
ドグラ・マグラ
演劇企画集団THE・ガジラ
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2017/06/04 (日) ~ 2017/06/12 (月)公演終了
満足度★★★★
二十数年経って、当時見逃した映画がDVD化されてTSUTAYAの棚に並ぶ。『ドグラマグラ』を手に取ったのはつい昨年のこと。松本俊夫監督特集でよく掛っていた『修羅』『薔薇の葬列』も一昨年、大森でようやくお目見え。生きてる間に観られた幸運をかみしめた。
さて、夢野久作の原作は、文庫本が長らく本棚に並んでいるが開いていない部類。従って本作の印象といえば映画の印象、即ち医師正木役・桂枝雀の怪演であった。
今回の舞台をみて「原作」への関心が首をもたげてきた。怪奇なミステリー作品には怪奇な人物像が似合う。「私」役はその強烈さに翻弄され、受動的であやふやなまま事態を観る者として存在し、最後になって中心的な謎に迫る構成が可能になる。それが今回の舞台は全般に挑戦的な演出が施され、熟練とは言えない俳優たちがこの趣向と素手で格闘しているという印象である。終盤に至って「鐘下節」が炸裂するが、これが大胆な脚色なのか原作を踏まえた台詞なのか・・原作を知りたく思った所以。
隅に向かって「闇」が深まる地下劇場space雑遊の利点が照明ともども発揮され、装置・音響への注力も加減なし。

雨と猫といくつかの嘘
青☆組
アトリエ春風舎(東京都)
2017/05/23 (火) ~ 2017/06/04 (日)公演終了
満足度★★★★
B「雨と猫と・・」華やぎの香り、猫組ver
・・Cプログラム「時計屋の恋」のみ観劇出来ず、割と本命だったので残念。Dは短編二本の朗読と劇中歌ライヴだ。意外やライヴはうま味有り。出し物の発表という体裁だが、コーラスなお揃い衣裳とナンチャッテ振付と吉田小夏女史のMCで臨場感が花開く。もっともD単体ではどうかという所。A・Bあっての企画だ。
そんなわけで、うつらうつらのA観劇から1週間後、かぶりつきの(寝る間のない)B観劇。
再演に掛けるに相応しい、秀作と言える作品。手のひら返しの評だからネタバレ枠の穴蔵へ。

まつろわぬ民2017
風煉ダンス
座・高円寺1(東京都)
2017/05/26 (金) ~ 2017/06/04 (日)公演終了
満足度★★★★★
せんがわ劇場での初演が、風錬ダンスを見た最初(もしや渋さ知らズのライブで目にしてはいたかも?)。粗さはあったがエネルギッシュに舞台を本気で作りこんだ土っぽい、ライブっぽさもある芝居であった。
座高円寺は広い。その前の野外劇がこの劇団の本領を出す場所だとすれば、この劇場はどうだろうか・・当初は再演を観る予定はなかったが急遽時間ができたので当日券を求めて観た。
舞台の板の上を、遠慮なく走ったり跳んで着地をし、そこが土の上の想定であろうがドン、ドタンと板の音を鳴らす。だがそんな不協和は屁でもない。巨大な作りこみ美術にとってはむしろせんがわ劇場があまりに狭かったと再認識する。再演に加わった伊藤ヨタロウが冒頭から登場して自らの提供した楽曲を歌い、一気に引き込む。演奏はカミ手手前に三人、複数の楽器を分担し、分厚い音を聴かせ、音楽ライブの要素が次第に侵食し始める。主役の女性がそもそも歌い手らしい。
この反骨、理屈抜きの反骨は最後に来てその場所を得、物語を締めくくる。圧倒され、鳥肌が立つ。広くて高い座高円寺1の空間(劇場建造物)に負けている(双方和解の上?)舞台は多々あるが、この種の芝居が空間を埋めるばかりでなく外へ流れ出る熱度を持ったことに、ただ驚いた。
ゴミ屋敷よ永遠なれ。

