たんげ五ぜんの観てきた!クチコミ一覧

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葵上

葵上

世 amI

要町アトリエ第七秘密基地(東京都)

2013/08/15 (木) ~ 2013/08/18 (日)公演終了

満足度★★★★★

不思議な感覚の作品
三島の強い言葉に、役者が負けていなくて、とてもよかった。
特に美加理さんが素晴らしかった。
李知映さんもとてもよかった。

演出も素晴らしかった。

ネタバレBOX

ただ、途中までは、それでも三島の文語的言い回しが、体にすんなり入ってこずに、違和感を持ち続けた。
それでも、ラストの言葉のないシーンで、それまで語られてきた様々な言葉の意味が反芻されて、心に落ちていった。
そして、人間の最も根深いところにリビドーのようなものが渦巻いているのだなということを痛感させられた。

言葉ありきの作品を、言葉ではない場面で感じさせるその演出は秀逸だった。
劇団だるま座本公演「笑って死んでくれ」

劇団だるま座本公演「笑って死んでくれ」

劇団だるま座

座・高円寺1(東京都)

2013/08/14 (水) ~ 2013/08/18 (日)公演終了

満足度★★★

・・・
多くの人が書いている感想と同感です。
だるま座の魅力は感じられなかった。そして、非常に長く感じた。

それでも、剣持さんの落語や中嶋ベンさんの出てきた部分など、
部分的によかったところもあったことはあったが、、、

鉄の時代

鉄の時代

劇団霞座

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2013/08/09 (金) ~ 2013/08/11 (日)公演終了

満足度★★★

・・・
テーマなどは興味深かったが、どうも入り込めなかった。

岡田萌笑子さんの存在感は、とても印象に残っている。
持っている空気感がとってもいい。

ネタバレBOX

物語を構築しようとするが、同時に物語化というものが孕む危うさに対して疑問も抱いている作家。それでも、作家は物語を語らざるを得ない。

これは、この作品の登場人物「作家」の姿であると共に、この作品の脚本・演出の大貫隼氏の姿でもあるのだろう。
そして、これは「作家」という表現者に限ったものでもなく、どんな人でも抱えているものでもあるということを問いかけている作品なのだと思う。

ポストモダンと言われて久しいが、歴史や政治など、大きな物語を信用なんてできない。だが、歴史や政治などの社会的な物語の外に完全に個人が出ることもできない。
それは個人レベルでも言えて、宗教にでも入らない限り、これが真実だというような物語を信じることもできない。だからと言って、すべては虚無であるかのように振る舞うことも同時にばかばかしい。
このように、社会的なレベルでも、個人的なレベルでも、物語化への希求とそれに対する疑念という二つの相反する方向性を、同時に抱え込んで生きることしか私たちにはできない。

そのようなテーマのため、台詞やシーンは断片化され、物語化を拒む場面も多い。それでも、物語を語ろうともする。

その構造はとても面白いと感じて観ていたのだが、
好みの問題なのかもしれないが、大仰な演技や、音楽で物語を盛り上げようとする演出に、どうも入りこめなかった。

ただ、それによって、そのコントラストが強調されたのかもしれないが、過剰な感じのしない岡田萌笑子さんの存在感がとても印象に残った。
その空気感がとても魅力的だった。
cocoon

cocoon

マームとジプシー

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2013/08/05 (月) ~ 2013/08/18 (日)公演終了

満足度★★★

...
役者の演技で見せるというより、舞台全体をつかった動きで描き出すその劇世界には独特のものがあった。抽象画を見ているようなイメージ。

ただ、前衛というよりは、最新のおしゃれという印象。
何らかの本質に至るために新たな方法論が模索されているというよりは、面白おかしくするために新奇な方法が採用されているという印象を持った。
その印象が邪魔して、どうしてもその劇世界に馴染めなかった。

おしゃれ、と言っても、内容・テーマなどは重厚なもの。
そういう点では真摯な作家なのだと思う。
私が批判的に書いているのは、あくまで演出の方法論の話。
誤解なきよう。

好き嫌いで言ったら、好きな作品ではないが、
この作品にしかない強度は確かにあると思った。

李そじんさんの演技が印象に残った。

(その新奇さを考えたら☆5、好き嫌いで言ったら☆無、間をとって☆3)

ネタバレBOX

舞台の奥で行われている演技をビデオカメラで撮影し、それをリアルタイムで画面に映し出す演出は、特に興味深かった。

観客は、同じ時空間で行われている芝居を、映像を通して見ることになる。
それによって、ある部分では生の直接性が剥奪されているにもかかわらず、別のリアリティも付加される。

その別のリアリティには2つのものがある。

1つは、距離感。
舞台表現は、観客と舞台との間に、どうしても距離ができてしまう。その距離は、観客参加型演劇や、極めて小さな場所での公演(例えば「ガレキの太鼓」)などのような特殊な上演形態を選ばない限り、縮まることはない。
その距離を物理的に縮めるのではなく、ビデオカメラを使って縮める。本来これは、舞台表現に対しての映像表現の特権のようなものだったのだが、リアルタイムでの投影ということで、それを舞台の可能性の中に取り込んでいる。それによって、至近距離で体感するようなリアリティが付加される。

また、もう1つは、想像力。
芝居は、目の前で行われる生の演技といえども、つまるところ虚構でしかない。そこにある「虚構を演じている」という嘘くささはどうしても拭い去ることはできない。それを、カメラを通すことによって、嘘を嘘で見えなくする。映像の間接性によって、演劇の嘘を見えづらくする。映画の方が演劇よりは、嘘くささが少なく感じられるのは、まさにこの間接性に依拠している。そして、この作品の場合、設定が過去のために、更にもう一段階間接的になっている。観客は、そのように嘘くささの減った映像により、より映像の中に入り込みやすくなる。そこでは、嘘くささに邪魔されずに想像力の翼を広げることができる。

と言っても、映像が投影されている画面と同じ空間で演劇は続いているため、観客は、虚構と現実が様々に反転して、それぞれを補強したり、または相対化しながら、不思議な時空間を作り出していた。
「空のハモニカ-わたしがみすゞだった頃のこと-」

「空のハモニカ-わたしがみすゞだった頃のこと-」

てがみ座

座・高円寺1(東京都)

