満足度★★★
エンターテイメント
冒頭はそのアイデアや展開にワクワクし惹きこまれました。
後半は、、、
ネタバレBOX
冒頭はとても惹きこまれました。
客入れ時から舞台でパフォーマンスが行われているのも面白く、
幕が開いてからも、真面目な演技とブラックなコメディとの緊張と緩和、そして映像を使う部分のアイデアなど、次に何が起るのかわからないその展開にワクワクしました。
また、タブーを嘲笑する感じも、最初はとても面白く観ました。
ただ、中盤以降は、あまり入りこめませんでした。
理由は三つあります。
一つは、倫理観。ブラックユーモアにおける倫理観というのは極めて難しい線引きですが、私は個人的に決めているラインというのがあって(頭で決めているというよりは感覚的なものですが)、その点が冒頭ではスレスレで、そのスレスレのスリリングさも面白さになっていたのですが、そのラインを越えてしまったものが3点あり、それが見えた辺りから、素直に笑えなくなっていきました。
1点は、3人がくっ付いて産まれてきてしまったという三つ子。妖怪と同列で障害の問題を扱うことに、疑問が湧きました。ただし、これは後に、「ベトちゃんドクちゃん」の話題なども出てくるので、意識的に作者がブっ込んでいるのだと思うので、キワドイですが、やはりひっかかります。意識的に、それを描くことの暴力性も理解した上で敢えて越境しているブラックユーモアならば納得しますが、ネタのレベルの扱いでしかなかった。勿論、嘲笑のネタではなく、権力(アメリカのベトナム戦争の結果なので)をひっくり返すためのユーモアだということはわかっていますが、それでも、全体の作品のテーマとは関係ないので、やはりあの扱いでは単にネタです。
もう1点は細かいことですが、スーザンボイルをブスと扱ったところ。
もう1点は、これもキワキワですが、歯の欠けたヤンキーみたいな人の扱い。
単に誰彼をバカにするためのネタでは私は全く笑えません。
ブラックユーモアにおいて、笑いにして良いものなのかどうかの判断は、極めて繊細になされていないと、笑えないどころか、人によっては興ざめしてしまいます。
二つ目は、そのブラックユーモアで結局何をしたかったのか全く見えてこないということです。中盤から後半に展開されていく物語と、そのブラックユーモアに何の関係もない。一つ目で書いたのと同様、ネタでしかない。これが、物語や作品の問いかけなどと関係していれば、仮に誰彼をバカにするようなネタが含まれていたとしても、そこで笑ってしまう在り方自体がどうなのかということがあぶり出される。
三つ目は、単純に中盤以降、前半でワクワクしたような展開がなくなったので、面白味が欠けたということです。物語にシフトしたということでしょうが、物語としても惹きこまれませんでした。
と、厳しく書いて申し訳ありませんが、
序盤はとても楽しみました。
満足度★★★
むずかしい、、、
作品が難しいのではなくて、評価が難しいです。
真面目な姿勢には共感しましたし、役者さんの熱演は凄いと感じましたが、
舞台としては面白く感じませんでした。
ネタバレBOX
こういう社会的なテーマに向き合おうとする姿勢には、とても共感します。
そして、それを演じる役者さんの熱量も凄いものがあったと思います。
ただ、舞台として面白いとは感じませんでした。
その点は内容としてひっかかった部分とも重なります。
それは最終的に一つのメッセージを物語るために脚本ができ、演出がなされていたということです。
勿論、単純なメッセージだけの作品だったとは思いません。多様な意見をそれぞれの役に語らせてはいます。ですが、最終的には何が言いたいのかというのが常に透けて見える。
それこそが、批評性なのだと言われればそういう立場もあるとは思いますが、
私にはその点は共感できませんでした。
それは、演劇的にも、内容的にも。
ひとつのメッセージに作品が収まってしまっては、
まず演劇的な面白味が削がれる。次に解釈がとても狭いものになってしまう。
そして、何より、世界はそんなに単純なのかと思ってしまう。
私個人は、反原発支持です。ですので、この作品で語られていることなどは、本などで読んで知っています。国や東電などの暴力は本当に酷いと思っています。
そういう権力を糾弾する在り方は必要だとも思っています。
ですが、現実問題が抱えている複雑さは、そんな単純なものではない。
だから、3月11日以降、様々な考え方・立場・置かれた状況の違いでいさかいが絶えない。
この作品も、そのことをテーマにしているのだと思いますし、ある部分では、とても上手くそのギスギスした人間関係を描いているとは思いました。ですが、それでも最終的にはこの考え方が正しいという価値判断が事前に作り手の中にある作品だという気がしました。それでは、共感する人はうなずき、共感しない人は反発し(そして興味のない人は観にこない)という対立構造を助長することにしかならないと思います。
利権が絡んだ国や財界の暴力構造を悪と断じるのに異議はありませんが、
悪意のない人と人との間でも、正義と正義が対立している。それが、今回の原発問題のもう一方の最重要課題だと感じています。
この作品では、様々な立場の意見は出てくるけれども、最終的にはどちらが正義だというのがはっきりとある。
私が観たかったのは、むしろ、今までの自分の考え方とは違う立場の人にこそ強く共感してしまい、今まで自分が持っていた価値観やそれに基づく正義が揺らいでしまうようなものでした。どの立場の人でも揺らいでしまうような。
ただ、これは作品観の違いなのかもしれませんね。
メッセージがあった方がいいのか、ないほうがいいのかという、、、。
満足度★★★★
エロス香る日常と戦争
さすがは望月六郎さんというべきか、エロティシズムの描写がとても素晴らしい。
戦争、ならびに大きな時代の流れと、個人の生活との関係とは何か、考えさせられた。
役者さんたちの演技も良かった。
ネタバレBOX
品のないエロではなく、想像力によってそのエロスを感じさせる舞台。