雨と猫といくつかの嘘
青☆組
アトリエ春風舎(東京都)
2017/05/23 (火) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

天の敵
イキウメ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2017/05/16 (火) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

爪の灯
演劇集団円
シアターX(東京都)
2017/05/19 (金) ~ 2017/05/28 (日)公演終了
満足度★★★★
角ひろみ作品の舞台を初観劇。新人戯曲賞受賞いらい頭の片隅にあったが、その公開審査で最終対決となった清水弥生作「ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド」を自分が推していただけに少々複雑な思いがあった。その印象を思い出すと・・鴨長明を取り上げていた。作者自身の思いよりは企画のオファーに応えた感が漂うが、作風なのかも知れぬ、と判断保留。言葉使いに静謐さがあり有能な書き手である事は確かなようだが、巧く伏せて巧く謎解きを施す、手法に目が行く。その手法は、作者の地元中国地方を襲った豪雨による災害があった年(だったと記憶する)、川の流れをその連想に導きつつ鴨長明にも重ねる「点線で導くような」叙述で発揮されていた。作者が何をどれ程取材したかは判らないが、その苦労(があったとして)を感じさせない作品で、受賞は筆力への評価に着地したとの印象だった。
その戯曲の印象が思い出される観劇だった。撒いた種を最終局面で早業で刈り取る筆には唸ったが、それまで不分明に置かれる時間は私には長く、座りの悪さは否めない。
もう一点は、(受賞作同様?)高度な舞台処理を求める戯曲だったのだろう、役者の「言い方」「処し方」が明らかに違うと思える箇所があり、もどかしい。さらりと流されるがその台詞のはまらなさが、「分からなさ」を広げていたと感じる。役者全員とは言わないが、戯曲の世界との乖離が、ラスト手前あたり、淋しかった感じがある。
ある種の演技、「相手からもらえ」という言葉で導かれる演技が、必ずしも有効でない例では?と思い巡らせながらそこを見ていたが、正解はテキストを発音する人形としてまず存在する事が第一、その上に「関係」が探られていく、という順序ではないか。適当だがそんな印象はある。
円の舞台は数えればまだ二度目。円の神髄はここに‼ という発見を、いつか。

エンドルフィン
モノモース
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/05/24 (水) ~ 2017/05/29 (月)公演終了

バージン・ブルース
うさぎストライプ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/05/04 (木) ~ 2017/05/21 (日)公演終了

「風のほこり」「紙芝居」
新宿梁山泊
芝居砦・満天星(東京都)
2017/04/26 (水) ~ 2017/05/07 (日)公演終了
満足度★★★★
ふいに出来た時間で、久々のアトリエ観劇。「風のほこり」のみの観劇だったが、詩情が流れる荒唐無稽な世界、というか、即物的だったり無機質なものに詩的なイメージを当て込んで世界を立ち上げる唐十郎の世界が、今回なりのオリジナルな形で広がっていた。
唐ゼミが上演した頃(未見)、近年賞を取った作品だと知り、よく読めば梁山泊で初演とある。主役渡会久美子への当て書きで今回も度会が演じた。フォックの壊れたスカートのめくれから臀部を覗かせる奇妙な演出(戯曲)が、分かりやすい特徴。最初は大ミスではないかとやきもきした。というのも臀部を見せる必然性がなく、台詞で説明が施されるのは暫く後になってからである。唐十郎が梁山泊に書き下ろしたという後期作品だから、そのあたりを読めずに書いてしまったものかな・・あるいは悪戯心のなせる業か・・など詮索をしてしまう。
この作品のモデルは唐十郎の母であり、彼女は一度、当時あった劇団に作品を書いて送った事があるのだという。義眼であった母にまつわる幻想的な物語が舞台だったが、事実としての母のエピソードのほうに関心が向く。唐にとっての特別な作品、従って他の作風と少し違う・・という具合であっても欲しいところが、他の作品と同列に並べて不自然がない、つまりさほど特別でない作品である事に、その経緯を読んだ後で少し物足らなさを思った。でも、これが唐十郎である・・という事なのだろう。
初演時の配役に懐かしい顔があった。本作とは関係ないが、鄭義信作品をもう一度梁山泊でやってほしい。

