おせん -煎餅の神様-
さんらん
アトリエ第Q藝術(東京都)
2021/11/03 (水) ~ 2021/11/09 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
楽しく美味しい芝居であった。
着想が面白いな~と思う。で、キーになる人物が「らしく」立ち上がっている。荒唐無稽さがほのぼの。それは「リアル」の土台が作られているから。フォーカスされている世界(業界)に限らず、社会の片隅で思いとこだわりを持って生きている実在の人々の夢が、これも劇中語られるがコロナの前に潰えている事を思う。
フタマツヅキ
iaku
シアタートラム(東京都)
2021/10/28 (木) ~ 2021/11/07 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
疫禍の潮が引いて芝居の上演も盛況、こちらは訪問先の選定悩ましい折、一旦候補から外していたiakuの新作を日程が嵌まって観劇。
常連の清水直子、橋爪未萠里に加えて役人物にハマった個性的俳優らの競演は、整ったフォームを描いて無事着地した(体操競技の喩え也)。
好きな落語を扱っている事が冒頭で判り、心でにんまりする。あれ?この人。そうそうオイスターズ主宰の平塚氏も出演とあったな。そのまんまじゃん。横移動したら役の形にはまったという感じ。オイスターズの舞台がそれであるが決して「狙ってる」気配を出さない。
落語を扱った芝居と言えば
Mrs.fictionsの「花柄八景」を面白く観たが、どこか共通するのは落語が描くふわっと軽やかで洒脱な世界を地で行こうとする芸人の姿への憧憬。
若い二人のエピソードだけは一方と交わらずに進むが、やがてきちんと繋がる。繋がるには繋がるのだが、時代の違う二人の役を演じる一方の組は雰囲気は近いが体型全然違う、他方の組は体型近いが雰囲気がまるで違う。それでも何か心地よく成立している。
清水直子が夫と息子の不仲の間で必死に立ち回る姿が笑えて泣けて、哀れで笑える。
音楽劇 百夜車
あやめ十八番
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2021/10/29 (金) ~ 2021/11/02 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
うむ。悪くなかった。
あやめ十八番、三度目であった。前回は吉祥寺にて、タッパのある装置を使い、「悪くない」舞台だったよう。
本作は「おや現代劇?」(あやめなのに)と珍し気に見ていると、「古典が好き」を導入に和歌のやり取り、台詞の調子と共に世界観が立ち上がる。今回も高さを使った装置で上段に演奏エリアを設け、役者も上り下りしてそのエリアを使う。奏者5名の内、二人は役もやる。
音楽劇のタイトルに違わずミュージカル風に歌が挿入されるものの、「劇的」における歌の効果はさほどでない(台詞だけを喋っても情報的に変わらない)。加えてテキストの方も快調と行かないのだが、最後に帳尻が合った。我慢の甲斐あり、である。
ぽに
劇団た組
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2021/10/28 (木) ~ 2021/11/07 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
私小説的な痛い話だが、超常的設定で軟らかく膨らみのある劇世界を作っていた。
知らない劇団(ユニット?)だが、出演者の名を見て観劇。津村知与志、平原テツ、金子岳憲、安川まり(最近お目にかかってる)と美味しい面々だが、他の役者もぐぐると映像出演頻度高く、世間的にはこっちの方が著名のよう・・とすれば作・演出の加藤某はそれなりの御仁?と推察されるが、名も初めてで来歴は調べていない。その内また、行き当たるだろう。