2013/08/01 (木) ~ 2013/08/04 (日)公演終了

満足度★★★★

役者さんがよかった
脚本家の長田育恵さん主宰の劇団ということだが、個人的には、脚本よりも役者さんの演技がとても印象的だった。と言っても、役者を活かす脚本こそ良い脚本だともいえるので、そういう意味では、脚本も素晴らしい。

役者さんは、皆よかったが、特に、

てる役:今泉舞さんが金子テルを見つめる姿はとても印象的だった。

金子テル役:石村みかさん、坂口秋枝役:福田温子さん、持井肇役:久保貫太郎さんも、とても印象に残った。

私が観た千秋楽には、作品の中にも登場する上山房子さん(金子みすずの娘)本人が、観劇に来ていて、最後に舞台に上がって挨拶をしていた。
これもとても感動的な場面だった。

飛龍伝

飛龍伝

COTA-rs

シアターサンモール(東京都)

2013/08/01 (木) ~ 2013/08/04 (日)公演終了

満足度★★★

わからなかった。
作品の内容的には、つかさんの脚本ということで面白かったが、それが演出レベルでうまくいっているとは思えなかった。何が中心なのかわからなかった。

鬼灯町鬼灯通り三丁目

鬼灯町鬼灯通り三丁目

劇団桟敷童子

西新宿成子坂劇場(東京都)

2013/07/30 (火) ~ 2013/08/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

役者の層の厚さ 「スイカ組」
「ホタル組」を観てからの「スイカ組」だったので、こちらは比較して書きます。ネタバレボックスにですが。

ネタバレBOX

スイカ組について

<松尾大吉役:稲葉能敬さん>
 ホタル組の井上さんが時代に振り回された男の軽さと、滑稽さを演じているように見えたのに対して、稲葉能敬さんの演じる松尾大吉は、重い。
戦争で味わったものの重さを抱えているように見える。すべてのシーンに松尾大吉の影が見える。それはとても人間くさい。欲望の匂いがする。
戦争の論理、つまり男の論理を戦後まで引きずっているように見える。
井上さんとは好対照。どちらも、それぞれに素晴らしいかった。

<松尾弥生役:徳留香織さん>
 こちらも、ホタル組の大手忍さんとは好対照。大手さん演じる松尾弥生がすぐに感情を露わにする強い女性なのに対して、徳留さん演じる松尾弥生はちょっとしたことでは感情を露わにはしない。そのため、一見穏やかそうに見えるのだが、ひとたびスイッチが入ると、溜まっていたものが堰を切って流れ出し暴力的な一面を覗かせる。落差が大きい分、こちらの女性の方が怖い。
 その人物像の違いが、狂気の質の違いにもなっている。これは大手さんの演技が、どこかで時代などの大きなものによって追い込まれ、やり場のない怒りを抱えているように見えるのに対して、徳留さんの演技では目の前の現実に押しつぶされているように見え、さらに松尾大吉にその怒りを向けているように見える。
 時代に追い込まれているのか、目の前の現実に追い込まれているのか、という印象の違いは、作品の印象を大きく変える。ただし、これは、大手さんと、徳留さんの違いだけではなく、松尾大吉役の井上さんと稲葉さんの違いもその印象に大きく影響している。井上さん演じる松尾大吉は、純粋に見えるので、責任の所在は彼にはないように感じる。それに対して、稲葉さん演じる松尾大吉は、戦争を引きづっているように見えるため、責任を彼に向けたくなる。

<番場鶴江役:山本あさみさん>
ホタル組の芝居が、夫婦を中心に描かれているように見えるのに対して、スイカ組は、徳留さんの演技が引いた演技だということもあり、その分、番場鶴江役:山本あさみさんの演技が前に出る。
山本さんも、ホタル組の番場鶴江役:鈴木さん同様に、強弱がとてもうまい。それに、台詞をしゃべっていない部分でも、細かい演技がとても豊かで魅力的でもある。ホタル組同様、番場鶴江役が場を作っているように見えるが、他の役者さんとの関係で、こちらでは、番場鶴江役が前に出て見える。

<鍋島小梅役:外山博美さん>
ホタル組の川原洋子さんとは対照的。ホタル組の松尾大吉役井上昌徳さんと近い印象。とても軽い。元娼婦という憂いなど微塵も感じさせない。それが、とてもよかった。その軽さによって、舞台が深刻になりすぎずに済んでいる。また、軽いが故の切なさも孕んでいた。


総じて、配役のバランスが絶妙だと思った。それを演じた役者さんたちの演技力の素晴らしさは言うまでもなく、それと同時に、この配役のバランスによって、それぞれの個性が最大限に活きていると感じた。
鬼灯町鬼灯通り三丁目

鬼灯町鬼灯通り三丁目

劇団桟敷童子

西新宿成子坂劇場(東京都)

2013/07/30 (火) ~ 2013/08/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

役者の層の厚さ 「ホタル組」
4人によるシンプルな舞台なので、役者の演技を思う存分堪能できた。

「ホタル組」「スイカ組」合わせて8名の役者さんが演じるが、全員がそれぞれに魅力的。同じ芝居でも、役者が違うと舞台がまったく違う印象になる。

別の芝居を観るように楽しめた。
また、観比べることで、役者と演技・演出の関係についてとても勉強になった。

とにかく、桟敷童子の役者の層の厚さに圧倒された。

ネタバレBOX

「昭和二十一年の夏
 男が戦地からやっとの思いで帰り着いた我が家には
 初恋の人を待ち続ける妻と、見知らぬ二人の女がいた・・・」(当日、パンフレットより)という話。

帰ってきた男:松尾大吉が、偉そうに、女に「戦争もしてないお前らにはわからないんだ」という主旨のことを言う場面がある。
そこで、番場鶴江は、「男だけやない、女・子供も戦争してたんや。そもそも男が戦争しよ言わなんだら、戦争など起きへんかったんや」(方言が正しくなくて、すみません)というようなことを言う。
このシーンはとても印象的で、この芝居トーンはここに象徴されている。戦争という男の論理・男の暴力に対して、戦後になっての女(弱い者)の立場から反撃がなされている。