鰤がどーん!
渡辺源四郎商店
ザ・スズナリ(東京都)
2017/05/03 (水) ~ 2017/05/07 (日)公演終了
満足度★★★★
年末公演に続き、少数精鋭?旅費が浮く、セットも簡素な(それは毎度の事だしポリシーかも)舞台。観客の想像に委ねられるのは演劇の利点だし、観客との共同作業で成立させるのが芝居だが、長屋の花見のお酒(お茶)のやせ我慢の要素もなくはない。想像を逞しく、研ぎ澄ませたいのだが・・。
恐らく私の弱点だが、視覚的な無駄(美的要素)がさほど追求されないせいか、なべ源の芝居は思い出しづらい。場面場面の景色を都度都度、脳内で想像して補う観劇である。後半になって前半描いた図を修正したり、といった事もある。よ~く思い出せば記憶にあるのだが。
今回は東日本大震災(津波被害)、高校演劇の顧問、浦島太郎の亀の三つのキーワードで作劇がなされていた。趣深い場面はあったが、私には薄味であった。扱う中身は濃い。だが他のなべ源作品の要素が組み込まれていて、その分薄く感じてしまった。
津波は「もしイタ」に重なり、劇中劇としても(他にも多く引用したらしい高校演劇演目の一つとして)感動の場面が再現され、思わずこみ上げるものがあったが、それは「もしイタ」の場面を思い出したからである。また、毎回入選せずに終わる大会に向けた演劇部の毎年の活動サイクルが、少しずつ省略されながら何度も何度も続くという場面がある。これは「原子力ロボむつ」を彷彿とさせる(むつのほうは年代が1000年ずつ飛ぶというものだが演劇的手法として似ており、演劇部のほうは所作を少しずつ減らして「同じ事の繰り返し」である事を「省略」によって表現する。だがこの減らし方が緩慢で長すぎ、上演時間を稼いでいるとさえ感じる)。
繰り返すこととは、一人の人生の営みでもあり、四季の循環でもあり、世代の移り変わりでもあり、無常観を漂わせる。自然そのものの営みの中に、津波というものも含まれていて、人生における「繰り返し」は広い意味での自然・宇宙に承認された「あり方」である・・といった哲学に導かれる気もするが、ドラマは「変化」の余地を観客に探させるものだ。だからその逆を表現するなら「そうではない」と知らせる何らかのインパクトある要素がほしく、やはり変化は訪れるものであるなら、どのような形で、それは訪れるものだと語りたいのか、もう少し舌足らずに思えた。
というか、焦点はそこになかったのかも・・。
間違いないと思われたのは、風化して行く災害の記憶を、如何にして風化させず「今」という時に立ち上がらせるのか、そしてそうすべき必然とは何か・・その問いに応えようとする仕事であった事。
新たな発想を盛り込んでくる、なべ源の次が楽しみ。

ズルい奴ほどよく吠える
雀組ホエールズ
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2017/05/17 (水) ~ 2017/05/28 (日)公演終了
満足度★★★★
久々に新規劇団を開拓。シアターグリーン界隈で馴染みらしかった(そして見なくなった=従って観劇に至らなかった)幾つかの劇団の名を思い出したりしながら、観劇日を待つ。
当日は後部からの俯瞰で、劇場の舞台の体裁や美術の「作り物感」に、はじめは抵抗(入り込めなさ)を覚えたが、即興の感さえあるスピーディなくっ喋りを挟みながらいつしかストーリーに引き込む。伏線が敷かれた後、軽妙なテイストらしからぬ「事件」が起こり、らしからぬシリアステイストで真相が紐解かれていく。(評判の良い)ラストの謎解きに関する評価はおくが、現実にあり得る「悪」を悪としてストーリー上で露見させ、きっちりと鉄槌を食らわす場面が書かれていた事には、痛快とはこの事を言うものであったと、妙に懐かしさに見舞われた。
所狭い舞台をうまくさばいていた。

