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熱海殺人事件

熱海殺人事件

Uncle Cinnamon

新宿シアタートップス(東京都)

2025/04/30 (水) ~ 2025/05/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

面白かったです。
役者さん達は怒涛の台詞をこなし、その熱演も素晴らしかったです。
パワハラ、モラハラ満載で、台詞の中に笑えるネタを挟み、エンタメ性も感じる演出でした。
目が釘付けになり、愛を感じる素敵な舞台でした。

あるアルル

あるアルル

やみ・あがりシアター

北とぴあ ペガサスホール(東京都)

2025/04/30 (水) ~ 2025/05/06 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2025/05/01 (木) 19:00

お気に入り劇団の新作は奇妙で独特の味。125分。
 「あるある」を語れ、というシーンから始まり、数々の「あるある」を扱いつつ、不思議な展開の物語。いろいろな登場人物が抱える問題を明らかにするが、軸になるのは6年前に妻を亡くした「あるある仙人」。いつも通りの「アタマおかしい」(誉めています)笠浦だが、役者陣も役割を熱演して、独特の感触を残す。劇団員の加藤はアンカー、常連のさんなぎが飛び道具的ポジションだが、ベテランの川田希が渋い。

熱海殺人事件

熱海殺人事件

Uncle Cinnamon

新宿シアタートップス(東京都)

2025/04/30 (水) ~ 2025/05/04 (日)公演終了

実演鑑賞

良かったです。

音楽劇 『PHANTOM of the SHOGIKAIKAN』

音楽劇 『PHANTOM of the SHOGIKAIKAN』

E-Stage Topia

上野ストアハウス(東京都)

2025/04/23 (水) ~ 2025/04/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

真田林佳さん出演。
25日のマチネと27日の大千秋楽を観劇。

E-Stageさんの詰将棋シリーズ。一昨年の「煙詰」、昨年の「ヴァンパイア」に続く第3弾は、なんとミュージカル。すごかったです。数日経った今も音楽と歌が頭の中でリフレインしてます。

傾斜の盤上に駒が置かれている、不安定な足場。演者さんはその上で激しく動き回り、踊ります。駒はズレたり別のマスに蹴とばされたり。「駒の化身」の皆さんがタイミングを見計らって直すところも、このシリーズの見どころだったりします。

怪人の要求が書かれた手紙。地下水路と船。仮面。落ちるシャンデリア。あらゆるシーンが映画「オペラ座の怪人」を思い起こさせ、楽しかったです。アマプラで映画を予習しておいたことで、より深く楽しめました。

3作連続で参加となった真田さん。存分にご自分のキャラクター、特長を発揮されてました。どんな役でも役以上の存在感があります。年齢不詳のマダム・ケイは原作のマダム・ジリーでしょうか。

駒の化身の皆さんがどんな役割をするのかも、楽しみのひとつです。今回は政田圭敬さんの「銀沙」など、かっこいい名前がつきましたね。将棋会館の対局室の名前なのですね。

ネタバレBOX

冒頭で、と金が「会長」という偉い人なことにまず驚きました。なにしろ前作「ヴァンパイア」では出番が1回しかない「と金の精」でしたから。自分はあえて棋譜を知らずに観劇したので と金がたくさん登場することを知らず、そこから驚くことができました。

オープニングパフォーマンス。玉将の力強い歌声。駒を裏返して血のような赤を表現。最後、次々に駒を盤上に打ち付けるところなど鳥肌が立ちました。撮影した動画を何度も見てます。

金将の「ぶっころニフ!」は最高でした。カルロッタのように声に細工をされたわけですね。

怪人の王将はクリスティーヌの角行に強く執着。角行は怪人に舟で連れていかれ、意識を失う。追いかける幼馴染の飛車はラウルですね。

舟のシーンは映画さながら。どうやって進んでるかと思ったら化身の戸嶋陽さんが押してました。なるほど船長と呼ばれるわけですね。
舟の進路に置いてある持ち駒を政田さんが退避させて、あとから戻すところ。目の前で見れて楽しかったです。
熱海殺人事件

熱海殺人事件

Uncle Cinnamon

新宿シアタートップス(東京都)

2025/04/30 (水) ~ 2025/05/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

何度も見てきた「熱海殺人事件」、今までに見たことがない演出でこちらの舞台が一番好きです。
会話が今風になっていて、テンポ良く笑えて楽しめました。

あるアルル

あるアルル

やみ・あがりシアター

北とぴあ ペガサスホール(東京都)

2025/04/30 (水) ~ 2025/05/06 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

冒頭、高校の教室の教壇、ニカブを被った女(梶川七海さん)が生徒達に拳銃を突きつけている。「『学校あるある』を言え!」と。パニックで怯えながら一人ひとり『あるある』を言っていく。だがすぐに射殺される。一体何を言えば助かるのか?分からないまま殺されていく生徒達。

あるある仙人の部屋、梶川七海さんはあるある仙人(大宮二郎氏)に「どんな『あるある』を言ってもすぐに殺してしまえばそれなりに面白く感じるから」とそれを説明している。あるある仙人はジャンプして「バッカモーン!」と決めポーズで叱りながら正しい『あるある』を授けていく。大宮二郎氏はムロツヨシの斎藤工風味。

