cocoon 公演情報 cocoon」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-12件 / 12件中
  • 満足度★★★★★

    よかった
    この演出は観る価値があったと思います。

  • 20130807
    (^・ェ・^)はいけんしました!

  • 満足度★★★★

    最初よく分からなかったけど
    繰り返しばかりで不思議な感じだったからこそ引き込まれました。ほのぼのしたシーン、生死の境の醜態が滲み出るシーン、どちらかが多すぎても少なすぎてもこの話は成立しなかったと思います。

  • 満足度★★★★

    構成、演出力には脱帽
    前半は楽しげに人物紹介がされ、後半にいくにつれ重く苦しくなっていく。そしてリフレインという手法で、同じシーンが悲しみに変わる。
    沖縄の女学生が当時どのような思いだったのか。
    お世話という言葉が多く出てきたが、事実はもっとエグく残酷だったのだろうと想像させられる。
    犯されてしまった女だけが生き残る、その後に死んでしまったのかどうかは語られていなかったが、もう少し希望のあるエンディングを期待した。
    しかしこればかりは事実だから仕方ないのかもしれない。
    終戦記念日の週に毎年行われるプログラムにしてしまえばいいのに、なんて思ったけれど、そういうお勉強みたいなことは主催者は望んでないだろうな、たぶん。

  • 満足度★★★

    見ました
    今日マチ子さんの描く絵柄タッチで、作品全体爽やかなイメージにも見えるが内容は少しほろ苦さが読めたりする。元々会話が少なく、コマの空間から世界を読んでいくような見方をしていたので、今作のメインテーマの戦争とどう向き合い、どう見せるのかと興味もあり見に行った。

    今日さんの描く世界から飛び出してきたような、イメージ通りの役者さん達により、色んなモノがミックスされ冒頭からコミックス原作よりマームの世界観を感じ、作風に違和感もあったけど。

    沖縄戦、ひめゆり等、メインテーマがテーマだけに、結末の行方は容易に想像出来る。どうする事も出来ない残酷な体験を、時に強く、可愛らしく、憤りを超え美しく見せる。
    中身が凄惨であればあるほど、この対比が際立って見え、そこに現代部分を挿入されるとかえって嘘っぽく虚を削がれ、どちらかといえば個人的には苦手な部類に入る。ただ作り手の篤実な思いは強く印象に残った。
    他愛ない会話、四肢、体幹の動き、大海原へ飛び出す様相に涙は出ないが、帰る場所を見つける為にひたすら「走る」行為には胸が熱くなったが、無念な感情を抱きつつ見終わった。10代のそこら辺にいた女子が戦渦の時代に絶望とか喪失、綱渡りのような生き方しか出来なかった無念さとか、その反面、普段、口には出さないけど、日本に生まれ自然と身についた平和への有り難みのようなものなのかな、と思ったり。
    挿入歌の入れ方はそこだけ映像作品みたい。

    8/17 一部修正したつもりでも、感想がまとまりません。
    いろんなモノが入り混じり、心に突き刺さり、未だにモヤモヤ感があります。

  • 満足度★★★★★

    「生きる」ということ、すなわち、「走る」こと、「走り続ける」こと。
    100の言葉をつなげても、この作品から受けた印象・体験は語ることができない。
    演劇でしか表現できない手法で、「戦争」を、そして「生きる」ということを語りかけてくる。
    いや、語りかけるという生やさしいものではなく、両肩をつかまれ、ガクガクを揺さぶられるように、訴えてくる。

    そして、「戦争は悲惨だ、残酷だ」というメッセージにとどまらず、さらにもう一歩、その先へ、現代に生きる者たちへ、「生きる」ことのメッセージを送っていたと感じた。

    ネタバレBOX

    この作品は、いわゆるストレートプレイの演劇とは違い、独特な演出で作品を見せる。
    例えば、過剰な繰り返し、例えば、同じシーンをアングルを変えたり、例えば、回想シーンとは別の、時間を前後させる方法や、時間や空間のレイヤーを重ねていく手法など。

    時間や空間のレイヤーを重ねていく手法では、オリジナルの戦争・沖縄戦に巻き込まれた少女たちを描くだけでなく、現代にまで広げていく効果もあったと思う。
    これについては、先のほうで書く。

    いろんな手法を使うのだが、それによって単にスタイリッシュな印象の中に物語を閉じ込めてしまうのではなく、逆に、ストーリー、テーマ、そして登場人物たちの鮮明にさせていく。