60'sエレジー
劇団チョコレートケーキ
サンモールスタジオ(東京都)
2017/05/03 (水) ~ 2017/05/21 (日)公演終了
満足度★★★★
劇団チョコレート的には、歴史の検証。その対象が高度経済成長期の日本というわけである。戦犯裁判や皇室やセクトといった特殊な状況を描きながら、その状況にあっての「日常」をしっかり描出できる劇団にすれば、昭和の下町の廃れ行く蚊帳工場が舞台であっても何ら遜色ない。人情あふるるある意味典型的なお話が、むしろ水を得たとばかり、俳優の躍動を引き出していた。
蚊帳作りの具体的な手法や用語が出てこない事に中盤気づくが、どんなオチに繋ぐのかという関心がよぎる程度、ドラマ的な濃さをそぐ事なくラストまで畳み掛けられた。
見る者が懐古的にならないと言うと嘘になるが、人情噺を構成する素材でなく描く対象として「時代性」、歴史に対している。例えば近所の紙芝居屋は昼間っから将棋を打ちに工場へ来る。打つ手を考える様は時間を刻みながら働く現代の勤め人にはない、計測しない事で得られる先の長い時間というものがある。
もっとも芝居を牽引していたのはリアリズムのみにあらず、江戸落語の人情長屋の世界を若干トレース気味。工場を仕切る長男(西尾)の好演は大工の棟梁、その妻は夫に引けをとらない人情の厚いおかみさん。女性は一人だから成立したキャラでもあろうか。空襲でやられた足を引きずっている設定が憎い。三代目になる社長の兄を手伝っている弟(岡本)がまた好演。これら昭和人情伝の登場人物は、芝居の冒頭の現代に亡くなった老人が遺書を通して語る劇中劇の人物である。主人公ももちろん、本編である回想シーンに最も若い人物として登場するが、集団就職組で上京した金の卵であるから血の繋がりもない。他人でしかない彼に対し、夫婦が高校通学の援助を買って出るあたりから、長い「最も良き日々」が始まる。彼の述懐(声)に導かれての長い回想だが、ポイントは夫婦には子どもが居ない事を、誰の台詞を通しても、素振りでさえも、触れない事である。10年後に別れる事になるまでの、その夫婦と主人公との一見特別にみえる関係が、その時代に流れていたものの証明として主人公は述懐し、時代の風景としてこの物語が描かれているのもポイントだ。こんな天晴れな人がいた、という話ではなく、時代とそこに漂っていたなにものかを描き出そうとした。批評性のある昭和人情伝。

「シェフェレ」女主人たち
ハット企画
「劇」小劇場(東京都)
2017/05/11 (木) ~ 2017/05/21 (日)公演終了
満足度★★★★
黒テント創立メンバー服部吉次とその所縁のベテラン女優による企画、今回は本格的な舞台という事で注目、そのためステージ数が多いという事もあり、初観劇となった。演出と美術に欧州人の名があり、カーテンコールでも呼ばれて出ていた。戯曲も秀逸だが、ローマ法王との恋や信仰についての台詞など、欧州産である要素を日本人がどうクリアするか、会話主体のシュールな戯曲であれば一層難しいが、三女優はその問題を凌駕した地点にいた。
舞台は日本人離れしていながら、言動に必然性のある、しかしどこか幻想的で、クソ・リアリズムが鮮烈な、なかなかお目に掛かれない代物であった。

