ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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パヴェル=マリア 第7番

パヴェル=マリア 第7番

劇団リベラトリックス

d-倉庫(東京都)

2012/12/14 (金) ~ 2012/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

歴史
 歴史が勝者に都合のいいように書きかえられた記述に過ぎないことは、今更言う迄もあるまいが、滅びていった者達の無念がどうなったかについては、誰しもが心に掛けることではあろう。
 戦争とは、無論戦闘行為も指すが、実際には、ロジスティックや情報戦も大きな位置を占める。それどころか戦闘局面などより遥かに大切な部分である。情報戦は、作戦の立案から、情報攪乱・操作、敵の情報インフラ破壊・分断、真実の隠匿等々、様々な側面を持つ。基本的には、情報を制した者が勝つのだ。裏切りなどは、倫理的問題であるより情報の質の問題である。
 劇中にも二人の優れたまじない師が出てくる。片や、裏切り者として、片や仇を晴らす者として。彼らの立場を現代に置き換えてみるならば、科学者やメディアの人間とでも言えるだろうか。要は知的エリートである。彼らの画策した結果が、何を齎し、人倫は地に落ちるか否かも劇のテーマとして取り入れられており、楽しめる。

「クララ・ジェスフィールド公園で」

「クララ・ジェスフィールド公園で」

メメントC

pit北/区域(東京都)

2012/12/14 (金) ~ 2012/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

力演
 史実に近いのだろう。日本が中国大陸で行った三光政策の残虐非道もきちんと言及されている。日清・日露戦以降、日本は子供が背伸びをするように幼稚な戦争をしてきた。国際連盟での振る舞いを見ても、軍部の独走とそれを許した世相を見てもそれは言える。更に恐るべきは、偶に合理的な意見を出されると愚にもつかない精神論を用いて潰しに掛かる愚かさだ。これが現代になっても一向に変わらないことである。原発推進派の言動を見ればそれらは明らかだろう。
 そんな危機感が演じる側にあったのかも知れない。クララの身辺に起こる様々な事柄を彼女の人間関係を描くことで自然に、而も観客に時代を追体験させるような距離感を以て、描いた、緊迫しつつも芸域の広さをうかがわせる力演であった。
 それにしても裕仁のポツダム宣言受諾時の声明の、何と民衆と遊離していたことか。その背景にある「国体」護持という概念化の何と言うオゾマシサ、馬鹿らしさ。反吐が出る。

クラウド・エンド・オルタナティブ

クラウド・エンド・オルタナティブ

激団リジョロ

タイニイアリス(東京都)

2012/12/13 (木) ~ 2012/12/17 (月)公演終了

満足度★★★★

宙吊りという拷問
 欺瞞や擬制を排し、己の中心性を見出すべく格闘する若い精神とその苦悩を描いた作品と取ることも可能である。若者が日々感じている閉塞感、空虚感を宇宙空間に於ける絶対的な無根拠、即ち居所の無さと捉えた時、彼らの苛立ち、焦燥、耐え難さ、宙吊りになったままの拷問を生きる虚ろな存在感のあやふや。そんな総てが、彼らの精神を襲うのである。幸か不幸か、多くの若者は対処する術を持たない。その結果、前半部では暴力が全面に出てくるのである。

