桜の園
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2021/11/13 (土) ~ 2021/12/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
今年5月駿府城公園での「アンティゴネ」野外公演以来のSPAC観劇。
静岡芸術劇場での観劇となるとコロナ直前の2020年2月「メナムの日本人」以来1年半振りだ。
早速芝居について。
フランス人演出家によるフランス人俳優と合同のチェーホフ作品舞台。舞台下(側面)の字幕表示を時々読みながらの観劇であったが位置的には見やすく大きな支障ではなかった。アート系な演出はさほど意外性がなく、大気音(ゴォォ)や明確な和音にならない音響が微かに鳴り、照明も抑え気味で、ロシアの空を思わせる鈍い光を放つ巨大なホリゾントにさえ人間が影に見える位。これらは舞台上を対象化させ、観客は地球上、歴史上の一点のはかない生を見る感覚を持つ。
実際には光は当っているのだろうが、絵画的な印象がそんな具合で、俳優も然り、各人ユニークな人物像を演じているが脱色され、だだっ広いステージの上で一人一人にフォーカスされず、観客からはどこかよそ事という感覚である。
そんな事で、今受ける印象の範囲を大きくはみ出す事はないだろう事が予想されてしまうので、眠気が襲う。またフランス語の発語というのが(仏映画もそうだが)感情の直接的アタックがなく(異言語ゆえ?)、日本人俳優が発語する場面との落差も大きい(各国俳優は母国語で台詞を喋る)が、劇が進むにつれそれは幾許か融合し解消された感はあった。
眠気は襲うが入眠には至らず、字幕の読みそびれ程度で済んだ。ただし、ストーリーを把握していなかった「桜の園」の予習をしていなければ爆睡したと思う。
その上で演出の意図を肯定的に感じた部分は、俳優らがマスクを着用している事と関係するが、現代、殊にコロナ期以降の厭世観を体現した舞台になっていた。
SPACの方針なのか、5月の野外公演でも布の口当てを着用していたのには驚いたが、今回もマスクを当てており、最初はげんなりしてしまったが、不思議と声が籠る事はなく(通気の良い素材を選んだのだろうか..とすれば感染対策ではない)、見た目の違和感もなくなり、最終的には現代を映す衣裳に思えてきた。
疚しい理由2021
feblaboプロデュース
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2021/12/15 (水) ~ 2021/12/22 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
feblaboらしい作品、と言える程観ている訳ではないが、よくやられる議論物もワンシチュエーション、程よい謎解き、どんでん返し、つまりは演劇的娯楽性の高い演劇だ。
台詞が重ねられると共に状況が、人物の関係が見え始め、真相に接近していく、また時に裏切られるいわばミステリー。久々にブラジリー・アン作品を味わったが、良品と言えるだろう。
もっとも不明のままの部分もなくはなく、もっと言えば別の解釈もあり得るのではないか、という考えももたげる。3人芝居、2チーム。演出が違うとの事である。戯曲解釈まで変えて来るとしたらこれは中々のチャレンジだが・・。
ガドルフの百合
KARAS
シアターX(東京都)
2021/12/10 (金) ~ 2021/12/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アトリエを出てシアターXで行なう公演では、着想とその突き詰め度(完成度)を試す気概の感じられる舞台が味わえるので可能な限り行こうとしている。今回は紗幕を使い、照明も毎度ながら鮮やかで、側面に映る影を見せる場面も多い。
開幕するとテキストの朗読(以前の「シナモン」もアトリエのアナウンスも特徴ある声だと思っていたが佐東女史のであるらしい)が流れ、作者の化身と思しき男が歩いており、やがて風が吹き、遠くで雲から稲光が漏れるのが見え、やがて風雨に襲われ行く先に見える小屋に逃げ込む・・といった宮沢賢治の短編のテキストが勅使川原氏のムーブのようなダンスと合わさって立ち上がる。男は建屋の中に光る白いもの、やがて百合だと判るそれを見つける。彼はその百合に恋をする。
佐東は百合を形象し、純朴で妖しい動きを見せる。一方勅使川原は旅に疲れた男を踊りで「演じる」。
