0号 -2014-
ゲキバカ
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2014/07/17 (木) ~ 2014/07/21 (月)公演終了
満足度★★★★
最後まで、「本田圭佑」が抜けない
映画スタジオは都心郊外に立地するものだ。
大船(松竹)しかり、成城(東宝)しかり、調布(日活)しかり。
既に解体され、「旧地名所化」した土地もあるが、フィルムの中の「空気」そのもの は100年先にいたる孫世代の記憶だろう。
舞台『0号-2014』は 1938年から1944年までの「映画スタジオ」を、回想手段によって その激動期と「役者陣の汗」を描いている。
全編を観劇すれば「戦争もの」という題材は明らかだ。しかし、前半は「役者陣の汗」のみであり、激動期が 「トラブル」のように彼らを襲っていく構図だ。
こういうことだろう。例えば、ミュージシャンが演奏活動をするように、パティシエが新作タルトの調理しているかのごとく、そして劇団員が舞台の上で演じるように、その「毎日」を戦争が破壊してしまうシグナルである。
※追記あり
ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2014/07/15 (火) ~ 2014/07/30 (水)公演終了
満足度★★★★
大人のための濃密翻訳劇
ほんとの知的財産とは、こんな劇体験のことを指すのだろう。
立体化した戯曲である。
アフター•トークでカール役の中嶋しゅう が「こんな小さな空間なので、とにかくライブ感だけを考えています」と おっしゃっていたが、確かにこの作品は純然たる「会話劇」には程遠い。
翻訳劇ゆえ「記号」をばら撒いたわけでもない。
この「バラバラな会話劇」(那須 佐代子)は「狂い」と「受容」の白線に立つ、登場人物たちの激情描写だ。
「この家族には誰も 俺の質問に答えるものがいない」という台詞があったが、違う。それは「無視をする」愛情法である。
すなわち、序盤に「硬派」かと わずかばかり感想を抱きつつ、実のところ、三幕を通し、小宇宙(家族)の「友愛」も また捨てきれない、登場人物たちのピュア•エナジーが伺えたのである。そんなカオスが『ボビ―・フィッシャーはパサデナに住んでいる』の愉快さだ。
幻想時代劇『天守物語綺譚』
東方守護-EAST GUARDIAN-
DDD AOYAMA CROSS THEATER(東京都)
2014/07/10 (木) ~ 2014/07/13 (日)公演終了
「美」に集いし天女が、東方守護を飛躍させた
「DDD青山クロスシアター」を、歌舞伎における「花道」にし、「天女」を この世に咲く実在ものとしてくれた。
「幻想時代劇」と銘打った東方守護-EAST GUARDIAN-『天守物語綺譚』はふわっとした「夢」だ。「宝塚」の華だとか、「天井浅敷」のアングラ、果ては観客総動員型の「レクリエーション」まで、彼女たちならでのマグネットがそこにはある。
もちろん、2時30分を超える上演時間にもかかわらずストーリーの大枠の示し方が杜撰であり、「天守物語」を未だ観劇したことがない者にとってみれば「衣装」を注視してしまいかねない。
この結果が「天女」(椿 鳥丸)である。
歌舞伎メイクではなく、京劇の化粧に近い。
私は何度か東方守護を観ているが、今回の公演ほど「椿」を自称するに値する「美」だったことはない。そして、明らかに その「演技」も進化している。
あなにやし、えをとめを
法政大学Ⅰ部演劇研究会
法政大学 市ヶ谷キャンパス 外濠校舎B1F 多目的室2番(東京都)
2014/07/09 (水) ~ 2014/07/12 (土)公演終了
照明に、ブラボーを
沖縄県民が その他46県を「ヤマト」とか、「本土」とか呼ぶニュース映像。彼らの一部には自らを「琉球王国の末裔」と疑わないグループがいる。そのアイデンティティはズバリ「琉球人」だ。
つまり、もし沖縄県民と“本土県民”の血筋が決定的に違うとすれば日本人は 「ヤマト人」なのである。
天照大御神を敬う人々は 江戸時代から現代まで、「東海道」を支えてきた。三重県伊勢市「伊勢神宮」が この国父を 祀っているためである。
「日出ずる国」は古代エジプトと肩を並べる太陽国家(サンシャイン・フロンティア)だ。
イデオロギー大綱は「汚れ思想」だろう。「アイドルの元祖は巫女にあり!」という仮説がAKB関連書籍にも拡まり、狐面を被った「巫女ドル」まで出現した今日。
どうにも、「恋愛禁止」のルールが、「汚れ思想」に共通するように思えてならない。