ネタバレBOX

 実際、バスジャックに遭ったバスの乗客は、手の届きそうな所を行く黒い空を見、更にはその向こうにある白い空に近づくのだ。これは無論、ブラックホールとホワイトホールの比喩である。一方、人間の本質を見ようとする時に宇宙ほど適切なものはまたとあるまい。何となれば、今や、我々生命を形作った物質は、宇宙、それも特に小惑星からやってきたと考えられているからだ。つまり生命の故郷は宇宙である。多くの者が、宇宙に興味を持ち、星の話に興味を覚え、懐かしさすら感じるのは、遺伝子に組み込まれた旧い記憶のせいかも知れない。宇宙の歴史やサイズから見れば塵のような存在であるヒトは僅か1500cc程の脳を用いて、宇宙の神秘に挑み、僅かではあってもその生成、姿、各々の関係などを発見し、意味付けようとさえしているのである。
それほど積極的には生きられない者達もいる。彼らのうちのある者は、存在しているという感覚を掴みたいばかりに自らを傷つけることを選び、他の者は、悪を選ぶ。それもこれも、自らの存在にアンカーを打ち込みたいが為だ。従って、これらの行為を頭から悪弊だの、犯罪だのと看做すのは、矢張り早計だと言わねばなるまい。無論、痛ましい犠牲者が出、それが、子供や弱者であるような場合、放置しておくべきではない。然し乍ら、若者達が目指したものが存在の闇でそれをを暴こうとするものであるなら、一考の余地はあろう。確か臨済録に“仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に会うては羅漢を殺し”云々という文句もあったではないか。それほどの事、或いは覚悟をしなければ、有徳の僧でも解脱など及びもつかないのである。そして、実存とは、何も哲学だけの用語ではない。我々の生きる日常そのもの。日々の選択であり、判断であり、その結果責任である。
 ヒトには、宇宙を司る原理と共に社会という名の共同体を維持してゆく為の原則がある。その原則は通常、掟として人々を縛り他者への無責任な対応を禁ずる。従って、これを守ってさえいればヒトは「大して苦労もせず」、他人より多くを分かる必要もなければ、殊更敵対する必要も無い。これらを真に必要とし、真剣に考え解決策を練るのは、常に道を踏み外した者である。それも己の快楽の為に他人を殺すようなことではなく、事故に巻き込んで他人を死なせてしまったとか、弱い者を助ける為に暴力をふるったが、打ち所が悪く相手が死んでしまったとか言う者は尚更である。一方、相手の家族にとっては、自分の親族を奪った者として、意図的であろうと事故であろうと関わりが無い、との立場を摂ることも可能なのである。
シニシズムを以て世界を断ずるか或いは想像力的に世界を捉えるかによって見解は変わってこよう。どちらがより豊かで実感が伴い、納得できる人生たり得るかへの問いでもある。
生きてるうちが華なのよ。

生きてるうちが華なのよ。

グワィニャオン

萬劇場(東京都)

2012/12/12 (水) ~ 2012/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★

面白い
  劇場内の案内などにゾンビメイクの役者が立っていて、インパクトがあった。小粋な演出ではないか。芝居は、二場に別れて途中休憩が7分。実は、この7分には訳がある。訳は会場へ行ってのお楽しみだ。
 今回は、3団体のコラボレーションであるが、息も合い単なるコメディではなく、作品に人間の、或いは人間関係の深さを投影することで浅薄な物にならず、かといって湿ったりもせず、良い按配の作品に仕上がっている。実際、笑いあり、涙あり。楽しめる。

Knight of the Peach

Knight of the Peach

劇団パラノワール(旧Voyantroupe)

サンモールスタジオ(東京都)

2012/12/05 (水) ~ 2012/12/09 (日)公演終了

満足度★★★★

童話と真
“正と邪”の2バージョンがあって、パラレルワールドになっているとのことだが、自分が観たのは“正”バージョンであった。
痛い生き方をしてきた者の面目躍如。一見残虐そうに見えて欺瞞を排し、却って温かい人間性を表現し得ている。社会の捉え方も資本が総てを支配するという資本主義の根本を捉えて小気味よい。
 暴力の象徴としてのやくざも資本の奴隷ではある。が、現代やくざは暴力よりは金の湧く泉を見付けるプロであり、悪知恵と暴力を効果的に用いる技術も持ち合わせているようである。この辺りの描写も興味深い。

ネタバレBOX

 更に深読みをするならば、二男による父、兄殺しがあってエディプスコンプレックスはやや複雑な様相を呈し、ヒトから見ると邪そのものであるはずの鬼は、奴隷同様鎖で繋がれて行動の自由すら無い。ヒトを食うより食わされているのである。ただ、そのカニバリスムによってヒトから恐れられると同時に蔑視もされているのは明らかだ。では、人肉を喰らう鬼達を支配しているのは何者か? と問えば御多分にもれぬ資本、政治、メディアである。童話の体裁で中々のアイロニーではないか。
 このアイロニーに満ちた世界構造を見切ったのが、疎外された鬼と不良少年・少女であったことは偶然ではない。痛みを負った者は敏感である。その鋭敏性が、虚飾を剥ぎ、最早人間的で素朴な悪ではなく、システム化された関係の悪の本質を嗅ぎ取ったのである。このような世界に働く力学は個人の持つ肉体的延長の域を否応なく超越している。その悪辣をこそ描いているのがこの作品だ、との解釈もできるほどだ。
 作家は余り深い意味も考えずにこの作品を書いた、と言う。それが、本当であれば、作家の鋭敏な感性は、以上のような現代の異常をこそ嗅ぎ取っていると言わねばなるまい。
 役者陣の体当たりな演技にも好感を持った。 
ゆめとあくま

