tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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グッド・バイ

グッド・バイ

地点

吉祥寺シアター(東京都)

2018/12/20 (木) ~ 2018/12/27 (木)公演終了

満足度★★★★

地点の年末公演は初めてか・・年の瀬の忙しない時季、その陰で無様に死地へ赴いた男を思い出し、あっけらかんと追悼してみるという試みが身体に殆ど抵抗なく入って来た。「あれ?」と違和感が走る事が無い、という事くらいしか、その完成度?を挙証する術が見つからない地点の毎回のパフォーマンスだが、アイデアの使い回しが無い(私が知らないだけかもだが)というのも、期待値を高めている一つだ。
音楽は使いようで、下手をすれば演劇の方が食われてしまうが、空間現代との今回の仕事では拮抗していた。
グッ・・ド・・バイ、グッド・バイ。7人が「グッ」「ド」「バイ」の三つを7名の俳優3組で恒常的に受け持ち、ギターのカッティングに乗せて威勢良く発する。出だしではこの繰り返しが長く、上演時間の短さを思い「時間調整か」と意地悪い考えがつい過ぎったが、程なく、巻き込まれた。太宰の言葉が新たに加わり、レイヤーが一枚、二枚と重ねられる。音楽の景色の変化も幾箇所かある。時間を厳密に刻む音楽の上に、歌唱と同じように台詞を発するのが、耳に快感である。
さて、既成戯曲(古典)や松原俊太郎の新作戯曲をこれまでやってきたのを、今回は非戯曲の舞台化に挑戦した。太宰の言葉のコラージュとすれば、出典はあり、大きな違いは無いかも知れないが、何を芝居の結語とするかは三浦基氏の専権事項である。最後のあたりでその意図らしきものがふと見えた気がしたのだが、よく覚えていない。太宰という「歴史」の一コマを消し去る事はできない、我々はこれを超えて行くしかない・・的なものだったか、一人の男ありき、大いなる事業を成せり・・的まとめだったか。結びはやや陳腐に思えたような記憶があるが、それよりこの舞台、あまりに知られた作家の仕事と、他に例がないほどよく知られたプライベートをあげつらい、笑う事の許される太宰治という存在を、今までに無い形で語り、茶化し、その事で愛着を伝えた出し物だったと言える。終演したばかりの役者が達成感のような表情を浮かべていたのは、楽日のためか。難易度も高かったろう。
常に中心的役者である安部聡子の不思議な存在感は、「拮抗する発語」の勘所を押え、はっきり言ってライブを見に行った客が良い演奏に「いえーい!」と叫んでるに等しい声のノリなのだが、「落ちない」声・言葉を出すための「心」が見える。このあり方が、舞台上のドラマ性を高めるのをどう理解すれば良いのか。やる側でない私には深い謎の一つだ。

財産没収

財産没収

サファリ・P

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/12/20 (木) ~ 2018/12/23 (日)公演終了

満足度★★★★

何か書くには情報が少なく、演出意図を取り違えそうだが、、以前観た同演目の上演(それも独特な演出だったが)では確か男女の二人芝居で、死んだ姉の事をやたら語る妹の中に姉への偏愛や憧憬や憎悪やらが不分明に渦巻いて殆ど姉と同じ道を辿りそうな危うさを感じさせ、実はこの妹が語る姉というのは自分の事ではないかと思えて来たり・・その「他者」の言葉を聞く青年(少年?)の身体に観客として同化して行くような、そんな芝居だったのを思い出しつつ、かなり大胆な演出的切り込みをしているらしいP・サファリの三人舞台が意味深でスタイリッシュで猥雑な残影を落として行くのを眺めていた。
高さの違う電灯が天井から三つ吊され(人の腰あたりのもある)、他にコードが下まで届いて床に照明が置かれたのもあり、その縦のコードに真っ赤な帯が結わえ付けられ斜めの線が2本出来る。その四角のエリアには、女性用の帽子を被り黒レースを羽織ったトルソー(胴体の人形)があり、これが擬人化されるので、最大4名の人物が舞台上に居る勘定となる。
始め男性二人が上手奥袖から時間差で登場し、ジャレたがる片方が他方を追うものの、相手は別の事(歩きながら読んでいる本=「財産没収」のテキストか)に気を取られ、つれなくしているという図がリズミカルに表現される。暫くあってつれない方が声を発すると女演技で、女性役を代行しているようにも、あるいはゲイカップルの女役とも見える。紅一点がやがて登場。容姿・動きともに妖艶を絵に描いた艶姿で、(下品を承知で言えば)鼻血もの。女役を兼任する男と、既にゲイにしか見えない締まった筋肉の男性役との三者が、位置とモードの入れ替えしながら良いバランスで変転する軌跡が何とも「美的」なのであるが、象徴されているものを読み切れない。
以前同じアゴラで観た「悪童日記」(今度また再演するらしい)もそうだったが、身体を駆使したパフォーマンスが特徴で、スピーディで形が良く、緩急によって情感が表現できる。今回は利賀演出家コンクールにも出品した演目だからその再演と思われるが、利賀だけに暗示部分(表面に見せない部分)が広がっている演出の方が評価が高そうだ。従って難解なのもむべなるかな、だが、「悪童日記」という小説の舞台化の方が難しい作業だったのでは・・とは素人の感想。
「ユニット」にしては完成度の高さに圧倒される。新たな仕事でまた驚かせて欲しい。

ロはロボットのロ

ロはロボットのロ

劇団おとみっく

角筈区民ホール(東京都)

2018/12/27 (木) ~ 2018/12/27 (木)公演終了

満足度★★★★★

初演の頃地元の鑑賞会だかにたまたまやってきたのがこのレパートリーでこんにゃく座を知った始め。新宿梁山泊くらいしか劇団というものを知らない私が脚本・鄭義信の名に気付かなければ、出会いは10年遅れたろう。宝石のようなこの作品は音楽萩京子の曲・うたと鄭義信の本との稀有な出会いの賜物とも言え、特にテーマソングにも当たるあの曲(題名を知らない)は、明るく笑い合いながら涙する鄭作品情緒の真骨頂がこよなく反映された楽曲で、日常を取り戻した大団円で歌われる。
2001年の初演からブランクの後、ここ何年にまた一般公演からレパに上がり、池袋、そして一般人可能な鑑賞会に埼玉くんだりまで足を運んで十分に楽しんだのだが、最初のインパクトには届かなかった。埼玉公演では心無しか隙間風が吹くのを否めず、それもそのはず自分の鑑賞眼が肥えてしまったのだ、と思っていた。
が、今回の(演技面では)ほぼアマチュアに等しいキャストに拠る「ロはロボットのロ」に、初演時の感動を呼び起こされたのだった。
歌は大変良いが演技は拙い。演出はこんにゃく座の大石氏でこれが健闘だったが公共ホール(2~300席の中規模)の限界は否めない。こんにゃく座の役者だったらこの台詞ではああやるな、など勿体無い取り零しに一々引っ掛かりながら観ていたのだが、後半は演技の方もキャストの「地」の力がプラスに転がる(だけの物語説明がしっかり為されていたのだろう)方向に転じ、区民ホールという場で、架空の町ウエストランドの物語が濃密に、そして蜃気楼のように、浮かんで見えたのである。
おとみっくの出自は音楽畑、正しくオペラという事になるが、この感動の要因はいずれまた。