居酒屋で高校の同窓会、幹事(佐藤昼寝氏)、脳外科医になった渋木耀太氏。お開きになりかけた時、左耳が血塗れの川鍋知記氏が駆け込んで来る。『あるある』の天才だった同級生を探していると。彼には予知能力があり、この世の全てが見渡せるらしい。佐藤昼寝氏は身重の妻(加藤睦望さん)がその男の元カノだった為、連絡を取ってやる。それを聞いている居酒屋の店員(大見祥太郎氏)。

MVPは加瀬澤拓未氏。彼を見てほっとした客が多かったと思う。

ネタバレBOX

あるある仙人の部屋、さんなぎさんや小林桃香さん等が信徒として仙人を崇拝している。(女性の殆どの登場人物が今後この役を兼ねていく)。顔に『あるある』の書かれた黄色いシール付き付箋を向日葵の花弁のように円形放射線に貼っている信徒達。あるある仙人はアルルの『あるある』を求めるが信徒達はアルム『あるある』を言ってしまう。アニメ『アルプスの少女ハイジ』のアルムとは高原の放牧地を意味する言葉。アルルとは何の関係もない。「ぴゃあ〜!」「どろん!」「授かった」。

加藤睦望さんの運転であるある仙人の家に向かう佐藤昼寝氏と川鍋知記氏。だが彼は居留守を決め込む。

売れないお笑い芸人シンパシーズ、シュールなネタで客を選ぶ。面白いんだが一般受けはしない。欲のない大見祥太郎氏と福原瑞穂さん。何とかこいつらを売ってやりたい熱血マネージャー、宮崎柊太氏。ザ・パンチのノーパンチ松尾っぽい。

渋木耀太氏のセフレ看護婦、小林桃香さんが異常に巨乳。そればかり気になった。a.k.a.観劇お姉さん。

ゴッホの耳の取引に関わる闇バイト軍団。リーダーの藤田頼奈さん、ツナギ姿のチンピラは谷口継夏氏。

ゴッホの耳を盗んだフリーター、さんなぎさんは美大生の妹(チカナガチサトさん)の為に金が必要。必死にバイトをするがすぐ辞めてしまう。

スナック「リュミエール」ではママ(川田希さん)とバイトのホステス(梶川七海さん)、ママに気のある常連客(加瀬澤拓未氏)の姿が。「しゃしゃんないで。」

前半、気の違った展開に興奮していたが後半が退屈。何かこの話に落とし込むにはパーツが足りない。長過ぎる気もする。要らないキャラ、要らないエピソードが多過ぎ。

ゴッホは南フランスのアルルに画家が共同生活出来る理想郷を築こうとした。だがすぐに破綻して盟友ゴーギャンは去って行く。混乱し狼狽錯乱したゴッホは自分の左耳を剃刀で削ぎ落とし馴染みの娼館の掃除婦に手渡した。精神病院に収容され、その後2年も経たず拳銃自殺。唐十郎の『黄金バット~幻想教師出現~』では「ゴッホは耳を切ったのではなく、ゴーギャンからの『サヨナラ』を切ったのだ。」とされる。

質量保存の法則、エネルギー保存の法則から、人間が死んでもこの世界の総量は決して変わりはしないことが真理。この世に存在するエネルギーの総量は決して変わらない。増えもしなければ減りもしない。死んだ人間の肉体は化学変化を起こすがそれは原子の組み合わせが変わるだけ。別の形態に変換されエネルギーとしてこの世に存在し続ける。意識や感情や思考も一種のエネルギーだとしたらそれもこの世に形を変えて存在し続ける。そういう意味からは生命は永遠なのだ。
アルカの板

アルカの板

9-States

駅前劇場(東京都)

2025/04/25 (金) ~ 2025/04/29 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2025/04/27 (日) 19:00

 今回観た劇『アルカの板』のあらすじをCoRichで読んだ段階だと、旧約聖書の創世記の中に出てくる、ノアの箱舟のエピソードと、古代ギリシアの哲学者カルネアデスが出したとされる倫理学上の思考実験であるカルネアデスの板、面白いことにこの2つの話とも、人類が窮地に追い込まれ、究極の選択をしなければならないという意味では同じで、さらに2つの話とも舟が重要な要素となっている共通点があるが、この2つの話と現実的な日本の漁協組合とそれに属している九海丸の船員たちと経営者の井上柚、経営者の母井上花楓が過労で倒れたことを気に地元に戻り、九海丸の経営改革をしようとする経営者の妹の井上杏子の話が混ざって、観念的で哲学的、かなりファンタジックな作品なのかと、あらすじの抽象的、詩的表現が多々散見される事からも感じた。また、CoRichに載っていたチラシの雰囲気を見ても、非常に抽象的で幻想的で謎めいた雰囲気だった事からも確信していた。