ゆめとあくま

劇団 四葉のクローバー

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2012/12/06 (木) ~ 2012/12/09 (日)公演終了

満足度★★★★

志や良し
 現代の若者たちの寄る辺なさを表現している。(以下ネタバレにて)

ネタバレBOX

 少し驚かされたのが、本を読まなくなったと言われている若者が、ダンテの「神曲」を読んでいたことである。この作品は、神曲を孕みつつ、その観念を展開しているのである。尤も、未だ未消化を感じさせる点はあり、観念に振り回される点が無かったわけではないが、「高い」概念と格闘しようとする姿勢は評価できる。
 殊に神自身の罪を問うたことには、現在、この国に生きる若者たちの寄る辺なさが如何に深刻であり、悩み抜いているかを如実に示していよう。
 更に、論理の意味する処を深め、論理の切れを磨いて、出演する役者のキャラが、それぞれに立ちあがるような舞台を目指して欲しい。
さぶ

さぶ

劇団俳小

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2012/12/05 (水) ~ 2012/12/09 (日)公演終了

満足度★★★★

手堅さ
 終盤、畳み込むような追い込みで緊張感を増した上、思い掛けない真犯人にシナリオと演出の良さを感じたが、無論これだけでは終わらない。真犯人の告白を聞いて許し、却って寄せ場へ送られたことを感謝する辺りの収め方、何事にも間に合わない‘さぶ’の帰宅タイミングを間の悪さで笑わせて観客を送りだす所等も、流石に王道を弁えているのだが、このような職人芸が安定感を齎してしまった。芝居は、スリリングであって欲しい。

『宇宙みそ汁』『無秩序な小さな水のコメディー』

『宇宙みそ汁』『無秩序な小さな水のコメディー』

燐光群

梅ヶ丘BOX(東京都)

2012/12/05 (水) ~ 2012/12/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

燐光群の社会性
 「宇宙みそ汁」は清中 愛子氏の自家製手作り詩集「宮の前キャンプからの報告」、その前後の作品、拾遺と手記、坂手氏へのメール等を坂手氏が演出家として構成した作品である。基本的にはポエティックラングで書かれているテキストを複数の役者が、同時に発声し、詩行に合った所作を織り交ぜながら進行してゆく。そのややアップテンポなリズム感と微妙なハーモニーが美しい。
 「無秩序な水のコメディー」は、フランスで催されたフェスティバル、括りのキャッチフレーズとして用いられたようである。ただ、フランスでコメディと言う時、喜劇ばかりを指す訳ではないことも知っておいて損は無い。トラジェディーに対しては確かに日本で言う喜劇に近いが、コメディーということばは、演劇総てを指すことばとしても用いられる。別の言い方をすれば、悲劇は、悲劇の当事者によって書かれるのではなく、その周辺に居る者によって書かれ、喜劇は、悲劇の当事者が生き延びる為に自らを嗤いの種として書く傾向はあるかも知れない。
 何れにしろ、「入り海のクジラ」「じらいくじら」は共に海を汚染した二本足の、生態系への誤魔化しようの無い深刻な犯罪と、それだけの罪を犯しながら更なる愚行に走る二本足の「知恵」を告発して止まない。「利き水」も人災3.12を静かに、然し鋭く告発する優れた短編である。

桃中の侍〜壬申の変

桃中の侍〜壬申の変

演劇サムライナンバーナイン

劇場MOMO(東京都)

