イーハトーボの劇列車 公演情報 こまつ座「イーハトーボの劇列車」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    たまに観るこまつ座(本当は「母と暮らせば」をとても観たかったんだが..)。今回何と完売続出の模様で、後方の席なら空いてるかと思いきや、空席は一つ目に入っただけ。ずらり。なるほど松田龍平の名前か、、他の俳優は舞台ではお馴染み、映像ではそこそこ、演目が特段惹きつけたものとは思われず、推測はそこに行き着く。集客力と、ギャラは直結しているだろうか。商売で言うところの自分が消費者になったような不快な気分から逃れるには、芝居の中身である。
    冒頭逃してしまったが、終演後確認して演出は長塚圭史、なるほど舞台の色彩感と場転や汽車の音(シューと口で言う)などの泥臭さが頷ける。悪くなかった。一度読んだ戯曲だったがこれほど長い芝居だったか・・。松田氏のもったりした演技と、やり取りを正当化させるための間合を相手役が取るので、10分は伸びているだろう、と思ったりしたが、不快・不要な間合ではない。
    広い知識と深慮から生まれた含蓄ある濃い~言語のやりとりは井上ひさしの真骨頂で、何とも言えず脳みそを潤す時間だった。

    ネタバレBOX

    さて今回の主役。どの映画もドラマも、どこを切っても同じに見える俳優が居るが、松田龍平もその一人。映像では微妙な計算も見えにくかったりするので必ずしも「同じに見える」イコール大根な訳ではないと思うが、松田龍平は台詞の発語が下手に聞こえる。風貌で何とはなしに説得されるタイプ。
    発語する事じたいがあまり格好よくなく、無言が一番似合うと恐らく本人が自認しているのではないか、と思えるフシもある。映画では「舟を編む」、ドラマでは「カルテット」にそんな印象を持った事を思い出す。このキャラは狙いとして、宮沢賢治にハマらなくもない。

    しかし台詞との格闘を要する舞台では、技術的な修練がやはり必要なのだな、と、思った次第。自然な感情で台詞を吐くと恐らく聞こえない領域になる、そこをメリハリ付けて発語しようとした努力の痕跡が、変な具合になっている。
    句点までの一文の中に読点が一つ入る程度の台詞で、前半文の語尾を、くいっと揚げるのだ。台詞を頭で思考し始めた時の模索のパターンで、説明的な意味では言葉は明確になるのだが、幼児性が漂う。人物の「心」になり切れないので台詞に息を吹き込もうとする(本人的には)揺さぶりがそういう形で出てくる風な。揚げなくて良いと思える殆どの箇所で、例えば「僕が考える農村というのは」の語尾を、「はァ」と一段高く上げ、かつ少し伸ばす、このニュアンスは「だからさあ、何度も言うけどお」と噛んで含める抑揚に近く、幼時相手の物言いだ。これが頻出していた。
    相手にぐっと踏み込んで言葉を押し込む場合にもこの強調の仕方を用い、形としてはワンパターンとなり、生きた人間の口から出てきたというよりは「言い方」を探ってたまたま今そうなった音を聞いた、という感じになる。これは実際のところ私には興醒めだったが、まあ頑張ってるし、暖かい観客はそこは差引いて観ている(作者が仕込んだ笑える台詞には優しく笑って上げているし、終幕とみるや、実はもう一くさりあっても拍手が前のめりに出てくる・・龍平ちゃんへの応援の気持ちを、そして「大丈夫、よくやってたよ」という気持ちを音にして伝えたい気で一杯なのだ)。
    そんな観客の受け止めも俳優という身体の「効果」と解釈すれば、技術的な事を一々云々するのも愚な気がするが、私はファンではないし、たとえファンでも観客として芝居を見るというのは別物ではないか。ちと生真面目すぎか。

    身体性が浮遊したような賢治のイメージが、辛うじて芝居を「成立」させていたが、多様な側面を見せて良いこの役を考えると、勿体ないの一言。しかしあまりに飾らない、技術を駆使しようとしない姿勢は、伸びしろの大きさを思わせるものはあった。

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    2019/02/13 01:53

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