ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

921-940件 / 3201件中
第23回公演 『福笑いふく子ちゃん』 第24回公演 『cmd+z(リトライ)ダイアリー』

第23回公演 『福笑いふく子ちゃん』 第24回公演 『cmd+z(リトライ)ダイアリー』

劇団天然ポリエステル

シアター711(東京都)

2018/10/24 (水) ~ 2018/11/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

 2作品同時上演企画第六弾“ヒミツの幸せシリーズ”と銘打った今回の天ポリ公演「Cmd+Z
ダイアリー」を拝見。(華5つ☆)少し追記2018/10.31

ネタバレBOX


 凄いのは劇中、タイムパラドクスを明らかにした上で、これを歴史の不可逆性を一切変更しないという初期の目的とは真逆の方法で切り抜けると共に"苛め“という現在最も深刻な問題を通じたドラマの齎すカタストロフィーによって見事にアウフヘーベンして見せた点にある。こうして解を出されてみると、問題解決は、これ以外に無いように思えるのである。この落とし所をこのように設けた所に、この劇団の上手さがある。下北に定着しつつある現在、次に目指すはスズナリか本多劇場辺りだろうか。
 小道具のチョイスと使い方もグー。先ずは、葉子の読んでいるHGウェルスの「タイムマシン」。彼女がHGを略さずに発語している点にも細かい配慮が感じられる。また読書好きの彼女の名“葉子”は言の葉に通じ、ネーミングにも無論意味がある。芥の姓は作中でも触れられている通り、芥川 龍之介に通じ、精進は彼が勝ち組になる為に費やした努力そのものだ。3人娘或いは3博士の筆頭、看板女優のやんえみさんの持っている扇風機や時を刻んだタイムマシンも、駄菓子屋風玩具を用いることでチャラケを演出しつつ、庶民感覚とキッチュな感覚を醸し出し、板上に居るだけで桁を外すことのできる彼女の特性を見事に活かしている。至る所に仕掛けられたこれらの歌舞く技術の高さは、殆どの観客が気付きもしない所に凄さがある。このような小道具とマッチしているのが舞台美術だ。中央奥から手前に迫り出す棺桶のように設置された大きな函その左右に斜めに設えられた階段、左右の壁を形成する衝立と中央の段差との切れ目が出捌けになっているだけのシンプルな作りで、色合いも地味なので、役者陣の衣装ややんえみさんが背負っている可愛らしいバッグが引き立つ。一見、ゾンザイやだらしなさと紙一重の所を計算し尽くして作られているのだ。
 大事なことをもう一つ追記しておこう。葉子の科白に芥を通じて友達ができる迄、彼女は孤立していた時、どんなことを言われようが大丈夫だと考え、そのように生きて来たことが語られるが、恋をし、友を持って初めて、独りになることが怖くなったというような内容の科白があった。このリアリティーの深さは、真の孤独を知る者にしか書けないし理解できない。何故なら、真の孤独とは己が独りであることさえ認識できない一人ぼっちなのであり、即自存在と対自存在が分かれる領域だからだ。サルトルの実存がハイデガーの実存によって救われた部分であるということもできよう。
 新たなシリーズで今後も大活躍しそうな劇団、期待している。
会津藩家老  西郷頼母

会津藩家老 西郷頼母

劇団め組

「劇」小劇場(東京都)

2018/10/24 (水) ~ 2018/10/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

 テクノロジーの発達を意識せず、また滅びゆく幕府に肩入れした松平 容保は、暗君だと思ってきたのだが、個人的には、中々優れた人物であったようだ。認識を新たにするかも知れない。何れにせよ、未知の領域を多く抱える時、為政者が心を砕くべきは、領民の安寧である。そのことに真に気付き実践した所に西郷 頼母の偉さがあった。同時に人が人として十全に生きるに必要なのが、自尊心であるから、生き死にに直結することを賭けて矜りを保つか否かの選択は簡単でないことも、容保及び会津武士の生き様に良く描かれている。(追記後送)

ネタバレBOX

 1853年6月のペリー来航以来、日本は開国を迫る列強の前に上を下への大騒ぎ。翌年3月には日米和親条約調印を機に開国の運びとなった。日本が西欧近代の荒波に晒されることになった訳だ。この当時、英仏を始めとする西欧、ロシア、そしてアメリカは、産業革命やフランス革命の大々的影響を蒙り、民族主義に裏打ちされた経済の膨張から余剰生産物の販路を求めると同時に原材料調達を目指して植民地開拓を盛んに行っていた。
 一方、鎖国によって海外との窓を狭め、海外からの情報にも疎く内政にのみ焦点を絞ってきた幕藩体制そのものの屋台骨が既に劣化していたにも拘わらず、そのことの危険に気付く者が多かった訳では決してない。佐久間象山などの他、琉球を通じて海外情報を握っていた薩摩藩、英国との衝突を通して列強の実力を知った長州藩、龍馬を輩出した土佐藩、藩政改革が早く開明的と看做され薩摩藩とも同盟を結んでいた肥前藩からは大隈重信が出ているが。
明治になってからの藩閥政治を主導したこの四藩のうち、肥前だけは戊辰戦争以降余り討幕運動に熱心だったという訳ではないものの、統幕の中核を為した薩長、殊に薩摩藩の動きが今作に深く関わっている。無論、幕閣の中にも勝海舟、小栗上野介ら優れた人材が在ったが、小栗は若くして殺された。龍馬が世界に目を開いたのが勝の影響であったことは広く知られていよう。
 何れにせよ、ペリー来航から僅か十数年程の間に、日本の歴史は大転換を遂げた。今作は会津藩主松平 容保が明治に至る鳥羽伏見の闘い・戊辰戦争辺り迄を話の中核として展開する。
紅姫物語【ご来場ありがとうございました!】

紅姫物語【ご来場ありがとうございました!】

劇団えのぐ

萬劇場(東京都)

2018/10/24 (水) ~ 2018/10/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

 異種恋愛譚だが、それは妖怪と人との間の恋愛である。(追記後送)

