
奇行遊戯
TRASHMASTERS
上野ストアハウス(東京都)
2018/06/20 (水) ~ 2018/06/24 (日)公演終了
満足度★★★★
2010年上演作の再演とは後で知った。
トラッシュお得意の二幕構成(後半が近未来。緊迫感ある音楽をバックに高速ナレーション+テロップが間を繋ぐ)が突如「復活」?(新作で)と思ったのはヌカ悦びだったが、久々にガッツリと構築されたトラッシュ舞台を観た。
この独自の二部構成舞台は、じっくり練り上げた戯曲である事が不可欠で、現在の中都留氏の多忙さでは当分お目にかかれないだろう・・とは今回の舞台を見ての実感でもあり、つまりよく出来た舞台だった。
「よく出来た」とは言葉足らずで、「呆気に取られた」という位が程度に即している場面は、漁村の人々の(九州弁を駆使した)口調とそれに伴った身体の動きや佇まい、台詞の展開の巧さ、自然さ。最近の中津留戯曲からは想像できない「心地よい」台詞劇の才能がそこにあった。むろん中津留氏独特の「事件性」のねじ込み、「対立」のねじ込みはあるが「リアル」に踏みとどまり、俳優の奮闘により醸成される温度とアトモスフィアが舞台を包んでいたのだ。
そんなことで中津留氏の「新境地?」と色めいたのだったが・・(しつこいか)。

サルサ踊る田端、真ん中
青年団若手自主企画 宮部企画
アトリエ春風舎(東京都)
2018/06/15 (金) ~ 2018/06/18 (月)公演終了
満足度★★★★
無隣館・宮部企画の第二弾(正確には無隣館卒業後第一作?)は第一弾より芝居らしくやっていた。と言っても「現代口語演劇」が許容する範囲で。つまり、何でもあり感は否めない。
宮部自身が役で登場した後、背を丸めて客席側の右端に移動し演出として見ている姿、川隅奈保子とやりまんキャラのギャップ一本で持たせた舞台作り、説明を省いた(異化的)転換やブリッジの仕方に、ワークショップ発表な雰囲気・・「所詮お芝居ざんす」と堂々居直る系の作り。間違いなく五反田団の弛さがDNAの中に。
サルサを踊る田端が真ん中、の芝居。その田端の「生態」「生き方」がこの作品の目玉で、どんな人?と客席から凝視してしまう所。私は面白かったが「いい加減」の加減には賛否ありそうだ。

山山
地点
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2018/06/06 (水) ~ 2018/06/16 (土)公演終了
満足度★★★★
「悪霊」以降観てきたKAAT×地点、今回は昨年の「忘れる日本人」に続き松原俊太郎作の新作<戯曲>。忘れる日本人とは皮肉の効いたタイトルだが今回の「山山」とは・・。最初に耳に入ってきたそれは「何々したいのは山々だが」の山山。そして普通にmountainの意も。地点のレパでもあるイェリネク戯曲に似て人物一人のモノローグもしくは自問自答の<戯曲>、ギリシャ戯曲の壮大なモノローグとも異なるこれは後世の文学史の教科書にどう紹介されるのだろう。。松原氏による前作と今作の(テキストそのままの)舞台化を果して地点メソッドなくして可能だったのか、などと素朴に思ってしまう。
しかし今作も刺激的であった。
アゴラ演出家コンクールで平田オリザが地点を「既視感あり」とディスっていたが、師匠の一言で色褪せるような見かけ倒しコケ威しの代物では最早ないように思える。この面白さは何なのか・・地点語(と以前も書いたのでそれを使えば)は単に通常の生理に逆らう言い回し、なのではなく何らかの能動的な精神作用の反映された(語意伝達に狭められない)表現となっている。だが喋っているのは言語であり、語意・語感が波動を形成し、身体の動きと相まって伝えてくるのは「現在」という時に対するある種の疑念である。この通奏低音のように鼓動する「批判的・懐疑的視点」に不快を催すタイプの観劇者は、これをあまり好かないだろう。私は逆である。
前回まで出演していた特徴的な女優の姿が見られず淋しかったが、新顔も「地点語」の世界でパワフルに遊んでいた。

フランケンシュタインー現代のプロメテウス
演劇企画集団THE・ガジラ
ウエストエンドスタジオ(東京都)
2018/06/07 (木) ~ 2018/06/13 (水)公演終了
満足度★★★★
劇場で関係者に質問しそびれたのは、この作品が新作戯曲かどうか。戯曲に漲る作家的野心、完成度が、若い頃の作品かと想像させた。初めて訪れたウエストエンドスタジオは思ったよりしっかりとした劇場。接した二面客席。ワークショップ発表と思えぬ緊迫感。余韻をまだ残している。

