満足度★★★★
本棚の戯曲本を手に取り電車で小一時間、ざっと眺めて劇場へ(この所の睡魔対策也)。三好十郎の戦後の出世作とされるが何処となく商業的成功を得たぶん批評性の点でどうなのか(甘いに違いない)・・等とぼんやり想像していた。「廃墟」や「胎内」等に見られる鬱々とした内省、自己批判とは、確かに一線を画した一画家の評伝だが、作者自身若い頃画家を志したという事情は作品が明快に打ち出すゴッホ観、芸術論・人間論の掘り下げに見事に結実している。評伝によくありがちな、鋳物の如く周囲から対象の輪郭に迫る方法をこの戯曲はとらず、全くゴッホその人に行動させ、多弁に語らせている。俳優の仕事としてはゴッホ役が主役として3時間の舞台を担う。
ただし作者はこの遠い他国の物語を、むしろ当時の日本としては「新劇」=左翼の演劇として受容され易い作品に仕上げ、そのように評価された事を良しとした・・と想像する。その価値観に振れたように思える場面(典型はゴッホ以外の役達がゴッホについて語るラスト)には言葉の総括に違和感があるが、ゴッホの死までの場面は秀逸であった。
ゴッホの出自・来歴(牧者として炭坑の町で人々のために奔走した)と、絵に向かう時のこだわりは不可分にあり、ギリギリの所を生きる様に人間の美を見出す感性は周囲の理解を得られない中、弟テオドールだけが彼を経済的・精神的に支え続けたのは史実に違わず。
タンギーという老マスターが営むパリの画材店では、ゴーガン他の絵の手法に目を見開かれたゴッホがそれらを生き急ぐように自作で試し、画家として出遅れた年齢分を取り戻そうと絵を描き、また激しく議論を闘わす。ここでゴッホは絵画にとって重要な原則を発見したと言い、盛り場で飲もうと出ようとする一行を引き止めて議論を吹きかける。ゴッホは絵には実在、人間が「そこに居る」事が重要なんだと唱える。これに対しロートレックかゴーガンあたりが近代的思考に基づく見解をもって反論する。全ての事物は人の目に映るイマージュに過ぎず、画家は自分が対象を見るイマージュをカンバスに描きつけるだけだ・・。こう来られれば普通なら引きさがるしかないが、ゴッホはさらに反論する。○○の描いたあれは確かによく描けている、だが表層を舐めただけの絵には、肝心の人間が居ない・・一番大事なのは、そこに人間が居る、それを外しては何もならない・・。
近代がやがて行き着く相対主義を代弁したかのようなゴーガンの説を否定するゴッホという存在は、「人それぞれ」と割り切れって生きる事のできる高踏遊民ではなく炭坑で困窮する人々をまず思い浮かべる人間であり、「確かにそこにいる」と認知される事が生存の条件である人間の方を顧みる人間である、と言える。(中流意識という戦後経済成長がもたらしたこいつから、この件を考察するも有り。)
実は本題は俳優について、のつもりだったが例によってだらだら書き連ねてしまった。
一言だけ。大型俳優がキャスティングされ集客される演目としてでなく、作品勝負で文化座の若手(にまだ入ると思う)を据えた公演で、彼はゴーガン演じた文学座のバリトン声の中堅俳優とは異なる「判り易くない」演技、言い換えればその場に即し、生きたゴッホを演じ、生き切ったと見えた。完成されておらず、完成を目指したものでなく、ただ一舞台を生きる、を続ける姿に好感。