ネタバレBOX

 無論、年齢感覚はまるで違うし差別や偏見など異種であれば起こり得るあらゆる要素が入り込める設定である。無論作家はそれを意識して書いている。二十代最後の作品だから色々埋め込んでおきたいという事情もある。若者らしい繊細な感情と劇団えのぐの持ち味、様々な様態を同時に同空間に保持し続けるという多様性も健在である。現在世界中で起こっている利己主義と民族主義の嵐に対してのアンチテーゼと言えよう。こんな問題が吹き荒れるのは無論近代を成立させた国家主導のイデオロギーが現在も未だ充分に消化されず、問題を増々隘路に追い込んでいるからである。アメリカがトランプを選び、ロシアはプーチンがずっと強権を行使し続け、フランスではサルコジ以降右派が猛威を揮い、中国では習の独裁体制が続き、日本でも安倍の如き無能な狂犬政治が唯アメリカに媚びを売り、追随すれば利益を得られると考えるアホな大企業経営者、官僚、政治屋によって維持され続けている。そして彼らの支配を可能たらしめてているものこそ、メディアや御用学者の垂れ流すフェイクニュースと嘘である。
 今作は、これらの社会悪を異種恋愛譚という強く普遍的なテーゼを通じてあげつらってみせる。その多様な表現と異質性を許容し得る社会的モデルを描くことによって。だからこそ、ここで攻撃されているもの・ことが嘘なのである。
足枷

足枷

ぽんず単独企画

こった創作空間(東京都)

2018/10/25 (木) ~ 2018/10/28 (日)公演終了

満足度★★★★

 旧サニーサイドシアターでの公演。

ネタバレBOX

尺は70分強。この短時間に一応7話を詰め込んであるものの、基本1人芝居+1という形なので衣装換え、場転などの関係から、人数を揃えればストレートプレイとして普通に演じられるシナリオをこのようにして観せているようだ。役者、殊に出ずっぱりの大西さんの頑張りは大したもの。半暗転状態で着替えや身づくろいをするので、舞台裏が見えるようで興味深い。内容的にはスター球団のスター選手が野球賭博に関わったと報道されたことで、大騒ぎになってからの顛末が描かれるのだが、サイドストーリーとして子供の誕生が関わってくるので話がギャンブラーのうわついたレベルから一挙に現実の深みを獲得する。かなりギャンブルに纏わる単語も出てくる作品だから、ギャンブル好きには、身に積まされることもあるかも知れない。
野外劇 三文オペラ

野外劇 三文オペラ

東京芸術祭

池袋西口公園(東京都)

2018/10/18 (木) ~ 2018/10/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

 ネットで調べたら当日券は完売になっていたので18時ちょっと過ぎに公園前に設置された当日券扱いテントへ赴く。スタッフの対応は的確で合理的、取り敢えずは既にかなりの人が並んでいる列の最後列に並ぶ。途中、既にチケットを持っている人は並ばなくても良い旨、トラメガを用いてスタッフが何度も案内してくれたり、当日券が買えなかった人々に無料観覧エリアで座る際に用いる貸出シートの配布をしてくれたりと気配りも素晴らしい。
 内容、質を重視する総合ディレクター宮城さんの見識の高さもあって、舞台自体も素晴らしいものであった。野外公演の持つ野性味(都会なら都会の持つ)が感じられる舞台は、通常の小屋で観るのとは異なる演劇体験をさせてくれたし、役者陣の力、異化をこととする原作者ブレヒトの特性を活かし、役者陣の個性、能力を引き出した演出家の力量と観察力を含め、実に優れた舞台、演劇の楽しさを感じさせてくれた。(追記後送)華5つ☆

ACT GAME 第五回戦

ACT GAME 第五回戦

ACT

上野ストアハウス(東京都)

2018/10/24 (水) ~ 2018/10/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

A,B,C3チームによるコンペ。勝敗は観客の投票で決まる。ルールは冒頭2Pは同一脚本、稽古時間は60時間以内、上演時間は45分以内、役者の数は男4、女4、舞台セットは箱馬8個等。
 板上は、奥にかなり大きな衝立が置かれている外、板客席側の前半分に箱馬が規定数置かれているだけだ。出捌け口は、衝立で目隠しをされた左右になる仕掛けだ。B,C対決を拝見。「勝手にしやがって下さい」追記後送

ネタバレBOX

「勝手にしやがって下さい」
タイトルが揮っている。ぶっきらぼうで命令口調の前半から丁寧語への移管が齎す何とも言えぬ桁外しの脱力感と可笑しさの醸し出す絶妙感が良いのだが、話は男の目から見られた女性という謎を巡る上質な喜劇。
ルリコは結婚する。披露宴に招待されたのは、親友の歌穂、彼女に関わりのあった男4人(うち2人は最初の彼、最後の彼、彼女へ片思いの童貞君、そしてセフレ)。追記は後程。
ACT GAME 第五回戦

ACT GAME 第五回戦

ACT

上野ストアハウス(東京都)

2018/10/24 (水) ~ 2018/10/28 (日)公演終了

満足度★★★★

A,B,C3チームによるコンペ。勝敗は観客の投票で決まる。ルールは冒頭2Pは同一脚本、稽古時間は60時間以内、上演時間は45分以内、役者の数は男4、女4、舞台セットは箱馬8個等。
 板上は、奥にかなり大きな衝立が置かれている外、板客席側の前半分に箱馬が規定数置かれているだけだ。出捌け口は、衝立で目隠しをされた左右になる仕掛けだ。B,C対決を拝見。「母に酷」追記後送華4つ☆

ネタバレBOX


「母に酷」
 大方の観方とは大分異なるだろうが、単に家族の問題とは捉えなかった。要は幕末から明治にかけて急遽輸入した西洋近代の国家モデルを構築する為に用いられたイデオロギーの本質が、弱い立場の庶民の中でも最も弱い社会的弱者である養護施設出身者家庭の中の娘に現れた社会的歪みとして捉えたからである。その意味ではとても深い問題を提起する作品であるが、重すぎてこのようなコンペで得点を稼ぐのは容易ではあるまい。
 何れにせよ、追記は後程。
Lady Bunnies Burlesque live vol.2  ~Halloween Party~

Lady Bunnies Burlesque live vol.2 ~Halloween Party~

Lady Bunnies Burlesque

渋谷スターラウンジ(東京都)