ツヤマジケン
日本のラジオ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/06/05 (火) ~ 2018/06/10 (日)公演終了
満足度★★★★
3、4度目の日本のラジオをアゴラで観たがここまで多数出演かつ長い作品は初めて。女子高演劇部の合宿先での数時間のお話。合宿(見知らぬ土地)という非日常の時間の中で、部活という日常(の人間関係)が再生され、日常でない事態が進行する様がうまく書かれている。人物の書き分けも面白い。各人に担わせた赤裸々な内面と内情の際どさ・危うさが、建屋に「棲息」する津山事件の犯人の存在といつしか共鳴をみせる。もっとも「犯人」がどういう時空に存在しているのかは不明だが、パンフに紹介された犯人の遺筆の文言を喋る事で辛うじて「津山事件」の犯人に重なる存在だと判る彼は、上手奥の墨にひっそり座っている所を幼児キャラの(まっくろくろすけに話しかけたりする)生徒に見つけられ、その後不思議な交流もある。ばかりか、彼の存在を仕方なく告げた、彼女につきまとう集団から浮いたキャラの生徒もその存在を認めたらしい事から、男は「実在」するらしい。
登場しないが名が何度も挙がる人物として、合宿への往路で姿を消した部員=都井の名が何度も出てくるが、この名は津山事件の実際の犯人の姓(後で知った)。パンフレットには、一度も登場しないこの都井役の俳優名も顔写真も載っている(経緯は知らない)。女優達のショットを冊子にしたミニ写真集や、生徒たちのプロフィールを詳細に設定した台本等から、作・演出の人の「趣味」をつい想像する。がまあとにかく演劇部員全員の性格付けと不意を突かれる展開は、(作者は)男でありながら十代女子の生態を知悉するかに思わせ、作者の来歴や普段の生活をつい想像してしまった。
映画『丑三つの村』(津山事件に題材をとった西村望のノンフィクションの映画化)でもおなじみの犯人の「決行」時の出で立ちが、最後にお目見えとなる。芝居中で「犯人」の存在を認知した先の生徒二人は、演劇部の中でもこのドラマの中でも華やかな位置を占めておらず、社会のメーンストリームから弾かれた存在にイメージが重なるが、この二人がほぼラストの暗転後、学ランにヘッドライト装着のスタイルで闇の中に現われると、何か溜飲を下げるものがあった。
彼女らの「決行」を津山事件に重ねた事で、若者のシビアな生態に僅かばかり寄り添う(かつ津山事件の犯行の背景にも寄り添う)作者の心・・を垣間見るような気が。
同世代から鼻つまみ者扱いされる者が、その世代を代表して立ち上がる姿、という解釈の方が、彼女らを蔑んだ部員たちへの復讐、構図よりは遙かに粋だろうと思う。

翼の卵
劇団桟敷童子
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2018/05/29 (火) ~ 2018/06/10 (日)公演終了
満足度★★★★
桟敷童子の芝居は観た後ストーリーを忘れてしまう。(羽を生やして飛んでってしまう)
すみだパークスタジオという場所、内側に飾られた壮観な美術、そこでは受付・会場誘導体制に役者総出の気持ちの良い立ち働き、開幕すればスキーの如くドラマの助走路を転ばず滑走し、ジャンプと着地を為そうという能動的観劇に動員され、組織化される。この観劇パッケージを舐め尽くす事が、終わってみれば桟敷童子体験だ。
もっともドラマを分け入ってみれば(記憶を具に繙いてみれば)世界や時代や「今」に鋭く切りつけるものがあったりする。その鋭利さは桟敷の「型」によって飲みやすくされているが。とは言ってもこの劇様式に収める事が至難であるのは今回参加した原田大二郎演じた役「父」の理想形と実際との差を想像しつつ埋めながらの観劇になった事でも実感するのだが。
昭和の懐かしい感性、単語やシチュエーションにほろりとさせられる時、「今」の何が批評の対象であるのかは重要だ。全てにおいて「昔は良かった」わけはない。
毎度ながら、役者陣の貢献を思う。毎公演異なる役柄を演じ分ける板垣、ドラマの雲行の変化を僅かな言葉の粒立てで知らせてしまう大手、手練の原口、稲葉、婆役・汚れ役をそれぞれ担う鈴木・新井・・。各ポジションをしっかりと演じる好プレイによって得点に結びつけるが、客演の肌合いの違いを感知しフォローまでやる板垣以下の働きを見るにつきスポーツのようだ。
公演評というより劇団評になった。