 しかし、実際にこの『アルカの板』を観て見ると、良い意味で裏切られた。
 まぁ、確かに海難事故で漁に出たきり帰らぬ人となった九海丸経営者家族の井上家の父親の声が急に聞こえてきたりする多少の不思議はあるし、観念的で哲学的、詩的な言葉が舞台向かって右端、左端に備え付けられたモニター画面に移されたり、登場人物たちの独白も普通の劇より多い気がしなくはない。
 しかし全体としては、非常に現実的で、今の日本の漁協組合と組合から舟を貸してもらって漁をする漁師たちの切実で切羽詰まった問題と組合と漁師の絶妙に対等とは言い難い関係性、権威主義的で保守的な組合長と、それによって余計に前に進めなくなって、このままいくともろとも潰れかねない壊滅的な状況の弱小の漁師たちを束ねる九海丸経営者の井上柚とその母親で過労で倒れた井上花楓、その妹で東京から戻ってきた井上杏子を中心とした家族の絆と家族のような漁師たちとの関係性、組合長の娘の尾田レオナと杏子とのレズだけど、素直になれない関係性などが時にシリアスに、時にバカバカしく、時々笑いも交えながら描いていて、人間関係や家族のこと、今の漁業の悲惨な現状を何とか改善しようと組合長と対立しながらも変えようともがき、奮闘する話だが、その中で漁師たちを救おうと、井上杏子が提案する『ノアの箱舟計画』といったところでモチーフとして旧約聖書のノアの箱舟のエピソードを元にしつつも、漁師の救済計画といった別の形で導入されてきていて、幻想強めでは全然なかったが、非常に面白く、また感動する内容だった。
 また、この劇で井上杏子の『ノアの箱舟計画』に強力な助っ人になってくれる漁協組合副組合長の荒木康一が村を出ることが条件で、この計画が成功するという在り方は、まさにカルネアデスの板の意味と一致しており、哲学原理をこういった現実問題でさり気なく描く演出家の手腕が凄いと感じた。
 
 この劇をきっかけに、今まで以上にもっと日本の漁業の現状を正しく理解し、どうやったら物価も上がる中、漁師や農家等が将来に渡って生き残っていけるのか真剣に考えてみたいと感じた。

『フクロウガスム』

『フクロウガスム』

劇団サイエンスフィクション眼鏡

πTOKYO(東京都)

2025/04/29 (火) ~ 2025/05/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 Bチーム初日を拝見。面白い。夢中になって観ることができる。旗揚げおめでとう。

ネタバレBOX

 物語はグリム童話に記された梟の話と連続殺人事件捜査の進展・停滞の模様が幾重にも折り重なり、而も犯人と目される人物が精神障害を患う多重人格者であることから、犯人がほぼ特定されているハズでありながらその特定が正しいか否かを巡っての判断が極めて難しい推理をしなければならないように創られている。無論、実際に描かれる内容は更に輻輳している。実はこの多重人格が容疑者に認知されている4つのキャラクターに限定されるとは限らず意識されていない真のコントローラーが他に居る可能性が指摘され、その真のコントローラーが警察が使っている情報屋である可能性も示唆されることによって予想される事態を更に曖昧化している点があることである。
 観ている側としては作品のこれらの要素を勘案しつつ犯人を推理して行く面白さについ夢中になってしまうが、事件はどんどんエスカレートしてゆき被害者総数は最終的に36名を数える迄になる。而も総ての被害者にはある共通項があった。この共通項も実に早い段階から提示されているし而も何度も提示されているので見ている観客たちに刷り込むのは容易である分、原作者のシナリオ作成術の確かさが見て取れる。
 さて、以上のような状況を提示された観客と作家の実は一対一の知的勝負こそ、今作の眼目であるが、作家の目論見はもう一つある。つまり、とても大事な要件を隠す為に刷り込みを行っているということに気付くか否か。これが正解を得る為の唯一の方法である。
 舞台は暗転中に轟く雷鳴、明転しての初台詞という形で開けるが、この初台詞場面、演出の工夫が欲しい。女優に間を工夫させるなり台詞のトーンを工夫させるなり或いは音響・照明をもっと工夫して観客の箍を外し驚かせていきなり劇空間に引きずり込む工夫が欲しかった。
遠巻きに見てる

遠巻きに見てる

劇団アンパサンド

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2025/04/18 (金) ~ 2025/04/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

前作が非常に印象的で強烈だった分、
今回はやや静かな余韻を感じる作品だったように思います。

良い意味で落ち着いたトーンとも言えますが、
個人的にはもう一波乱ある展開も見てみたかった、という欲が出てしまいました。
とはいえ、過去作とはまた違ったアプローチで魅せてくれるのは、
作り手の挑戦や幅の広さを感じさせます。

そう思うと、物足りなさというよりも、
期待値の高さゆえの感想だったのかもしれません。
次回作ではまた新たな驚きを見せてくれると今から楽しみにしています。

三ギガ

三ギガ

戯画理論

茨木市立中条公民館 2階大ホール(大阪府)

2025/04/30 (水) ~ 2025/04/30 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

立命館系の演劇とは言えないが、ショートコントオムニバス的な内容
他の大学の演劇サークルと比べればまだまだだが、それなりに楽しめました!