ドラマツルギー的には、松本穂香演じる学卒フリーター(一応進路の希望はある)が「就職できてない」という一事に言い尽くされている所の、甘さに、つけこまれて泣きを見る男女関係の行方という軸と、ベビーシッターのバイトで知った男の子との奇妙な関係という軸が交差する作りになっている。前者は「社会性」という名の実は実体のないコードをクリアしている事を自他に示そうとする自我に翻弄される「オモテ世間」的なひりひりする時間が描かれる。しかし後者では、彼女の人間的な可能性の微かな気配を漂わせる。終局で「「社会性」的にアウト」な己の実像に向き合わされる手前、彼女が出会った「友達」(と敢えて呼ぶ)は利害関係のない(むしろ彼女が自分の部屋という場所の便宜を供与する)相手であり、初めて人間的な他者との繋がりの気配がみえるのだが、しかしその存在はこの世に属するがこの世ならぬものであり、ある種の「夢」と捉える事もできる。(ここで「マルホランド・ドライブ」を思い出す。)
前者での社会性における(主観的には大きな瑕疵とは思えない)不徹底は、あらゆる局面で彼女に破綻の影を落としているが、大地震(停電と帰宅困難者の3.11の東京を想起させる)を機にそれらがそれぞれの形で噴出する。
彼女は十分頑張っている・・・そう弁護したい自分がいるからこそ、恋人(というよりセフレ状態)のどこまでも上からの態度と最後には暴力でプライドを維持しようとする挙動にめらめらと怒りが湧いたが、しかし彼女のどうしようもなく甘い生き方、社会への態度(容姿に恵まれて来た事が災い?)にその遠因を求めてしまう。
まあそう描いているんだろうけれど。。私のかなり近い所にいる彼女のような人のことが思い浮かび、「痛い」と心で疼いていた。
『動ける/動けない 言える/言えない』を考えるWS 試演会
升味企画
アトリエ春風舎(東京都)
2021/10/24 (日) ~ 2021/10/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
出演者観客共に若い層。「試演会」のレベルや如何に、とフタを開けた一作目はどっと疲れて後悔が過ぎったが二作目、三作目は収穫であった。椅子にじっと座る、という行為はそもそも苦行であった(幸運な事にそのことを忘れていた)。目の前の現象によって苦痛を忘れ、心が動き活力が湧く。血流、脳内分泌物の力。演劇とはナゾな代物である。
紙屋悦子の青春【9月28日~29日公演中止】
(公財)可児市文化芸術振興財団
吉祥寺シアター(東京都)
2021/10/20 (水) ~ 2021/10/28 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
最も楽しみにしていた公演の一つ。観劇叶って幸福である。
黒木和雄晩年の監督作として題名を知っていたのが実は松田正隆原作と知り、数年前に映画版を見た、という記憶だけ持って(ストーリーを思い出さず)劇場へ。もっとも私めこの度は俳優陣に注目。「あつい胸さわぎ」の枝元、昨年4公演で目にした(突如現れた感ある)新人平体もさる事ながら、私としては文化座藤原氏、過去客演もあったが今回のようなプロデュース色の強い公演で、どんな存在感を発揮するか等楽しみに開幕を待つ。その部分の関心についてのみ言えば、無言の嘆息。脇役だがある意味での主役、誰もがやれる訳でない役どころを存分に形象していた。
あ、と映画を思い出したのは兵士二人が悦子の実家を訪れ、卓に置かれた布のかぶさった皿の中身が「おはぎ」らしい(昨夜女らが話していた)と気付いた時。見合い相手の男がこれをパクパクと食う。情感豊かなシーンである。
小さな、町の片隅に生まれてやがて消えて行く人生を体現する平体の小さな体、飛行機もろとも消えた思い人の命(同僚を見合い相手として彼女に紹介した)を、無言で見つめる小さな眼差し。おっちょこちょいだが実直で、今思いついた好意を伝える表現としてひたすらおはぎを食べ続ける今日婚約者となった男。悦子の思いを知り、最後の挨拶に来た青年との最後の時を悦子に与えようと必死に立ち回る義姉(女学校時代の親友で兄の嫁)、その夫。プロデュース公演色もゼロではなかったが、ala発舞台の前例に違わぬ温もりのある上質な舞台だった。
楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~
アン・ラト(unrato)
赤坂RED/THEATER(東京都)
2021/10/16 (土) ~ 2021/10/24 (日)公演終了
或る、ノライヌ
KAKUTA
