tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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誰そ彼

誰そ彼

浮世企画

駅前劇場(東京都)

2019/09/19 (木) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

「ドリンカー」以来3年振り二度目の浮世企画。前のも同じ駅前劇場(確か)で、両面客席を組み台上を見上げる具合だった。今回は通常の仕様だが室内を斜めに配置して具象を適度に省略しながら動線のバリエーションを可能にしていた。
前回との共通点はこれと言えないが、何処となく「らしさ」を覚える。作演出の今城文恵女史の個性は、和物に馴染みが濃いところ。「和」の心を具現したような存在(人間でない)が今作のヒーローであり「人間」を見定める目の存在だ。
超常現象やファンタジーのネックは「ルール」の設定であるが、(ぼんやりな部分もあるにはあるが)うまくストーリー化できた。多種の「非人間」がにぎにぎしく、いけ好かない人間に一泡吹かせる要素も含みつつ、実家の処分を巡る兄弟の対立図の推移を見つめていく。大詰めで予期せぬ災厄が訪れるがこれを如何に理解すれば良いだろう・・何かを連想させるが言葉に乗せづらい。だがこの展開を書ける所がこの作家の特性であるようにも思う。ゴヤの絵を思い出す。

リーグ・オブ・ユース 〜青年同盟〜

リーグ・オブ・ユース 〜青年同盟〜

雷ストレンジャーズ

シアター711(東京都)

2019/09/15 (日) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

翻訳劇上演のあり方の点で、とても魅力的な個性が当初から感じられる雷ストレンジャーズ。イプセンの比較的マイナー作品でも十分期待して観た。最前列で、お面に書かれた名前(アルファベットだが)もチラチラと見ながら、中盤以降はほぼ人物判別でき、物語を味わえた。
因習のはびこる町に改革の志を持ってやってきた青年の、風見鶏的決断と我欲と無原則(無哲学?)によって敗北を喫する話をみながら、私は町びとの方に肩入れしていた。芝居もそう作られていたと思う。

愛と哀しみのシャーロック・ホームズ

愛と哀しみのシャーロック・ホームズ

ホリプロ

世田谷パブリックシアター(東京都)

2019/09/01 (日) ~ 2019/09/29 (日)公演終了

満足度★★★★

三谷幸喜作品を一度は観ておくべしとチケット購入したが、数年前もそう思って観たのを後で思い出した。確かコメディアンの生涯とかで記憶に埋もれていた位で印象もいまいちだったが、比較して今作はなかなかの印象を残した。重大事件に挑んで解決、という筋は「ないらしい」と含み置いたせいか、謎解き要素が複数盛り込まれたのがむしろ加点された感じ。観劇土産になるようなメッセージ性は特段なかったが、戯画化された役たち(演技)であるのに日常の時空に住まう人間の香りが脳裏に残るのは不思議なもので。二、三のアンリアルを除けば、人間を描いた作品であったとの後味である。値段は高いし三谷作品への期待に対してどうであったかはファンには無視できない要素だろうけれど。。
音楽の荻野清子も楽しみの一つ、以前初シアタークリエ観劇となった芝居で十数年振りの荻野ワールドへの期待が、救いようがない舞台(俳優はうまいが本がダメ)もろとも崩れた記憶が生々しいが、コメディ調の三谷作品と相性の良さを見せていた。だが黒テントが松本大洋のフシギ世界を舞台にした音楽劇で自由奔放に煌めいていた荻野清子をもう一度、どこで見られるだろう。

ネタバレBOX

ニール・サイモンは人間の輪郭を浮き彫りにする行動を書き込み、人間の意志を事態(運命)が凌駕する様を描くが、そこに神の配剤を仄めかす劇作の巧みさがある。・・そんな風に言えるとするなら、三谷幸喜は「配剤」が上位にあり人間のリアルが幾許かスルーされる面がある(そうした作品はピン桐で山とある。三谷はうまい書き手である前提での話)。
今作の美味しい場面。最終局面で兄とのカードの勝負がある。同席者全員参加しての「自分のカードを推測するポーカー(自分のカードだけ見えない)」で、シャーロックが兄と自分のカードの大小を推定していく過程などは三谷が得意としていそうで一つの山場だ。ここで発揮されるシャーロックの記憶力は発達障害の人にしばしば見られる驚くべき画像記憶の能力を連想するし、兄の弟に対する保護本能とある種の嫉妬心もひどく納得が行く(言葉で説明されるのが何ともだがミステリーの謎解きとはそういうものか)。兄が嫌悪するシャーロックの探偵業への適性の実証過程にもなるこの場面は、三谷氏の巧さである。
一方兄の退散後、喜劇の中心的役回りに八面六臂であったワトソンと、シャーロックの間で余談的に蒸し返される話題は、シリアス調だが人間ドラマの締めとしてはいまいち、というのが私には人間のアンリアルの方が気になってしまう。

ちなみにカード場面で総出となる出演者は、盟友二人の他、シャーロックの兄、シャーロックに相談に来る能天気な警部、料理が自慢の家政婦ハドソン、医師の夫より人気のある女性医師のワトソン夫人、シャーロックを担ぐため兄が仕組んだ一芝居に協力した売れない大部屋女優(シャーロックに理解を示す)の7人。
警部は冒頭からシャーロックの出したクイズ(これを解いたら相談を受けるとの約束らしい)に翻弄され、答えを言いに何度も部屋を訪れる。
大部屋女優はワトソン共々、兄がシャーロックに餌のようにぶら下げた「事件」の真相解明とともに兄の手下だった事が判明するが、この場所が気に入り出入りするようになる(苦労を知る女にシャーロックの影の方が琴線に触れているらしい様子がじんわりと伝わり、本作の唯一仄かな恋愛の要素である)。
家政婦は兄が所望した「スコーン」を作る最中に起きた小さな事件でスポットを浴びる。
残るは才媛ワトソン夫人が最終場面、「話題」に浮上しワトソン共々スポットを浴びる訳なのだが、、