上演の中盤までは物語をなぞり、見事な世界観。陶酔へ誘うのは「物語性」である。が、物語は早々に凡そ言い尽くされてしまう。その先は、勅使川原と佐東の「舞踊」となる。テーマが物語に沿っていても、表現は舞踊であり、舞踊というものは如何ようにも題名を付ける事ができる抽象性がある。姿態の美を見せる時間となる。そして最後には物語に戻り、「恋」の美しげな形、絵のような構図を見せてカットアウトとなる。
舞踊とは言え、冒頭から「物語」を追って観ているので、「舞踊」という抽象世界に入った瞬間戸惑いを覚える自分がいた。そして最後は既に語った物語の一片をリフレインしたもの。
最初から「舞踊」鑑賞モードであればまた印象も違っただろうが、物語を味わうが故に、とても見やすく飲み込みやすかった。ところが宮沢作品の終了と見えた所から、芝居のコールで歌う歌のように舞踊がサービスで踊られ、さらに、既に語った物語の一場面あるいは物語を象徴する場面が巻き戻して再現される。終盤のくだりは「付け足し」(サービス)と感じられたが、好みから言えば、「物語」叙述を上位に据え、1時間前後のところで終了しても全然良かった。
クリスマス・キャロル
劇団昴
座・高円寺1(東京都)
2021/12/02 (木) ~ 2021/12/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
同じ劇場(座高円寺2)で観た「ラインの監視」が初の昴であった。「クリスマス・キャロル」は座高円寺のラインナップに上ったので注目した。隣のオバさんペアの会話によれば「この劇団はこれずっとやってる」恒例の演目らしく、ネットによると前回の2017年まではほぼ毎年あうるすぽっとで上演、本拠地三百人劇場閉館の2006年頃からのデータでは菊池准台本・演出、やがて同台本を河田園子演出、エスクルージ役はほぼ金子由之とあり、近年の6回は12/24・25劇場ホワイエでの無料公演となっている。だが4年空けて復活した今回は、海外の脚色版を河田が演出した有料公演である。劇場も変わり、スクルージ役は宮本充、新版クリスマスキャロルであった。
過去データを調べた理由は、「長くやっている」舞台にしては・・?というちょっとした違和感。当初から音楽は上田亨となっているがシンセ音の伴奏が今風。演劇アンサンブルの往年のレパ「銀河鉄道の夜」のような磨かれて黒光りした感がなく、後出しじゃんけんのようだが「新版」だと知って合点が行った。
この原作には昔からピンと来ない所があって、今回は芝居を観て改めてその事に思い当たった。一人のリアルな存在が変化して行く過程というより、グラフィックソフトで合成した顔のように色んな「困った人」の要素を詰め込んだスクルージという存在と、対比させる形で理想的な人間のあり方を提示した作品、という風に解釈すればスクルージの言動の矛盾も気にならないのだが、芝居となるとそれを追ってしまう。「困った」要素を脱して理想に近いスクルージとなったラストの場面は爽快で、これは私流に言えば自己矛盾なスクルージを辿る時間を脱して、自我同一性を獲得した事による気持ちの良さと、「良い人間になった」喜ばしいラストとが混同され(という言い方が意地悪ければ、重ねられ)、劇的高揚とともにラストを迎える事が出来ている。
つらつら振り返ってそのように納得されたものである。
帝国月光写真館
流山児★事務所
ザ・スズナリ(東京都)
2021/12/08 (水) ~ 2021/12/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
初・高取英作品。氏が主宰する月蝕歌劇団にまではついに触手が伸びなかったが、2018年没した高取氏の追悼公演という事で「珍し物見たさ」も手伝って足を運んだ。
寺山修司と所縁のある人であり源流のある劇団、という印象であったが、チラシ絵が同じ丸尾末広“系”?でつい混同してしまうA.P.B.tokyoというユニットや青蛾館、また後に知ったが池の下が寺山戯曲を上演するのに対し、こちらは高取作品の上演が主であったようだ。「月蝕歌劇団」とは若き高取氏が初めて寺山氏に提供した戯曲。劇団旗揚げは1986年に遡るがそれに至るまでの数年「演劇団」名義で高取作・流山児祥演出による舞台を数本やっており、今回の作品はその最後にスズナリで上演した作品である由。当時からスズナリは演劇人にとってのステータスで成程流山児氏にとっては記念碑的な作品な訳である。(以上観劇翌日にweb調べ。)
さて舞台。音楽・歌の使いようは演出面で天井桟敷に寄っており(私は万有引力を通して知るのみだが)、廻天百眼などの音楽系アングラの源流に触れる新鮮さがあった。戯曲版「ドグラマグラ」等の著作がある高取氏の本作は、ストーリー的には唐十郎に近い言葉を媒介した話運びもありつつ、内容は猟奇探偵物のエッセンスで染められている。