しかし、法政大学I部演劇研究会には「反抗」があった。「古事記」を書き換えるという、文筆家には200年先も不可能だった「一大事業」だ。
「レッド・カーペット」を基調とした美術に、あえて「モダン女子」を添える趣向は「挑発」そのものだった。巫女が「汚れ思想」のシンボルとして身に包む「紅」が、パリ・社交界を彩る「ドレス」に。
この「反抗」は まだ序章に過ぎない。
NEVER SAY NEVER and…~月が綺麗だから~
BIG MOUTH CHICKEN
ブディストホール(東京都)
2014/07/10 (木) ~ 2014/07/13 (日)公演終了
そんじゃそこらの「イケメン劇団」ではない
『ロミオとジュリエット』が不朽の名作である訳。それは、派閥・階級という「薔薇のトゲ」の犠牲者と引き換えに民衆が「和解」を果たしたからだ。
BIG MOUTH CHICKEN「NEVER SAY NEVER and…~月が綺麗だから~」は、『ロミオとジュリエット』をお伽話の登場人物とタッグさせた。『ウエストサイド物語』に次ぐ快挙である。
「少年ダンサー」を中心に、まるで モグラの動きを100倍速したかのごとく、可憐で、統率力のあるダンスを披露した。この部分だけでショー・タイムのプログラムを作成してもよい。
逆に、棒読みや声量は「大ホール」である。客数100名ほどの小劇場空間にて「演技」する意識に乏しかったといわざるをえない。
白紙委任状
サスペンデッズ
OFF OFFシアター(東京都)
2014/07/08 (火) ~ 2014/07/13 (日)公演終了
アメフトを観戦しているかのような演技です
人は役者だ。
不良高校生が「サラリーマン」を演じたければ、染色を抜き、背広を着用するのが効果的だろう。家電メーカーの社員証を持ち合わせていなくとも、その「姿」だけで新橋の住民だ。
麻布在住の20代OLが「主婦」を演じたい衝動にかられたら、「割烹着」をまとい商店街を100m 歩行するのだ。「激安シール」にハイテンションになれば その「シャネルのバッグ」は すでに「偽」である。
しかし、彼らは「演じている」はずだ。「不良高校生」を、「OL」を、毎日休むことなく「演じている」のだ。
人は性別を演じる。人は年齢を演じる。人は国籍を演じる。人は職業を演じる。
シェイクスピアの演劇理論は「人生というステージ」だ。すなわち、赤ん坊は「登場」で、死去は「はける」ことに等しい。
政治家の演説。駅前で支持者の動員をかける、あの退屈な政治パフォーマンス。
朝、1人たりとも振り返らぬなか、チラシ配りをする県議の仕事は「号泣」クラスだ。泣いたらいい。
横にいる若い世代から、通勤者へ配布しているポケット・ティッシュを受け取って。
広告主は「DHC」だろう。
ちなみに「演説」の語源は明治時代にあたる。自由党員が「議会制民主主義」「立憲主義」などのデモクラシーを全国各地に巡回し、教え回ったことに由来する。名付け親は 福沢諭吉である。
この派生語には「演歌」も連ねるそうだ。NHK『紅白歌合戦』放送中に「演歌」を聴くと万単位のチャンネルが移動する。
政治家の「街頭演説」を聴いて「つまんねー」と若い世代が感じるのも、上記の「コトバDNA」からすれば健全な感覚だろう。
およそ3人分の熱量ではない。
少なくとも、5人は舞台に立っていたように思う。
追記あり
忘れ雪
歌劇団ALIVE
大和保健福祉センター(神奈川県)
2014/07/06 (日) ~ 2014/07/06 (日)公演終了
常識破りのミュージカル(いろんな意味で)
1913年、宝塚歌劇団の前身・「宝塚唱歌隊」が創立した。日本に「レビュー」の新風が吹いた年だった。
一般女性たちは宝塚歌劇団の「男役スター」を、「白馬に乗った王子様」かのごとく神格化し、長いあいだ銀座を熱狂させてきた。昭和前期、「レビューを観に行く」は上流婦人のステータスだったのである。
現役 男役メンバーは こう語っている。
「ファンの方のイメージを崩さないため、外出するときは胸元が開いた服装は控えています」
あまり知られていないが、漫画『サザエさん』(長谷川町子)にも、「歌劇団」は登場している。ステージ上の華やかな女性に「恋した」カツオが 劇場楽屋を訪問。ところが その女性が ソバを啜っていたものだから少年の淡い恋心が「冷めた」というオチだ。
メンバーの話を聴けばわかるとおり、宝塚歌劇団は そもそも寮生活であり、「プライベート」はないに等しい。漫画『サザエさん』の描いた「だらしなさ」とは無縁の日々である。
このプロ意識が「あきらめないで!」の裏だ。