夫人が去り際に渡した「例の薬」によりワトソンが毒死する寸での所でシャーロックに止められる。ここでシャーロックは僅かなヒントを繋げてストーリーを描く彼一流の推理を開陳するが、このストーリーはワトソンという人物や、シャーロックとの関係をより鮮明にして新たな全体像を提示する、事にはならず、若干の無理が滲む。
最初は兄の依頼で始めたシャーロックと同居を今はむしろ相応しいものと受け入れているワトソン。それは診療所が妻一人で切り盛りでき、彼女のほうが患者を沢山集めている事情もあり、若手の医師見習いの某も順調に育っているとの由。
だがカード勝負のあった最終日、翌日から妻はヨークシャーでの学会ではなく、ベネチアへ行くと(ワトソン不在のタイミングで)周囲に漏らす。これをシャーロックはワトソン夫人の現在の良人、新米医師とのバカンスだとワトソンに断言し、実は君はその事を既に知っていると告げる。
後は推察の通り?であるが、ワトソンの「計画」なるものはシャーロックの口に語らせてもなお杜撰さを隠せないが、「それがワトソンらしい所でもある」と、シャーロックはワトソンと一対一の謎解きの弁の最後に付け加える。最後にというのがミソ。つまりそれを言うまでは「まことしやか」に観客が耳を澄ませて聞き入る想定なのである。だがそのかん観客、否私は、シャーロックはいつ「なあんてね」と言って話を中断するかを待っている。少々居心地の悪い時間である。

私がシャーロックならこの時、ワトソンの「軽卒」や「杜撰」を指弾する前に、その「軽卒」「杜撰」が彼の何を示すものか、を刺すだろう。彼のささやかな復讐は「本気」であったのか、シャーロックに見破られる事を本当は望んでいたのではないか、ワトソンはシャーロックにとって無二の友人であったがワトソンにとってはどうであったのか、そしてそれらの疑問をシャーロックは彼一流の言辞で浮き彫りにさせていくのではないか。
ミステリー調のこの作品「らしさ」を維持するにはあの程度が丁度良い、との判断もあったかも知れないが、ニール・サイモンならその疑問こそ最大の問題にしたのではないか。。
クソ真面目に考えてしまった。
オペラ『ふしぎなたまご』+オペラ『おじいちゃんの口笛』

オペラ『ふしぎなたまご』+オペラ『おじいちゃんの口笛』

オペラシアターこんにゃく座

俳優座劇場(東京都)

2019/09/12 (木) ~ 2019/09/18 (水)公演終了

満足度★★★★

「歌劇場(かげきじょう)」は歌も多いが基本お芝居(オペラ)で、2編の最初「ふしぎなたまご」は短編、二本目の中篇「おじいちゃんの口笛」の途中で休憩となった。
チャペック作という1つ目は、以前こんにゃく座で観た「ゴーゴリのハナ」を思い出す可愛い不条理といった雰囲気があったが、残念ながら体調のせいで入眠。
2つ目は2人の子どもと初対面のおじいさん(とその友達のおばあさん)との交流を描いた、素朴で切なく美しい佳品であった。おじいさん役の大石氏の佇まいが決め手と言えるか。台本広渡常敏(原作有り)、装置は池田ともゆき、演出加藤直。
一点。最後に子どもたち2人だけによる歌(おじいさんに捧げる歌?)に移る前、うんと間を取ってほしかった。情感が湧き出す頂点で歌い出す・・くらいな感じ。
林光の音楽に出会ったのは学生時代みた映画『人間』。難破した船上の飢餓という極限状況を描いた作品でジャズ風の音が鳴る。不思議な取り合わせだが何とも印象的で名前を覚えてしまった。

表に出ろいっ!

表に出ろいっ!

演劇ユニットMR2

STスポット(神奈川県)

2019/09/15 (日) ~ 2019/09/16 (月)公演終了

満足度★★★

先日見逃した東京デスロックを同時日にやってたら一も二もなく(観に来たのに)・・とボヤキながらSTスポットを訪れたのは、野田秀樹作の珍品である出演者3人の同作を知りたさから。未知の演劇ユニットに一つ紹介してもらおう程度の構えで出かけた(一応websiteも覗いたが正体は知れず)。
元気に楽しく(自己満足でなく)芝居をやってる風景は良いものだが、1シーンのドタバタ・シチュエーション芝居とは言え、野田作だけに毒というかシビアな側面が終盤に向かうにつれ無視できなくなる。笑いが怖さに追い付かれてしまう。・・戯曲はそのようなのだが、このユニットはのっけからリアルを担保する梯子を外してしまっている。後半まで勢いで押したのはよく挑戦したと労いたくもあるが、戯曲本位でみれば押し切れるものでなく、正攻法勝負を避けたと見えた最初の心証が消えずに残った。
戯曲の核を読み違えてる、などと評せば「マジメかよっ」と返されそうでもあるが、芝居はマジメにやっていた、と思う。が、仲間内なノリに馴染んでいる様子は残念の範疇。勿体無い。

ネタバレBOX

話は、とある夜、父母+娘の3人が出産間近の飼い犬を家に残しては出て行けない状況の中、各々大事な用事(自分の趣味)へ出掛けようとしている事が判明し、私が、俺がと三つ巴の攻防、最後は外部との連絡が取れず、自分らも外へ出られない「密室」状況を迎える事になる。そこに至るための奇想天外な行動を必然化していくのが役者の奮起のしどころであり笑わせどころ。