軍靴の響きが高まる昭和初期、紙芝居に登場する赤マントが帝都に出没し、暗躍しているという・・冒頭2人の少年が一方の父の月光写真館なるものを探して冒険の旅に出るが、やがて闇の世界は現前し、憲兵隊、宗教団、赤マントらを操る男や、極秘研究に打ち込む科学者がけん制し合いながら何かを巡って動いている様相。何やら剣呑な原子(幻視?)再生機の完成が一つのエポックとなるが、果たして・・。
伏線回収の精度は正直低いが、目指している世界観は判りやすく、この路線の開拓者の一人と認識した。
ホテルカリフォルニア
劇団扉座
紀伊國屋ホール(東京都)
2021/12/07 (火) ~ 2021/12/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久々の扉座観劇は、思い出深い演目ゆえ。もう20年も前のこと、知人の紹介でその知人が関わる西東京あたりの地域劇団がこの戯曲を上演するのを見て、笑った。あの芝居がこれだと判ったのは、題名に「厚木高校・・」と副題が付いているのを見てもしやと色々調べたからで、この演目は誠に横内氏の「私戯曲」であることが今回改めて観て非常によく判った。
劇団40周年に寄せ、祝祭的出し物を売れっ子俳優も総動員で実現させたようである。
扉座はしばしば踊りを多用する劇団だが、今回も踊りはキーになっており、取って付けた感なく芝居にがっつり噛んで堪能できた。「ホテル・カリフォルニア」を皮切りに70~80年代洋楽も全開で、音楽とダンスの高揚を織り込んで高校生活の断面を描いた弾けた劇世界を、おっさんおばさんが衒いなくやっている。
はっきり言えば私が20年前観た芝居の方が芝居として愛せたし、この戯曲自体若者らに書かれたと言って良い、むしろ若者らに是非やってほしい作品だなと感じ入った次第であるが、此度は扉座のアニバーサリーな趣向に乗り、大いに拍手をさせてもらった。
飛ぶ太陽
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2021/11/26 (金) ~ 2021/12/08 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
毎回何がしか新味のある桟敷童子だが今回はまた異色作。戦後史に埋もれたある事件の紹介、描写に徹したと言って良い作品となっている。登場人物は恐らく創作だろうが、亡くなった住民百数十人中には居たであろう想像に収まる人物たちが登場する。敗戦後の一歩を健気に踏み出た時(1945年秋)に起きた筑豊炭鉱の町の爆発事故が題材である。東憲司氏がこだわる土地と歴史に絡めた作品は多いが、「昭和20年11月12日午後5時19分」の唱和をこれでもかと挿入し観客の耳に刻みつける。(現に覚えてしまった。)ただ事実を題材にしようとドラマを書いてきた桟敷童子が今作では事実であることにこだわり、着地させた。これに至る経緯または意図について例によってあれこれ想像をめぐらしてしまうが、またいずれ。
ダウト 〜疑いについての寓話
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2021/11/29 (月) ~ 2021/12/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
英語戯曲作品の翻訳・演出を得意とする小川絵梨子女史は本作でも本領発揮、題名が示すように疑惑の真偽を探るミステリーでもある本作の持つポテンシャルを最大限に引き出し緊迫感十分であった。主役、と言って良いだろうシスター(学校長)役・那須佐代子と、神父役・亀田佳明が疑惑を巡って火花を散らし、新人シスター(教師)役・伊勢佳世、生徒の母親役・津田真澄の貢献も目に焼き付いた。
映画版を観た印象というのが今一つであったので、それほど期待はしていなかったが収穫であった。
ワクチンの夜
城山羊の会
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2021/12/03 (金) ~ 2021/12/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
前作は映像で観てこれも独特であったが、今回も共通するものがあった。というより、恐らく内田ケンジの狙う世界が、一度(氏の領分である)映像表現で鑑賞した事で、よりその意図を汲んで見れるようになったのかも知れぬ。
