ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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夏の砂の上

夏の砂の上

作戦会議

Ito・M・Studio(東京都)

2014/09/03 (水) ~ 2014/09/07 (日)公演終了

満足度★★★★★

ボディブロー
 見終わった瞬間、この作品は、ボディブローのように後になって効いてくるだろうな、と感じた。ただ、これでもかというほど、「なにも無い」日常をくどく描く必要は、ないのではなかろうか? その点だけ気に掛かった。

ネタバレBOX

 蝉の鳴き声が苦痛になるほど体力が奪われる一瞬、ラストシーンをどう解釈するかで評価はガラリと変わる。自分は、2回目の長崎への原爆投下乃至は核の重大事故と解釈した。そう判断したのは、通常なら、戯曲作家が当然、それを題材として、戯曲を仕上げるようなテーマがたくさん挿入されているにも拘わらず、とば口だけ見せて、一切、発展しない作りになっていること。登場人物の喉の渇きが、何度となく描かれていること。水が来ないことが、諦めと共に描かれていること。立山と優子が鏡の破片で光を反射して悪戯をする時、異様な嫌がり方をすること。更に、雨水を「おいしい」と言って複数の人間が夢中になって飲むこと。これは決定的である。また、思春期の優子の気まぐれであるかのような訳の分からない、この街に対する嫌悪も、BaudelaireのAny where out of the worldに匹敵する強さで迫ってくることも。
 我々は広島・長崎で原爆が爆発した後、黒い雨が、凄まじい勢いで降った、という事実を知っている。まだ、息のあった被災者達は、それを命の水のように飲んだに違いない。無論、このように酷く汚染された水を命の水のように飲まねばならなかった被爆者たちの体は、焼け爛れ、皮膚のずるむけになった赤黒い体表からは、血とリンパ液が滴り落ちていた。それ故に、体中の細胞が呻いていたのだ。水ヲ下サイ、と。
 この事実に気付いた時、今作を観た観客は、背筋に慄然たるものが流れるのを感じるであろう。原 民喜の有名な詩を以下に引用しておこう。http://yoshiko2.web.fc2.com/hara.html
水ヲ下サイ
水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー 天ガ裂ケ
街ガ無クナリ
川ガ
ナガレテヰル
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ
フラフラノ
コノ メチヤクチヤノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ


つくづくな人間

つくづくな人間

マニンゲンプロジェクト

小劇場 楽園(東京都)

2015/01/28 (水) ~ 2015/02/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

Someone like you
 2月1日17時迄の8回公演の初日。良い舞台を拝見した。シナリオ、演出、演技そのどれもが、設定の良さに調和し過不足なく伝わってくる。描かれているのは、ドブ泥の中で生きているような人々、別の表現をすれば殆ど個人名を持たない人々、つまり我々に似た誰かである。(更なる追記後送)

ネタバレBOX

 世の中を見ようと思えば、下から見上げるのが良い。この際、気をつけるべきは、バイアスを排すことである。
荒野ではない

荒野ではない

SPIRAL MOON

「劇」小劇場(東京都)

2016/11/23 (水) ~ 2016/11/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

花五つ星
何と美しく悲痛な!(追記2016.11.25)

ネタバレBOX

青鞜に集まった女性たち、平塚 らいてう、伊藤 野枝ら主幹となった女性をはじめ、野枝の夫となった大杉 栄、らいてうのツバメのオクムラ ヒロシ、女流作家の千代子、跳ねっ返りのコウキチ、天才博徒の彦六、らいてうを支えるトミエ、皆から先生と呼ばれる理解者でもある支援者、イクタ チョウコウらの群像劇。Baudelaireの詩ではないが、人々から石を投げつけられ、唾を吐きかけられてもおかしくない程、時代のそして意識のレベルを遥かに超えていたアナーキーで真摯な姿が伝わってくる秀作。
 青鞜は、100年以上前の1911年9月から1916年2月迄発行された雑誌だが、この雑誌の作・編集部が今作の舞台である。発行しては、発禁を食らい、部数を伸ばすことは愚か、講演を打つことも会場を貸さないという形で禁じられ、剰え為政者のプロパガンダに載せられた民衆から石礫を投げつけられながら、女性、弱者の解放の為に戦った人たちの姿を描いた群像劇である。
 無論、登場する個々人のうち社会的弱者に関しては、より深く描かれている。村外れに住んで居た彦六の父は、中々やり手であった。結果、村の中心部に住む人々よりいい家を建てた。ある日、村の中心部の人間よりいい家を建てたのは生意気だとして、実家を燃やされ、家族を奪われた。因みに村の境界領域に住んだのは被差別部落民であり、これは差別の具体的で的確なイメージであろう。野枝が、この話を聞いて激高し、彦六の家族に仇為したる連中の家々を打ちつけて出られないようにし、油を撒いて火をつけてやれ、と叫ぶように言うシーンなど、その優しさ故の共感と真摯な怒りを突き付けてくる。
 更に、増々右傾化する世の中で、それでも諦めず粘り強くしたたかに生き、己の精神を荒野にせぬよう努める姿勢も良い。
 芝居を観なれている観客にとっては、演出の見事さも、見所である。ファーストシーンなどは、一挙に作品に引き込まれるだけの演出センスを見せてくれるし、シナリオの質も高く、役者陣の演技レベルも高いことは言うまでもない。舞台下手に植物の影がずっと映っているのも、非常に好印象である。弱者の声のように決して強くはないが、普遍的な生命の在り様を示しているようにも感じられるからだ。照明、音響の使い方も上手い。

二本の二人芝居

二本の二人芝居

unks

新宿ゴールデン街劇場(東京都)

2014/09/19 (金) ~ 2014/09/23 (火)公演終了

満足度★★★★★

演劇の醍醐味を楽しめる!
二人芝居を二本演る企画なのだが、「かごの鳥」を拝見した。作に別所 文+竹内 銃一郎となっていて、どこからどこまでが、各々の作者の文なのかは、確認していないのだが、この脚本が素晴らしい。言葉の持つ喚起力をこれ程、見事に紡ぎ出した脚本は滅多にない。こんなに、日本語というものは美しかったのか! とハッとさせられる出来である。その見事な言語表現に応えて、余計な物は一切省いた演出も良い。