六道追分(ろくどうおいわけ)~第一期~

六道追分(ろくどうおいわけ)~第一期~

片肌☆倶利伽羅紋紋一座「ざ☆くりもん」

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/04/05 (土) ~ 2025/04/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/04/08 (火) 19:00

 片肌☆倶利伽羅紋紋一座の劇、第33回公演『六道追分』剣チームのバージョンで観た。
 片肌☆倶利伽羅紋紋一座、通称「ざ☆くりもん」というらしいが(以後くりもんと略す)、そのくりもん一座が今回は、今までありそうでなかった試み、今年の4~8月に掛けてのロングラン公演、更には、出る役者も1期、2期、3期、4期でそれぞれ違う上、2期目からは、座長(山田拓未さん)が主演しないチームで公演されることもあるということで、画期的で、斬新で、それぞれ劇の内容は一緒なものの、その期ごとに、また同じ月内でも、大きく2つのチームに分かれて役者が出ることで、アドリブや、役者の個性が違うので、公演ごと、期が変わる度に、違った印象を感じ取れるんじゃないかと感じ、その試みが面白かった。

 前回初めて観た、くりもん一座のBIG TREE THEATER(池袋グリーンシアター1大きな小劇場)での公演『冥土遊山』の際は、ファンタジーコメディ江戸時代劇ではあったものの、いまいち笑える場面も多々あったはずだが、劇場が大きかったせいもあるかも知れないが、役者との距離が遠く感じて、どこか客席と舞台の間に大きな見えない幕が下ろされて、仕切られているかの如くの距離感を感じた。
 なのでこの作品を観た時に、途中休憩が挟まったのもあって、劇の作品世界にいつの間にか引き込まれるといったようなことがなく、観ている途中度中で現実に引き戻され、大いに笑えなかった記憶がある。
 まぁ、内容が意外と悲惨で救いようが無く、シリアスな部分も結構目立っていたことも大きいかも知れないが。

 但し、今回の劇の『六道追分』では、ファンタジーでない上に、前回以上にかなり笑いに特化して、シリアス部分が無いわけではないし、どうしても、江戸の吉原遊廓を描く上で、悲惨な部分を描かず通る訳にもいかないので、そういった部分をちゃんと描きつつも、全体としては、吉原の大金盗んで逃げる鬼アザミ清吉を頭領にした盗賊たちと、流れ的に行動を共にして逃避行する羽目になる生まれも育ちも吉原遊廓花魁のお菊との凸凹コンビを中心にした、ドタバタ、時々人情なロードムービー喜劇で、旅の途中で出会う個性的でアクの強い人たちと出会いながら、さらに旅につきもののアクシデント(ゲリラ豪雨で川の水がこのままだと浸水)に見舞われたりといった、何が起こるか分からない珍道中ぶりに、腹が裂けんばかりに、普段のストレスや嫌な事が全て吹っ飛ぶほど、大笑い出来て良かった。
 それに恐らく、劇場が池袋グリーンシアター1小さいBASE THEATERでの劇ということもあって、くりもん一座の江戸情緒溢れる、馬鹿馬鹿しくて、騒がしくて、ドタバタ人情喜劇、笑って、最後は泣ける時代劇というコンセプトにピッタリハマると感じた。
 それに、こういう小さな劇場だからこそ、殺陣やダンスが臨場感に溢れ、音楽も含めてすぐそばに迫ってくるような錯覚に陥り、舞台と客席が非常に近いので、距離が感じられず、役者の演技を間近に観ることができるので、ちょっとした楽屋ネタやオーバーリアクションに大いに笑うことができ、劇に没入して、我を忘れることができるんじゃないかと考えた。
 大きな劇場では、大きな劇場ならではの良さや効果があるが、それ以上にこういった極小劇場ならではの良さを改めて実感した。
 それに、くりもん一座の場合、個人的には、役者やくりもん一座の世界観を狭い空間に最大限活かしきれていると感じた。
 但し、今後は大きな劇場で演る際にも、くりもん一座の江戸情緒溢れる、馬鹿馬鹿しくて、騒がしくて、ドタバタ人情喜劇、笑って、最後は泣ける時代劇というコンセプトを活かしきり、大いにに笑わせられるような空間造りができるようになるよう期待している。

 今回、剣チームでの念念(坊さん)役の吉田真綸さんと珍念役の馬場真佑さんとのコミカルで、坊さんたちな筈なのに、非常に現世的な感覚でのコミカルな掛け合いが面白かった。
 あと、念念役が鬼アザミ一味たちと花魁お菊に六道輪廻について詳しく、分かりやすく解説していたのが、大変勉強になった。例えば、仏教における天国や地獄、畜生道などは、実は人間誰しもの心に、大なり小なり潜んでいて、嫉妬や怒り、喜びなどといった形を取って現れる。つまり、皆が考えているような天国や地獄、畜生道といったものが極端で遠い世界、または空想の産物といったことでなく、もっと身近で、人間の感情や観念といったものと切っても切り離せない考え方だと知って、考えさせられた。
 剣チームでの遣り手役の太田有美佳さんが、遣り手役にしてはだいぶ若い人が演っていると感じて、驚いた。太田有美佳さん演じる遣り手は、見た目の怖くて、強気で、妖艶で、したたかな雰囲気で、声もドスの効いた低い声とは裏腹に、花魁や禿に対して、怖く、辛く当たってるようでいて、その実、意外と優しい一面が所々垣間見られて、悪役、憎まれ役と言い切れない、独特な味があって、憎み切れない人物造形になっていて、中々役から、役者の性格が滲み出てくるようで、印象に残った。