    冒頭、女子高生たちの日常を、同じシーンの繰り返しの中で描いていく。
    繰り返すことで、リズムが生まれ、弾けるような会話と若さが溢れて見える。
    それは、生きていることを実感させる。

    毎日同じような日々が繰り返されていくことと、実はそれこそが、愛おしい毎日であったということの確認でもある。
    そして、それがやがて訪れる非劇を際立てていく。

    さらに、先生の「教師として……」の台詞、生徒たちのそれぞれの台詞や、人物紹介が後半に効いてくる。

    物語の内容(原作の内容)を知っているだけに、最初のシーンから、ぐっと重いモノ感じていた。
    「生きていたい」と叫ぶ、最初のほうのシーンですぐにクライマックスがやってきた。
    しかし、これはあくまでも序盤であり、同じ台詞をスポットを浴びて同じように叫ぶシーンがラストにも訪れるのだが、当然、まったく感じ方が違ってくる。

    物語が進んでいくことで、役者がどんどん登場人物になっていくからだ。
    それは、この作品に限らず、どんな演劇や映画でもあることなのだが、先にも書いたように、回想シーンとは違う感覚で、時間が前後しながらエピソードを挟み込んでいくことの効果も大きい。

    そのことで、例えば、「猫のももが死んだときに涙が出なかった」という台詞、例えば、「どんな人だったか思い出せない」という台詞などが、別のシーンに現れ消えて行くことで、より「意味」が出てくる。同じ台詞の繰り返しなので、実際はわずかな台詞と登場人物の情報のはずなのに、「知っている」感覚が生まれ、より身近である感情も生まれてくる。

    同じような衣装の少女たちに、それぞれの「顔」が見えてくる。
    このあたりは、こうした戦争モノのストーリーの常套手段でもあるのだが、そういうあざとさは感じなかった。
    のめり込んで観ていたからだろうか。

    別の時間や場所のシーンを重ねることは、単に戦争に巻き込まれる前の楽しいエピソードと、沖縄戦での悲惨な状況、残酷さをクローズアップさせるだけに機能しているわけではない。

    現在のどこかの中高一貫の女子高生たちの日常と、沖縄戦で学徒隊として兵士の看護をしている女学生たちが、時空を超えて、クロスしていく。彼女たちの台詞は、すべて現代のそれのままということもある。

    ここは、過去・歴史が単なる点として存在しているのではなく、「現在と地続き」であるということを強く印象づけ、さらに「生きる」ということを軸に、現代に生きる若者たちの「生きる」をも炙り出していたように思う。

    つまり、ラスト近くで円陣になって自決しようとする少女たちが発する言葉「それだったら死んだほうがまし」(正確な台詞ではないが)は、今の世界でも自ら命を絶とうとする人の言葉に重なるのではないだろうか。それは、「生きたい」「生きたい」「生きたい」と叫ぶサン、「生きたいと思うことはいけないのか」という台詞、そうした思いがありながらも自ら命を絶つ人の姿と重なる。生きにくさのある世界。

    沖縄戦の中で、「生きたい」と強く願った少女たちは、その意思に反して銃弾に倒れたり、病死したり、自決の道を選んだりする。現代の日本でも、「生きたい」と強く思っていても、何らかの障害で自らの命を絶ってしまうこともある。それは両方とも「意思に反して」なのではないか。追い詰められ、意思に反してそういう道を「選ぶしかなかった」人たち。

    戦争中と現代では違うではないか、と思う人もいるとは思うのだが、当の本人にとってはその重さは変わりないと思う。

    したがって、最初からずっと発せられる「ここはどこなのか」「いつの時代なのか」にこれらがリンクしてくるのだ。

    「戦争は悲惨である」、もちろんそうだ。

    しかし、この作品ではもう一歩踏み込んで「生きる」ということに焦点を当てたのではないだろうか。

    「生きる」ということは理屈ではなく、「生きる」ということなのだ、ということ。
    うまい言葉は見つからないが、「意味」じゃなくて「意思」なんだということではないかと思う。すなわち、「走る」こと、「走り続ける」こと。

    ラストで学徒兵の少女たちが沖縄の南の海岸を目指して走る姿は、「生きる」ことに向かって走っている姿であり、映像で延々と続く道、沖縄の風景、青い空は、残酷に見えてくる。
    しかし、「走らなくては辿りつかない場所」が「生きる」という場所だということなのだろう。

    「生きるために走る」。しかし、それが叶うかどうかの確約はない。
    だけど、走る。立ち止まらずに走る。あまり考えすぎずに走る。
    それが「生きる」ということなのだ。
    すなわち、「生きる」ということは、「走る」こと、「走り続ける」ことだ。