初演データを見た。父=能楽師の役は中村勘三郎に寄せたもので、太田緑ロランスと黒木華のダブルキャストが娘役、やはり野田秀樹が母役らしい。歌舞伎役者勘三郎がお能の摺り足で父の威厳をアピール、を想像して思わずうまい、と思ったが「役」と「本人」が交錯する絶妙な線だ。
今回の上演に戻れば、今回の出演者も(実は父役を女が、母役を男が演じて笑いを狙っていたのだが)父役を男の人柄や仕事に寄せてキャラを作る線もあったのではないか。
配役で奇想天外をやってしまうと、リアルの土台が弱く、土台と突飛な行動のギャップは当然弱くなる、というわけであるが、しかし(先日の「さなぎの教室」で書いたが)「形代としての身体」による演技は演劇の可能性の広がりを予感させる。惜しむらくは、今回の上演はまず「美的でない」事。そして性別のギャップに挑戦する勇気は買われても、役作り面を冷静にみるなら父はもっと父らしく、母は母らしく人物造形をやれる余地があった。もっともそこを追求し始めれば今回の配役も無用となりそうだが。
あつい胸さわぎ

あつい胸さわぎ

iaku

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/09/13 (金) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

アゴラでiakuと言えば「車窓から、世界の」、と思っていたらもう三年前。瑞々しい清冽な空気の中に駅のホームが浮かび、人間模様を「覗き見」する感覚だった。元来笑いを書き込む関西の人らしい(?)作家のようだが昨秋の「逢いにいくの、雨だけど」のようなシリアスなのもある。本作は前半笑わせるが本題は神経過敏な十代の懊悩、年不相応な事態にも遭遇するがその受け止めも含めて「大人」への移行期の懊悩、が大きくは描く対象に見えた。俳優がその持ち味を如何なく発揮して躍動する舞台に。

ネタバレBOX

三鷹公演でも見た橋爪未萌里が今回「ちょっといい感じの年上の女性」を演じていた。彼女の同じ職場のシングルマザーに枝元萌、その娘・芸大一年生が主人公でチラシの女性(辻凪子)。彼女と同じマンションに住む幼馴染で、高校は別で一度も会わなかったが今回同じ大学の学生となって久しぶりに遭遇する片思いの相手(俳優志望)に田中亨、母の職場に東京から中途採用で係長になった独身男に瓜生和成。夏。橋爪は3月に話していた彼氏とは別れ、フリー。という事は登場人物皆フリー。必然、話は恋愛へ傾く。
人間関係図から眺めると、主人公がややおっとりに見え、それはそれで味があるが、もっと的に近づけるなら、母の遺伝子を継いで元気に振舞ってみせるが脆い、クラスで割と人気なキャラ、だが恋愛に不器用というギャップ・・そんな人物像も想像した。ただ、おっとりに見えてしまう(悩みがない人と思われてしまう)風貌はそれゆえの悩みも含めて様々な想像をさせた。
〇〇Pソファ第2回公演『喜劇 暗がりの代筆屋』

〇〇Pソファ第2回公演『喜劇 暗がりの代筆屋』

〇〇Pソファ

シアター風姿花伝(東京都)

2019/09/12 (木) ~ 2019/09/15 (日)公演終了

満足度★★★★

選曲に素直な心根が。代書屋でなく代筆屋。冒頭、軽快な音楽に乗って日々の仕事に勤しむフツウ組と、何故か深夜に働く「醜男」の対比をマイムで提示。この現代翻案の部分でやや退潮してしまうのが勿体ない(シラノの翻案前提)。分け隔てしない社長、「友達」になろうと言う若い俳優、そして夜に代筆を依頼して来たヒロイン。意外に慕われる根底には、シラノが武勇と詩の傑人であったように梶野は人を感動させる文章の才がある、と設定すればスッキリする。またシラノの場合その欠点が社会的地位に影響する訳でもなく、力点はむしろ欠点に悩む自意識を乗り越えようとする「心意気」にある。そしてその美徳は孤独にあった老境の彼に報いを与える。
話を冒頭に戻せば、昼勤務の社員が醜い梶野が夜どんな仕事をして収入を得ているのかを知らない事や、見た目に最も冷たいのは見ず知らずの他人であって顔見知りならもっと微妙な線があるだろう・・といった所が序盤のモヤモヤなのであったが、予想外の早い段階で話に引きこまれた。シラノの借用だけでない光る台詞もあり、最終的には無理のない翻案にできていた。
評価点に殺陣、転換(装置)、素直な演技。

日の浦姫物語

日の浦姫物語

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2019/09/06 (金) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

たまに観るこまつ座。今回は説教節で物語られる「その昔」(平安時代?)のお話。井上ひさしの初期の作品との事だが、高貴な家の兄妹が犯した近親相姦の顛末を作者が敢えて書いた背景は知らないし、原典の有無(創作かどうか)も知らない。結論的には、良いものを観た。芝居のあちこちで不思議とくすぐられる。高揚感もある。
日本に近親相姦に対する禁忌が存在したのかも私は知らないが、説教節の一つの演目であるのなら仏教の戒律にあるのかも知れない。
ただ性の過ちを自らの「罪」として内在化する精神構造はどこか西洋的で、「物語」を終えた語り部が、聴衆と対峙するラストは聖書の逸話を思い出させた。
因みに「穢れ」の観念は外的な(世間の)視線を内在化する事はあっても、「罪状」に対する内省はなく人を更生させることはない。
1980年代のスイス映画に『山の焚火』という秀作があった。芝居の前段の状況はこれに近いものがあり、後段のは『オイディプス』だ。もっとも本作は「悲劇的」が目的地ではなく、母が「女」の顔を見せる部分が艶笑譚のタッチであったり。不思議な味わいだ。初演時の宇野誠一郎の音楽に時折、現代感覚の音が入るのが良く、舞台を締めていた。