吸血姫
劇団唐組
花園神社(東京都)
2018/05/05 (土) ~ 2018/06/10 (日)公演終了
満足度★★★★
ついつい足が向く唐組。今回は梁山泊の夏テントの常連・大鶴義丹の異母姉弟、美仁音・佐助が唐テントに。銀粉蝶を迎えて中堅の稲荷・辻らを外した布陣が特徴的だったが、実質座長久保井一人でも爺臭は十分。「やっちゃった」ベロ出しな生モードを使う資格を常連客からは得ているらしく、笑いが起きる。(こちとら常連でないからそこは無視して次の展開を待つ。)パズルの完成をみる興奮の度合いを「完成度」と呼ぶなら今作はそこそこ。だが良い気分になって花園神社を後にした。
客層は今までになく若者に溢れていた。俳優の世代に見合ってるといえばそうなのだが。
屋台崩しを今回は冒頭にやってのけ、颯爽としたオープニングとなっていた。

肉の海
オフィス3〇〇
本多劇場(東京都)
2018/06/07 (木) ~ 2018/06/17 (日)公演終了
満足度★★★★
時空を飛び想念が舞う渡辺えり作品の世界は、久々の新作も同様。作者本人が言いたい事だなこれ、と丸分かりな台詞が宙に投げられたり、強引なドラマの舵切りが為される箇所も多いが、渡辺えりは後から回収していく。安定を良しとしない作り手の「手」をそんな所に見出す。正体不明の奇態な「音楽劇」がそこにあった。

Q学
田上パル
アトリエ春風舎(東京都)
2018/05/25 (金) ~ 2018/06/03 (日)公演終了
満足度★★★★
主宰田上氏本人のプロフィールから想像される「らしい」舞台に漸くお目見え。田上パルじたいは過去アゴラで一度。他は映画美学校アクターズコース発表で松田正隆作品を岩に染み入れる水のように<浴びた>記憶。溌剌たる若者の生態に近い場所から、無論役者にとっては「過去」(高校時代)を演じている訳だが、脚本ともども肉薄。十代の学生の声にならない鬱屈を、叫ばせる言葉を紡いだ作者に拍手、というか感謝。

楽屋 -流れ去るものはやがてなつかしき-
ZOROMEHA企画
梅ヶ丘BOX(東京都)
2018/05/28 (月) ~ 2018/06/03 (日)公演終了
満足度★★★★
画期的な「『楽屋』フェス」から早2年。今回は6グループだが、注目は企画者でもあるZOROMEHA、また単独ステージの回があるstars、ぐるっぽちょいす(他の4つは2団体1公演の枠に収まる)と読める。
今回は公演スケジュールや参加団体の概要がなかなかつかめず、ZOROとぐるっぽは辛うじて探れたが、少々もどかしかった。そのせいというのではないが、観たのは一団体、青柳敦子主宰「ぐるっぽ」のみ。ここには2年前燐光群グループで女2をやった松岡女史も今回は女3(唯一現世にとどまるベテラン女優)で参加。青柳女史は演出、(ちょいす=choiceの意か?)選抜されたメンバーはバランスの取れた良い座組で、演技もさりながら「演出」も利いて思わず納得な場面処理が多々あった。
一昨年の楽屋フェス以後にも「楽屋」を3本ばかり観たが、一番泣けた。もっともお涙路線をチョイスして到達できる場所ではないのは確か。飄々と存在する幽霊二人が、その立場なりの真剣さと諦観の両面を持ち合わせている事、即ち生者をみる眼差しが「他人事」でありながらもある濃度で関心事でもある距離感、冷淡さと温情が彼ら自身の「あり方」から必然に導き出されているように見える事、そして二人の関心と目を釘付けにする、生者の側のドラマも・・。
さてこの回はぐるっぽ単独回で、テーマ音楽を提供した佐野篤のミニライブが芝居の前にあり、思いの外良い。3曲目を終えて「楽屋」上演へと移行するブリッジも誠に良い。余談、セットは2年前と同じもの。樋尾麻衣子の前説を初めて見、新鮮であった。
幸福な時間を有難うな休日であった。

