cocoon 公演情報 マームとジプシー「cocoon」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

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    役者の演技で見せるというより、舞台全体をつかった動きで描き出すその劇世界には独特のものがあった。抽象画を見ているようなイメージ。

    ただ、前衛というよりは、最新のおしゃれという印象。
    何らかの本質に至るために新たな方法論が模索されているというよりは、面白おかしくするために新奇な方法が採用されているという印象を持った。
    その印象が邪魔して、どうしてもその劇世界に馴染めなかった。

    おしゃれ、と言っても、内容・テーマなどは重厚なもの。
    そういう点では真摯な作家なのだと思う。
    私が批判的に書いているのは、あくまで演出の方法論の話。
    誤解なきよう。

    好き嫌いで言ったら、好きな作品ではないが、
    この作品にしかない強度は確かにあると思った。

    李そじんさんの演技が印象に残った。

    (その新奇さを考えたら☆5、好き嫌いで言ったら☆無、間をとって☆3)

    ネタバレBOX

    舞台の奥で行われている演技をビデオカメラで撮影し、それをリアルタイムで画面に映し出す演出は、特に興味深かった。

    観客は、同じ時空間で行われている芝居を、映像を通して見ることになる。
    それによって、ある部分では生の直接性が剥奪されているにもかかわらず、別のリアリティも付加される。

    その別のリアリティには2つのものがある。

    1つは、距離感。
    舞台表現は、観客と舞台との間に、どうしても距離ができてしまう。その距離は、観客参加型演劇や、極めて小さな場所での公演(例えば「ガレキの太鼓」)などのような特殊な上演形態を選ばない限り、縮まることはない。
    その距離を物理的に縮めるのではなく、ビデオカメラを使って縮める。本来これは、舞台表現に対しての映像表現の特権のようなものだったのだが、リアルタイムでの投影ということで、それを舞台の可能性の中に取り込んでいる。それによって、至近距離で体感するようなリアリティが付加される。

    また、もう1つは、想像力。
    芝居は、目の前で行われる生の演技といえども、つまるところ虚構でしかない。そこにある「虚構を演じている」という嘘くささはどうしても拭い去ることはできない。それを、カメラを通すことによって、嘘を嘘で見えなくする。映像の間接性によって、演劇の嘘を見えづらくする。映画の方が演劇よりは、嘘くささが少なく感じられるのは、まさにこの間接性に依拠している。そして、この作品の場合、設定が過去のために、更にもう一段階間接的になっている。観客は、そのように嘘くささの減った映像により、より映像の中に入り込みやすくなる。そこでは、嘘くささに邪魔されずに想像力の翼を広げることができる。

    と言っても、映像が投影されている画面と同じ空間で演劇は続いているため、観客は、虚構と現実が様々に反転して、それぞれを補強したり、または相対化しながら、不思議な時空間を作り出していた。

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    2013/08/08 10:03

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