ネタバレBOX

本家を貶めるつもりはないのだが、うた(音楽)と芝居(演技)の兼ね合いである。
こんにゃく座の復活「ロはロボットのロ」では、演技は格段にうまい。痒い所をしっかり掻く。佐藤(敏)氏のドリトル博士ともう一役を白髪のカツラの「早替え」で登退場を繰り返すなどは典型と言えるが、幾つかの箇所で初演ではこうだったかな... と思う所があった。主役の佇まいも重要、再演でテトを演じていた若手はのほほんとしたおおらかさはあったが何かピースが足りなく感じさせた。役が担っていた「役割=機能」を何か落としている感覚。初演となるとかなり古い記憶だが、ロボットの動きが見せる(人間基準では)素人なたどたどしさと、生への躍動と恐れが混在した初々しさ、知らなさゆえの大胆さといったものが、これから起こる事の伏線になる。ぼんやりでは必ずしもなく、人間基準では足りない諸々を補うべく脳内は目まぐるしく回転し、しかし選択された動作は無駄なくシンプルという、人間種ロボット属らしさのリアルとでも言うべきもの。
これも随分前だが「アルジャーノン」の知恵遅れの主人公と共通するものがありそうだ。テトの繊細さが、ココという存在を発見する。ロボットの動きも、言語に訛りや不自由さがあるのも、鄭が好んで用いる片足を引き摺る女性も、イノセントである事や優しさや被虐の運命や、そうしたものを引き受けるドラマ上の仕掛けであり、かくありたいがあれない自分の代わりに存在する者だ。この無実性が揺るがなく感じられる事が重要で、それを上回る「笑い」は不要だったように思う。
もう一つは言うまでもないが音楽、うたの比重の大きさ。結局はうたの説得力が、オペラでは物語説明の説得力となる。前半は芝居(演技)部分で冷や冷やするが、後半は音楽が凌駕し、芝居も引っ張る。
おとみっくの役者は歌を専門とする故に、声が澄み、演技では汚れ切れないが、佇まいそのものがイノセント。若さゆえに嘘が無く、恐れがあり、不安に打ち克とうとするひたむきさがある。素人だから成った舞台であり、次は演技をもっと旨く、と意識したら崩れてしまうバランスの上に出来上がった舞台だ、という気がする(無論うたの力は絶対的だが)。
tatsuya ー 最愛なる者の側へ

tatsuya ー 最愛なる者の側へ

桜美林大学パフォーミングアーツ・レッスンズ<OPAL>

桜美林大学・町田キャンパス 徳望館小劇場(東京都)

2018/12/16 (日) ~ 2018/12/23 (日)公演終了

1987年が鐘下辰男のTHE・ガジラの立ち上げ、「tatsuya」は91年初演で文化庁の芸術選奨文部大臣賞新人賞を受賞・・・とは後で調べて知った事で、私と言えばこれは鐘下氏の新作だろうと。筆力の衰えの兆しかと。そう思った自分であるから大きな賞をとったとは意外だったが、自分の評価を修正はすまい(芸術選奨の過去の選出をみると、当年度の作品に与える体裁で、たまに妥当なのもあるが周回遅れでの授賞と見えるものが多い)。

新作かそうでないかは大きい。こと過去作品(「tatsuya」は20数年前)を上演する場合、「なぜ今これか」のexcuseに余念がないくらいが普通だ。言うまでもなく演劇は現在性が命であるから。受賞作か否かはどうでもよろしいが、過去作品であるか否かを察せられなかったのは観劇としてはボタンの掛け違いだった。結果的に舞台単体で私をねじ伏せはしなかった、で十分なのだし、鐘下辰男という人自体が一々弁明をしないタイプに思われる。が、観客としてはある程度、舞台を味わう補助線を持ちたかった、というだけの事。時間は戻らず、混乱しつつ観た事実は残り、今となっては修正が難しい。
なぜこれを新作を思ったか・・・チラシその他にヒントが無かったのもさりながら、観劇し始めて「永山則夫」のモチーフが見えてきたにも関わらず、(私の不勉強もあるが)役の名前と描かれた人物イメージが違う、周囲の人間との関係も違う(この人物を題材にした演劇作品には二つ程出会っているが)、という事は少なくとも永山則夫にまつわる「史実」を追っていない。大胆な翻案の線ではなく、フィクションか、もっと現在に近い事件を題材にした戯曲か・・という類推が生じた。
口角泡を飛ばし合う役者らの身体は現代のそれである。モチーフは「貧困」に括る事のできる犯人の境遇と事件との強い因果関係にあり、テーマとしては古い。物質的欠乏だけでない貧困という面では現在にも重なるが、その事を巡る人の振る舞いが(書かれた台詞による)一時代前のそれに見え、演じる感性じたいは時代が下ってより現代的に見える(ここは俳優の演技の問題であるかも知れぬ)という、このちぐはぐさには混乱した。
過去作品をどう現代化するか、その橋を十分に渡し切れていなかった、というのが私なりのまとめである。
もっともこれしきではマイ鐘下ブームは終りそうもなく、「筆衰え」説は差し当り保留できて安堵である。

女中たち

女中たち

風姿花伝プロデュース

シアター風姿花伝(東京都)

2018/12/09 (日) ~ 2018/12/26 (水)公演終了

満足度★★★★

風姿花伝プロデュース第5弾。第1弾「パサデナ..」に心酔、前回を惜しくも見逃したので今回は早めに予約。演目はそれまでの比較的シリアスなストレートとは少し傾向を異にしていそう(「女中たち」は恐らく観ていないが何処と無く)。鵜山仁演出、さてどうだろう・・楽しみに出掛けた。例によって体調(↓)を懸念したが舞台との距離近し。豪奢に飾られた邸の一室は目を引くが、写実一色でなく象徴的な形も含み、役者が入ってみないと見えない余地がある。
さて開幕。演出がこの戯曲についてパンフに書いた中にあった「虚実」定まらない難物、という(意味の)言葉通りで、難敵を相手に四苦八苦した跡が見えたのだが。「女中たち」をこれは読まずばならぬな、と強く思い劇場を後にした。
(余談だが劇場入口に洒落たカフェ(窓口で出す)が作られていてチケットで一杯。終演後飲んだがこれは美味い。次来た時もあるといいな。)