ネタバレBOX

必要な小道具は、紙にその都度描いて使う。だから、マジックのような太字のペンとA4の紙と後はステージ等を組む時に使う木箱が8つあるだけだ。登場人物は、二人、今は飯倉の金持ちに嫁いで2年目の若奥様のペン。そう呼ばれているのは、本名が筆子だからである。もう一方が、はっぱ。兄が、魚の研究者で、一応、少女趣味は軽蔑したフリをしているが、内心は無論憧れており、ペンが兄を慕っていることにヤキモチを妬いている。本名は葉子。大の仲良しなのだが、時々絶交しては仲直りする。
二人は、ある場所に閉じ込められてしまう。研究者の兄に助けを求め、ペンの亡くなった母の生まれ代わりだというカナリヤに救助要請の手紙をつけて飛び立たせるが、確実に届く保証も無いのに、閉じ込められた部屋の前に流れる川は大雨の為に増水し、自分達も呑みこまれてしまいそうな状況で、雨漏りも酷い。
それでもはっぱのお祖母さんに教わったという編み方で撚った紐を使って、泳げないペン共々、川を渡ろうと考えたり、綺麗な瓶に救助要請の手紙を入れて川にながして見たりしたが、紐は、はっぱが、自暴自棄になって首を吊ろうとしたら切れてしまったし、瓶は、勢いを増した川の流れにあっという間に持っていかれ、岩か何かに当たって砕け散った。
二人は、ペンがはっぱの兄とデートの約束をしていた8年前、雨に濡れた為倒れ、デートに行けずに結核のサナトリウムに長期療養に行ったまま戻れなかった話をしたり、ペンが兄宛に出した手紙をはっぱが、嫉妬して焼いてしまった話等をしていたが、自分達を攫い、此処に閉じ込めたのが、誰かを推理する。
未だ上演中だから、答えは明かさないが、はっぱを演じた増岡 裕子、ペンを演じた上田 桃子が素晴らしいし、ナレーションの今井 朋彦の声も良い。出演者数こそ少ない二人芝居だが、演劇の醍醐味を味わえる。
一場と二場で若干、シナリオの優劣を感じた。役者の疲れもあるかも知れないので、ハッキリこうだとは言えないのだが、二場の方が劣っている。理に走り過ぎ、イマージュの本質に迫っていた一場より、イマージュの喚起力から離れていたのだ。ナレーションを的確だと言ったのは、ナレーションが、このギャップを素人の目からは隠しおおせたであろうからである。それだけ優れたナレーションであった。この劣化が役者の疲れに起因するのであれば、一場と二場の間に10分程度の休憩を取るのも手だろう。二人だけでこれだけの内容の作品を演じるのだ。考慮する価値はあるのではなかろうか。
空想、甚だ濃いめのブルー

空想、甚だ濃いめのブルー

キ上の空論

新宿眼科画廊(東京都)

2013/12/06 (金) ~ 2013/12/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

マンネリ打破(Bチームを拝見)
 「私は大きな樹になります」で始まり、同じ科白で終わるゲームという形式の中で、大筋だけを与えられた役者達が、アドリブで創作して行く、という実験的な手法の芝居だ。

ネタバレBOX

 時折、演出家が、ストップを掛け、ダメダシをして、作品が創り変えられて行く。
 大枠だけ決めてアドリブで作って行くという方法が、一種の緊張感を持たせるので、観ている側も常に、軽い緊張感を伴い乍ら観劇することになるのも心地良い。更に、隋所に役者達の芸質が見える点、演出家のダメダシが、演出プランに組み込まれてメタ構造化している点、その舞台裏を見せている点でも興味深い。
 また、タイトル横の劇団名に“キ上の空論”とあるのは、机と樹或いは木の掛け詞であることは今更指摘するまでもあるまい。この公演では、効果に音楽を一切使っていないが、無論、意識的にである。その代わりと言っては何だが、時間や空間を役者達の発声によって代置してゆくことによって作品のリズムを醸し出している。殊に、3.11直前のシーンでは、暗転し分単位で時を告げるだけの科白の切迫感で、当時の記憶を生々しく再現される。2年前、自分は、川崎のアパートに居たが、あの時の揺れに纏わる有象無象が追体験されるようであったのには、我ながら驚かされた。
 ところで、今作は、キ上の空論初の実験公演であるが、作・演出の中島 庸介君は、リジッター企画の主宰者でもあるので、ちゃんと社会との接点を持つ、このような作品を創作し得たのでもあろう。
 3.12以降のことで言えば、メルトダウンする前の段階で消防車を用いて、1~3号機の格納容器内にある燃料棒を冷却する為に、注水を試みたことがあったのだが、毎時必要な約10tの水に対して75tもの水を注入し続けたにも拘わらず、メルトダウンが防げなかったことの背景にあったのが、机上の空論(複雑過ぎる配管構造を無視した)であったことを思えば、この作品は、この事実が新聞発表される遥か以前に、この事態を予見していたと見ることもできよう。表現というものの持つ力の一端がここに在る。
(参考までに東京新聞の以下のコーナーで関連記事を読むことが出来る)http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013121402000120.html
メラニズム・サラマンダー

メラニズム・サラマンダー

May

シアターシャイン(東京都)

2015/08/28 (金) ~ 2015/08/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

今、日本の演劇界に必要なのはこのような作品だ。
 先ず、melanismという単語の意味が即座に分かる人は、多くあるまい。ヒトの場合は、メラニンが異常に沈着して皮膚や髪の毛が黒ずむ症状を呈する症例を指すが、動物の場合は、黒色素過多症を意味する。
 またサラマンダーは、サンショウウオも意味するが、大抵の人は、火の中に住んで焼けないとされた伝説の蜥蜴を思い出すであろう。だが、この単語には他に火・熱に耐えるものの意味もあり、転じて砲火の下をくぐる軍人の意味がある。何れにせよ、この言葉は、1953年7月以来、一応休戦はしているものの、小競り合いの絶えない朝鮮族の現代史を在日として生きる作家によって書かれた。(追記2015.9.1)