    タイトルについて少し触れると、「繭」が、少女たちを守る、学校、ガマと象徴的に使われ、主人公のサンをいつも守る同級生の名も「繭」になっていた。
    原作では、同級生の繭の秘密と、「繭」の意味にこの舞台とは少し別の意味合いも持たせていたと思うのだが(男は「白い影」も含めて。舞台ではラスト近くで繭は「ボク」と言っていた)、この舞台では「繭」の意味をさらに効果的にとらえ、「生きる」という決意で「繭」から脱皮していく少女を表現していたように思えた。

    劇中で使われていた今日マチ子さんのイラストはこのための描き下ろしだった。
    ロビーに原画が展示してあり、それを1つひとつ観ていくと、舞台が蘇った。

    繭のように白くて丸い当パンもいい感じ。
    歌のシーン(ギターを使うところ)もグッときた。


    これは、まったく別次元の話だが、劇中で何かの幼虫が嬲り殺されていたように見えた(映像)。表現の手段としてそれは「アリかナシか」と言えば、私は「ナシ」だと思う。特にこういうテーマの作品だけに、ショッキングは、観客の脳内にわき上がるほうが大切ではないかと思うからだ。
  • 満足度★★★★★

    良かった
    リフレインしていく演出方法に初めはとまどいもあったが見て行くうちに癖に。重いテーマを抽象的に描いてく演出で映像の使い方も好み。唯一無二の劇団だと感じた。

  • 満足度★★★★

    現前する凄惨さ
    戦争に巻き込まれて行く沖縄の女学生達を斬新な演出で描き、リアリズムの芝居とは異なる面から心をえぐる、強烈な作品でした。

    序盤は登場人物の紹介をしつつ学校での日常的な様子が描かれ、戦況が悪化しガマで兵隊の看護をすることが決まったところから雰囲気が一変し、絶え間なく動き続ける人々が凄まじい圧迫感を醸し出していました。ガマから出て海を目指して走るシーンは体力の限界まで追い詰めた演技が心理的なリアリティーを生み出していました。

    原作の漫画は未読なので、舞台化にあたっての相違点は分かりませんでしたが、過去の出来事として描くのではなく、現在進行形のこととして感じさせる台詞や演出手法が、リアルタイムで目の前で人が演じるという演劇の形式ならではの表現となっていて、漫画や小説、あるいは映画等では感じ取れないと思われる情感が伝わって来ました。
    ライブ映像の投影や同じシークエンスを何度も繰り返したり、他のシーンに挿入するリフレインの手法が、凄惨な物語を立体的にしていました。

    音楽のヴォリュームが大きいので、役者の声は必要に応じて不自然さを感じさせずにアンプリファイされていましたが、それでも台詞が聞き取り難いところが何カ所かあったのが勿体なかったです。

  • 満足度★★★★

    原作を読みたい
    観始めてすぐに、これは今年一番の作品になるのではないかと思いました。集中力はまったく途切れず、近くにちょっと落ち着きのないお客さんがいましたが、そんなことも一切気にせず見入ってしまいましたが、観劇後はやや心残りというか、惜しいという感覚が残りました。
    (※08/19加筆)原作を読んで、思うところがあり、満足度を★3から★4へ修正しました。

    ネタバレBOX

    三面で砂浜のようなステージ、プロジェクター、リアルタイムのカメラ映像、スクリーンの裏側まで駆使した演出に圧倒されましたが、ワームをチョキチョキするところなどは映像の見せ方、兵士のわめき散らし方の回数などにクドさを感じました。

    本来、淡さの中から読み手が掴み取るはずの部分に濃い色をつけていないか。淡さの先にある部分にまで形を与え過ぎていないか。原作を読んで確かめたいと強く感じました。
  • 満足度★★★★

    必見
    ネバばれ

    ネタバレBOX

    マームとジプシーの新作【コクーン】を観劇。

    この劇団は個人の記憶をつかさどる物語が概ね多いのだが、今作はこれまでの集大成なのか?それとも新しい世界観への挑戦なのか?とんでもない傑作を作ってしまったようだ。今年だけで既に2本も新作を発表しているが、毎回新しい事を試みようとしているのがハッキリと感じられる。
    岸田戯曲賞を取っており、チケットが入手困難、若手演劇人ではほぼトップと言っても過言ではない。今作も追加公演が6回も出たとは驚きだ。