すみだパークシアター倉(東京都)
2021/09/25 (土) ~ 2021/10/05 (火)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★★
劇場で観劇し、配信も観たのは確か初めて。eplus streamingだったが音声、画像ともに実演のクオリティに見劣りせずがっつりと「観劇」できた。
複数のエピソードとそれにマッチしたディテイル、また戯曲上のアイデアが詰まった劇。宿命的に受動的である人間が、新たな風景の中から能動性の欠片を探すのに「旅」は相応しく、車窓の景色のように移り変わる場面に二時間四十五分はあっと言う間に過ぎる。かつお、という名の犬の目線が効果的だが、飼い主を渡り歩くかつおと、彼が町や旅先で遭遇する「人生の師匠」ジョージの姿は寄る辺ない人間存在を象徴してもいる。
幾つもの印象的な台詞、おいしい場面、心から愛おしく感じられる人物たち。
出演者全てが劇団員という、KAKUTAなる集団の成り立ちも独特である。
海底歩行者
ぐうたららばい
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/10/14 (木) ~ 2021/10/18 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昨年上演予定の公演。糸井演出の、同じくアゴラで観た一人芝居(出演深井順子)を念頭に見始めたが(俳優名から女優二人と勝手に想像していたため道中記のようなものだろうと)、出演は男女。水槽の中を行く二尾のマイム描写(水中音)から、糸井氏お得意の照れ臭いカップル描写へ(しっとり時間を刻むようなほのぼの切ないギター楽曲)。両場面がシンボリック表現のタッチで折り重なって行くが、何故「海底歩行者」か、に合点するのは芝居(95分)の中盤。予兆としては芝居の割と早い段階にさり気なく、透明な水に小さく一滴垂らしたインクが希釈しても微かに残るように二人の物語に影を落とすが、平和な生活のさざ波にとどまると思いきや・・。
これまで実力を秘めていそうに感じた程度だった伊東佐保の演じ力全開なる様を見て感服。丁寧に作られた、やはりコロナ期に改めてその手触りも愛おしくなる作品。
そして、死んでくれ
M²
ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)
2021/10/13 (水) ~ 2021/10/17 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
地元だけに劇場で観劇したかったが予約できず配信を視聴。(映像は良いが音声はやはり難があり、劇場で観たかったと後悔。)
数年前に観た同じ作・演出者の舞台はいまいち納得に届かなかったが、今回は二・二六事件が題材というので「おや」と思い鑑賞。結論的にはドラマの趣旨に同意でき、演劇表現として(まずは戯曲、そして役者達の演技)明確に出ていた。以前の作に近い「鬱々」な世界ではあるものの、史実を題材にとり、パロディに走らず事件の文脈を描き出そうとした事により、試された作者の筆はある成果を得たという印象である。(あくまで過去の一作との比較でだが。)
その一つは政治家、役職にある者の保身、狡猾さ、片やこの日本において理念が高々と語られ、それが遂げられる事の「可能性の薄さ」「絶望」。この気分は現在の日本にオーバーラップする。
実際の二・二六事件は理念と「血」(若さ)の先走りで、殆ど右往左往に近い実情だったという読み解きもある(小室直樹による)が、「今」求められるもの、という視点ではこの二・二六の顛末の描写はオーソドックスに見えながら「お涙頂戴」に頼らず、きっちりと敗北を描いた。
この気分は50年前決起し割腹自殺した三島由紀夫の「時代への気分」と恐らく同種と想像する。それほど日本は病んでいる、という認識からはコミュニズムもナショナリズムも単なる名称、その内実に比して些末な差異に思えて来る。
がん患者だもの、みつを
うずめ劇場
シアター風姿花伝(東京都)
2021/10/06 (水) ~ 2021/10/10 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