楽屋 ~流れ去るものはやがてなつかしき〜

楽屋 ~流れ去るものはやがてなつかしき〜

ルサンチカ

アトリエ春風舎(東京都)

2025/02/15 (土) ~ 2025/02/24 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

朝起きて、歯を磨き、まずぬるま湯を飲む。
それから少しの果物とナッツとヤクルト、レチノール入りのビタミンCとビタミンE、ビタミンB群、さらに亜鉛と大豆のサプリメントを飲む。その全てを一発で無効化してしまう喫煙の欲求と格闘し、どうにもこうにもいかない日には白旗のごとく白い煙を吐く。なかったことになったことをさらになかったことにするように換気扇が素早くそれを吸い込んでいくのを見て、少し心を落ち着かせる。
それから顔を洗ってCICAパックをして、美顔器を10分当てる。EMSの振動が奥歯に響く不快さとともに、この一通りのルーティーンを「女優か」と鼻で笑った男がいたことを思い出す。
鏡の前でため息を一つ吐く。
弱い皮膚、ちょっとしたことですぐ荒れてしまう肌を隠し、そして守るための化粧をしなくてはならないことを憂鬱に思うけれど、そうしなくてはもっと憂鬱になることが目に見えているので今日も今日とて私は化ける。アイラインを引く。リップをつける。手強い相手と会わなくてはいけない時、それらを握る手には自ずと力が入り、黒は長く、赤は濃くなる。そしてとびきりの衣装に身を包み、心の中で「ナメられてたまるか」と威嚇する。奮い立たせている。
ここまでしなければ、私は外の世界に出ていくことができない。
だったら中の世界にいたらいい、というわけにもいかない。私にも生活がある。仕事がある。
出番がある。

この小さな洗面台や雑多な台所がなんら「楽屋」と変わりがないような気がしてくるのは、昨晩、日本演劇史上最も有名な戯曲の一つである『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』を観たせいだろうか。
違う。ルサンチカ『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』を観たからだ。

それは、女優たちの物語でありながら、女優たちだけの物語ではなかった。
私はそこに私を見た。
取り残されなかった、と感じた。
『楽屋』を観てこんな気持ちになったのは初めてのことだった。

以下ネタバレBOXへ

ネタバレBOX

ルサンチカは演出家の河井朗さんが主宰し、演出する舞台芸術を制作するカンパニーである。
劇団の主宰が作・演出をともに手掛けることが多い中、「演出」に注力したアーティストによるカンパニー自体が珍しい。さらにルサンチカは「過去」の戯曲を上演する新たな形式とその広がりをテーマに据えるとともに、今、そこにいる観客、現代を生きる観客に向かって「過去の言葉を、戯曲をどう扱うか」を問うことを決してやめない。
私はかねてよりその姿勢、演劇を通じて社会や世界、そして個人の重なりであるそれらを見つめる眼差しの深さに強く感銘を受けていていたのだけれど、本作でそれはより強固なものになった。

清水邦夫による『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』。
あくまで持論だけど、私はこの戯曲を、(原作に則りあえてこの書き方をするが)、「女優」という生き様における「狂気」と「正気」が不可分に交ざり合う様を描いたものととらえていた。
そして、今回の上演はその点において新たな発見と体感に溢れたものだった。

自分が未熟だったことも多分に影響しているだろうが、今まではその「狂気」と「正気」の源流が一体どこなのかがわからず、「女優の業のようなもの」にただただ圧倒されるに終始していた。
言い換えると、「そりゃ俳優のやりがいのある作品だよなあ」いう気持ちになるにとどまってきた、とも言える。
でも、本作を観て、「狂気」と「正気」の源に初めて触れた気がした。私はそれを女優という生業の「恐ろしさ」と「恐れ」だったのではないか、と感じるに至った。その二つは似て非なるもので、観客の私が彼女たちを「恐ろしく」感じる傍らで、彼女たちもまた自身の生き様(≒死に様)にそれぞれ多寡はあれども「恐れ」を抱いているのではないか、という実感だった。
そして、そのときたちまち彼女たちは舞台と客席、楽屋とその外を飛び越え、私の前にようやく現れたような気がした。私は初めて彼女たちをとても身近に感じたのだった。
伊東沙保さん、キキ花香さん、日下七海さん、西山真来さんの4名の素晴らしい俳優がそう感じさせてくれた。