2018/10/24 (水) ~ 2018/10/24 (水)公演終了

満足度★★

 カリガッ。お情けで☆2つ。

ネタバレBOX

プロデューサー、演出は何やってんだろう。制作の問題というより、プロデュースそのものがなっていない。開演は20分遅れ。MC等が下手。おねえ言葉を使い何やらネオゴシックかレトロ調の化粧を施し、イメージは時計仕掛けのオレンジに出てくるアレックスを混ぜて2で割ったようなキャラを演じているようなのだが、芸は3流半以下。TVのヤラセそのもののようなレベルのギャグばかり。おまけに言葉だけで大衆を制御しようとするものだから、浅過ぎてシラケ切ってしまう。何せ、「最高、最高!」なんて連発する訳だから、お頭の中身が空っぽだと誰もが見抜けるレベルなのに、喜んでる馬鹿が結構いるので驚く。これも演技だとでもいうのだろうか? 馬鹿にしか見えないが。
因みにダンスも3流、シンガーはセミプロ級の声を持った者も居たが、3人のシンガーの内、声に感心したのは1人だけ。だが、彼女はリズム感がイマイチ。自分の身体の内側から湧き出してくるようなリズム感を持ち合わせていない。彼女より多少リズム感のある子は声がイマイチ。張りが無いのは、シンガーとしては体が細すぎて声に伸びがないからだろう。最後の方に登場した子は1回目の公演にも出場していたという子だが、スケールの大きさに欠けると皆一長一短。最初に挙げたようにプロデューサー、演出も全然ダメ。MCや撮影スタッフ等との打ち合わせもキチンとはやっていないのだろう。照明や音響も設備が悪すぎてオペレーションの自由が利いていない。おまけに20分押しても一言も無いのは、プロとして恥ずかしいと思わないのだろうな。観客のレベルも低かった。明らかに40代半ばほどのおっさんが、この中では最もまともな芸を披露しているシンガーが歌っている真っ最中に大画面の携帯だか、やや小型のタブレットだかを取り出してぺカぺカ光らせている。無論、前説で禁止されていたにも拘わらずだ。こんな客で溢れるのもハッキリ言ってあらゆる意味でプロの仕事とは言えないからだろう。
 まあ、主催の彼らを多少擁護するなら、渋谷という街の劣化を上げておくべきかもしれない。自分がガキの頃、渋谷は庭のようなものだったから随分この街で遊びもした。その頃は、未だ無名だった井上陽水が、知り合いがやっていたライブハウスで歌っていたし、百軒店にあった店でハッピーエンドや頭脳警察のライブなんかも良く聞いていた。この店今でも在るかも知れないが、内容は変わっているだろう。ハッピーエンドのメンバーとは、休憩時間中良く一緒に話もしたものだ。要は一流の連中が演っていたし、観客の我々も自分達が世の中を変えると自負していたものだ。ホントに久しぶりに行ってみたら、渋谷はそういう自負は愚か、オリジナリティーが全くない、4流以下の下司な街になっていた。
マイディア・ディアマイドール

マイディア・ディアマイドール

夢幻舞台

中野スタジオあくとれ(東京都)

2018/10/19 (金) ~ 2018/10/21 (日)公演終了

満足度★★★★

 開演前に中程から奥は幕で仕切られている。出捌けは上手、下手共左右の手前に広い黒幕、奥に狭いそれが設えられ、中程から奥は、画家のアトリエ、高くなった中央奥にはイーゼルと椅子が据えられ、壁には様々な様式の絵が飾られている。手前はフラット。

ネタバレBOX


 嘘の大嫌いな女王が支配する国。其処に流れて来た人形師、ライアと彼女が最初に作った人間人形ニコ、そして弟人形リグ。お隣さんで絵描きのネイバーフッド、女王ロード。登場人物は以上だ。
 ニコは、従順で余り冒険をしたがらない。ちょっと引っ込み思案な所も見られるが則を越えないタイプ。それに引き替え弟のリグは活発で冒険心に富み、何にでもチャレンジするタイプで同じ人形師が作った作品であるにも拘わらず個性が全く異なる。オープニングは首輪をされたニコの独白シーンから。この国の掟である、嘘をついてはいけないこと、破れば恐ろしい刑罰が待っていることなどが語られる。作り手であるライアとニコの対話の後、新たに弟が完成したことが告げられ、誕生祝いのパーティーが開催されるが、真夜中に大音響で流される音響に隣人のネイバーフッドが怒鳴り込んでくる。口論を収める為にパーティーに彼を参加させてしまうライアだったが、パーティー直前にネイバーフッドに出会い人間らしさや自由意思の意味する所を聞かされていたリグは、彼に預けられ外の世界を見ることになる。ある日、大衆に芸術の持つ歌舞く機能を蔓延させない為に、彼の作品を毎年買い上げて来たロードから連絡が入る。頼んでいた作品の督促であった。苛立つ彼女は、電話だけで飽き足らずネイバーフッドのアトリエを訪ねてくる。慌ててリグを別室へ逃した彼に女王は執拗に迫る。というのも女王は芸術はマヤカシであり人々をその巧みな表現で誑かす嘘そのものだと判断しており、これまでも彼女自身で芸術家を排除・作品を駆除してきても居たからである。但し、これには例外があった。ネイバーフッドはある計画を持ち掛けていたのだ。その計画とは、ネイバーフッドが他の芸術家たちを次々に消してゆくことを条件に、彼とその作品だけは庇護するというものであった。女王はこの件を呑んで彼の作品を庇護してきたのであるが、作品提出の遅れを梃に腹立ち紛れに彼を処分してしまうつもりになっていた。
 一方、女王は督促に訪れる序に、ライアの屋敷で留守番をしていたニコを襲い機能停止に追い込んでいた。アトリエにやって来た女王は、機能停止したニコを投げ出し、久しぶりにリグに会いに来ていたライアを含めアーティストや人形を破壊しようと向かってくる。これを受けたアーティスト、人形軍団は迎撃、ネイバーフッドは右目を潰されるものの、アーティスト集団が勝ち彼らは自由を得た。
 一見ファンタジーの作りだが、現在日本が置かれている嘘蔓延社会やメディアやネットでのフェイク、情報の組織的隠蔽と組織に属する下司共の利害絡みの虚偽や、正当な者・判断への嫌がらせ、脅し、意図的フェイク、誹謗、中傷等々を踏まえているのは、ベクトルを変えアイロニカルに提示した今作の健全を見れば分かる。
今年は、フランスの5月革命に刺激され、メキシコで起こった1968年10月2日のトラテロルコデモでの大虐殺事件から50年の節目でもある。更に悪辣さを増し、猛威を揮う現代資本主義のあからさまな収奪や嘘によって事実を隠し、彼らの利害だけに誘導しようと日々暗躍する権力者、為政者、資本家などの下司に対し、新たにメキシコ大統領に就任するのは、AMLOの愛称を持つエンリケ・ペーニャ・ニエト。トランプの移民政策に真っ向から反対し、アナルコサンジカリズムの旗を掲げたあの頃の民衆の声を代弁すべく立ち上がったAMLOのように、異議申し立てをどんどん拡大すべきであろう。分断されぬよう、大同団結を図り、全世界で真に自由な人間とあらゆる生命を守る為に行動しよう。そう年寄にも思わせる健全な作品だ。
我が日本では、沖縄の民意を潰す為にヤマトンチュの利害を利用しようとするかに見える現政権だが、ヤマトンチューの顔に泥を塗るな! と言いたい。理のあるのは、沖縄である。でああれば、手を引くべきは政府、アメリカである。僅か国土の0.6%しかない沖縄に日本の米軍施設の70%以上が集中しているのはおかしい。ホントに日米安保が必要だというなら、沖縄に集中させるのではなく、そう主張する人々の居住区に米軍基地と米兵を配置すれば良いのである。こういう当たり前の議論をすべきであろう。
一花心 -ヒト・ハナ・ゴコロ-

