拝啓、衆議院議長様 公演情報 Pカンパニー「拝啓、衆議院議長様」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    他劇団からの新作要請に高頻度で応えて安定した評価を得ながら、劇団公演も怠らないという、着実に劇作家キャリアを重ねる古川健氏の劇団「外」舞台を観るのはトムプロ『挽歌』以来になるか。日澤雄介氏以外の演出に委ねた舞台となると(番外公演的なのを除けば)初めて。Pカンパニーの同じく社会的テーマを扱った秀作『白い花を隠す』の小笠原響氏演出は堅実な仕事振りである。
    戯曲には「遺産」で顕著に感じられた特徴が今回もあって、実際に起こった出来事に果敢に挑む姿勢は以前に変わらないが、この所、簡潔な台詞のある意味淡々としたやり取りが、構成の妙で(場面の繋ぎも淡々としていたがこれは演出か)事実が語る力強さを持つ。
    初日の「硬さ」とはこういうのを言うのか、描かれる人物はよりリアルを掘り下げる事歓迎の面持ちで、肉付き血の通う舞台に変貌する予感というか骨格をしっかり見せてもらった。
    相模原事件を扱った芝居だとは知らなかったが、開演後間もなく、タイトルの趣旨も判る。出色は、この事件の犯人の人格に斬り込んでいる所。注文があるとすれば、施設職員の「苦労」だけでなく「喜び」を見せて欲しかった(これは演技の領域、難しい所だが)。



    ネタバレBOX

    犯人の人格に迫った点を評価したが、事件とその背景を巡る「論」として、十全であったかと言うと疑問がある。(もっとも一本2時間の芝居で十全に語り切る事を期待するのも無理な話、ただ押さえたいポイントが私とは違う。)
    施設職員の障害者と接する仕事の喜びの側面が欲しいと書いた。先日の初日の舞台にて、女性職員の脳性麻痺の入所者との姿は、その片鱗を見せてくれていた(台詞での説明でなく態度の中で)。だが残像としては疲労の側面が印象づき、また彼女が、犯人に対して「怒りは湧かない、むしろ自分の中にそういう感情が起こらないとは限らない」とこぼした言葉を、主人公である若手弁護士は犯人の人間像に迫る足掛かりとしていく。「論」としては、犯人の所業を許す事はなくともやむを得ざる事情の一つとされるのが正直、難点だ。
    がその後の「論」の展開は見事である。
    現代の若者論、というか政治の失敗、就職難と非正規雇用増大、勤労環境悪化はトータルとして「社会からの非承認」の状況と言え、そうした若者の生きる風景の片隅に、事件の犯人となった青年の姿も浮かび上がって来る。(犯罪は社会を写す鏡。)
    そして芝居は一度は犯人への怒りで弁護を諦めた主人公が、彼を弁護団に誘った先輩弁護士(死刑廃止論者)の「どんな被疑者にも弁護を受ける権利がある。」との説得や妊娠中の細君の助言で考えを変え、犯人と言葉で対峙し、彼の「心」に迫っていく。
    ここで作者古川流のリベラルが顔を覗かせる。犯人が衆議院議長にまで送った主張とは、「心失者(自らコミュニケーションが取れない人間)は安楽死させるのが社会のためである(本人のため、とも)」というもの。「今回の事件では方法が乱暴になった点、十分な理解を得ない前に事を起こした点は謝罪せねばならない」が、安楽死の考えは正しい、この考えは変わらないと犯人は顔色一つ変えず答え続けるのだが、弁護士は「君だけではない」と切り込む。証言を得た彼の生い立ちを語り、コンプレックスで自分を大きく見せたい欲求に君は負けただけだ、と言う(このあたりで犯人は初めて冷静さの仮面を脱ぎ怒声をもって否定する)。この時彼は犯人に言う、「だが(君と同じく疑問を持った)彼女はそうしなかった。障害者に向き合い必死に答えを探そうとしている。」
    長くなったがこれがリベラルの1。作品のキーワードでもある「生きるに値しない命など存在しない」、どんな命も全て尊い、という命題である。
    同時に、弁護士の態度は死刑廃止論にも掛かっている。犯人が考えを改めないなら、死刑廃止の意味は半減する。犯人と本音で向き合う事が彼の「弁護」の意味であり、死刑廃止論の実質化でもある、と見える。これがリベラルの2である。

    リベラルの1は難題である。酒鬼薔薇事件の頃だったか「なぜ人を殺してはいけないのか」、どう大人は答えるのかが議論になった。
    少し遡って学生の頃の話、ある授業の試験で渡部昇一なるウヨ学者が書いた文章を批評対象として何か書けという問題が出た。そこには「障害者は家族にも国家にも負担を与える存在、経済的なお荷物」といった事が書かれていた(どういう文脈かは判らないが嫌悪感を催す表現であった)。この感性は今に始まった事ではなくむしろ近年までスタンダードであったのを渡部は居直って書いたのに違いない。
    なぜ「全ての命は尊い」のか。今答えるとすれば一つ。可能性が開かれているから(年齢問わず)。個性(変わらない異質性)こそ他者を人間理解に導くもの。異質な存在と出くわすと反射的に疎ましさが走るが、その背後に人間の自然な感情を発見した時、得したように嬉しくなるのは演劇での発見の喜びに近い。
    障害は際立った個性であり、個性は人間性を伴う。従って多様な異質との接触は、「人間」の条件を考えさせ、間口を広くし、開かれた可能性への想像力を助ける。この絶大な長所を持つ事実から出発して、「何が生産的か」を再考したいものだ。
    その点、過去既に書いたレビューで、障害者を周囲の者を葛藤に追い込む負の存在と位置付け何やら深刻ぶったドラマをやっていた青年団若手のその舞台を難じたが、障害の「負担」の側面しか見せていないとすれば、今作も残念ながら同じステージにある事になる。対照的な作品として「ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド」を思い出す。
    確かに障害の中でも最も重い重症心身障害の人は必要とされる介助量が大きく、「負担」という概念は脳裏を過る事だろう。
    個人的に見聞きした話をすれば、、施設職員は長い付き合いの中で利用者それぞれの個性を見ており、人格に触れている。多くは脳性麻痺と言われる人達だが、頭脳明晰な人も意外に多い。明晰でなくとも人は本質的にコミュニケーションを「取ろう」という意思を持ち、その「内容」に個性が滲む。利用者と接する喜びが彼らの仕事の支えになっているのを私は感じる。
    経済的な話、そこには公費が投じられている。だが人間とそれを助ける人を支えている「生産的」なお金だ。方や「アメリカのご機嫌取り」ないし「他国で事を起こす」ための莫大な軍事費は果して「生産的」か・・。桁も違うが議論があって良い。
    (文字数の記録更新か)

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    2019/02/07 14:18

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