消す
小松台東
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2018/05/18 (金) ~ 2018/05/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
細部を穿った、「実家に帰った気分」を催させるセット。壁の羽目板の幅といい、色といい、取ってつけたような絵の額の位置といい、台所の平均的なシンクといい床のビニルの汚れ具合といい、奥の縁側から覗く塀の内側(庭)の中途半端なスペースといい、勝手口の土間のサイズ(狭さ)といい、ワゴン上に置かれた物々(もらいもの土産物がひしめく)といい・・・地方性(これを地方的と呼ぶのも哀しいが)が濃厚に漂う二間の空間がまずデンとある。そしてここに配置される人物も、そこは小松台東、作りの細かいキャラを担って存在している。些末な事柄がその人物の本質・弱点を表出させ、それを感知する「近い人」の反応が作用しあう図は、やはり芸術の名に価する仕事だと思う。
なぜか人情喜劇に流れず、非人情悲喜劇の道を選ぶかに見える芝居だが、城山羊の会と違って人間の根っこを掴まえている。即ちサイコパス化したか、元から素養を持つ人間の「怖さ」は、あくまで他者の目が「奇異なるもの」を面白がる目線に逃げるしかないが、松本哲也の書くものは人間がニヒリズムに陥るにもそうなる経緯がある、と捉える。そこを丁寧に、恐らく想像もまじえながら、粒立てていく。この細部にこそ本質が宿る所以を観る者にも突きつけてくる、リアリズム。
・・小さき者共が所与の条件下で不満を燻らせながらも押し殺し、あるいは叶わぬ夢を見、代償行為や勘違いに逃避する姿。もっとも芝居は彼らをリア充でない者、と分類してもいないが。
実家を守り父を看取った弟(山田百次)が、長く都会暮らしをする兄(瓜生和成)に電話をかけ、話があるから実家へ戻るよう言い含めるシーンから芝居は始まる。最初瓜生氏と判別できなかった扮装の兄は定職も持てず、弟が旅費を持つなら帰る、という境遇。
最近亡くなった父、幼少時(弟が生まれた時)に亡くなった母、不在の二人を含めた家族史がもたらした兄と弟の「もつれ」を解きたい、という単純な動機(弟の)が、恐らくはドラマを貫いている。ただ、その家(実家)に出入りする有象無象が絶妙な距離に存在しており、家族だけのはずのプライベート空間を密度濃く占めている事が、加熱をもたらす。皆それぞれにあるあるな人物キャラを見せ、一見醜悪だが群像として立ちあがる。人物いずれも憎んだり嫌ったりしているが「関わり」ゆえに感情が生まれる。長く不在だった兄を弟が呼び寄せた行為に、その視点が意志的に選択されている事が見えてくる。周囲のゴタゴタエピソードを挟み込んで最後の最後まで真意を明かさず温存した構成も、その意図を裏打ちするものだった。

iaku演劇作品集
iaku
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/05/16 (水) ~ 2018/05/28 (月)公演終了
満足度★★★★
今年度のアゴラの目玉の一つ(自分にとって)iaku作品集は、初演をみた『粛々と運針』以外の3本をどうにか予約して観たが、どうやら『粛々』が本企画のメインだった模様(他は1時間程度の小品でもあり)。その「賑やかし」の三演目の中でも、人気戯曲『人の気も知らないで』が私には目玉。戯曲も読んでいたが、文字を追った感じではシュールかコメディでしかない前半からどうもシリアスな表情がチラチラと見え始め、最後は涙っぽくなる。これをどう作っているのか関心もあった。
三作品を観ての全体的な印象を、また機会があれば書かせてもらう事にして、一言書き置くなら・・『人の気』の戯曲が掲載された冊子に土田氏がコメントを寄せ、作者横山氏の成長を讃えていたのを思い出した。「うまさ」が目指されている、との印象が土田作品(それほど多くは観ていないが3つくらい)に通じる、というのが過去の小品を観た印象。これには戯曲だけでなく、今回作者による演出という事で、もっと深められたところが作者の読み(書いた意図)はここまでだったか・・?と、その限界を感じたという面も(作・演出どちらもやるのが小劇場のスタンダードだがこの作者については上田一軒という演出家が普段はついている)。
『エダニク』やあの『車窓から、世界の』を書いた同じ作者が、過去の自作も堂々開陳してみせてくれたが、試みは面白かったものの、iakuの現在と過去の関係(過去を経て今どうなのか)が霞んだ印象を持ってしまった。