そのエロスも、放蕩生活を送る主人公に特殊に体験されたものではあっても、多かれ少なかれ、どんな人でも内面では抱えている欲望とも言える。
その欲望が、戦争という大きな時代の流れの中で、そんな流れとは関係なく存在する人間の本能のようにも見えると同時に、その時代の緊張感に後押しされる形で暴発するもののようにも見える。
戦争、ならびに大きな時代の流れと、個人の生活との関係とは何か、深く考えさせられた。
役者さん達の演技がとても良かった。
主演の丸山正吾さんは、主人公の年齢の変化をとてもうまく演じ別けていたと思う。
また、女優陣の演技もとても良かった。
蛇足:
大入り満員だったせいもあるのかもしれないが、
エロテックな舞台を受けての性的興奮をしているのか、劇場内(客席)には、男くさいむんむんとした空気が流れていた。
それはあまり気持ちのいいものではなかったが、別の味方をすれば、それがあるリアリティを舞台に付加していたとも言えなくもない。
この点は、不思議な劇体験だった。
満足度★★★★★
多様な読みができる作品。素晴らしい。
前作『泳ぐ機関車』で初めて桟敷童子を拝見し、衝撃を受け、
今回も拝見しました。
今回も素晴らしかった。
脚本は今回の方が複雑で、考えることが色々あった。
恥ずかしながら、二回泣いてしまった。
美術も圧巻。
役者さん達も素晴らしい。
ネタバレBOX
国民国家の基盤を強固にしようとしている明治政府の方針で、戸籍を持たない流浪の民を、住民登録させようとする動きがあった。そこには、徴税や徴兵のためなどの理由も大きい。また、すべての国民を国家の管理下に置くこと、そして画一化していくことも目的としてあったのだろう。
明治政府側の命を受けた主人公・柴浦が、数名の仲間を連れ、「人間島」に住む流浪の民カリドの戸籍整理をしようと、島に向うことから物語は始まる。
が、船は難破してしまう。運の良いことに、人間島に流れついていたが、そこでカリドに警戒され、半捕われ状態となる。
そして、明治政府の人間では殺されるということで、代々この島を訪れカリドを導いているという本土のある僧侶だと名乗れと、<はぐれカリド>に言われ、言われるがまま柴浦は僧侶を演じることになる、、、、
細かい説明は省くが、私が特に興味深かった点を何点か書く。
先ずは、主人公・柴浦が、「ミイラ取りがミイラになる」ごとく、カリドを日本国民の戸籍に編製しようとしていたのにもかかわらず、最終的にはカリドを導く本当の僧侶、それ以上に、カリド自身の尊厳と権利を支持する僧侶と化していくこと。(そもそも、代々この島に来ている僧侶というのは、実はそのほとんどが漂着民が僧侶を名乗り続けている、または、漂着民をカリドたちが僧侶にしたてあげているということらしい。)
ここで見えてくる、大和民族とその他の民族との関係性。この作品の設定は九州だが、奄美や沖縄、アイヌなど、様々な民族のことも想起させられる。
特に沖縄は、琉球民族として沖縄戦でも犠牲になり、その差別とも呼んでもよい傷は、米軍の駐留という形で、今も続いている。
明治政府の国民国家化、画一化の意味とは何だったのか?
また、尖閣諸島や竹島/独島の問題なども含めて、そもそも、国家が領土を有するという考え方自体の暴力性というものも、考えながら見た。
強い現代への問いかけを持った作品だと思う。
もう一つ重要なのが、作品の中に出てくる「阿呆丸」という子供(少女?)3人の存在(子供と言っても、一人は30歳だが(笑))。
子供たちは、本土に飢饉などがある際に、生贄(シトミ)として命を捧げるという使命を授かっているという。その使命を授けたのは、前(何代も前?ひとつ前?)の僧侶であり、その僧侶は、本土から罪人の子供など、そのままでは死にゆく運命にある子供を、この島に連れて来て、人身御供になるように教育していたという。子供たちには、名前すらない(一ツ、二ツ、三ツと呼ばれている)。神となる特別な存在として大切に育てられている。そして、飢饉の際にその阿呆丸を人身御供をしてそれぞれの地域に送り、その見返りとしてたくさんの食糧などを得て、それをまた島に持ってくるということをしていたそうな。
主人公・柴浦は、このような人身御供はよくないとし、憐れみを感じ、「お前たちは人間なんだ」「もう生贄になどならなくてもよい」と強く言う。が、子供たちは、むしろ、皆のために生贄になることを喜びとすら感じている。それが天命だと心から納得している。その姿に、柴浦の戦友・梁瀬は、「自分達も戦争の時に同じ様に教育されていたじゃないか」というようなことを言う。教育の恐ろしさ、ある価値観を信じきることの怖さを痛感する。
だが、話はそれほど単純ではない。ある価値観を純粋に信じて、利用されている人は、全否定されるべきなのか、、、。戦争責任論の問題とも重なるが、被害と加害との関係は、、、。先の大戦で、日本の一般庶民は加害者なのか、被害者なのか、、、など。おそらくそのどちらの側面もあるだろうが、、、。この物語では、この「阿呆丸一ツ」は、主人公・柴浦の善かれと思って言ってくれている言葉にむしろ苦しみに、絶望し、自分は存在する意味がないのだと感じ、自殺してしまう。ある価値観を他の価値観で全否定するのは、大きな暴力となるのだ。ある正義は別の正義にとっては強い暴力となる。この事件をきっかけに、明治政府の命を受けて、カリドを日本国民に戸籍登録しようとすることの暴力性に気付いたのか、その点はよくわからないが、いずれにせよ、主人公・柴浦はこの後、僧侶としてカリドを導く決意をする。
が、その先も、色々あり、彼の正義感は揺れ、最後には、自分がその正義という名の暴力に呑み込まれてしまう。そして、廃人になる。(長くなりすぎたので、説明を省きました、すみません。)
正義とは何か、、、とても考えさせられました。
タイトルにもなっている、風を撃つシーンも素晴らしかった。
総じて、一見、時代ものですが、現在社会に繋がる問題、繋がるだけではなく、まさに現代社会で問題になっていることそのものを、過去の話を題材に、強く問いかけてくる舞台でした。