一花心 -ヒト・ハナ・ゴコロ-

演屋

アトリエだるま座(東京都)

2018/10/20 (土) ~ 2018/10/21 (日)公演終了

満足度★★★

 女心を巡って賭けをした友人3名。果たして女性の本性は浮気なものか? それとも貞淑なものか? 

ネタバレBOX

西園寺家令嬢 百合恵(姉)と架純(妹)は各々婚約者を持ち近々結婚する予定だ。各々の婚約者は、士官(衛と陸)である。ところで、この士官らの共通の友人が保安官を務める宮崎だ。宮崎は、女というものは、浮名を流す生き物、必ず浮気をすると主張するが士官ら2人は自分の婚約者に限ってそのようなことは無いと主張、真っ向から対立した。そこで実験をすることになった。士官2人は、貞節を信じることに賭け、保安官は浮気をする方に賭けた。メイドの瀧山を巻き込んで実験が始まるが。
 結果は僅か1日で出た。勝ったのは保安官。その顛末は、男も女も本能に操られる獣に過ぎない、ということか!? との結論をそのまま言ってしまうのは、少々・・・、というテイストを示してくれる作。
イマジナリーライン

イマジナリーライン

タッタタ探検組合

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2018/10/17 (水) ~ 2018/10/21 (日)公演終了

満足度★★★★

 観てのお楽しみ!(華4つ星)追記2018.10.21 03;55

ネタバレBOX

 オープニング、昏い舞台、紗幕の奥に小さな光が点灯して移動する。音響は何やら恐ろしいことが起こるような気配を醸し出している。掴みとしては非常に上手い。ここから紗幕が挙げられると、下手一杯に着陸船の姿が見え、タラップが下ろされると左手に小さなトランクを下げた宇宙人が下りてくる。スモークが焚かれ照明、音響の効果的な用い方で幕が開く。上手手前には花壇、降りてきた宇宙人の顔は蛸に良く似ている。宇宙人が計測機器のようなものを取り出し、地球生命の観測に掛かろうとするとタラップは閉じられた。彼は置き去りにされてしまったのである。…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………***………………………………………………………………………………………………………******…。この点線部分、置き去りにされた宇宙人の驚きと絶望を表す。喜劇だから、レビューもこのくらいの芸当をしなければ面白くあるまい。
By the way,これは映画のセットであった。下積みの長い恩大事 春雨が初主演するSF映画のロケ現場だったのだ。
 夢ばかり追いかけて大言壮語する監督のせいで、シナリオはズタズタになる。然し、苦労人であることが災いして春雨は、協調路線に打って出る。他の皆もヒロインを除けば似たりよったりなので、我慢に我慢を重ねるが、夢を夢見ることの儚さは痛い程知る面々、それでも夢を諦め切れないさまは、”諦めましょうと どう諦めた 諦めきれぬと諦めた”と都々逸にあるように深い、深い夢なのである。このことが、今作のホントの主眼であろう。生きることは夢見ることであり、それは生そのものである。だが、それがメジャーにならない限り、他人からは滑稽にしか映らない、従って「客観的」にそれは喜劇であるが、真の全き人生は、チャンと夢見ることでしか成り立たないのではないか? との重大で切実な問いが、糖衣錠よろしく喜劇の衣を纏って表現されているのだ! 噛んだ役者さんが居たのは残念だったが、お体の調子が悪かったのではないか? 自分はその方が心配である。だって、通常こういうことは無かったのだから。もしお体の具合が悪かったのであれば、ご快復を祈念するばかりだ。ところで、その辺り座長の演技は渋かった。流石に良い演技をなさると感心しながら拝見していた。良い劇団である。是非とも、劇団の夢もかなえて頂きたい。
「Syng til måne」

「Syng til måne」

劇団わたあめ工場

d-倉庫(東京都)

2018/10/13 (土) ~ 2018/10/21 (日)公演終了

満足度★★★★

 太陽と月を操る人々と狼族との攻防を描いたダークファンタジー。(追記2018.10.17 02時 華4つ☆)

