悲円 -pi-yen-
ぺぺぺの会
ギャラリー南製作所(東京都)
2025/03/26 (水) ~ 2025/03/31 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を下敷きに、劇作家自身の投資体験をもとに「新NISA」「投資」「FIRE」の3つのテーマによる現代性を掛け合わせた異色の社会批評劇。かねてより、歌舞伎の『毛抜』と三島由紀夫の『太陽と鉄』を掛け合わせた現代劇を上演するなど、斬新なアイデアと思考の深度によって観たことのない、そして同時に今日性を忍ばせた作品に果敢に挑む、ぺぺぺの会らしい新境地であったように感じた。
ネタバレBOX
この題材、この作品を上演するにあたって、最も効果的だったのは会場選びであるのではないかと思う。「ギャラリー南製作所」というその場所は演劇が上演されるスペースとしては決して頻度も知名度も高くない。私は過去に一度コント公演で訪れたことがあったので何とか辿り着け、そう慌てることなく席につけたが、今回の公演を機に本会場を知った観客にとっては驚きや戸惑いも大きかったのではないかと思う。しかし、そういった異質の空間をうまく活用し、視覚的な情報としてのみだけではなく、劇の内外含めて場の共振や反響を巧みに成立させていた。
中でもガレージを使用した車の入庫から始まる冒頭は抜群に鮮烈で、車で人物が登場する珍しさや新しさはさることながら、そのことによって舞台となるブドウ農家やその周辺の閉塞的なムード、車でやっとこ辿り着ける土地感のリアルが、文字通り演劇を“ドライブ”させ、物語への没入を大いに手伝っていた。入庫に始まるだけでなく、出庫に終わるラストもまた、場を乱すアウトサイダーの登場と退場という物語のうねりを示唆的に表現するに打って付けであり、起と結の運びとしてのその鮮やかさに目を奪われた。
ブドウ農家を営む田舎の一族の生活は決して華やかではない。そんな中、投資で一躍有名になったユーチューバーの義兄(亡き娘の夫)が女優の恋人を連れて訪れ、息子の良夫ちゃんは強い反発を覚える。「田舎にある実家に都会風を吹かせる親族の誰かが現れる」という設定や、そのことが生む分断や軋轢自体は物語の汎用性としては高く、そう珍しい展開ではない。しかし、本作ではその振る舞いが単なる「嫌味」ではなく、それを通じて現代における投資そのものの問題点や、「新NISA」の登場によって身近に見えている投資がその実資本主義社会の骨頂である点、そこから感じ取る労働や生活の無力さや皮肉を描いている点にオリジナリティが光っていた。「経済」の話に終始せず、そこから現代社会における孤独や不安、それと表裏一体の野心が忍ばされた社会劇だった。ダンスや劇中劇を多用し、ある種のエンタメとしてそれらを昇華しようとし、同時に消費しようともする様も批評性に富んでおり、興味深かった。
一方で、登場人物一人ひとりの人物造形や、「家族の物語」としての深掘りがやや甘く、時折置いてけぼりをくらった印象も受けた。そうしたぼんやりとした部分を『ワーニャ伯父さん』という物語やその人物相関図、あるいは他での上演の記憶から補填しようとする生理が観劇中に働いてしまったことが個人的にはもったいなく感じた。無論、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を下敷きにしていることを明言した上での上演であるため、観客のそうした作用を想定した上での構成なのかもしれない。しかし、個人のキャラクターやそれをものにしつつ独自の芝居体で表現する俳優陣の魅力が大きかったこともあり、そこから広がりが生まれなかったことで作品が小さくなってしまっている印象を受けてしまった。これはある意味では「もっと背景が知りたい」という人物への興味・関心の強さであるし、その個性や魅力を物語る感触でもあった。ぺぺぺの会的眼差しに期待を込めたい。
しかしながら特筆したいユニークさは他にもある。日経平均株価に連動するチケット価格もその一つで、「演劇」という営みが産業として捉えられづらいこの日本において、この試みは面白いだけでなく、実に批評的で、ある種のエンパワメントでもあるようにも私は感じた。劇中で俳優が株価をチェックするのも面白く、本作の主題が劇の内外を横断するその様でしか得られないリアリティがあったように思う。
なんかの味
ムシラセ
OFF OFFシアター(東京都)
2025/04/02 (水) ~ 2025/04/09 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昭和の家族風景を活写した小津安二郎の映画『秋刀魚の味』を一つのモチーフに、「父が娘に向ける普遍的な眼差し」と「多様な親子の在り方」を同時に現代から見つめた家族劇。
ネタバレBOX
『秋刀魚の味』よろしく結婚を控える娘と父のやりとりを中心に展開される、ホーム・スイート・ホーム物語。同時に、そのB面に、(結婚式の余興を利用して)「バンドやろうぜ!」に突っ走る父の無茶振りが進行している点が面白い。ある種の「あるある」や「やれやれ」といった感触を緒に、観客をグッと物語の内部に引き込む。
昭和の風情の残るバーの店内で娘の迪子(橘花梨)と父の秋平(有馬自由)が会うところから物語は始まる。挙式を控えている迪子は幸せとは程遠い面持ちをしており、その原因が何であるかが明かされぬまま、しばしの間秋平の「バンドやろうぜ!」談義が続く。父に対する諦観と達観の狭間で揺れる娘と、そのことを微塵も気にもとめず自分の希望や願望ばかりを話す父。敏感と鈍感が同じだけ混ざり合った空間を瞬時に作り出す橘と有馬の舞台での居方が素晴らしいシーンであった。冒頭から見事にすれ違う娘と父の間に現れるのは、このバーのママである薫(松永玲子)だ。明け透けな関西弁で「バンドやろうぜ!」に参戦し、急激に距離を詰めてくる薫を溌剌と表情豊かに演じる松永に客席の温度がグッと上がるのが感じ取れる。そんな自分節をひた走る薫に圧倒されつつ、戸惑う迪子。その一方で、秋平とはやけに親密な間柄に見え、迪子は二人の関係を疑い始める。さらにパンクロック風のファッションに身を包んだバイトスタッフであり、薫の娘でもある璃(中野亜美)も現れ、迪子はますます本題に入れず、苛立ちを覚える。そして、そんな4人を巡る家族の真実が後半にかけて徐々に暴かれていく。
さりげなく思えたA面とB面の接着面が、実は家族の物語のクライマックスに大きく影響を及ぼす。そうした伏線の張り巡らせ方と回収の鮮やかさには物語の展開力、演劇の構成力の本領が光っていたように思う。「少数精鋭」という言葉が相応しい、俳優4名の技量の高さもまた本作の魅力であるが、私がとりわけ心惹かれたのは、本作において1対1の人間の関係が豊かに描かれていた点にあった。中でも、最初はコミュニケーションの交点をうまく見出せなかった迪子と璃が、それぞれの生い立ちやそこで重ねてきた苦労や複雑な葛藤を分け合うように話すシーンにはグッとくるものがあった。周囲に誤解されやすい璃が実は思慮深く心根の優しい人間であることが伝わるような、中野の声色や目つきの微調整も見事であった。