コロナ・ウイルスのワクチンを今日打ってきた夫婦、その息子、その祖父(夫の父)、息子の大学の後輩の男女が、夫婦の家のリビングを入ったり出たり。下手が玄関への廊下、上手に二階へ行く階段(結構な高さまで作られている)、正面奥の中央が台所へ行く出口、その下手寄りに祖父の部屋に続くらしい廊下が奥に消えている。
前作(映像)では主人公の主婦の妄想と、現実との境界が溶解していたが、今回「妄想シーン」は出てこないもののワクチン熱で熱い吐息をつく妻は、既に妄想(発情?)モードの中にあると読めたりする(しかも後にその対象となる若い男に曰く、実は今日注射をした若い医師を「ある人」と見紛って体が熱くなった)。発情モード全開になるに従い照明が落ちるのも主人公の見ている風景という解釈を誘う(「日暮れ時」は後付け)。
約1時間半、言ってしまえばどうでもいい類の話なのだが、あんな事も(こんな事も)普通しやしないが、わざわざエロ要素を盛り込んでたりもするが、期待に応えつつ予測を裏切る展開から目が離せない。
大昔読んだ筒井康隆だったかの小説に、人の行為全てがリビドーに裏付けられている描写があったような。この芝居の人間の行動も全てそれである様を、皮を剥ぎ取って「ばぁぁ」と開けてみせるので笑いになる。ショーケース(文字通りの)の外から人(観客)が覗き見してると気づいたら「きゃっ」とめくれたスカートを直す訳である。
コロナにまつわるホントどうでもいい話
劇団チャリT企画
新宿眼科画廊(東京都)
2021/11/05 (金) ~ 2021/11/09 (火)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★
観劇できるはずであったが体調悪く足を運べなかった。
そこで配信で鑑賞、今観たばかりのほやほや。「映像に載せられない一部をカット」との事でそこは残念であったが、「ホントどうでもいい」実はどうでも良くない話集1時間はそこそこ楽しめたものの、やはり生で観たかった。
というのも映像、とくに音声がとてもよくない。客は笑っているが台詞が聞き取れない。元々配信の難は「音」にあるが、楽し気な雰囲気は伝わっても楽しみ半減である(分かる部分もあるので半分は評価)。台本が売られているならぜひ買って読みたい。
鴎外の怪談【12/16、12/19、12/25公演中止(12/19は1/30に延期公演決定)】
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2021/11/12 (金) ~ 2021/12/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
永井愛戯曲、しかも初演で演劇賞を獲った作品を今更評するのも何であるが、二兎社の面白いのは再演してもキャストが丸ごと変わる所で、「ザ・空気2」に続いての松尾貴史の起用それも主役という事で楽しみではあった(私としては初演を見逃したリベンジ)。鴎外作品に馴染みがなく、読みかけても興味が続かず挫折し結局一つも読了していない(教科書に載った短編以外)人間でも、歴史の中に生きた鴎外を描き出した本作は興味深く観れた。
ただしもう一つの個人的関心は、日本は急速に変わり(劣化し)つつあり、コロナ期を挟んで益々その劣性が露見したここ数年の変化が初演舞台での条件(観客側の)を損ない、初演時と異なる見え方をしているのではないか、といった事だ。初演を見ておらぬから判りはしないのだが、思いは巡る。永井愛特有のユーモアは大逆事件における鴎外の保身を暴きながらも「歴史」という大きな視点の中に収め、鴎外自身の苦悩は苦悩として、しかし多くの人に愛された存在(個人、作品とも)だったとした。
だがこの劇の集約のされ方は「負の歴史を経て多少なりともまともな時代になった」という確信が残る限りで、許される。最後ににっこりとは、そういう事だ。だがもうそういう時代ではなくなったのではないか。
まともでない状態を否定せず、むしろそれを牽引した政権に続投を委ね、劣化に居直る社会では、鴎外の「保身」の苦悩など取るに足らないものに思える。彼は十分苦悩したし闘おうとした、と幾ら描こうとも美談にならぬ(元より美談ではないという評価もあろうが)。また彼の中にあったと作者が描く自責の念は、労うべき事として描くことはできず、正に一人間の無力の証として描くしかない。なぜなら現在彼と同様に、無力さと保身とにより、手をこまねいて何もできないでいる(あるいはまだ大した事は起きていないと目を瞑る)我々をそこに見るからだ。
悪夢の時代を「過ぎ去った過去」として、その中で苦悩した一人の人間をその功績をたたえるニュアンスで描写することは、もう無理である(作者もそのような安易な描写で終わらせよう等は考えていまいが)。
スペキュレイティブ・フィクション!