「ムイカ」再び
コンブリ団
駅前劇場(東京都)
2018/05/25 (金) ~ 2018/05/27 (日)公演終了
満足度★★★★
コンブリ団の名は中京地方で独自の活動を展開するジャブジャブサーキットの舞台に(少なくともここ10年は)ほぼ毎回出演している車イスの役者はしぐちしんの所属(主宰)劇団として目にしていた。どこかで公演情報を見て「ちゃんと活動してる劇団なんだ」と判ったが、主宰が作・演出を行なうらしい事以外ほぼ知識ゼロ。OMS戯曲賞作の上演、しかも初の東京公演というので観劇した。
まずこの「初の東京公演」の、劇団の当人たちにとっての意味がもっと伝わって来たいと思った。のっけにこう言ってしまうと芝居単体では観客をねじ伏せられなかった、という側面が強調されそうだが、そう単純でもない。作る主体と舞台の内容との関係は切り離せないし、公演形態の選択も作品と不可分であったりする。つたなくとも「新人公演。応援よろしく!」でまとまる(それには価格も安くせねばだが)公演もある。地方から作品を引っ提げて大都市で公演を行なう場合、異文化との遭遇の機会という面がある。「才能発掘/アピール」という面も「成功」を夢見る向きには重要だろうが、(地方に限らずとも言えるが)演劇とは総合芸術であり作り手の固有の何かが結実するもの。「文化」は佇まいから漂って来るものだ。
さて「ムイカ」は解説にある通り広島に原爆が落とされた8月6日を指すが、この舞台では生死を分ける「時」としての原爆投下を象徴として捉えながら、人生の選択の局面や、生へ向かおうとする精神の風景を描いたもののようだった。固有名を持つ人物が、居るのかいないのか(居るとすれば一人、衣裳でも違いが判る女性)、人物を軸としたストーリーが現実世界に着地するべく描かれたテキストではなく、象徴的なシーンの連なり・重なりから、あり得る様々な「現実」を観客の想念の中に見いださせる、そういうテキストになっている。
終盤にイメージが集約していく流れがあり、照明が煌々と照って「現実」と地続きになるグランドゼロに上昇した所で、終幕、というまとめ方であった。ある事をギリギリまで語らず、結局語らない(だが観客の中に何かが生じる)、この「態度」が、この作品の評価の核になるのだろう。
アフタートークがあった。名前をみれば土田英生、テイストが全く合わないな、と感じた通り、ズルズルなトークになっていた。京都の学生時代に「演劇」分野で世代がかぶっていて、土田氏のほうが先輩なのだとか(見た目や何かは逆なのだが・・)。

アップデイトダンスNo.51「青い花」
KARAS
KARAS APPARATUS(東京都)
2018/05/17 (木) ~ 2018/05/25 (金)公演終了
満足度★★★★
『白痴』以来だろうか、だいぶ間が空いた。舞踊も見たいけれど“芝居”も目白押し。無論優先度が高い演目もあるが・・今回はさにあらず、時間がピタリ合って、向こうから手招き。
薄暗がりで少ない動き、というのはテキメンに誘眠効果をもつ(能も同じ)。今回も同様だったが、「みる」に価するシーンでありパフォーマンスだと脳は感じており、結果、両目の瞼を指で上げながら観た。
「青い花」とはノヴァーリスの詩集であった(この詩人の活字が拝めるのは岩波文庫の『青い花』くらい)。ただし鑑賞中はタイトルがその事とは思いもせず、いや、思ったとてそれが理解を増すわけもなく、ただぢっとをどりをみる。ある瞬間、「青」の光が射す。光に青を塗りたくったような「光」の持つ切れとは真反対の鈍重さの中に、言うなら隠微な場所に、佐藤利穂子が立つ。勅使河原の手が背後から、怪しくまさぐる。その光の中で(妖艶さ、はっきり言えばエロさを元来擁する)佐藤の身体が「その領域」を淵源とするものを滲み出させている。ノヴァーリスのテキストの正体を探る内にどこでも無い場所に迷い込み、生命そのものとしての「女であること」が暴かれた、とでも言うように。闇に浮かんで消える、命の内奥の物語の、断章?
クラシックが効果的に多用されていた。『トリスタン・・』でも感じたが、長い歴史的蓄積があるのか弦楽器との相性が良い。