この戯曲、その上演において私にはもう一つ持論があった。
それはこの戯曲を上演する限り、4名それぞれの俳優の個性やその魅力をどこまで引き出せるか、にかかっているのではないか、ということだった。少なくとも私にとって、「俳優に魅了されること」はこの作品において何よりも重要な意味を持っていた。
そして、本作はそれをおつりが出るほどの強度で成し遂げていたように感じた。今まで観た中で最も俳優に魅了された『楽屋』だった。
4名がそれぞれの肉体を以て、不可分に混ざり合う「狂気」と「正気」を、「恐ろしさ」と「恐れ」を体現していた。
それはやはりとても恐ろしい光景だった。

「生きていくこと」と「働くこと」をかけ離すことはできず、それに苦心しているうちに、生きていくために働くはずが、働くために生きていきている状態に逆転する。そしてやがて生きていくことよりも、働き続けていくことの方を優先する体や心になっていく。
それは、「女優」に限ったことではない。
私や家族や友人、客席で隣に座る見知らぬ誰かもまたきっとそうかもしれないと思う。

いつかくるかもしれない出番を待ち望み、なくなるかもしれない出番を恐れ、短いターンで何度もそれを繰り返しながら生きていく。それは、生きていくことを熱心に進めながら、死んでいくことに着実に向かっていくことそのもののように思える。自分よりもそれから遠く見える他者、その躍動に細胞レベルで焦りを抱くとき、私は他者を「恐れ」、そして、自分のことを「恐ろしい」と思う。

「生きていかなければ」
「働かなくちゃ」
そのセリフがこんなにも実感を伴って劇場に響くのを私は初めて聞いた。
心の中で私はそこに私の声を重ねる。取り残されなかった、と感じた印に。
昨晩『楽屋』は私にとって、女優たちの物語でありながら、女優たちだけの物語ではなくなった。

今日も今日とて「女優か」と鼻で笑われた一通りのルーティーンを終え、長い黒や濃い赤、とびきりの衣装で私は武装する。生きていくために。働くために。
小さな洗面台や雑多な台所を通り越して、ドアを開ける。
私には出番がある。
そう信じたい一心で外に出る。
ユーのモ熱132

ユーのモ熱132

セビロデクンフーズ

シアター711(東京都)

2025/03/14 (金) ~ 2025/03/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

観終わった後、モヤモヤして、数日経ちモヤモヤの正体がはっきりわかった。

「映画監督のカンパニーだからきっとこんな感じかな」
それは勝手にそう思っていた自分へのモヤモヤだった。

想像の何倍もイカれた演劇だった。荒唐無稽で支離滅裂で、それは人間やその人生そのものだった。なにより演劇でしかできない無駄≒勿体なさを信じ、愛している演劇だった。それが登場人物たちの死生観につながった瞬間、あんなにも荒唐無稽で支離滅裂な物語がひとつの説得力を持たせるのだった。理屈ではない、エネルギー由来の説得力。

私が目撃したのは、地球が終わる前夜の終末論に見せかけて宇宙が生まれる前夜の出発論だったのかもしれない。
死の瀬戸際の哀しみと思いきや、生の間際の歓びだったのかもしれない。そんなことを思った。
そして、そんな生と死を飛び越えてでも、あるいは繰り返してでも果たしたい出来事はあって、それは友だちと食べきれないほどの料理を作ってみるだとか、それを「やっぱ食べきれないね」なんて言いながら沢山時間をかけて食べるとか。そういう無駄なき無駄だったりする。なんてことない営みと愛すべき勿体なさを繰り返しながら生きて死ぬし、多分死ぬまでそうやって生きている。生きていく。生きていたいなと思う。

Woodman

Woodman

Nanori

SCOOL(東京都)

2025/02/28 (金) ~ 2025/03/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

この面々でこの試み、見逃すことなどできようか(反語)。
これまでのキャリアで培われた、一人ひとりの個性や強み。そんなたしかな力を活かしつつも、力ある俳優ゆえ”脱力”もまた大いなる見どころで、他作品では見られぬ魅力を堪能しました。
短編の重なりや順番、そのグラデーションの効果、そして最終作の哀愁と余韻へ。
短編連作小説の様な読後感。コントの文学的深みを実感しました。追いたいカンパニーです!

はだかなるおとなども

はだかなるおとなども

ENBUゼミナール

小劇場B1(東京都)

2025/02/28 (金) ~ 2025/03/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

具体的じゃない人生なんて、同じ苦しみや喜び、生きづらさや生きがいなんて一つもなくて。15人が自分だけの人生と言葉それから生命を抱きしめてそこにいた。在った。
"ぼくらはみんな具体的に生きている"。本当に、本当にそうだと思った。
俳優が今自分が持っているものを全て放出して、一つ一つのシーンに立ち向かう姿が勇ましく、美しかった。
誰かの人生の一つの区切りやターニングポイントに立ち会うということは、なんと素晴らしく、そして、果てしないことなのだと痛感した。岡本昌也さんらしい鋭く、それでいて温かい眼差しに溢れた公演だった。

宮殿のモンスター ~The Monster in the Hall~

宮殿のモンスター ~The Monster in the Hall~

劇場創造アカデミー

座・高円寺1(東京都)