素晴らしかったです。
ありがとうございました。
満足度★★★★★
素晴らしい脚本(構成)・演出・演技。
日常会話をとてもうまく構成していて、なんでもないような会話が極めて精緻に伏線となって張り巡らされている。
演出では、「間(ま)」の使い方が絶妙。
主演の満島ひかりさんもそうだが、他の役者さんも、全員素晴らしい演技。
ネタバレBOX
死、それは生の問題。
人はそれぞれに何らかの条件を背負いながら生きている。
その条件から解放されて生きることは不可能だ。
それは主人公:三樹の病気もそうだし、
その病気の妹を持つ2人姉・姉を持つ妹、父、、、、、
様々な条件を背負いながら、一人一人が生きている。
観客である私たちも。
父が病気で倒れたと同時に、家業の八百屋を辞めざるを得なかったという会話の中での、二女・三女(主人公)の台詞が印象的だ。
新山タカシ:「でもおじさんはショックだったと思うよ」
三女:「そりゃそうでしょ、必死だったもん」
四女:「必死に野菜売ってたからね」
二女:「まあ、どの職業も割と必死だよ」
三女:「全体的にみんな必死だよ」
それぞれの条件の中で皆必死なのだ。
また、ラストのひとつ前のシーン「四女と三女(主人公)との会話」も印象的。
主人公・三樹が退院したら、家を父と三樹だけにはしておけない。その為に、長女は結婚をしない、二女も家に戻ってこようかと言いだしているという話を受けて、主人公:三樹は「でも、そういうの困るんだよな」「そういう、自分を犠牲にしてる感じとか、」と言う。
それに対しての四女の台詞。
四女:「でも、それはしょうがないでしょ、、、 私だって、」
三女:「、、春菜は東京いきな、行きたいんでしょ」
四女:「別に、行きたいって程じゃないよ」
三女:「でも好きにして欲しいの」
四女:「、、」
三女:「、、ふーちゃんも一美ちゃんも」
四女:「そうは行かないでしょ」
三女:「、、」
「そうは行かない」という制約は人生のすべてに当てはまる。
勿論、その前の三女の「好きにして欲しい」という言葉は、自分自身が病気という制約に縛られ続けて生きてきたが故に、
姉妹にはそういう制約をできるだけ抱えてほしくないと考えての言葉だ。
だから、タイトルは「いやむしろわすれて草」。(「わすれな草」に対してだろう)
そして、次のシーンで、もう病状が厳しい主人公唯一の病院内での友達・伊藤夕子が最後に送ってくれた、夕子の好きな花の名前を三樹は忘れてしまっている。
ちなみに、それ以前のシーンで、好きな花がその花なのかはわからないが、物語に出てきた花は、橘。花言葉は追憶(←ネット情報で裏はとってません)
。
そして、ラストシーン。
ボウリング場に家族で行こうとするも、主人公:三樹はかたくなに行きたくないわめく回想シーンで終わる。
ボウリング場は、三樹が初めて男性とデートをし、男性から告白された場所だ。だが、タカちゃんのことを好きだったからという理由もあるかもしれないが、その後、すぐに入院してしまったせいで、それで終わってしまった関係。
(そのボーリング場ももはや存在しない)
ただし、時間軸も、はっきりと明示されていないので、デートをする以前の時間設定の可能性もあり、三樹が行きたくないという理由が、その男性との記憶のせいなのかどうかははっきりしない。
その辺の解釈が開かれているところもとても良い。
この作品は、観た人の数だけの解釈があると思う。
特にラストシーンの意味は、捉え方によって様々だ。
私にとっては、人生の背負う制約や条件という問題を受け取っていたので、そういう見方をした。
そして、それを受けて、考えた。
どんな人でも、様々な制約や条件の中で生きている。その中で判断している。だが、人は自分のことはそれでいつも悩んでいるのに、他人にも色々な制約や条件があるのだということを、つい忘れがちである。すぐに、自分の価値観を元に、相手が置かれていることなどお構いなしに、正義を押しつけてしまう。正義という暴力を。
だが、これも難しい。その論理を突き詰めると、すべては相対的なのだから、他人の批判なんかするなという意見にまでなってしまう。それも、また別の暴力。
難しいが、、、置かれた状況で、自分なりに最良だと思える選択をするしかないのだな。
作品評からズレてしまいました。
時間軸が入れ換わる演出も絶妙だった。
素晴らしい作品でした。ありがとうございました。
満足度★★★
ラストがよかった
冒頭は奇想天外な物語に引き込まれましたが、途中は少し飽きてしまいました。ですが、最後の締めはとても良かったです。
ネタバレBOX
最初は奇想天外な話を面白く観ていたが、延々それが続いて、正直飽きてしまった。それらが単に並列的でしかなく、複数の繋がりを見ることで、別の何か、又はより深い何かが見えてくるという構造にはなっていなかったので飽きてしまったのだと思う。
だが、最後できちんと締めてくれた。
<以下記憶が曖昧です。どなたか間違いを指摘していただけると幸いです。>
最後に、その奇想天外な話の数々は、主人公が小説に書いた話だと判明する(亡くなった恋人が小説に書いたものだったかも?)。
そして、主人公と亡くなった恋人(コリッチの別の方は弟と書いているので、弟かも、、、)とのやり取りが最後のエピソードなのだが、それも主人公が小説に書いたエピソードだったか、主人公が精神科の主治医に語った話だったか、、、はっきり覚えていない。
いずれにしても、そこでの台詞が秀逸で、そのことの意味の広がりと余韻を考えながら舞台のラストを見ていたので、正確な舞台上の設定を聞き洩らしたのかも、、、
亡くなった恋人は主人公こう問いかける。
「僕のしゃべる台詞は、僕が言っていることじゃなく、君が僕に言って欲しいこと。それを僕はしゃべっているだけだ。」
この台詞の裏には、最初と最後に出てくる野球場でのエピソードが関係している。主人公は、野球場で、天文学的に確立の低い出来事、つまり奇跡が彼前に起きたと信じきっている。だが、それは主人公が勝手に妄想によって作りだした話であって、実際は、似たようなことは起きたものの、それは彼の身に起きたのではなく、彼の隣りにいた友人に起きたことだった。それを都合よく記憶を作り変えているだけなのだ。