『歌劇団ALIVE』は「『宝塚歌劇団』よりも、『劇団四季』よりも、いいなと思ってもらえるミュージカル劇団になりたい」(武田麻美 挨拶)を目標としている。
クラーク博士は「少年よ、大志を抱け」の碑を学生諸氏に遺したが、女性も「志」は高く抱いた方がいい。
『歌劇団ALIVE』は座間市を中心に活動する青少年ダンス・グループ『チェリーKids』が母体だ。出演メンバー5人中4人が「女性」であったのも このためだろう。さながら「女性歌劇団」である。
「常識破りのミュージカル」。ネット情報によれば「15時57分開演ー20時10分 終演」だという。休憩20分間を差し引いても「4時間のステージ」となる。しかも、たった一度きりの。
美術セットは 学芸会である。『歌劇団ALIVE』スタッフがガムテープや文房具で共同作業したのだろう光景が目に浮かぶ。
しかし、そんな美術セットを超越したのが また「志」だった。
BARカクテルの「絵」を、瓶ごとに「拭く」仕草をみせるマスター役・藤島智勝は健気である。
おんまさん
ゑんドコロ
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2014/07/01 (火) ~ 2014/07/06 (日)公演終了
満足度★★★
これからは草食系男子がモテる?
遊園地が「夢の国」なら、その権利はパスポートで獲得する「夢のひと時」だろう。新潮新書『ディズニーランドの秘密』(有馬哲夫 著)によるとウォルト・ディズニーは後年、「ショッピング・モール」建設に夢を抱く老人だったらしい。24時間営業のコンビニが広まった現代。しかし「ショッピング・モール」の大半は夜10時には閉店する。
資本主義が 「光」と「音」と「欲」でショーする「夢」の正体。それは「時間」だ。どんなにパスポートを大量に所有した「VIP」だろうと、深夜に訪れる「遊園地」「ショッピング・モール」は さながら廃墟だろう。
ちなみに、この種の産業を「アドレナリン資本主義」と呼ぶ。
『おうまさん』。「遊園地」のメリーゴーランドだ。アトラクションが舞台を稼働させるのではなく、この「家族語」が離れ離れの「家族」を再結集させるハートフル・コメディである。
風太が演じる草食系男子はさながら「ゆるキャラ」だった。なるほど。ケインコスギより三浦春馬がモテる世か。
Anytime.Anywhere
ソラリネ。
上野ストアハウス(東京都)
2014/07/02 (水) ~ 2014/07/06 (日)公演終了
「声」と「笑」を失った、ポスト青春絶望記
「差別の構造」は どこにあるか。
福島第一原子力発電所で、施設内に残り、炉心冷却にあたった作業員を、海外メディアは「FUKUSIMA 50」だと報道した。
この数字には 所長・吉田昌郎氏も含まれる。
興味深い情報だ。
朝日新聞がスクープした「吉田調書」によると3月11日、放射能汚染被害を顧みず、消防車による「炉心注水」を東電・下請け事業者・南明興産が 担うなか、原子力安全保安委の保安検査官は「フクイチ入り」しなかった というのだ。「官」の法令違反である。
他方で、吉田氏は同・下請け事業者・間組に関し こう証言する。
「バックホーが数台もともとこちらにあったのと、間組さんがどこかから持ってきてくれて、主として最初のころは間組なんです。土木に聞いてもらえばわかりますけれども、間組さんが線量の高い中、必死でがれき撤去のお仕事をしてくれていたんです」
「原発作業員は社会の底辺です。これは“差別の構造”である」。
脱原発派の識者は そう、決まってデモンストレーションする。
この言葉を贈りたく思う。「人はパンのみに生きるのではない」と。原発作業員も、「被曝者」にならずに日本で生活する路くらい約束されているのだから。
脱原発派の識者が「差別の構造」をデモンストレーションすればするほど、「国の為に死ぬ」覚悟をもった憂国の志士・原発作業員を逆「差別」しているのである。
リベラル派の致命傷だろう。
あるいは保守派・亀井静香氏にしても、パイロットの規制改革に対し「派遣には任せられない」と過去に発言したそうだが、自由経済化が ある程度進んだ今日、「終身雇用制度」「新卒一括採用」の労働政策をセットで「取り戻す」ことをすれば 既得権益団体(連合・自治労・日教組)しか喜ばない事態だ。
舞台『Anytime Anywhere』。
私は逆「差別の構造」だと思った。
なぜ上記の考察をしたかといえば、これが「日本社会の常識か」と強い危機感をもったからである。衝撃だった。「問題作」ではないことが また「問題」である。
「声を失った」青年・灰島 青海。
彼を軸に、「虹色の人間模様」をシリアスに映す。
E=mc2=…?