ネタバレBOX

実は途中で寝てしまったのだが、その理由(体調不良以外の)を言い訳がましく考えた所を。開幕後、艶やかな女主人をいかにもな振りで演じる中嶋朋子と、しおらしく振る舞っていたかと思うと無礼な口をきく那須佐代子の女中のやり取りから、興味深く小気味良い謎掛けの始まりだ。ところが、その先から雲行きが怪しくなる。二人のやり取りが過激化して女中が女主人の首を締める途中で目覚まし時計が鳴ると、「もう少しだったのに」と、二人は芝居をやめてしまう、というオチがまずある。彼女らは二人とも女中で女主人不在の時間をそのように楽しんでいた訳だった。これをオープニングとして、以後暫く「現実」のやり取りが続くのだが(これを現実と捉えるべきか否かも微妙に思われるが)、ここから那須氏の演じる方の女中が悲劇的なトーンで台詞を出すのである。相手に食ってかかって笑いああの余地=遊びがない。わざとらしくそうやるのでもなく、真剣さを観客に理解し共感してもらおうと必死に演じるが、空を掴み損ねるかのように言葉が着地しない。台詞の言葉の要請と違う答えを役者が捩じ伏せようと見えるのだ。
この場面が始まった時、鵜山仁氏は役者に演技の中身はについては注文をしない人疑惑(私が勝手に思っているだけだが)を思い出した。
何となくだが今回のキャスティングは女主人が若く女中が年嵩という変則的なもので、特にその点に意味付けをしようという意図は感じなく、その事の違和感もさほどなかったが、役者本人にとってはどうだったろう。
いずれにしてもこの戯曲は人物のその人らしさを謎解くタイプの劇ではないだろうと思うのである。(人情の機微や真情の訴えで感動を誘う芝居では、後に明かされるその人の来歴や本心、というあたりが落とし所になるのだが。)
それで思い出したのが文学座で昨年二十年ぶりに再演した別役作「鼻」。別役のとぼけた台詞の中に僅かに滲む程度の「感動」に、芝居こと動員して力業で感動ドラマ風にしていたのも、鵜山演出だった。この「女中」も殆ど強引に感動を掘り起こすというよりあてがっていると感じられ、終盤の洒脱な台詞も真情吐露に重ねていて、頭の固い私が端から決めてかかったのが悪いのかも知れないが、全く合わないものを接合しようとしていると感じてきつい時間となってしまった。
女中らの弁えは、とことん本心を「読めなく」振る舞い続ける事ではなかったろうか。虚の中から、観る者に実を探し出させる構図にすべきではなかったか。明日で公演は終わり、自分の実感を検証するためのリピートが叶わないのは残念。
精神病院つばき荘

精神病院つばき荘

つばき荘上演委員会

新宿ゴールデン街劇場(東京都)

2018/12/13 (木) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

冒頭から耳に覚えのある台詞と展開・・。別役戯曲をパロったオープニング?いやいや長い。どこかで読んだか観ている。一体何処で?、、気になりながら前半を観劇し、後半で漸く思い出した。
昨年末の劇作家協会新人戯曲賞の公開審査で、候補作を一本20分か30分読んでいくというプレイベントがあり、どうやらそれを聴いたらしい。もっとも、「あ」と思い出したのは実際には聞かなかった終盤の部分、殆ど一場物の芝居の最後だけ、暗転の後かなり(物語上の)時間が経って人物の様子もガラッと変っている。公開審査での審査員が交わす意見を聴きながら、頭に形作っていた場面が出現した訳だった。それもその場面に対するややネガティブな印象(審査員による)とセットで。
くるみざわしんによる戯曲の評価は「原発事故被害の問題に果敢に挑んだ意欲作」「言及のさせ方が巧い・・とぼけた病院長の暴言と患者のやり取りとか」と好評で最終決戦の候補という感じだったが、「(終盤での)院長の変化に飛躍がある、その過程が欲しい」「大作と言える枚数、もっと圧縮できないか」といった減点評価あり。そう言えば最後までこの作品を推したのが渡辺えりだった。
それはともかく...
確かに長い戯曲で、これを1時間50分に圧縮したのは恐らく土屋良太演じる院長の高速台詞術による。最後の場面が全体の5分の1、残りのケツ4分の1が「注射の下手なベテラン看護婦」(近藤結宥花)が登場しての院長告発場面、その残りは、口数の少ない患者(川口龍)に殆ど喋らせず説得しまくる院長の独壇場なのである。噛みはあるものの俗物で飄々とした病院長の風情で台詞を連射する土屋氏の役者力は嫌という程見せつけられる。一方、昨年十数年振りに舞台でみた近藤氏の今回の白衣姿は(新宿梁山泊で主役を張っていた頃の少年然とした姿を彷彿させたが)、「注射が下手」と患者から嫌がられるという戯曲上の「いじり」を受け切れてなく、純粋一直線。原発というテーマが流れる戯曲で、観客が共感できる「真っ当な感覚」を体現する人物を買って出た(あるいは演出)ように思われた。そして、病院で一番頭脳もはっきりしていて入院歴の長い男性患者は院長以上に他の患者の事を理解し、うまく対処するので信望も厚い(この皮肉な設定ももっと発展させたい)、だからもし事故が起きたら「病院から逃げない」と一言発言してほしい、というのが病院経営側の希望であり、説得の使命を帯びたのが院長なんである。
原発事故を遠回しに言及させる設定のうまさがこの戯曲の売りであり、そのための些か突飛な設定での長編コント?でもあり、従ってもっと戯画的にやれそうなのだが、やはり最後の場面に「感動」の要素が織り込まれており、滑稽とシリアスの塩梅という点で中々難しい素材でもあったように思う。
出来れば作品名を冠した一度切りの上演主体ではなく、ユニット名を付けて何らかの継続的活動にして欲しい、そう思わせる座組、企画。

スカイライト

スカイライト

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2018/12/01 (土) ~ 2018/12/24 (月)公演終了

満足度★★★★

デヴィッド・ヘアなる作家の作品は初めて。わざわざ翻訳・上演するだけの秀作。映画も撮ったり脚本提供している作家という事で、「それも見てみたい」、そう思わせる舞台でもあった。
演技の質が三者異なり、息子以外の二人(蒼井と浅野)の長いやり取りが最初なかなか入って来なかったが、後半部分でカバーできる内容だったかと思う。
二人の関係がよくよく見ないと理解できない特殊な人間関係が狙われたのなら、解りづらいのが正解だが、よくある男女の過ちの関係と読める台詞もあったりするから、「攻め」のタイプの男役の方が判りづらくしていたかもだ。「俺達は特別」であり相手も自分を愛していると確信し、「何ら恥じる所はない」と言い切る男より、躊躇いつつもそう口にするのが、関係説明としては判りやすい。たとえ女が本心(男を愛している事)を伝えるのであるにしてもだ。
ただしこのドラマでは、その焦点が愛の真偽にではなく、他にある事が明確に伝えられる。他者との関係(即ち社会)の捉え方、そこからどの道を選択するかという「行き方」の問題を一人の女性を通して示し、そこには侮れない切実で本質的な何かが存在する事を、男の舌鋒を潜らせる事で仄かに、しっかりと浮かび上がらせている。男の必死の非難の形をとった説得は、資本主義社会の「常識(良識?)」であり、同時に彼女が寄り添おうとする社会の周辺の人々の正義を無にするもの。恐らく作者は男に執拗に食い下がらせる事でその事を可視化しようとしたに違いない。
小川新芸術監督のまずは手堅い仕事始めという感じかな。




