ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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【千秋楽当日券ございます】値札のない戦争

【千秋楽当日券ございます】値札のない戦争

劇団印象-indian elephant-

こまばアゴラ劇場(東京都)

2013/10/24 (木) ~ 2013/10/28 (月)公演終了

満足度★★★★

時代を見ようとする目
4年前に国連決議された一国一核制度のお陰で、世界は完全に平和になった。戦争カメラマン、タリタリは、世界的に知られた戦場カメラマンだが、世界中に平和が蔓延してしまって仕事が無い。それで、旧知のヌードカメラマン、橋の事務所を頼った。二人は、友人だが、国籍は異なる。橋の国は、かつて、タリタリの国を植民地化していたのだ。
 何れにせよ、目先の問題は、仕事が無いことである。橋も優秀なカメラマンなのだが、モデルに手を出すのが早く、業界では要注意人物なのである。
 こんなわけで2人とも崖っぷちに立たされていた。尚、事務所には、もう1人、音門という仲間が居る。マネジャー役とでも言っておこう。橋の大学時代の写真部仲間なのだが、音門は、被写体に寄ることができず、プロはあきらめたのだった。
 何れにせよ、食わなければならない。企画を出し合うが。ここには、もう1人、押し掛けてくるシェルターの販売人、ラーニャソンがいる。彼女は、タリタリと同国人だが、矢張り、平和のせいでシェルターが売れない。
 彼らは日々、新たな企画、売れる企画を考えていたのだが、終に、その企画を発案、チャレンジしてみた。結果は爆発的なヒットであった。平和に飽き飽きしていた人々に議事戦争写真を呈示したのである。だが、人々は、疑似的なものに、心象風景を犯されていった。(追記2013.10.28)

ネタバレBOX

先に、疑似的なものに云々と書いたが、物語では、このヒットのさなか、隣国との間で領有が問題化していた島を巡って問題が起こる。音門は、これを好機と捉える。最初は、漁船の乗組員が島に上陸した。その後、音門達の国の旗を持って上陸したグループが、島の最も高い場所に旗を立てた。だが、タリタリの国の軍に排除され、旗が焼かれたのである。タリタリは報道カメラマンとしての本能から、問題が起きると直ぐ、島に飛んで取材をしていた。彼女は、旗が焼かれている現場写真を写していた。彼女は、発表すべきか否か迷うが、音門に説得され1度はメディアに発表することを認める。直後、前言を翻すが、時すでに遅し。時流に乗ったこの写真も、人々の戦争気分を加速させた。
 今作では、このように領土問題が語られる。現在、3つの領土問題を抱える日本としては、耳目を集める話題であり、多くの人々が踊らされる元凶でもある。興味のある方は、「永続敗戦論」白井 聡著などお読みになると宜しい。白井が指摘する通り、領土問題を論ずるならば、双方の当事者が、交わした国際間の協定なり何なりの原典に当たる必要があるのは、当然のことだ。また、国境画定に関しては、露骨な力関係が支配するのは、常識である。その上、国際関係の様々な利害、歴史的事情等々が絡み合って成立する諸条約・協定については、一見矛盾するような事態が度々生ずる。だが、互いに再度、戦争をして新たな領土画定競争をするのは忍びない。こんな事情があって棚上げにされて来たわけであるが、背景を知らず、知ろうともせず、またキチンとサジェッションしてくれるような有能なブレーンもいない場合、虎の尾を踏んでしまうのだ。そして、己は、そのことに気付きもしない。これは単なる馬鹿である。丁度、現政権トップがそうであるように。
 更に悪いことが、今作では描かれているのである。それはメディア操作によって踊らされる人々についてである。
 ひと頃盛んに言われた、勝ち組・負け組。この根底にあった価値観は、サッチャーがかつて述べた「社会というものは無い。私のお金、私の成功があるだけだ」という悲愴な発想と同根だろう。
 この論理に沿って行動しているのが、音門とラーニャソンらであるが、ラーニャソンによれば彼女のカメラとは即ち金、そのカメラは、「両カメラマンよりも世界をより写すかも」と宣う。因みに彼女の働くシェルター製作会社は、ミサイルも開発している。新しいミサイルはより強力であるから、シェルターを買い変えさせる需要に繋がり、シェルターを買い変えた頃には、また新たなミサイルを開発する、というである。かくして企業は安泰というわけだ。人々はたった一つの命を守る為には、永遠に買い物を更新し続けなければならないのである。
『うれしい悲鳴』/『太陽とサヨナラ』(終演しました! ご来場ありがとうございました!)

『うれしい悲鳴』/『太陽とサヨナラ』(終演しました! ご来場ありがとうございました!)

アマヤドリ

吉祥寺シアター(東京都)

2013/10/23 (水) ~ 2013/11/03 (日)公演終了

満足度★★★★

太陽とサヨナラを拝見
 ダークマターが支配的な宇宙の時空で、恒星は、何を探して無窮の時空を旅するのか? また、人は、何を求め何を縁に生きているのか? 悠久の時空を旅する者と、砂よりもちっぽけな、我ら、ヒトが思惟するものとの邂逅は、本当にあり得るのか? これらの問いが、ヒトの持つミクロコスモスと宇宙のマクロコスモスとの股旅物として描かれる作品。

ネタバレBOX

 恒星の持つ絶対的なパワー(熱、エネルギーポテンシャル、太陽風など)に対して、生物の母として、恒星をも擬人化された者として産み落とす母という存在を対置させることで、太陽の産んだ果実(生命)を呈示して、彼のレゾンデ―トルを明かすと共に、自らの存在意義も明らかにしている。(但し、その永続性については、母のイマージュと共に、生物の身体を一種の乗り物として利用するDNAを考えた方が良いかも知れぬ。また、母が、火の神を産んで亡くなったとされる記紀の記述を下敷きにしていると考えることも可能だろう。)
 シャイ(謎の生命体・実は太陽)を演じた糸山 和則の形態模写、身体能力の高さもみもの。
三人姉妹

三人姉妹

華のん企画

あうるすぽっと(東京都)

2013/10/24 (木) ~ 2013/10/27 (日)公演終了

満足度★★★★

演出にもう少しメリハリが欲しい
 作り込んだ舞台はさながら名画のようだ。衣装も19世紀ロシアの上流階級のそれである。役者の演技もかなりの出来だ。惜しむらくは、演出が、もっと作品にメリハリをつけて欲しかった。照明、音楽の選曲・使い方を変えるだけで随分効果が異なってこよう。舞台自体、かなりホリゾントが深いので、役者が普通の演技をしているだけでは、観客へのインパクトが弱くなってしまう。寧ろ、存在感を出すことに主眼を置いた方が良いのではないか? その出し方の一例を挙げれば、つかこうへいの口立てである。演出家が役者自身も気づかないような本質を掴み取ればこれは可能である。但し、これが、できる演出家は天才的な演出家と言って良かろうが。チェホフ作品の中でも傑作とされる三人姉妹になら、そのような全力投球の演出は、演じる側にも観客にも素晴らしい経験になろう。