この物語に登場する人物は4人ともみんな、自分の思いや感情を容易には明かさない。その「明かさなさ」に通底しているのは、自分以外の誰かを思う気持ちであり、つまるところ「明かせなさ」という手触りとして観客に届いていく。そしてそれは必然的に家族というものからの逃れられなさ、他者と生きていく上での痛み、ひいては「生きづらさ」に繋がっていく。そうした人物の複雑な心中が、比較的明るい劇風景の中に忍ばされていくことで、「ポップな曲調であればあるほどに歌詞の切なさが身に沁みる」というような情感に私は導かれたのであった。そして最後、タイトルをも総回収するかのように、舞台上にある「家族の味」が出てくる点にも抜かりがなかった。
さりげない会話の連なりに、少しずつ違和感を差し込み、真実へと導く構成は実に清々しい。
しかし同時に、やや綺麗にまとまりすぎている印象を受け取ったのも本当のところであった。家族や夫婦がそれ一つの言葉ではまとめきれないほど多様化を辿る現代において、複雑な背景を持つ家族が描かれる上ではもう一歩「ままならなさ」や「やりきれなさ」、あるいは社会への風刺や皮肉を感じたい思いもあった。「優しさ」という主成分で構成されている劇世界に日頃のくさくさした心が包まれると同時に、わずかに「リアルはそうはいかないだろう」と思ってしまう自分との遭遇があったことも記したいと思う。
零れ落ちて、朝
世界劇団
三重県文化会館(三重県)
2025/04/12 (土) ~ 2025/04/13 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
グリム童話の『青ひげ』を下敷きに、「戦時中に医学の進歩のために行われた生体解剖」という医者の功罪に着目し、生命倫理と人間の尊厳を問う意欲作。主宰で現役医師である本坊由華子ならではの着眼点や提題が忍ばされた代表作の一つである。
ネタバレBOX
俳優の身体に多くのことが託された本作において、その強度を確かなものにするためには相当な思考と鍛錬が必要であったと想像ができる。リフレインされる台詞やシーンが回を増すごとにより鮮明な風景として立ち上がり、同じ言葉を同じ言葉に聞こえさせぬ、同じ風景を同じ風景として見せぬ俳優の表現力と演出の工夫に引き込まれた。そうしたリフレインはやがて、同じ悲劇を繰り返してしまう人間の愚かさや、今もまさに世界で続いている暴力や戦争、その功罪を握らせていく。同時に、それらメッセージを「再演」というある種のリフレイン的試みを通じて、社会や世界に広く伝えようとする姿勢にも意気込みが感じられる作品だった。
医師としての功績を確かなものにしようと、患者を「人」ではなく「材料」として扱う青山(本田椋)の横顔には人命を救う医師の矜持のかけらも残されておらず、むしろ人命を奪うことで自身の地位や名声を挙げようとする独裁者の執心が色濃く滲む。しかし、それでいて平静を保っていられない彼の振る舞いには(肯定こそできないが)ある種の人間らしさが残る。「罪の意識が皆無ではない」ということが加害の生々しさをより詳らかにしていくように感じたのだ。そうした後ろめたさや不都合な真実を無効化するかのように、青山は妻(小林冴季子)に城の床を清く白く保つようにと命じる。青山のそばに罪をけし掛ける大佐(本坊由華子)という存在がいることもまたリアルな構図であり、こうした罪に手を染めた人間が決して一人ではなかったという医学界の世相、歴史の闇を切々と物語っているようでもあった。
劇中で、俳優の身体よりもその影が舞台側面で大きく映写される演出があり、私はその瞬間に最も引き込まれた。実体の見えないもの、つまり隠された罪をいくらなかったことにしようとしても、それらには必ず影が付き纏う。光の加減によって人物そのものよりも大きなものとして現れる影は、戦争犯罪の罪深さを、ひいてはこの世界に起き、今もまさに隠されているかもしれないあらゆる加害とその大きさを象徴しているように思えてならない。それらが「演劇」でこそ表現できる光と音、そして俳優の身体を駆使した風景として浮かび上がってくる様に私は本作の強度を感じ取った。他にも舞台上に侵食していく水や、頭上から降ってくる砂といった「片付けることの困難なもの」、「痕跡を拭い去ることが容易ではないもの」が多用されていた点も興味深かった。水に濡れた体はすぐには乾かないし、砂のついた身体からその粒子を全て取り除くのは難しい。「見えにくい罪」、そして、「語られにくい罪」を詳らかにするという意味で効果的な演出が随所に忍ばされていたところにも演劇の力を感じた。
一方で、言葉なくして鮮烈な感触を伝える俳優の身体の説得力が長けていただけに、発せられる台詞が時として宙ぶらりんになる瞬間があったようにも感じられた。観客に場や時の緊迫を伝播するフィジカルの力が強まる反面、詩的なモノローグや言葉遊びなどのテキストの魅力がもう一歩届きづらい構図になっている節があった。言葉と身体のバランスが首尾良く整理されていることによって見やすくはなっているのだが、多少ぐちゃっとしていても、言葉の飛距離が想像を越える様を見たかった、という気持ちになったのである。とはいえ、真っ先に言及したように本作の最たる挑戦はおそらく身体表現によって見えないものを浮かび上がらせる点にある。そうしたフィジカルシアターに「言葉の力」を過度に求めること自体が果たして正しいかわからない。その葛藤を前置きした上で、言葉が意味するところをつい追いかけてしまったことを観客の一人の実感として記録しておきたい。
湿ったインテリア
ウンゲツィーファ
早稲田小劇場どらま館(東京都)
2025/05/19 (月) ~ 2025/05/27 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
結婚を巡るある男女の三角関係と、育児を巡るある夫婦の日常。そして、結婚、出産、育児というテーマに終始せず、そのさらに上の世代である親と子の関係や、その生い立ちから受ける影響にも眼差しを向けた快作、いくつもの手触りの「生きづらさ」や他者と生きる「ままならなさ」が濃密に紡がれた演劇であった。
ネタバレBOX