NICE STALKER
ザ・スズナリ(東京都)
2021/12/01 (水) ~ 2021/12/05 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
今回二度目と思っていた劇団だが、こりっちで過去作を見ると近作2つを観ていた。一作目を思い出させる二作目でなかった(作風が違った)故だと思うが、三度目の今回も同様ながら、辛うじて見えた「らしさ」とは、タイムリープやメタシアターを多用した基本荒唐無稽で変キャラ、ジョーク混じりの台詞、アップテンポな作劇の部類であるが、骨格はしっかりした印象、かつ哲学的問いを掘り下げている点である。
最初のはロリコンという性癖を通じて愛の成立について、二つ目はよくは覚えていないが利他主義の成立について、劇を通して思考していた印象。今回はテーマをSFに据え、高校の部活であるSF研究会のSF通の台詞を、非・SF通向けに親切な字幕の注釈を入れながら、これらオカルトや科学的真理といった概念と近接する「知」が、高校の青春ドラマの帰趨に絶妙に絡ませていた。
穿った台詞も一つ二つでなく、荒唐無稽のままで終わらない舞台。
みんなしねばいいのにII
うさぎストライプ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/11/26 (金) ~ 2021/12/07 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
舞台上は女性専用らしいマンションの一室。住人二人又は三人の住居として使い回されるが、その転換は今いる住人のの所に遠慮会釈なく別の住人(と客だったり)が入って来て為され、時に二場面が同時進行したりという、演出がスムーズでうまい。また上手側の棚には売り物が置かれ、時々コンビニ店内にもなる。
「変なことが起きる」マンションで、死と背中合わせ的な空気を楽しむドラマ、という所か。
地下室の手記
地点
吉祥寺シアター(東京都)
2021/11/25 (木) ~ 2021/11/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
奇想天外な(ストーリーならぬ)演出というのが地点の持ち味。そう言えば今作では「地点語」が途中一度出て来たくらい。独白で綴られる「地下室の手記」が地点版に意訳されたテキストをおちょくった発声と演出でこね回され、それでも確かに言葉が積み上がって行く感がある。しかし感覚で捉えるのは舞台という現象の構造、ありようでテキストでない。人間の営為のカタチを味わう的なレベルで、アフタートークのゲスト(ロシア文学研究)の言うように地点は一演目を複数回見るのが良い、のかも。
シアトルのフクシマ・サケ(仮)
燐光群
座・高円寺1(東京都)
2021/11/19 (金) ~ 2021/11/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
当日パンフの役者/役名の筆頭に二役を担う女性の役名が、若い世代らしい名と、カタ仮名で人ならぬ存在を思わせる名、まだ見ぬ内から劇世界が脳内に立ち上がる。そのイメージ通りの少女が思いきり駆け回る開幕から、「シアトルへ」の物語が坂手氏独特の筆で紡がれていく。
福島のとある酒蔵が震災で破壊された事実と、再生に向かう瞬間とをつなぐ間隙に、実はフィクションであるシアトル話が据えられ、被災者の暗中模索の過程を「シアトル」を巡るお話に代弁させる構造になっている。
津波で兄を失った主人公は、舞台上に二つ置かれた醸造用タンク(木製?)の中から、少女が呼ぶと顔を出す。兄は杜氏であった。最初どちらが死者か判らなかったが、弟である彼は生存する者で、少女は兄の娘(姪)、津波の犠牲者である。弟の幽霊然とした佇まいは、酒造への思いを持ちながらもふらふら彷徨う所在ない姿と重なるが、最後に彼は亡兄と酒造への思いを、震災以来日本各地の酒蔵を巡った体験と共に吐露し、福島で跡取り無く今や観光スポット化した酒蔵の持主から蔵の提供を申し出られる大団円に結実する。