「蝉の詩」
劇団桟敷童子
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2017/04/25 (火) ~ 2017/05/07 (日)公演終了
満足度★★★★★
これは五星にしませう。炭坑三部作にもあった兄弟(姉妹)愛のモチーフだが、そのバリエーション(同じ轍に流れない)の書き分けに驚かされる。筑豊炭田を流れる遠賀川の船運送会社の斜陽の時期を捉えた物語で、四姉妹の次女と三女、父、三女を慕う青年四名の客演が申し分なく馴染み、良い意味で際立ち、複数のエピソードの絡まり具合といい、時折「劇」をはみ出す笑い取りといい、二次曲線的に競りあがる激情の瞬間といい、全てが絶妙な按配で「静かな屋台崩し」のラストもドラマの理に適い、完成度という言葉を使うなら、高い完成度を達成した桟敷童子の面目躍如たる、というか往年の舞台。

この丗のような夢・全
水族館劇場
新宿 花園神社 境內特設野外儛臺「黑翁のまぼろし」(東京都)
2017/04/14 (金) ~ 2017/04/23 (日)公演終了
満足度★★★★★
笑い泣き有りの路上劇(多分さすらい姉妹)を歳末の寄せ場(所謂越冬)でやってて、あれの本体は水族館劇場と言うそうだ、と耳にしたのは十何年か前。最近HPを見つけてチェックするようになり、夢の島公演、これに二の足を踏んだ所、その年に知り合った芝居好きがその公演の事であろう、心底衝撃を受けたと証言。
それで次の太子堂公演を観、年末寄せ場のさすらい姉妹(今もやっていた!!)を二年続けて観た。こちらも芝居的には一趣向だったが、本体のテント公演の何力と呼んで良いのか言葉が浮かばぬが、圧倒的なその持てる力を今回は存分に堪能した。
初の新宿公演即ち花園神社進出、なのだとか。四方に足場を組み、傾斜客席三百席。梁山泊の十八番である池も作られているが、こちらは鯉が泳いでいそうな苔むす濁った水、これに役者が飛び込む。幕間の余興芝居で釣り師が本物の(まさか作り物ではなかろうというリアルさ)巨大な錦鯉を抱えて登場するというこだわりだ。
アングラ的尺度(紅テント的尺度と言った方が良いか)に照して、往時のエネルギーに最も肉薄しているのがこの一座なのでは・・。
役者力をみせる者もいるが、モロ素人の起用率は高く、古参女優二名は名優と言うよりきわもの感を湛えた怪優の類。だが妙なる台詞に導かれ、幻想物語は進行する(宣材に書かれたあらすじが補助になるかは怪しい)。奇妙な展開に意表を突かれ通しだが、作り込まれた舞台による説明不要で言葉を封印する屋台崩しのカタルシスは「正統に」追求されており、その中心に「水」がある。
唐十郎的世界=遊戯性と革新性を互換させ得る表現は、安全圏を相対化する危うさを醸すが、これ即ちアングラであり、源流は「面白がる心」のようである。

忘れる日本人
地点
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2017/04/13 (木) ~ 2017/04/23 (日)公演終了
満足度★★★★★
KAAT公演は初地点観劇の「悪霊」、「三人姉妹」、前回の「スポーツ劇」に続き四作目だが、毎回新たな舞台構造(役者の動作や発語を制約する法則性を伴う)を作ってみせ、想定など元よりしないが無意識の想定を必ずや裏切られるのが、今や快感である。
今回は大スタから中スタに移ったが規模を縮めた訳ではなく、2スペースをぶち抜き、大スタにあるバルコニーが無い分むしろ開放感が増している。
中央に白木の舟が置かれ、周囲の空間を十分にとって紅白の紐で四角の結界を低く渡してある。
七人の俳優の衣裳が奇妙である。モンペ姿の男、着流し等、奇妙に「和」を混入し、最初は皆小さな日の丸のシールを貼ってある以外は統一感が無い。
だが地点特有の喋りの前には、衣裳の違和感など背景程度である。
と言っても今作ではテキストじたいが謎めき、不自然に区切る喋りはだいぶ抑えられていた。
忘れる日本人」のタイトルが既に挑発的だが、手脚だか触角の先を小刻みに動かしながら動くミジンコのように動きながら喋るのが、今回のスタイル。微生物並みにすぐ忘れるという皮肉なのか、殊更に強調していないが、笑える。結界あたりの透明な壁に手が触れるとバックに流れるノイズが無音になり、結界から外に出ると不可思議な音に変わり、その者は喋りをやめて脳が停滞状態になる...忘却の時間だろうか?
芝居の中盤から中央の舟に手が掛かる。これを抱えようとしたり実際に運ぶ様は、ちょうど舟が日本列島にも見えてきた頃合い、国を背負わされて右往左往する日本人を写して雄弁。
地点の役者力を目の当たりにした。