これは、小説などの作りごとの話から、過去や記憶のこと、さらに現在も含めた認識全般の問題まで、極めて広くその意味を捉えることができる。
人は、自分の思い通りになるように自分の世界を認識しているものだ。
(この評(感想)さえも、僕が勝手に解釈して、自分に引き寄せて語っているに過ぎないのだから。)
しかも複雑なのは、彼をどこかで信じていなかったから、主人公はそんな捏造をしてしまったということ。彼は自分にその奇跡が起らなくても、隣りの友人に起きたその奇跡に、満面の笑みだった。つまり、捏造などしなくとも、それで十二分に彼は幸せだったということだ。
過剰に、自分の都合のよいように理解しなくても、世界はそのままでも充分に幸せに満ちている、、、ということだろうか?
ではなぜ彼女は、彼を信じきれなかったのだろう、、、
彼女のせいなのか?、、、
解釈は、いかようにもできる。
いずれにせよ、開かれた、多様な解釈ができる、、、名台詞。
そう考えると、翻って、未確認の詩の意味が問い直される。
単に奇想天外に思えたそれぞれのエピソードに出てきた「未確認の詩」(タイトルでもある)の意味とは何だったのか、、、と。
これを書きながら、改めて考えています。
終わりが良ければすべてよし、とまでは言えないが、
最後がとても良かったので、とても良い印象で劇場を出ることができました。
とにかく、あのラストの台詞と一連の場面がとても良かったです。
満足度★★★
興味深かった
方法論はとても面白かった。ただ、その方法で何をしたいのかがよくわからなかった。
役者さんの演技はとても良かった。
ネタバレBOX
失敗と言うほど、何もなかったとは思わない。それなりに面白く拝見した。だが、成功と言うほどの何かがあったとも思えない。
それは、方法論を抜きにした物語も同様で、つまらない話だとは思わないが、結局何を問いかけている舞台なのか、わからなかった。
結局は家族愛のことを言いたかったのでしょうか?
役者さんの演技はとても良かった。
満足度★★★
俯瞰してみれば
全体を俯瞰して見れば面白かったと言える。
ネタバレBOX
役者さんの演技もよく、序盤惹きこまれていったが、
途中で設定に大きな飛躍があり(朝食に毒を入れたという場面から)、
リアリティが全くなくなり、私の集中力はそこで途切れてしまった。
そこからの一連のくだりは、全般的にとてもリアリティのないものだった。
だが、更にその後、その一連の場面はすべて仮想空間上で起きていることだったということが判明するので、そのある種のリアリティのなさは、理屈上は問題の無いということになる。
今まで現実だと思って見ていた場面が実は虚構で、現実はその外にあったのだというひっくり返しが、この作品の醍醐味であり、主人公が抱えている問題そのものでもある。そしてそれが、ネットをはじめとする仮想空間に現実以上に依存してしまう現代人への批評にもなっている。
その点は素晴らしいが、それだったら尚更、途中の劇的な場面を、現実にも起こり得るものとして描く必要があったと思う。
仮に同じ内容だとしても、その飛躍を埋める描写は欲しかった。
例えば、いきなり「毒を混ぜました」「まじかよ~」では法治国家で行われることとしては、リアリティが無さ過ぎるので、誰かに「そう言っておいて、どういう反応をするか試すテストなんでしょ?」と言わせるなどから入り、徐々に参加者も(そして観客も)信じさせていくとか、、、。
そうすれば、僕のような観客がそこで集中力を途切れさせることもなかっただろうし、より現実と虚構を混同してしまう現象を実感を持って体感できるようになったのではないか。
集中力が途中切れてしまったので、正直、作品の印象はあまりよくないですが、理屈で考えれば、構造的にはよくできている話だと思います。ひっくり返しには驚きましたし。
役者さんたちも良かったです。
満足度★★★
姿勢が素晴らしい
去年観た、長塚圭史さん演出の『南部高速道路』が素晴らしかった為、この作品も拝見しました。
過去を題材に現在の時代状況へ向き合おうとする姿勢は、『南部高速道路』同様に素晴らしいと感じました。
ただ、芝居としては、あまり面白いとは思えませんでした。
(私の席が舞台から遠かったことも影響しているかもしれません。同じ作品をもう少し小さい劇場で見ていたら、印象はだいぶ違うと思います。)
ネタバレBOX
幕末と戦後(ちょっとだけ明治維新も)の時代を行き来する設定の中で、実は問われているのは、今現在の社会状況。ラストシーンでは、それを暗示するかのように、時代は現在へ流れていって、幕。
印象的だったのは、
「現在だけを見ているだけでは、何のための現在かさえわからなくなってしまう、、、先を見据える大きな目的が必要だ、、、」という主旨の台詞。
目先の生活の問題にばかり固執しているだけでは、大きな目的を見失ってしまう。それが今の社会の、いや、いつの時代でも、よからぬ方向へ集団が暴走する要因になってしまう。
だが、もう一方で、大きな目的というものも、危うい方向に向かわせる原動力にもなる。舞台でも出てくる「尊王攘夷」「八紘一宇」などの理念もそう。
つまり、この二つのものは、まったく逆のもののように見えて、実はとても似ている。そして、この両輪がうまくかみ合った時に社会は暴走する。
その間で揺れ続けるのが人間なのだろう。
では、どうするか?が問われている舞台なのだと思う。
蛇足:襖を裏返し、そこに描かれている絵によって場面転換をするという演出が見事でした。
満足度★★★★
素晴らしい姿勢
生きる上で抱えている問題と真剣に向き合おうとしている姿勢が素晴らしいと思いました。
ちょっとスカしている位の方がカッコイイとされるこのご時世で、このように真正面からテーマに取り組むというのは、稀有な存在だと思います。
その真面目さや熱量が役者の演技にも出ている点も良かったです。
岩井美香さんは怪優ですね!(演技がですよ!)