おへその不在

おへその不在

マチルダアパルトマン

OFF OFFシアター(東京都)

2019/09/04 (水) ~ 2019/09/16 (月)公演終了

満足度★★★

「ばいびー、23区の恋人」観劇。確か立ち上げ公演で上演した一つで「面白かった」口コミも多かった記憶あって観劇の合間の空き時間に観劇。2ステージの役者数が違うのは何だ、と思っていたら、成る程登場人物二十数名をもっと少ない役者が掛け持ちする様も見せ所にできる作りという訳であった。
この作品はセットの凝り具合や演技の深まりによって随分と適正価格が変わりそうである。
ただ作者はこの着想で押して行けると考えているのか、人物の背景や行動の動機に腐心した様子もなく、最終的に主人公がこのドラマをどう閉じたのか、その瞬間はぼうっとしてアレと思った時には芝居が終っていた。
ぬいぐるみハンターの観劇は1回に終わり、主宰は同名義での活動を何処となく悲観的なコメントを残して停止したと記憶するが、その一度観たのに比べて現ユニットのは「形から作る」度が増した印象(ただの一度で勝手な感想だが)。深めるべきはやはりどこまでも人物、今少し掘り下げて欲しく思った上演だった。

スリーウインターズ

スリーウインターズ

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2019/09/03 (火) ~ 2019/09/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

一家族を通して綴られるクロアチア現代史・・否、歴史と共に歩んだ家族の物語。アトリエ公演ハズレ無し記録は無理なく更新(観たのは4~5回だが)。蹄型に客席に囲まれた舞台の配置、動線、人物の形象いずれも理に適って、細部から芳香が立ち上る。遠い国の歴史と文化、エートスを俳優を通して感覚した。

ネタバレBOX

個人的に琴線に触る主題というのが、高邁な理想(夢、とも言うか)とその挫折。痛苦の体験から立ち上った理想や夢であれば尚のこと、それが無慈悲な現実に敗北していく物語は涙を堪えられない。換言すれば「理想」の存在が「現実」を照らし直し、そこに物語が生まれる(単なる苦痛、理想との対比のない痛いだけの現実は無味乾燥であり我々はこれに冒されている)。理想の敗北のモデルとして前世紀最大のそれはコミュニズムの理想とその瓦解だろうが、ユーゴの場合、これに(既に実現された)多民族の共存という理想があった。1990年、ニュースは連邦議会からスロヴェニアが退場し、それを受けてクロアチアも議会を去ったと淡々と伝える。「終わったわ」・・家族はユーゴ崩壊を認識する。
遠い欧州で起きたその後の悲劇を伝えるレポートは、ルワンダと並んで自分の胸を疼かせた事件の一つだったが、「理想」はあたかも上からの強制ででもあったかもように分断からジェノサイドへと雪崩れ込んだユーゴ。この歴史の当事者(舞台上の人々)は、2011年のある夜、翌日に結婚式を控えた妹を祝うため駆け付けた長女の発言をきっかけに、家族と民族の歴史、現実と理想を総括せんとするかの勢いで厳しく対立する。姉と妹の潜在的(思想的)対立が顕在化するのは「家」(家屋のこと)に対する考えの違いからだった。
1945年建国の年に、何も持たなかった「私たち家族」は「家」を得た。その背景には共同と互助の理想がある。この家には戦前までの家屋の所有者、貴族の末裔の娘が(父がナチ協力で連行されたため一人で)寄る辺なく潜んでいたが、「仕立て」の技術を見込まれ同居する事になった顛末も「戦後の我が家の出発」を彩る。だが今、「家」の1階と3階の住人は長年の住処を追われ、時々大きな音が響いて来る3階は今荷造りの最中であるらしい。実は次女の結婚相手は新時代の申し子的成功者で、住人は金を渡して追い出したという事が後で判る。
3階には長女のかつての恋人が、老母と住まっていた。家族皆が眠れぬ挙式前夜、まだ物音のする3階を長女は訪ねる。その時男は、兵役から帰還した後の自分の振る舞いを詫び、未だ好意を寄せてくれている事に一方ならず思う、と前置きした後、自分らは不本意ながらに出て行くのだ、残念ながらあなたは自分にとっては敵になってしまったと、憤りを堪えながら吐露する。皆が眠れない夜は緊迫の夜と化す。
舞台に登場しない婚約者は幾つかのいけない商売と無関係でない会社の主である事を、長女がネットで突き止める。そして「他の住人たちは、脅されて出て行く事になったの?」と妹に問い質す。またその男を妹の婚約者として認知した父母に対しても疑問を向ける。父母は、その男と自分らとの「考え方」の違いに初め愕然としたが、どうにかそれを乗り越え、折り合いをつけようとしているのだと複雑な思いを吐露する。ところが妹は「あの人は私のお願いをきいてくれただけ」と言い、今この国で「いけない」事に関わっていない商売なんてあるのか、と反問する。そして「彼」は節度を弁えていると擁護し、さらに言う。クロアチア人がどんな目で見られるか知っているだろう、ろくな仕事もない、女は売春婦、違う? ・・それでも長女は、「それ(家を独占すること)は間違っている」と苦悶の顔で言う。これしきで負けるかとばかり、次女は最後に言い放つ。「皆どうしたの。明日は絶対に暗い顔をしないで、笑って。クソみたいな私の人生の中で、たった一回きりの幸せなんだから」(以上台詞は逐語的でなく記憶から)
家族という閉じた物語の中で、人物が歴史的存在としても見えて来る、俳優の仕事は見事であった。
暴力先輩