KUDAN
TOKYOハンバーグ
座・高円寺1(東京都)
2017/04/12 (水) ~ 2017/04/16 (日)公演終了
満足度★★★★
中盤まで、忍耐でみた。終わってみれば絵画的な舞台であった。部分的ストーリーが最後に符合する展開も、風景の一部としてカンバスに収めて舞台上にガン!と置いたような、虚を突かれる終幕には衝撃を受けた。

エレクトラ
りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館
世田谷パブリックシアター(東京都)
2017/04/14 (金) ~ 2017/04/23 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年見逃した『オフェリアの影の一座』に続くりゅーとぴあプロデュースによる、こたびも白石加代子出演の舞台だったが、ギリシャ悲劇(32作あるという)の世界であり、その中のアトレウス家の物語(10近くあるらしい)を再構成したとの事。アガメムノン(父)とクリュタイムネストラ(母)、その娘エレクトラ、イピゲネイア、息子オレステス。トロイア戦争。・・耳に馴染みのある名前だから、知る人には有名な話なのだろう。後で調べたものと照合すれば、母は前夫を殺した男アガメムノンとの間に生まれた、上記の子らに囲まれて暮らしていたが、子らにとってはアガメムノンこそ父であり、物語はトロイア戦争から凱旋したばかりのその父を、母と結託して殺し、王座に収まったアイギストスと同じ屋根の下に住まうエレクトラ(高畑充希)の苦吟の様から始まる。そこへ亡くなったと聞いていた弟オレステス(村上虹郎)が現われ、父母に復讐の刃を向ける作戦として自分が死を偽装した事を告げ、エレクトラと共についに敵を取る。だが命乞いするアイギストスの口から、彼らの親とその親からの血塗られた因縁を聴かされ、またクリュタイムネストラ(白石加代子)が最後に見せた母の顔を目に焼き付けてしまった二人は、実母を殺めた罪で裁かれる拘留の身にあって気が触れんばかりに苦悩する。・・時系列に進む比較的分かりやすい一幕の後、休憩を挟んで二幕に進む。ここでは一幕で登場しなかったイピゲネイア(中嶋朋子)による長い一人語りに始まり、途中オレステスらの登場はあるものの、主に「語り」に終始して芝居は終わる。イピゲネイア(エレクトラの姉=長女)がトロイア戦争に勝つためアガメムノンが神に捧げた生け贄であり、幽閉された身でひっそり生きている、という事は一幕にも台詞に一度は出てきたように思うが、これは前知識がなければ分からない。生きながらえたエレクトラを中嶋が演じているのか、と暫くみてしまった。混乱し、眠くなり、二幕は睡魔の内に終えた。
以上は3階席で観てのコメント。世田谷パブリックの3階席は、1ランク料金が下がるだけの事はあって、いまいち芝居に入り込めない事は多々ある。今回もその嫌いはあったと思う。