集団as if~
笹塚ファクトリー(東京都)
2014/07/02 (水) ~ 2014/07/06 (日)公演終了
弾ける演劇にも、「人生訓」がある
「画家」の「狂い」を めざましいスピード感で描く。
「芸術は爆発だ!」の岡本太郎氏にしろ、天才の代名詞・ピカソにしろ、名画『ひまわり』ゴッホにしろ、画家には「狂気」の評判が つきものだ。
その点、「E=mc2=…?」の「画家像」は明らかな古典派だろう。
直前に そごう美術館で開催中の『SIMON DOLL展』(四谷シモン展)を 観覧してきた。
日本を代表する人形造形家・四谷シモン氏の名の由来は BAR歌手から来ているらしい。60年代新宿。 「エネルギーの地」がコシノジュンコ氏、唐十郎氏らとの「人脈形成」に役立った。
球体関節人形には 天使と世俗物とをひとつの入れ物に混在させ、しかも個体として成立する までの「生命感」がある。腹部が「肉体標本化」した少年の目も、平然と青く透き通っている。=【解剖学の少年】1983年_
四谷シモン氏は90年代以降、「ナルシズム」(自己愛)を欠かせないテーマだと信奉し、自らの顔、肉体を模造したドールを製作した。=【ナルシシズム】1998年_
これだ。
世間の「画家像」も おそらく この「ナルシズム」に立脚しているように思う。
「男」が恋人や仲間、師匠、資産家という「孤立化した世間」に住み、どんどん「変貌」していく。実にセンセーションだ。隣の女性客は「はじめから 、すごい、世界」と劇評していた。
しかし、「男」が新聞記者へ大金を渡すシーンを境に、舞台形式もが「変貌」していった。
耳があるなら蒼に聞け ~龍馬と十四人の志士~
企画演劇集団ボクラ団義
ザ・ポケット(東京都)
2014/06/25 (水) ~ 2014/07/06 (日)公演終了
満足度★★★★
ここまで来たか「久保田マジック」
「幕末期」は一つの時代区分だが、「明治維新」後の国民だから「末」を定義できるのであって、渦中の志士は まさに「空白期」にいた。
この時代は150年先に至る日本の「礎」である。徳川幕府側の中心勢力・会津藩がプロセイン帝国に「軍事介入」を求める書簡を送付していたことが明らかになったが、鉄血宰相ビスマルクの「GO!」サイン次第により薩長連合は壊滅した かもしれない。そうなると「徳川 首相」だ。
2014年の今日においても徳川家の末裔は存命中。新党を結成して「お江戸維新」を達成する方が、多弱野党が「政権交代」を果たす よりはるかに現実味があるように思えてならない。
これは「ジョーク」だ。
しかし、戦後デモクラシーを有名無実化しうる、日本社会の本質をついた「ジョーク」である。
なぜなら「西南戦争」「戊辰戦争」は国家機構をめぐる政治パワー・バランスの決定打だったからだ。
山口県が総理大臣を「8人」輩出している ことに「長州閥」が関わっている説がある。「桂小五郎」の名をあげれば異論を挟む人はいない。
アメリカ合衆国においても「南北戦争」後、しばらくは北部州に基盤をもつ「共和党支配」が続いた。民主党も 主に南部派が分裂した政党だ。また、「ベルリンの壁」崩壊後、統一したドイツ連邦の首相に東ドイツ出身者が就任するまで16年の歳月を要した。
「吸収域帯」は政治パワーを削ぎ落とされる宿命にある。
私は「久保田マジック」をバカにしていた。「していた」という過去形である。つまり、 久保田が魅せる「ロジックと幻想」の魔法の粉に かかってしまったのである。
「これぞ、ボク団流 時代劇」。坂本龍馬が斬られた「近江屋事件」を事件サスペンスの手法で再構成するシーンの連鎖は『嘘ツキたちの唄』に近い。
沖野の坂本龍馬、三田寺の千葉 貞、大神の中岡慎太郎。いずれも「幕末」に生きた日本人の「情念」みたいなものを、独特なニュアンスで演技していた。
