丘田ミイ子の観てきた!クチコミ一覧

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ハローボイジャー

ハローボイジャー

アヲォート

インディペンデントシアターOji(東京都)

2025/04/16 (水) ~ 2025/04/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アヲォート『ハローボイジャー』、そしてインディペンデントシアターOji柿落としへ。
様々な葛藤を抱えながらの船出に、数々の思い出を含みながらの新たな始まりに立ち会いました。
時に静かに、時に荒々しく。海に浮かぶとたまらなく小さく心細い私たちは、海のように果てしない心を抱えて生きている。(以下ネタバレBOXに公式にお寄せした劇評を転載します)

ネタバレBOX

『小さな声の届きにくい世界で、それでも私たちは「ハロー」と叫ぶ』/丘田ミイ子

5歳くらいの頃だっただろうか。隣に住む同じ歳の幼馴染を半ば強引に誘って、2歳年下の妹の手を引いて、親に行き先を告げずに子どもだけで旅に出たことがある。旅といってもその行き先は家から徒歩10分ほどのスーパーの屋上にある小さな遊園地だ。アンパンマンカーやパトカー、『線路は続くよどこまでも』のメロディに合わせて小さな円周を2周だけ回る汽車、屋外を周遊できるパンダカーもあったけれど、その中で私がとりわけお気に入りだったのが、宇宙船の乗り物だった。おじいちゃんに連れて行ってもらえる時にだけできるそのアトラクションを楽しむ時間、私はここにいるようでここにはいない、どこか遠くへと勇ましく旅立っていくような心持ちでいた。「1回だけやで」と渡された100円玉をギュッと握りしめ、それがうっすらと手の平にくっつくほどに汗をかいた熱い手で宇宙船のハンドルを取る。その乗り物には無線機のようなものが付いていて、それを手にして「きこえますか、きこえますか」と私は叫ぶ。ややあって、少し遠くに立ったおじいちゃんが手を無線機に見立てて「きこえますよ」と笑って応答する。この瞬間がどうにもこうにも嬉しくて好きだったのだ。近所の公園で遊んでいた時、ふと天啓を受けるかのように「今すぐどうしてもあの宇宙船に乗りたい!」と思った私は、そんなこんなで隣の家のインターホンを押し、幼馴染と妹を道連れに宇宙へと駆け出した。
「ハローハロー聞こえますか。そこに誰かいますか。誰か聞こえますか」
ハロー、ハローと繰り返す度に切実さが増していく少女の声を客席で聞きながら、遠く遠くへ向かって声を絶やさぬ人の姿を見つめながら、私はぼんやりとあの瞬間を思い出していた。

演劇ユニットアヲォートの第二回公演『ハローボイジャー』(作・演出:佐藤正宗)は、港町に暮らす女子高校生4人が海に墜落した幻の宇宙探査機「ボイジャー3号」を探すべく漁船で太平洋を航海する物語だった。数々の歴史と思い出を含んだ「王子小劇場」がその名を「インディペンデントシアターOji」と改めたその柿落としに、奇しくも“船出”の物語が重なったこと。ある種の感慨深さとともに新たな始まりに立ち会う気持ちで観劇に向かった。
船内を模した舞台上に一人黙々と甲板を磨く少女の姿がある。漁師一家に生まれ育ったマミ(冨岡英香)は幼い頃から歳の離れた兄に漁船に乗せてもらっていたことから船の運転ができた。そんなマミに目をつけたのが、学校をサボり音楽ばかりを聞いているリカ(宮内萌
々花)であった。リカは波止場で偶然知り合ったアマチュア無線機に夢中のヨウコ(小野里満子)を味方につけ、「ボイジャー3号の第一発見者になって一躍有名人になろう」という計画を持ちかける。さらにその噂を聞きつけた、カメラを趣味とするチヨ(アラキミユ)がスクープ撮影目当てに参戦。最初は気乗りしなかったマミもそんな3人に押される形で渋々運転を承諾し、4人は太平洋へと乗り出していく。
舞台上で描かれるのはその出発から帰還までの約一ヶ月、つまり本作はおおよそ全編が海の上で繰り広げられる。ほとんど互いの素性を知らない4人は、物理的にも精神的にも荒波の航海をともに過ごす中で互いを知り、時にぶつかり、そして絆を深めていく。