出産を控えるひと組のカップルジュウタ(黒澤多生)とチア(豊島晴香)が不動産屋の男(藤家矢麻刀)に新居の内見を案内されるところから物語は始まる。そこから結婚・家族生活が描かれると思いきや、早々に不動産屋の男がチアの元恋人・タクであったことが明かされる。さらにはジュウタの急死を機に、タクがチアとともに暮らし、ジュウタとの間に生まれたソラの父親になることを決意し、3人の新生活の様子が描かれていく。そこに訪れるのが、両家の母親。両家と言ってもチアとタクの母ではなく、タクの母・タナコ(根本江理)とジュウタの母・カキエ(松田弘子)であるからして、その鉢合わせを巡って状況はますます混沌を極めていく。ジュウタの死を受け入れられず、その喪失によってソラの存在が拠り所となっているカキエはやがて、ソラをジュウタとしてあやすようになる。そうこうしているうちにソラの体に亡きジュウタの魂が転移し、言葉を発し始める。一方で、タナコもまた「ソラは本当はタクとの間にできた子どもなのではないか」という想像に駆られる。さらにはチアとその親との不和も詳らかになり始め、3人の男女の三角関係から、それぞれが生い立ちによって背負った傷や葛藤、それがその後の人生に与えた影響が浮かび上がってくる…。
来る日も来る日も続く夜泣きからの疲弊、「子どもを宿し、産んだ」という実感を経て親になる母と、そうではない状況で親になる父との埋まらぬ価値観…。そういった、出産や育児という出来事がもたらす精神のバグや他者との不和や軋轢が(子どもを生み、育てている当事者としては)思わず「あるある」、「わかる」と言ってしまいそうな日常の一コマとして、リアリティを以て舞台上で展開される。さりげなくも綿密に練られたその会話と演出に作家・本橋龍の確かな技量を改めて見る思いであった。中でもポータブルスピーカーを赤子に見立てる演出は、その斬新さもさることながら、「家電に泣き声が宿る」といった点でまさに「湿ったインテリア」というタイトルを具現化していた点にも感銘を覚えた。(余談だが、私自身もかつて何をしても泣き止まない赤子の泣き声に狼狽え、スピーカーのようにその音が調整できたらと思った経験があった)
しかしながら、私が本作で最も素晴らしいと感じたのは、そういった「子どもを持ち、育てることの大変さ」がこの物語と演劇の核心ではなかった点である。
複雑に絡み合う人間関係の中でありありと浮かび上がってきたのは、「人をどう育てるのか」ではなく、「人にどう育てられたか」であったように私は思う。つまり、ジュウタとチアとタクの3人の親やその子育てをもに焦点を当てることで、本作は観客、ひいては社会に対してよりひらけたテーマを問おうとしていた気がしてならない。中でも印象的だったのが、カキエの愛情を存分に受け、手づくりの洋服を着せられて育ったジュウタが「愛されること、大切にされることの怖さ」を語るシーンである。親が育児に没頭できないことの罪深さだけでなく、親が育児に過度に没頭し、その愛と期待の重さによって子をがんじがらめにしてしまう様子には、一人の親として思わず背中が冷える思いであった。ソラを自分の孫であると信じたい二人の祖母の姿には、それ以前にタクやジュウタをどう見つめてきたか、どう見つめてこなかったかという母から子への関わり方や育児の履歴が忍ばされていたように思うのだ。家族や夫婦といったコミュニティにとどまらず、登場人物一人ひとりが背負うものへも視野を広げることで、「人間がいかに複雑な生き物であるか」という想像が観客へと手渡されていくようでもあり、シーンが変わるたびに、そこに生きるあらゆる人の背景に想いを馳せるような観劇体験だった。
wowの熱
南極
新宿シアタートップス(東京都)
2025/03/26 (水) ~ 2025/03/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
メンバー全員が本人役として出演、オール劇団員キャストで送るSFメタフィクション。
ネタバレBOX
一人ずつがその名を呼ばれ、客席後方より舞台へと上がっていく冒頭の“登板”から、本作の役や物語が現実に侵食していく様を描いたクライマックス、そして、劇団や演劇、俳優そのものの当事者性を問うラストに至るまで、一貫して現実と虚構の横断を生々しい“熱”を以て描き切った意欲作。それらを全員野球ならぬ全員演劇によって力強く叶えた作品であった。
一人ひとりの粒立った個性と存在感を明示するかのような連作コントを経てから『wowの熱』といった物語(すなわち本題)に突入する、という構成も会場の“熱”を高める上で効果的に機能しており、さらにはその連作コントで散りばめられたあらゆる伏線が後々本題の中で回収される、という鮮やかな連結にも作家、俳優、そして劇団そのものの表現力が光っていたように思う。
また、当日パンフレットの文字の大きさが非常に見やすく、かつひと目でキャストの名前、配役、そして顔写真によってそれらが一次情報のみで照合できるように作られている点も素晴らしい。
「スマホで調べたらわかる」と言われたらそこでおしまいだが、それが困難な観客も中にはいる。また、「素敵な俳優やスタッフに出会った時にその名前を覚えて帰りたい」という観客の気持ちやライブ性に寄り添った工夫も評価の一つに値する。
平熱が45度を越える中学生・ワオ(端栞里)を中心に繰り広げられるSF青春劇のパートでは、SF超大作を下敷きにテクノロジーの暴走を描いた『(あたらしい)ジュラシックパーク』や、恐竜の絶滅をテーマに青春の終焉と世界の終末をともに立ち上げた『バード・バーダー・バーデスト』などの過去作で確立した手法や見せ方が首尾良く活用されており、一つの作品として遜色のない独自の世界観に仕上がっていた。
しかし、私が最も心を打たれたのは、その終着点の見えかけているファンタジーにあえて切り込みを入れ、そこから先のまだ見ぬ冒険と挑戦に乗り出した点であった。
人と違う特性を持つワオやチャーミングなキャラクターたちの関わりや寄り添いを通じ、多様性や他者理解といった今日性を忍ばせながら、愛らしく切ない青春群像劇として完結させることもできたであろうところに「待った!」をかけ、文字通りその上演を舞台上で一度中止させることで本作はメタ演劇へと舵を切っていく。
そこから描かれるのは、『wowの熱』という公演がワオ役の端栞里の発熱によって中止となった後の世界線。スタッフをも舞台に上がる演出や劇団が赤字回収に悩む様子、メンバー同士のやりとりなどの“バックヤード”のリアルな側面を見せつつも、「だから劇団って大変なんです」といったある種のナルシズムな展開や結末を辿るのではなく、突然変異的に登場人物に俳優が、演劇に日常が侵食されるといったもう一つのSF展開を用意することで、物語や演劇を未知の領域へと飛躍させていた。そんないくつもの入れ子構造によって観客を鮮やかに裏切り、想像以上の世界へと誘っていた点に私は劇団の発展力を確認したのである。