かれこれ十数年以上前に名前を耳にし、その数年後やっと目にした北九州に拠点を置く話題の<劇団>うずめ劇場に対する思い入れと、劇団外の活動もあるゲスナー氏演出又はプロデュースによる舞台に対する芸術的関心とは、近似的だが異なり、舞台に対しても二つが混在する。
この度はうずめ劇場公演である。数年前観た内田春菊作・ゲスナー演出舞台は他プロデュースで秀逸であったが、今回も春菊風味の苦甘さ滲む私好みの世界。
もっとも今作の特徴的な部分は、表現として「逸脱」気味な部分でもあり、その一つは主役の一人を演じたうずめ団員・後藤まなみの逸脱性、そして今一つは(毎回チャレンジングな)ゲスナー氏が時折垣間見せるそれである。
端的に言えば前者はド当たりな演技と危うい演技の波があり、がんを患う事になった揺れる中年女性の「普段の人付き合い」の場面では饒舌であるのに対し、裏側(本音=弱み)が思わず開陳される局面での変わらなさ(声の張り)が勿体ない。後者は時間的に僅かだから乗り切ってはしまうが・・気になる人は居そうである。
一方ゲスナー氏のそれは、以前「喜劇だらけ」で一般人(演劇初体験者)を登場させた記憶が蘇るが今回は作品テーマに所縁の(その筋では知られた)人たちが出演し、芝居的には心許ない、危うい場面を作る。台詞が一言もない(のに存在感だけはある)女性出演者が舞台後半の一場面ズラリと存在を現わすのである。この不思議で不気味な趣きが、演劇作品的にはシュールで珍味の類。「がん」というテーマのみで作品を括るなどと言う野暮はやらなかろうゲスナー氏の、「味覚」の振り幅を味わう体験と言っても良いか。(拙さとアピール度は紙一重。出演したある無発語の女性の特徴的な風貌が今も脳に焼き付いている。)
そんなこんなで本編の面白さには触れないが、ツボな場面満載、楽しい時間であった。コロナ期に生まれた劇、というカテゴリーが後に出来るとすれば、命に関わる劇は全てそれに含まれるだろう。つまりは殆ど全てのドラマは、コロナ禍によって輝きを得ることとなった、訳であるが、本作では「がん」を扱うのに「命の尊さ」といった直截なメッセージや感傷はまずもって寄せ付けないのが核であり、魅力。(要は春菊風味である。)
盲年【東京公演】
幻灯劇場
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/09/30 (木) ~ 2021/10/04 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
一週間記憶を寝かせたら、「風景」はクリアに焼き付いてるがストーリーがぼんやり。思い出してみると・・劇は謎解き式の進行だが一観客的には最後にもつれた糸が解けてスッキリ、とは行き切れず。ただ盲の息子と父、母という三者のストーリー自体は数行で説明できたように思う。これに絡まる人物らとの関係がややこしかった(メインストーリーを盛り立てる役どころなのか、もう一つの物語として存在感を持つべき役どころなのかがいまいちハッキリせず)。
だがアウトラインを部分的に書き込んで行くタッチの中に、情動を伴って「父」が存在感をもたげるあたりがこの作品の核で、演出、演技がドライにドローイングした石灰色のカンバスにうっすら「色」が浮かんでいる的な、画法が売りのようである。
若い俳優のキャラも生かしつつの当て書きに思える所があったが、キャラ頼みのリアリティの薄いキャラを演じる姿より、もっと重層的な(つまりは人間の)役を担う俳優の頑張りを観たい・・とは劇団の志向の否定か?
ヨコハマ・ヤタロウ~望郷篇~
theater 045 syndicate
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2021/09/30 (木) ~ 2021/10/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