と、こんな風にあらすじのみを書くと、物語としては他にも例がある、ありふれた“ひと夏の冒険”が想像されるかもしれない。しかし、本作で描かれていたのは「冒険」そのものではなかったように私は思う。そして、彼女たちが本当のところ探していたのは「ボイジャー3号」それそのものでもなかったようにも。
海の上ではたしかに嵐があり、エンジン故障があり、食料不足があり、そして極め付けには遭難がありと、ピンチに次ぐピンチを果敢にくぐり抜ける4人の姿があった。そうして予定よりも随分遅れ、彼女たちは無事救出されることになるのだが、こんなにも心細い状況下でありながら、彼女たちが「家に帰りたい」とはまるで思っていないように見えたのだった。本作が掬い上げていたのは、そんな心の海であり、波であったように思う。果てしない海にひとりきり、岸に向かっているのか、沖に向かっているのかわからぬ不安や焦燥を抱えた少女たちの姿がそこにはあった。
何にもやる気を見出せなくなっていたリカが本当は将来を期待されたテニスのプレイヤーで怪我をきっかけに周囲に見放され、自暴自棄になっていたこと。より大きなものを、強い景色をとカメラを構えるチヨがジャーナリストであった亡き母の幻影を追っていたこと。ゴミ箱に捨てられた型落ちの無線機を見つけた日からアマチュア無線機に異常な固執を見せるヨウコが人知れず親から暴力を受けたいたこと。そして、マミが海に出たきり行方不明となった兄を想って、来る日も来る日も使うことのない船を掃除していたこと。それぞれの胸に秘められた、それぞれ異なる孤独や喪失や葛藤が、俳優たちの繊細な表情の変化、揺らぎを映した瞳や声色によって少しずつ詳らかになっていく。そういう意味でこの海は、この船は、居場所のない彼女たちが自ら見出した、たったひとつの居場所でもあったのだろう。時にぶっきらぼうに、時にまっすぐと、ひとりぼっちの胸の内を少しずつ分け合うように大きな海の上でささやかな対話を重ねる4人の姿にそんなことを思った。
そうして、遭難する心と体を連れて、命からがら辿り着いたある島で4人はついにボイジャー3号を見つけ、この海に漂流していたいくつもの声を、そこに混線するマミの兄の「生きろ!」という声を聞く。
「どんなことがあっても声を出し続けろ!誰かに届くように!誰かが聞いてくれるまで!それはきっと、きっと聞こえる」
そんな兄の無線越しの必死の声に応答するようにマミは叫ぶ。ハロー、ハロー、ハロー、ハロー!
この兄の懸命な声は、彼女たちが背負っているいくつもの人生に、ひいては世の中で起きているいくつもの出来事に対しても置き換えられるように思う。
喪失や傷跡を抱えながら、「さみしい」、「かなしい」「こわい」、「助けて」といった声をあげられずにいた少女たちの小さく、しかし痛々しいほど切実な心の声。それを誰かに聞いてほしい、届いてほしい、そして願わくば、その声に誰かに答えてほしい、という祈りに重なる。「ボイジャー3号」は彼女たちにとってそんな祈りの集積、叫びのメタファーだったのではないだろうか。時に静かに、時に荒々しく。海に浮かぶとたまらなく小さく心細い私たちは、海よりも果てしのない心を抱えて生きている。無線から途切れ途切れに聞こえた声が、やがて少女たちのあげられなかった声になる。
「私たちはここにいます。海原にたったひとりぼっちです。この音を聞いていたら、誰か返事をして欲しいです」
海は海ではない。心の海である。心の音である。そうしてマミは一際に大きく叫ぶ。4人分めいいっぱい叫ぶ。ハロー、ハロー、ハロー、ハロー!

子どもだけで辿り着いた屋上遊園地はいつもよりもうんと遠く広く思えて、急に心細くなった。それでも私はあの宇宙船へと乗り込んだ。お金を持っていないので、当然宇宙船は動かない。無線機も動かない。「きこえますか、きこえますか」と叫んでも、答えてくれるおじいちゃんもいない。あの日のえも言われぬ不安と焦燥はもしかすると、「自分の声に応答してくれる人がいない」という漠然とした喪失や絶望からだったのではないだろうか、と今になって思う。それから随分経って、屋上遊園地は壊され、おじいちゃんも死んでしまって、他にもたくさんの喪失や絶望や、声をあげられなかった、もしくは届かなかった様々な出来事を経験しながら、私は大人になった。「さみしい」、「かなしい」、「こわい」、「助けて」…。そうした小さな声が未だ届きにくい世界を見渡すような気持ちで、私もまたあの少女たちとともに叫ぶ。空の彼方の宇宙船から海の奥底までくらい、遠い遠いその距離を睨むように見据えて、それでも諦めてたまるかと叫ぼう。ハロー、ハロー、ハロー、ハロー!
彼女たちの決死の声が、どうか本当の意味で岸にいる者へと届くように。届いて、この果てしのない航海がどうか本当の意味で終わりますように。そう願いながら、荒波を耐え忍んだ船のそばで頬を寄せ合う4人の笑顔を見つめていた。