支線ガード下・始発

支線ガード下・始発

劇団芝居屋

ザ・ポケット(東京都)

2013/10/23 (水) ~ 2013/10/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

早めに行くべし サプライズあり
 若手の伸長著しい、芝居屋の新作。然し、良い劇団というのは、本当に若手をキチンと育てる。早目に行くべし。開場10分後辺りから、サプライズがある。無論、本編は、キチンとした作りの世話物だ。(追記2013.10.26)

ネタバレBOX

 ガード下には人生がある。舞台設定はガード下に店を出す人々の共有スペース。丁度、ヨーロッパのアパートの中庭のように、広場脇に住居がある。今は、看板だけでヤクザとしてのシノギはない親分、村井が、前科者の行き場所が無いのを不憫に思い、自分のつてで飲食店などで働けるように手配した縁で、集まる者は皆家族同然の心安さで暮らしている。実際、一度、犯罪を犯した者は、その事情を斟酌されることも無く、只、犯罪を犯したことがあるという理由だけで、社会からはじき出されてしまうのが現実だろう。そのような行き場を失くした人々の避難所でもあるのだ。開演前に「アヴェマリア」が生の声で聞けるが、当然、この作品のテーマと通底している。
 さて、この広場で、今夜、村井の食堂のおかみ、良子への100度目の告白が行われる。集まるのは世話役、吉崎、親分の若衆(高倉、篠原、天津)かつて食堂で働いていて、今は結婚して長距離トラックのドライバーをしている竜子 現役の食堂従業員、保護司等々。100度目告白とは、言う迄もなく、小野小町の故事を下敷きにしている。言い寄る男(深草少将)に百夜通ったら、その時は云々というあれである。結局、この恋は最後の晩、少将が凍死して実らず、その後、小町は、生涯特定の男とは付き合わなかったと言われる。この辺り、三島 由紀夫の「卒塔婆 小町」、太田 省吾の「小町風伝」等にも援用されているので、演劇ファンならずとも、ピンとこよう。理屈はさておき、満願成就か否か、賽に細工はできても、女心に細工はできない。まして、おかみと親分は、兄弟同様に育ち、関係が近過ぎて、親分を異性とは感じていないのが正直な所と下馬評は言う。こと、惚れた女となるとからっきし意気地なしになってしまう、恥ずかしがり屋の親分、緊張に言葉もしどろもどろである。だが、口説き文句はとても素敵だ。
 ところで、こんなハレの日、よりによって隣町で強盗を働いた犯人が、この広場に隠れた。警察の張った手配網から逃れようと隅にあった段ボールに身を隠してそのまま、眠ってしまったのだ。それとも知らぬ一行、着替えを済ませて、座席も整え、百度目告白のリハーサルも終えて、いざ本番である。皆が、おかみに声を掛ける。親分が花束と共に愛の告白をする。下馬評通り、おかみは、断るつもりで居た。然し、答えを迫られた時に、見た皆の顔から、自分が、この若者達の母親になってやらなければ、と考え、申し込みを受けた。大喜びがひとまず収まると、片付けもしなければならない。それで、段ボールの捨てて在る場所へ行ってみると、何だか音がする。酔っ払いが段ボールを被って寝ていると判断した皆が、上に被せた段ボールを取り除くと、中から人が飛び出してきた。だが、それは強盗犯でピストルを持ち、高倉の彼女、美沙を人質に抵抗する。
 彼は、親の敷いたレールの上を懸命に走った。一流大学を出て、一流企業に就職した。上司の言うことは何でも聞いた、結果、失敗プロジェクトの責任を負わされ馘首された。だが、親にとっては自慢の息子、会社に行っている振りをし続けた。だが、給料日に振り込みがなければ、会社に行っていないことが、ばれてしまう。それで、郵便局強盗に走ったのだ。彼には人間関係を築くことができなかった。会社でも変人扱いされていた。
 これらの告白に高倉は、居場所の無かった自分の荒れていた時期を重ね、いきり立つ皆を押さえ、どうすべきかを協議する。とどのつまり、警察に通報してしまえば、自分達が、強盗犯を捕まえたと世間ははやし立てる。折角、静かで真っ当な暮らしを手に入れたのに今更、世間の耳目をそば立たせたくない。そこで、自首を勧めることにしたが、犯人は、中々、決心がつかない。そこへ巡回中の警官がやって来て手配写真を見せ「見掛けなかったか、注意をするように」と言ってゆく。その時、警官自身が犯人を見て、犯人ではないか? と疑うのであるが、高倉が、一芝居打ち、難を逃れる。頭を叩いて「てめえが良く似ているから、こんなことになるんだ」とばかりにやったのだ。これは、歌舞伎の「勧進帳」を思わせる。犯人も漸く、庇ってくれた人々が自分などより遥かに苦労人であり、それ故に優しく接してくれたことに気付く。そして、自分が、最早、独りではないらしいことにも。それは、警官の点数稼ぎにさせないよう、天津達が隣町の交番近くまで付き添うことになったことにも現れている。出掛けに「行く所が無かったら、ここに来い」と声を掛ける高倉の言葉が温かい。
『武器と羽』

『武器と羽』

Oi-SCALE

駅前劇場(東京都)

2013/10/23 (水) ~ 2013/10/28 (月)公演終了

満足度★★★★

嘘を糾すと犯罪者
 登場人物全員が嘘つきという設定で物語が展開する。導入がちょっと変わっていて、この場所に纏わる怖い話が色々語られる。ヤンキーが屯っているとか、女の幽霊が出るとか、通り魔騒ぎとか。そんな話の内容に合わせて、最後まで舞台は、夜の公園程度の明るさだ。