2012/11/28 (水) ~ 2012/12/02 (日)公演終了

満足度★★★

男・男 女・女 ミックス
 ショートプログラムのキャスティングとしては、男性グループ、女性グループ、混成グループの3パターンがあったのだが、それぞれの作品で、~らしさが見られたことは興味深い。一方、シナリオの発想には、もう一工夫欲しい。

ケイコ

ケイコ

劇団→ヤコウバス

戸野廣浩司記念劇場(東京都)

2012/12/01 (土) ~ 2012/12/02 (日)公演終了

満足度★★★★


 10分ほど遅れてしまった。コヘイジの女房の名がケイコなのとコヘイジが稽古熱心なこととは、当然、掛け言葉になっているのだが、コヘイジの友人、タクロウの絡み方が面白い。上演時間1時間20分ほどの短めの作品だが、いくつもの仕掛けが施されていて、観客のグレードによっていくらでも楽しい観方ができる作品である。以下、ネタバレで、いくつかその仕掛けを見ておこう。

ネタバレBOX

 タクロウは、コヘイジの友人なのだが、女房のケイコにホの字である。それで、隙あればコヘイジを寝取られ亭主にしてやろうと虎視眈々。偶々、コヘイジに幽霊役をやったらと提案、真に受けたコヘイジが大当たりをとって、女房にも感謝されると、巡業に出た旅先で花見に誘い殺してしまう。そのまま、素知らぬ顔で帰ってきた後、コヘイジの死にまつわる嘘をでっちあげるが、死んだはずのコヘイジは、ここで稽古をすると落ち着く、というお気に入りの稽古場、押入れからぬっと姿を現す。腰を抜かさんばかりに驚き、恐れをなしたタクロウだったが、コヘイジは、まだ、稽古に夢中で死んだそぶりなど更々見せない。只、透明な霊に優るような演技を目指して稽古に励み、女房と入り浸りになったタクロウに、自分を無視して日々を過ごしてくれ、と頼む。
 だが、この前に、コヘイジは、タクロウに殺されていた。巡業公演で、出掛けた際、花見に行った先で事件は起こったのだが、その時に大きな雨が降る。そればかりか、コヘイジの死にまつわる部分では必ず雨音が聞こえるのである。観客は、このことによって、既に死んでいる、幽霊・コヘイジが、幽霊を演じ、且つ、目の前で自分の女房が、他人に抱かれる姿を見て、何にもできないことを嘆かなければならない姿を見るのである。痛烈ではないか? 雨が、時空を超えるきっかけの役を果たしているのだ。
元禄ヨシワラ心中

元禄ヨシワラ心中

「元禄ヨシワラ心中」製作委員会

SPACE107(東京都)

2012/11/27 (火) ~ 2012/12/02 (日)公演終了

満足度★★★★

忘八
 恥ずかしながら日本の古語には知識が無いのだが、今日の舞台で忘八(ぼうはち)ということばを知った。劇中、吉原の楼主が科白で説明してくれたのだが、楼主などをやれば仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失くす、それで楼主のことをこう呼ぶ、と説明していたが、ちょっと特殊な言葉の説明は随所にあり、三味の音も良い味を出していた。筋立て、演技、演出も楽しめたのだが、いかんせん、観劇しにくい劇場である。吉祥寺シアターのような段差のある観客席であったら、もっとずっと楽しめたであろうに。観客のなかにも、レベルの低いのが、普段あちこちで観劇する時より、多かった、という印象を持った。

あかつき

あかつき

劇団匂組

アトリエだるま座(東京都)

2012/11/28 (水) ~ 2012/12/02 (日)公演終了

満足度★★★★

生きる
 今、最も本質的でホットなテーマは、生きることだ。グローバリゼーションが、アメリカを中心とした白人による一方的な植民地的支配の焼き直しである中で、我が国の為政者は、自分と自分の仲間だけが甘い汁を吸い、安楽に生き延びることだけを考えて汲々としている。官僚とつるんだ連中が、丸投げ以外何もせずに3~4割を抜いている現状を、民衆はただ認めていていいのか? 敗戦後、我が国にも貧しいながら自由闊達な時期があった。その時代の物語である。人が、未だ連帯とロマンチックを超えないニヒリズムの範疇にいられた頃、我が国の人は人間であり得た。今と違って。そのことを端的に表現している。小さな小屋で、乏しい予算で、作られているが、内容は豊かである。役者のレベルも高い。自然な演技がfできているのだ。観に行く方は、各々、大切なものを掴み取って劇場をあとにして欲しい。