ネタバレBOX

衣装が中々豪華で、カッコイイ役者が多い作品だが、ギリシャ悲劇の傑作を想起させるシーンも出てきて内容的にも深いものがある。
 物語は、盲目のトゥルーバドール(トゥルーベールでも良い、どだい学問的な違いを言うよりイメージとしてここでは用いる)が子供達の下にやってくる所から始まる。彼はオルフェウスの竪琴のような楽器を弾きながら古い叙事詩を伝える。その頭の部分は人口に膾炙した部分で子供達も良く知っているのだが、冒頭以外は、子供達には知り得なかった、そしておそらく今では大人達の殆どが知らない、或いは隠された真実であった。その核心は、光が失われた原因に纏わるものである。丁度、彼の目から光が失われたように。
 こう書けば、ギリシャ悲劇に通じた人々はハハンと思うかも知れない。正解である。分からない人は、もう少し本を読みたまえ。或る程度世界文学に通じていなければ、様々な戯曲に何がどのように籠められているのかについての認識も持てない。解釈も自ずから違ってくるのである。
 かつて、この国は太陽を操る者、月を操る者、二人のリーダーによって統率されていた。然し狼族が、彼らの生存を賭けて挑んでくる。その力は侮りがたく一族は存亡の危機に直面する。その攻防の央、月を支配する長の甥・ソラは、狼族の女王の息子・スエークリンとの奇縁から親友の契りを結び狼族の襲来情報や何故彼らが襲うのか。また彼らの弱点などを自然に知るようになった。一方、太陽を司る長は、狼族の殲滅を画策し、その為にスエークリンを拘束、ソラを通じてその撃滅法を探ろうとしていた。ソラはアンヴィヴァレンツに引き裂かれる。親友は裏切れない、然し、妹が言うように父は狼族に襲われ、ソラを護る為に食い殺された。父が殺害されたことで、母は子供達の為に最も嫌っていた太陽を支配するリーダーとの再婚に同意し、現在彼はソラの「父」そこで、彼はリーダー達に提案した。後は観てのお楽しみだ。
想稿 銀河鉄道の夜

想稿 銀河鉄道の夜

ことのはbox

新宿シアターモリエール(東京都)

2018/10/10 (水) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★

 う~~~~む。少し追記(2018.10.14)

ネタバレBOX

 原作は北村 想、自分は原作を読んでいないので間違いかも知れないが“本当のこと”というフレーズが多すぎる。今作のシチュエイションで言えば、3度までは許される。それ以上はくどくなって逆に本質から遠ざかって仕舞うと見る。脚本に関しては以上だ。
 カンパネルラもジョバンニも女優が演じているのだが、少年を演じているのだから晒しを巻くなどして乳房を隠すべきだろう。賢治作品に関してはそのような配慮が必要だと考える。演出家の感性とは異なるだろうが。上記とも関連して宮澤 賢治作品に対する認識が甘いように思う。
 北村 想の原作を読んでいないので、以下に述べることが当を得ているか否か定かでないのだが、北村が想定したであろうファンタスティックな世界は、定番とはいえ、それなりの水準を感じさせるのに、歌唱シーンが入ることによって百年の恋が一瞬に醒めるような幻滅感に襲われるのが如何にも残念だ。このシーンを活かすならいくらでも方法はある。演出家の決断でこのシーンを削ることがあっても良いし、活かすのであれば、観客に幻滅を齎さないで欲しい。
 もう一つ、言っておきたいのは、噛む役者が多かったことである。この程度の科白量で、これだけ肝心な所で噛みまくるようならキャストを変えるべきだろう。何故なら、本質的な所で本当のこと、と、宗教とは相まみえねばならないテーゼだからである。本当の事を宮澤 賢治が求めた以上、北村を越えて演出家は思いを致さねばならないのは当然のことだし、そのような姿勢で役者陣に接していれば上に挙げたような批判は受けずに済んだであろうから。
 作品をミュージカルというコンセプトに仕上げたいならそうすべきだろうし、そうでないならそのような演出を心掛けるべきであろう。総てが中途半端である。今迄の演劇ジャンルや既成概念を破壊するのが目的であれば、キチンとそのことを形にしなければなるまいが、そういう要素も感じなかったし、強烈な現世否定や幻滅を経験しているという徴も見られない。演出家に自分自身の哲学が欠如していると考えざるを得ない。そのような視座が無いなら演出をすべきではあるまい。
となりの事件

となりの事件

シアターノーチラス

OFF OFFシアター(東京都)

2018/10/10 (水) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★★★

 この劇団の、この視座でしか描けなかった世界。(華5つ☆)

ネタバレBOX

 メーテルリンクの「青い鳥」が冒頭をはじめ随所に挿入されて散文詩のような構成になっているのが興味深い。韻文詩と異なり、散文詩はその形式が比較的自由であるばかりでなく、散文の特徴である客観的事実や事象を描くのに適していることは、母音の矢鱈に多い日本語以外の詩について多少深い勉強をしてきた人間には当然の認識であろう。今作でもこの辺りの文学的事情が上手に用いられている。
というのもシアターノーチラスの作品自体が群像劇を標榜しているということがあり、現代日本を生きる普通の人々の微妙な生活感覚や他人との距離感、個々人のメンタリティー、時に個々人の中にある価値観やメンタリティーの強弱なども描き出して見せてくれるのだが、今作では特にこの辺りのホントに微妙で日本的な躊躇が齎す非行動の意味する所を、他の方法では描くことさえ適わなかった形で形象化してみせた。
 日本人には主体性が無いとか、自分の意見を表明しないとか、何を考えているのか分からないという言葉は良く聞く。喋らなければ或いは自己主張しなければ、存在自体を認められないような社会ではないからだと言えばそうなのだろう。然し、これは日本人の傾向として特にファクトに向き合おうとしない生活態度から来ているような気もするのである。何だかんだ屁理屈をつけては目の前の問題から逃げることばかり考えたがるのが日本人の特質なのかも知れない。早いうちに手を打たないから問題が肥大化して手が付けられなくなるのだが、そのような知恵はファクトと向き合い対決してきてこそ生まれる。最初からそこを無視して逃げてばかりいる人々には手遅れになってからアタフタする他に道が無いということも事実であるから。こんな日本人を彼らはと言えば、憎まれ口も防げようが、敢えて言っておく。日本人の大多数は、見ようともしなければ聞こうともしない。何を? ファクトをだ!
その結果がF1人災であり、加計学園問題であり、カジノ誘致問題であり、憲法9条を護る伊ことを主張しながら、沖縄に犠牲を押し付けることについては同時に問わない姿勢であり、ちょっと古い所では裕仁の戦争責任問題看過問題等である。
 何れにせよ、今作板上には正面奥に背凭れ付きの椅子が7脚置かれているだけであとはフラット。登場人物が必要に応じて椅子を板上に持ち出し、対話相手と適当な位置、距離を取って己の座る場所に椅子を持っていって座る。歩行や座った状態での演技が殆どなので、細かい表情や、決して大げさは無い科白の意味する所、科白と科白の間にある何かを如何に解釈するかが観客の作業である。
様々な襞に覆われ、認識の果てに不可知論に陥りそうな場所で、各々の登場人物が何をどのように考え、或いは感じ、どのように生きているのか? 各々は各々の生を本当に選んでいるのか? 選ばされているのか? そのどちらでも無く単に流されているのか? 流されているのだとすれば、その時彼らを流しているのは、何か? 等々多くの疑問が湧いてはシャボン玉のようにはじける現実のように物語は進んでゆく。或る意味とても恐ろしい物語である。そしてその恐ろしさは、頭の中身が無いムカデが己の進みゆく先を一切顧慮せず、絶滅という淵に只管進みゆくのみであるにも関わらず、己の行為の結果も、己の行動の簡単に予測できるハズの未来も、唯現実に向き合おうとしないことが原因で、必然的に起こる事実から目を背け続けることによって出来したという、自ら責任を負うべき事実を、己に突きつけないということに起因する怖さ、即ち想像力の残酷なまでの欠落を表す現実の怖さが示されている怖さなのである。