ネタバレBOX

 この最初の設定に呑まれるか否かで、評価がハッキリ分かれるだろう。因みに場面は、公園という設定だ。下手にベンチが1つ。中に灯りを仕込んだものを含めて、観客席側から、舞台奥へ直線的に置かれたコーン(工事現場などで見る奴。色は、青、緑と寒色系と公園だから、グリーンだ)。公園の傍らには河が流れており、水死の話なども出ていた。公園脇には、コンビニが1軒ある。
 11年前から、この公園にはホームレスが1人住んでいる。彼は、探し物をする為にここにいるのだが、その探し物とは、彼に生きる意味を教えてくれた姪である。然し、姪は11年前に亡くなっているのだ。探している本人もそのことに気付いている。
 ところで、この公園で通り魔事件が、立て続けに起こった。警察が乗り出し、犯人は、自首するという形で捕まったが、事実は、自首した者は犯人ではなく、ホームレスを神と崇めるコンビニのアルバイト店員。神からも「彼には黒い羽が見える」と言われている。つまり烏であると同時にサタンも含意しているかもしれない。何れにせよ物語の中で真実を観ていたのは、公園に居る野良猫と猫の生まれ変わりの烏(猫は何度も生まれ変わるという転生譚と猫の死体が殆ど見付からないという話をミステリアスに結び付けた、神と崇拝者たちの論理ではこうなっているのだ)で、神は己の中にどす黒くとぐろを巻く物から逃れることを願っている。それを烏=サタンに告げるのだ。サタンは理解し実行する。
 以上を深読みすれば、神は自ら善と称する為に、悪を前提とし、それが分かちがたく結びついた身体を殺すことで、自らは存在と袂を分かち偏在することを可能とした。実行する方法としては、殺害という汚れを悪に負わせ、それを忌むべき者として分けた。つまり、汚れ役を知恵者、サタンに任せ、己は良い子ぶることにしたのだ。自殺すれば、済んだことを、他者に汚れを負わせることで、自己純化の縁とし、己独り良い子ぶって、悪を他者に代弁させたのだ。出来レースである。ではサタンにとっての益は何だったのか? それは、地獄というもう一つの世界の頂点に立つ、ということだったのではないか? 何れにせよ、神そのものが、出来レースを演じているということに対する痛烈な皮肉と取れないことも無い内容であった。ホームレスの父は、教会を立てた聖職者で彼を精神的に救った姪の産みの親は姉で敬虔な信者である。然し、自分の立てた文脈に沿って解釈するならば、この姉の祈りは、気違いじみた信仰に対するパロディーである。
 通り魔事件に関しては、狂言であった。というのは、以上のことから必然的に出てくる。そして、殺されたのが、ホームレス(神の遍在を表していようではないか)殺したのが、自称、烏のコンビニアルバイト店員(サタン)、狂言を演じた二人の被害者が、世界の実相を知って絶望した者と娼婦であることも、この神話を現実世界との境目に置くことに役だっていよう。警察が、この物語の中で起こった唯一の事件(ホームレス殺し)を、無かったことにしてしまうのも、神が、不正を犯している以上、被造物でしかないヒトが誤魔化すのは当然のことと言わねばなるまい。また、通り魔だと言って自首した、コンビニアルバイトが、ラストで人を刺すシーンも、この伝で言えば、立件されない可能性が高い。何故なら、正義はサタンにあると本当のことを行為で示してしまったのだから。
かぞくや

かぞくや

劇団だるま座

アトリエだるま座(東京都)

2013/10/22 (火) ~ 2013/10/31 (木)公演終了

満足度★★★★

憂き世の人情
 ”独り暮らしのお年寄りや単身赴任者、身寄りのない方など寂しくて心に隙間ができてしまいがちな方々のメンタルケアをする目的で設立させて頂いた、有限会社「かぞくや」御指定の日時に出張致します”
 まあ、こんなコンセプトの会社である。有限という所が憎い。失敗の責任を社主が負わなければならない形態だからである。株式にしてしまえば、基本的に経営サイドの利用者に対する個人責任は無いのだから。小学校時代に習った法律では以上のようになっていた。法律の専門家ではないので、変わっているとしても自分は関知しない。それは、株式会社と同じである。という選択ができない形で会社を立ち上げていることが微笑ましいではないか? 

ネタバレBOX

 何れにせよ、だるま座の作品である。以上、述べたようなことは当然のこととして、芝居作りに当たっている。
 一方、いまどきこんな遣り方をしていたのでは、経営が苦しくなるのは必然である。実際、志とは裏腹に社長は料理下手、専務は、教本にしているスタニフスラスキーの俳優術を現場に持参、教本に従って盛んにおさらいを繰り返す。緊張を解く為にしているのだと思われるが、豈図らん乎。結果は、俳優術に縛られ、却ってスタニスフラスキーが理想とした俳優の身体から滲みでるような自然な演技とは真反対のコチコチのものになってしまう。結果、クライアントから来た余りの不評故に、現場出張からは遠のいていた。「頭では、分かって居るんだ」と「馬鹿と言うのは言う奴が馬鹿なんだ」が口癖である。この他、福祉専門の大学を卒業してこの会社に入った谷君は、要領を得ない。おまけにバイトでスタッフを務める金子君は、前衛舞踏家を自称、打ち合わせないなかったことばかりやってへまをやらかす。更に、TV番組の端役で緑のおばさん役をやった八木 メイは、その芸名を山羊だから、メイとつけられた らしい。何れにせよ、バイトでは女学生役ばかりやらされる彼女は「制服が何時も同じ」と不満たらたら。うら若い女性だが、緑のおばさん役で、本番に流れたのは何と手に持つ旗だけだった。それでもTV出演を鼻に掛けている。
この5人が、「かぞくや」のスタッフである。このメンバー、この質で、やっている仕事が、メンタルケアとしての「家族」というコンセプトだから、笑いあり、ペーソスありハチャメチャありというのは、想像できよう。で、当然のことながら、新しく開拓したクライアントも怒らせてしまい、ギャラはおろか経費すら払って貰えない始末。このままでは来月倒産確実という所迄追い込まれ、社長が、全員を集めて教訓を垂れている所を通り掛かった鈴木 勝男君、北海道の孤児施設で育った彼が、興味を持って事務所のドアを潜った。履歴書も何も持っていなかった彼だが、社長との面談で即採用となる。と、そこへ新規のクライアントから電話が入る。社員は、無論、拘束できるのだが、バイトは、本人の都合優先でシフトが組まれているので、専務がメモを見ると、当日は2人共にオフ。急遽、新入りの鈴木君も現場へ出向くことになった。明日が、新規クライアント依頼案件の初日。クライアントは、事情があって、出先のお宅に身元を明かせない。出向く3人の誰一人として訪問時刻などの詳細を知る者は無かったが、老人を狙った詐欺事件などが横行する昨今、分別のある老人なら、おいそれと他人を信じたりしないのは当然。で、出掛けた3人は当然の対応を受けた。部長は、実際の現場の玄関ドアを潜る前に必死のおさらいをしていて、間に合わない、谷君の説明はしどろもどろ、唯一、鈴木君が、キチンとした応対をし、老人に気に入られた。因みに、既にお気づきの方もあろうが、鈴木は鱸に通じ、勝男は鰹に通じる。おまけに、出掛けた先は釣り船を出す漁師の家である。
 女房に先立たれた老爺、名を三井 金太郎と言う。独り暮らしで、自分で何でもできるのだが、自分が断れば、「かぞくや」が倒産すると聞いて、情に絆され、面倒を見て貰うよりは、逆に面倒を見てやっているような状態にも拘わらず、憂き世の憂いや独居の寂しさを紛らわしてくれることもあって、週1度の訪問を受け入れるようになる。その後の展開が中心の舞台となるが、31日迄上演している。ここから先は、観てのお楽しみ。金太郎役の松岡 文雄さんが、実に良い味を出している。(休演日があるので、注意のこと。)


演戯団コリペ『小町風伝』

演戯団コリペ『小町風伝』

BeSeTo演劇祭

こまばアゴラ劇場(東京都)