あ~面白かった。小さなスタジオで観た一作目は「伝説の男」と恐れられたヤタロウが砂塵から現れても、喋っても納得させる台詞と異色な風体の役者が「伝説」性を裏切らず、度肝を抜いた傑作だった(佃典彦脚本)。下北沢での再演もB1と狭い小屋だったが「望郷篇」ではKAAT大スタジオに。観劇体験としてはステージが遠いのはやや淋しいがパワー全開で見劣りなし。殺した相手の「人生を引き受ける」ため奔走し、13人が相手でも拳銃で!負けないヤタロウ(そんなもんいるか)、怪し気な新市長に「キレイな町」にされた近未来の横浜を舞台に幾つかのエピソードが錯綜して最後に合わさる。だがドラマの構成よりも、広い廃墟の銭湯(言わば底辺)から社会を牛耳ってほしいままにする階層を眼差す視線のベクトルに同期し、どす黒い世界イメージが「現代」を穿って現実とクロスする。私にはそれがこの舞台の魅力。アウトロー任侠西部劇カテゴリーのはち切れんばかりのノリにその通奏低音が響いている。(映画ブレードランナーはストーリーもさりながら画面を支配する世界観という通奏低音が快感。)
『砂の女』
キューブ
シアタートラム(東京都)
2021/08/22 (日) ~ 2021/09/05 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★★
配信うれしや。当然、うずめ劇場と比べている。うずめ版は狭いせんがわ劇場仕様、こちらはケラにしては狭いつってもトラム、十分広い。だが両者の共通点の多さに最初は驚く(どっちか参考にしたのでは?と思った程)。まずあばら家、四角の台上にひと間あり、奥にスダレ、その裏が台所(うずめ版は狭い廊下程度、ケラ版はひと間と同じ広さがあり180度回転して裏側にある)、下手端に小さな土間。他の演出では、土を搬出するロープが中央から下りる、昼間戸外に出た瞬間に鳴り出す音(強い日差しが頭を殴るような金属=鐘に近い音)、砂かきをボイコットした結果受ける攻撃?(あばら家が砂によって受ける衝撃音)のガーン!という音。そして人物形象は原作イメージが確固とあるとは言え、自分で意図せずとも重なり合って来る感覚があった。
他にも男女の他の4名の俳優に男女以外の役をコロス的に配し、うずめ版では舞台のあちこちからゲリラ的に登場、ケラ版では付加された場面(他役者による)がゲリラ的に登場、など。素人の目が見るニワハンミョウとカミキリムシの違い程度の差だ。
ケラによる独自演出は、男女(仲村トオル、緒川たまき)以外の役者(オクイシュージ、武谷公雄、吉増裕士、廣川三憲)が、例えば傀儡を操り、あるいは男の妻のいる東京の家の近所の交番で巡査や交番を訪れる人を演じ、時に男の前に突如現れて男を東京(回想)の場面に引きずり込むなど、書き加えられた部分。
あばらやの周囲には暗い色彩のシートが垂れ、砂の壁を表す。最初の夜、女が家の周りの砂をスコップで掬う「チャッ・・サッ・・チャッ・・サッ。」と動作に合わせてSEが鳴るのが時計の秒針の如くで、延々と続く時間を表して効果的。
ヒ me 呼
流山児★事務所
ザ・スズナリ(東京都)
2021/09/24 (金) ~ 2021/10/03 (日)公演終了
実演鑑賞
久々に天野天街演出舞台を拝めると密かに期待したが・・所謂「天野作品」は演出は脚本と一体であったと思い当たる。
今作は単刀直入に言えば脚本に難がある。冒頭、古からの由来のある温泉(というより遺跡?)から一気に古代へ飛ぶ。仮想の古代王国で奇想天外かつ希有壮大な物語が展開するが、話の定着と飛躍のバランスがSFチックな話では難しい。天野節は散発的に織り込まれるが、原作は「設定」を正当化するストーリー説明に終始してどうにか結末にこぎつけた印象で、天野トリックを優位に効かす余地がない。「天野天街世界」に塗り込まれる事のない天野氏演出舞台を初めて観た。私的には残念な出来。
自由恋愛を「知らなかった」という設定に、やはり無理があったと思う。
火(ヒ)族、水(ミ)族、木(コ)族という三民族は、ジャンケンのように互いが接触するとどちらかを消滅させてしまう存在。だから共存していても「恋愛対象」とならなかった。というより互いに反目しつつもヒミコに従う事で共存していた。ところが女王ヒミコの下命または死により、王命ではなく部族同士のコミュニケーションで国を運営する必要が生じ、悶着がありつつも交流が生まれる。これが「一目惚れ」の機会を作る。