尼を待つ

尼を待つ

三度目の思春期

ギャラリーしあん(東京都)

2018/12/12 (水) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

久々にしあんを味わいに。同作者のタイムリープ○○も以前ここで、小粋に見せていた。今回はシリアス?と思いきや「笑い」は無いものの、時間と本人性を混濁させ(椿の花の効果とか)、人気の尼寺に悩み相談に来た主人公が、尼僧の到着を待つ間に一騒動の末、解決してしまうという趣向。
柳井氏の戯曲は矛盾や齟齬がいつも引っ掛かりながら、最後には巧くまとめられ、スッキリ(完全にとは行かないが)させられる。役者が真情の見せ所、ポイントがあるのだと思うが、そこを掴んでいるからこういう小品一本で勝負できるんだろう...と、外側からの感想。

ネタバレBOX

もちろん気になる部分は気になるんだが。テレビにも出て生活アドバイザー的な役どころを得ている「成功した」女性にしては、人を遠ざけ、独りぼっちというのはどうか。会社を立ち上げ自立への欲求から離婚、成功は手にしたが孤独、自分が娘を捨てたから母親を名乗る資格なしと、娘の側から歩み寄ってるのに遠ざける精神性が、実業家のキャラに合わない。仕事面で限界が、個人史とリンクしてくる、というのならまだ判るのだが。役者が実業家のキャラより、主婦然としていたせいかも知れない。
家庭生活の限界を感じて一念発起したのが始まりなのか、主婦業の延長で自立を志したまたま成功した順序かで、ドラマの様相はえらく変わるが、あまり追求していない。
等あれこれあって、リアリティが減退すれば感動も減るが、味わうのは作劇の妙であるからして、人情の機微では二の次。不可思議な現象のカラクリが解け、その上で最後に自分の意思を明確にして未来に踏み出す、というドラマ構造が示され、結末に辿り着けば上がりである。ある種のこれもミステリーと言える。解決してスッキリする、パズルを解いた悦びと同じ。多くの演劇は「謎解き」を楽しむもので、パズルが難解であるほど(リアルをより深く追求したものほど)快楽も大きいというのに過ぎない。柳井氏の小品はその骨格をシンプルに見せるだけ潔いと言える?
ただ演劇の力は現実と交錯する側面にある、と考える私としては、もう一歩二歩リアルに迫りたい願望はある。
ただいま

ただいま

劇団こふく劇場

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/12/12 (水) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

初演もアゴラで観た。悪くない感触。ただこの時は「様式」の方が前面に出て見えてしまううらみと、台詞を聞き逃して人物の関係性が見えないまま終演を迎えた事は残念だった。ナチュラル演技なら台詞の聞き逃しも身体反応で補える所、役者は様式の方に身体を動員されている訳である。
今回は何より、作演出の永山氏が昨年東京滞在し製作した舞台(上演は今年1月)が衝撃で、これを挟んで敢えての再演ツアー。作品の進化ぶりを観に出掛けた。
まず装置がかりそめでなくしっかりレトロに誂えられ、照明も深みが出ており(と感じた)、独特な台詞のユニゾンの精度は格段に上がっていた。人物の関係性は見失いかけたが踏みとどまり、大方掴めた。主人公の女性の「お見合い」の相手を紹介した男と、彼女との関係がやっと判った。
ドラマのほうは、主にそのお見合いの顛末、主人公の義兄(見合い相手との仲介者)と彼の失踪した妻との事、主人公のだいぶ年上の従姉(四十で最近やっと結婚)とその父との事、主人公のコーラスサークル仲間(唯一の二十代同士)の事、四つのエピソードがそれぞれ語られていく。場面転換に暗転はなく移動は無機質な摺り足で板付きの場所へ、鳴り物/唄等要員のエリアにも移動。この動きはコミカルに見えたり逆に粛然として見えたり、定まらない所が実験的にやってる感じになる。ユニゾンの「語り」は語る内容が深刻でもコミカルというか軽やかになり、こうした効果は主人公が持つキャラ、その物を見る視線と捉えるとしっくりと収まる感じもある。主人公は終盤訪れるお見合い話の場面で、相手が実直そのものの年下という事もあろうが自分自身を俯瞰してその滑稽さに笑い出してしまう。ほろ苦さの広がるようなお見合いの結果となるが、この場面はそれまで他者の物語を語ったり見ていた主人公が初めて己を開陳する。笑いの奥に一つこじれたものも幽かに匂わせるが、他の三者の物語=人生への応答のようでもあり、劇構造を変則的に示してさりげなく劇的。
問題は、突き放して見せていたドラマに感情移入をかなりの熱度で誘って来る後半。微妙な所だが少々押し付けられ感があり、作者の思いに戸惑う事も。
コミカルにまぶす見せ方はヴェールであってそれを剥ぐ事で見える、という事でもない。思い出したのは青☆組の女優がしばしば見せる演技、泣き笑いの表情(笑い泣きではない)。私としては限定的にしか受け入れ難い表情で、悲しみを圧し殺して笑顔を見せるのはそれ自体美徳でも何でもない、真にやむを得ざる状況で必死に誰かを生かそうとする局面でのみ、崇高さを持つ表情である。父を見送る娘は喪って悲しいか感謝で満たされるか、どちらも無いか、でありたい(泣きながら笑う、如何にもドラマチックだが私は作為を感じてしまった)。
これは恐らくはこのエピソードに限って伏線を幾つも張ってしまったためにその謎解き説明がまどろっこしくなった結果だろう。他の二つのエピソードは
多く語らず、自然に立ち上がって来るものがあったのだ。
例えば唯一の男優は妻が突然いなくなって何年かが経つが、心の隙間から生まれたような架空の女(○○さん、と苗字もある)が時々現れて暢気なやり取りをする。彼の醸す天然の入った鷹膺さはこの芝居そのもののトーンだったりするのだが、その笑みを湛えた穏和な顔が決壊する瞬間がある。その時あらゆる人間の哀しみ怒り無念さがどっと押し寄せる感覚に見舞われる。毎年のように続く災害、犯罪、不正・・。無論、連想するのは私の脳味噌であるが、象徴的表現による効果であるに違いない。
主人公の話し相手でアイスの好きな明るい既婚女性も終盤、おもむろにある男性との事を一人語り出す。僅かな伏線をよすがに滔々と謎解かれても何の事やら状態だが、さらけ出される「思い」だけは迫るものがあった。
永山氏の思い描く人とその関わりの共同体のイメージは、私の実家がそうだが地方人のそれを思わせる。大都市は便利だが地方の疲弊が生む余剰人口は都市へ流れ込み非日常な日常を強いられる階層が存在する。ある意味その病んだ在り方を相対化し解毒するのが演劇であったりする側面もありはしないか。人や社会はどこへ「戻る」べきなのか、容易に答えは出ない。だが永山氏のこふく劇場は答えを、でなく答えを探る道標を示そうとした、と理解した。神奈川で上演したまあるい劇場の事をふと思い出した。