ダンスや殺陣を取り入れエンターテイメントも志向するが、「時代劇」として申し分のない完成度だ。
てんぷくトリオのコント
こまつ座
あうるすぽっと(東京都)
2014/06/19 (木) ~ 2014/07/06 (日)公演終了
「ステージ」が窮屈なコントたち
「希代のコント師」我が家を迎え、“放送作家”井上ひさし氏と「てんぷくトリオ」の活躍したテレビ黄金期を偲ぶ。
我が家(及び役者)による「てんぷくコント」は時系列的にいえば60年代後期から70年代前期に該当し、80年代『花王名人劇場』に端を発した「漫才ブーム」の笑いとは ギャップがある。「紙芝居」のような簡略化と予定調和だ。それを、2010年世代のコント師が原作どおり舞台化するだけならカラー版の再現映像だろう。
この消費税率10%時代の「空気感」に どう対処し、笑いを獲得していくのか。
井上ひさし氏亡き後の「台本」が色褪せても その「字」は変化しない。同氏と「絆」がある『こまつ座』、それにコント監修を担当したラサール石井にしても頭を抱えたことだろう。
しかし、我が家が披露したコント集は あくまで「2014年のコント」だった。
「ブーゥムゥ〜ブ、チン!!」
我が家、役者勢のコントが「オチ」を決めた度、軽快なラッパと鈍い金属音が鳴り響く。いわゆる「ピンスポ」がコント師たちを照らし、おどけた「変顔」を静止画のように披露。そこで拍手喝采という一連の流れがある。
「ピンスポ」の調光は神宮球場の「ナイト・ゲーム」である。そのため、芝居の劇場空間を否定する「イリュージョン」でもあり、同時に観客は その「変顔」に何とも恥じらいの感情を味わう。
「おおらかな70年代」ー「マクドナルド化する社会」も、「スターバックス資本主義」も、「ユニクロ・ワン・ワールド」も、この頃の日本人は知らない。
経済学者・ピーター・ドラッカーが、1969年に発表した著書『断絶の時代』の中で「今日のグローバル企業は、経営陣も技術陣もグローバルである」と指摘していた世界経済の潮流下、日本は ちょうどコンピュータ・管理システムが導入される分岐点にあった。
NHK『お笑いオンステージ』コーナー「てんぷく笑劇場」放送作家だった井上ひさし氏は この「分岐点」を テレビ局で過ごす。
週20本連載の多忙ぶり。
「身内が亡くなった」井上氏の嘘をテレビ局スタッフが間に受け お見送りしてくれた逸話、果ては「備品」の管理体制に至るまで、「おおらかな70年代」と それが崩れていく「外堀」を描く。
こうして「てんぷくトリオ」のコント集と井上ひさし氏の「自伝」を交互に観ると、「切り替え」のテレビ的な編集作業である。
また、幼稚的な題材にも今のテレビ番組で けっして放映できないだろ「死」がある。
オチにしか この「シュールな笑い」は登場しない。
『クレイジーキャッツ』『コント55号』『小松正夫』『ドリフターズ』にはなかった、井上ひさし氏の書く「笑い」。
「死」そのものが「笑い」だから 不謹慎だともいえる。
この「世代間ギャップ」が「てんぷくトリオのコント」の限界である一方、2010年世代の我が家が それを披露することで新旧折衷の「次世代コント」へバージョン・アップしてくれるのだ。
何も聞こえない
明治大学実験劇場
明治大学和泉キャンパス・第一校舎005教室(東京都)
2014/06/26 (木) ~ 2014/06/28 (土)公演終了
「私は佐村内だ。」
「何も聞こえない」。
「聞こえないふり」をした作曲家は佐村内守である。『現代のベートーベン』は 板の上の俳優とは似ても似つかわぬ「演技」だった。
地方放送局が生活情報バラエティ番組の新しいメインMCに起用したのは、ごくふつうの少女(大橋 睦美)。「視聴者は君の純粋さを求めている」。プロデューサーがある日、自宅に上がりこみ両親を説得した結果だった。
私は思う。
彼女は「佐村内 守」その人であったと。