世界は嘘で出来ている
ONEOR8
ザ・スズナリ(東京都)
2017/04/02 (日) ~ 2017/04/09 (日)公演終了
満足度★★★★
「ゼブラ」at 雑遊以来のONEOR8、OR田村孝裕作の舞台。二、三度だけ目にした田村作品の印象は、笑わせてwel-made、少量の毒も終演時には100%解毒。
しかし今回はタイトルから、「毒」有り覚悟せよとの挑戦状? 受けて立つべし・・と観劇に至る(会場がスズナリというのも大きかった)。
甲本雅裕(どこかで見た俳優だと後部座席から見たが終演後その通りだったと確認)、あとカラテカ・矢部(こちらは一目瞭然、確か以前別の舞台でも見た)。
客席に流れる空気が少し違うのは、著名人を見に来てるモードが(大型であるかどうかはこの場合あまり関係ない)じわっとある・・これが嫌なんだと今回改めて自覚したがそれはともかく。・・ONEOR8は著名俳優を使うとはいえ、本来の面構えは普通の劇団・・・つまり舞台を軸足に置いた「作品勝負」の演劇活動に勤しむ風貌だ、と勝手に理解している。
従って断りもなく「普通に」批評対象として扱うが、さて、どんな出来だったか・・。
舞台の平均値的な「出来」はともかく、メジャー・映像系の俳優で作られた舞台の持つ弱点が、どうにも見えて仕方がなかった、そういう舞台であった、という事に残念ながらなる。出来はそこそこ、いやもっと、かなり良い「はず」なのだが・・何故そう感じるのか・・・。(また後日)

ノドの楽園
studio salt
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2017/04/06 (木) ~ 2017/04/09 (日)公演終了
満足度★★★★
ここ4、5年の数作しか知らないが、saltにとって恐らく満を持してのKAAT公演はsaltらしさ(小世界なドラマ、一見淡白)を保ちながらも、膜の向こうの世界へと浸潤して行きそうな、何かが産み落とされそうな、リアルには儚く消えそうだがそれでも何かを残しそうな、そんな感触を残す舞台だった。
各登場人物の「らしさ」に、愛着が持てた。やはり断片的で側面的な描写ではあるが、人が集まって形成された「世界」(芝居上の)が見えた。
「原発事故以後のドラマ」のカテゴリー(というものがあるとすれば)の中でも独特な設定だった。だが奇妙なこの状況が最後には馴染んでおり、かつ、この設定でなければ際立たない、美しい言葉が最後に響いていた。降り続ける灰を雪と見まごう風景のごまかしは人間の素朴な「生きる」願望を切なく、力づよく照らす。
・・とある公園。70年代あたりに作られたような、在りげな造作物が配置されたリアルな美術がまず目を惹く。中央の大きなそれはピラミッド型に左右から階段が中央に二段階延びて、中央上部には昔風のUFOからピコンと飛び出たようなアンテナ様のバーが突き出る。その下は人が通れる。そこから舞台側には石だかコンクリ製のベンチが幾つか配されており、上手手前のベンチに寝るホームレスの他、階段の上や途中にそれぞれ尻を落ち着けている者二人。この場所で幾組もの人物らの小さなやり取り(ドラマのさわり)が演じられ、暗転、時間経過の後、打って変わった後半に入るという仕掛けだ。
「みなとみらい原発の事故」後であるという全体状況の飛躍、そして、各人物のドラマの展開の飛躍。それらがこの上演時間内に、有機的に繋がったリアルな関係図として見えて来るには、役者の力量も要っただろう。
作家の意を汲むstudio saltのマスター=後半の中心人物となる役を演じた浅井氏が芝居の血液となり、同劇団員東氏、その妻を演じた客演の松岡氏の突き抜け具合、他の役者の「らしさ」もそれぞれにこの劇世界に貢献していた。
行間の広い、ややもすれば危うく解け落ちそうなsaltの虚構世界にあって、KAAT大スタジオを広く感じさせず「群像」を見出させてくれた事が嬉しく、つかんだ雪の結晶は会場出口付近ではもう蒸発していたが、記憶の欠片を大事にかき集めながら歩いた帰り道であったぞな。