ネタバレBOX

 舞台は、同一民族の中で夢や血や歴史やイデオロギーやパースペクティブやなんだかやが、煮詰まって一緒に来たハズの仲間うちにさえ、なんでこんな奴と一緒に居るんだ? 足が痛くて歩きにくいのも、こんなに疲れたのに止まれないのも、みんなこいつのせいじゃないのか? などと自問するように追い詰められてしまった彼ら自身のうちに蠢き、ますます肥大してくる黒い炎を上げる火蜥蜴、サラマンダーを内に抱えて生きる孤児に等しい境遇の少年を中心に進む。現在、少年は、黒色素過多症。即ち限りない歴史の負の部分を背負っている。呆けたような、現在の少年の位置に投げ込まれたのは、過去の彼自身である。幸いなことに彼の炎は、その頃、紅蓮であった。物語は、紅の炎と黒の炎との争闘とも取れるストリームと少年を囲む大人たちの、この状況下での日々の変遷を同時並行的に進めてゆく。この作品構造と訴える内容が、被差別者として差別を日常的に受け、時に逆差別と言われ兼ねない反応を示す他、有効な対応を持たない差別される側の暴発に、差別する側に居るハズの敏感な人々が傷つく、ということを繰り返さざるを得ないような苦く苦しく重い、が充実しているという幻想にすがりたい鑢のような人生を、狂わず、自殺もせず、考えながら生き抜いてきた。その、実感を劇化、シナリオ化して見せた、文化を信じる態度の作品である。
By the way,戦争をする為の法は、何も安保法制だけではない! ということをどれだけの日本人が意識できているのか? 甚だ心もとない。実際、共謀罪、秘密保護法を始めとして教育基本法改悪、国旗国歌掲揚法、住民基本台帳法改悪、通信傍受法、周辺事態法、情報公開法の死文化等々、ちょっと思い浮かべただけでもここ十数年の間に国民を戦争へ追いやるために監視・公乃至国畜化するための法が次々と成立してきた。
 今作は、その涯に来る世界と世界観を表したような作品である。作家は、在日のマイノリティー、国籍は北である。被差別・差別を苦しみながら生き抜いてきた人間の孤独・孤立と論理を屹立させる他なかった生を結実して深く、尖鋭である。
 更に今作は、今までのMay作品と比較しても異色である。今までこの劇団の作品には日本の歌謡曲が多用されてきた。その用い方が頗る上手で、こんな捉え方、聞き方があったのか! とハッとさせられる新鮮でヴィヴィッドな聞き方・捉え方がなされてきたのだが、今作では、暴動に付随する様々な音、発砲音だの砲撃音だの、群衆のざわめきだのが、ずっと流れてくるだけである。 
 荒れ果て、戦いのみが続き、人々は難民化してあてどもなく彷徨う中、他人を殺したくもなければ殺されたくもない、と逃げ延びた7人が、落ち延びた廃屋が舞台である。だが、ここには自らをアンドロイドだと主張する女性(型アンドロイド?)が居た。彼女は、極めて鋭い論理で武装しており、グループ内で唯一元戦闘員であった男と対立する。そんな中で仲間が死ぬ。死の真相はどこにあるのか? を巡って疑心暗鬼が募り、ひと時の安寧を齎してくれたこの場所から出てゆこうとする者も現れる。無論、外に出れば命の保証はない。自らが生き残る為には、他人を殺さなければならないかも知れない。そんな状況を背負い続けながら、ヒトはどのように狂わずにいられるだろうか? 狂わなかった者は、どのような生き方ができるだろうか? 血を分けた者さえ、信じられない状況で、人は果たして人足り得るのか? という所迄問い詰めた作品として読むことは、今作に限ってはたやすい。それほど、深く、観た己を自問に追い込む作品である。作・演出の金 哲義の才能を称揚すると共に、在日日本人である木場女史の、聡明と豊かで暖かで信じるものを的確に選び出す優れた能力に対し、迷いの多い中、本当に労苦をねぎらいたいと思う。また、演技レベルでは、拳に傷を負いながら、そんなことを微塵も感じさせず、いい演技を貫いたアンドロイド役も褒めたい。無論、この劇団は他の役者の生き方のレベルも高い。

ヒーローがいなくなったこの街で

ヒーローがいなくなったこの街で

劇団サラリーマンチュウニ

上野ストアハウス(東京都)

2015/12/03 (木) ~ 2015/12/06 (日)公演終了

満足度★★★★★

当然 深読みもできる
 社畜と自ら卑下してみせる自己批評精神や劇団員の8割が本物のサラリーマンという劇団らしく、人間関係の適確な把握と距離の取り方が実に巧みだ。考えてみればサラリーマンの仕事とは、仕事の出来不出来よりは、人間関係の調整だろう。日々、実地の社会でそれを磨いていることが、扱う作品が喜劇であるということと見事にマッチして良い方向へ回転してゆく。何故なら喜劇に関わる者に必要な第一の条件とは、自分を茶化すことのできる能力だからである。忙しい中キチンと練習をして滑舌も良い。時間の無い分集中して練習しているのだろう。各々の場の相互関連も内容に応じて軽重をつけ、自然な流れを作り出している。擽りもふんだんに鏤められているし、実際には、深刻な問題も重くなり過ぎない程度に、反対の立場からのクロスカウンターが入る。その結果、家庭内や社会と個々人の関わりも、個々人の個性的主張もバランス良く仕上がっている。と同時に今作が全体として訴えかけるものも、明確に骨太に提示されている所が凄い。初日が終わったばかりなのでネタバレは控えるがお勧めの舞台である。

堀 絢子 ひとり芝居 「朝ちゃん」

堀 絢子 ひとり芝居 「朝ちゃん」

プーク人形劇場

プーク人形劇場(東京都)

2013/08/15 (木) ~ 2013/08/15 (木)公演終了

満足度★★★★★

被爆するということ
 “この日、広島中がお母さんを呼んでいました。”この痛烈な言葉を書いた山本 真理子の「広島の母たち」から、彼女の被爆体験を通して描かれた作品、“朝ちゃん”288回目の公演である。朝ちゃんは秋子の仲良し、被爆地から寺町迄這って逃げて来た。朝ちゃんは、ドッジボールが上手い。

ネタバレBOX

 あんなに快活だった朝ちゃんは、顔の真ん中にイチジクのような傷を負い、全身真っ赤に焼け爛れて膨れ、衣服は焼け落ちて跡かたも無いまま仲良しの名を呼んだ。「秋ちゃん、秋ちゃん」と。そこに転がるどの人達とも変わらぬ肉塊、焼け爛れ、体には蛆が湧き、やけどした体からはリンパ液を垂らしながら、腐った魚のような臭気を発している、声を掛けられなかったら、誰だか見分けもつかない、膨れ上がった肉の塊が、「秋ちゃん、母さんに連絡してくれんね」と頼んでいる。水が飲みたいとせがむ。
 然し、当時は、酷い傷を負った者に水を与えると直ぐ死ぬと言われていた為、秋子は「お母さんが来るまで我慢してつかあさい」と言い残して、朝子の母に連絡を取る。朝子の兄は、死体を焼きに借り出されていたが、連絡を受けて急いで帰宅、リヤカーを借りて現場へ向かう。朝子の母も兄も、朝子は元気でいると信じ込んで、道中、冗談を飛ばしながら陽気に進む。寺町へ入る迄は。寺町へ入ると、段々、話はしなくなった。愈々、現場へ到着した時、二人は完全に押し黙り、最早、何も語れない。唯、朝子が何処に居るのかを一所懸命に探すだけである。秋子にした所で、朝子が声を掛けてくれなければ、再発見できる自信はない。幸い、朝子には、未だ息があった。
 朝子が声を掛けて来た時、朝子の母は、言葉を失い、全身をぶるぶる震わせることしかできなかった。我に帰った母は、朝子を搔き抱く。朝子は、自分が臭いだろう、と気に病むが、母は「臭いことなどありゃせん」と答える。朝子は水を再びねだった。最初、拒否した母であったが、秋子から事情を聞き、少しだけ水を飲ませることにする。だが、その水を汲んだ水槽には、遺体が浮かび、淵には水を求めて亡くなった遺体の手がそのまま掛かっていた。母は、躊躇していたが、やがて拾った広口瓶の蓋に水を汲み、朝子に飲ませる。朝子は、嘗めるようにそれを飲み、「ああ、おいしい。もっと欲しい」というが母は、矢張り、たくさん水を飲ませると直ぐ死んでしまうということを信じていたので与えず、彼女をリヤカーに載せて家まで帰り着く。到着した時点で朝子は、既に、あんなに欲しがった水を嚥下する力も無く、死んでしまう。
 世界で最初に実戦使用された広島原爆被害を直接受けた者ならではの、凄まじいジェノサイド証言を聞かなければ、原爆の齎す被害は余りにも大きく、予想外で想像力が追いつくレベルではない。このことの意味するものを“この日、広島中がお母さんを呼んでいました”の一行が凝縮している。声優としても著名で、父を原爆で失った引揚者の堀 絢子さんが登場人物4人とナレーションの一人五役をこなす。
 戦前から続く人形劇の名門、プークでの公演は、満席。舞台奥に描かれた文様は、照明の効果的な用い方で、紅蓮の炎にもなり、竜巻と黒い雨を齎した地獄の空にも変わる見事な物、演出も本質を良く捉え、抑制の利いた知的なものであった。シナリオの良さは、無論、今更言うまでもあるまい。
 なお、堀さんは、夜の回を終えると229公演を終えたことになるが、500回(反戦・半千)公演を目指しており何処へでも出掛けます、とのこと。堀さんに公演をお願いしたい方は、「朝ちゃんを応援するブログ」http://d.hatena.ne.jp/asachan500/へ
あたしのあしたの向こう側