暴力先輩

NICE STALKER

ザ・スズナリ(東京都)

2019/09/11 (水) ~ 2019/09/16 (月)公演終了

満足度★★★★

前回同じスズナリで観た劇団とは観劇前日まで気づかず(脳味噌溶解)。もっとも気づいたとて予習材料にはならず、白紙の心で劇場へ入ると、ふわっと明るい書割りが目に入り、肩の力が抜ける。
芝居の方も、客席対応の女優の前説から、照明変化後も客席対応の女性(最終的に主役)が客席に向って「開演しました」と、敷居の低さ。
冒頭の女性があるファストフードで「先輩」と対峙している。説明は、ない。だが明らかに何らかのモンダイがある、その問題の「解決のため」として、幾つかのエピソードが紹介される(ドラマパート)。媒介として「みしゃむーそ」が登場、儀式のように繰り返される「型」は芝居の見方をやさしく提示、型の反復は笑いに繋げやすくもあり、ある種のノリ(いささか珍妙だが)を持つが、回想式に描かれる一見戯画的なエピソードが意外に見入らせた。現代日本を酸味たっぷりに切り取った「あるある」を味わった。

ネタバレBOX

「現実」のモンダイは終盤詳述され、心に闇の破滅指向の男を、救い出さなければ芝居は終われないとばかりの展開に作者の苦労がしのばれたが、「逸話」が持つの深さに比して現実の「解決」の流れは浅く、恐らく作者も納得できるラストでなかったのではないか。「こういうのでないと観客は付いてこない」と自嘲的な台詞も。
女優の類似キャラがエピソードごとに反復される言動で強調され、しっかり笑いを起していた。
私の恋人

私の恋人

オフィス3〇〇

本多劇場(東京都)

2019/08/28 (水) ~ 2019/09/08 (日)公演終了

満足度★★★★

オフィス3○○観劇の頻度も上昇中の此の頃、スズナリの二回りもある本多劇場を所狭しと駆け、踊り、歌い、早変り、また駆ける此度は僅か3名(+アンサンブル4名)によるフシギな舞台を観た。いつもの中編成が小編成となっても色は変わらず、渡辺えり自身の未完のテキストを演出家・俳優の渡辺が力技で舞台に仕上げた印象(いつもの3〇〇)。最後的には、難しい原作に挑んだものだ・・という感想になるが、これはミュージカルでもある。情感をくすぐる歌や、音楽と絡んでの立ち回りの妙が重要な側面としてある(との考えに則って劇を見た)。
三勇の一、フィーチャリングは「気になるアーティスト」=のん、「御大」?渡辺えり、そして「僕らの味方」小日向文世。濃ゆ~い舞台を味わうつもりが少し様相が違う。要約すれば「私歌っても凄いんです」(渡辺)、「職人の性、体動いちゃう」(小日向)、「実は音楽やってるんです」(のん)という心の声が聞こえそうな三者の息つく暇ないショーとなっていた。
のんの威力は半端ないが、その根源は若さ、無垢さにある。透明な声はかのアニメ声優で尋常でない寄与をしたが、一つのんオンステージ・コーナーを演出した(らしい)のは頂けず。もう随分歌を披露した後の、ギターにカジュアル服(役柄では礼服とシルクハット)が新鮮でない訳ではないが、彼女の歌は声帯によるのかある音域で裏返る。音程が不安定になる箇所があって、どの歌も同じ。もっと効果的に(絞りこんで)披露してほしく終盤は観ていたが、オンステージはそれに加え楽屋受けっぽく不要に思った。それを除けばまずまず、初舞台で堂々たる仕事ぶりであった。
小日向文世は2000年頃『幽霊はここにいる』を(放映で)見た時、何気に衝撃だった。声が心地よく、台詞をこなすように喋るが独特にリズミカルで、必死に演じるのとは異なる役との距離感が、舞台上に自由な風を吹かせていた(串田一美演出がそういう人でもあるが)。役者という「仕事」を面白いものに感じさせる不思議な感覚は、しかしその後舞台上の氏を見なかったため味わう事がなかったが、このたび彼の的確で緩急自在な身のこなしは健在、懐かしさを超えて胸熱くするものがあった。
渡辺えりの歌唱はパワフルである。渡辺私歌っても凄いんですえりとミドルネーム付で名乗っても文句を言う人はいないのでは。。

新国立でリアル美術を見たばかりの長田佳代子が、ファンタジックな空想舞台を作り、フシギ舞台に貢献。
さて私の最大関心であった原作『私の恋人』のモノガタリについて書かずにおれないが、結論的には、期待はもう一つ叶えられずに終えた。理由はいつか、ネタバレにて。

潜狂

潜狂

第27班

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2019/08/23 (金) ~ 2019/09/01 (日)公演終了