夢たち
劇団文化座
シアターX(東京都)
2018/05/10 (木) ~ 2018/05/20 (日)公演終了
満足度★★★★
風変りな舞台だった。三好十郎のこの戯曲自体が戦前のもので(1940~42)、どこか牧歌的な匂いがあって戦争体制のただ中の状況の間にあるはずの緊張関係は戯曲の背景、というより戯曲の外に退き、読む側なり作る側がある種の読み込み方をしなければ「現代」の目には奇異な代物になる。
まず役者が戦前の東京下町の吹き溜まりのような長屋での「在り方」を掴みかねているか、戯曲がどっちつかずか。・・江戸人情噺のような人物の風情・口調が、語られるリアリズムに寄った台詞と、微妙にズレて軋んでいる。
戦争という状況を説明する台詞は僅かにあるが、大状況よりも個々の抱える事情、心情に焦点が当てられている。小さな営みを日々重ねる庶民の小さなドラマがそれ以上の何者でもなく綴られるのを、どう受け止めてよいか図りかねながらも、(他の三好十郎戯曲から来るものもあるのだろう)人間存在をみる熱い眼差しが、 舞台にそそがれているその眼差しに同期していく瞬間があった。舞台もそこへ収斂して、大団円のゴールを踏んでいた。主役と言える三郎が場面の一瞬、一瞬に変化し、存在の輪郭が上書きされた最後に映る「三郎像」を認め、芝居が漸く落ち着くべき所へ落ち着いていく。ゆらゆらと揺れて倒れそうな芝居を(戯曲の要請によるものだとしても)三郎が一人支えたと言って誇張でない感じを持った。

たいこどんどん
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2018/05/05 (土) ~ 2018/05/20 (日)公演終了
満足度★★★★
久々のこまつ座、井上戯曲を「普通に」上演した演目を初めて観た。ラサール石井演出にも興味あったが何より戯曲が面白い・・と言っても最後まで読み切らなかったのだがふと書棚にあったのを手にとると止まらず、読んでも「観たい」と思わせた。その核は、艶笑というやつ。江戸を発って主に東北を回る旅の話だが作者井上のアイデア炸裂。思いのほか長くなる二人旅の後半はどうなるのやら・・期待しつつ劇場へ。戯曲からもらった印象とかけ離れた所多々あれど、このたび主役(幇間役)に抜擢された柳家喬太郎師匠が予想外に良い。江戸弁は本業とは言え芝居の間もある。一方の若旦那役は急遽体調降板した窪塚俊介の代役に立てられた江幡秀久氏、年齢的に「若」旦那はどうかと思いきやこれが小事に囚われない商家の放蕩息子の味を出して正解。三時間超えの大作。幕末江戸が物語の始まり、二人の旅はちょうどタイムスリップするかのように時代の最先端から逃れた格好、して「ご一新」を知る事になるラスト。圧巻井上の筆力、またこれを調理した演出も光った、と最後には思わせた。

図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの
イキウメ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/05/15 (火) ~ 2018/06/03 (日)公演終了
満足度★★★★
「図書館的・・」をNHKシアターコレクション(mmm..隔世の感あり)の放映で観たのがイキウメ始め。賽の河原とか(死後の世界)、台詞にアブダクションがやたら出てくるやつ(UFO目撃・接触。確かこれが獣の柱に発展)、自殺者の前に現われる奇妙な人達(輪廻転生サイエンス)など。あの時点から今日までの活躍を見ればやはり才能だったのだな、と感慨無量。
「図書館的人生」シリーズは二度目の観劇になるが、ある関連を用意はしているが三編とも独立した話で短編集である。判りやすいドラマだが「作り」の精緻さはイキウメの面目躍如。もっともイキウメ色(SF色)が減退した分不満の向きもあるやも知れない。
三編中完全なるSFは第一話目、自分の脳を箱に入れてしまった男の顛末だが、荒技な無理設定の無理をコミカル調で相殺するワザは手慣れたもので、実に見事な連係プレイ。
第二話は私が最も「図書館的」らしいと感じた(即ち気に入った)作品で、「不思議」度は最終的にはゼロとも読めるがそこに行くまで絶妙に引っ張り、余韻も絶妙。
三話目はほぼ日常ドラマ。夢の「不思議」が浸潤する様子もあり、「襲ってくるもの」の象徴的な「形」である物体が舞台にのしかかってくる(芝居の冒頭でフラッシュを焚いたような閃光が一瞬捕らえて以降出てこなかった<それ>が三話目で漸くお目見え)様子もあるが、不思議は仕掛けにのみあり、要は就活時期を迎えた主人公=女子学生が、同居する兄や交際中の彼との関係において予め摘み取られた「自立」の所在をめぐって悩み、試行するという、カテゴリーははっきりホームドラマだ。一見苦労の少なく脇が甘そうな彼女だが、兄や彼氏とのコミュニケーションの中に感じる違和感を無視できなくなる。やや古いモデルだが父権的で脆い男性像を仮託された兄や、優しさを交際関係(ひいては結婚)の契約要件のように差し出す平凡な彼氏の言動に対し、彼女は疑念を抱き始めるのだ。「優しさという名の押しつけ」(ひいては親切という名の管理)を、兄と彼氏が波状攻撃の案配でくり出すシーン構成がうまい。
イキウメ世界を構成した個性である女優二名の退団がきつい現状?でもあろうが、それ以上に時間が彼らに平等に与えるもの、即ち加齢の中で、前川氏の筆も変わっていく可能性がよぎる。普通のドラマも書ける前川知大、と言われる日も近い?(彼はいつだって人間ドラマを書いている、と私は思っているのだが)