「偽りの偽善」が「耳に障害のある作曲家」を「感動」に拡大解釈したのなら、時代は この騒動における演出家だ。
そして、放送局スタジオで「好きな食べ物」を可愛く、ビタミンッシュに「演じる」少女は、紛れもない、時代の要請に従った俳優であった。
「ピュア」でなければならない。
これは 時代との契約だ。
旋律のクラシックが、公園で出会った詩人(山崎 純佳)のポエムとともに、少女を狂わせる。
「私は音楽をとりもどしたい」
彼女は佐村内を辞めた。「耳が聞こえるようになった」のだ。
その眼差しは「カルト」で、空間的表象が また旋律の歪みであり、作曲家本人の苦悩、絶望である。
「佐村内からの卒業式」は自身に知らず知らず潜んでいた「新垣隆の告白」によってしか催されないイベントだろう。
ポエムによれば、パチンコ・チェーン店舗の入り口から漏れる大音量は「音」ではないそうだ。100年後の 国土は「佐村内 守」の亡霊に取り憑かれた心の瓦礫地帯となっていく。
役名が原発ネームと重なるところをみると、これは「今日の延長線上」にすぎないことを印象づける。
「私は 佐村内 だ」
かつて冷戦期の1960年代、アメリカ合衆国大統領が西独ベルリン市で熱演したスピーチの一説。
それが、「私は ベルリン市民だ」だった。
「遠くの地に住む人々を、隣人として身近に感じる」
アメリカ合衆国大統領の唱えたスピーチは、日本外務省・文科省主導の「アフリカの子どもたち式」国際教育ではなく、国境線を越え、民族を越え、戦勝国か敗戦国かを越えた、「隣人の共同体」である。
「私は 佐村内だ」
この文字列が指す意味は「偽善の共同体」である。
プラズマ・テレビが毎日報道する「純粋さ」を、支持する人々。
みんな、「SNSで、世界と繋がる」とか言いながら1人たりとも住所・連絡先は 掲載しない。
みんな、「地域コミュニティ再生」を唯一の信条であるかのように振る舞うが、今ほど「閉じた街角」はない。
「あなたに恋してるわ~」のはずが、ステージを降りれば空港仕様の金属探知機と柵付きのセキュリティによる握手会。
空前の「偽善時代」だ。
明治大学実験劇場「何も聞こえない」は、この「佐村内」的な時代を、近未来に濃縮還元したように思える。
MOSAIQUE モザイク
SNATCH
サンモールスタジオ(東京都)
2014/06/25 (水) ~ 2014/06/29 (日)公演終了
B級に恋してる
やりたいこと、やってますね。
「俺の妹」にはひたすら爆笑だった。
SNATCH「MOSAIQUE モザイク」脚本・出演の もんた まさゆきを、私は知っている。
「水野真紀 の親友だ!」。必死に主張する彼に、芸人仲間から疑いの目が向けられていた。週刊誌報道によると水野真紀さんは夫・現職衆院議員との間に「離婚危機」か浮上しているらしい。
「えっ、彼が…水野真紀と…」
そんなスクープを報じるところは まず四流誌だろう。
かれこれ3年前に遡る。もんた まさゆき関係の事務所主催・お笑いライブを観覧した。
当日、強風注意報が発令された悪天候だったこともあり、私たち2人しか中目黒の会場に集まらなかった。対する出演芸人は総勢15人程である。
SNATCH「MOSAIQUE モザイク」。サンモール・スタジオの客席がいつもより窮屈に見える。これは気のせいではなさそうだ。
「花粉空間」であった。
「バカだ!」「下劣だ!」「佐村内だ!」。一部観客がアレルギー疾患に陥った。
しかし、平気な者にとってみれば何のことない。
政治学者・丸山真男は日本人特有の精神土壌を「雑居性」(「無構造の伝統」)に求め、戦後の社会も これを定説化したように思えるが、「MOSAIQUE」がエネルギッシュに動くその「原料」に等しかったのかもしれない。ハリウッド大作映画のBGMを シリーズ、配給会社、年代 お構いなしにガラガラポンで使用するが やけに馴染む音響構成だった。
命名騒動!