満足度★★★★

食指が動いた理由を会場に来て思い出した。下手にグランドピアノ、上手にドラムス。楽器に合わせたような鏡面加工の黒い床や台の側面が、控えめな照明に光沢を放っているといった具合。音楽が大きく入り込んで来る、その瞬間は冒頭に訪れた。ドラムをこれから叩こうとする青年に、年輩の女性が指導するように声を掛ける。(手を打ちながら)「最初はハイハット」。・・オモテ(強)ウラ(弱)と物語序章的に秒刻されるリズムの中、役者が各所で会話を交わす。「同じリズムをキープし続ける事」。・・鳴り続けるリズム。「オープン」(小節の最後にシンバルを開いてチーと鳴らす)。・・長い時を刻んで行く。場面は続く。「次はスネア」(三拍目に入れる)。・・「最後はバス」(一拍目)。各所で進行する場面に、拍を刻む行為が重なり三重奏、やがて映写板が浮かび、タイトル、俳優スタッフ名が映し出され、一気に暗転(音も落ちる)。
作り手は形態にこだわっている事が分かる。「生演奏」をやってしまう音響家?も居るがそれは「音響」の範疇、であるのに対し、お話じたいに音楽が絡み、物語の必然で流れた音楽が結果的に「音響」効果を持つことになる演劇の一形態は、それ自体珍しくはないが、この舞台のような繊細な現代口語の登場人物に寄り沿うストイックな「音」、またピアニストとして登場する者が行う実演(素人からすれば十分「弾ける」人だがコンペには落ちる微妙な実力のライン)などは、稀有な形である。そして王道とも言える劇を締めくくるバンド演奏(劇中場面とも解釈でき、かつ劇の気分を包み込む音楽でもある)。萌える。
「アフロ」(演奏される「チュニジア」のリズム)と聴いて懐かしさに眩惑する自分には、音楽要素たっぷりの舞台なだけで点数ボタンを連打してしまうが、もっと成熟した彼らを見た時のために満点は控えておく。

リハーサルのあとで

リハーサルのあとで

地人会新社

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/09/01 (日) ~ 2019/09/10 (火)公演終了

満足度★★★★

地人会新社プロデュース公演二度目の観劇(前身の地人会は未見)。前回『豚小屋』は舞台こそ我が居処とばかり緩急自在であった北村有起哉と、田畑智子の濃密な二人芝居であったが、今作は三人、とは言え実質二人の対話劇×二組といった構成。長台詞も多い。そうだイングマル・ベルイマン作だった、と後で思い出した。劇は稽古後の演出家と女優、そしてかつての女優であるその母との対話。対話のテンポ感を見せる場面もなくはないが、俳優それぞれが単体でどのように存在しているかに目が行く。鋭く見入る観客の前で俳優は体まるごと舞台上に晒されるシビアな「現場」の趣きであった。初日、榎木孝明(初見)は貫禄を見せ、台詞の噛みがあっても余裕の風情だったが、机に座って台本をめくる所がカンペーに見えたのは残念(実際そうだったかも)。若い女優アンナは初々しさを出すなら正解だったが、役は母親失格な女優を母に持ち幼少より老成したかのような屈折を底辺に持っている今日この時、他に自分の居所を見出せない女優という職業への思いも同様に屈折しているはずで、今回の森川由樹にこの役はハードルが高かった。驚嘆は一路真輝の母親。演出家の言わば想念として登場するが、舞台奥から歩いてくるのが視界に入った時から空気がガラリと変わっている。私は何と貴重な存在を知らず見過ごしていたか、と後で名を確認して初見である事を恥じ、否、悔いた程。寸分の隙もなく連続性があり赤裸々に役の存在そのものを体現するのを凝視した。パンフには殆ど初めての挑戦、と書かれていたが、女優ここに有り、幸運な遭遇であった。

ネタバレBOX

演出家の深慮と達観、しかし俳優との関係ではしょせん、生け贄のような裸の存在に優位を示しているに過ぎない立場、むしろ女優の側に男には制御しがたい情念(生の輝き)が渦巻き、その魅力を観客の前に見せて差し上げなさいと演出家はただその裏の役回りに徹する、その営みが、稽古を終えた稽古場で展開しているようにも見える。客観・俯瞰の視線と主観の眼差しを目まぐるしく行き来する「演劇」の本質をその事によって言い当てたとも言える重層的な劇。
さなぎの教室

さなぎの教室

オフィスコットーネ

駅前劇場(東京都)

2019/08/29 (木) ~ 2019/09/09 (月)公演終了

満足度★★★★

コットーネの大竹野正典シリーズ、「埒もなく..」(大竹野伝)に次ぐ発展形第二弾は、大竹野作品「夜、ナク、鳥」を原案にした新作という試み。作演出=松本哲也(小松台東)、コットーネ企画でなくても観たいと思っただろうが、演技陣も目を引いた。
森谷ふみが降板、代役は演出本人と言うので、男女入れ替えも可な端役かと思えば、中心人物であった。松本氏が女装で、「この姿に一秒でも早く慣れていただく事がこの芝居を楽しむ要素です」とシナも作らず宮崎訛りで。戯曲も例に違わず宮崎弁。

昨年吉祥寺での大竹野戯曲舞台の記憶は朧ろだが、看護学校出の女友達4人組が如何にして保険金殺人をやる犯罪グループと化したか、を淡々と描いていた。今作はそれを土台に幾つか足された要素はあるものの(看護学校時代の四人のシーン等)、基本的には実話の下敷きがあり、女性らの姓を含め原作は踏襲されている。
今作の特徴と感じたところは、主導者ヨシダの強烈な人物像、執拗で細かい場面描写(小松台東特有)、場面の組み方(特に終盤)。最後のは、ラスト及びラス前で時系列的には唐突に過去、さらにその過去と空いたピースを嵌める具合に「全体図」を一気に(ぶっきらぼうに)完成させたような趣。
女装ヨシダ役については、松本氏の好演もあったが決してヨシダそのものでなく、言わば人形劇と同様「本物ではあり得ない」形代が「異形の人間」を観客の想像力で作り上げる媒介機能を果たした、という意味では(結果的に)適切な配役になった、かも知れない。
舞台は駅前劇場を両面客席に組み、ステージ上は動かせる白い立方体数個と小さめの白テーブル一つのみ。俳優の体一つで世界が立ち上がる様を高画素数で眺める緊迫の舞台ではあった。

ネタバレBOX

ヨシダの人物造形には難しいものがあり、今作では閉じた世界で権威と権力を持つに至る新興宗教の構造に近いものを感じた。仲間の結束、紐帯よりも騙す者騙される者の構図がより強く印象づけられ、そうなるとヨシダの行動の動機が少しぼやけて見えてしまった。
ENDLESS-挑戦!

