授業 公演情報 SPAC・静岡県舞台芸術センター「授業」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    1950年代に発する不条理劇の代表的作品の一つだが、作者イヨネスコの名も、戯曲も、かつて持て囃されたのと同様の感化力を頼むだけの霊力を持つわけではないと(他の上演の例から)思っていた。西悟志演出は見事にこの「古典」戯曲を現代に立ち上がらせた。演劇活動をこの十年行っていないと観劇後に知って驚いたが、宮城監督が奇才と呼びブランクを押して依頼した価値は少なくとも実証した。老教授と若い女生徒、女中の三人芝居だが教授を三人の男優で演じ、女中にはスタッフの一人が正にスタッフ然として扮する(事実その通りでカーテンコール3回に姿を見せず4回目で漸く呼び掛けられて登壇していた)。明快な演出方針が十二分に生きた舞台だ。
    起用された菊池朝子の痛快なムーブも含め、絶えず動き回る教授。三人が分担して三分の一の負担、とはならない。広い舞台の奥のカーテンから登場して、客席側中央に置かれた台(2×1.5間位?の椅子が2台乗った主要演技エリア)まで、役の交替のためにスタスタスタスタと歩く距離は長い。また二人、時には三人のユニゾンやら台詞一節ごとのリレーやらをやりながら、女生徒を追い詰めて行く教授の狂気を表現する。
    「狂気」・・初演当時は記憶も生々しかっただろうファシズムの不条理さ(滑稽さというニュアンスも感じられる)が、この作品の中に表現されたと人々は感じたに違いない。理屈もへったくれもない論理=無意味な言葉の羅列を捲し立てて女生徒を心理的に組み敷いていく過程がそれである(戯曲には冒頭のト書に女生徒は始め快活だが次第に弱々しくなり、逆に教授は始め丁重だが徐々に威圧的になる趣旨が指定されている)。
    女中が序盤と途中、くれぐれも興奮しないようにと忠告に来たにも関わらず、口うるさい母親を遠ざける駄々っ子よろしく耳を貸さず、自らの快楽を貪るように「授業」に入れ込んでいく教授。最後には生け贄を殺してしまうが、これを何度も続けている事が、その後処理も任されている(買って出ている?)らしい女中とのやり取りに仄めかされる。ちょうど前戯から挿入、終着の射精に至るプロセスに似ている、という感想は男性特有のそれだろうか。。だがある面権力の甘味さは性欲を含めた人間の欲求に直結するもので、教授はまさに権力を行使する事を欲し、事実そうしたと見える。解釈はどうあれ、ここでは教授が嗜癖のように「授業」を繰り返していた、との事実が露呈する。
    これに対し、西演出は戯曲にないシーンを最後に付加する。これについては好みや賛否もありそうだが、戯画化された惨劇である本作を、作者の意図はともかく娯楽のまま据え置いた数十年を怠惰として、更新する事を潔しとしなかったという事でもあるだろうか。趣向にはやや照れもあったに感じたのは、読みの浅さかも知れない。
    初日、俳優の一人二人は動きをこなしながらの台詞が危うい瞬間もあったが、さすが乗り切り、世に二つないゲージツを生み出していた。大満足である。

    0

    2018/10/29 09:43

    0

    1

このページのQRコードです。

拡大