あたしのあしたの向こう側

トツゲキ倶楽部

d-倉庫(東京都)

2015/11/18 (水) ~ 2015/11/23 (月)公演終了

満足度★★★★★

構成の良さ
 前説がしゃべり終わって板に着くと開演というちょっと変わった始まり方だが、ここで彼は徐に眼鏡を掛けるとパラレルワールドについての解説記事を読みだす。このコンセプトが分かっていないと話が見えないからである。

ネタバレBOX


 さて、こうして始まった舞台には大して恰好良くもないのに矢鱈にモテル男が登場して驚かされるのだが、この男の前に現れる女は、主人公の女が、人生の途上で迷ったりした時に現れたパラレルワールドに存在する彼女自身なので、この男が格別モテていた訳ではなかったが、運命的な出会いではある。
 実は、こんな混乱が生じた原因は、次元管理をしているセクションのミスによるものだった。偶々、オリジナルの女1以外の8人が、この時空に同時に存在してしまった訳である。興味深いのは、パラレルワールドの性質である時空の歪みを利用して、現在の我々の政治的選択の結果をも挿話に織り込んでいる点だ。これが本質を突いていて観客に自分の選択の意味する所を考えさせるいい契機になっている。無論、この挿話が演じられる前には、恋、仕事、将来の選択など、日常誰もが悩む選択の契機が語られており、その中でさりげなく挿入されているので、このエピソードがショッキングな内容であるにも関わらず決して突出した印象を与えない。更に近い将来間違いなく我らを襲うであろうこの事態の深刻さを踏まえた上でハッピーエンドで終わらせている点、行方不明の彼が、戻ってくれた可能性を示唆した点も評価したい。何故なら、戦争のトラウマを抱えた人々が、我らの傍らにも暮らしているのが我らの現在だからである。

蝶を夢む

蝶を夢む

風雷紡

シアター711(東京都)

2013/08/11 (日) ~ 2013/08/18 (日)公演終了

満足度★★★★★

哀れ
 作家、演出家、美術、役者陣、照明、音響、歌唱力どれをとってもセンスの光る作品。

ネタバレBOX

 腐り切ったこの植民地の退廃をGHQの関与も噂される帝銀事件を絡めて描き出した。GHQが絡むのではないか、との噂は、731部隊と当然のことながら関係する。広島・長崎への原爆投下以降、日本で、軍事研究に携わっていた研究者の多くが、自らの戦犯としての罪一等を減じる為、被爆後の現地に入って詳細なデータ(大学ノート183冊分)を取り、その後、僅か2ヶ月程で英訳してアメリカへ送っていることは衆知の事実である。731部隊のメンバーも多くが、敗戦後アメリカに協力した。無論、罪一等を減じて貰う為である。 
 日本の所謂エリートの腐り切った根性は今に始まったことではなく、連綿と続いてきたことなので、班目春樹、勝又 恒久、清水 正孝などの無責任ぶりは、今更驚くには価しないが、この作品は、伯爵家という貴族を絡ませた点に、深い意味がある。誰でも知って居て当たり前のことに、大日本帝国憲法における主権者の問題がある。現行憲法の主権者は、無論、我々、国民である。従って、戦争などを始めた場合、それが己の愛する者達全員の死に終わることになろうとも、そのオトシマエは主権者である我々、国民が負う。当然の理屈である。推進したのが政治屋であっても、結果責任を負うのは彼らではないことに注意しておいて貰いたい。彼らは、委託されたに過ぎないのだから。ふんぞり返って偉そうに詭弁を弄しているのは、彼らの無能の証であると同時に、それを糾弾しない国民である我々の不甲斐なさだ。閑話休題。
 さて、大日本帝国憲法にあって敗戦の責任を負うべき主権者は誰であったか、無論、天皇、裕仁である。彼だけが主権を持っていたのであるから。法解釈だけから言っても、このことは妥当である。而も、裕仁自身、1945年2月近衛文麿が早期終結意見書を提出した際「もう一度戦果を挙げてからでないと中々難しいと思う」と拒否、沖縄、広島、長崎、東京大空襲等々の惨劇を招いたのである。この国の唯一無二の政治家とアイロニカルに言われる裕仁とは、己と一族の利害の為だけに他の総てを犠牲に供し得る無責任者そのものなのであって、この作品における渡辺 秋利伯爵は、裕仁の矮小化された喩である。だから、小笠原 芙美子は、あのような形で復讐せざるを得なかったのであり、その復讐は人間的には最もなことだと納得されるのである。だってそうだろう。自分の住むエリアの法が、どんなに正当な手続きを踏んでも、不正をしか齎さない時、被害を受けるだけの者は、如何なる権利を持ち得るのか? 合法的権利ではあり得ない。而も、それなしに納得はあり得ない。そのような選択肢を迫られた時、誇りを持つ人間であれば、誰しも、非合法ではあるが、唯一、無残に殺された者を悼み、己自身も納得できる選択肢として復讐しか見出せないのは必然である。哀れを誘うのは、このエリアで起こって来た歴史的事件の背後には、常にこのような歪んだ制度があり、そこで苦しめられてきた者達が居たであろうこと、そして、このような形でしか復讐が果たされないような未分化な政治体制が現在も過去もこのエリアの住民を律してきたことなのである。その哀れを作品化し得ている所にこの作品の本当の凄さがある。
 もう一言言っておくならば、貴族の最も愚劣な点とは、人生を退屈と捉えるディレッタンティズムが許されることである。退屈から逃れる為なら、人間は何だってする。このことの危険性を良く認識しておくべきだろう。渡辺伯爵も退屈していたのである。
 そして、渡辺伯爵に仮託された無責任体制は、731部隊メンバーの訴追逃れをも齎し、原爆被害報告書を作成した軍事科学者らと共に、戦後、日本の暗部を形成してゆく。その結果が現在の日本だ。だから、マダラメ正しくはデタラメやかつまた、正しくは且つまた、しみず、正しくは沁みずなどの妖怪が跳梁跋扈するのである。
紛争地域から生まれた演劇シリーズ8

紛争地域から生まれた演劇シリーズ8

公益社団法人 国際演劇協会 日本センター

東京芸術劇場アトリエウエスト(東京都)