クロノライセンス(東京公演)

クロノライセンス(東京公演)

劇団1mg

シアターKASSAI【閉館】(東京都)

2018/10/10 (水) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★★★

 先ず目を惹くのが白と黒を用いた舞台美術だ。

ネタバレBOX

様々な巾の布を用いて各ゾーンが仕切られているのだが、構造はシンメトリー。センターが凹んでいる分左右は出っ張っている訳だが、この凸凹を利用して、出捌けから出てきた役者陣が出る時も入る時も見え隠れするという単純だが面白い仕掛けが作られていて、各々の動きにアクセントがつく。他にも客席側にハの字に張られた目隠しは袖を形成しつつ出捌けも兼ねる。黒と白を用いているのは、無論話の内容に関わりがあるなど、気の利いた作りだ。
 オープニングは暁闇から明転と比較的オーソドックスだが、役者が上手い。狂言回しが、実に自然な佇まいで入ってくる。その直後、メインテーマに直結する若夫婦のシーンが入るのだが、この構成も実に上手い。この後ダンス等が入るのは、必然性が無いので自分の好みではないが、踊りも良く揃い、皆上手い点は褒めておく。東西(今回は大阪・東京)同時旗揚げ公演ということだが、演技力からみると出演者全員が既に様々な劇団で演技を磨いてきた実力者だろう。若いがしっかり基礎をやっているのは、間の取り方、演技の際の自然な身体の用い方などから明らかだ。原作があるとのことだが、脚本も随所に人生の本質や深みを感じさせる科白が鏤められ、落ち着いた中に味のある丁寧な作りで好感を持った。演出も奇を衒う所のない自然な表現を的確に引き出すことに成功している。舞台美術がシンメトリックで安定感があり合理的なことと役者達の動きがスムースなこととが、話の内容が非現実的であるにも拘わらず芝居全体に安定感を与えていることも重要な点だ。役者陣の力量は各々の演技が自然で、身体の内側から圧力を高めるような、大仰ではないがしっかり観客一人一人に届く演技をしていると言えば理解して頂けよう。音響・照明も適切である。裏方さん達の対応もグー。今後、増々力をつけ、活躍してくれることを楽しみにしている。
夜を、徘徊。

夜を、徘徊。

ものづくり計画

萬劇場(東京都)

2018/10/10 (水) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★

 追記(2018.10.14)

ネタバレBOX

 演劇は、カタルシスを体験する為の構造を持つ。それが、悲劇であれ、喜劇であれ同一脚本であっても上演回毎に異なり観劇体験は違うものだ。映画は編集が大きな要素を占めるが、演劇は良く練られた脚本、役者の技術(形から入るか思考から入るかなど大きな潮流の差を含めて)、的確な演出、舞台美術の合理性とセンスの良さ、音響、照明など効果の適切さ、制作を含む裏方さんの働き等々のバランスの良さ総てに対する観客の評価が相俟って成立する芸術である。其処を勘違いしているのではないか? 表現する者なら誰もが迷い続ける採算性と芸術性の相克についての主張は分かるが、伏線も置かず、異化を徹底している訳でもないから、主張されている各要素がバラケてドラマツルギーを構成していない。大いに勉強の余地があろう。
 演劇としてはハッキリ言って失敗作である。脚本から練り直さなければならない。基本は、科白で総てを表現することだ。小説と異なり状況説明を含めて、演劇は役者の身体表現、衣装、小道具、舞台美術と事件の起こる場所の選定、音響、照明と脚本(即ち科白集と敢えて書いておく・無論ト書きは入る)で世界の総てを再現する必要がある。衣装や言葉遣い、着こなし、態度、姿勢、持ち物(書物ならタイトルが作品の主張と密接に関連してくる。それが主人公の主張と同一であろうが真反対であろうが。「オセロ」ではデズデモーナの小物がオセロが最愛の女性を殺す「証拠」になるほど大きな役割を果たしているなど)総ての要素が密接な因果律を孕んでいなければならない。それが異化を狙うブレヒト作品のようなタイプであってもだ。これらの点を良く吟味した上で再挑戦して貰いたい。
ストレンジャー・イン・パラダイス

ストレンジャー・イン・パラダイス

劇団テアトルジュンヌ

立教大学 池袋キャンパス・ウィリアムズホール(東京都)

2018/10/04 (木) ~ 2018/10/07 (日)公演終了

満足度★★★

 一所懸命に若者の置かれた状況への異議申し立てをしている。(華3つ☆)