ネタバレBOX
<ある場面>
マスコミに囲まれた少年とアリサ。
客席側にマスコミがいるという設定。
少年は客席を見ながらアリサにつぶやく。
「マスコミの後ろに無数の野次馬がいる。この国では誰もが犯罪(事件?)の当事者なんだ。」
観客はその野次馬としてこの言葉を聞く。
ドキッとした。素晴らしい演出。
脚本もとても上手く、ずっと「?」だった伏線が、衝撃的な展開でひっくり返される。
ただ、脚本については、個人的には全肯定でもない。
ひとつは、ご都合主義で設定が出来ているということ。リアリティのないできすぎな設定が散見された。面白おかしいだけのエンタメ作品なら、ご都合主義でもよいのかもしれないが、こういう真面目な問いかけのある作品の場合、ご都合主義では、まず、リアリティが削がれる。そして次に、物語り易い設定になっているために、ひとつの物語に回収されてしまい、解釈が狭まる。これらがとてももったいないと思った。
フィクションであっても、作り事なんだなと観客に思わせない作品にして欲しかった。
もうひとつは、ラスト。希望を持って世界に向っていく姿勢は良いことだと思うけれど、なんだかキレイにまとまり過ぎて、あまり印象に残らなかった。残酷な結末が見たい訳ではないけれど、十数年も引きずってきたことを、そんなに簡単に希望で終われるのか、、、という気はした。
観客である私は、物語世界で希望が演じされるのを見たいのではない。
劇場を出た後で、それでも希望を、、、と思いたいだけなのだ。
と、厳しく書きましたが、このように真面目に作品創りをしている姿勢、とても素晴らしと思いました。
次回作も期待しています!!!
満足度★★★
今後に期待できる、、、
序盤はとても面白かった。
役者さんもとても活き活きしていた。
ネタバレBOX
けれど、中盤~終盤にかけては、惹きこまれなかった。
(主宰で、脚本を担当されている山岡太郎さんに期待しているので、
あえて厳しいことを書きます。お許しを。)
社会的なテーマを作品に盛り込み、エンターテイメントに仕上げる手腕はとても素晴らしいと思いました。
ですが、それが表面的なもので留まっていると感じました。それぞれのテーマがネタの域を出ていない。底が浅い。
その為に、作品の本質的な深みは勿論、エンターテイメントとしての面白味も、同根の問題として、損ねていると思いました。
別の言い方をすれば、様々なテーマが積み重なったり、繋がったりしないために、物語も深まらないし、解釈も開かれていかない。
それは演出も同様です。最初、新奇な演出に興奮しましたが、手持ちのカードが出切った後は、正直飽きてしまいました。
脚本・演出共に、中盤以降は予定調和という印象。
新奇なものやネタを増やすことより、ひとつの問題でもよいので、本質的に何と向き合っているのか明確にして、その点を深めてほしいと感じました。
具体的に書きます。
まず、練馬という問題。練馬という地域も、同和などでも語られるように、歴史をたどれば様々な問題がありました。この地区の破壊計画(?)という際にも、そういう歴史を内包した問題提起が裏にあって書かれたものかと勘ぐってしまいましたが、単に埼玉に近い東京のはずれ位の差別意識を問題としてしか書かれていなかった。歴史問題を作品に盛り込めと言っている訳ではなくて、もし、そこまで視野に入れて書かれていたら、作品の深みは増し、解釈も様々な他の問題とも接合して広がっただろうと言いたいのです。例えば、神社という設定の持つ意味も大きく変わったと思います。
また、東京と埼玉の「領土問題」を抱えた地というのも、一言そのような台詞が出てくるだけで終わってしまう。
その点がもしもっと深く描かれていれば、後に出てくるある集団(宗教)の正義・悪の問題やテロの問題などと関連していったはずです。日本の正義と中国の正義、韓国の正義、ロシアの正義もがぶつかり合って昨今の領土問題が起っている。それは宗教対立、そこから派生するテロや戦争の問題へと繋がっていくはずです。ですが、この作品の宗教問題の描き方にでは、新興宗教が単純に悪として描かれてしまっている為に、この二つ(三つ)の問題を関連して受け取ることはできない。それによって、深みや多様な解釈が生まれてくることもない。
更に、この作品の中心にある、少年が自分と繋がった街の景色やそこでの血の通った人間関係を大切にするという感情は、実は、この新興宗教の教祖が、昔、少年時代に見て育ち、今でも心にある練馬大根の畑の景色を大切にする気持ちと同じです。そう考えると、一概にあの新興宗教を絶対悪とだけ規定できないのではないか、、、と思えてくる。いや、思える・思えないではなくて、それ位複雑な問題なのです、宗教の正義/悪の問題は。例えば、オウム真理教の事件だって、単なるキ○ガイが起こしたものではない。ややもすると、現在の社会の価値観(資本主義の価値観)に反感を持つ人は、ちょっとしたはずみで誰でも入信してしまうかもしれない。そして、その正義の下にテロが行われる。だから、新興宗教は怖いのです。