惹かれ合う二人(男女関係に限らず)が部族の違いを超えて繋がろうとする所の描写が面白いが、複数カップルで同じ意味合いの場面が描かれると、やや冗長。二人は接触するとビリっと来るが、最終的には「最初は怖くてもこうしていれば・・」と、皆が手を繋ぎ合い、分立を乗り越えて行くというクライマックスは神話的な描写で「自由恋愛発祥」が標される。
着想は面白く、「接触」こそ生命の源だ、というメッセージは現在を意識したものであるのは間違いない。
ただ、「まだ自由恋愛を発見していない」未開の状態から、「何だか惹かれてしまう」事の発見、そしてそれが常態化するまでのストーリーでは、ドラマに必要な葛藤や障害が希薄になる。単純化すればこの芝居は、三部族が生物学的に接触困難であった、という障害を、生物学的な変異に拠って克服した、というだけの事になり、カタルシスがない。細かなエピソードや歌・踊り、笑いで肉付けし、それが話の前進に貢献してもいるが伏線回収の構成として弱いのは否めない。
恋愛を縛るのはむしろ社会システムが構築され、しきたりや制度が作られて行く段階だ。統治者は統治に不都合な「自由」に制約を課して行く。支配層や一定の地位を有難がる人々にとっては、現状維持が至上命題であり、体制に揺らぎが生じるのは人民に「富」や「余暇」が生じて「知」を手にする時だ。領土を超えようとする人々と押さえ込もうとする領主の相克の光景がみられるのは、文明興隆の時代、産業革命以後~現代。為政者は常に人民に「知」を与えまいとする。現在の日本では現状維持層の広がりが目立つが、反知性主義に表れるように「知」を手放し、後は何を指針に生きるのか(朝のワイドショーの占いか)。。
このような時代に自分を見失わないために、素直に自分の「好き」を殺さず育てよ、とは正しいのであるが、ピンと来なかった理由には物語の起伏という事以上に、何かある気がするがまだぼんやりしている。「ああなりたい」人物像として、古代の人々が迫って来なかったから、だろうか。
終わり良ければ、という話もある。冒頭エピソード(現代)では中年男と若い女性のカップルが登場し、男が誘った秘湯に着いてみたが地元旅館の女将っぽい婆が「先ごろの地震で地下水脈が割れて枯れた」との説明で、女は男を見限る。残った男が温泉に建った碑に手を触れると古代に飛ぶ、という運びなのだが、さてラスト。同じ場面に戻り、古代に紛れ込んだ男が現代に戻った体。そこへ女が別の若い男と登場する。先まで自分と居たはずの女は男を覚えておらず、周囲の者も現カップルを承認している。狐につままれた中年男、という「現実は厳しい」オチである。これが捻りがない。冒頭の予感を裏切る展開か、何か中年男にもたらされる教訓(獲得物)がせめてあれば何だが、惨めな三枚目で放置される。作者が考えすぎて一周してしまったのか・・。例えば若い男女を結び合ってる動機が不純で、今見た「純粋な惹かれ合い」と遠くかけ離れてしまった現代をチクリとやって終わるとか、それだけでも感触は違ったかも。
灯に佇む
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2021/09/24 (金) ~ 2021/10/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
名取事務所公演の外れ率はかなり低い。別役作品、海外戯曲、韓国系戯曲と幾つか系統があるが、今回は日本人による新作(書き下しか)。内藤裕子作演出舞台は昨年、「やっと初めて」本拠地・演劇集団円のを観て感じ入った所であったが、本作にも当てられた。下北沢B1の前列からはほぼ同じ目線の高さで、手を伸ばせば届く場所にも役者がいて芝居の世界を作る。二代続く診療所が舞台。最小限の登場人物が効果的に各役割を担って簡素ながら饒舌で余白もありながらきっちり伏線はさらう、台詞と演技が心地よい時間であった。
一診療所という医療現場での出来事を描きながら、「何のための医療・医学か」の問いにまでテーマが及ぶ。「生きること」について考える事になる。そして制度が絶対ではない事も仄めかされる。この視点は現在の問題にも通じる。うまい。
オペラ『さよなら、ドン・キホーテ!』
オペラシアターこんにゃく座
吉祥寺シアター(東京都)
2021/09/18 (土) ~ 2021/09/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