夜明け前、私たちは立ち上がる。
TOKYOハンバーグ
サンモールスタジオ(東京都)
2018/05/16 (水) ~ 2018/05/20 (日)公演終了
満足度★★★★
唸った。TOKYOハンバーグ、Stone-Ageブライアントとも一度ならず目にしていたが、どちらの特徴がどうだったといった批評を一蹴する迫力であった。
この題材を語るための要素を取りこぼさず(とりわけ住民の「論理」の背後にある生活感覚と感情に丁寧に触れている)、各登場人物のドラマが描かれながらフィクションとしての展開の「無理」が殆ど感じられないドキュメントとも呼べる現実味があった。理不尽な現実を嗜虐的に突きつけたい邪な狙いが作り手になくとも、鬱々とする「現実」は必然に訪れる。この実話が最後に光明を見ることを知っていたとて「終わりよければ・・」とはなり得ないこの問題の性質をこの作品が踏まえている事が、言わば光明に思える舞台だ。
アフタートークで「希望の牧場」の吉沢さんという方が仰った言葉。・・大多数が「見たくない」現実でも誰かが言い続けなければならない。「現実」はこの話の文脈では、今日本の火山が活動期を迎えている事、関東大震災の発生周期の危険領域にとうに入っている事・・起こり得る事態として2020年、東京五輪の前に関東大震災に見舞われる可能性を誰も否定できない事。
舞台に戻れば、「見たくない」題材に取り組んだこのチームに拍手。拍手と言えば、カーテンコールで照明が慌てていた(終演を告げる役者の短礼のあと役者がハケる長い暗転の間、拍手が鳴り止まなかったので舞台側の明りを入れるのが自然な所、まず客電が上がり、追い出しを掛けられた状態に一瞬なった)。ダブルコールが今回初めて(だとすれば)とは意外だが、公演を重ねて芝居が、人物たちが膨らみを増し熟成するプロセスを想像した。記憶の中の色んなシーンが一々琴線を叩いてくる。