途中坂手特有の分割説明台詞(ダイアローグでなく説明的文章を俳優が分担して喋る)の長い展開もあって、台本の上がりが遅かったのだろう(トークでも「筆が遅い作家」と自称)俳優の台詞リレーが綱渡りのようで危うかったが、終局でパズルが揃う様は見事。属性の不確かであった人物の関係図も出そろい、新たな酒蔵の船出を劇場全体で祝い、福島が負った傷と、その後が報じられない現在へ思いをはせる時間となる。坂手氏の「意図」は十分汲め、静かに胸に迫る舞台となった。
ガラクタ
TRASHMASTERS
駅前劇場(東京都)
2021/11/19 (金) ~ 2021/11/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
TRASHの舞台もほぼ毎回の観劇、心酔しきってる訳ではないがつい観てしまうのはこの劇団の(というか中津留氏の筆致の)癖(ヘキ)を差し引いても得る所のある故だ。
今回も面白く観た。構造はシンプルで芝居も観やすく、「う~むちょっとこれは」という台詞も少なかった。役の数もこの位がちょうど良い(6人で8役)。ワン・イシューだが飽きさせず、日本の将来に関わるテーマでもあり、過疎地での「ウイルス感染症」の影響という形で経済問題に触りながら、メインテーマを掘り下げている。
立場の違い、人の分断と繋がり、理念の衝突と、対話・・地方の政治には国政の縮図も見られるが、国政との違い(地域性)に作者は希望への糸口を残して物語を終わらせている。
俳優陣ではナカツル・プールヴァール「おかめはちもく」に出演した岩井七世が綺麗どころで目を引き、庶民的悪役を存分に演じるみやなおこ、根のよさが滲む町長(森下)、先輩を慕う昔気質な漁師(長谷川)らが脇をにぎわし、観客がその目線に近づく(主役に近い)役として料理屋の夫婦(星野、石井麗子)、役所勤めの青年(倉貫)が堅実な所を押さえてバランスが良かった。
イロアセル
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/11/07 (日) ~ 2021/11/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
初演から数えて10年が経っていた。新国立劇場の芝居を観始めた頃で、震災・原発事故の年の秋。おぼろに思い出すは・・若手実力派の舞台にようやく見えるという期待(国文学系の月刊誌に珍しい特集で演劇界の新たな「書き手」として紹介されていたのが、劇団名でモダンスイマーズ、The Shampoohat、ペンギンプルペイルパイルズ、劇団桟敷童子、ジャブジャブサーキットで、PPPP以外は既に観ていた)。
SFチックな芝居でどうにか結語に辿り着いたものの、特異な着想だけに成立させるには無理の感じる所も・・という感触であった。
今回は初演とは舞台の見た目が全く異なり、初演時にあった円盤型の物体はなく、主人公が閉じ込められる檻と灰色の壁、上手側は壁が開いていて町が見える。主人公の着る囚人服も灰色のシマ柄で、舞台手前の通路を通ってこの場所にやって来る人々はこれと対照的にそれぞれにカラフルな出で立ちで対照が際立つ。
「言葉に色がある」島での、主人公が「みたい」と願った光景が終盤、現れる場面での映像の効果は技術の進歩の為せる所で、初演になかった。主人公は島の外からやってきた者。そして島の人々には言葉に色が付いているが、色が消えるエリアが出来た(作られた?)、それがこの監獄のある一帯であり、主人公は言葉の色を見たいと思っているのとは逆に、人々は言葉に色がないこの場所を何かにかこつけて興味津々でやって来る。吐いた言葉が匿名性を持つ(発言者を特定されない)、という彼らにとって初めての体験を提供する訳である。