そして、何よりその複雑な劇世界を劇団員フルキャストだからこそ叶えられる一体感と連携を以てして実現させていたこと。それでいて「身内ネタ」や「身内ノリ」に終始せず、そのマジカルなまでのグルーヴに観客をも取り込み、舞台と客席を越境し、相乗した熱気を生んでいたこと。それこそが本作の最たる個性と魅力であったのではないだろうか。それらは演出や演技といった劇の内側だけでなく、手づくり感の溢れる美術や小道具などの外側にも発揮され、細部に渡って抜かりがなかった。南極の持ち味である、群を抜いたデザイン力の高さを以てハード・ソフト面ともにますますの磨きをかけた力作。今後、南極という劇団がどう変化していくのか。本作に立ち会った観客がそんな待望を抱くに十分な作品であったと思う。
ハッピーケーキ・イン・ザ・スカイ
あまい洋々
インディペンデントシアターOji(東京都)
2025/03/13 (木) ~ 2025/03/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
高校時代に行方不明になり、その数年後に白骨死体で見つかった「ちぃちゃん」を巡って、卒業後はそれぞれの道を歩んでいる同級生や友人などが各々の立場から「ちぃちゃん」とその人生に起きた虐待の被害や凄惨な結末、そして、されども彼女が生きていた「生」とそんな彼女と過ごした「時間」を見つめる、見つめようとする群像劇。
ネタバレBOX
「見つめようとする」とわざわざ言い換えたのは、本作の伝えたいことがそこにこそ詰まっている気がしたからである。その点においてキーとなっているのは、「ちぃちゃん」と彼女を巡る事件を取り巻いているのが直接的に関わりのある知人や友人のみではない点にある。
「ちいちゃん」の事件は一部マスコミにも注目され、ライターの高務(櫻井竜)が読者の好奇心をそそるような文体で記事化しており、その取材活動をきっかけに散らばったかつての同級生が数年ぶりに繋がる、という流れがあった。さらに、時を同じくして同級生の一人で映像作家として活動する乙倉(松村ひらり)は、「ちぃちゃん」を題材に自身の監督作品を撮ろうとしており、同級生たちに聞き取りを行っていた。
この二つの出来事を巡って、“取材”に協力的である人間と反発を覚える人間に分かれ、それがそのまま「ちぃちゃん」との関係の深さを意味するところとなっている。
こうした場合、上記に挙げた2名のような人物は分かりやすく悪人のように扱われることが多いように思うが、私が本作で心を打たれたのは、その存在が複雑ながらも一つの希望や祈りとして描かれていたことである。無論、当初はその取材や映像化に異論や反発が飛び交い、「当事者でない人間が当事者の人生を消費すること」についての会話や議論が交わされていた。しかし、結果的に本作は「当事者でなくてもできること」に手先を伸ばし、やがて「当事者でないからこそできること」までを手繰り寄せようとしていたように思う。その過程の時間は、不在である/不在とならざるを得なかった「ちぃちゃん」という一人の人間を、人生を、そしてその消費を見つめようとする行為に他ならないのではないだろうか
作・演出、そして、ちぃちゃん役として出演した主宰の結城真央さんはご自身が虐待サバイバー当事者であることを開示した上で本作の創作に取り組んでいる。この事実が作品に与える、それこそある種のインパクトのようなものは大きいかもしれない。しかし本作はその経験をただ生々しく描くのではなく、もう一歩先の景色を掴もうとされていたように思う。
あらゆる作品の題材として、虐待やその被害が時に“甘いケーキ”のように“おいしく”消費されてしまうこと。その暴力性に抵抗を示すと同時に、虐待サバイバー当事者でありながら同時に表現者の一人でもある自身が今見つめるべきことに手を伸ばされているように感じた。
「当事者じゃないからわからない」と言って黙ることで傷つけずに済む人がいることも確かだろう。しかし、「当事者じゃないからわかりたい」と声を重ねることに救われる人もいるかもしれない。そういった物語や人物の眼差しに観客として気付かされることも多かった。
ちぃちゃんと同じ境遇であった仁子(チカナガチサト)の痛みが同期したかのような表情、同じくらいちぃちゃんと交流が深く、現在は児童養護施設で働く綾瀬(松﨑義邦)の戸惑いを隠せぬ振る舞い、そしてちぃちゃんが夢中になったアイドル、レモンキャンディ(前田晴香)の極めて解像度の高いアイドルパフォーマンスなど、俳優陣の表現力も高く、かつ随所に散りばめられたギャグや小ネタも観客がシリアスな題材を受け取る上で効果的に機能していた。一方で、全員が一堂に会すシーンでは観客を引き込むのにやや苦戦している印象を受け、個人としての技術が高い一方で、集合した際の場の説得力のようなものにもう一歩不足が感じられた。そのあたりに今後飛躍する可能性と期待を寄せつつ、開示と思考の痛みを伴う創作にカンパニー一丸となって乗り出されたことに、一人の観客として敬意を示したいと思った。
楽屋 ~流れ去るものはやがてなつかしき〜
ルサンチカ
アトリエ春風舎(東京都)
2025/02/15 (土) ~ 2025/02/24 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
朝起きて、歯を磨き、まずぬるま湯を飲む。
それから少しの果物とナッツとヤクルト、レチノール入りのビタミンCとビタミンE、ビタミンB群、さらに亜鉛と大豆のサプリメントを飲む。その全てを一発で無効化してしまう喫煙の欲求と格闘し、どうにもこうにもいかない日には白旗のごとく白い煙を吐く。なかったことになったことをさらになかったことにするように換気扇が素早くそれを吸い込んでいくのを見て、少し心を落ち着かせる。
それから顔を洗ってCICAパックをして、美顔器を10分当てる。EMSの振動が奥歯に響く不快さとともに、この一通りのルーティーンを「女優か」と鼻で笑った男がいたことを思い出す。
鏡の前でため息を一つ吐く。
弱い皮膚、ちょっとしたことですぐ荒れてしまう肌を隠し、そして守るための化粧をしなくてはならないことを憂鬱に思うけれど、そうしなくてはもっと憂鬱になることが目に見えているので今日も今日とて私は化ける。アイラインを引く。リップをつける。手強い相手と会わなくてはいけない時、それらを握る手には自ずと力が入り、黒は長く、赤は濃くなる。そしてとびきりの衣装に身を包み、心の中で「ナメられてたまるか」と威嚇する。奮い立たせている。
ここまでしなければ、私は外の世界に出ていくことができない。
だったら中の世界にいたらいい、というわけにもいかない。私にも生活がある。仕事がある。
出番がある。
この小さな洗面台や雑多な台所がなんら「楽屋」と変わりがないような気がしてくるのは、昨晩、日本演劇史上最も有名な戯曲の一つである『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』を観たせいだろうか。