ENDLESS-挑戦!

劇団銅鑼

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2019/08/27 (火) ~ 2019/09/01 (日)公演終了

満足度★★★★

劇団球主宰田口萌作、文学座西川信廣演出コンビによる劇団銅鑼公演は二度目という。最近知った書き手(未見)だが他劇団にまで書下ろす書き手とは露知らず。産廃という題材をどうドラマ化するのか戯曲と作家への関心で拝見した。
先進的取り組みをしている埼玉の実在の産廃業者の題材を、先代の家業を継いだ新米女性社長の奮闘記として舞台化。
地域の厳しい目や不当な抗議、やる気がなく従わない従業員等ネガティブ要素を克服する過程と、持続可能社会を見据えた改革への挑戦とを重ねたドラマになっているが、あまり知られない企業努力の事実性がフィクションに重みを与えている。
今回の事例に改めて感じた事は、産業イノベーションに失敗したと言われる日本では、こと環境部門は国が十分に投資し成果を期待して良い部門に関わらず、構造転換が見込まれるためか既得権益構造(原発含む)を揺さぶる予算配分(インセンティブの設定)は為されない、ばかりか、国民が環境部門に成長を展望するような材料=情報を積極的に流さない(これはマスコミの忖度)という事になっているように感じられる。自分も「言っても仕方ない」病にいつしか感染している。
今回の公演は劇団がこれに目を付け、田口氏に執筆を依頼した事のようであるが、非常に判りやすい紹介となっていた。

ネタバレBOX

難点。西川演出のトリッキーな転換や、それを可能にする汎用性ある数点のカラフルな箱、そして同じ色調の正面奥上方の重機の模型など、軽快なストーリーに合った仕事であったが、描かれる人間ドラマのリアリティがあってこその話。もう少し丁寧に、書き込んで欲しく思った。台詞をさほど増やさずとも、新しい事実が持ち込まれた時にもう一つ質問を投げれば事実の輪郭が見えるのだがなぁ、という場面が多々あった。無論辻褄が合っている必要があり考証をクリアせねばならないが、その労を飲んで踏み込めば舞台上の世界が愛おしく立ち上がったように思う。役者がクリアできる部分もあっかも知れないが全体としてはテキストの問題に思う。
ただ、作者の性格だろうか、真の楽天性からしか生まれて来ないような台詞が胸を突く瞬間があったのも確か。
『humAn』

『humAn』

劇団夢幻

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2019/08/28 (水) ~ 2019/09/01 (日)公演終了

満足度★★★★

つい先日訪ねたプラザソルが相貌を違え、隅々まで飾り込んだ美術(装いは受付付近から始まっている)が夢幻世界のお膳立て完了と開幕を待っていた。後で思い出したが神奈川界隈で一度ならず目にしていた美術担当の名前はこの劇団員であったと知り、成る程と納得。舞台奥にシンプルな二階立ては機能的、一方これを基調に近未来らしくツルンと淡白に収めるかと思いきや、大柱に枯木の枝を配したり緊縛紐の赤が走ったりと素材は不統一なのに全体としてある世界感を持っている。神奈川の演劇文化圏の主要拠点の一つであるプラザソルにて、気になっていたこの劇団にお目見えできた。
女性だけの劇団に半数を占める客演も全て女性で十五名が並ぶと壮観。これが各人堂に入った存在感を放ち、かつアンサンブルを醸す。要所での場面の作り、特に終盤畳みかける幾つかの劇的シーンは「見せ場」として形を仕上げ、灯台下暗し、実力派が育まれつつある感を強くした。
さてお話の方は・・。

ネタバレBOX

本論=ドラマについて。実は開演前鏡に映った自分の目がえらく充血していたのだが、観劇前半に体に来た。相当の時間意識を喪失したため話の人物関係把握と個体判別に難あり、後半の会話が伏線あっての会話なのか、エピソードがどの位説明されているのか等不明点が残った。終盤語られるメッセージの説得力がそれによって違って来る。ただし先述の通り(テキストでなく)「舞台」の収束に繋ぐ「技」により、観客を劇的体験から疎外せず、私もご相伴には与れた。

全編通じて人形の館が舞台。冒頭、人間の女の子たち(高校~二十代?)がある目的でこの場所を訪れるが一枚岩ではない模様。「タイズ・オートマタ」と呼ばれる人形が、訪れた人間(女の子ら)をもてなしている。ちなみにオートマタとは英語で機械仕掛けの人形(複数形)、タイズとは固有名詞に当たるのだろうが語は「絆」の意らしい(私の耳は最後まで「泰造トマタ」と聞いていた)。
全員特徴的衣裳に身を包んだ(メイドカフェの未来形?)人形たちだが、実は人形らは人間の死者を蘇生する技術によるもので、これを発明した科学者キズナの死者への思いが重ねられている存在である事が後半見えてくる。人形たち自身も感情面は変化を遂げているが過去の自分の延長を生きている様子があり、このあたりは完全にSFであるが、新たな使命を自任しているものの「人間ではない」存在とも自覚し、矛盾に行き着く。健気な人形は反乱を起こす事もなく悲哀に満ち、死者の再生に真の解決はない、というマッドサイエンス物の主題をなぞりながら、一つの閉じた世界の終末を演出していた。
二つのキーワードがドラマの収束へ押し出す。一つは先の「死者(人形)=過去」、いまひとつは「友達」(友情?)。前者には普遍性があるが、友達というのは過去の具体的なエピソードが鍵になる。前半の見落しが仇となったとは先述の通りで、視覚的な美と相俟った物語の味を味わい損ねた。
第一部『1961年:夜に昇る太陽』 第二部『1986年:メビウスの輪』 第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