今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事。from 2001 to 2018。
シベリア少女鉄道
赤坂RED/THEATER(東京都)
2018/05/03 (木) ~ 2018/05/13 (日)公演終了
満足度★★★★
伝説的な奇想の数々・・・と聴いていたシベリア少女の過去作品だというので飛びついた。昨年に続き二度目。「しょせんお芝居」、現実ぢゃない、本当ぢゃない、嘘。虚構性を殊更に強調する冷や水のオンパレード。「いかにもドラマ」な典型例を茶化す(役者は「その演技」を無心にやってみせる事で笑になる)。微妙な間合いや口調で醸し出される「ズレ」の瞬間を、待ってましたとばかり客席から笑いが起きる。
昨年のオリジナルは「よく考えた」と思えたが、今作には(「復刻版」という先入観からではなく)目新しさを感じなかった。
物語は二つの流れがあって後に合流するという形。まずは高校演劇部員、顧問教師とその周辺の人物。冒頭顧問がかつて映画を志し、一人空回りした学生時代のくだりが短く提示され、やがて女子部員の舞台を目指す思いにかつての自分を重ね合わせた顧問が彼女の背中を押す事を自らの使命とする、という動機の設定がある。一方別の場所では、小惑星接近の危機を共有する研究所と政府、ミサイルで破砕するための計算を一人で担う女性研究者が実は歪んだ考えの持ち主で、ある破砕の方法をとった事で人類を無性生殖が可能な種としてしまう、という事が起きる。なおクローン技術も彼女は極めていて、自らの分身3体を「計算」に当たらせてもいるが、ともかく彼女にこの行動を止めさせる事は当然ドラマ上の中心課題に据えられる。
ドラマの設定を終えた所で、いとも簡単に時空の裂け目から過去や未来に行ける展開となる。「世界を終わらせないため」に時空を超える。だが過去の自分と同時存在するため、役が足りなくなる。「都合により」な舞台処理をやむなく行なう。過去の自分を追っているシーンでは、上手へはけるとドタドタと下手へ駆けつけ、素知らぬ顔で登場する、という「演技」をみせる。果ては役者が足りないため人形を置いてアテレコで喋ったり(録音も使う)、その人形がずらりと並べられたり。
つまり、総じてハチャメチャな設定の劇を「やらされている」光景が、ドキュメントとして(バックステージドラマでなく「上演されている劇」そのものの上演という形で)提示されている、とも言える訳である。
昨年のと同様、一つの実験ではあるのだが、人形を置く、という型破りな処理がエスカレートする今回の舞台。初演時に比べて熱度を上げ切れなかったとすれば(初演を観ていないので判らないが)、その原因は何かと言えば、初演当時との「時代」の違いである事の他、考えにくい。(役者は達者だし場面を成立させる表現は的確で隙がない。)
恐らくはクローンという話題が当時は最新科学のトピックだった事が大きいのでは?と思う。生物学的にはその「種」の個体であるはずのクローンの役割とは何なのか、「人形」とどれ程異なるのか・・哲学的な疑問を喚起し、知的関心を撹拌した生命科学の一つの知見は、今やある理解に落ち着いていて、水底に沈殿している状態なのだろうと思う(あまり話題にならないので他人がどう考えているか判らないが)。即ち、仮にクローン技術による人間が生まれたとして、彼とて人間なのであってそれ以外に対処しようがない・・。確かイシグロカズオの作品にこれを題材にしたものがあった。
・・初演舞台が観客の心を掴んだ様子を、そんな事を材料に想像するのみ。

グッド・デス・バイブレーション考
サンプル
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2018/05/05 (土) ~ 2018/05/15 (火)公演終了
満足度★★★★
10年続けた劇団の解散宣言ののち身軽になった松井氏が果たしてどう違った一歩をみせるか。
松井色としては「変わらない」というまずは感想。「自慢の息子」のごちゃごちゃ舞台を思い出し、蒲団を重ねた基地で戯れたり泥池に入ってザリガニを探した子供の頃の記憶に接続すると、これは「心理」の劇なり、舞台が「箱庭」に見えてきた。
混沌は舞台上のみならずテキストにも。物語は恐ろしげなシステムが築かれたらしい未来の日本、山間のその場所に作られた中途半端な小屋が建ち、僻地らしいその場所で物語らしきものが展開する。古典的作品「楢山節考」は意外にしっかり踏まえられていて現代版、近未来版楢山節考として観られる。
従来の俳優・スタッフ共同によるものでなく松井氏と小説との対話で醸成されたものか・・。元団員野津氏がのったり中心的に立ち回る。見た目では板橋駿谷が一人せわしく舞台を回す。戸川純がそのキャラと台詞の取り合わせに一々笑いをもらっている。他に若い女優二名と松井。奇妙な塩梅だが群像劇。
秀逸なのは未来の設定で松井〝変態〟周の本領が十分発揮されている。が、問題はストーリーを進めるエンジンとして「楢山」のドラマが使われており、水と油のよう。この二つを演劇的に包摂してアウフヘーベンさせる終盤の奇抜な展開が、力業で芝居をどうにか着地させていたが、素朴な疑問が生じる隙はあった。
「楢山節考」のリアルは「食うものがない」というシンプルな事実の上にあり、この一事を巡ってのドラマであると言って良い位のものだ。この「楢山」の原理と、松井氏の生み出す秀逸な未来像(現代への揶揄)とは、趣向が少し違う、にもかかわらずストーリーじたいは原作の出来事を動力として進み、楢山の原理(人の食糧に手を出したものは村八分。原作では「楢山様が怒るぞ」、舞台では「よしなり様が怒るぞ」と騒ぐ)に依拠したシーンもあって、ところがテキストには窮乏の背景描写が不足で祖語が生じてしまう。そこだけ無視して観続けられなくもないが・・骨抜きの「楢山節考」にするなら徹底してやりきらねばなるまい。
といった所。個人ユニット・サンプルの事始めは手探りでも松井色健在、この先も楽しみ。