「追想と積木」「いつかの風景」

「追想と積木」「いつかの風景」

劇団水中ランナー

ワーサルシアター(東京都)

2018/12/12 (水) ~ 2018/12/17 (月)公演終了

満足度★★★★

初の劇団だが、「根拠のない予想」に違わず?、正攻法で一定の質を獲得した舞台だった。「追想と積木」を観劇。こちらが再演、もう一方の「いつかの風景」は前者の設定(記憶の障害)を男女入れ替えた新作という事である(解説より)。感想を一言に約めれば、「もう一つのも観てみたかった」、と思えた出来。
青春群像ラブストーリー、と括りたくなる恋愛含有率の高さで役者も登場人物の年代も若者向け、と言えばその通りである。冒頭いかにもな「イイ話」(後で劇中劇と判る)が始まった時だけは不安が過ぎったが、作劇も、要所を押えた演技も一々納得であった。

ネタバレBOX

ママチャリ同好会改め演劇サークルの部室(再現)に7年振りに集う元部員、彼らを迎えるのが事故で記憶を無くした男の今カノ。10名。
現在のシーンは、まず到着した一人を迎え入れ現状を伝える静かな会話に始まり、部員が一人また一人と顔を出す。部活当時の回想シーンは、大勢が登場しフルパワー。話の中心軸は、部員(現記憶喪失男)の闘病中の母の前で、名ばかり演劇サークルを返上、父母の出会いの物語を芝居にして病室で見てもらう事。目標が出来、奮起する部員たち、そこに進路や恋愛話も絡む。
記憶喪失男が失くした記憶は卒業後から現在までの7年という設定だが、この事で彼はまだ学生でサークルの部員の頃の自分である事になる。気丈な今カノも淋しげな顔を見せる一方、回想シーンの進行で次第に男と思い合いながら成就しなかった恋の相手が浮上する。また、男は浦島太郎よろしく7年後の現実に驚く事の一つに、病院で披露した劇の台本を苦労して書いた男とその彼女となった女性が二年前に別れていた事、そしてサークルの精神的リーダーと言える男女の理想的なカップルが子も授かった今二人の関係に不安を覚えているらしい事。。無論、母が闘病の末亡くなった事も今カノに聞いて知った。時間経過の残酷さを訴える男が「現在」の現実に動揺を投げ掛ける要素と、彼が負ってしまった障害にどう対処すべきか迫られる要素とがない交ぜになりながら、最後には「ここから始める」べき一歩を確認して幕が引かれるという、涙涙の観劇であった。
脚本上の矛盾もあったが、投げ掛ける素朴な問いと、俳優たちの魅力が凌駕した。
あゆみ

あゆみ

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2018/12/15 (土) ~ 2018/12/26 (水)公演終了

満足度★★★★

柴幸男の<発案>したユニークな戯曲に、更に演出的工夫を施したfeblaboプロデュース版「あゆみ」を観劇。以前極小空間(野方スタジオ)でのfeblabo版上演を観ており(「あゆみ」の他のバージョンは知らない)、この時は6~7人の女優が、狭いマンションの一室の奥半分の演技エリアを丸椅子で取り囲んだ円形の客席の間に、女優らが座ったり移動する中継点が置かれていた。苦肉の策だが不思議と違和感を起こさず、白い衣をまとった女優たちのしなやかさ、個性と、その個性を超えてドラマを見せる戯曲の強固な構造を印象づけた。
今回も予想通りこの優れモノの演出が踏襲されていたが、空間が違えばまた趣きも変わり、前に無かった趣向も入れている、にもかかわらず、以前のように「あゆみ」の歩みと同道する自分が居た。ズバリ一言で言えないが、不思議な魅力が潜む作品である。(とことこver.を観劇)

ネタバレBOX

まずこの戯曲では主人公の「私」(と交差する人々)が常に一方向へと移動し、役を複数で分担し、リレーで運んでいく事がト書きで指定されている。この形式の劇的効果は特許ものだ。コロンブスの卵と言おうか。。台本には台詞の切り方、割り振り方までは指定せず、上演主体に委ねている。場面々々に要する人数は1~4人程度だから、例えばキャスト4人での上演も、円形なら物理的には可能だ。人数が少なければ役者の「変わり身の早さ」も印象づけ、人数が多ければ(限度はあるにしても)、一人の人生を見守る「多くの目」を持つ舞台となる。キャラも声も、演技態も異なる女優たちが同じ役をリレーで引き継いで行く形式は、箱根駅伝ではないが一つの競技をやりきろうとする姿、仲間の頑張りに応えようと努力する姿も重なり、共同作業という演劇の本質に符合すると同時に、「あゆみ」という女性の(平凡なりに波乱に満ちた)人生を走り抜く姿にも重なる。不思議な感動の源がこの形式の中にある。
feblabo版は、「一方向」との指定を円を時計回りに巡る形とし、客席が取り巻く形にした。客席と舞台との距離は上記狭小空間でのそれには及ばないが、近い。観客ははじめ、普段モードで役者が入場し、自らの楽器演奏に乗せてリズミカルに前説をやるのを見る。「芝居」が始まるのは、役者がある役に入った瞬間であるが、その後も他の役者が入れ替わり立ち替わるため、ドラマそのものに没入して行く訳ではない。殆ど見知らぬ無名の若い女性たちが、役として存在しない素の彼女らとして居並ぶのを、観客は普段初対面の相手を見るように見ている。(ある小さな一役を除いて)特定の役を当てられている訳ではない女優は、主人公の「私」を役者全員がほぼ均等に担い、また頻出する母、高校の先輩、職場の後輩なども、全くカラーの違う女優ら(共通点は白い衣裳のみ)が次々演じる。
この「キャラを飛び越えて一つの役が共有される」点と、「素の彼女らが(役への出入りも含め)見えている」点が、この形式の最大の特徴だ。
さて、役者らははじめ、傍目には「かぼちゃ」というと失礼 だが「演じる要員」として配置されている。が、問題はその後だ。
「観客は役ではなく役者を見ている」、とは、古い演劇人の吐いた言葉だったが、「あゆみ」の形態でその事は明白となる。正確には、役に取り組もうとする役者の姿が見える、と言うべきだろうがそこには抜き去り難い個性がある。8人の女性らがそれぞれ、任務として人物を受け継ぎ=役に入り、担い、次へ渡す、という「行為」を続けて行くが、このプロセスを何度も見せて行く事で役者自身を披露していっているのだ。
ここに柴幸男という演劇人の志向するところが見え隠れする。・・「適役があるか否か」は俳優を選ぶ基準とはなり得ず、「うまい俳優」が必ずしもこの劇を感動的に仕上げる訳ではない、という事。
今回目にした彼女らが素人役者という事では決してなく(未熟な面はもちろんあったが)、一人一人がぶつ切りの場面を演じては退場する、否応なく目に入るその「現象」から、揺るがないものが痕跡として残っていくのだ。
(うまく要点を掴めず長文となりにけり)
THE PILLOWMAN