2013/10/17 (木) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

コリペの小町風伝
 演劇団コリペ(1986年、釜山で結成)を率いる李 潤澤氏の演出になる今作であるが、実は、1992年に李氏は太田 省吾氏から直接演出を頼まれていた。その時点で演出しなかったのは、太田氏のオリジナルでは、沈黙に多くを語らせており、それは李氏とは、逆の方法であった為、その時点では沈黙を言語化することを断念せざるを得なかったのだと言う。互いに互いの力量を認め合えるだけのアーティストが、このような形で邂逅していたのである。その後の二人の付き合いは続き、20年余を経た今日、李氏は、かねてからの依頼に応えた。
 因みに、現代韓国の演劇レベルは、世界トップクラスである。才能が鎬を削る韓国内にあってコリペは、プロの集団、現在迄にいくつもの賞(東亜演劇賞、ソウル公演芸術祭での受賞、韓国演劇大賞での受賞等々)を獲り、韓国を代表する劇団の一つ。劇団員は、全員、舞台収入だけで食っている。それだけに、志も高く、技術もプロのそれである。今作でも、日本の能と朝鮮半島へ伝わった騎馬民族のサバンチギ、韓国に残る古典芸能の一つ、グツ、半島南部に残る矢張り古典芸能・仮面を用いたトッブェギなどがさりげなく織り込まれて伝統的形式を能面と対比させることで、単に歴史的推移ばかりでなく、現代に於ける互いの文化の歴史的潮流と融合を含めたムーブメントの方向性をも示していると見ることができよう。(追記2013.10.29)

ネタバレBOX

 幾重にも重ねられた時空と人間関係が、ひたひたと寄せる波のように我々の心を浸し、生の総体迄体感させるような感覚を呼び醒ましてくれる。
夜と昼、光と闇、若さと老い、一瞬と永遠、これら総てが、思考を追求することから解き放たれた不分明の央で、時に融和し、時に離れ、また寄っては距離の近さに戦く様に顫え、生命のリズムに呼応し、永遠の愛を一瞬に稔らせたかと思う瞬間に飛びさる。悠久の時が、波が我らにひたひた押し寄せるように寄せて足を濡らし絡め取る。
 このようにして我ら観客は、夢とも現ともつかぬ劇空間にいつの間にか取り込まれ乍ら、生命の息吹のようなものに、その気配や佇まいに出合うのだ。一旦、西洋的な論理のオーダーを捨て、魂を猶わせてみよう。其処には東洋が見えてくるはずである。
【終了致しました。ご来場誠に有難うございました!】劇団藝展『乾かせないもの・韓国版』

【終了致しました。ご来場誠に有難うございました!】劇団藝展『乾かせないもの・韓国版』

机上風景

タイニイアリス(東京都)

2013/10/19 (土) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

想像力の翼
 この作品を書いた人が、日本に住んでいることに驚嘆した。状況設定がどんぴしゃりだからである。戦争というものの本質的な悲惨は、寧ろ銃後にこそ現れる。限界状況は、前線に現れるが、それは、通常の思考の埒外である。従って、悲惨という人間的感情の残るドラマは銃後にこそ現れるのだ。作者の置かれた条件にも適っている。己の置かれた位置から、戦争という言葉に尽くせない不条理を見事に想像力で解いているのだ。それ故にこそ、休戦下の韓国の人々にもリアルな感慨と共に受け入れられたのであろう。この活きた想像力の見事さは、どんなに評価しても良かろう。キム・テソク氏の指摘するように世界の何処に出しても通用するレベルだと思う。
(追記2013.11.1)

ネタバレBOX

 韓国で机上風景が演じた舞台は残念乍ら拝見していないが、イェジョンによって演じられた今作の質の高さは、注目に値する。それは、前線に愛する者を遣り、帰りを待つという行為が、受け身ではなく喉から手が出そうなほど前のめりな待機であることからも解るであろう。本当に、何処にでもいそうな普通の人々が、戦時下に置かれた中で精一杯生き、悲しみ、何とか楽しく生きようと試み乍ら、苦しみを誤魔化しきれない遣る瀬なさに圧迫を感じる様、緊張し、大きく深いストレスを抱えるが故の思い遣りや、心遣いを懸命にする姿勢に深いリアリティーと努力を見る。それが、人としてできる精一杯の行為だからであり、正常を保つ為の日常だからである。
 然し、伍長が生きて帰って来ると、均等だった不幸のバランスが崩れ、途端に人間関係の破綻が現れる。状況に応じて変化する人々の心の動き、挙措が舞台化される緊迫感が凄い。而も、伍長の齎した情報の真偽は疑わしい、脱走の線もあり得るからである。そもそも、家族達の住宅に隠れるようにして戻って来たことからも怪しさは漂うのであり、疑義はその情報の不正確さから深まりこそすれ、無辜に近付きはしない。
 何より、戦争が始まってしまえば、互いに嘘を吐くのは常識である。その結果の相互不信が戦闘行為のみならず、戦争状態を維持するのだ。人は、己自身を守る為に嘘を吐いているつもりだが、実は逆にその嘘が、互いの信頼感を傷つけ、壊し、戦争を泥沼化するのである。戦争で最初に殺されるのは、実は人ではない。事実なのである。次にその事実を指摘する自由が、そして漸く始まった戦闘によって人が死ぬのである。家族住宅への伍長の帰還とその齎した情報による日常生活の破戒こそ、この段階を銃後で描いたものであり、いつ果てるともない戦争状態の悲惨を描いたものである。ユエの死は、このような銃後の「戦争」として描かれたと見て良かろう。無論、文学的素養のある者にはトリスタン・イゾルデ伝説が直ぐ頭に浮かぶであろうから、彼女の亭主である軍曹が生きて帰って来ることを予想するのは、容易い。演劇的にもそうする方が、効果的なのは自明であるから。だが、これら下らない知識などの齎すデジャヴュ感の是非はともかく、現に停戦中でしかない朝鮮戦争のリアリティーを作品は淡々と描いて見せるのだ。
 軍曹の帰還後、彼はユエを探すわけだが、伍長の齎した誤った情報によって、生きる力を失い自死してしまったユエの不条理な死と、彼女が生きていると信じて帰って来た軍曹の出会った替えのきかない事実、未来への空虚は、戦争の実態を暴き告発してもいよう。 
ラストシーンも印象的である。飛行機が着陸音を響かせて近付いてくる。人々は、信ずる何事も持たず、女達は次の展開を待つ。乾かすことのできない彼女達の涙と共に。
 この作品を観終わって韓国の観客達は、休戦中でしかない現実の中に戻って行くのだ。開戦以前から既に、開戦以降は尚の事、誰一人傷つかぬ者の無かったこの戦争の休止状態へ。
 キャスティングの妙に見られる演出の巧み、天気さえ良ければ乾く洗濯物と、いつ終わるともなく続く戦時体制の下、大切な者の帰還を待ち続けて乾くことの無い女・子供(直接には描かれていない)達の涙を対比して心に響く。
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eeney meeney baby moe

eeney meeney baby moe

salty rock

レンタルスペース+カフェ 兎亭(東京都)