2016/12/14 (水) ~ 2016/12/18 (日)公演終了

満足度★★★★★

 年末に上演されるこのシリーズも8回目を迎える。何とも感慨深いではないか。

ネタバレBOX

漸く日本の文化人も何とか世界に目を向けようとする時代にはなったか!? そうは言っても、普段評論が書ける方は兎も角、多くの演劇関係者がイスラムの内実については殆ど何も知るまい。「インシャラー」という科白でフランスのリセーアンが何故笑うのか? この程度の単純なことすら多くの日本人には分からない。更にハラルミートなどの宗教的タブーに関することも多くの日本人には分かるまい。自分は知らぬことを攻撃しているのではない。外部に目を開こうとしない多くの日本人の態度に対して批判しているだけである。既に日本には多くのムスリムが住み、日本人とも接触してきた。にも関わらず、彼らの価値観や人間関係のありようをアメリカ流のバイアスを掛けてしか見ない日本人が多数存在するように思うのだ。無論、そうでない日本人も自分の周りには多いが、日本人全体としてはマイノリティーであろう。
 まあ、ヨーロッパ人は、アメリカの大衆ほど単純ではないからムスリムに対して様々な対応を取るが、それでも“テロとの戦争”を標榜してブッシュがイスラム圏に仕掛けて以来、多くのヨーロッパ諸国でもイスラムフォビアが猛威を奮ってきた。今作の原作者イスマエル・サイディはベルギーで1976年に生まれたモロッコ系の人物である。ジハードは彼の三作目の戯曲である。現在までに205回もの公演が打たれ、観客の延べ人数は7万を超えるが、そのうちの4万人はリセーアンなどの若者である。一方で彼の笑いに富んだ作品は多くの世代に受け入れられているのも事実である。実際、突き付けている問題の深刻さ、鋭さを見事に笑いで緩和しつつ、キチンと問題提起をしている点で彼の優れた才能は高く評価されてしかるべきであるし、自分も原文で読んでみたい作家である。興味のある向きは仏語版を探して読んでみることをお勧めする。自分もこれからちょっと調べて読んでみるつもりである。
ドアを開ければいつも

ドアを開ければいつも

演劇ユニット「みそじん」

atelier.TORIYOU(東京都)

2015/06/13 (土) ~ 2015/10/05 (月)公演終了

満足度★★★★★

日本が良く描けている
  シナリオは良く計算され、導入部のアットホームな雰囲気から雨漏り事件を経て、中盤、終盤のクライマックスへ登り詰め、潮が引くように収束部に向かって収斂するという構造。
明日14日が6月の楽日なので本日はこれまで。追記後送にゃ~~~~~~~っち。

ネタバレBOX


 舞台は鳥料理屋二階の座敷である。階段を上がった奥が舞台空間、手前が客席。本物の日本家屋の間取りになっているのが、如何にも自然な感じを齎し効果的に使われている。もとより屋敷内は女性の活躍して来た場所であるから、女ばかり四人の出演陣も自然なキャスティングだ。
 設定を明かすと、実は、母の七回忌を明日に控え、姉妹四人が久しぶりに集まったのである。この集まり方も上手に計算されている。三十四歳の長女は、飛行機で北海道から飛んで来た。彼女は20時過ぎに到着。11歳9カ月で初潮を迎えた娘と男の子が居る二児の母である。迎えたのは現在、父と一緒に暮らしている三十一歳の二女。勤めをしているが、結婚はしていない。暫くすると三女がやってくる。アーティストなのでフォーマルな服装は用意していない。色は黒なのだが、腰には金属製で金色のベルトを巻いている。二十八歳で抽象画を描く美術教師と結婚している。夫は、油絵画家であり、紫に拘っている。服装は、七回忌だし、長女、二女はフォーマルだし、三女はアーティストだから、いっか、という話になった。22時間近になって漸く四女が帰宅。残業が多いのは、無能な上司の所為だ、と嘯く二十四歳。彼女は冬から家出中なのだが、ベッド以外は殆ど荷物を残したままなので、年中戻って来ては必要な物だけ持ってゆく、というちゃっかり娘の甘えん坊だ。四人が揃う間に、こんな具合に其々の性格や職業、現在の暮らし向きや幸せ感などが伝わる自然なシナリオが優れているばかりではなく、各々の個性を活かした演技、演出も勘所を弁えた上でさりげなく振る舞い頗る良い感じである。長女の化粧道具を末娘を除く皆が使ってああだこうだというシーンが入るのも、如何にも女性の暮らし向きが出ていて良い。ひとまず、全員のプロフィールが観客に知れ渡ると、事件が起こる。ところで、今回は梅雨バージョンなので活けてある花は、無論、紫陽花。切り花にするには、どうするかもちゃんと教えてくれるし、紫陽花は、多くの花言葉を持つ花でもあるので調べて愉しむのも面白かろう。因みに部分的に毒も持つ。
 
美しい日々

美しい日々

TEAM 6g

萬劇場(東京都)

2015/08/26 (水) ~ 2015/08/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

花五重丸
 三拍子揃った素晴らしい劇団を発見した。笑いも随所に織り込みながら、オープニングからラスト迄、一貫して程よい運びで否応なく観客を虜にしてくれる。

ネタバレBOX

信の構造
  基本的に舞台は終始病院の相部屋で展開する。相部屋に同居しているのは、自称ミュージシャン、ピザ屋のバイトで生計を立てている岩瀬、岩瀬といつも漫才のような口論を戦わせている元甲子園のエースで現在は2軍の秋山。院内で落語をやり、おばあちゃん方に特に人気の守、野球部顧問だが、部員達が万引きを見つかりそうになり、無実の生徒に罪をなすりつけたことを目撃してしまった事実を公表できず、無実の生徒が校舎から飛び降り意識不明の重体となった事を悔い、自らも飛び降りて死にきれなかった直人、そして少し遅れて入院してくるのが、交通事故で怪我を負ったレストラン経営の桃井。彼は事故のショックで一時的な記憶喪失に陥っているが、妻とは離婚前提の別居中で、バイトの春香とできている。
 ところで、この病院には10年前に医療過誤による事件を隠蔽したとの噂があった。然し、証拠は挙がっていなかった。そんな噂の真偽を確かめようと守の落語のファンで弁護士の咲が入り込んでくる。事実は、如何様であるのか? という推理も無論可能だが、今作・この劇団の凄さは、上っ面ではなく、誰しもが抱える葛藤を描いている点である。その葛藤とは、卑怯。単純極まる世界を複雑怪奇な怪物に変えてしまう嘘という罠を拒むことのできない懶惰。一旦、嘘をついたが最後、それを誤魔化す為には嘘をつき続けなければならない、という単純明快な事実を背景にした悩み、と言えば通りがよいか。
 この誰しもが抱える卑怯者の壁を超える為には、自らの未来を敢えて棒に振り、取り敢えず成立している利害という名の人間関係を壊し、たった独り戦わねばならぬ、と皆考える。それで、問題解決の唯一の条件、勇気を挫かれてしまうのだ。この現実をしっかり見据えて描いているに留まらず、その解決法として信を舞台化していることが凄いのだ。この劇作家の深い人間理解と観察力、そして絶望に抗うパースペクティブに、心からなる賞賛を送りたい。また、巧みに筋を配置し構成している演出も、自然な仕上がりに達している。役者の力量も高い。
わかば

わかば

うさぎストライプ

アトリエ春風舎(東京都)