でんすけ

でんすけ

JAPLIN

劇場HOPE(東京都)

2012/11/21 (水) ~ 2012/12/02 (日)公演終了

満足度★★★

ベタ
 余りにもベタ。然るに評者は、観客を叱りたい。演者は、余りにも心優しいからである。もう少し、彼らの力を上位に向けさせて欲しいのだ。それに耐えるだけの力があることを役者たちの何人かが見せているからだ。演劇は、歌舞く世界である。それをベタレベルに落とすのは、観客の責任だ。見る側はもう少しソフィスティケイトされた存在であって欲しいとい心から願う。星の数が3つなのは演者の責任ではない。観客の責任である。演者のレベルだけで言うなら星4つをつける。

世界は僕のCUBEで造られる

世界は僕のCUBEで造られる

ACTOR’S TRASH ASSH

吉祥寺シアター(東京都)

2012/11/20 (火) ~ 2012/11/26 (月)公演終了

満足度★★★★

観客を馬鹿にしちゃいけない
 シナリオ、演出、振付、音響、舞台美術、照明などプロのものだが、出演者のヒエラルキーは時代遅れ。観客を見下したプロ意識も感じる。これは、出演した子供達に対してではなく、裏方の大人たちに対してである。これだけの才能を持ちながら、何故、観客のレベルも上げようとしないのか? 目先だけで金を稼ごうというのでは、余りに寂しい。下らないヒエラルキーの弊害は、出演者に出ている。ヒエラルキー上位の者は、音節レベルで科白をがなりたてても許されるのか? 科白の意味する所を敢えて曖昧にする、との演出に意味があるならばそれで良いが、そうでは無かろう。腕がプロなだけに、当然、これは意図的なはずだ。であればその必然性を作品に示すべきである。然し、それがあったとは感じなかった。もう少し謙虚に世界と対峙して欲しい。その上で、各々の持っている優れた才能を発揮して欲しいのだ。

苦情★真に受けTV

苦情★真に受けTV

妹尾Pファクトリー

新宿シアターモリエール(東京都)

2012/11/22 (木) ~ 2012/11/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

業界
苦情★真に受けTV
 舞台との関係が深い業界を描いているだけに、細部に活きた科白があり、現場と利害のきしみが見えるばかりか、それを逆、矛盾、透かし、換骨奪胎などのテクニックによって笑いに昇華している点で素晴らしい。テーマソングも効いている。

「限定解除、今は何も語れない」+「あと少し待って」

「限定解除、今は何も語れない」+「あと少し待って」

A級MissingLink+三角フラスコ

王子小劇場(東京都)

2012/11/24 (土) ~ 2012/11/26 (月)公演終了

満足度★★★★

以下の通り
限定解除 今は何も語れない
 演出がユニークだ。情況把握が困難な中にあって、人はどう動くのか、動けるのか? が ぎこちなさを意図的に表出することによって表現されている。3.11と3.12の事象に対し、また自然災害と人災に纏わる異質な分かり難さが片や神話的分かり難さとして片や隠蔽に由る分かり難さとしてである。然るに問題は庶民を直接襲う。待った無しである。これらの難題を庶民は解決し得るのか? との問いの前でアイデンティティーの揺らぎを表現しているとみて良かろう。演劇的には、稚拙というほかないのだが、コピーライターをやっていた自分が、持ち上げて上記のとおりである。
あと少し待って
 群盲象をなでる、といった情況を追体験させる為に照明を落とし、アイデンティティーのハッキリしない登場人物を組み込んだことによってメタレベルへ遷移することに成功している。疑心暗鬼という情況が出来しているからだ。被災地の厳しい情況が、これだけで充分対比されている。このことは、ラスト近く、最悪、と部外者なら評し得る、地場の人々の抱え込んだ問題を「始まったばかりだ」と認識する姿勢に端的に現れていよう。演劇的には、こちらが明かに高い。メタファーとしての含みを活かし得た舞台であった。
 