2013/10/18 (金) ~ 2013/10/21 (月)公演終了

満足度★★★

予め奪われた未来
 3作品のオムニバスで、2作目が、清水 邦夫の「僕らは生まれ変わった木の葉のように」からの抜粋。だが、3作品に共通すると感じられたのが、中心性の喪失というテーマである。

ネタバレBOX

つまり向かうべき目標が、予め奪われているような喪失。もっと端的に言ってしまえば、未来の喪失と言い換えても良い。2作目は、抜粋なので、清水の狙いが明確に表現されておらず、中途半端に革命を志向するだけの薄っぺらなものになってしまっている。3本目も、決意や英雄譚に対する評価ではなく、むしろそれを利用する連中の政治に対する、悪意ある寓話を創る位の視点で書かれていなければ、革命、反革命を乗り越えて、流された血で政権を樹立することなどできはしない。そのようなリアルな視点に欠けるのだ。1作目の終わり方は、洒落た落ちを設けていたが、もう少し哲学的な深みも欲しい。
賞味期限の切れた毒薬

賞味期限の切れた毒薬

マグネシウムリボン

d-倉庫(東京都)

2013/10/16 (水) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

満足度★★★

表現に纏わる仕事
 避暑地に集った文人墨客の通信紙として新聞の体裁で発行されていた媒体を基に発展的解消を遂げた結果として定着したタウン誌、スートラは、その長い歴史の中に、複雑な人間関係をも孕み込んでいた。1年10か月前に休刊となったが、休刊迄、前編集長、セイさんが膵臓癌で辞めた後を継いでかおるが編集長を務めた。然し、彼女は最終号の編集作業中、理由も告げずに失踪。編集部員との間に齟齬が生じていた。

ネタバレBOX

 舞台は、セイさんが亡くなった葬儀の後、かおるの声掛けで編集部員全員が集まった編集拠点のカフェ・スートラで展開する。かおるは、自分が、失踪した原因を皆に明かす。それが、メインストリームになるのだが、編集者出身の自分にとって面白かったのは編集会議のぶつかり合い。あとは、良くある男女関係のいざこざと子供が抱えるに至った複雑な関係で、申し訳ないが自分には、既に処理済みの問題故、余り興味が持てなかった。
 編集者出身の自分として基本的に個人的にどんな事情があろうが、編集者は、個人の事情を理由に編集をすっぽかすべきではないと思っている。いくらタウン誌でもである。本来、表現者は永遠と戦い、編集者は表現者と伴走する以上、他の業界の規則などに縛られていてまともな仕事などできるわけはないのだ。その辺りの事情を感じていればこそのタイトルかも知れないが。
 家族? 関係ない! これが、我々がバリバリ働いていた時、男の実感であった。
 
未来を忘れる

未来を忘れる

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2013/10/18 (金) ~ 2013/11/01 (金)公演終了

満足度★★★★

面白哀しい物語 未来版ヤプーか?
 近未来かどうか、兎に角、そんなに遠くは無いと感じられる未来のある時、日本は、隣国からのミサイル攻撃を受けた。その後もミサイルは打ち込まれ続け、そのうちの1発は核施設に命中、甚大な被害を齎した。同時期、M8を超える大地震が、3度も日本を襲い、津波とのWパンチでこれまた大きな損失を被ると共に、多数の人命が露と消えた。悪いことは重なるものである。この時期、火山活動も活発で各地で噴火が起こり、放射性核種に由る汚染のみならず、火山から噴出した有毒ガス等も加わり、日本の経済、インフラ、情報総てがズタズタになった。戦争自体は、アメリカ軍のミサイル攻撃により隣国の首都が、消失したことで3カ月で終了したものの、廃墟となった日本の避難民は確認された者だけで500万人を超えた。無論、富裕層は初期の段階で皆海外に避難しており、ダメージは最小限に留まっているが、脱出できなかった者たちに明日のあろうはずも無い。

ネタバレBOX

 こんな事態を見透かすかのように某製薬会社が新発明をしていた。深刻な副作用は報告されていたが、ことここに至っては、選択の余地は無い、として多くの人々が、新発明の効果に頼った。実際に何がどんな風に変わったかと言えば、貧乏なヒトはゴキブリとのハイブリッドとして生き延びる道を余儀なくされたのである。無論、この流れに抵抗を試みるヒトは居た。然し、3億年以上もの間、殆ど、変化することなくその生命を維持して来、人類発祥以降は、共生して来たと言っても過言ではない、この生き物の生命力なしにヒトが、この地で生き抜くことは不可能と考えて、人々は、ハイブリッドの道を「選んだ」のであった。ゴキブリ・ヒトハイブリッドという生き物は、精神をゴキブリが、肉体をヒトが担う。即ち精神をゴキブリに支配されたヒトが誕生したわけだ。その精神は、当然、歴史的にヒトが担ってきたものとは内容が異なる。然し、他の選択肢はあり得なかったのである。かくして、日本は、ゴキブリ・ヒトハイブリッドの天下となった。面白哀しい物語。
 舞台は基本的に裸舞台。コンパネを床面以外の4面に張り付けただけのシンプルなものだ。無論、観客席側は、開いている。仮面、スマホ、着衣などの小道具が、場面によっては掛けられていたりするが、後は、総て照明によって、恰も魔法のように、変化する。例をあげる。ホール会場に変じ、或いは、遺伝子、細胞や卵などのミクロから日本、地球全体、時に宇宙を思わせるイマージュへ演出家の狙い通り、話の内容に応じて自由自在に変化するのだ。この技術は驚嘆に値する。現代のテクノロジーを操り、身体を延長して見せた演出は、文学座の伝統には抵触するかも知れないが、この職人技は、ホントに凄い。この技術を目の当たりにするだけでも、観る価値はあると言いたいほどだ。話に多少荒唐無稽な所はあるが、役者の技術が高いので、無論、キチンと芝居という枠に収まっている。但し、革新的ではある。それを、友の会の人達がどう観るかによって、文学座のこれからの動向が占えるかも知れない。
 作品タイトルも、この植民地住民の知性を嘲笑うようで、自分は好みである。何故なら、植民地住民に甘んじている程度の人々に自分達の手で開く未来等あろうはずも無いから。彼らが、人間のフリをする為には、その事実を忘れる他に方法がないのは明らかだからである。
セツナイカラダ'91

セツナイカラダ'91

Tricobo×ハイブリットハイジ座

早稲田大学大隈講堂裏劇研アトリエ(東京都)