2025/02/21 (金) ~ 2025/02/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

辛く苦しい主題を内側におさめず、外へ外へとひらいていく果敢な上演だった。
ゲームやラップを用いてコミカルにPOPに描かれる分だけかえって痛々しい現実が胸に迫る。
自助・共助ばかり叫ぶ世の中に疑問や反発を覚えると同時に、公助という情報の届かなさ、人に助けを求めることの難しさ、他者から延ばされた手をおいそれと信じ、掴むことのできないままならなさが切々と描かれていた。

以下ネタバレBOXへ続く

ネタバレBOX

幼く脆く、しかし可能性に満ちた少女の未来に少しの光が差したことに安堵し、安堵だけでは不十分だとも感じた。
児童相談所と連携して子どもを保護したり、人権センターの相談員として働いていた母がよく言っていた「助けを求めてもらわなくては動けなくてもどかしい」、「助けを求める方法を知らない人ほど、早急な助けが必要なのに」というような言葉を思い出したりもした。

劇中で尾崎豊のforget-me-notが流れた時、驚きとともにそのラブソングがいくつもの枝葉をもって自分の中に辿り着くのを感じた。少女を残し死んでしまった母が選んだ"加速"に、子を産んだ母親がされども自分であり続けたいと願う様子が浮かび上がり、私は共感すらしてしまった。

この世界には、誰のことも責められぬ出来事がある。その上で守られることから溢れおちてしまう小さな存在がある。そんなままならない現実に手を伸ばす作品だった。これからを生きる小さき作家の彼女にとって「物語」が現実からの逃げ場ではなく、未来に広がる可能性であり続けることを願いながら地続きの今を見渡した。
幸子というんだほんとはね

幸子というんだほんとはね

はえぎわ

本多劇場(東京都)

2025/02/26 (水) ~ 2025/03/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

狂おしいほどに哀しく美しいララバイでありアンセムだった。
歌と歌の間に物語があって、それは詞と詞の狭間で私たちが生きている、ということでもあるように思えた。
人によって生まれゆく街を、連綿とつづくその営みによってできている世界を、こんなにも可笑しく、痛く、さりげなくも絶大に描いた演劇を前に言葉なんて、本当に言葉はなんて頼りなくて、私はなんて情けないのだろう、と。
泣き虫だから沢山泣いてしまったけれど、容易に感動させようとしない、カタルシスやクライマックスに収めないところに逆説的だけれども何よりグッときたのだと思う。

1人1人の人生がまるで無関係な顔して進んでいき、無理矢理接続されることはなく、でも"ほんとは"全部が繋がっている。その様は、私たちが意図せず進行している人生や人との邂逅そのものであるからして、とても自然に心身に物語が浸透していくように感じた。
人生はままならなくて、不条理で、不遜で、凝りずに同じ失敗をしてしまうし、どこまでいってもその道行は簡単にはいかないから、人は時々歌を歌うし、同じ歌を知ってる誰かを探すように他者をもとめるのかもしれない。
喪失の苦しみや不在の哀しみを互いに救い、救われることは多分どうがんばってもできなくて、だけど、そのままならなさを少しの間だけ掬い上げることは多分ちょっとできて、そのために言葉や音楽、そして演劇がある。こんな風にあるといいな、と思った。祈った。そう思える演劇だった。
ほんとのことに気づかないように生きてくことも、気づいたふりをして生きていくことも私たちはできてしまうから、時々こうしてはっきり気づきたいのだと思う。「ほんとはね」って誰かに言われたいのだと、歌ってほしいのだと思う。狂おしいほど哀しく美しい歌声と存在に縁取られながらそう思った。止まらぬ魂の震えから隣の人と肩がわずかに擦れあった瞬間、そのえもいわれぬ温もりの中で私はそれに気づいた気がする。

他者の国

他者の国

タカハ劇団

本多劇場(東京都)

2025/02/20 (木) ~ 2025/02/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

「他者」の対義語は「自己」なのだろうか。
そんな自分の考える「他者」には一体誰が含まれ、誰が含まれていないのだろうか。

舞台上、戦前の医療界に横たわる諸問題がみるみる世相を詳らかにするけれど、それはかつてのそれではない。"今"だった。
選民意識や優生思想、横暴なホモソーシャルとそれが招く女性蔑視、性被害に貧困、望まぬ妊娠、ヤングケアラー、そして戦争。人に対し「生産性」などという言葉を放つ人間が何年も国政の中枢にいるこの国が定義する「他者の国」とは一体どこだろう。エンタメの深部から何一つとして解決せぬ様々な問題に手をのばしていた。

緊張と緩和をシームレスにそれでいて混在させず一つ一つの抑揚を生む俳優陣が一人残らず素晴らしい。誰より奔放に振る舞う母柿丸美智恵さん、相手の瞳を射抜く様に信念を貫こうとするその娘平井珠生さん、愛着と母性を全身で体現する田中真弓さん。女が排除される時代で自分を生きる女たちの姿があった。

大恋愛

大恋愛

演劇企画もじゃもじゃ

SCOOL(東京都)