星の息子

星の息子

燐光群

座・高円寺1(東京都)

2012/11/16 (金) ~ 2012/11/28 (水)公演終了

満足度★★★★★

彼我の差
 今まで沖縄についていくつもの作品を書き、発表してきたからこそ、大和と沖縄の距離に気付き、更なる深化を遂げた作品だ。フロンティアに自身の身を晒して来た坂手氏の緊張感に満ちたシナリオ、いつもながら、役者陣のしっかりした演技、会場に入るや否や、飛びかかってくる権力の犬達の恫喝、座席へ着くまでに幾重にも重ねられた衝立を模した障害物が、現地の臨場感を想像させる。着席すると、手書き原稿を印刷した実感のこもったリーフレットで更に詳しい現地の様子が分かる仕組みだ。やんばるの森に囲まれた東村高江は、ジャングル訓練センターの隣にある集落だ。この作品の舞台でもある。人口僅か150名のこの集落の周辺に、現在北部訓練場にある22か所のヘリパッド以外に新たに6か所のヘリパッドが作られようとしている。そのうち民家に最も近い物は僅か300~400mしか離れていない。如何に過重な負担が負わされてきたか、現在も続いているかを作品は提示した。我々は何をすべきか。今それこそが、我々に問われている。世界は垂直軸の中にある、という表現に、この作品の詩魂が込められていよう。

真心願

真心願

super Actors team The funny face of a pirate ship 快賊船

ブディストホール(東京都)

2012/11/21 (水) ~ 2012/11/26 (月)公演終了

満足度★★★★★

快作
 日本史の中で最も興味深い幕末に題を取り、現在なお続く無能で恥知らずな、この国の為政者の支配体制を撃つ言葉が飛び交う。痛烈ではあるが、心と魂の奥深くに秘めた情熱、命と知恵の総てを賭けて問題群と闘う若者たちの姿勢が物語をぐんぐん進展させて気持ちが良い。

ロックミュージカル『Marionnette〜マリオネット〜』

ロックミュージカル『Marionnette〜マリオネット〜』

ショーGEKI

こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)

2012/11/17 (土) ~ 2012/11/25 (日)公演終了

満足度★★★★

カルナバル
 前後半、休憩を挟んで約3時間の舞台だ。前半は、これでもか、というカルナバルのどぎつさや怪しさ、騒々しさを出され、辟易したが、休憩を挟んだ後半は、場転はないものの、カルナバルのどんちゃん騒ぎから、愛の普遍性を問うストーリーテリングものに質的遷移がなされ、前・後半で対比が為されることによって俄然、面白みが増してきた。全般のアットモスフィアが、未だ残っている中でシリアスな話が進行してゆくのが、ある種のアットモスフィアを生み、本来デモニーッシュな傾向を持つカルナバル的キャラクターが途切れなく登場することによって、完全なハッピーエンドに終わるような結末を避け、謂わば、一抹の不安を残すような大人の演出になった。

赤い羽毛

赤い羽毛

ぬ企画

中野スタジオあくとれ(東京都)

2012/11/15 (木) ~ 2012/11/18 (日)公演終了

満足度★★★

ゆらぎ
 デカダンスとヴィラネルを対比するためには、その揺らぎが現れる場所をきちっと構築しておく必要がある。その構成が若干弱かった。言い換えれば、物語が進行する舞台の設定をもう少し深く考えるべきであった。時代が混沌としているというのは、どういうことなのか? 価値観が多様化したなどという俗説があるが、本当のことか? 価値が、価値観が、無限に風化したのではなかったか? そこに起こったことは何かを、設定で示すべきであったのだ。たとえば舞台上のガラクタの、置き方を鋭く問うべきである。中心と周縁を舞台美術でも表すべきだった。
 演技に関しては、やはり、役者の身体から滲み出るもので勝負して欲しい。蜷川さんではないが、初日までに科白が入っているのは、当然の前提で臨んで欲しい。滲み出る者で勝負するのは、其処から遥か先の課題である。
 以上のことが整えば、シナリオの詩的イマージュや聖俗の対比などもずっと効果を持つようになろう。

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