「ホタル組」について

<松尾大吉役:井上昌徳さん>
演技というより、井上さんの人間性からくるものなのだろうが、
「まっすぐ」な感じがとてもよかった。
戦中は戦争に振り回され、生還してもまた戦後の日本に振り回される一人の実直な男の姿が、本来は悲劇的なはずなのに、とても喜劇的に見える点が素晴らしかった。深読みすれば、戦中は戦争という男の論理に振り回され、帰還後は生活や感情という女の論理に振り回されるという解釈も成り立つ。いずれにせよ、時代に振り回され続ける人間の姿をこれほどまでにうまく演じる、いい意味での軽さがとてもよかった。

<松尾弥生役:大手忍さん>
松尾大吉役:井上昌徳さんの軽さに対して、大手さんの抱えているものは重い。彼女が抱えているものは、男が勝手にはじめた戦争や男が作った家制度(つまり天皇制)に振り回された女の苦悩でもある。その鬱屈は、敗戦により、家が(天皇制が)崩壊すると共にに、晴らされたはずだったのだが、家長である夫が帰還してしまったことで、行き場のないものとなる。それに、愛し待ち焦がれている初恋の人は戻らない。そして、鬱屈は怒りへ、そして狂気へと変わる。その様をとても熱量のある演技で魅せてくれた。

<番場鶴江役:鈴木めぐみさん>
強弱、緩急が絶妙だった。自身の演技の緩急というだけではなく、他の役者さんとの掛け合いで、出るところと出ないところをわける間合いも素晴らしかった。井上さんや大手さんが強い演技なので、一見鈴木さんの印象は薄めなのだが、実は鈴木さんが、どっしりと構えて全体のバランスをとっているという印象。彼女が実は場を作っているとさえ言える。自分を表現するだけが役者じゃないという点には、改めて驚いた。

<鍋島小梅役:川原洋子さん>
一番地味なのだが、実は、松尾弥生役:大手忍さん以上に、闇が深いのは、こちら。その背負っているものの深さ・奥行を一番感じさせられた。実は演技で一番印象的だったのは川原さんの演技。お金のために身を売らなくては生きていけない女の姿、それは戦前も、戦中も、戦後も変わらない。進駐軍に街娼が追われている時に見せた、鍋島小梅の怒りの中には、「自分の意志では抜け出せない場所に追い込まれながら、それでもなんとか生きようとしている者をも殺そうというのか」という思いがあったのだろう。
雲の影

雲の影

スポンジ

サンモールスタジオ(東京都)

2013/07/24 (水) ~ 2013/07/31 (水)公演終了

満足度★★★

サンプリング
よくできているとは思ったけれど、この劇団・作品でしか見られない何かというようなものを感じなかった。

ネタバレBOX

この作品のピークはふたつある。
ひとつは、二人の主人公:野村と遠藤が罵り合う場面。
お互いがそれぞれに抱えている背景がありながらも、
相手のそういう部分は無視して、互いにアラを探して罵り合う。
こういうことはよく日常でも起こることで、とても強いシーンだと感じた。
ただ、喧嘩のようにエネルギーをぶつけ合う芝居は、誰が演出し・演じても、それなりの力は持つというのはあるのだが、、、。

もう一つは、チェーホフの『三人姉妹』の引用部分。
古典を現代劇に使うそのサンプリング的な手法はとても上手いと感じた。
ただ、逆に言えば、作品のクライマックスを他者(しかも大作家)の言葉の引用で力を持たせるというのは、どうかと思った。
全体を通して、このようなサンプリングが為されている舞台だったら、そういうものとして素晴らしいと言えるのだが、一部分、それもクライマックスだけが他者の言葉では、その言葉だけが突出してしまい、作者自身の言葉の弱さが同時に強調されてしまう。(この引用が無ければ、言葉の力でまとめる芝居ではないという観方ができるのに。)他人の、しかも大御所の言葉の力で、この作品をまとめてしまったという印象。

私は、冒頭に「この劇団・作品でしか見られない何かというようなものを感じなかった」と書いたが、ラストの締めが他人の言葉であり、作者の顔が見えないというのも、作風の問題だけではなく、その印象を助長しているのかもしれない。

それでも、サンプリングというか、引用の手つきは素晴らしいと思った。
シンポジウム SYMPOSIUM

シンポジウム SYMPOSIUM

東京デスロック

富士見市民文化会館キラリふじみ 展示・会議室(埼玉県)

2013/07/27 (土) ~ 2013/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

ポストドラマ
「こんなの演劇じゃない」などと言うつもりは毛頭ない。
テキスト(脚本)ありきではない演劇の可能性を、私は観たいと思っている。

役者が役を演じるのではなく、生身の人間の存在と、その人間が紡ぎ出す言葉、そこに生起する空間こそが演劇であるという考え方に異論はない。

ただ、この作品は、ただの「シンポジウム」でしかない。
演劇的な仕掛けは多少あることはあるが、劇的な効果は生んでいない。

語られた内容は、正直、導入に過ぎず、深まることはない。
それでも、テーマとなっていることは、今の時代に自分(たち)はどう向き合うのかということなので、興味深くはあった。特に「当事者性」の問題など。

また、埼玉県の富士見市で行われているという場所性を踏まえて公演が行われているという点はとても良かった。

(満足度をはじめ★3にしましたが、作品の可能性を考えて、★4にしました。)

ネタバレBOX

それでも、良かった点はある。
一般的にシンポジウムというと、偉い評論家が並んで発言するものが多い。
この作品では、評論家も参加しているが、役者が自分の言葉をしゃべっている。
役者は人前に立つことには慣れていても、自分の言語で話をすることには必ずしも慣れてはいない。簡単に言えば、素人なのだ。その点が面白かった。

評論家は言語化を表現(職業)とする。その為、その言葉はもっともらしく聞こえはするが、できあいの言葉や論理が語られているだけということも少なくない。

この作品でも、評論家の言葉よりも、役者の言葉の方がはるかに魅力的だった。
わかった気になっていない、結論づけられていない、宙づりの生生しさがそこにあった。

もう一点面白かったのは、
シンポジウムが「演劇」とフレーミングされていることとで、
観客は、一般的なシンポジウムだったら、話者の発言だけにしか集中しないものが、
話者の表情や所作にも意識がいき、また話者だけではなく、他のパネラーが聞いている時の表情や所作などにも意識がいくということ。