違う。ルサンチカ『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』を観たからだ。
それは、女優たちの物語でありながら、女優たちだけの物語ではなかった。
私はそこに私を見た。
取り残されなかった、と感じた。
『楽屋』を観てこんな気持ちになったのは初めてのことだった。
以下ネタバレBOXへ
ネタバレBOX
ルサンチカは演出家の河井朗さんが主宰し、演出する舞台芸術を制作するカンパニーである。
劇団の主宰が作・演出をともに手掛けることが多い中、「演出」に注力したアーティストによるカンパニー自体が珍しい。さらにルサンチカは「過去」の戯曲を上演する新たな形式とその広がりをテーマに据えるとともに、今、そこにいる観客、現代を生きる観客に向かって「過去の言葉を、戯曲をどう扱うか」を問うことを決してやめない。
私はかねてよりその姿勢、演劇を通じて社会や世界、そして個人の重なりであるそれらを見つめる眼差しの深さに強く感銘を受けていていたのだけれど、本作でそれはより強固なものになった。
清水邦夫による『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』。
あくまで持論だけど、私はこの戯曲を、(原作に則りあえてこの書き方をするが)、「女優」という生き様における「狂気」と「正気」が不可分に交ざり合う様を描いたものととらえていた。
そして、今回の上演はその点において新たな発見と体感に溢れたものだった。
自分が未熟だったことも多分に影響しているだろうが、今まではその「狂気」と「正気」の源流が一体どこなのかがわからず、「女優の業のようなもの」にただただ圧倒されるに終始していた。
言い換えると、「そりゃ俳優のやりがいのある作品だよなあ」いう気持ちになるにとどまってきた、とも言える。
でも、本作を観て、「狂気」と「正気」の源に初めて触れた気がした。私はそれを女優という生業の「恐ろしさ」と「恐れ」だったのではないか、と感じるに至った。その二つは似て非なるもので、観客の私が彼女たちを「恐ろしく」感じる傍らで、彼女たちもまた自身の生き様(≒死に様)にそれぞれ多寡はあれども「恐れ」を抱いているのではないか、という実感だった。
そして、そのときたちまち彼女たちは舞台と客席、楽屋とその外を飛び越え、私の前にようやく現れたような気がした。私は初めて彼女たちをとても身近に感じたのだった。
伊東沙保さん、キキ花香さん、日下七海さん、西山真来さんの4名の素晴らしい俳優がそう感じさせてくれた。
この戯曲、その上演において私にはもう一つ持論があった。
それはこの戯曲を上演する限り、4名それぞれの俳優の個性やその魅力をどこまで引き出せるか、にかかっているのではないか、ということだった。少なくとも私にとって、「俳優に魅了されること」はこの作品において何よりも重要な意味を持っていた。
そして、本作はそれをおつりが出るほどの強度で成し遂げていたように感じた。今まで観た中で最も俳優に魅了された『楽屋』だった。
4名がそれぞれの肉体を以て、不可分に混ざり合う「狂気」と「正気」を、「恐ろしさ」と「恐れ」を体現していた。
それはやはりとても恐ろしい光景だった。
「生きていくこと」と「働くこと」をかけ離すことはできず、それに苦心しているうちに、生きていくために働くはずが、働くために生きていきている状態に逆転する。そしてやがて生きていくことよりも、働き続けていくことの方を優先する体や心になっていく。
それは、「女優」に限ったことではない。
私や家族や友人、客席で隣に座る見知らぬ誰かもまたきっとそうかもしれないと思う。
いつかくるかもしれない出番を待ち望み、なくなるかもしれない出番を恐れ、短いターンで何度もそれを繰り返しながら生きていく。それは、生きていくことを熱心に進めながら、死んでいくことに着実に向かっていくことそのもののように思える。自分よりもそれから遠く見える他者、その躍動に細胞レベルで焦りを抱くとき、私は他者を「恐れ」、そして、自分のことを「恐ろしい」と思う。
「生きていかなければ」
「働かなくちゃ」
そのセリフがこんなにも実感を伴って劇場に響くのを私は初めて聞いた。
心の中で私はそこに私の声を重ねる。取り残されなかった、と感じた印に。
昨晩『楽屋』は私にとって、女優たちの物語でありながら、女優たちだけの物語ではなくなった。
今日も今日とて「女優か」と鼻で笑われた一通りのルーティーンを終え、長い黒や濃い赤、とびきりの衣装で私は武装する。生きていくために。働くために。
小さな洗面台や雑多な台所を通り越して、ドアを開ける。
私には出番がある。
そう信じたい一心で外に出る。
ユーのモ熱132
セビロデクンフーズ
シアター711(東京都)
2025/03/14 (金) ~ 2025/03/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
観終わった後、モヤモヤして、数日経ちモヤモヤの正体がはっきりわかった。
「映画監督のカンパニーだからきっとこんな感じかな」
それは勝手にそう思っていた自分へのモヤモヤだった。
想像の何倍もイカれた演劇だった。荒唐無稽で支離滅裂で、それは人間やその人生そのものだった。なにより演劇でしかできない無駄≒勿体なさを信じ、愛している演劇だった。それが登場人物たちの死生観につながった瞬間、あんなにも荒唐無稽で支離滅裂な物語がひとつの説得力を持たせるのだった。理屈ではない、エネルギー由来の説得力。
私が目撃したのは、地球が終わる前夜の終末論に見せかけて宇宙が生まれる前夜の出発論だったのかもしれない。
死の瀬戸際の哀しみと思いきや、生の間際の歓びだったのかもしれない。そんなことを思った。
そして、そんな生と死を飛び越えてでも、あるいは繰り返してでも果たしたい出来事はあって、それは友だちと食べきれないほどの料理を作ってみるだとか、それを「やっぱ食べきれないね」なんて言いながら沢山時間をかけて食べるとか。そういう無駄なき無駄だったりする。なんてことない営みと愛すべき勿体なさを繰り返しながら生きて死ぬし、多分死ぬまでそうやって生きている。生きていく。生きていたいなと思う。
Woodman
Nanori
SCOOL(東京都)
2025/02/28 (金) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
この面々でこの試み、見逃すことなどできようか(反語)。
これまでのキャリアで培われた、一人ひとりの個性や強み。そんなたしかな力を活かしつつも、力ある俳優ゆえ”脱力”もまた大いなる見どころで、他作品では見られぬ魅力を堪能しました。
短編の重なりや順番、そのグラデーションの効果、そして最終作の哀愁と余韻へ。
短編連作小説の様な読後感。コントの文学的深みを実感しました。追いたいカンパニーです!