第一部『1961年:夜に昇る太陽』 第二部『1986年:メビウスの輪』 第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

DULL-COLORED POP

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/08/08 (木) ~ 2019/08/28 (水)公演終了

満足度★★★★

ダルカラ自体さほど観ていないが谷賢一氏の演出らしさというのはあり、自分の中では成否がある。前回アゴラで演った福島三部作第一部の時は、演劇特有の「喧騒」が耳についた。戯曲の方は「癖」が無く(無色のイメージ)、それは堅実な作である証と考えているが、シアターイーストで観た今度の第二部も同じ印象ながら、喧騒のエリアから出て後方席から俯瞰で眺めると、舞台としても堅実な作品である。
原発立地自治体の首長となった元反原発運動家の「変節」を描いた悲喜劇。古典劇のような明快な主題がある。チェルノブイリ事故の1986年の設定をどう使うかも関心だったが、史上初の苛烈事故を受け、町民から説明を求められた彼がどう答えるかが焦点。「今回の事故を受けて我が自治体の原発にもヒューマンエラーの余地がないか点検し、備えていく所存」と真っ当な姿勢を語るのか、東電や政府当局がやってきた通り「日本の原発は安全です」と答えるのか・・。

日程に苦慮し、公演終盤で第二部観劇に漕ぎつけたが、第三部は当てにしていた千秋楽当日券狙いが「セット券のみです」との回答に敢えなく沈没。
だが、第二部『メビウスの輪』が投げかけるものは、霞が関に巣食う無謬性の原則(何とアホな原則)なる最も巨大で動かしがたい日本の中枢のモンダイのくすぐりに過ぎないとも言える訳で、考える素材としては腹一杯の感がある。時間を経て是非再演にお目にかかりたい。

肉体だもん・改

肉体だもん・改

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2019/08/17 (土) ~ 2019/08/26 (月)公演終了

満足度★★★★★

前作(熱海の大火前後を描いたやつ)に続き社会性たっぷり勿論歌に踊りのエンタメ性(場末的=私としては良い意味で)満載の2時間半の舞台。真正面から性を扱った原作に正当にあやかり、具体的な形、導入部ではパンパンの客引きとやり取りのバリエーションが紹介され。客いじりに盛り上がる。計算通りの「手玉に取った」ドガドガショーは最後まで息もつかせずこれでもかと多彩なシーンをぶちこみ、社会の下層でままならない状況に翻弄されてなお希望にすがる人間達の物語を力強く描いた。ドラマ的にも殆ど文句の付け所が見つからない出色の舞台。

狂人と尼僧

狂人と尼僧

サイマル演劇団+コニエレニ

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2019/08/22 (木) ~ 2019/08/25 (日)公演終了

満足度★★★★

サイマル演劇団二度目、赤井氏演出は三本目だったか。予想したテイストではあったが、今回は戯曲(作者)に興味がありそしてその期待には応える内容であった。
客演陣にヒロインを演じた元唐組女優・赤松由美、同男優・気田睦と奇しくも共演となり、両者とも存在感あり。昨年横浜で「発見」した演劇集団・荒馬の旅の田村義明氏、怪優と呼ぶに相応しい葉月結子(恐らくサイマル関係)等役者ぶりを味わう快楽は保証付きという所であった。
作品については、時代性を表わす幾つかの特徴と、戯曲に流れる「気分」を堪能したが、筋は部分的に見落とし、本来目指された戯曲の方向も掴みそこねた。それでもドラマの骨格から言葉から迫力は滲み、劇的瞬間がある。狂気がスタンダードである空気が好みであった。

ネタバレBOX

精神病者を収容する施設。医師からの指示を受けて若い尼僧がある独房の男を訪れる。男から何らかの兆候を引き出す目的らしかったが、彼は実はかつて尼僧が心震わせた詩を書いた詩人本人である事を知る。男はこの二三年「女」に渇えていた事を相手に告げ、女は彼に当初と全く異なる感情を抱く。やり取りの中で尼僧はいつしか男の拘束衣を解き、一夜の内に二つの肉体は結ばれ、二人は愛を確信する。男の様子(症状)が変わった事を喜んだのは尼僧を男にあてがう治療方法を提唱した精神分析医であり、束縛や禁止でなく人間的な干渉で人は変わる事の証明である(大意)と上気するが、やがて二人の男女関係は知られる所となる。施設を治める修道院の責任者(修道女)は件の尼僧を指弾し、男を狂人だと激しく罵る。若い二人は逃亡を企てるがその後すったもんだあって(忘却)、男は首を括る。女は狂乱し、刃物を振り回して施設の医師の一人がその犠牲となる。・・その後生き返った(死者として)詩人は喜ぶ女と連れ立って去り、今一人の死者は悪玉性が漂白されたキャラで蘇る(シュールさ極まれり)。このあたりの細部も忘却した。
時代性を表わす要素として、宗教的妄信、新学説である精神分析学、狂人の定義に関する自己言及性などがあるが古さを感じさせず、作風としては科学的議論とオカルト要素が共存するシュールな世界がとりあえず初「ヴィトカッツィ」の印象となった。

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