そして、そこに反米テロの問題も重なる。私はテロという行為は全く支持しませんが、反米テロに理由がないとは思わない。アメリカの第三世界への暴力や搾取のことを考えると、一概に全否定もできなくなる。それに、アメリカはテロへの報復のように、大量破壊兵器があるとしてイラク戦争を始めました。正義の名の下に。それも結局ウソだった、大量破壊兵器は無かった。正義とはそれほど反転していくものなのです。
もし、そこまで描けていけば、昨今の原発の正義・悪/反原発の正義・暴力の問題とも重ねて見えててきたでしょう。(私は反原発支持者ですが、反原発運動の一部が、その声の大きさや行動から、別の暴力を生んでいる例もたくさんあると考えています。)
新興宗教の描き方も、悪と規定したことだけが問題なのではなく、歌手志望の人がそこに深入りしていく理由が、お金や売名のことしか描かれていなかったのももったいなかった。あの団体か、またはあの団体のことを視野に入れての風刺の意味もあるのでしょうが、特定の団体への批評で終わるのでは、解釈はとても狭まる。そして、新興宗教などの最大の問題は、物理的利害(つまり金や名誉)以上に精神的な救いです。だから、弱く苦しい立場の人ほど新興宗教などに入る。もし、その点もきちんと描けていれば、もっと深い問題に広がっていったはずです。例えば、教祖が悪であったとしても、それを支持し救われる信者は悪なのか、悪事をしない新興宗教も悪なのか、新興ではない昔から存在する宗教も悪なのか、などの問題も出てくる。そういう観点からも、正義と悪の問題も単純ではなくなってくる。
長くなりましたが、まとめると、より深いところで問題と向き合って作品を作って欲しいということです。そうすると単純な設定では話が終わらなくなる。そして、多様なテーマも、伏線として書かなくても、勝手に伏線になっていく、深みも増す。人が生きる上で抱えている問題を掘り下げれば、自然とそうなっていくと思います。
私が社会的な問題意識が高いので、そういう部分で説明してしましたが、それは、必ずしも、大上段に構えた社会的テーマである必要はない。そうでなくてもよいので、何か中心を貫く、生きる上で抜き差しならない問題を軸に作品を構築して欲しいと思いました。
偉そうに、すみません。
役者さんたちが活き活きしていて良かったです。
次回作に期待しています!
満足度★★★
様々な表現方法
様々な表現方法で面白かった。
ネタバレBOX
【Evkk】
とても興味深い演出だった。
四角い紙を間隔を空けながら舞台一面に整然と並べた美術(?)にまず驚かされた。そこに目隠しの登場人物が現れ、足を触れる(踏んでしまう)際の微妙な「くしゃ」とした音などの緊張感は、まさしく、戦場で、いつ敵が襲ってくるかわらかない状態、または、地雷があるかもしれない地を歩く緊張感とも似ていて、ドキドキさせられた。その後の紙の使い方も面白かった。
また、複数の登場人物を2人に演じさせ、それらの人格が入れ換わるように演じ別ける発想なども、とても素晴らしいと思った。
ただ、それらの個別に見た場合に素晴らしいと思える発想が、全体として有機的に舞台に結実しているとは思えなかった。特に中心になるべき役者の演技にそのもの足りなさを感じた。役者さんのせいというより、演出の面白さに引っ張られて(何役も演じるということや、紙を色々いじったりする動作によって)、実際の役者さんの演技・集中力が削がれているという印象を持った。
演出と演技がもっと有機的に繋がっていたら、凄い舞台になったような気がするだけに、とてももったいないと思った。
【演劇部初期型】
戦場という緊張感のあるはずの設定で、一見何の関係も無さそうな、面白い演出や動作・踊りなどが展開される点は、とても興味深かった。
ただ、その面白さが、全体の中でどこに繋がっているのかがよくわからなかった。
この作品の場合、戦争という生真面目なテーマを、面白おかしく演出することで、必然的に異化効果が生まれているため、その意味を問う必要はないのかもしれないが、もし、生真面目なテーマではない作品で、似た様な演出がなされていた場合、私は閉口していたと思う。
その辺にどれほど演出家が自覚的なのか、この作品だけではよくわからない。それでも、少なくともこの作品においては面白かった。
また、喜多真奈美さんの踊りが良かった。
【劇団ING進行形】
とても緊張感のある舞台で、興味深かった。
ただ、その緊張感に、凄みを感じなかった。
演出スタイルなのだろうが、おそらく客席に向って役者が演技をしている為に、そう感じたような気がする。
演出家によって演出された緊張感ではなく、舞台上で役者と役者が向き合うことで生じるヒリヒリ感から、戦場の緊張感を演出して欲しかった。
と言っても、統一感としては、三作品の中では一番筋が通っていたと思う。
・・・
3作品とも、私にはわかりませんでした。
(学生劇団ということですが、王子小劇場での公演なので、手心は加えません、悪しからず。)
ネタバレBOX
【ミームの心臓『東の地で』】
本来は、舞台を見ることで、観客が何かを感じとれるように脚本も演出もなされるべきなのに、観客が感じるべき余白はなく、そこに作者の想いと台詞(意味)が押し付けのように溢れていた。