この点は実に面白かった。(と言っても、そういう観方をしている観客が何人いたかはわからない。おそらく多くはないと思う。)
言葉として交わされているもの以上の豊かさがあった。

ただ、議論として交わされている意味内容は、それほど面白いものではなかった。話が深まりそうになると、「時間です」ということで、そのテーマは区切られてしまう。「フィードバック」というテーマを振り返る時間もあるが、それほどその仕掛けが活きているとは思えない。

それでも、「当事者性」についての話など、とても興味深いテーマではあった。

話も、表情なども、北九州からきた沖田みやこさんが素晴らしかったが、
所謂演技ではないので、彼女の人間性に惹かれたということか、、、
これを「役者として魅力的だった」と言っていいのか、、、、
でも、人はどんな場でも演技しているということから言えば、素晴らしい演技だったと言えるだろう。

それに、韓国のソウルからきたマ・ドゥヨンさんの言葉・存在はとても印象的だった。
今の日本社会を語る際に、韓国人の視点というのは、日本人の考え方や在り方を、言葉としても、存在としても、一気に相対化させる力を持っている。原発のことや参議院選のことなど、とても興味深かった。だが、マさんの言葉を他のパネラーはきちんと受け止めて議論を発展させているようには見えなかった。その点は特に残念だった。
極東の地、西の果て

極東の地、西の果て

TRASHMASTERS

本多劇場(東京都)

2013/07/25 (木) ~ 2013/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

時代の流れと対峙する意志!
今の時代の流れに真正面から向き合い、格闘している芝居。
時代の流れに対する憤りは、脚本・演出・演技など、舞台を形作るあらゆる部分に強烈な熱量となって転化されている。とにかく強い。

ただ、ひっかる点も少しあった。

(箇条書きなので、後で整えます。)

ネタバレBOX

基本的な設定は、ジョージ・オーウェルやハクスリーのような、起こり得るかもしれない近未来SF。

芸術の思想を元に、「学校」という組織を作り、貧困者なども少しの入学金・学費を払うだけで誰でも最低限の生活が保障されるというシステムを作った<学長>。「学校」は芸術家を育成することが基本だが、農業にも従事させるなど、資本主義社会で、経済的に破綻しないような巧妙なシステムも作っている。そして、その「学校」から巣立った芸術家の世界的成功などによっても、その「学校」の経済力は莫大なものになる。

九州に拠点を移した「学校」は、九州の県知事の誘いにより、共に独立国家「芸由宇州」を樹立することを宣言。ただ、多数の国の承認や支持を受けるものの、日本はそれを認めず自治区のような扱いになる。

そのような設定のSF。中心テーマは、「芸術」とは何か、それは今日の支配的な価値観とどう違うか、それに基づいて何ができるかということ。
今日の支配的な価値観や権力者の暴力の具体的な例として、TPPならびに、遺伝子組み換え食品の問題が大きく語られる。

芸術とは、金銭などに還元できないものであり、「どう生きるか」ということと同義だということになる。それは岡本太郎の思想だ。実際に、この作品中で、岡本太郎の名前が語られる。

TPPの問題は、アメリカが日本を今までもその属国としてきたし、これからもそれをよりあからさまな形で行うということを示す具体例としてあらわれる。

まさに今日本が置かれている社会状況に、どう別の価値観、つまり「芸術」をもって対峙できるか、、、、という作品なのだ。

時は流れて、「学校」は次第に力を失い、その関係者の子供たちは、隠れて、この時代の流れに抗おうとして生活している。
それが外からは過激派だと思われている。
もはや過激闘争をするような過激派など存在しないのに、そのようなレッテルを貼れば、権力者は、平和を望む一般市民を味方につけ、容易に反権力者を疎外し、時に管理する口実となる。これは、現在の政治運動の直喩である。反原発デモなどで、過激な行為などしていないのに逮捕者が出るなどの事態は、これとまったく同じ構図だ。

この物語において、過激派は世間から「サムライオオカミ」と呼ばれている。
実はこの名前は、本人も知らずに育てられた、「学校」の学長の息子:トラの名前からきている。トラの本名は侍狼(じろう)だからだ。ちなみに、侍狼(じろう)は岡本太郎に対して、その志を受け継ぐ者として「じろう」という意味があるようだ。

「サムライオオカミ」は、権力者やその一般的なメディアが流布した情報を信じた者が勝手に思い描いている像であり、実際には、遺伝子組み換えではない植物を育て、家畜も自分達で育てるという、ただそれだけを全うしている人々でしかなかった。「過激派が家畜の肉に毒を入れてテロ行為をしている」と噂さているものの実態は、実は遺伝子組み換え飼料を食べた家畜が原因不明の毒に冒されているということに過ぎなかった。それなのに、権力者はそのイメージ付けを利用し、過激派の抹消をしてくる。

ここには、日本のメディアのいびつさと、メディアリテラシーに対する強い批評性がある。

そして、最後、そのグループは壊滅させられるのだが、学長の息子トラ(侍狼)と彼が恋した女:伊武沢凪(グル―プの滝内龍ノ介の異母兄妹であり、仇村晃吉の異父兄妹であり、さらに権力のスパイでもあった女)だけは、唯一あった筏で逃亡して未来に希望を繋げる。

トラと伊武沢凪が去った後、残った者たちは、最後に自分達の血で死を書こうと言って、暗転。機関銃の音が響く。再び灯りがつくと、そこには「我らの芸術 これで終わる 明日の芸術 お前が始める」と壁に書かれている。


この時代への批評性も、そして、芝居としての熱量の強さも申し分のない傑作だと思うが、3点気になる部分があった。

1つは、後半はメッセージに寄り過ぎているのではないかと言う点。具体的には、特に、遺伝子組み換え食品について。確かに、遺伝子組み換え食品は危ないのではないかという意見は理解できる。だが、それはどう具体的に危ないかということまでは、現状でははっきりしていない。とんでもない事態を招くかもしれないし、実はたいした害は起こらないかもしれない。勿論、安全側で考えるべきだという考えに私も賛成だが、遺伝子組み換え植物を作ることによって、生産量が増え、今日の食糧危機を乗り越えるきっかけになったり、農薬を減らして栽培できるようになるなどの利点もあるという意見もある。勿論、それも権力側に情報操作された見解だという可能性もある。だが、逆に、遺伝子組み換えは絶対悪だと言い切ることも、反体制側のメディア・バイアスがかかったものの可能性もある。メディア・リテラシーの問題は難しく、権力側のバイアスだけではなく、反権力側のバイアスも正しいとは限らないという視点も必要なのではないか。

