『ソウル市民』『ソウル市民1919』 公演情報 青年団「『ソウル市民』『ソウル市民1919』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    「ソウル市民」「ソウル市民1919」の順で連日の観劇。二作とも、ソウル(京城)で文房具を商う篠原家の居間が舞台で、韓国併合前年の1909年のある一日の「日常」、そして十年後の三一独立運動の1919年3月1日当日の(さざ波程しか立たぬ)「日常」を描く。
    青年団にとって「ソウル市民」は1989年の作、所謂現代口語演劇を世に出した記念碑的作品との事で、「1919」は約十年後の2000年だが、姉妹編の趣。10年という歳月がもたらした篠原家の変化より、「変わらなさ」が強調されているのに対応し、芝居の作りのほうも相似形となっている(舞台装置、人物構成、配役も)。
    以前戯曲をどこかで読んだかした時の印象は何だかスカスカで何もなく、生身の役者が演じたら変わるのかな・・そんな印象だったが、確かに俳優が演じるとそれだけで面白い。のではあるが、やはりスカな印象は残った。
    それは平田オリザ作品に共通するある雰囲気(実はあまり好みでない)もあるが、この作品固有の理由もあった。後者について少し言えば、植民地時代の朝鮮半島という舞台で、日本人が現代日本の感覚で存在し、台詞もある程度現代的である、というのはパロディとして成立するが、このテーマを扱うなら当然にあるべき植民地化の主体と客体との間の緊張関係が、この芝居に登場する朝鮮人との関係にはなく、といって日本人側がその関係に無自覚なのだ、という事実では回収しきれず、朝鮮人を演じるのも日本人感覚で良い、という手法が果たして妥当なのか、疑問が湧く。というか感覚的に違和感が否めず、手抜きに見えてしまう。
    現代を設定したドラマにおける現代口語の効果と、この芝居での現代口語の効果は異なる事を示しており、この芝居が打たれた時のインパクトは実はこの時代設定と言語とのギャップにもあったのではないか、などと想像する。そうなると現代口語演劇なる代物は違ったものに見えてくる。

    ネタバレBOX

    現代口語演劇が与えた影響は測り知れない。「本家に及ばない」という言は、現代口語演劇の多士済々の後続たちには当たらない。現代口語には進化と言える必然の原理があって、応用が効いた訳だ。そして平田オリザ作品も今やその一バリエーションという事になる。
    そこで私の個人的感想を言えば、平田作品、特に初期の(今作を典型とする)作品の雰囲気はあまり好みではない。
    平田作品の最大の特徴は、状況設定が極めてドラマティックである事。社会的なテーマに演劇でコミットする態度が明確なのだが、果たしてこれでこのテーマを扱い切れたのか、という思いが残る場合がしばしばある。何等かのテーマが演劇には無くてはならない、と平田氏が考えているかどうかは判らないが(恐らく逆で知的興味の尽きないゆえに題材に困らないのだろうと思うが)、アングラは置くとして、知的領域で競合しそうな新劇の説教臭さに対するアンチテーゼを打ち出した印象を強く与える。そのインパクトは相当なものと想像するが(想像するしかないのだが)、斬新さを人々に与えるのはその時代その瞬間の状況における斬新さなのであって、平田氏の演劇は応用可能な原理としての側面と、アンチテーゼとして切りこんだ側面が同衾していて、今その時代の産物的側面が、不要に見えたり、時代が補っていたものが欠けたため物足りなく感じたりする、という事が程度はともかくあるように思う。再演ものを面白く観たのは「冒険王」くらい(あれは「新・冒険王」だったか・・とすれば新作だ)。一方、このかん出された新作「ニッポンサポートセンター」と「日本文学盛衰史」は面白く観た。感動さえした。
    過去作品も楽しく観てはいるが、私には両者に大きな開きがあり、この差は何だろうと。変化しているのは時代の移り行きに無自覚な自分のほうだろうか、それとも・・。

    1

    2018/11/06 05:15

    2

    0

  • それは、明らかに平田オリザの時代に迎合する敏感さでしょう。多分彼の視野には次の新国立の芸術監督、やがては、三島に関西の猿と憫笑された文化勲章受章者・山崎正和があるのでしょうが、そういうのはそういうので社会のバランサーと思えばいいじゃありませんか。確かに最近の平田は、ご評価になっている「日本文学盛衰史」を見てもあせっていると思いました。

    2018/11/07 10:55

このページのQRコードです。

拡大