はだかなるおとなども
ENBUゼミナール
小劇場B1(東京都)
2025/02/28 (金) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
具体的じゃない人生なんて、同じ苦しみや喜び、生きづらさや生きがいなんて一つもなくて。15人が自分だけの人生と言葉それから生命を抱きしめてそこにいた。在った。
"ぼくらはみんな具体的に生きている"。本当に、本当にそうだと思った。
俳優が今自分が持っているものを全て放出して、一つ一つのシーンに立ち向かう姿が勇ましく、美しかった。
誰かの人生の一つの区切りやターニングポイントに立ち会うということは、なんと素晴らしく、そして、果てしないことなのだと痛感した。岡本昌也さんらしい鋭く、それでいて温かい眼差しに溢れた公演だった。
宮殿のモンスター ~The Monster in the Hall~
劇場創造アカデミー
座・高円寺1(東京都)
2025/02/21 (金) ~ 2025/02/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
辛く苦しい主題を内側におさめず、外へ外へとひらいていく果敢な上演だった。
ゲームやラップを用いてコミカルにPOPに描かれる分だけかえって痛々しい現実が胸に迫る。
自助・共助ばかり叫ぶ世の中に疑問や反発を覚えると同時に、公助という情報の届かなさ、人に助けを求めることの難しさ、他者から延ばされた手をおいそれと信じ、掴むことのできないままならなさが切々と描かれていた。
以下ネタバレBOXへ続く
ネタバレBOX
幼く脆く、しかし可能性に満ちた少女の未来に少しの光が差したことに安堵し、安堵だけでは不十分だとも感じた。
児童相談所と連携して子どもを保護したり、人権センターの相談員として働いていた母がよく言っていた「助けを求めてもらわなくては動けなくてもどかしい」、「助けを求める方法を知らない人ほど、早急な助けが必要なのに」というような言葉を思い出したりもした。
劇中で尾崎豊のforget-me-notが流れた時、驚きとともにそのラブソングがいくつもの枝葉をもって自分の中に辿り着くのを感じた。少女を残し死んでしまった母が選んだ"加速"に、子を産んだ母親がされども自分であり続けたいと願う様子が浮かび上がり、私は共感すらしてしまった。
この世界には、誰のことも責められぬ出来事がある。その上で守られることから溢れおちてしまう小さな存在がある。そんなままならない現実に手を伸ばす作品だった。これからを生きる小さき作家の彼女にとって「物語」が現実からの逃げ場ではなく、未来に広がる可能性であり続けることを願いながら地続きの今を見渡した。
幸子というんだほんとはね
はえぎわ
本多劇場(東京都)
2025/02/26 (水) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
狂おしいほどに哀しく美しいララバイでありアンセムだった。
歌と歌の間に物語があって、それは詞と詞の狭間で私たちが生きている、ということでもあるように思えた。
人によって生まれゆく街を、連綿とつづくその営みによってできている世界を、こんなにも可笑しく、痛く、さりげなくも絶大に描いた演劇を前に言葉なんて、本当に言葉はなんて頼りなくて、私はなんて情けないのだろう、と。
泣き虫だから沢山泣いてしまったけれど、容易に感動させようとしない、カタルシスやクライマックスに収めないところに逆説的だけれども何よりグッときたのだと思う。
1人1人の人生がまるで無関係な顔して進んでいき、無理矢理接続されることはなく、でも"ほんとは"全部が繋がっている。その様は、私たちが意図せず進行している人生や人との邂逅そのものであるからして、とても自然に心身に物語が浸透していくように感じた。
人生はままならなくて、不条理で、不遜で、凝りずに同じ失敗をしてしまうし、どこまでいってもその道行は簡単にはいかないから、人は時々歌を歌うし、同じ歌を知ってる誰かを探すように他者をもとめるのかもしれない。
喪失の苦しみや不在の哀しみを互いに救い、救われることは多分どうがんばってもできなくて、だけど、そのままならなさを少しの間だけ掬い上げることは多分ちょっとできて、そのために言葉や音楽、そして演劇がある。こんな風にあるといいな、と思った。祈った。そう思える演劇だった。
ほんとのことに気づかないように生きてくことも、気づいたふりをして生きていくことも私たちはできてしまうから、時々こうしてはっきり気づきたいのだと思う。「ほんとはね」って誰かに言われたいのだと、歌ってほしいのだと思う。狂おしいほど哀しく美しい歌声と存在に縁取られながらそう思った。止まらぬ魂の震えから隣の人と肩がわずかに擦れあった瞬間、そのえもいわれぬ温もりの中で私はそれに気づいた気がする。
他者の国
タカハ劇団
本多劇場(東京都)
2025/02/20 (木) ~ 2025/02/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
「他者」の対義語は「自己」なのだろうか。
そんな自分の考える「他者」には一体誰が含まれ、誰が含まれていないのだろうか。
舞台上、戦前の医療界に横たわる諸問題がみるみる世相を詳らかにするけれど、それはかつてのそれではない。"今"だった。
選民意識や優生思想、横暴なホモソーシャルとそれが招く女性蔑視、性被害に貧困、望まぬ妊娠、ヤングケアラー、そして戦争。人に対し「生産性」などという言葉を放つ人間が何年も国政の中枢にいるこの国が定義する「他者の国」とは一体どこだろう。エンタメの深部から何一つとして解決せぬ様々な問題に手をのばしていた。
緊張と緩和をシームレスにそれでいて混在させず一つ一つの抑揚を生む俳優陣が一人残らず素晴らしい。誰より奔放に振る舞う母柿丸美智恵さん、相手の瞳を射抜く様に信念を貫こうとするその娘平井珠生さん、愛着と母性を全身で体現する田中真弓さん。女が排除される時代で自分を生きる女たちの姿があった。
大恋愛
演劇企画もじゃもじゃ
SCOOL(東京都)
2025/02/14 (金) ~ 2025/02/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
他の何かを「大」として恋愛が「小」に収められることがある。だけど私は恋愛なんか、とか、色恋ごときでと言われると居た堪れなくなってしまう。そんな感触は近年より強くなった気がして恋愛の話題すら憚られる。恋愛を扱う演劇も減った。
そんな中で『大恋愛』ときた。演劇企画もじゃもじゃである。
私はこの作品が好きだった。
そして観終わった今、この『大恋愛』における「大」は特定の恋愛がいかに偉大だったかを示すためについたものではなくて、もっと広く果てしのない意味での「大」だったのだなと気づいたのだった。
前半の段階では「このまま私(恋愛)演劇に突っ走るのか」と思いきや(個人的好みとしてはそれもいいのだけれど)着陸態勢から着地にかけてぐっとフィクションの濃度が濃くなり、ラストにおいては物理的な予想はついたもののそれによって導かれる精神的な体感は想像を越えたものだった。その瞬間本作における恋愛の大きさが形を損なわれながらも意思をもって現れた様だった。
恋愛も文化も無意味化した近未来でランダムに提案される精子提供者の中から「どれでもいい」精子を選んで妊娠する女性。子を多く産めば働かなくていいらしいが、ぼんやり産むべきか悩ましくなる。そこに「ちょっと待った」と前世で度重なる失恋を繰り返した魂がやってくる。
ここまでがあらすじで、以降は歪な母子による会話(それはすなわち過去と未来の会話)が二人芝居によって描かれていく。作品や人物造形の立て付け上どうしてもフィクションの人物とノンフィクションに近い人物が混ざることになり、それによる戸惑いもあるのだけど「恋愛の話してる時の当事者(話し手)と聞き手ってまさにこんな感じやな」と興味深く感じたりも(自虐的語りになるのも含めて心当たりありすぎて...)観客の反応は分かれそうだけど、少なくとも私はその混在と混雑がモチーフには合ってる気がしました(これも好みなのだけど)
恋愛時に対象を食べたくなる程可愛く思ったり、対象そのものになりたくなったり。そんな歪みが時に直接的に時に示唆的に描かれてたのもよかった。
大恋愛はすなわち≒多失恋でもある。(恋愛の数と大失恋の数が比例しない点はまさに恋愛のバグであり真理...!)
失われたものの代わりに手に入れたはずのものが虚しくて、満ちなくて、どこまでも寂しい。そんな人間の姿がありました。
恋愛や性愛を人生において"大"きなものとしている私は、そして文筆における主題にすら思っている私は至極私的な理由でこの作品を観ることを決めた。だけど思った作品では全然なかった。思った以上に"大"きかった。そこがよかった。この先、精度を高めた再演があればなお楽しみ!