ただし、この作品は近未来SFなので、ある部分を拡大解釈してフィクション化したという考えが成り立つので、演劇的には、この意見は批判ではない。フィクションとはそういうものであり、それはフィクションの強みでもあるので。

もう一点は、女性の描かれ方。未来の話なのに、女性の扱われ方が、どうも古い。トラと一緒に旅立つ女に「トラの子供を産め」と言ってしまったり、雅姫は娼婦だったり。古いというのは、新しい古いの問題ではなく、男性中心的な見方によって、世界が構築されているのではないかということだ。

更にもう一点。最後、トラは旅立つ決めゼリフとして「日本人は農耕民族だから、農業をやるよ」というような台詞が出てくる。それまで「血」の問題などを扱っていて、そこでは明示されてはいないが、部落の問題や在日の問題も意識して書かれているのではないかという深読みもあったが、最後に作品の決めゼリフとして「日本人」という主語が出てきたのには少し興が冷めてしまった。

と、3点ほど厳しいことも書いたが、基本的には素晴らしい作品だった。

役者さん達の演技も素晴らしかった。
全員素晴らしい演技だったが、特に龍坐さんの存在感は圧倒的だし、
カゴシマジローさんと、川崎初夏さんの演技は印象的だった。
また、林田麻里さんは、前半と後半で別の人を演じているのだが、同じ役者が演じているようには全く見えなかった。素晴らしい。

レーニン伯父さん

レーニン伯父さん

風煉ダンス

d-倉庫(東京都)

2013/07/25 (木) ~ 2013/07/31 (水)公演終了

満足度★★★

一度目は悲劇として、二度目は喜劇として
表面的にはファンタジーだが、その根底では、革命のことが語られている。

(後日、追記するかも、、、)

ネタバレBOX

かつてマルクスは、
「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は、一度は悲劇として、二度めは茶番として、とつけくわえるのを忘れた。」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』「マルクス・エンゲルス全集第8巻」) <ネット情報のコピペなので、裏とってません>
と言った。

レーニンの遺体役をやっていた人物が主人公。
かつて彼はレーニンの思想を喧伝する劇団で、レーニン役を演じたりもしていた。
レーニンを指すにせよ、
レーニン役を演じた主人公を指すにせよ、
歴史上の人物は二度現れた。
一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。

また、きかつての革命以前に屋敷に住んでいたブルジョワの女主人も2度現れる。一度目は悲劇として、二度目は(認知症になり)喜劇として。
彼女の登場によって、革命によって下女・下男からその地で主人になっていた者たちも、2度目の喜劇を演じることになる。

さらに、土地を没収しにた役人も二度現れる。
役人に付いて中央に行ってしまった女主人の娘も2度現れる。


この物語内でも、それまでの価値観が一変する事態、あるいはそれまで所有していた財産が無化される事態が繰り返される。一度目は実際のロシア革命。二度目はロシア政府がモドリノの森を不法占拠の土地として没収しようとして。


これらの流れも踏まえて、この物語にでてくる森に住む「怪物」とは、いったい何を意味するのか?
まだ一度しか登場してきておらず、2度目に喜劇として現れるもの、、、

革命、、、 帝政、、、 資本主義、、、

わからないが、この問いかけは意味深長だ。
プラモラル

プラモラル

公益社団法人日本劇団協議会

ザ・スズナリ(東京都)

2013/07/24 (水) ~ 2013/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

そつがない
現代演劇のお手本のような脚本・演出。

上手く構成され、基本を押さえながら、そこからの逸脱も計算されて行われている。
社会への批評性もある。多義的に様々な解釈ができるようにもなっている。

また、演劇の嘘を相対化する視点もあり、旧来の「演劇」という枠こ越えて演出が為されているようにも見える。

だが、それらの巧妙さやそつのなさは、逆から見れば、
許された範囲での逸脱、破綻を取り込んだ上での予定調和にも見える。

評価されてしかるべき作品だと思うが、
個人的には、そつがない作品にはあまり惹かれない。

(最初、満足度★3にしましたが、やはり作品の批評性の強さに★4に変えました。)

ネタバレBOX

社会的・個人的な要因が、様々に影響し合って、狂気的な事件は起き、暴力は発露されるということが描かれていて、とてもよかった。

理由なき犯罪と言われるものの多くは、実際はには理由があって起こっていることで、その点を認識しないと、すべては自己責任だとする政府の施政の責任逃れに無意識的に加担することになる。

ただし、すべては政治のせいだとする意見にも問題がある。犯罪には、ある倫理を飛び越える個人的な狂気というものが必ず存在し、その引き金がなくしては犯罪的な事象は起こらない。

その引き金には、個人の欲望が大きく影響していたり、政治に限らない他者から受けた不満などが影響していたりもする。

これらのことが様々に絡み合い、影響しあって犯罪というものは起こるのだろう。

この作品でとても印象的だったのは、
子供がいじめを受け、その復讐のような形でいじめをした子供の一人を傘で何度も殴り、失明させてしまったという母親。
この母親を犯行に、狂気に導いたのは、単に子供がいじめられているということへの憤りだけではない。彼女自身が、夫から言葉の暴力を日々受けていて、そのストレスがその犯行に影響している。
また、その夫は、妻の両親から様々な批判を受けていて、その不満が妻への言葉の暴力に繋がっている。
しかも、その両親がその夫を批判している理由は、社会通念から言ったら至極まっとうな批判であり、その批判自体は暴力とは言えないだろう。ただし、夫からすれば、それがいくら正論であっても、彼にとってはそれは暴力としか見えていない。

このように、様々な要因が絡まり、暴力は発露する。
それも、ドミノ倒しのように、その暴力は連鎖し、弱い方に流れる。

事件になった当事者同士の問題だけで見たら、その犯行は単純な狂気としてしか認識されなかったり、又は、単純な因果関係だけを指摘されて、理由づけされてしまったりするが、それを細かくひも解いていくと、そこには様々な理由が影響しあっている。