2016/05/01 (日) ~ 2016/05/09 (月)公演終了

満足度★★★★★

渇きと乾き
 独特の乾いた感覚処理が良い。

ネタバレBOX

また、ここで描かれている登場人物たちの背景に広がる世界が、実にグロテスクなものであるらしいことを感じさせる点も良い。実際、我らの生きている状況はグロテスクそのものである。文部科学大臣が大学の自治を否定したりhttp://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201603/CK2016031502000125.html、環境省が、核の塵を一般塵として処理する法律を作ったりhttp://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201604/CK2016042802000267.html、自由を否定し、民衆の為の報道を力でねじ伏せるべく総務相がメディアを恫喝しまくる。http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201602/CK2016021002000126.html。要は、地球上の総ての生命に対する冒涜である行為、即ち放射性核種をばらまく愚か極まる下司が支配者であるという現実。これがグロテスク以外の何だと言うのだ!! 社畜と言われてへらへらし、血税を宗主国であるアメリカに収奪されながら、喜んで尻尾を振る奴隷根性の塊、それが日本人(・・・)だろう。
 とはいえ、今作で以上のことが直接描かれている訳ではない。ただ、歪んだ人間関係の発露が、極めて効果的に描かれているだけである。登場人物は2人。タイトルの“わかば”は登場しない。実際にわかばが(居る・居た)のかどうかさえ定かでないように組み立てられた作品だ。自分は、既に彼女は死んでいると解釈した。というのも、登場する人物の1人である男は、わかばの主人、そしてもう1人はわかばの妹と名乗る女であり、彼女は戻らない(・・・・)姉の代わりに、姉との約束(・・)を守り続ける義兄と、終には子作りの行為をし妊娠するのだが、男は生まれるのは娘だと言い張り、その名を“わかば”と命名する。
先代わかばは、子作り行為の前にDVを揮われることを要求し、その後行為に及んでいたのだが、恐らくはその暴力が、先代わかばを死に追いやったのである。無論、殺意があった訳ではなく、過失致死だろう。だが、殺してしまったからこそ、代理である妹(・)の妊娠した胎児に姉と同じ名を付けることによって再生を図った訳だ。一方、先代わかばにも奇妙な傾向があった。夫が外出して仕事をすることを禁じ、上半身をぐるぐる巻きに縛って食事の時さえ腕の自由を奪うと共に、真っ赤なハイヒールを寝る時さえ履かせて、2人で始めていた社交ダンスの練習を強制したりもしていた。夫は、部屋に居ても受注できる仕事しかさせて貰えず、1日中、閉じ込められている訳である。だから、真っ赤なハイヒールを履いた状態で足を使ってパソコンを操作している。で、子作り行為の前には必ず、暴力を揮うよう強制されていたのである。このような歪の生まれる背景として自分が想像したのが、上に書いた事柄と言う訳だ。観客の想像力を信じた、面白い作りである。そして恐らくこの作品の成功は、この登場人物たちが抱えている心の・魂の叫びとしての渇きの切実な苦悩すらも、作家によって砂漠の砂のように太陽に灼かれる物として描かれている点にある。その視座の適確、乾きの距離とでも言うべき隔たりによって、対象化されている痛さこそが挙げられよう。
銀色の蛸は五番目の手で握手する

銀色の蛸は五番目の手で握手する

ポップンマッシュルームチキン野郎

シアターサンモール(東京都)

2013/12/27 (金) ~ 2013/12/30 (月)公演終了

満足度★★★★★

命の輝き
 離島の山奥に不時着したUFOには、臨月の宇宙人が乗っていた。

ネタバレBOX

 彼女は、偶々異変に気付いて近付いた老人に子供を頼み息絶えた。老人は1人暮らしであったから、生まれたばかりの子を連れ、育てることにした。だが、この子は、銀色の皮膚をし、足が11本もある子だった為、村の子達のからかいや苛めの対象になり、一人泣く姿がよく見受けられた。そんな中、村で最も可愛いと評判のハナ子だけは、彼にも優しく声を掛け友達にもなってくれた。そんな彼女の父は、体を壊し寝付くことが多かった。そんな父の快復を願い、彼女は四葉のクローバーを探していたのである。オサムと名付けられた遺児は、彼女と一緒になって四葉のクローバーを探すが、この時には見付けられなかった。そんな山間での学生時代を終える頃、ハナ子は、先輩でサッカー部の主将、皆の憧れの的である池畑と付き合い始めた。オサムは、ガールフレンドとして付き合って欲しい、と思っていたが、あっさり夢は断たれてしまった。
 失意のオサムにおじいは東京へ一緒に行かないか? と誘う。おじいは読者モデルなどをするつもりなのである。始め、島の仲間達とまだ過ごすつもりだったオサムは、飛来したUFOが自分の生まれた星からのものだと思い、生まれ故郷へ帰ると友達に告げ、ハナ子から四葉のクローバーを送られ、皆に挨拶を済ませてUFOに乗り込もうとするが、全然、別の星から来たUFOで相手にされず、じいと一緒に東京へ出る。一方、ハナ子も池畑と共に東京へ出てきていた。彼女は看護師になったと言う。池畑は商社マンで随分忙しく働いている由。
 オサムの手足は8本になっていた。それは、かつてじいが大怪我をした時じいを救い、高熱を出して寝込んだ時に、腕がもげてしまったからであった。以来、じいはその力を使わないよう命じていた。(追記2013.12.31)
 然し、オサムは知ってしまう。ハナ子が決して幸せではないことを、それどころか、池畑はすっかり駄目になっており、仕事もせずにハナ子に春を鬻がせ、自分の子ではないかも知れないなどと悪態を吐いてはDVに走る。ハナ子は終に堪忍袋の緒を切らし、彼を殺害してしまった。その罪を救ったのは、オサムであった。じいに禁じられた不思議な能力を用いて池畑を助けたのである。無論、オサム自身は体調を崩し、現在は世界のトッププレイヤーとして活躍する彼は休場。その後10日間も寝込んでしまうが、漸く何とか昏睡から目覚めた彼の前には、子供が泣くのを、隣室から何度も咎められ、赤ん坊の口を枕で覆って死なせてしまったハナ子の窮状があった。彼は、今回も彼女を助ける。その結果、総ての腕を失い、2本の足だけになったが、漸くキーパーをさせられずに済むようになった彼は、フォワードとして復帰、終にシュートで得点を上げた。
 宮澤賢治の描く「夜鷹の星」などのような純粋な自己犠牲と命の輝きを、切り捨てられた沖縄基地問題や未亡人製造機と揶揄されるオスプレイ強行配備などの対局に置いて痛罵しながら、軽々と高く舞うポップンマップチキンの清々しさよ!! 爪の垢を安倍に飲ませてやりたいものである。
ダイニングトーク

ダイニングトーク

T1project

小劇場 楽園(東京都)

2014/04/29 (火) ~ 2014/05/06 (火)公演終了

満足度★★★★★

何度も観たい
 T1プロジェクトからは多くの役者たちが巣だってきた。今回もAmour,Bague,Croix,Diamantと4組が、同一作品にチャレンジするが、自分はCroixチームを拝見した。主宰の友澤氏の作・演だが、彼のセンスの良さと物語を紡ぐ能力の高さ、そして演出の巧みによって、若い役者たちの才能を引き出している。