THE PILLOWMAN

Triglav

山王FOREST 大森theater スタジオ&小劇場(東京都)

2018/12/12 (水) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

PILLOW MAN (枕男)。劇中のあらゆる単語からこれを選んだ作者の思いを噛みしめた。サイコな殺伐とした話が、たとえば人生最後の日に見るに価する泉に変わる「変わりめ」の妙は、同作者「スポケーンの左手」にもあった。
主役と、翻訳もした中西良介は新国立「赤道の下のマクベス」で英語の台詞を喋る戦犯収容所の看守役だったが、伊達ではなかった訳だ。
初めて訪れた山王FORESTは地下の割としっかりと設えられた劇場だが、ステージは狭く、装置に工夫あり、回想話に影絵(シルエット)を使ったりと、巧い。
精巧な時計のように緻密に書かれた戯曲を、十分に再現していた。

ボードゲームと種の起源

ボードゲームと種の起源

The end of company ジエン社

3331 Arts Chiyoda(東京都)

2018/12/11 (火) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

まだ観劇二度目のユニット。今回はチラシが手元に早くあり、予定が立った。ジエン社の舞台とは作演出・山本氏の思索の演劇的展開(演劇的手法の探求も含む)、という印象を持っていたが、期待に違わず「知」が勝った内容。もっとも、吐かれる言語は晦渋でもなく、ただボードゲーム関連の専門用語(運ゲー=運命ゲーム、勝敗が運任せ。など)がほぼ説明抜きに使われる。ボードゲームについて思索する人物の姿は見られたが、その思索がドラマの結語を捻り出す訳ではなく。もっと手強い難問、即ち人間なるものが「彼」の周囲に居り、問いを仕掛けてくる。
芝居はコンパクトに一時間強、Arts Chiyodaらしい?試作品の趣きであったが、無駄なく濃密な一時間を作った。この会場(地下)は廊下に接したただの四角い空間だが、意外にも劇空間をうまく補い、秀作が産まれる。(サンプル『ブリッジ』、ナカゴーを思い出す。)

ネタバレBOX

ボードゲームやそれを創ったりテストに掛けて改良していく人達のグループがあり、それらをくるめたボードゲーム界隈の事情が話題にのぼるが、これを対話式に思索プロセスを辿る側面と、自らもゲームを作成する登場人物(唯一の男性)と三人の女性との奇妙な関係を紐解いていく側面が並行し、後者が見せる関係性の表情がとても面白く、時に美しい。メンヘラな世界にも見えるが人間の心理の一枚裏で渦巻くドラマを、ひっそりと眺める感覚でもあり、「人間」の輪郭が仄かに見える、というか想像させるのが新鮮である。

「男」には妹がおり、親の影が薄い分、妹は兄をより自由に、つまり男性としても見る視線を弄び、持て余している。また、父母の居ない空き部屋にはもう一人女がどういう訳か住み着いていて(自分の事を語らず身元不明)、ツンデレのこじれたリアクションを常に「男」に対して取る。そして、ボーゲ・フリークで自らチロルと名乗る「妖精」(何百歳になると真顔で話す)が、ある集まりの帰路を「男」に付いて来たため、このとき家の中には三人の女と一人の男が居る。
男はボーゲ、ないしその理論(思想?)には自負があるが世間的な成功を手にしているとは言えない、そのはざまを揺れるナイーブさを持ちながら、「他者」である個々の女性との間では筋を通す事を要請され、葛藤の中から一歩出ようと内心足掻いている、という様子などおくびにも出さず、憂いを帯びている。
身上不明の女はそんな「男」の優しさを当て込んでいる、くせにその優しさに苛立っており、そういう自分を客観的に見る諦観も合わせ持つも、男を責める口を止められないループ状態。
妹は引きこもりで完全に兄に甘えているが(甘えさせてくれる兄でもある)、知的に秀でた兄を憧憬してしまう妹の特性を体現し、社会のしがらみを逃れた箱庭空間で「自由」の時が続く事を願っている、そのループ状態。兄の方も、妹との二人暮らしの円環に安定を見出しているとの疑惑を他の女に指摘さる(「異性」への関心をも充足させる・・性的関係がなくとも)。
自称妖精は、(小倉優子ではないが)奇異に見られる事を意に介さず、自己完結し、割り切った者が(年齢に関わりなく)有する独自の観察眼でまっすぐ相手を見据え、やり合う。この存在がボードゲーム(界)の解説を担ったり、他の二人を観測する定点的役割を(実に変則的に)担う。
終盤、「あの人は何?」と妹に兄が問われるツンデレ疑惑女が、「男」にとって唯一向き合うべき「他者」であるらしい事が浮かび上がるあたりが、加速要因となり、変らぬ日常な風景(4人がボードゲームをやっている)に「恋愛」の色がふっとよぎった瞬間、暗転・終幕となる。
ボーゲ論議が途上にある事が、逆に効いてか、人生の問題は途上にあるとの余韻を残す。語り尽くせない事柄を一くさり語り、ここで一区切り。また改めて語り合おう・・。「思索」がこのあとも続く事は確かなようで。
群盗

群盗

劇団俳小

d-倉庫(東京都)

2018/12/12 (水) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

ゲーテと同時代の、これがあの・・。演劇が持つラディカルも「古典」と教科書に載りゃ無害のお墨付きとか。しかし昨今の「新作」戯曲より余ほど暗く鋭く光る刃が・・。
読み継がれ演じ継がれてきただけに普遍性あるドラマ、何故なら、、と考えて立ち止まる。疾風怒濤(シュトルム ウント ドランク)、これも教科書に載る単語だった(私の頃はね)が、大いなる変動(変革)の時とある。「群盗」は自由を叫び、最後には(形の上では)滅び行く物語だが、作者が掲げたのは滅び(現実)の方でなく、滅びさえ自ら選び摘った実、と宣する(事で成就する)自由の方でなかったか。新しい自由の地平を切り開くべき時代(当時にとっての現代)という感覚は、文明・思想の発展深化の末に、この時代誕生した新たな感覚だったのではないか。。(文学や演劇という芸術が持つ力への期待と熱望と確信が、最も高くあった時代、そしてそれを裏付けた作品たちがあった・・・「疾風怒濤」という語がそんな想念に誘う。)
そんな事を想像させた「今面白い」舞台だった。
特筆は、このスケールの大きなドラマをd 倉庫というスペースで、狭隘さを感じさせず感情表出も目一杯に戯曲のエンタ性をしっかり立ち上げていた事。
歴史的戯曲を手近に届けてくれた感謝も手伝って満点星。(つづく)

エダニク

エダニク

ハイリンド

シアター711(東京都)