萩京子×鄭義信による4つめのレパートリー。「旅する芝居」だった過去三作とは打って変わって舞台は馬小屋の中。ドン・キホーテよろしく旅に出るには二頭の馬のロシナンテとサンチェは頼りなく、名づけ親である主人公の少年(性別は女の子)ベルはまだ小さい。ファンタジックな展開は訪れず、第二次大戦中のフランスの長閑な片田舎にも砲弾の音が聞こえ、レジスタンスの若者、ドイツ軍の制服姿もやって来る。逃れられない現実だが、本好きのベルは想像の翼を広げる。戦局が熾烈さを増し(仏を占領した独軍の敗勢)、老馬ロシナンテの供出の話を聞いたベルは本当の旅に出る事を決心するのだった。が、その夜ベルは運命的にある女の子と出会う。。
妻に逃げられた実直な父トーマス、わけあって学校に通わなくなったベルを連れに来る女性教師オードリー、片足が悪いが女あしらいのうまい馬小屋で働く青年ルイ、彼の元を時々密かに訪れる村出身の親友サイモン。そして着の身着のまま逃げ込むように駆け込んできた女の子サラ。人と出来事の来訪にドラマの風が吹き、旅が向こうからやって来る。
ストーリーに絡まるように、詩と旋律が別の色の糸を織り込む。歌による飛躍が凄い。言わば台詞の交換(旋律付の台詞もその範疇)で成るテキストの世界に、ポエムと楽曲が表現するコンテクスト(今のこの時代の、と言ってもいい)の世界がせり出してくる。ミュージカルの如く一つの楽曲の中で場面(相)が変化し、希望、夢、勇気、愛という直接的な言葉を高らかに切望するように歌い上げる一幕ラストには思わず拳を握りしめる。
類似の構成が二幕の最後にも訪れる。不遇と抑圧の底辺から僅かな一筋の光を見ようと立ち上がる人物たちを優しく鼓舞し、返す刀で諦めの中に安住する現在の私たちに檄をとばす。最終日に枯れた喉を絞ってベルが歌い、他が応答する長い歌曲がこれでもかと叩いて来た。
ハッピーエンドにしなかった(望みは残しているが)作者の意を汲んで作曲者が書いた楽曲、笑みを封じ前方を睨みつけて歌う歌が頭にガンガンと(ピアノも低音でガンガン鳴っていた)響いている。
このような上質な作品を観る時間と、心の余裕と、財力(私は無いが)を持つ者が、今必要なことのために何かを為すとすれば今持てるものを差し出すことだ、というアイロニーをどこか醒めた頭で考える自分がいる。
自分がこれを秀作として語りたい理由は、この作品が現状肯定したい者ではなく現状に喘ぐ者またはその存在に多少なりとも胸を痛める者(即ち現状を否定せざるを得ない者)に照準した作品であるから、という言い方になる。もっとも、小気味良さあり笑いありの鄭義信らしい舞台である事に変わりはない、とだけは一言付記。
風の市
激団リジョロ
サンモールスタジオ(東京都)
2021/09/23 (木) ~ 2021/09/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
開演と同時にナチュラルな関西弁の激突。猪飼野が舞台の作品である事と合わせ関西発の劇団と推したが、プロフィールだけでは不明。「ハードコア」を謳い役者に徹底した負荷を強いるパフォーマンスが売りというから、関西弁の台詞も訓練の賜物?等とも想像してみたり。作=金哲義も出演しているが他劇団。こちらは関西だろうと推す。
在日家族の喧しい食卓の会話は激烈である。総連、民団の話も出てくる。役者の殆どは日本人だろうがこの「空気」の再現の度合には舌を巻いた。この題材の芝居にはコメディオンザボード「イカイノ物語」、趙博の「風の仲間たち」と思い出すとやはり関西である。日本アパッチ族を描いたシライケイタの「SCRAP」に感じてしまう不満は「在日らしさ」の足らなさだ。(その中間と言うと「役肉ドラゴン」、話の舞台も作者の出も関西だが地元臭はないのがこの作者の特徴。)
粗削りな部分も含め「よくやってる」集団。コロナなんぼのもの、と忘れさせる勢いに飲まれた。
ファクトチェック
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋ホール(東京都)
2021/09/17 (金) ~ 2021/09/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