ネタバレBOX

 なお、ネタバレに関しては近日中、以下のサイトにアップするので、興味のある方は見てほしい。http://pubspace-x.net/pubspace/ペンネームはハンダラである。
バグダッドの兵士たち

バグダッドの兵士たち

ピープルシアター

シアターX(東京都)

2015/11/18 (水) ~ 2015/11/22 (日)公演終了

満足度★★★★★

役者の身体能力・鍛錬に注目
 初演は5年前であった。あの時よりずっと真に迫ってくるのは、日本の右傾化・軍事化が着々と進み、直ぐにでも日本人がここで描かれているような体験をしなければならないということに現実感が伴うからだろう。
 宙空に設えられたヒジャブをつけたイスラム女性の後ろ姿のようなオブジェや、上手・下手などに矢張りヒジャブを纏った黒衣の女性が立つのも、殺人者そのものである米兵を追い詰める民衆の影の圧迫感を表して効果的である。また、役者たちの身体鍛錬の見事さも素晴らしい。彼らのプロ意識に敬意を表する。また本日19日マチネ公演後と明日ソワレ公演後には来日している原作者のマガノーイのアフタートークがある。これもお勧め。(追記2015.11.20:02:43)

ネタバレBOX

 ここで描かれている米国人は、兵士であるが、イラク戦争時、最悪の行動をとっていたのは、無論、傭兵である。彼らは人を殺すのが楽しみと考えているとしか思えない。女性をレイプし、人々を拷問に掛けて楽しんだ挙句惨殺していた。代表的なのは、ブラックウォーターの傭兵たちである。無論、傭兵の方が悪いことを平気でするのには、訳がある。国軍の兵士は、ジュネーブ条約などで禁じられている行為を為した場合、戦争犯罪を犯したとして軍法会議にかけられ処罰される。だが、私兵である傭兵にはこの懸念がない。今作で一般市民を殺した兵士達が処分を気にしているのはこの為である。単に、人間として悩んでいるだけではないのだ。
そもそも、人間として悩むくらいなら、兵士になるかならないかのレベルでもっと深刻な悩みを抱えているだろう。そんなことも想像できない知的レベルにアメリカの大衆が置かれていることの意味する所を考えていないのは、当しく現在の日本の大衆と変わらない。そして、この程度の頭脳では、たかが貧乏程度で、己の魂を売ることに大きな抵抗はないのだ。考える人間なら、貧乏を恥じることはない。恥ずべきは魂の弛緩であるという程度のことには気付く。この程度のことを自分の頭で考え実践することもできない連中は所詮、人間らしい生き方など望むべくもないのは当然のことだろう。
根本的な問題として、アメリカ人の誰がISの行為を責められるか? 今作でもたくさんイラク人を蔑視した言い方が出てくるが、バカを言っちゃいけない。そもそも大量破壊兵器が無いことを証明せよなどという難癖をつけ、何の罪もないイラクに殴り込みを掛け、残虐極まる攻撃を仕掛けたのは米英である。彼らは新たな武器の宣伝に、古い武器の刷新に、イラクの良質で豊富な石油の収奪に、また軍需産業の儲けと回転に、更には自分達で破壊しておいて建設を請け負うというマッチポンプ収奪迄してきた。イラクの国宝の多くがアメリカに盗まれたのは周知の事実である。にも関わらず、国籍がアメリカだというだけで、彼らはイラク人より偉い、或いは命が重いと考えているらしい。愚か者である。
どういうアイロニーか。今作では、おまけに医者になりたいと言う者が人殺しを生業としているのだ。精神的に穢れていることにも気付いていないかのようではないか? 少なくとも遠い木霊のようにしか彼らの魂には響いていないのだ。そして、心は正常を装っている。何と悍ましい欺瞞であることか! おまけにそれを軍に来なければまともな人生が歩めないせいにしているのだ。よその国に出掛けて行って頼まれもしない人殺しをし、あまつさえそれを正当化する為手前のスケベ根性を丸出しにしていやがる。下司野郎! それがアメリカ人の姿だろう。少なくとも一方的にやられる側からはそのように見られて当然である。
ISが、各地で騒動を引き起こしている。しつこいようだが、そもそもISのような組織ができてしまった主たる原因がアメリカ・英国が中心になって起こしたこのイラク戦争であった。はっきり言って英米はイラクにいちゃもんをつけ、無辜の民を虐殺、レイプ、拷問に掛け恥辱を与え大地を穢した。バクダッドのような人口密集地で大量のDU弾を用い地球の年齢ほどの半減期を持つ放射性核種で汚染した。
無論この汚染に関して国連も英米も知らんぷりを決め込んでいるが、これは明らかな人道に対する罪、戦争犯罪として賠償させるべきである。仮に彼らの主張するように原因がDUの放射線ではないにせよ、重金属毒性の可能性も含めて国際的な第三者委員会による検証が必要である。そして客観的判断で英米のDU使用に非人道性があったと認められた場合、彼らは、国家が破綻しても払いきれぬだけの借財を背負うべきである。当然のことだ。 
殊に副大統領であったチェイニーの悪、ブラックウォーターの創設者、エリック・プリンスらの戦争犯罪は国際的に指弾されるべきである。ブッシュにも無論罪はあるが、彼の最大の罪は愚かであったこと。愚かであり続けていることである。丁度、パシリ安倍のように。
今回の観たいで自分は原作者が殆ど原作を書くためのデータをインターネットで集めた、と書いたが、彼は全部をインターネットで集めたと言っていた。こちらが自分が聞いた正確な話である。観たいでは少し遠慮して書いたのだ。だが、恐らくネットで集めた情報は、一般的米兵の言質に近かったのだろうと再演を拝見して思う。露骨な表現がたくさん出ていることからも、在日米兵から得るデータ・印象からも、非公式な場所でホントに語られていることに近いだろうと思うのである。その生の感覚を吉原さんの見事な翻訳は、日本で暮らす我々にも届けてくれている。この自然な日本語にトランスレイトされた翻訳の、本質の正確な捉え方がなければ、今作は、ここまでキチンと我ら観客に届くことは無かったであろう。
【韓国】第12言語演劇スタジオ『多情という名の病』

【韓国】第12言語演劇スタジオ『多情という名の病』

BeSeTo演劇祭

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2013/11/05 (火) ~ 2013/11/06 (水)公演終了

満足度★★★★★

知的演出
Polyamoryを実践する多情という女性の生き方はMonoamoryが当たり前と考える社会で成立し得るのか? という問いが今作の基本テーマである。実際問題、異性と付き合うに当たって一人と付き合って自分の望む異性像の総てが満たされるということは殆ど無いだろう。あれば、奇跡だ。精神的な部分で相性が良くても、体力、年齢差、身体的相性など、総てが完璧などということは、完全に無いとは言えないだろうが、先ず無いと断言して構うまい。ということは、一見、どんなに不足が無いように見えるカップルでも、1つや2つの相違、行き違い等は、誰しも抱えているのに、総てが満たされるなどということは無い、と皆知っているから妥協しているだけ、というわけだ。