2018/12/07 (金) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

数年前の三鷹でのiaku版は細密度の高い演出で、屠場だけに(控え室ではあるが)照明も暗くじっくり観る芝居だったが、こちらは打って変わったトーンである。照明がまず明るい。如何にも現代の「食肉センター」らしく、清潔感のあるPタイル様の床、ロッカーにテーブル。711の使い方では、私が観た中で随一。確かにこの劇場は狭く、やる側としては出来れば装置は簡略化したい所だろうが、役者は三人、やはりこの芝居では具象がほしくなる。
さて弁明。この日も体調万全でなく(最近そればかり)、そうすると頭の中のiaku版をいつしかなぞっていて待った反応が返って来ない、といって軌道修正の余力なし、結果筋を見失ってうつらうつら。
中盤以降は明快を旨とするハイリンドの本領が我が耳にも届き、追い駆けた。改めてよく出来た脚本、そんな作品には役者を焚き付けるものがある、という事が判る、というか判らせてくれるハイリンド、でもあるか。ハイリンド舞台は直球でポップ志向にも見えるが、既成戯曲の上演主体だけに芝居には逆らわない(自分都合で芝居をしない)、従って今回の作品の「毒」も、いつしか体現している訳なのである。
男の三人芝居ゆえ、枝元女史はこの度は受付周りの立ち回り。演劇関係者(小劇場系女優)の姿もちらほら、注目度が窺えた。

ネタバレBOX

三鷹でのiaku版は、私のツボに入る前の緒方晋(初見)が関西弁で世間知らずのお坊ちゃんをいなしたりブチキレるあたり、またカップ麺青年の陰に籠り方、納品先の様子を見に来た養豚業者の「頑張ってはいるが一つネジが緩いのが惜しい」二代目ぶりなど(今回観た事で色々思い出した)、「リアル」を掘り下げていた分、笑いもあるが人間の暗部が零れ出しそうなサスペンスな風合い。だが後半の刃傷沙汰を基準に据えると、活劇風のテンポ感のある演出が正解なのかも知れぬ。ハイリンド版はそちらに割り切った格好。(途中意識が飛んでしまっては説得力ないが。)

埋める女

埋める女

城山羊の会

ザ・スズナリ(東京都)

2018/12/06 (木) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

タイトルと内容がごっちゃになり易い劇団の一つ(TRASHMASTERSも然り)。
理由はたぶんチラシが出た段階で内容に関するヒントが殆どない。劇場でいきなり、バーンと見せられる所為だ。
今回も城山羊の会の芝居であったが、そのテイストを演出面にて改めて確認した。場面の変わり目の暗転、どこかから聞こえる奇妙な(どうやら生物が発する)声。濡れ場を作るのは相変わらずだが、今回は話にまとまりがあるせいか不自然さを感じさせず、「筋の通った話」だというだけで良心的な印象を抱かせるのは、「無駄に背徳」でないから、という事だろうか。
今回はユタカという名の中年男(トラックの運ちゃん)が主人公、客に向かって身の上話をするように芝居が始まる。この「観客」の使い方が絶妙で笑ってしまうが、笑いが起きるというのも、「まあ俺の話を聞いてくれ」式の分かりやすい構造が、ズレを作り易いからだろう。舞台はどこかのちょっとした高台にある空き地のよう。話じたいは取り立てて紹介する程のものはないが、居そうな人間のやりそうな言動が満載で、それが溜飲を下げる。
スズナリは「奥」や「裏」があるように感じさせる劇場で、今回の美術でも実在感と奥行が芝居を助けていた。

へたくそな字たち

へたくそな字たち

TOKYOハンバーグ

座・高円寺1(東京都)

2018/12/05 (水) ~ 2018/12/12 (水)公演終了

満足度★★★★

座・高円寺でのTOKYOハンバーグは「KUDAN」(再演)以来。このときは横広の舞台いっぱい動き回り跳ね回っていたが、今度の舞台は「日常」の時間が流れるドラマ。仄かに暖かく浮び上がる教室に、生活臭をまとった顔、顔がいそいそと集まって来る。題材は夜間中学。「糀谷」と書かれてあるから実在する(大田区の)学校である。多様な境遇や来歴を持つ生徒らの多くは、仕事を終えて駆け付け、皆背負う日常も柔でないがそこは大人、教室は騒がしくも気の利いたやり取りで暖かく。ただし最年少の十代女子がハネッ返りで、本音勝負じゃ大人がたじたじ。そんな平和だか戦々恐々だか一見判らない教室へ、最高齢となるだろうそば屋の主人が入校して来る・・。物語は、彼が娘の同伴で学校の説明を受ける場面に始まり、卒業式を迎える時までを切り取ったもの。この学校に通う事がその表われであるが、弱みを抱えた人らが懸命に生きながら互いに触れ合い、人生そして社会(人の繋がり)という編み物を織っていく姿をさり気なく描いた作品。秀作だ。
この題材を描いたモデルとしては、私の中には山田洋次の『学校』があった。映画では登場人物の取り合わせに出来すぎ感が否めないが、様々なタイプの人間が一所に集い繋がって行く暖かい感触は、この映画を思い出した。
主人公は一応このそば屋のオヤジさんではあるものの、群像劇では一人一人が重要。台詞やエピソードで語り切れない生徒たち一人一人の佇まいの中に、「信じられる」生活感、存在感があり、「教室」を介して人生での貴重な時間を刻む姿が立ち上がってくる。・・妻が妊娠中の鳶職人、いい年のトラックの運転手、(実家の?)廃品回収業を頑張る青年、内装業に雇われている中国人、同じニューカマーの韓国人女性、脳性マヒの少女(20代?)。教室では定番のやり合いがあって毎回一時限目が始まる、その教室での国語の授業の様子もじっくり描かれる。学校側の登場人物は担任の女性教師、副校長、新任教師(ともに男性)。だが、舞台中央に浮かんだ教室の「外」の場面も重要。何名かは舞台際に立って自分の事を紹介する。仕事中の他の生徒と出くわす場面も。登下校の道のりも教室の周囲に長く取られていたり、後半ある課外授業の様子も「外」で描かれ、今回の座高円寺の広さというハンディを、教室とそれを取り巻く社会という図式に転換させ効果を出していた。
人間トータルの存在を納得させられる毎に胸がざわざわ鳴る。中でも障害を持つ少女を演じた永田涼香(夏に一人芝居に挑戦した)は地味ながら出色で、この役柄のような人と接触した事のある観客は、その風情から発する多くのものを重ねた事だろう。生きる事への健気さ、仲間が好きである事、知らない事を恥と思わない事、誇り高さ、等々。。事実彼女のような存在が人と人を結びつける。弱さがハンディでなく武器となる社会のモデルがここにある。「学校」とは何か・・・映画『学校』にもその問いがあったな、と思い出した。

ネタバレBOX

注文も幾つか。
西山水木さんがもう一歩「役」(担任)に近づきたかった。登場するのが副校長と新人教師(男)との3人で、西山女史が校長でもおかしくない風格なため、つい偉い先生に見えてしまったり。
生徒同士のアンサンブル、教師のアンサンブル、そして両者の融合という具合に世界が作られたいが、教師側の台詞はあまり多くなく、その分黙っている時の演技=存在の仕方で、私としては「道半ばの教員生活」「心許なさ、不安の中にあっても教職の理想を見出そうとあがく姿」「祈る姿」が見えたかったように思う。難しい注文か。。