劇団おおたけ産業
北池袋 新生館シアター(東京都)
2014/06/27 (金) ~ 2014/06/29 (日)公演終了
「テーマの選択」がクリアだ
名前を変えるとは そうは問屋が卸さない。
私たちは 自らそう思考を縛り付け、「戸籍制度」を神聖化してきた。
だが、「角栄」という名の少年の保護者が訴えをおこし、社会的に不利益を被らないよう、「改名」が認められたケースも実在する。
「こんちは赤ちゃん」(1963年)。私たち日本人は、産まれてままならない新生児を純粋無垢な妖精のごとく育んできた。「子は宝」である。
では、このデータは何を意味するのだろう。
新型出生診断を受けた妊婦のうち、「異常」と診断された胎児の97%が「中絶」され、文字どおり命を絶たれてしまった。
人の尊厳を奪う組織的マシーンが日本医師会・厚生労働省である。
これは、リベラル派が唱えてきた「中絶容認」のロジックを逸脱した「中絶」だろう。なぜならそれを決断した妊娠の多くは「望まれた妊娠」の過程だからである。もし、担当医のレクチャーが「中絶」を強くアドバイスする類だとしたら 被害者だともいえよう。
いずれにせよ、ウルトラ母体保護法主義に違いない。反キリスト教・反倫理・反モラルの「新型出生診断制度」は、原子力発電問題のフィールドに並ぶ亡国政策だ。
そして、データから明らかになったとことは、「真の母親」はわずか「3%」に過ぎない衝撃である。
日本は「30代」(平均的な出産経験世代)を中心に斬時解体していく。
『命名騒動』を観劇する前、こうしたニュースが入ったものだから「尊厳」というキーワードが離れなかった。
大竹 匠によれば〈これが僕らのエンターテイメントだ!〉らしい。
たしかに、橋本康史 作曲提供のミュージカル・テイストは何曲分か披露していた。
冒頭「こんにちは赤ちゃん」(作詞_永六輔)を全楽章、まるで地区小学校合唱大会のように、キラキラ目を輝かせ唄う。
これは「ベイビー・スマイル」であった。大竹の頭皮に残った「産毛」が「赤ちゃん」にジェラシーを感じさせる。
しかしながら、〈これが僕らのエンターテイメントだ!〉と言われても、「はい、そうですか」と返事はできない。正統派が惜しい。
「ダンス」はミュージカル学院とやらでプロ・コーチから継続的にレッスンを受けた「俳優」とは やはり差が出る。
スタイリッシュだろう。教育現場で話題になっている「キラキラネーム」を舞台で扱った先見性も、「若い親たちの深層心理学」である
子供の時間
スターダス・21カンパニー
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2014/06/22 (日) ~ 2014/06/29 (日)公演終了
満足度★★★★
【B】序盤の「寄宿舎」は雑踏に終ったが、とても高貴な翻訳劇である
阿佐ヶ谷の地下で、こんな高貴な物語を紡ぐとは衝撃的である。
少女の「嘘」が教師、親類、クラス・メイトの人生をも変えた、アメリカ片田舎の事件を追う。
「黒板」と西洋家具が連結した舞台装置はシック。音響も最小限に控えている。
この空間に対し、私が抱いた感想は次の通りである。2013公開映画「『ムーン・ライズ・キングダム』の色調だな」と。
タイトル『子供の時間』。英訳すると「KINDAR HOUR」。「黒板」に パリのカフェ従業員の書く字体で2時間10分占領する。(同文以外は消されている。)
これが、映画冒頭の「字幕」がアンティーク化するイメージと ぴったりだったのだ。
10代の「問題児」メアリー・ティルフォードに周りの大人が翻弄し、描かれるテーマも 「モラルと権威社会」で、ところどころが重なった。
いかにクラス・メイトを掌握していくか。いかに、祖母を騙し、大嫌いな寄宿学校を破綻させるか。
「問題児」を、滑稽に、子どもらしく、それでいて計算高く演じたのが荒川 真琴だった。
別の、彼女が登場しないシーンであっても、舞台袖にいながら他のキャストと共演する離れ業をみせた。それは、脚本どうこう以上に、荒川の演技に答えがあるように思う。
いやあ。子どもは残酷な生き物だ。
Freak box -the:FINAL-
姫君
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2014/06/25 (水) ~ 2014/06/29 (日)公演終了
マリオネット「夏の夜の夢」〜ホラーにも神秘がある
衣装がファンタジックだ。
野生動物やドール、寓話をイメージして作った衣装は、ともすると学芸会となる。仮に、『姫君』が馬力エンターテイメントを提供しなかったら、舞台美術の評価もきっと180℃転換したことだろう。
『Freak box-the:FINAL-』が三部作まで継続した根拠はわかる。一つのリトルワールドだ。
タップ・ダンスに関してはプロに近い技術であった。バレエダンサーも、太い足にめげず、華麗に初心者向けテクニックを披露した。『東急ハンズ』で買い占めれば済むレベルだった演目がマジック・ショーだ。しかし鑑賞する価値はある。
湯けむりの向こう側
演劇集団池田塾
ザ・ポケット(東京都)