2013/10/15 (火) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

満足度★★★

余りぺダンチックになる必要はない
第一部は、欺瞞社会の生みだすホラー。第二部は、奇妙奇天烈を衒ったマトモ。

ネタバレBOX

 中学の同級生4人は、ルームシェアをして生活している。タケちゃん、アキホ、カスミ、エリの4人だ。アキホとカスミはカップル。タケちゃんは盗癖があり、カスミから脅されている。一方、アキホは、エリと肉体関係を持ったことがある。ところで、スマホに配信されたニュースに矢張り中学の同級生、セイコが、インドで飛び降り自殺を遂げた、というニュースが配信されていた。セイコはタケちゃんに好意を寄せていたのだが、カスミは、これを利用してタケちゃんにセイコを呼び出させ、顔に大きな傷をつけさせた。以降、彼女は物凄く大きなマスクをつけて登校していた。そのことを含めて、彼女は皆のからかいの対象とされ続けた。つまり、陰惨な苛めがずっと続いていたのである。その原因の決定的なものを作った同級生は、総てここにいた。
 セイコの自殺記事が出て以降、この部屋には怪奇現象が起こる。突然、電器が消える。何かが落ちる。窓の外を制服を着て後ろ姿のセイコが音も無く過る等々である。
 セイコのことなどすっかり忘れていた彼らだったが、いつの間にか現とも幻とも判断できなくなるほど追い詰められて初めて、自分達が、面白半分にセイコを苛めていたことに気付き始めている。この中で、直接セイコ苛めに関係していないのは、アキホだけだ。彼は、いくら酔っ払っていたとはいえ、この2カ月だけで2回もタケちゃんに財布の金を抜き取られている。而も、本人は酔っ払って何処かで落とした、か使ってしまったのを忘れた位にしか思っていないようなのだ。他の3人はある意味でグルだ。犯罪情報を共有しているからである。
 今作で注意して置かなければならない点は、犯罪情報を共有している3人が、支点としているのは、常に苛め、からかいの対象であるということである。最初はセイコ。次は、アキホ。而も、アキホの現在の彼女は、カスミ。おまけにエリが誘ったとはいえ、かつてアキホはエリと肉体関係を持っていた。
身体二元論を持ちだすならば、悪とはいえ、精神的犯罪には、タケ、カスミ、エリが関わっており、肉体レベルでは、一夫一婦制の破戒である男1人に2人の女という非倫理的な問題が露呈する。而も、肉体の非倫理性に対して優位にあるのは、精神という形の悪なのである。更に言うならば、作家は、これらの苛めの埒外に傍観者としてい続けたが故に、苛めの卑劣を知っており、その卑劣の告発をする為に、このような作品をものしたのではないか。一定の正義漢を感じると同時に傍観者であったことの罪を己に問うまでには至っていないようにも思うのだ。その原因は、欺瞞社会をそれとして認識しつつ己をその構成者の一人と規定し、ラディカルな外部者になろうとしていない点にある。ここから先、本気で演劇に関わっていこうと思うなら、根源的であると同時に本質的なラディカリズムについては考えて見てほしい。

第二部ハイブリッドハイジ座
 主人公を演じた身体能力の高い役者、奇妙奇天烈を衒った作り方はしているが、案外正常だ。その分、深層分析をする必要があるだろう。(追記後送)
 体にコーラ臭の沁みついた男、彼を恋する女。

【終演しました!ありがとうございました!】DOLL

【終演しました!ありがとうございました!】DOLL

キレイゴト。

サブテレニアン(東京都)

2013/10/17 (木) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

満足度★★★★

少女たちの思春期
 思春期の女の子達5人は、高校1年で寄宿制の学校に入ったルームメイト。如月 小春が、実際に起こった集団入水事件を基に書いた本作は、未だ、世界と向き合うには幼い、期待と不安にないまぜになった少女たちの不安定で幽き在り様を呈示した。

ネタバレBOX

 蝶よ花よと育てられ、思春期ともなれば、異性への興味や好奇心も湧く一方、同時に不安も抱えなければならない少女達は、自衛の為にも、微妙な距離を世界に対して持つことを宿命づけられる。それは本能に近いものかも知れないし、社会的なものかも知れない。寧ろ、実際には、それらが分かちがたく結びつき、身体的な変化が追い打ちを掛ける、ということでもあろうか? 何れにせよ、実際問題、体験が不足している分、既知の体験をベースにせざるを得ず、その狭いことにも気付かぬまま、自分をガードしてくれる距離が同時に自分の可能性を阻んでいることには臆して気付かぬまま、不安定なメンタリティーを共有できるルームメイトの共同性に殉じた物語ということができよう。
 唯、この物語は、恐らく思春期の少女達は誰でも通り過ぎる過程なのだ。そして、このメンタリティーが、常に、個々の少女のそれに共通するものであるが故にこそ、人気のある作品なのであろう。
男達が良く言う“箸を落としても笑いたがる”云々の少女達の不安定感とは、このようなものである。
 有名な作品なのであらすじなど内容については、述べない。今作に関しては、演じている女優も演出家も若い女性なので、ちょっと前まで、主人公と同じような体験を持っていた女性達である分、実感の籠った瑞々しい舞台であった。空間的にも、小さな小屋で、親密感が共有でき中々迫るものがある。
My Journey to the West

My Journey to the West

一徳会/鎌ヶ谷アルトギルド

アトリエ春風舎(東京都)

2013/10/15 (火) ~ 2013/10/21 (月)公演終了

満足度★★★★

認識とアイデンティティ
 東洋人でありながら西洋近代を移入し、恰も既に東洋人では無いかのような錯覚をする者も多いと思われる、この国に住む我々のアイデンティティを如何にアウフヘーベンするのか? 否、し得るのか? そも、その必要があるのか、という問いを東西の自我追求に求めた、と解釈した作品と捉えて良かろう。

ネタバレBOX

 具体的には中島 敦の抱えていた“狭間に居る我ら”の何故? から 私とは何か? へに繋がる問いと言い換えても、また、認識する主体を何処に置くのか? という問いと捉えることも、これらの総ての問いに対する答えを求めたと考えても良いかも知れぬ。何れにせよ、悟浄の哲学探究は、洋の東西のスコラ的なものから、迷い悩む己を通して実存的なものに進み、終には実践的なものに至ったと捉えることができよう。
 タイトルからも当然、イプセンは俎上に上る。但し“人形の家”を演じるという形ではなく、遥かにデフォルメされ、問題は、転位され、植民地へ出向いた宗主国夫婦と現地の人々との相克や争闘としても描かれ、イプセン自身を投影したと思われる人物は、宗主国の行いを内心非難しつつ、具体的行動を起こせない人物として描かれている。ここからも伺えるように、イプセン自身は、実践哲学を体現するレベル迄は行っていない。その代わりと言っては何だが、ノラというキャラクターを作り上げたとは言えるかも知れぬ。
 何れにせよ、イプセンはイプセンでその実際の体験に於いて、洋の東西を知って悩み、中島 敦は敦で上記のような精神的彷徨を通して実践哲学の地平へは、その思考を進めていたと観ることができよう。
 作品内では悟浄が、三蔵一行に随行し、実践することで、自己を許容し得る迄に納得し得たことを描き、これを描いたことによって夭折した中島の到達点をも描いたと言えるのではないだろうか。
あんかけフラミンゴ11【ご来場ありがとうございました】

あんかけフラミンゴ11【ご来場ありがとうございました】

あんかけフラミンゴ

王子小劇場(東京都)