完全オーディション制で決まったという役者陣も不思議な取り合わせで、てがみ座の箱田氏が主役をやる姿はてがみ座でも見なかったな、と。町長役・山下容莉枝(映画「12人の優しい日本人」のあの役)、看守役・伊藤正之も映像で観たらしい以外は殆ど知らぬが、役イメージに当てた感は十分見えた。
言葉に色があるという事の含意が、むしろ展開を狭めそうな所、うまく膨らませていた。
能『羽衣』
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2021/11/17 (水) ~ 2021/11/17 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
シアターXレパートリー久々の観劇は能。一回公演だがうまく時間が合って観る事ができた。Xではお馴染みの清水寛二氏のシテと、ワキ1名による「羽衣」はフルバージョンだという。純正の「能」は夏に新作能をやはり清水氏の企画と主演で観て衝撃であったが、こちらは古典の割と知られた能の演目で、「絶対に寝る」法則が当てはまるかどうかも検証。うとうとはしたが、完眠は避けられた。もっとも、うとうとして良いのだと思っている。音楽劇であり能役者の動きや喋りは説明的部分と言え、五感に来るのは強烈な「音楽」、即ち地謡と囃子である。これは心地よいので眠って良いのだ。恐らくかなり良質な睡眠が約束される(私の隣の青年はほぼ寝続けていた)。
それはともかく、「羽衣」は、能の多くが鎮魂を描く処の複式夢幻能とは異なり、羽衣を浜に忘れた天女がそれを拾った漁師に頼むと「舞いを舞う」事を条件に返してやるというので舞うという話。ミソは、天女の舞いは羽衣を着て舞うものなので、衣を返すように言うと漁師は「先に返したらそれを着て天に帰って行ってしまうだろう」と疑いをかける。すると、嘘は人間のもの、天に嘘などというものはないと天女は告げ、漁師に羽衣を返してもらうというやり取り。
シアターXでの能公演は十数年前、観世榮夫らによって多田富雄の新作能「原爆忌」が演じられたというが、毎年のレパートリーにしようという話が、観世氏や中心人物が翌年相次いで亡くなり、立ち消えたという。今後Xでは能の企画を積極的に考えて行くというので、ちょっと楽しみ。
15(Fifteen)
円盤ライダー
アトリエファンファーレ東池袋(東京都)
2021/10/25 (月) ~ 2021/10/31 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
円盤ライダーは確か3度目か。以前観たのもそうだが、舞台として仮に設定した場そのものの面影を残したまま、芝居は何となく始まり、次第に世界が出来て行く。社会に生きる男が登場人物で、個々のキャラに合った(実際そういう仕事に就いてるようにも見える)人物を演じるその風味がこの劇団の魅力であったりするのだな。途中何だかケッサクな場面も織り込まれて、美味しい時間であった。(女性が登場する円盤ライダーは初めてか。)
藤田嗣治〜白い暗闇〜
劇団印象-indian elephant-
小劇場B1(東京都)
2021/10/27 (水) ~ 2021/11/02 (火)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
「ケストナー」に続き歴史上の人物(芸術家)を戦争との関わりを焦点化して描いた秀作。前作が初見の劇団印象の過去作は見てはいないが「演出家」のユニットという認識は「劇作家」のそれに変った。
「戦争画」を巡ってのやり取りに後半長い時間が割かれている。