このように様々な要因が複雑に関連して犯罪は起こるが、これは必ずしも犯罪に限ったことではない。社会で起こっている事象は、様々な因果関係が複雑に影響し合い起こっているものだ。そして、それは個人についても同様のことが言える。
虚人の世界

虚人の世界

公益社団法人日本劇団協議会

劇場MOMO(東京都)

2013/07/19 (金) ~ 2013/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

文学的、、、
何重の意味でも、評価が難しい。

安部公房に似た感触。作家の理性によって統御された、寓意に満ちた、狂気の世界。

言語で構築されている舞台を2時間近く観るのはキツかった。
それでも、役者さん達は実力派、演技が素晴らしかった。

ネタバレBOX

言語・理性で構築された狂気の世界。
おそらく読み物として読めば、より面白いのだろうが、舞台で言葉ありきのものを2時間近く観るのは正直辛い。

非現実的な物語は、寓意に満ちていて、その寓意も単純なものではなく、ある意味が途中で反転したりもする。
そのため多様な解釈を生む部分もあるが、暗に意味しているものは概ね規定されている。

主人公は、事故をきっかけに、「虚人」が見えるようになってしまう。
その虚人の正体は最初わからないのだが、物語が進むにつれて、
陰口や悪口などのような、世の中に存在する悪意のようなものの形象化した姿、またはそれに染まった人のことだとわかる。
反対に、主人公は、虚人が見えるようになるにつれて、「人」の姿が見えなくなっていく。

途中、主人公は、罵りの言葉を吐くことで、その虚人を<内破>させる(消す)ことができると気付くが、その虚人を内破させる言葉を、姿の見えなくなった妻に対して無意識に吐いてしまう。
このシーンにはゾッとした。人間は無意識に、そのような暴力を行使してしまうと思ったからだ。

虚人を、つまり人間の悪意を、よく見えるようになってしまった主人公は、それを遠ざけ清らかな精神になったかと言えば、そうではなく、むしろ自分こそ、その虚人そのものだと気付いていく。
他人の悪意に敏感になるということは、自分の中にある悪意にも敏感になるということか。
人が見えなくなったのは、人を人として見なくなったということか。
人でなくなったということか。

更に、ラストシーンでは、
「今度こそ帰ろう あの悪意に満ちた なつかしい世界へ」と言いながら、ビルの屋上から飛び降りる(ように見える)。
舞台上では、それまで「虚人の世界」と出ていた文字が、「人の世界」へと変わっている。
「悪意に満ちたなつかしい世界」こそ、人の世界なのだ。
だが、そこに帰るとは?
主人公は死を選んだのではないか。
死んで、人間の悪意を見なくてもいい安寧を手に入れたいということか。
ということは、その死は、生命の死ではなく、ある精神の死を意味するということか。
精神を殺し、何かを見ないようにすることで、人の世を渡っていけるようになる、元の自分に戻るということか、、、

解釈は多様に存在するのだろう。
冒した者

冒した者

世田谷シルク

アトリエ春風舎(東京都)

2013/07/16 (火) ~ 2013/07/18 (木)公演終了

満足度★★★★

なんとも、、、
(満足度★4は、戯曲に依るところが大きいです。)

三好十郎の戯曲が本当に素晴らしかった。
戦後日本社会の話。
戦争の傷も、表面にはかさぶたができ、徐々に癒え始めているように見えながら、その下では、ますます化膿が進んでいるという社会状況を、とても上手く描いている。
そして、その膿はとうとう癒えることなく、観客のいる今現在まで存在し続けている。

今回の公演は、試演会ということで、
役者さんの中に台詞が入っていないなど、まだ未完段階での上演。

正直、演技も演出も、この段階では良いとも悪いとも、何とも言えない。

ネタバレBOX

今の段階では、演出の着地点が、どこを目指しているのかよくわからないので、何とも言いようがないのだが、、、

ひとつだけ思ったのは、戯曲やその言葉が極めて強い作品なので、セリフがきちんと聞きとれない部分は、集中力が落ちてしまった。
正攻法的な意味では、セリフがきちんと聞きとれる方が良いと思った。

ただ、そうは言っても、もう一方で、戯曲が強い作品だからこそ、むしろ戯曲・言葉に頼らない演出作品が見たいと思ってしまう。理想としては、後者を望む。矛盾することを言って、すみません。
かなかぬち

かなかぬち

椿組

花園神社(東京都)

2013/07/12 (金) ~ 2013/07/22 (月)公演終了

満足度★★★★

芸能の血
なんと言っても、野外劇はそれだけである種の興奮がある。

野外劇であることも含めて、かつての河原乞食が行った芸能とは、本来こういうものだったのだろうなと思いながら拝見した。(この作品の中にもそういう芸能一座が出てくるので。)
もはや形式化され、高尚なもとして崇められている能や歌舞伎などよりも、このような芝居こそ、日本の伝統芸能と呼ぶべきなのではないか。

物語としては、、、中上健次が外波山文明に書いた戯曲であり、中上唯一の戯曲らしいが、、、それほど魅力を感じなかった。
だが、それは戯曲のせいかどうかはわからない。
野外劇ということで、全体の雰囲気で酔わされたし、群集的な演出には惹きつけられたが、個々の演技にグッと気持ちを持って行かれることはなかったから。

ゼロ・アワー

ゼロ・アワー

やなぎみわ 演劇 プロジェクト

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2013/07/12 (金) ~ 2013/07/15 (月)公演終了

満足度★★★★

アイデアが素晴らしい
史実を元ネタにしつつ、想像力によって作り上げたフィクションのアイデアが、圧倒的に面白かった。
ただ、芝居としては、演出なども、それほど面白いとは思わなかった。

(後日、追記するかも、、、)

ネタバレBOX

観客一人一人に小型ラジオを配り、そのイヤホンから流れてくる声に意識を向けさせるなどの工夫がなされていた。「声」というものが重要だということなのだろう。だが、そういう部分で感性が刺激されたという印象はない。ラジオから届く声は、客席全体に同時に届いているので、ラジオを持たせるという特殊な演出の効果が活きていたようには思えなかった。

また、英語が理解できる人は、声などに意識を集中して、感性によって、観劇できたのかもしれないが、私は英語が理解できないので、むしろ字幕の「文字」に意識が行ってしまい、言葉で作品を理解している部分が多かった。