ネタバレBOX

 他の星の住人が人間に紛れて地球に住んでいる。これを信じ、仲良くしたいと望む者、そんな者が居る訳が無いと信じつつ異質な者は悪を為すとして排斥しようとする者の対立が、潜在的な絵空事に過ぎなかった段階から、実際に存在し彼ら異星人が集会を持つという情報がSNSを通じて人口に膾炙した段階で異星人を排除しようと、その集会所に押し寄せる排外主義者の群れに対して、武装決起する異星人たちの孤独、苛立ち、無理解という不条理への反発などを通して、現代日本の若者達の抱える鬱屈を描いた作品。
 ただ、その描き方は、書割の中の絵空事が事理を弁えて、物語として強く訴えるという手法ではなく、舞台化するということによって、仮構が現実に反逆するという形を採っている所が如何にも幼い。時代が右傾化する中、このような手法では直ぐ検挙されてしまうと考えるのは老婆心であれば良いのだが。若者の経験不足からくる甘さを利用して、収奪の限りを尽くす、現代資本主義の悪辣な手法への反発と苛立ちに対する拒否表明という意図はハッキリ伝わってくるものの、その解決を暴力に頼っても何ら効果はあるまい。あくまで徹底的な社会分析及び現代資本主義イデオロギーの分析によって収奪の構造を分析批判することから始めるべきであろう。そう考えれば、今作で描かれた暴力行為自体を劇中劇として描く程度の知恵が生まれたハズである。
Naked Girls - 裸の女達

Naked Girls - 裸の女達

劇団ノーティーボーイズ

ブディストホール(東京都)

2018/10/02 (火) ~ 2018/10/07 (日)公演終了

満足度★★★★

 タイトル通り、中々女性の愛の形を見事に表現してくれた。その意味でも余計なものを総て剥ぎ取られた愛の裸形である。(華4つ☆)

ネタバレBOX

その愛は狭いが深く真摯であり、決して汚れていない。聖女と娼婦は通底するとはよく言われることだが、実際そうだろう。マグダラのマリアの物語は聖書に書かれているだけではなく、多くの芸術家が絵画や詩でも表現している。
今作は無論宗教などの絡む話ではない。地縛霊、さくらは絡むがエンターテインメントである。物語は、1972年オープンのストリップ小屋“ニューロマンさそり座”の楽屋で展開する。既に幾十年が過ぎ、今日一杯で小屋は締められる。その当日、取材が入っている。だが、看板ストリッパー、茜は左腕を複雑骨折、応援に駆け付けたのはクラシックバレーもジャズダンスの素養も備えてはいるが、悪い男に騙されこの世界に入ってきたと思しき踊り子。当然プライドも高く、踊りも上手いのだが、小屋のトップスターとぶつかることも多い。更に、現在は小屋の支配人になっている健のかつてのレコ、伝説のストリッパーであった舞までが登場する。往年の大スターを呼んだのは、彼女こそ、今でも健の思い続ける人と自らは身を引こうとする茜だった。小屋の黄金時代に大活躍していた往年のストリッパーたちの因縁は、取材に来た記者にも繋がっていた。
とまあ、こんな具合だ。丁度折り返し、後は、自分でご覧頂きたい。笑わせる所もあれば、泣かせるシーンもある。ギャグに若干くどさが見られた序盤を除いて完成度も高い。何より踊り子たちの優しさ、正平の律儀とぶきっちょ、世間の偏見に対する対処の仕方など見所満載。無論、踊り子それぞれが抱えるトラウマやストリッパーの子として生を受けた子の悩みなどもキチンと描かれ、人情の機微と生きる苦悩を描きつつ、優しさでくるんだいい舞台である。
ラストステージでは、楽屋として用いられていた高めの平台が板中央に置かれてステージになり、このステージ上で踊り子たちのオープニングショーが演じられるが、この場転の見事さ、ダンスの楽しさもおススメ。
燃えひろがる荒野

燃えひろがる荒野

ピープルシアター

シアターX(東京都)

2018/10/03 (水) ~ 2018/10/08 (月)公演終了

満足度★★★★★

 壮大である。この何年かの間に観た作品の中で最もスケールの大きさを感じる舞台であった。(少し追記2018.10.5 絶対お勧め! 文句なしの華5つ☆)

ネタバレBOX

 舞台は大きく3段になっている。手前が最も低く、奥へ行くほど高い。奥の2段に特段箱馬などの設置はないが最上段上手には、仕掛けがあって天井から吊り物が下げられたり、部屋の一室を構成するような仕掛けがある。他は中段上手に平台が置かれやや高い位である。舞台随所にススキがあしらわれており、目隠しや点景として機能している。手前が最も作り込まれた場所だが、それでも下手に平台を1つ、上手には平台で創られた2段の段差を持つ構造物が見える他、ほぼ中央に腰かけに丁度良い高さに切りそろえられた大小3つの切株が適当な間隔を置いて配置されているのみだ。 
 原作は船戸 与一氏の「満州国演義」だが、この長編を3部に分け、今回はその第2部。時代的には、満州国を成立させその経済を安定させると共に北方に於いては武装開拓民を配置して対ロシアの備えとすると共に「漢、満、蒙、朝、日」の五族協和などという茶番を唱導してアジアを植民地化する為、柳条湖事件をはじめ、傀儡として溥儀を立てて満州国独立を強行するのみならず謀議に謀議を重ねて石炭や鉄などの地下資源収奪を目指し単にアジアに於ける覇権のみならず欧州へもその目論見を広げようと夢想していた。己の地歩も定かならぬに、その数十倍もの経済的規模を持つ地域への覇権すら夢想していたのである。その根拠は高々松陰の「幽囚録」にすぎまい。
 百歩譲ってこのような覇権主義が正当性を持ったにせよ、それを実際に実行するに当たっては、その時点時点での徹底的な調査と客観的判断を得る為の矢張り徹底した分析が必要であることは言を俟たない。然るに南洲亡きあと、(薩)長政治を通して培われたのは謀略によって敵対者を討つこと、制圧後そこから長い時間に亘って収奪するシステムを作り上げることではなかったし、明治以降そのような長期的視点に立って日本の為政者は支配して来なかった。それは五族協和というお為ごかしとして政治的に用いられただけである。何と浅墓な知恵であることか! 敵対する者達を人間として扱っていないのだ。これも愚かなことである。反撃を甘くみてしまうことになるからである。無論、西欧に於いても異人種に対してはこのような態度が大航海時代以降取られてきたのは事実だが、翻ってローマ迄遡るならば、奴隷と雖も優秀な者は解放奴隷として豊かでステイタスの高い生活を享受しえたし、皇帝になる者もローマ人ばかりでは無かったことからみても、その能力主義と人間一般を射程に収めたユマニスムの概念が確立していたことは意識しておいて良かろう。オスマントルコの治世が長く続いたのも、その支配が、他の民族をも人間として認めるという姿勢を現実に実践していたからに他なるまい。脱線が過ぎた。
秋の超収穫祭