ネタバレBOX

 今作のタイトルは高麗時代に書かれた「多情哥」という有名な詩から取られている。作・演出のソン・ギウンは、謙遜して私的な世界と言っているが、これは、現代だけの問題ではなく、男女間にある普遍的な問題であるということができる。初演は2012年6月ソウル。
 作・演出のギウン本人が、彼役の役者が居るにもかかわらず、作品に登場したり、多情役の女優が二人居たり、多情という女性には、モデルが居て、その女性はホントに多くの男とリアルタイムで付き合っていたり、と。リアルな世界と舞台とが、舞台上で入れ子細工になるとても知的で面白い演出方法で、演劇手法に興味のある人には堪えられない舞台である。
 誰しも嫉妬などの生臭い関係を想起するシチュエイションを救っているのは、ギウンが、恰も社会学の研究者のように多情とその恋人達の関係を捉えようとすることによってである。例えば、factを表にした彼女と付き合う男達のデータ分析である。この表を見ることで、彼女と男達の付き合い方がパターンとして見えてくる。どろどろの関係が、抽象画の面持ちで現れてくるのだ。だが、この知的転換が、多情にとっては、ゲーム的で、対ギウンで愛憎半ばする原因であり、ギウンにとっての救いなのである。
 多情は本気である、と信じている。唯、心の動くままに愛し別れるのだ。だから、変わってゆくと。一方、ギウンは、その知的作業を自らの意識の地平で行う為に、破綻・発狂という事態を生じない限り、己のディメンションを超えることはない。(追記後送)
韓国新人劇作家シリーズ第二弾

韓国新人劇作家シリーズ第二弾

モズ企画

タイニイアリス(東京都)

2013/11/27 (水) ~ 2013/12/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

メタ演劇
 上演回によって、演目が異なるので、よく確認のこと。

ネタバレBOX

罠 
 閉店間際に飛び込んで来た偏執狂的な客と量販店のカメラ売り場店員、店長、警官を巻き込んでのファルス。客の職業は弁護士だが、デートの約束がある女店員を相手に、来店の目的を一言、箱の表記と中味が異なるので交換に来た、と言えば済むものを、交換に来た、とだけ言うものだから、店員は、当然、商品に不具合があるものと考えて、その点について質すと、言い方に難癖をつける、人権問題だと食って掛かる、おまけにパソコンで確かに、この客が、昨日、この店で、この商品を買ったことなどを確かめただけなのに、48回分割払いにしたことについて、個人情報収集に当たるのでは云々を言いだす。総てが、こんな調子なので、偶々、戻って来た店長と対応するが、一々、文句をつける態度は変わらない。終に堪りかねて警察に連絡、警官が来るが、、その時、強盗だ、と言って警官を呼んだことに対する抗議は延々と続き、20時少し前に来た客は0時を回り、朝を迎えるかも知れない状況で、互いのバトルが繰り広げられる。店側の反撃は、客が店長と女店員の写真を撮ったことを肖像権の侵害、と言う、それに対して客は、客が、カメラテストの為に、撮影をしたからと言って店員の肖像権が成立するのか、と反論する。或いは女店員に対するセクハラ容疑写真についても、幕切れで反論を始める。
 この作品の基本はファルスなのだが、受賞作となった原因は、このラストが、ホラーに転化し得ているからだろう。余りにもくどい、店員たちへの顧慮等一切ない、偏執狂的言質で、一般人を追い詰めてゆく弁護士より、観客は、店員たち、警官を気の毒に思って観ている。つまり観客のメンタリティーは、一般人に同情的なのである。だが、その彼らが漸く手にしたかに思われた勝利は、弁護士の反論によって覆されるかもしれない、という所で幕を下ろすことによって、ファルスはホラーに転化したのである。
 更に、俯瞰的に見てみよう。作る側と観客とのオルタナティブな関係が、演劇を成立させることに思いを馳せるならば、作る側はこのメタ作品を呈示することが役割、一方観客はこの構造を見抜き、再びファルス次元に戻して現実に戻るのが、役割だ。即ち、作る側の提示した作品と観客とが想像力の綱引きをすることによって、劇場を後にすることが出来るか否かをも問い掛けているだろう。そのように知的なゲームであることによって、今作は、喜劇たり得ているのである。
ピクニック
 年老いた母は、アルツハイマーを発症している。彼女は、娘を1人産んだが、その潔癖症と神経症的傾向から、娘の行動範囲を厳密に結界で区切り、自由を奪って育てた。その潔癖症は、1歳になるかならぬかの娘が、食事を食い散らげることをも許さない有り様。おむつにする排泄物に関しては、推して知るべし、である。その娘も子を産んだ。自らの経験に内心我慢ならない娘は、自分の子を自由に育てたいと望む。従って結界を設けない。漸く、立ちあがってよちよち歩くことができるようになった頃、子供は、海へ行きたいと願う。ピクニックである。3人は連れだって海辺へ出掛けたが。アイスクリームを買いに行った娘が戻り掛けると、子供は、海に面した弾劾に向かってゆく。老母は蕎麦に居るが。アイスクリームが溶ける。若い母は立ち尽くす。
 この時の経験を巡ってアルツハイマーを発症した老母と若い母とは、延々と過去と現在を往還する。その束縛と自由への憧れ、起こったはずの事実と事実を認識する狭間での乖離、互いの認識ギャップと認識主体の崩壊過程に於ける不如意を、聖職者の着るちくちくする着衣のような老母の編み物と若い母の悔痕の情・母性、客観的なもの・ことを総て曖昧化してしまう老母の妄想を、蝋燭の朧げな光でないまぜにし、想像力の時空へ誘う金 世一の能を意識した演出が巧みである。また、文字を打ち出す時のスタッカートのような切れ、雷鳴、子供が操り人形で表現されている点にも注目したい。映写シーンで糸の絡まる人形の大写しが映し出されるが、このシーンの象徴性にも着目すべし。
ひなたのなかのこども

ひなたのなかのこども

風雷紡

d-倉庫(東京都)

2014/08/13 (水) ~ 2014/08/19 (火)公演終了

満足度★★★★★

アプローチの見事
 言う迄もないが、この作品は下山事件を背景としている。1949年7月5日、国鉄総裁が轢死体となって発見された事件である。未だ占領下、ドサクサの日本でGHQの関与も噂される難事件だから、どうやって手をつけたらいいか、多くの者が、途方に暮れる。その難事件を、風雷紡は、“どう亡くなったか?”ではなく“何故、亡くなったか?”と問うことで、独自解釈の糸口を紡ぎ出している。つまり、総裁の人柄に焦点を絞った。そして彼の性格描写に決定的な役割を果たしているのが、宮沢 賢治の「銀河鉄道の夜」今作のタイトルの取られた詩「金策」である。
 設定の上手さ、シナリオ、演出の無駄の無さ、効果的な舞台美術や役者紹介フィルムまで含めて、時代を感じさせる手の込んだ作り、音響、照明の効果的な用い方、変にベタベタさせない冷静さと想像力を刺激し、人間の何たるかを考えさせる深い技法。見事である。(追記後送)

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