2014/06/11 (水) ~ 2014/06/15 (日)公演終了
おもてなし、だけじゃ、始まらない
「地域振興」のあり方に一石を投じる。
池田塾・塾生が主体となった公演ですが、パワフルな質感で、役柄と本年齢の差を躊躇することなく、完全に役になり切っているようでした。
地域が、「旅」を守り抜く。
少子高齢化社会を迎え、東京一極集中が進展するなか、この国の「旅」は危機に あります。
なぜ一般旅行客は旅館を避けるのか。
大手ホテルチェーンは その知名度により「品質保証」をアピールできます。
ところが、個人が経営する宿泊施設ですと、季刊雑誌等に掲載される「マス」依存になってしまう。「口コミ」も そうです。
私は千葉県・房総半島域の小さな民宿に一週間泊まったことがありますが、そこで発見してしまいました。
それは、学生団体の「合宿」という、集団旅行客に基づいた民宿経営のメカニズムです。いたるところに「学生様歓迎!」の看板が。
日本企業は社員の福利厚生を積極的に推進しています。代表格は松下幸之助が創業したパナソニック(旧 松下電器産業)でしょう。
茅ヶ崎市は、同氏が理事長兼塾長を務めた松下政経塾の所在地です。70年代まで、松下グループの販売社員を養成するための研修施設が立地していました。
太平洋に面した観光地に わざわざ研修機関をつくるとは。
「社員は家族」だったわけです。
こうした「福利厚生」「レクリエーション」「終身雇用制度」の企業社会は観光業界にも雫をたらしました。
「社員割引」という形で、旅館、民宿側もファミリー層を取り入れていたのです。
しかし、いずれも、「集団」から存続しえるメカニズムであることには変わりませんでした。
つまり「集団」と縁が切れたら、「地域」の旅館、民宿が消滅してしまう現状です。インターネット時代下においては、この旧態経営を改革しなければならない。「個人」と コミュニケーションを図っていく。これが「旅」を守り抜く唯一のヒントです。
「池田塾」の舞台には、外資系ファンドが連ねるわけですが、「ハゲタカ不動産」などと地域の旅館、民宿から揶揄されていました。 同業者同士がアンチテーゼで「一致団結」し、旅行客における「ハート・フロンティア」(心のふるさと)へ、おもてなし接客を昇華していく。既存の業界団体の皆さんは このサクセスストーリーを どう評価するのでしょうか。
※追記あり
少年期の脳みそ
玉田企画
アトリエ春風舎(東京都)
2014/06/20 (金) ~ 2014/06/29 (日)公演終了
満足度★★★★
細かく、描写力
「思春期」の淡く、愉快で、誰しもが心の原典として所持している、少年期しか味わえない記憶を呼び覚ます。
Aさんが台詞を放つ、Bさんが台詞を放つ、という単調さはない。
常に、役者の表情や、ナチュラルな その反応にもダイヤモンド級の価値がある作品だ。
「卓球部強化合宿」における「現役高校生とOB」という関係。
恋心を打ち明けるに適度な距離の関係であり、いわば奇妙な視点から描く「黄金郷」だ。
玉井自身「細かさ」を公言してはばからない。彼の次世代メソッドは、理研の顕微鏡をはるかに上回る精度で、爆笑を呼ぶ。それも、リアリティに裏付けられた確かな「共感力」がある。
「恥ずかしい」という10代の初々しい感情が、巧みな視線、意図した沈黙によりターゲット化されている。
じつに見事な舞台だ。
玉井氏は青年団を変革していく男かもしれない。
パプリカな夜に 〜逃亡者の館〜
K2WALKプロジェクト
六行会ホール(東京都)
2014/06/17 (火) ~ 2014/06/21 (土)公演終了
出演陣は華美だが、「脚本破綻」している時点ですでにダメだ
下品。
私は下ネタ好きである。しかし、この舞台=『逃亡者の館』は人を不快にさせる生々しさのオンパレードだ。誰ひとり笑っていなかったことが その証拠だろう。
・サスペンスを謳いながら「脚本破綻」している。
『逃亡者の館』に部外者が侵入すれば、管理人へ通報するのが当然のストーリーの流れだろう。
また、サスペンスの柱は「過去逃亡者の末路」にあったと思う。再逃亡者の出現でそれが一部明らかになったのに、「また あなたですか」(管理人)という そっけない台詞は何なのだろう。
・パフォーマーをキャスティング。そして、初級のジャグリングもどきを10秒間 披露させる。失敬にもほどがある扱いだ。私が演出家なら 彼女に「ジャグリング・ステージ」タイムを提供したことだろう。
OPに「パプリカ」という架空アイドル・ユニットの「歌ステージ」が あったのに。
わざわざミュージカルの殿堂で公演し、音響設備完備の舞台装着を用意したわけだから、多様なエンターテイメントを追求するべきだったのだ。
・気になった黒塗りチラシ。戦後日本の教科書のよう。
照明スタッフのクレジットをマジック・ペンで一枚、一枚、線引きしたようだが、醜悪であったのは音響スタッフだ。
「感動ソング」挿入のタイミングも早すぎ。
・魅了したのが影の主役・団 時朗である。他にも渋い演技をする役者がいた。「パプリカ」妹の軽々しい、およそ役の年齢を想定しない台詞遣いからすれば、実に廃墟ビルのような存在感であった。