2013/10/11 (金) ~ 2013/10/15 (火)公演終了

満足度★★★★

無理解
 何とも辛い作品だが、実りの無い純愛の一つの形であろう。DNA変異の可能性など、産む性として生まれた形態を持ちながら、アイデンティティーが、本能や社会的常識とは相反する条件・優生保護法が当たり前とされる生活圏に暮らす人々と反対に産む性としての機能は完全乍ら、恋人が、特殊な傾向を持ち、通常の交わりができない関係の地獄を描いているからである。(追記2013.10.29)

ネタバレBOX

 妹の難産がもとで母は死亡。重い障害を負った妹は、兄に言わせれば「生まれて来なければ良かった、肉の塊」である。妹の所為で母が亡くなったと思い込んでいる兄は、優生保護法的発想に縛られ、笑うことができない。おまけに極度のロリータコンプレックスを持つ為、小さな女の子を見ると襲い掛かって悪戯をしたりする。妹に対しても性的悪戯をしている節がある。
 一方「恋人、あかり」は、愛の証として彼の子を欲しセックスをしたがるのだが、彼の方では子を望まない。子供が女の子だったら、彼は娘を追い回して悪戯しかねないとの強迫観念からである。2人の関係は、互いに強く惹かれ合い乍ら性を仲立ちにできないことで崩壊する。あかりは寂しさから、仕事先のヌードカメラマンと付き合うようになるが、カメラマンはレスビアンである。カメラマンの仕事場に不妊で悩む女達のグループにライン参加している女がモデルとして入って来たり、あかりがラインに参加したりということが描かれるので産めない女達の問題も提起される。偶々、グループメンバーから人工授精の話を聞いたあかりは、久しぶりに逢った彼から採取したスペルマを用いて妊娠することに成功。然し、「堕ろせ」と言われて中絶、女の子だったが、この事件を契機に精神に失調をきたす。壊れた精神が妹の障害と交響し挙句妹はあかりの首を絞め、妹の首を兄が締め、終に殺してしまったようだ。然し、事実そうだったのかどうかは定かでない。というのも、これは兄に対して問診をしている精神科医との話の中で語られることだからである。あかりが、実際に子を産んだのか堕胎したのかについても、兄の錯乱を描くことが主眼ということになれば、判然としない作りになっている。兄の不幸は、出産事故を妹の悪胤問題にすり替えてしまうコンプレックスと幾重にも屈折して入れ子構造化してしまった狭く深く苦い、彼の精神世界の手応えの無さに対する底なしの不安。これらが、彼の精神世界を四六時中脅かす要素である。為に彼は笑えない。「好きな人に暴力を振るわれると、口角が吊りあがって笑っているように見えるが泣いているんです」とくどい程繰り返されるフレーズが、その精神の危機を表す。と共に、くどさは、粘着質を表してもいよう。だが、この笑いに関する描き方はロートレアモンを彷彿とさせる。更に、この物語全体から立ち上るアトモスフィアは、「ドグラマグラ」をも想起させた。
 何れにせよ妹を殺害したと見える場面で、堕胎させたあかりと共に在る彼が笑っているように見えるのを「泣いているの?」と問われ「馬鹿、笑っているんだよ!」と答える科白にこの作品の地獄が、客体化された瞬間が表現されていると見て良かろう。
トキグルマ

トキグルマ

ThreeQuarter

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2013/10/12 (土) ~ 2013/10/14 (月)公演終了

満足度★★★★

生き様
 取り壊しが決まった藤田演芸場、最終公演は、この劇場に嘗て出演していた芸人を呼んでのお笑いライブ・“お笑いリレー”。5年ぶりに一堂に会した面々だったが、オープニングを担当した後、メインのお笑いコンビ「みぶるい」の相方が突然消えてしまった。楽屋、裏回り、倉庫等々八方手を尽くして探したが見つからない。

ネタバレBOX

 丁度、その頃、京都。時は慶応二年。新撰組の山南 敬助は、局長、土方らと意見が合わず、隊を抜けたことを咎められ切腹。彼には想う女、明里があったが、彼女を残して逝った。明里は、かつて新撰組が壬生組と呼ばれていた頃から馴染みの旅籠、里屋に、新撰組の斉藤 一の計らいで匿われる。そこへ降って湧いたようにみぶるいの失踪した相方、毛利が出現した。毛利は切腹した山南と瓜二つ。明里や、土方すら見間違えるほどであった。
 一方幕府は、欧米の力を見せつけられ、それまでの方針を転換してゆく。だが、薩長を中心とする攘夷派は、なおもこれに抵抗。国論は真っ二つに割れ、新撰組内にも分裂の危機が訪れる。この中で、参謀格の伊藤が尊王攘夷本来の思想に殉ずべきことを解いて、隊内に同士を募ったことから、土方らに暗殺される。この後も隊内の急進派に対する襲撃は続き、隊内は幕府に就く者だけが残るようになっていった。
 ところで、江戸時代末期に来てしまった毛利は、里屋の番頭をしていた七三郎と共に新撰組に参加することとなるが、幕府の大政奉還で鎌倉以来続いて来た武士の世が公式には終わりを遂げたことで、それ迄幕府を支えてきた中心藩の一つであった会津藩は朝敵とされ、官軍となった薩長軍に逆賊として攻められることになった。会津城は落ちる。その後、戦の場所を函館、五稜郭に移し土方、七三郎、斉藤、毛利らは次々に討ち死に。毛利からは、藤田演芸場にいる彼女、明実へ死を覚悟したメールが届く。
 以上のように歴史が動く中で、藤田演芸場の最終公演、「お笑いリレー」がパラレルに進行している。この進行に小道具として使われているのが、糸車。単に糸を紡ぐという機能のみならず、時を紡ぎ以て空間を紡いで、時空の自在な転移を頗る自然な形でイメージさせており、効果抜群。見事な使い方の一例であろう。無論、実際に物語の中で、布を紡ぎ出す為の諸道具の象徴としても用いられており、具体・抽象の転移にも不足は無い。何より、この小道具の使い方が、舞台に安定感を齎していることに注意すべきであろう。
 「お笑いリレー」では“みぶるい”の穴埋めの為“さつまご飯”が持ちネタを総て出し切って演じたが、売れ始めてTV出演も果たしたとはいえ、未だ経験は浅い。自分達だけで、総てのコマを埋め尽くせるわけではない。そこで、制作やプロデューサー、アシスタントら総出で穴埋めしてゆくことになる。(因みに時間の推移は、現代の1分が江戸時代の何ヶ月にも当たるので、歴史的事象の展開と現在、観客の目の前で行われているタイムトラベルの物語が、観客にとって不自然とは感じられない仕組みになっている。また、これを読む諸子は、“みぶるい”は新撰組結成当時の名、壬生組を表しており、“さつまご飯”は敵対し勝者となった薩長を意味している洒落であることは、当然気付いているだろう。)
 これら2つの時代、2つの場所を繋ぐもう1つのアイテムが、モバイル通信機器である。まあ、本当に通信可能か? などと野暮なことは、問わないで欲しい。兎に角、スマホが時空を超えて機能することで、互いの時代の雰囲気が共有される。
 シリアスな幕末の酷い歴史の中で必死に生き死んでゆく者たちのドラマとアタフタと最終公演に取り組む面々の相似(毛利と山南、明実と明里、緒方と土方など)と史的状況の異相(血に塗れた激動の時代と平和呆けの時代)が糸車の助けを借りて自在に想像力の翼を広げさせるとすれば、スマホは、ドライで表層的で平和で非人間的な世界へ、血塗られ、人間的で宿命的な生き様を伝えて不思議な融合を果たしている。
 普段、社会人をしている人たちの劇団のようだが、生き様に共鳴する力があるのだろう。リーフレットの上演履歴では、つか こうへい作品が多い。なるほど、と思う。演ずるという行為より、寧ろ生き様を叩きつけるように舞台上で表現したのが、つか演劇の本質であり、特徴だと思うからである。その意味で、どの役を演じたどの役者もその生き方、生き様をぶつけているようで、とても好感した。
『マイムジーカ』