秋の超収穫祭

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2018/10/01 (月) ~ 2018/10/02 (火)公演終了

満足度★★★★

  Feblabo、大統領師匠、家のカギ3団体合同のオムニバス公演。基本的に板上はフラット。必要に応じてテーブルや椅子がセットされる。(華4つ☆)

ネタバレBOX

演目は家のカギが「うらみつらみ」:今作は、固定観念に囚われた一人の男が、自分が好きだと思い込んだ女を奪ったとしてその容疑者を殺しに行く話なのだが、殺す為の必然性や、殺人を犯した後の罪の意識、社会的制裁等を抱えて生きてゆくことの重荷と比べ殺される側がそれで御終いというのは如何にも安楽に過ぎる、として堂々巡りに陥り乍ら、通りすがりの女や「恋人」の女を次々に刺し殺し、漸く最初の目的であった容疑者殺害を果たすもそれは単に偶然の結果でしかないというアイロニカルなシニシズムを表現した作品だが、この不条理性は、刺された容疑者が、恰も刺した犯人が伝染病の保菌者であったかのように、この不条理に伝染し新たな犯人になって終うブラックユーモアに終わる。
大統領師匠は2作品。「スイカ割り」:一組のカップルがスイカ割りをしようとしている。スイカを割るのは男、指示を出すのは女である。既に男は鉢巻で視界を遮り、棒を振りかぶってスイカ目指して指示通り動き始めていたが、女の元カノが突然現れ、縒りを戻す
為にくどき始める。男が目隠しをしていてイマイチ状況が読めない中で、男VS恋人の女VS女の元カノとの三角関係が展開する。科白のやりとりの面白さ、結局男が割を食って、元カノに恋人を奪われてしまうというオチ。
もう一作が『ベテラン声優のアテレコ風景』声優同士の熟年カップルの浮気噺。元々は男が20歳程の若い娘と浮気したのが「原因」で妻に財産を持って行かれてしまうのだが、金品以外に男性用シャンプーであるサクセス迄持っていかれたことに腹を立てる夫は、サクセスを返せと迫る。だが、若い娘への嫉妬に狂った妻は、煙草すら買えぬ程貧乏させてやる。「ホープを奪う」と断言、この痴話喧嘩は本番収録中に行われているので、本番の科白と痴話喧嘩のやりとりが重なり合って絶妙のコントラストを為し笑わせる。女も“夫の浮気以降”は自分も若いツバメを抱えてよろしくやっているというのだが、それはあくまで夫の浮気以降と強調、サクセスもツバメに使わせていることを認める。一方自分の浮気は、ベテランで若い者に教えを垂れるような女は皆していること、と居直る辺り男と女の浮気合戦の様相を呈しつつ、社会通念として妻が莫大な慰謝料を手に入れることができる社会への「あてつけ」にもなっていそうで大人の男女の狡さ合戦の様相も呈し実に面白い。戯曲の完成度の高さと役者の上手さ、アイロニーのキレなどでは最もシャープな作品と観た。
Feblaboは矢張り2作。「日曜日よりの使者」:認知症にやられた老人のボケた日常を行きつけだった喫茶店を便として、記憶を呼び起こす為に行われる試行錯誤の辛さ、もどかしさと甦った記憶の入れ子細工で表現、重層的な時間と老人の過ごしてきた人間関係を顕にしてみせる。殊に親友との出会いと、思い出の場所図書館に現れるマドンナを巡っての恋のさや当て、マドンナを射止める為の争闘を通じて親友を亡くし、深更の荒海に友の名(洋の仇名・ハマオ)を叫ぶ若い頃の老人(睦・リクオ)の叫びの痛切は、ふと「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラを甦らせた。ハマオは、バレンタイン前日、沖合に在る小島に咲くという幻の花(この花を持って愛を告げればその恋は必ず成就するとの言い伝えがある)を求めて小舟で漕ぎだし、帰らぬ人となってしまったのだ。共をしたのはハマオの弟、近隣の船、人々総出の捜索に弟は助かった。明け方も近くなった頃、(入場券代わりに配られた)レーズンチョコが、マドンナからリクオに渡される。どういう訳か彼女の頬には紅が差していた。(2月14日である。)
終盤、親友が現れ、この物語の理を説明するが。それによると主人公も他界しており、あの晩ハマオの魂は、リクオの呼びかけで故郷に戻ることができた。その礼に認知症を患ったリクオを迎えに来てくれたのだという。マドンナも既に来ており、とても美しい女性になっている、と。最後のオチが、睦をどう読むかなのだが、これはちょっと正解できまい。
「いまこそわかれめ」:馴染の喫茶店に来て、卒業式の定番曲「仰げば尊し」の歌詞解釈がキチンと為される導入部で、オーダーされた2つの飲料(オレンジジュースと珈琲)が一人の前に置かれる点に注目。歌詞解釈も見事なもので感心させられた。(自分は、職業高校だったので日本の古典と漢文は余りキチンとやっていないから、教えられる点が在った)何れにせよ、別れに関する解釈の導入部として極めて優れた脚本であり、キャスティングも良い。さて、仰げば尊しの歌詞によって方向づけられた物語が佳境に入ってゆくのだが、
小道具に使われている彼女の持っている文庫本は、19世紀イギリスの詩人テニスンの「イン・メモリアム」(In Memoriam A. H. H.)である。内容は無論今作にかぶる。演劇が因果律を殊に強調せざるを得ないのは、その構成が対立を基本とする以上必然的な結果である。ドラマツルギーは因果律が深ければ深いほど、そのインパクトが増大するからである。作家は当然その効果を狙う。それは観客という残酷な消費者がそれを望むからである。“他人の不幸は蜜の味”とはよく言ったものではないか? にも拘らずこの可憐な少女と彼女と交わした約束を守って、卒業後に馴染の喫茶店を訪れた、少し年を取った彼との切ない魂の邂逅は、矢張り胸を撃つ。
念の為、上演順に作品名を挙げておく。1、うらみつらみ、2、日曜日よりの使者 休憩5分 3、ベテラン声優のアテレコ風景 4、スイカ割り 5、いまこそわかれめ



このページのQRコードです。

拡大