夜叉ヶ池 公演情報 SPAC・静岡県舞台芸術センター「夜叉ヶ池」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    ふじのくに21→22最後を飾るのは宮城聰演出、棚川寛子音楽のこの演目。泉鏡花の著名な作品だから以前読んだアレ、と思って見始めたが、小説「高野聖」と勘違い。「その口になってた」のでやや落胆であった(勝手にしろという話だが)。

    長の別れを惜しみつつの観劇(また訪れるとは思うが..)。さすがと言える出来ではあり、あっと言わせる演出、小気味よい場面、溜飲を下げる場面とポイントを稼いでいる。だが「厳しいな」と感ずる部分もあった。

    第一はこれ、マスクの着用。ステージと客席の距離からすれば通常はマスク無しで問題ないはず(厳密には、発声により微小飛沫が生じれば2m離れてようが飛んでは行くのだが)。「表現」の点からすると、マスクをつけても声はよく届くものの、障害は半端でない。言葉は正直聞き取りづらく、それ以上に表情が見えないのは決定的だ。本当は見てほしいんだけど・・と目が言っているのが悲しい。
    以前も書いたが地方における対コロナの許容ラインは恐らく都会よりシビアに違いない。だが感染リスク・ゼロ信仰を乗り越える事なしに日本の今後は無い、という事を考え合わせつつ、また客席はディスタンス無しに入れている事も考え合わせれば、別の判断は十分にあり得る。
    感染防止の最大の武器は換気で、これによってマスク縛りを乗り越える事を考えてほしい。観客・市民と話合いを持つことができないのかとも思う。
    たきいみき演じる池の白雪姫だけは、艶やかなマスクを外す時間がある。だが、チラ見せでも相貌が見える事が「貴重」という価値観は妙なものだ。マスク無しで一しきり動きを演じた後、台詞のある場面に戻り、思わず喋ろうとして従者に止められ、「そうじゃった」という無言のやり取り、マスクをつけ直して台詞を言う、というくだりが笑いを取っていたが、私は笑えなかった。演劇人の「敗北」に見えてしまうのである。

    第二は、最終場面からコールに行く所。私は宮城氏はどうかしてしまったのかと思ってしまった。
    純潔な二人の男女が最後に非業の死を遂げ、舞台中央で折り重なるが、紗幕の向こうにスポットで二人を照らす中、フェードアウトせずに舞台前部分に白い明りを入れて、二名以外の役者が登場し拍手となった。だが一旦そうした後、役者がはけると明りが落ちて、元の暗がりが出来、奥の光だけうっすらと照っている。つまり、コールを挟んで本当のラストは次に来る、という雰囲気になる。当然二人を照らす明りがついに落ちて終幕、となるだろうと思っていると、またコール用のまぶしい明りが入り、「同じように」役者が袖から、2コールを呼ばれたような顔で出てくるのだ。え?と思う。まだスポットは二人を照らしている。「頼むから終わらせてくれ」と思い、もう一度待つ。ところがやはり消えない。
    拍手をする観客の側から言えば、最初に役者がコールに応じて登場した後は、拍手をしていた手は当然止めず、「本当の終幕」を待っている。ところが役者が満面の笑みで出てくるものだから、ああ、と思って拍手をしてしまう。それで引っ張って引っ張って、結局4コールぐらいやった後、二人を照らしたライトが消える。
    演出としては紗幕の向こうを時間の止まった「絵」のようなものにしたかったのだろうが、私には「絵」に見えなかった訳である。絵画化するにはもう一つ何かが欲しく、それが無くちゃ認めないぞ、というつもりはないのだが、動き出しそうな感じがするものだから、そういう形は早く闇に溶かして欲しいと思ったのだな。恐らく「形」の問題だろう。

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    2022/03/08 05:05

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