「声」と「笑」を失った、ポスト青春絶望記
「差別の構造」は どこにあるか。
福島第一原子力発電所で、施設内に残り、炉心冷却にあたった作業員を、海外メディアは「FUKUSIMA 50」だと報道した。
この数字には 所長・吉田昌郎氏も含まれる。
興味深い情報だ。
朝日新聞がスクープした「吉田調書」によると3月11日、放射能汚染被害を顧みず、消防車による「炉心注水」を東電・下請け事業者・南明興産が 担うなか、原子力安全保安委の保安検査官は「フクイチ入り」しなかった というのだ。「官」の法令違反である。
他方で、吉田氏は同・下請け事業者・間組に関し こう証言する。
「バックホーが数台もともとこちらにあったのと、間組さんがどこかから持ってきてくれて、主として最初のころは間組なんです。土木に聞いてもらえばわかりますけれども、間組さんが線量の高い中、必死でがれき撤去のお仕事をしてくれていたんです」
「原発作業員は社会の底辺です。これは“差別の構造”である」。
脱原発派の識者は そう、決まってデモンストレーションする。
この言葉を贈りたく思う。「人はパンのみに生きるのではない」と。原発作業員も、「被曝者」にならずに日本で生活する路くらい約束されているのだから。
脱原発派の識者が「差別の構造」をデモンストレーションすればするほど、「国の為に死ぬ」覚悟をもった憂国の志士・原発作業員を逆「差別」しているのである。
リベラル派の致命傷だろう。
あるいは保守派・亀井静香氏にしても、パイロットの規制改革に対し「派遣には任せられない」と過去に発言したそうだが、自由経済化が ある程度進んだ今日、「終身雇用制度」「新卒一括採用」の労働政策をセットで「取り戻す」ことをすれば 既得権益団体(連合・自治労・日教組)しか喜ばない事態だ。
舞台『Anytime Anywhere』。
私は逆「差別の構造」だと思った。
なぜ上記の考察をしたかといえば、これが「日本社会の常識か」と強い危機感をもったからである。衝撃だった。「問題作」ではないことが また「問題」である。
「声を失った」青年・灰島 青海。
彼を軸に、「虹色の人間模様」をシリアスに映す。