした一夜の(あるいは数年に亘る)物語であった。
中心的な老人役は白人の二人で、もしや舞踊界の重鎮でもあるか。一人は巨漢、一人は顔が埋もれそうな白髪。「その他」の人達は実際の年齢はさほどでなさそうだがその特徴だ。ほぼアジア系の顔が揃っている。この人口構成は明白に意図的だと解釈できるが、舞台の飄然として思わせ振りな相貌に紛れて「違和感」の一つに収まり、ただ彼らがそこにいる事実が何かを物語るようで、ないようで。
だがこの「意図」らしきものは効いていて、さりげなくふいに訪れたラストも受け入れさせる。
そしてカーテンコールに並んだ晴れやかな顔たちを見て漸く、直前まで異界にどれだけ深く嵌まり込んでいたかに気付く。
最終場面では老人ホームの酷な現実があからさまに、静寂の中に呈示されるが、それまでの喧騒が倒置法のように私の中に復活し、酷薄な現実を乗り越えるべくいつしか補っている。自身がそのような「人間的」心の所作を行なった事によるのか、我に返れば、視覚が認識しているものとは違う、不思議な幸福感があった。
衝撃のパフォーマンスだ。
(殆んど何も説明していないに等しいが・・)