2025/02/14 (金) ~ 2025/02/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

他の何かを「大」として恋愛が「小」に収められることがある。だけど私は恋愛なんか、とか、色恋ごときでと言われると居た堪れなくなってしまう。そんな感触は近年より強くなった気がして恋愛の話題すら憚られる。恋愛を扱う演劇も減った。
そんな中で『大恋愛』ときた。演劇企画もじゃもじゃである。

私はこの作品が好きだった。
そして観終わった今、この『大恋愛』における「大」は特定の恋愛がいかに偉大だったかを示すためについたものではなくて、もっと広く果てしのない意味での「大」だったのだなと気づいたのだった。
前半の段階では「このまま私(恋愛)演劇に突っ走るのか」と思いきや(個人的好みとしてはそれもいいのだけれど)着陸態勢から着地にかけてぐっとフィクションの濃度が濃くなり、ラストにおいては物理的な予想はついたもののそれによって導かれる精神的な体感は想像を越えたものだった。その瞬間本作における恋愛の大きさが形を損なわれながらも意思をもって現れた様だった。

恋愛も文化も無意味化した近未来でランダムに提案される精子提供者の中から「どれでもいい」精子を選んで妊娠する女性。子を多く産めば働かなくていいらしいが、ぼんやり産むべきか悩ましくなる。そこに「ちょっと待った」と前世で度重なる失恋を繰り返した魂がやってくる。

ここまでがあらすじで、以降は歪な母子による会話(それはすなわち過去と未来の会話)が二人芝居によって描かれていく。作品や人物造形の立て付け上どうしてもフィクションの人物とノンフィクションに近い人物が混ざることになり、それによる戸惑いもあるのだけど「恋愛の話してる時の当事者(話し手)と聞き手ってまさにこんな感じやな」と興味深く感じたりも(自虐的語りになるのも含めて心当たりありすぎて...)観客の反応は分かれそうだけど、少なくとも私はその混在と混雑がモチーフには合ってる気がしました(これも好みなのだけど)

恋愛時に対象を食べたくなる程可愛く思ったり、対象そのものになりたくなったり。そんな歪みが時に直接的に時に示唆的に描かれてたのもよかった。

大恋愛はすなわち≒多失恋でもある。(恋愛の数と大失恋の数が比例しない点はまさに恋愛のバグであり真理...!)
失われたものの代わりに手に入れたはずのものが虚しくて、満ちなくて、どこまでも寂しい。そんな人間の姿がありました。
恋愛や性愛を人生において"大"きなものとしている私は、そして文筆における主題にすら思っている私は至極私的な理由でこの作品を観ることを決めた。だけど思った作品では全然なかった。思った以上に"大"きかった。そこがよかった。この先、精度を高めた再演があればなお楽しみ!

蘭獄姉妹の異様な妄想

蘭獄姉妹の異様な妄想

悦楽歌謡シアター

遊空間がざびぃ(東京都)

2025/02/12 (水) ~ 2025/02/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

私が何に惹かれて当日券に駆け込んだかというと、それはこの企画に通底する恐ろしいまでに純粋な演劇への衝動でした。

悦楽歌謡シアターの小幡悦子さんと歌川恵子さんは演劇を始めて間もない一昨年に共演、その作品の作演出を手がけた松森モヘーさんの演劇に惚れ込み、自分たちも演劇を主催をしてみたいと立案し上演に至ったのが本作だという。
さらに遡ると、お二人は元々はモヘーさんの作品の観客だったというのだから演劇って本当に恐ろしくて素晴らしい。

誰がいつ始めてもいい、そしてどんな演劇があってもいい。
そんな当然のことをなぜか私は時々忘れてしまう。忘れたくないのに。
だからこういう演劇に出会うといてもたってもいられないのです。

意味とか技術とかだけで演劇は語れない。理屈じゃ説明できないものに会いたくて、びっくりしたくて、させられたくて演劇を観ていることを改めて気付かされた気持ち。

作品はまあ極めてカオス!!でも、それもそのはずで妄想というものが混沌としていないはずはなく、私もまた涼しい顔しながら頭で考えてる様々を一つに具現化したらこんな感じかもしれない。
みんなで同じ歌を歌うこととそれぞれが好きな歌を歌うこと。その双方いずれもが人間の"異様な欲望"であり人生そのものなような気もして私はやっぱり、そのどちらかではなく、どっちもやってしまうこの演劇の破茶滅茶さに、その混沌にグッときてしまう。

私もまた演劇に人生を狂わされた人間の一人です。そして救われた一人でもある。
人生においてはベテランで、演劇においては新人のお二人。歌川さんの瞳があまりに美しかったこと、小幡さんの声がとびきりまっすぐだったこと。こればかりは他のどの演劇を探しても見つからない。
「演劇の主催」を"妄想"で終わらせなかったこと。意味のない演劇があってもいいと叫びながらその存在に意味が宿っていたこと。いつか私も舞台に立つだろうか。恥ずかしながらついそんな妄想をしてしまった。
純粋に狂いゆく演劇と人生だ!

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