    今作は沖縄戦争でのひめゆり学徒隊の少女たちを描いている。
    http://www.himeyuri.or.jp/JP/war.html

    ひめゆりでの出来事は説明するまでもないので割愛するが、少女たちの何気ない日常から始まり、国の命令による戦争への参加、負傷兵を看護、負傷兵からの暴行、米兵への恐怖、そして自決と少女たちに訪れる様々な運命を反復、リフレインという手法で、徹底的に深くえぐり出していく。
    目を背けたくなるような場面ばかりの連続だが、反復、リフレインという技法が狂気の表現方法と思えるくらいに観ている観客を、演じている俳優をも追い込んでくる。今までならそこで主人公のセンチメンタル的な要素を感じられたのだが、今作に関しては、それを一切排除しているようだ。
    あまりにも惨い少女たちの運命に涙している観客が多数いたようだが、作・演出の藤田貴大はそれを望んでいるのではなく、この出来事を直視せよ!という事を心の底から叫んでいるのである。だだそのような観客がいたのはまぎれもない事実である。
    過去何本もこの劇団の作品を観ていて、毎作個人的要素が強い内容なので、もっと外へ、外へ向かった方が良いのになぁ?なんて思っていたら、全てはこの作品の諸準備の為の様だった気がする。
    今作によって、作・演出の藤田貴大は大きく飛躍するだろう。

    必見である。
  • 満足度★★★

    ...
    役者の演技で見せるというより、舞台全体をつかった動きで描き出すその劇世界には独特のものがあった。抽象画を見ているようなイメージ。

    ただ、前衛というよりは、最新のおしゃれという印象。
    何らかの本質に至るために新たな方法論が模索されているというよりは、面白おかしくするために新奇な方法が採用されているという印象を持った。
    その印象が邪魔して、どうしてもその劇世界に馴染めなかった。

    おしゃれ、と言っても、内容・テーマなどは重厚なもの。
    そういう点では真摯な作家なのだと思う。
    私が批判的に書いているのは、あくまで演出の方法論の話。
    誤解なきよう。

    好き嫌いで言ったら、好きな作品ではないが、
    この作品にしかない強度は確かにあると思った。

    李そじんさんの演技が印象に残った。

    (その新奇さを考えたら☆5、好き嫌いで言ったら☆無、間をとって☆3)

    ネタバレBOX

    舞台の奥で行われている演技をビデオカメラで撮影し、それをリアルタイムで画面に映し出す演出は、特に興味深かった。

    観客は、同じ時空間で行われている芝居を、映像を通して見ることになる。
    それによって、ある部分では生の直接性が剥奪されているにもかかわらず、別のリアリティも付加される。

    その別のリアリティには2つのものがある。

    1つは、距離感。
    舞台表現は、観客と舞台との間に、どうしても距離ができてしまう。その距離は、観客参加型演劇や、極めて小さな場所での公演(例えば「ガレキの太鼓」)などのような特殊な上演形態を選ばない限り、縮まることはない。
    その距離を物理的に縮めるのではなく、ビデオカメラを使って縮める。本来これは、舞台表現に対しての映像表現の特権のようなものだったのだが、リアルタイムでの投影ということで、それを舞台の可能性の中に取り込んでいる。それによって、至近距離で体感するようなリアリティが付加される。

    また、もう1つは、想像力。
    芝居は、目の前で行われる生の演技といえども、つまるところ虚構でしかない。そこにある「虚構を演じている」という嘘くささはどうしても拭い去ることはできない。それを、カメラを通すことによって、嘘を嘘で見えなくする。映像の間接性によって、演劇の嘘を見えづらくする。映画の方が演劇よりは、嘘くささが少なく感じられるのは、まさにこの間接性に依拠している。そして、この作品の場合、設定が過去のために、更にもう一段階間接的になっている。観客は、そのように嘘くささの減った映像により、より映像の中に入り込みやすくなる。そこでは、嘘くささに邪魔されずに想像力の翼を広げることができる。

    と言っても、映像が投影されている画面と同じ空間で演劇は続いているため、観客は、虚構と現実が様々に反転して、それぞれを補強したり、または相対化しながら、不思議な時空間を作り出していた。
  • 満足度★★★★★

    初日
    わたし、事件を目撃しました。
    語れる気がしません。体感しに行ってください。

    アングラ部分は飴屋さんの影響かな。
    いやはや、すごいものをみたぞ。
    これをマチソワやるのは精神的にも肉体的にも厳しそう。
    追加公演も決まったし、後半ボロボロになっていそう……
    お早めに!

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