蘭獄姉妹の異様な妄想
悦楽歌謡シアター
遊空間がざびぃ(東京都)
2025/02/12 (水) ~ 2025/02/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
私が何に惹かれて当日券に駆け込んだかというと、それはこの企画に通底する恐ろしいまでに純粋な演劇への衝動でした。
悦楽歌謡シアターの小幡悦子さんと歌川恵子さんは演劇を始めて間もない一昨年に共演、その作品の作演出を手がけた松森モヘーさんの演劇に惚れ込み、自分たちも演劇を主催をしてみたいと立案し上演に至ったのが本作だという。
さらに遡ると、お二人は元々はモヘーさんの作品の観客だったというのだから演劇って本当に恐ろしくて素晴らしい。
誰がいつ始めてもいい、そしてどんな演劇があってもいい。
そんな当然のことをなぜか私は時々忘れてしまう。忘れたくないのに。
だからこういう演劇に出会うといてもたってもいられないのです。
意味とか技術とかだけで演劇は語れない。理屈じゃ説明できないものに会いたくて、びっくりしたくて、させられたくて演劇を観ていることを改めて気付かされた気持ち。
作品はまあ極めてカオス!!でも、それもそのはずで妄想というものが混沌としていないはずはなく、私もまた涼しい顔しながら頭で考えてる様々を一つに具現化したらこんな感じかもしれない。
みんなで同じ歌を歌うこととそれぞれが好きな歌を歌うこと。その双方いずれもが人間の"異様な欲望"であり人生そのものなような気もして私はやっぱり、そのどちらかではなく、どっちもやってしまうこの演劇の破茶滅茶さに、その混沌にグッときてしまう。
私もまた演劇に人生を狂わされた人間の一人です。そして救われた一人でもある。
人生においてはベテランで、演劇においては新人のお二人。歌川さんの瞳があまりに美しかったこと、小幡さんの声がとびきりまっすぐだったこと。こればかりは他のどの演劇を探しても見つからない。
「演劇の主催」を"妄想"で終わらせなかったこと。意味のない演劇があってもいいと叫びながらその存在に意味が宿っていたこと。いつか私も舞台に立つだろうか。恥ずかしながらついそんな妄想をしてしまった。
純粋に狂いゆく演劇と人生だ!
女性映画監督第一号
劇団印象-indian elephant-
吉祥寺シアター(東京都)
2025/02/08 (土) ~ 2025/02/11 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
私は最近女性が男性や社会とたたかうべく連帯する、いわゆるシスターフッドの物語を手放しで喜べなくなってしまった。個々で考え方も生き方もまるで違う複雑な私達はその実女同士というだけでは簡単に手を繋ぎあえない。だから時折物語のクライマックスやカタルシスのためにそうさせられてしまうことに違和感やもどかしさを覚えはじめていた。だけど、そこまでをしっかり見つめている作品ももちろんあって、『女性映画監督第一号』はまさにそんな作品だと感じた。戯曲も上演も定点におさまらず本当に素晴らしかった。
表題から抱く物語のイメージを一つも二つも飛び越え、至らぬ自分一人の思考では到底辿り着けない風景をひりひりと見せつけられた。
「芸術や表現の世界で女性の評価が遅れる」という現実やその中で活躍することの難しさを詳らかにしながら、性別問わず芸術や表現を生業とする人間がそのブレイクや成果の為に誰かの存在や人生や歴史を無自覚に搾取/消費してしまう加害も明らかにしていた。本当の連帯はその自覚からだと手に握らされた。
「眼差しの権力」という言葉をじゃりじゃり噛み砕く帰路。
西瓜の種はそれを食す時にはたしかに不用だが種がなければ新たな実は生まれない。私はまだそう信じたい
花と龍
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2025/02/08 (土) ~ 2025/02/22 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
なぜこの公演は舞台に屋台を出しその場で飲食飲酒ができるようにしたのか。
舞台上(=物語の内側)に私たちの営みを取り込んだのか。
そしてなぜ今この物語だったのか。
観終わるとともに身体中にその全てが知らされていくようで胸が詰まる。
戦禍や疫禍や災害、時代はいつも激動で、そこで生き働く人々はどうしても複雑で愛おしい。
時も場も違うけど私はマンや金五郎その仲間が好き。手を取り合って人生を労いたい。そして、女は弱さと不幸の鏡じゃない。強く、賢く(時にはずる賢く)。どの女性もタフにかっこよく描かれていて清々しかった。
舞台上を抜け席に座りそして町へ出る。癒えてない事に気づいてなかった傷をそっと塞がれた様だった。舞台と客席、劇場と町、物語と現実のあわいを龍が高くすり抜けていく。そこに一つ二つと花が咲く。私たちは何度でも旗をあげることが手を取り合うことができる。そうしてきっと不死身の如く再生できる
ここはどこかの窓のそと2
階
テルプシコール(TERPSICHORE)(東京都)
2025/02/06 (木) ~ 2025/02/08 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
図書館の裏、物語の中、電話の向こう、そして、窓のそと。
ふと、宇宙のポケットにおさまるようにどこかにひっそり、しかしたしかに在るかもしれない時間と空間を、どこかに還っていくように昇っていく煙とともに見つめた。中野テルプシコールに秋の風が吹いていた。
逆VUCAより愛をこめて
劇団スポーツ
駅前劇場(東京都)
2025/01/31 (金) ~ 2025/02/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
私が思う劇団スポーツの魅力は、どれだけバカバカしくやっても、たくさん笑いを起こしても、「死」に、それはすなわち同時に「生」について真摯にとらえることを実は一瞬たりともやめないところ、なのだと思う。
私はその切実に胸がつまる。
ということが確信となった公演でした。ふざけているようにとっても真面目で、かっこいい団体だと心から思った。
寂しさにまつわる宴会
上田久美子
蒲田温泉 2階 宴会場(東京都)
2025/01/24 (金) ~ 2025/02/03 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
寂しいからなのかな、とふと思う。私がなんでも多めにしてしまうのは、寂しいからなのかなと思う。
買わなくていい量の日用品を買う時。
作らなくていい量の料理をつくる時。
どんな文章もつい長くなってしまう時。
演劇を観るのも、映画を観るのも、本を読むのも、音楽を聴くのも、お酒を飲むのも、銭湯に行くのも、セックスをするのも、結婚や妊娠や出産ですら、そして文章を書くのだって、私が好んでやっていることは全部全部、本当は寂しいからなんじゃないかな、と思うことが結構、というか、いつもあって。だけど、その生活や仕事や芸術や性交のどれをしたって結局全く寂しくない気持ちにはならなくて。
そのとき、私にとって「寂しさ」という穴は終わりのある窪みではなく、どこか果てしない場所に繋がっている四次元ポケットみたいなもののように思うのだけれど、この演劇によって一瞬そんな宇宙のような場所で何かに繋がった気がした。
projectumï『寂しさにまつわる宴会』
私はこれをわりと覚悟して、そして必ずという強い気持ちで観にいった。