総じて、感性を刺激させるような演出が様々になされている割に、観劇体験は戯曲ありきの古典的な芝居を観たという印象。

それでも、この物語のアイデアは圧倒的に面白い発想だと思った。
百年~風の仲間たち

百年~風の仲間たち

新宿梁山泊

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2013/07/11 (木) ~ 2013/07/14 (日)公演終了

満足度★★★★

今の社会にこそ問う作品
ネット右翼が声高に叫び、嫌韓デモなどの排外主義・民族差別が大手を振って行われている今の社会状況に、この作品が問いかける意味は大きい。

在日を巡る、極めて複雑な状況が描かれている。

特定の立場からの政治イデオロギーを喧伝するような作品ではないので、多くの人に観てほしい内容。

ただ、演劇的には、ドラマツルギーよりも、在日問題をめぐる情報の提示の方がまさっている印象があり、そういう意味では絶賛はできない。
それでも、そういう問題に普段関心のない人にとっては、その情報自体がひとつのドラマだと感じられるかもしれない。実際、事実に基づいた物語なので、強い話ではある。

ラストは本当に素晴らしかった。
ラストの大団円のためにそれまでの芝居があるという印象。

ネタバレBOX

演歌は、韓国併合(韓国の植民地化)によって、文化の融合的なものが生じた結果の産物であるというような内容から始まる。
(この点は詳しく知らない情報だったので、とても興味深かった。)

そこから、様々な在日を巡る複雑な問題が描かれる。

例えば、名称の問題。
在日コリアン、在日韓国人、在日朝鮮人、在日韓国・朝鮮人、、、、など。
コリアンは英語だから使いたくないという意見や、韓国人と呼ぶ場合北朝鮮籍の人はどうなるんだという意見、韓国は国名であり、朝鮮は民族名であるから、韓国朝鮮人という言い方はおかしいなど、、、名称ひとつとっても、極めて難しい問題である。作品では触れられなかったが、韓国・朝鮮人という名称に対して、文学者の金石範は、間にある「・」こそが38度線を、分断を、意味するためにその名称は使いたくないという。
では、何と呼んだら良いのか、、、(この文章では便宜的に〈在日〉と記す)
この作品では、大阪の猪飼野が舞台のため、「在日関西人」「在日大阪人」という呼称がいいという話になる。

また、済州島の4・3事件についても語られる。長らく韓国政府によって隠されてきた虐殺事件。韓国では長らくタブーだったため、在日の作家である金石範さんの『火山島』によって公に知られるようなっていった事件だ。(金石範さん自身は実際の体験者ではないため、その著書は聞いた話を基にしたフィクション。)

さらに、韓国が軍事独裁政権だった時代に、自分のアイデンティティを求めて韓国に渡ったが、韓国でも「半チョッパリ(半分日本人)」と蔑まれ、更には、軍に捉えられ、北朝鮮のスパイではないかという疑惑のもとに、ひどい拷問を受けたという人物も出てくる。(小説家・李良枝さんのことや、徐勝さんのことなどが重なる。)

北朝鮮への帰還事業についても触れられる。当初は、多くの在日は(日本人のインテリも)北朝鮮こそが正義だと思って疑わなかった。だが、今や、北朝鮮と韓国の立場が逆転している。そのような問題も提起される。

朝鮮戦争についても触れられている。日本の戦後復興は、朝鮮戦争に軍需物資を供給する朝鮮特需によってその端緒が開かれたのであるが、その特需に乗らないと生きていけない在日の姿。鉄クズを拾って生活を立てていた者は、その鉄クズが、同胞を殺す武器に変わるということをわかっていても、それを辞めるわけにはいかない。(当時は、その問題で、在日同士で大きな対立があったそうだ。)

また、国籍の問題。韓国籍、北朝鮮籍、日本籍(日本人に帰化)の問題。

在日は、のんきに生きている日本人とは比べ物にならない大きなものを背負って生きている。その100年の葛藤を、様々な角度から示すために、どうしてもあれもこれも詰め込まざるを得なかったのだろう。ある意味では、仕方がないことであるし、作家の自意識とは違う部分での欲望だと思うので、批判的に述べるのは気が引けるが、それでも、やはり舞台としては詰め込み過ぎで、ドラマとしての面白さには欠けたと言わざるをえない。在日問題の幕の内弁当。入門書を読んだという印象。

そうは言っても、様々な差別や社会状況に翻弄されながらも、強く生き抜く在日猪飼野人(在日関西人、在日大阪人)の姿はやはり感動的だ。

ラストの歌による大団円は本当に素晴らしかった。
ラストシーンのためにそれまでの芝居があったように感じる。
トーキョー拾遺【全ステージ終了しました、ありがとうございます】

トーキョー拾遺【全ステージ終了しました、ありがとうございます】

ゲンパビ

百想(re:tail別館)(東京都)

2013/07/10 (水) ~ 2013/07/15 (月)公演終了

満足度★★★★

現代的な感性
個人の日常という「小さな物語」と、社会などの「大きな物語」との関係がテーマとなっている。

作・演出・演技、どれもとても現代的な作品だと思った。
役者さんの演技がとても良かった。

(満足度は、観劇の印象では★3つですが、この方向を突き詰めたら、凄い作品ができるのではないかとも思うので、期待を込めて★4つにします。)

ネタバレBOX

個人の日常という「小さな物語」と、社会などの「大きな物語」との関係がテーマとなっている。
岡田利規/チェルフィッチュの「三月の5日間」と近い問題意識。
登場人物たちの個人的な生活の断片が切り取られているが、
その背景では、選挙演説が聞こえてきたり、都議選のことが何でもない会話に一瞬だけ出てきたりと、社会的な問題が通底音のように意識されている。
そして、そのそれぞれの「小さな物語」も、別々のものに見えても、実は、様々に繋がり合っているということが示されている。

三澤さきさん演じる〈川口よど美〉は、バイト先のライブハウスで終電に乗り遅れ、渋谷から自宅のある雑司ヶ谷まで歩いて帰ることになる。ここで、普段電車で移動している時には、別々の都市としてしか見えていなかった町が、実は繋がって存在しているという当たり前の事実に気付く。そしてその部分の総体として東京という大都市が形作られているということにも気付く。