小説などの場合は、心理描写などが重要になるため、説明のような言葉が多くても、それほど押しつけがましさは感じないものだが、舞台でそれをやられてしまうと、観客としては辛い。写真におけるネガとポジの関係のように、演劇における脚本と舞台との関係は、その重要度は反転する関係にあると考えるのが一般的だ。勿論、討論劇など、言葉や議論の面白さで構築する舞台もあるので、例外は当然あるが。友人に話を聞いたところ、酒井氏の以前の作品『ケージ』などは、『東の地で』では過剰と感じられた言葉の感覚(理屈っぽさ)が、全共闘時代をテーマにしているために、むしろ活きている面白い舞台だったというので、そういう方面で追及するか、そういう主旨ではない作品を作る際には、今「台詞」として言わせている言葉の多くを「ト書き」に変えるとよいのではないかと思う。
(とても、真面目に作品に向おうとしている姿勢を強く感じたので、敢えて厳しく書いてしまいました。おせっかいだったら、すみません。)
【四次元ボックス『cicada』】
最近は、一般的に考えれば、エンタメ作品の場合、ご都合主義で、脚本に都合のいいように様々な設定が作られることは、悪いことではないとされているようなので、ご都合主義が散見されましたが、その点を批判するつもりはありません(それに、今回は「神話」なので、リアリズムからの批判はナンセンスかもしれませんし)。
ただ、片目を失い、義眼を入れている人が主人公で、その義眼の問題が中心題材であるという点だけは、かなり引っかかりました。
というのは、障害問題をネタとして利用し、作品を構成しているように見えたからです。
この作品の中心テーマは、障害問題やそれに付随する偏見や差別などの問題ではない(そういう問題も、要素の一つとしては出てきますが)。
つまり、他の題材でも中心テーマを語ることはできるはずなのに(というか、もっと言ってしまえば、テーマが何なのか、私にはそもそもよくはわかりませんでしたが)、面白おかしく話を語り易い題材として隻眼・義眼が使われるのは、あまりよくないことではないかと思いました。
勿論、作品内で、差別的な表現はまったくなかったので、私が過剰に反応しているだけかもしれませんが。
それでも、近親相姦(ある種のDV)のネタもそうですが、そういう深刻な問題を、エンタメのネタにするのはどうかと思います。
そういう問題を、必要以上に深刻に扱おうとする私のような意見の方がむしろ差別的だと言うのならば納得しますが、そういう問いかけが内包されている作品には見えませんでしたので。
と、厳しく書きましたが、三作品の中では、『cicada』が一番完成度が高いと思いました。
上記の問題を不問に付せば、原田マサオ役佐藤秀作さんは面白い演技だったと思います。
・・・
「ドキュメンタリーから、モニュメンタリーへ」という作者の解説を、過剰に、過剰に、哲学的に読みとろうとすれば、言わんとしていることの意味はわからなくもない。コンセプチュアルアートらなぬ、コンセプチュアル演劇のようなものが、最近一部で流行っているが、この作品もその一種と言えよう。観念遊びが好きなインテリの人には面白いのかもしれないが、私にその趣味はない。
満足度★★★★★
緊張と緩和の妙 実験性あふれる演出
物語という虚構空間と現実の空間との行き来、そして観客の巻き込み方の妙。
(独り芝居であり、独り芝居ではない。観客と共に作る舞台)
独り芝居という構造を、これほど上手く活かしている芝居を他に見たことがない。
本当に素晴らしかった。
ネタバレBOX
私は開演直前に席に着いたので、客入れ時にどのようなことが行われていたのかわからないのだが、ミドル英二さんの評によると「開演前、舞台そでに、お茶やコーヒーが用意されていて、出演の栗山辰徳が雑談を交えながら希望者にふるまう。」ということらしい。
そして、開演時間。
客入れ時の和んだ空気感のまま、独り芝居を演じる栗山辰徳から携帯の電源を切ってもらう説明などがなされる。
また、劇の途中で、「サイダー缶を空け、グラスにサイダーを注いでもらう」というアシスト役を観客から募る。私が観た回は希望者がいなかったため、その行為を行う場所から一番近くにいた私がその役をおおせつかることとなった。
これらは、落語か講談の導入ででもあるかのように、
虚構が演じられる舞台上と客席という現実空間との対話がなされていく。
そして、唐突に仰々しいまでの「演技」が始まる。
その落差にびっくりしていると、「ちょっと大げさでしたね(笑)」というような感じで、また現実空間に戻ってくる。
それで「やり直しますね」と、割と抑えた自然な形で再度演技が始まる。
これらの虚構の緊張感と、現実に戻される緩和が、見事に行き来する。
この後は、所謂「劇(物語)」が展開されていくのだが、
そこでも、メロスが走り出すシーンで役者自身が走って劇場の外に出ていってしまうなど、この緊張と緩和の演出は、形を変えて随所で見ることができる。
人は緊張からフッと解き放たれて、緩和させられると、自然と笑ってしまうものだ。だから、所謂コメディではなく、とても真面目な芝居なのにもかかわらず、随所で爆笑させられてしまう。新型コメディとでも言おうか。(新しい形のバスター・キートン?)