話は逸れるが・・今ハマってる朝ドラが「花子とアン」(時々思いついたように過去の朝ドラを見る事がある)なのだが、村岡花子の幼少からの人生をじっくり描いていてスパンが長い。「赤毛のアン」はいつ出て来るのかと思いながら見ていたら、殆ど最終段階に、ひそやかに、その英文の本が手渡される。今、それどころではない、戦争の渦中に。ドラマは花子(本名ははな)が甲府の貧しい農家から東京の女学校に上がり、社会人になった頃でもまだ大正時代、社会は徐々にきな臭さを帯びるが、描かれるのはあくまで花子の生活圏のドラマ。時折「社会」の風が姿を見せるのであったが、回も大詰めを迎えた第141回の今は日米戦争真っただ中の1943年。社会(国)は覆っていた布の下から露見した般若の形相でむき出しの暴力性をあらわしている。1930年代後半から強まっていた息苦しさが、息継ぎをする間も与えられず胸が抉られるように苦しい。あと2年もこの時を耐えねばならないのか、と。
・・芝居に戻れば、主人公・藤田嗣治が芸術家が食って行けない時代に「戦争画」を書いた、と言ってしまえば実も蓋も無いが、芝居ではこの藤田にそれを書かせるまでに様々な契機を与え、周囲に説得させている。つまり「何故」との問いに単純には答えられない「戦争期」というトンネルを潜った藤田の暗中模索の時間を思うのである。ポツダム宣言受諾後「戦争犯罪」の訴追を予想した、架空の弁明の台に芝居は藤田を立たせる。体制に協力したか否かは、確かに重要であろうが、この作品が描く藤田は果たして何に学べただろうか、とふと思ってしまう。
コロナの間、いとも簡単に「一色」になり、お上の制限を受け入れ、殆ど感染確率のない不要な「対策」を自らの判断で受け入れるだけならまだしも、他人を非難する行為が(TV出演の医師、専門家の一部さえも)横行した。
学ぶべき財産である先人の大きな失敗から、何も学んでいない日本の現実を見れば、それに比べて一人の画家の当局への協力が、戦争を「描く」という行為が、何ほどのものだろうというのが実感だ。
「アン」に戻れば・・(戻る必要もないが)
花子とは紆余曲折ありつつも常に腹心の友であった蓮子(白蓮、仲間由紀恵)は、愛を貫いて築いた家庭を守る思いばかりでなく、子どもたちのために戦争を終らせねばならないと昔とった杵柄、活動家として動き始める夫にも理解を示し、心の底で結ばれている。その蓮子は「一色に染まる」時代の変化にいち早く違和感を抱き、その事を言葉にする。それに対し、まだその時は「空気に逆らわない事が個人のため(時代がこんなだから)」と信じて周囲を気遣っていた花子は、同じように蓮子に「口にしない」ことを助言するが、既に夫が一度投獄され、現状に甘んじる事こそ子供たちへの裏切りと強く感じている蓮子にとって、「何も言わない・しない」事はあり得ない選択であり、花子に「あなたのような卑怯な生き方はしない」と言わしめる。
戦争を背景にした生活の細部での理不尽さ(大いなる滑稽さ)を、このドラマでは「静かに」描いている。
2014年放映というから、「まだ」7年だが、震災・原発事故の記憶がまだ生々しい中、このような真摯にテーマ性と向き合う場面が作れた時代だったのだな、と思う。この後、戦争法案可決、20万人デモが徒労に終わった揺り戻し、安倍政権のやりたい放題(森友、加計、文書偽造(役人忖度によるが圧力はあったのでは)、統計偽造や統計法変更(アベノミクス成功を印象づける)等々)と、個々の案件は個々のものだが「それを許す」面倒臭がりの市民を生み出した。中でも地味で大きな変化は報道に携わる人員の変化だろう。
蓮子と袂を分かつことになった花子も、譲れない一線を見てある決断をする。
恐らくドラマは戦争の経過をなぞり、降伏。花子は翻訳を完遂し、広く読まれる事になった「赤毛のアン」の初版本の装幀のアップで終わるのだろう。
戦争を生きた者にとっては、忘れたい時代であるかも知れない。だが、そこから何かを見つけなければ、踏み締めがいのある足がかりがなければ、望みの持てる未来への期待など湧いてこないのではないか。苦痛を避けたい弱い存在であるが、苦痛の中に希望を見ようとするのも悪くないと思ってみる今日である。