報道番組を「選べる」と感じることは稀だ。高給せしめてジャーナリスト名乗ってる事の贖罪のように「やってる感」出してそれっぽいコメントをするキャスターやコメンテーターたち。言い回しの語彙力の差はあっても、語る範囲は決まっており、それゆえ結果的に横並びになる。誰もが注目する新型コロナ関連の情報さえ、踏み込んではならない領域があり(何者かを守っており)、公益は二の次になっている。スクープ!という代物が記者の「ジャーナリスト魂」と取材活動の動機を担保している模様だが、いつも思うのは「速さ」を競った所で何だという話。質で勝負しろと思う。特に政局の新展開などいずれ知られる事だし政治家は自らを顕示したがる生き物なのだから、、。挙動を追う価値を感じないような政治家でも、首相や幹事長クラスならコンペで勝負できる、つまりルールは健在。運動会の徒競走で優勝して無邪気に喜ぶ小学生、スポーツと同じゲームに見える。真に価値のある情報をゲームに持ち込むと、出来レースの平和共存に不穏な影がよぎるのだろう。ジャーナリズムとは元来不穏な事実に触れるものだと思っていたが、「業界の平和」の方がそれに優先するらしい。
そんな体たらくのマスコミの病根が奈辺にあるかを明快に描いた劇。言いたい事をほぼ言ってもらった気分で、頬をぶたれる衝撃はなかったが、溜飲を下げた。平和共存の反対語は、戦々恐々。先進国ではあり得ない「許認可権」がテレビ放送に関しては所轄官庁に与えられ、政権批判を行なうと許認可に関わる。もしマスコミ業界に平和共存が道義的に可能だとすれば、政権との距離を互いに取り合い、政権が懐柔できないよう結託する事、では。。等と繰り言を言っても「仕方ない」のは変わらないからで、変われば「仕方なくなる」のも一方で事実だ。日本の現実はそれに程遠く、政治の介入に完璧に負けているが、「負けている」という自覚もないのだろう。一億総なんとか。戦前はまたやって来る。
ベンジャミンの教室
電動夏子安置システム
あうるすぽっと(東京都)
2021/09/16 (木) ~ 2021/09/20 (月)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
見ようと狙っていたがかなわず、映像を有難く拝見した。数年振り二度目の電動夏子、作品性にも俳優にも既視感を覚えなかったが(記憶のかなた)、「侮れない面白さ」を感じた点が共通。
設定がユニークである。税務署の協力だか管掌だか、「税の大切さ」の教化・啓蒙活動を行なう協議会なるものがあり、小学校への税金教室の出張が主な活動。商工会議所的な組織でもあり参加資格は事業主である事。話の端緒は著名な若手起業家(健康食品)が今度参加するらしい、という話題。彼の講演映像を見て感想を言い合う雑談タイムが冒頭。全員が集まる前に女性同士の会話があり、思い出深い炊飯器の修理を頼まれた家電屋の女主人が依頼主の女性にブツを渡すのだが、家電屋は実は特許申請しない斬新発明をやっていて今日はその炊飯器を「炊飯器としての寿命は終えた」と別物に仕上げてくる。便利だが現実離れしている機能を持つこの代物を見事な伏線として序盤に奇妙な展開があり、作品世界の自由度はいや増して荒唐無稽さは後半に向かって拡大して行く。
「税」を語る舞台が据えられるが、サークル的な緩い義務感(使命感)による緩い繋がりの中で、個人事業主だから許される外目「人格破綻」かと思うキャラが炸裂、平然と「税金教室」の私物化(自己欲求の手段に)する者ども。小学生を前に一度ならず二度目も児童そっちのけでドラマが進行。各々勝手きままに行動するが、奇妙なかみ合いが生じて高揚する瞬間がある。というあたりはテイストは全く違うがアングラか元気な小劇場の要素がある。
だが、なぜ今「税」か。・・これに触れる会話は一瞬だが光る。「必要な事に税金は使われているのか。」
雑談の中でもさらっと、こんな具合。コロナ禍で支援が届かず自殺した事業主も知ってる・・しかし政府は支出を渋るため「日本は借金づけでお金がない」と喧伝している、親方の税務署に逆らうのもなんだが・・借金の殆どは国民だから財政破綻しないんじゃない?・・等。現在のマスコミを通して語られる事のないセンテンスが、言霊ではないが声になって耳から入るだけで私には光明だ。