ちなみに、役者が走って劇場の外に出ていっている間、劇場内では、観客は歌を歌うように要請される。
唐突にこんな演出がなされたら、普通の芝居なら観客は戸惑ってしまうが、客入れ時から温和な空気が演出されているために、観客は一体感を持って舞台の構築に協力することになる。
そして、舞台作りに協力し役を演じた者は、上演後、舞台の役者とともに拍手されることとなる。
サイダーを注ぐ役、妹役/妹の結婚相手役〈これもお客さんを役者が勝手に役に見たてて演技する)/羊役(妹とその結婚相手以外の観客は羊の設定)/歌を歌った人。つまり、全員の観客がこの舞台の出演者でもあるということだ。
虚構と現実の行き来は、役者の内部でも演出されている。
メロスが走り疲労困憊している部分では、実際に走るという以外にも、腕立て伏せや、腹筋、スクワットなど、実際の役者の肉体を疲労させることによって、その身体性を得ている。嘘の「演技」ではなくて、本当に疲労した身体がそこに現れることになる。つまり、役者のドキュメントでもあるということだ。
また、小道具や音を使って、本当にそれがあるかのように見たてる部分も秀逸。(これは一般的に演劇全般で行われる手法であり、独り芝居では特に多様される方法であるが、他の芝居とは何かが違う、うまく言葉にできないが。)
例えば、筋トレ用具:エキスパンダーを川に見立てたり。
その、川を渡る描写の部分で、劇場内の排水管に水が流れていったのも、演出だろう。偶然かも?
観客がサイダーを注ぐ音を、湧水が注いでいる音に見たて、その注がれたサイダーを、湧き水として飲み干すシーンなども秀逸。
本当に上手く、演出された芝居だった。
演出家の志賀亮史さんの妙であると共に、
出演なさった栗山辰徳さんの妙でもある。
本当に素晴らしい舞台でした。
ありがとうございました。
満足度★★★★
痛烈なブラックユーモア
メディアが作りだし、流布させているステレオタイプな言説を、
ブラックユーモアで徹底してひっくり返していく。
そのケンカの売り方がとても良かった。
ネタバレBOX
特に、当て書きをしたのだろう、身体障害を持った役者さんに身体障害者を演じさせるというのは痛烈だった。
マスメディア(テレビ、映画、演劇も)は、障害者を「可哀そうな人」として過剰に演出し、感動なるものを視聴者に与えようとする。その裏で、制作者は視聴率などのことしか考えていない。
また、障害者問題に限らず、「震災」「被災地」「福島」などのテーマも、同様に数字をとれる・注目される<ネタ>として利用されている。
そのような在り方を劇中で痛烈に揶揄している。
それだけではなく、一般的に言われている言説への相対化も良かった。
例えば、秋葉原事件をはじめとした近年よく言及される「理由なき殺人」の問題。この作品の中心をなす物語の女子大生監禁事件は、理由もなく始まった殺人計画なのだが、理由がないと「理由なき殺人」にカテゴライズされてしまうので、無理やりにでも理由を作りだそうと苦心したりする。
また、権威などを嘲笑する感じも良かった。
このフィクションの物語自体をメタな視点から相対化する視点も随所にあり、それも面白かった。特に、実は今までの回想シーンは嘘だったとする部分など。
総じて、既存の価値などにケンカを売った姿勢が素晴らしかった。
ただ、もの足りなさも残った。
それは、そのブラックユーモアや風刺などが、単なる言説の相対化に留まっていた点だ。
あらゆる言説や価値観を疑い、相対化するのは良いと思うが、
相対化している主体の持つ(つまり脚本・演出の金子鈴幸さんの持つ)価値観が、何も提示されていないということ。
勿論、そんなものは必要ないという考え方も解らなくはない。(私もポストモダン以後の世代なので)
だが、すべての価値は相対化されてしまうという立場に立つと、
この作品自体の意義もまた相対化され、その存在根拠も失われてしまう。
その問題さえも取り込んで、自己相対化している作品だったら、アッパレだったのだが、そこまで突き詰めてはいなかった。
それに、自己の演劇行為さえも相対化する作品を作っても、どれほど有意義なものになるかはきわどいので、その点においては、普通に、作者のアンチテーゼではない、テーゼを見せてほしかった。
と、最後、厳しくも書いてしまいましたが、
次回作も、楽しみにしています!
<追記>
加弥乃さんの演技がとても良かった。
彼女の演技力で演劇としての強度を保っていたように思う。
また、渡部栄太さんの演技は、あれは本当にヘタなのか、ヘタを演じているのかわからないが、いずれにせよ、とても印象に残った。
・・・
私にはただのにぎやかしにしか見えませんでした。
満足度★★★
淡淡としていて良かった
淡淡とした会話劇がとても良かった。
主人公:高橋久美子役の北見直子さんの演技がとても良かった。
ネタバレBOX
主人公:高橋久美子役の北見直子さんの演技がとても自然でいいな~と思って見ていた。
それに対して、最初、タヌキさんの演技も衣装もちょっと過剰かなと思ったり、
主人公とタヌキさんとの距離感が唐突に近づき過ぎる場面が何度かあり、
疑問に思ったところも多かった。
それでも、観進めていく内に、タヌキさんは異界からの使者なのだと認識されてくるので、ある種の幻想譚ならば、それはそれでいいのかなと納得した。
淡淡としたこういう対話劇はとても好きなので、面白かった。
ただ、観終わった後、心に残るものがあまり無かったので、満足度は★3つにしましたが、とても良い中篇(短篇?)だったと思います。
上演時間の問題なのかどうかはわかりませんが、
願わくは、もう少し長い作品として観てみたかったです。
満足度★★★★★
「この生は受け入れがたし」
「寄生虫の小さな小さな視点から、 東京と地方、大学と研究室、夫と妻―あなたの周りの“寄生と共生”の関係が浮かび上がります。」という説明文にある通りの舞台。的確な文章過ぎて補足なし(笑)
素晴らしい舞台だった。
自分周りの“寄生と共生”の関係を考え直してみようと思う。