『マイムジーカ』

山田とうしパントマイムシアター

杉並区立産業商工会館(東京都)

2013/10/14 (月) ~ 2013/10/14 (月)公演終了

満足度★★★

切れが欲しい
 マイムと音楽のコラボ。ピアノ、アコーデオン、叩かれる木片の下に瓢箪のような物が、様々なサイズに切られ大きいのから小さいのへ順繰りに連なっている木琴のような楽器、タンバリン等々。マイムについては、結構、鍛えた体の人が演じたのだが、体の使い方に余りエッジの効いた表現を感じなかった。


奇妙なコドク

奇妙なコドク

立体親切

ART THEATER 上野小劇場(東京都)

2013/10/11 (金) ~ 2013/10/13 (日)公演終了

満足度★★★★

奇妙丸
 戦国時代と現代との対比、関連付けが面白い。始まり方も奇妙というか、ちょっと変わっている。前説から、いきなり口上に移り、今作の特殊性を説明するのだ。描いている世界は、信長の時代と現代である。それも信長と現代を描くのではない。信忠とその幼名、奇妙丸を含めた生涯と、歴史小説で流行作家となった父を持つ、引き籠りのニートの話として描くのだ。口上を述べる者が態々「現代劇です。ござるなどの表現も無ければ、殺陣もございません」と説明する。これはユニーク。自分は、この斬新な始まり方で、面白く観始めた。

ネタバレBOX

 作家は、当然のことながら、信忠が、二条城での戦いから逃げられた可能性についても言及しているし、実際、それは可能であっただろう。信長ほど、信忠は、他人を信じなかったわけでもないようだし、それが、無能とは結びつかないことは、歴史が証明している。そこで、何故、一歩引かなかったかが、論争の争点に成り得るのだ。作家は、この点を見逃さない。そして、以下のように解釈するのである。即ち、敷かれていたレールが、いきなり外され、自らの自由の下に、それから先の判断を下す方法を持っていなかったのだと。余りに偉大な父を持った息子のエディプスコンプレックスというわけである。
 一方、現代の話が、信忠の話にオーバーラップするのも、当にエディプス・コンプレックスに於いてなのである。父(五光)を有名作家として持つ七光(にじ)は、父の敷いた通りの道を歩いて来た。作家に成る為の道である。したいことを諦め、良く勉強して国立大学の仏文科に入学、良い成績をおさめていた。父に対する反発はあるものの、そして、父のつけた道しるべ通りに歩むことは、それなりに努力を必要とするものの、兎に角、謂われた通りにやっていれば済んだ。然し、父が倒れた後では、自分が、何をどうするかを決定しなければならなくなった。だが、どうしていいのか分からない。
 七光の父は、単なる流行作家。信長と比べるのは役不足とはいえ、子にとって絶大な父とその後継者と目される嫡男という位置は等しい。二人とも、著名な父を持ち、而も、後継者であることから、周囲からは、ちやほやされ、父の敷いたレールの上を一所懸命に走り、率なくこなしてきたのではあったが、自らの完全自由に於いて選んだ結果ではないことから、自分に従う者達との間には、矢張り、距離がある。即ち、従者たちとの関係に於いて、真の闘争もなければ、真の融和もないのである。その為、信忠も七光も、従う者達に物理的には囲まれ乍ら、常に孤独たらざるを得ない。
 この点に気付いた時、七光は、二条城に籠り、自刃するに至った信忠の真情を理解したと合点するのだ。即ち、多勢に無勢で戦う中で、信忠は初めて己の意思と命を懸けて共存の感覚を得たのだと。そして、それこそが、彼が、命の果に松姫に捧げた純情であったのだと。
 今作では、この物語の流れを構成する登場人物として編集者が登場するのだが、彼女の日常が描かれるシーンが、七光・鈴(七光の孤独が作り出した幻影)と信忠・松姫との対比が作り出すドラマから浮いている。この問題を異化効果を用いて処理することができれば、今作は傑作になろう。同化するのであれば、佳作となろう。
 ユニークな口上の使い方といい、一見、異質な登場人物を結び付ける着眼点といい、現在に引き寄せた視点から作劇している点といい、この業界で生き残れそうな要素を持つ存在だろう。たゆまぬ努力に期待し、チャンスに恵まれることを祈る。

 
レオンゴンゲキレンメズの万博

レオンゴンゲキレンメズの万博

日本演劇連盟

アトリエファンファーレ東池袋(東京都)

2013/10/12 (土) ~ 2013/10/13 (日)公演終了

満足度★★★★

表層芸
 ヒーロー特撮系、サラリーマン系、ホームドラマ系、瞬間芸系など、コントテイストの作品群と米映画のパロディーなどからなる笑劇集。

ネタバレBOX

 KY的人間関係、体制派VS孤立派、常識VS非常識などの間に生まれる表層的なおかしさをドライな感覚と中々イケテル芸で処理して見せる。唯、扱っている映画は、米映画ばかりで在る点が気に掛かる。まあ、興行的に何処でも誰でも観ている作品が多いこと、被植民地で宗主国の「文化」が喧伝されるのは、宗主国の経済を潤わせる為にも、被植民地の大衆を文化面からコントロールする為にも使われる陳腐で有効な手段ではあるが、ホントにエッジの効いたシャープな笑いを獲りたいと思うなら、更に深く、アイロニカルな視点を持ち得るだけの鍛錬をすべきである。
「茜色に燃ゆる時」

「茜色に燃ゆる時」

劇団グスタフ

シアターグスタフ(東京都)

2013/10/10 (木) ~ 2013/10/13 (日)公演終了

満足度★★★

他の劇団の舞台も研究した方が良い
 額田 王は、近江で生まれ皇極天皇に仕えるが、その才と美貌、先進的な思想、聡明によってこの女帝にも頗る気に入られる。その最大の原因は、“大化の改新”で愛人、蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足らに謀殺された皇極の、傷心を慰める彼女の歌の才や立ち居振る舞いに他人を安心させる何かがあった為だろう。(追記後送)

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