ラストに持ってきたオチは、意見の出るところだろう。主人公が生前教室で手を挙げて答えた言葉が、最後の最後に、じらされた後に紹介される(過去のその場面では手を挙げた所で暗転となり、伏せられる)。端的に言えば、オチとしては弱い。また、期待されたのと違う質の言葉であった。
ではどの言葉なら良かったか・・は答えられないが。でも考えたくなる。
この物語は事実に基づく。恐らく作者としてはあの言葉は外せないのではないか、と想像した。
ならリアクションである。例えばあの台詞は他の生徒の口からでなく、やはりオヤジさんに言ってもらう(劇でもそうだったかな・・失念)。するともう一くさり、他の生徒から突っ込みとかリアクションが欲しくなる。少しの間のあと、トラックの運ちゃんが「そりゃその通りだ」とか。するとオヤジさんは、黙して「学びたい」意欲をめらめらと燃やしている。その様子に皆が驚き、やがて感化されて教室が湧く・・。
そんな想像もさせ、それに応えてくれそうな人物たちが私の心に棲んでしまった。
逢いにいくの、雨だけど

逢いにいくの、雨だけど

iaku

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2018/11/29 (木) ~ 2018/12/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

評判が良いので観に行った。口コミの影響大。
今年やった過去作品集のウェルメイド臭が、最近の戯曲(「エダニク」以降今作で6作目だろうか)では殆どみえず、(作者にはどうか知らぬが)私には大きな違い。今作も然りであった。
しかし、思わず「うまいナ」と(悪い意味でなく)呟いてしまうものはある。シーンの切り取り方、役者の使い方。今回は上田一軒でなく作者自身による演出、悪くなかった。
作劇としては、大きく二組に分けられる当事者(要は被害者と加害者)の、過去の出来事のあった時間と、現在の時間それぞれを細切れに重ねて行くように描き、「出来事~現在」の時間が徐々に濃厚に形成されていく構造が優れている。何より、私たちの殆どが経験しない出来事を実感的に追体験するための(想像を促す)時間をじっくりと用意してある事。早急に答えを出そうとするような存在と、そうでない当事者とのやり取りの中で、当事者がどういう実感を持ち、過去から現在への時間を刻んで来たのか・・容易には分らないにせよ、その「想像されたもの」が展開のベースになり、観客が舞台から得るものとなる。
そして役者は、能う限りの精密さで感情を表出し、「そこで何が起きているのか」を雄弁に知らせる。そうして出来上がった幾つかのシーンが記憶の中に珠のように煌いている。

森から来たカーニバル

森から来たカーニバル

劇壇ガルバ

駅前劇場(東京都)

2018/11/29 (木) ~ 2018/12/09 (日)公演終了

満足度★★★

言わぬが花・・とも思ったが一言。
山崎氏は演出をしていない。自身は役者としても顔を出していたが、出演を諦めてでも「演出」に、つまり作品にこだわってほしかった。
しかも題材は別役。それも子ども向けの企画に書いたもの。舞台を「成立」させる事の難しさに考えが及ばないとは。何となく狙いは判るが、何となく以上に思考が詰められていない。
劇的瞬間として焦点化する箇所をどこに据えるかで、全く違って来る不条理なお芝居を、それぞれのシーンを単独で成立させようとする事がそもそも違う、策がない。演技はリアリズムで押しきれないと判ってか、その線を狙ってはいないが、非リアリズムにも徹し切れておらず、成立する演技態を見出し得ていない。そのあたり、塩梅をするのはやはり演出だろう。役者頼みスタッフ頼みでは、残念ながら太刀打ちできなかった。
山崎氏があえて自ら座組をまとめて公演を打つ目的も、よく判らない。役者としての障害である老いに備えて何かに挑戦したかったのか知らん。継続的活動として行くのなら、役者的思考を離れて、一度「演劇なんてクソの役にも立たない」境地にまで下り、そこから舞台を立ち上げてほしい。

その恋、覚え無し

その恋、覚え無し

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2018/11/27 (火) ~ 2018/12/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

十年程前に非演劇系の真面目な雑誌が「新進劇作家」を特集し、今考えると親切な事に蓬莱、赤堀、倉持、はせひろいち、そして東も「飾り込んだ美術は一見の価値あり」と劇団ともども紹介されていた。その後の活躍を見ればその特集は有難い手引きで、他の作家・劇団も観てきたが、桟敷童子ほどコンスタントに新作公演を全力投球で打ち続けている「劇団力」のある集団は、演劇界でも珍しいのではないだろうか。
最近は劇作のクオリティを心配した事がない。本人曰く「同じネタの焼き直し」「およそ三つのパターンの使い回し」と謙遜する通り定番なお話ではあるが、いやいや千年一日とは程遠い、何か新たな要素が加わって来ている気がしている。うまく言葉化できないが・・表現的に危うい部分、ビビッドな瞬間が挿入されるのがそれだろうか。一瞬の間合いだったり、表情の変化だったり、台詞を言っていない人物のちょっとした仕草だったり、それが劇団役者の培った強固なアンサンブルに「揺らぎ」「隙間」をもたらし、観客にさり気なく知覚させる。リアリズム(新劇)系からのアプローチではまた別の言い方で捉えられるものかも知れないが、桟敷童子の文脈では新たな要素ではないか、と思ったりしている。(観る側の変化という可能性もあるが・・。)この微妙なニュアンスの伝達が劇作と相伴い、芝居に深みをもたらす、と同時に劇空間と「現在(現実)」とを繋ぐ非常に重要な回路となり、桟敷童子の芝居を単なる「物語世界」の説明・提示にとどまらない演劇的「現象」にしている所以とみた次第。

ネタバレBOX

今作も実に良い。「良い」、という形容で勘弁して頂く。
盲目にもかかわらず楽天性がのぞく女四人衆の出だしも掴みバッチリ、冒険譚の始まりのように童心に火がともる。そして彼女らを迎える村の者らによる警戒しつつの歓待、山の神信仰に結び付いたしきたり。人々の活力が良い。悪人は出てこないが「自然」という大きな壁が立ちはだかっている。そして平地の方から迫ってくる文明のさざ波、時は大正から昭和の変遷期。山神を恐れ暮らす人々の素朴さ。女の豪快さ。男の繊細さ。どれも、良かった。
役者にはそれぞれの適役が振られる。板垣・大手の両頭と客演女優二名の四勇に、鈴木・原口・もり・稲葉がしっかり脇を固め、川原・新井・新人内野も味を出し、客演男優も団員の如し。さて今回は池下無き後の主役級男を若い深津が担い、長身で風格をみせた。役者は育つのだ、と改めて。久々の山本の健在な姿を見るのも嬉しい。
松本紀保は弱点を背負う役を生き生きと演じ、前回より劇団に馴染んだようにも。余談だが石村みかには終演まで気づかず、コールで名を呼ばれてやっと気づいた(目を閉じた盲人の演技だったため)。中盤までは最近入った(少し年齢を重ねた)新人かと思っており、ぐんぐん存在感が滲み出してくるので一人で驚いていた。

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