これは、登場人物たちの日常は、それぞれに独立したもののように見えてもそれぞれに繋がり合い、関係し合っていて、その総体として社会は動いているということを暗に意味しているのだろう。

そこで描かれる個々の物語は、微妙な人間関係のズレのようなものを扱っていて、その場面も、プライベートな空間でも、パブリックな空間でもなく、セミパブリックな空間が多い。
このセミパブリックな空間での人間関係というのが、とても現代的な人間関係を象徴している。心を開ききった上での交流がある訳ではなく、どこかで常に遠慮したような、探り合っているような関係でありながら、その奥には極めて私的な欲望が渦巻いている。

そのような微妙な感じを、役者さん達がとてもよく演じていたと思う。
特に新さなえ役の椎谷万里江さんは、演じている感じがしないような自然さがとても印象に残った。他の役者さんたちは、逆に、演じている良さがとてもよかった。

観た直後は、あまりピンときていなかったが、振り返って考えれば考える程、面白い作品だったと思う。

だが、やはり観た直後にピンとこなかったのは、このようなそもそもが微妙な人間関係を描くというのは、感情を吐露するというような強い演技を必要としないため、舞台としての強度を出すにはとても難しいものがあるのだと思う。それでも、この方法を突き詰めて作品化できたら、今までにない凄い作品ができるのではないかという期待もあるので、ぜひその方向で進んでいただきたい。そういう作品を観たい。

余談だが、ドキュメンタリー映画監督のフレデリック・ワイズマンは、セミパブリックな空間を捉え、見つめることで、目には見えない社会的制度や構造をあぶり出す。演劇におけるフレデリック・ワイズマン的手法というようなものが確立できたら、そうとう面白いと思う。
(私が不勉強なだけで、既にそういう演出家もいるのかもしれないが。)
ぼくなんて好きにならない君が好き

ぼくなんて好きにならない君が好き

明治大学実験劇場

明治大学和泉キャンパス・第一校舎005教室(東京都)

2013/07/04 (木) ~ 2013/07/06 (土)公演終了

満足度★★★★

今後に期待大!
山岡太郎さんが関わった作品で、私が観た中で、一番面白かった。

大学での新人公演のために用意された作品でであるという状況・条件を最大限に利用して脚本・演出が為されている。そういう意味では、学生にしか作れない作品であるが、その強度は学生演劇の域を出ている。

しかも、社会意識のとても強い作品でもある。
ただ、その社会批評さえもエンターテイメントの道具になってしまっているところがあるので、その点をどう評するかは難しい。
単に物語を彩る材料にしているという以上の脚本ではあるが、
その問題意識を深めて脚本ができているとも言えない。この点は難しい。

ネタバレBOX

2013年7月15日14時6分、東京駅連続死傷事発生、という設定に、
秋葉原事件のことを想起したが、それは早計で、物語はその期待を裏切る。
別の社会的事象が物語に投影されている。

明大の「実験劇場」は、大学と通じていて、更にその裏では国家権力とも繋がっているという物語設定。その国家の意図で、実験劇場は組織されている。「役者になるということは、徹底して自己を否定し、他人を演じるためのからっぽな身体にならなければならい」という洗脳が役者訓練として為される。そうして訓練された役者は、自我を捨て、国家的な不都合で隠したいイベントや不祥事などがある時に、わざと事件を起こし、国民の意識を逸らせるためのテロリストとして利用される。

その実験劇場に、何も知らずひょんなことから入ってしまった主人公:木下キイチ。母のいない家庭で育ち、自分は普通ではないというコンプレックスから、「普通」であることに必要以上に固執する。その為、実験劇場には洗脳されなかったのだが、普通であることを守るため(恋人を守るため?この辺がちょっとよくわからなかったのですが、、、)、脅しに負け、結果として実験劇場の指令に屈し、テロ事件を起こすことになるという話。

一見、荒唐無稽な話のように思われるが、
今の社会では、「自我を捨てることで苦しみから逃れ、自分のためではなく他者のために働くことで社会はよくなる。」というような東洋思想的、スピリチュアル的な考え方が、巷に溢れている。その考え自体は悪いことととも言いきれないが、問題は、ブラック企業と言われる会社などが、この論理を社員教育に利用しようとしている(参照:斎藤貴男『カルト資本主義』)。
また、ある都合の悪い政治的問題を隠す為に、別の政治的情報をリークすることで、国民の意識を逸らすというやり方は、為政者の常套手段である。ささすがに、テロまでは起こさないだろうが、このような情報操作自体は実際によく行われている。
更に、「普通」であることを演じ続け、ヘタに目立ったりして、ある集団から排除されないようにするというのは、最近の若い人には顕著にある傾向だと言われている。
これらの社会問題への批評がこの脚本に込められているのではないか。
素晴らしい視点だと思う。

ただ、それらの問題は、物語の展開と共に深まることはなく、テーマとして出てきても単にそのまま終わってしまう。それが少々残念だった。物語の中心テーマである「普通」という問題でさえ、展開はしても深まっていくという印象はない。悪い言い方をすれば、社会批評がエンタメの道具になってしまっている。

それでも、新人公演を演じる1年生のために、明大の実験劇場に入るという実際の現実と、「役者とは自己を空白にして他者を演じることなのか?」という役者自身への問題提起と、それらが社会的な問題とも重なっているという3層のことを、シンクロさせて脚本を書き、実際に演じさせるということは凄いことだ。

演出面でも、都会の雑踏の中で、顔も名前もわからぬ匿名の人々が東京駅を往き交うという場面の演出など、本当に秀逸。この場面は冒頭と最後に繰り返される。

また、まだ1年生での初舞台だから、細かい演技で魅せることができないからと判断したのかどうかはわからないが、演技の上手い下手とは関係ない若者のエネルギー自体を舞台上に乗せるということに成功している。それによって、1年生が初めて舞台に立って作ったという素人くささはほとんど感じなかった。

脚本も素晴らしいが、演出もかなりの力量。

役者として面白かったのは、新人公演で上級生を褒めて申し訳ないが、宝保里実さん。(駄目なダーウィン社『いのちだいじに』で少年を演じていた役者さん)強く惹きつけられるものがあった。
1年生たちのエネルギー溢れる演技も、初舞台にかける意気込みも、素晴らしかった。

山岡太郎さん、ならびに実験劇場の活躍は、今後も眼が離せない。

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