この演劇を観ている間もやっぱり私は寂しかったのだけれど、少しだけ、わずか一瞬だったけど全く寂しくない瞬間があって、そのときに、そのときにこそ私の身体は涙を流した。それは果てしのない場所から届くサインみたいだった。お人形遊びをしている子どもとお人形のように、私という人間を上から見て、操っている何かがいて、その何かと目が合ったような、あるいはその何かと決別するみたいな。たとえるならそんな感覚で。
それは、理屈じゃどうこう説明できないもので、でもたまに日常生活でもある。
その人にしか言えない言葉を伝えたり、伝えられたとき。
その人にしか見せられない姿になったり、なられたりするとき。
そして、その人としか見られない景色を二人だけで見たような気がするとき。
それは手紙のような文章を書いているときや、自らの意思で熱望したセックスをしているとき、真夜中の散歩で朝や昼とは全く違う顔をした駅や店や公園に辿り着くときとも言えるのかもしれないけれど、解像度を上げるとそうじゃなくて「触れられたところのない場所に触れ、触れられる」ということなんだとなんとなく思う。
これまで宝塚という大きな舞台を手がける中で、いわゆる「推し活」についても、もっと言うならばこの国の産業としてのスターシステム、資本主義としての芸術、そしてそこに生じる諸問題を間近で見てきた上田久美子さんがその側面(それもどちらかというとネガティブな)を描く、という点において様々な感想が寄せられていることもなんとなく知っていたし、ストーリーにおいてなされるあらゆる視点からの議論についても理解はできた。
でも、正直なところ、私にとっては、そういったストーリーやその設えよりも、この演劇のそこかしこに隙間なく配合される「寂しさ」が胸に迫った。
(続きはネタバレBOXへ)
ネタバレBOX
『寂しさにまつわる宴会』は、大衆演劇を舞台に、その俳優とその俳優の推し活をする観客の、言葉を選ばずにいうならば、売れない俳優とそのヤバいファンを巡る物語だった。
工場勤務から帰宅しては夜毎ゲームの課金によってお金と時間を溶かしていたある一人の人間が、ひょんなことから大衆演劇の劇場に辿り着き、数回目の観劇で自身の存在に気づき声をかけてくれた俳優、ほとんどセリフの持たないその俳優に熱をあげていく、という話だった。そして、その熱の出力は日に日に暴走し、周囲のファンや劇団にとっては迷惑客として出禁となり、それによって俳優もまた劇団を追われることになる、という話だった。
劇団を出禁になったファンと劇団を追放された俳優。一見決して交わらなさそうな二人の人間が、歪んだ執着と無気力によって奇妙な共存関係を築き、その行き場のなさからやはり奇妙な同居生活を始め、やがて家をも無くし、路上生活者となる。そうして、灼熱の太陽の下で互いを刺し合い、文字通り体ごとアスファルトに溶けるように一つになる、姿や形、内臓すらもどちらがどちらなのか分からなくなるように一体化していく、といったラストは圧巻だった。
何が圧巻って、やっぱり俳優が体現する、いや再現する「寂しさ」が圧巻だった。
一人で生まれて、一人で死んでいくしかない人間の孤独、その穴は結局埋めようのないものなのだという真理と、しかし一瞬でも他者と一体になれたと思うこと、それを希求してしまうことによって、やはり一瞬、その穴は果てしのない場所に繋がる。たとえ思い上がりでも、傲慢でも繋がったような気がする、してしまうという体感。それが殺人(やあるいはそのような行為)であることはもちろん倫理的に良いわけが断じてないのだけど、そういった狂気のような寂しさを抱えている人間の姿に私は恐ろしくもたしかに共感をしてしまったのだと思う。
もう少し踏み込んで言うと、それが私の場合は、(この物語における)推し活や殺人(やあるいはそのような行為)でないだけなのではないかと思った。
買わなくていい量の日用品を買う時、
作らなくていい量の料理をつくる時、
どんな文章もつい長くなってしまう時、
人と一緒に大きなお風呂に入る時、異常な頻度で芸術を見たり、お酒を飲んだり、セックスをしたり、結婚や妊娠や出産ですら、そして文章を書くのだって、私が好んでやっていることの全部と根本的には変わらないのではないかと思った。
ちなみに、この「宴会」は「余興」と定義されていて、「物語をぶっ通しで上演する」という形をとっておらず、合間に上田さんによる語りや、観客参加型のアンケートなどがとられる形式になっていた。
その中で、「会場の寂しさ指数を測定する」という試みがあった。それは、観客がどのくらい「寂しさ」を感じているのかを音で測る、というもので、寂しさを感じない、時々感じる、いつも感じる、無回答の4つから自身の自認に合うものの時にひとつ手を叩く、というものだった。
プライバシー保護の観点から観客は目を閉じてそれを行うのだけど、私の観劇した回で私が感じる限り「寂しさをいつも感じる」という項目で手を叩いた人間は一人だった。一人分の音だった。
重なる音を感知しなかったのが私の勘違いでなければ、それは私一人だった。
宴会場にパチン、と響いたその音を私は他のどれよりも大きな音に感じて、とても寂しかった。
そして、自分の中にある「寂しさ」がはじめて具現化された瞬間であるようにも感じた。
目的に沿って綺麗に整えられた劇場ではなく、生活とあまりに密接な銭湯、その宴会場という雑多な場所であるからこそその体感は余計に生々しいものに思えた。
私にはこの作品を良いとか悪いとか、よくできているとかそうじゃないとか、そういうことでは語れない。だけど、こういう言い方がふさわしいかは分からないけど、芥川賞の候補作や受賞作のような純文学を読み終えたような感触がいつまでも残った。(念のためですが、芥川賞という「権威」に準えたくてそう例えたのではなく、私は毎年その候補作を全て読むという楽しみを恒例としており、あくまで芸術における「好み」という点で私の中で同じ引き出しに入った、という意味です)
私にとって、この作品は見たことのない演劇であると同時に、文学でもあった。
演劇においては、舞台上で見たその風景を記憶をたぐり寄せ反芻することができるけれど、文学においてはそれを自分の想像で補ったり、彩っていく。そのことによって、特定の風景だけではない、いくつも風景が身体の中で発生し、熱さられ、やがて揮発し、私の身体を循環する空気になる。そういう感触があった。だから、到底忘れられるはずがないというか、取り込んでしまったという感覚が最も近かった。
そして、大きなショックとともにそのことを喜ぶ心身があった。
それはまるで、灼熱の太陽の下で、誰かと一つになれたように。
私が涙したのは、三河家諒さんが『愛燦燦』を、「人は哀しい、哀しいものですね」と歌ったとき。竹中香子さんが「怒り」に変換された底知れぬ「寂しさ」を全身にまとって、そこに立っていたとき。そして、上田久美子さんが自身の言葉と語りで「寂しさ」を開示された(ように感じた)ときだった。
そのとき少しだけ私の中を循環する計り知れない「寂しさ」が救われた気がした。
宇宙のような果てしのない場所で一瞬何かに繋がった気がした。
触れられたところのない場所に触れ、触れられた気がした。
そして、その後もやっぱり私は猛烈に寂しかった。温泉とお酒と焼きそばの、自分の好きな匂いが混ざり合う宴会場で、愛する演劇を観て、とても寂しかった。
人は哀しいもので、かよわいもので、かわいいもので、人生は不思議なもので、嬉しいもので、私はやっぱり独りなのだなと、そう思った。
今日も今日とてまた文章は長くなった。
私は今も寂しいのだと、心からそう思う。