熱風

熱風

Nana Produce

サンモールスタジオ(東京都)

2025/04/04 (金) ~ 2025/04/08 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

スキャンダラスにみえて、「夫婦」や「結婚」に躓いた身としては全く他人事でない、他者と密に生きる上での普遍的問題を貫く作品だった。”熱い風”が吹く相手が必ず恋人や夫婦とは限らない。誰に心や体を開示し秘匿するかはいつだって自分の心と体が決める。誰も誰かを所有などできない。そんな実感を握りしめ、そわそわと帰路に着く観劇体験でした。

地図にない

地図にない

玉田企画

小劇場B1(東京都)

2025/03/27 (木) ~ 2025/04/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

あまりに強すぎる布陣による、あまりにクリティカルな配置。そしてその絶妙な配役とこちらの想像を盛大にはみ出す俳優の魅力が合わさり、もはや妙な様式美すら感じる仕上がりに!(笑)。可笑しみゆえの哀切、哀切ゆえの可笑しみ...今回も類に漏れず人間のみみっちさ、コミュニティの煩わしさの解像度の高さったら!爆笑しながらちゃんとヒヤッともしました。

煙に巻かれて百舌鳥の早贄

煙に巻かれて百舌鳥の早贄

劇団肋骨蜜柑同好会

中野スタジオあくとれ(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ある土地(焼鳥屋)を巡る事件のルポルタージュ。観劇後焼鳥食べるにはあまりに恐ろしい内容なのに食べたくなる。そんな人間の業と欲を煮詰めた結果こうなりましたよ、の世界。不穏で陰鬱で口の中に血の味が広がっていく。土着的なムードを生み出す力よ...!怖いもの見たさで見て、しっかり震えられる作品でした。

ガラスの動物園

ガラスの動物園

滋企画

すみだパークシアター倉(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/31 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

美しい程に哀しい緊迫と柔和な瞬間こそ詳らかになる脆さ。まさに硝子を重ねる様に繊細でそれでいて果敢な芝居と演出。そして私は人間の影の雄弁さに息をのんだ。それはつまり沈黙の行間の饒舌さ。そこに音楽が流れるというよりゆらめいていた。それもまた硝子の影の様だった。
前作『OTHELLO』の時も思ったのだけど、何となく苦手で敬遠していた翻訳劇や取っ付きづらいと感じてる名作が滋企画の上演で克服される、ということが人によっては起こるかも。少なくとも私がそうでした(それだけに『K2』を観逃したことがやはり悔やまれるのだけれど!)

CARNAGE

CARNAGE

summer house

アトリエ第Q藝術(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

水野小論さん率いるSummerHouse『CARNAGE』。
子どもの揉め事をおさめようと集った2組の夫婦によるめくるめく口撃(&劇)。

ネタバレBOX

芸達者な4名のクロスバトル、水野さんと伊東沙保さんの他では見れぬコメディエンヌっぷりが痛快で爆笑しつつ、同じく11歳の子を持つ親としてはヒヤリも。面白かった!俳優陣の緩急がピタッとハマる清々しさ!職人技でした!
痕、婚、

痕、婚、

温泉ドラゴン

ザ・ポケット(東京都)

2025/03/20 (木) ~ 2025/03/30 (日)公演終了

実演鑑賞

「国が国にやったこと」でなく「人が人にやったこと」から目を背けない、その取り返しのつかぬ"痕"から目を逸らせない演劇だった。あの人はそんな酷い事しない。親類に程そう思うけど悲しいかなそうではなくて。「私たちはまだ野蛮人」という言葉が虐殺の続く"今"を穿つ。
山﨑薫さんの慟哭に胸が抉られるような気持ちになりました。圧巻の、何かしらの賞に値するお芝居だと強く思いました。忘れられません。

内容の深度や俳優の凄みはさることながら、温泉ドラゴンの演劇って照明がとても印象的で、人の心を縁取り、灯していると感じます。あと出はけもすごく丁寧で...。2階や台所や窓や扉。見えてないだけで"向こう側"が在ること、空間が続いていることを毎回きちんと信じさせてくれる。

※題材に深く切り込んだ、とても素晴らしい作品ですが、これを観たり、誰かにオススメするだけで満足してはならない気もするため「満足度」は差し控えます。
気持ちとしては☆5です。

牧神の星

牧神の星

劇団UZ

アトリエhaco(愛媛県)

2025/05/10 (土) ~ 2025/05/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

愛媛県松山市を拠点に活動する劇団UZ。その拠点を劇場化した「アトリエhaco」の柿落とし公演として上演されたのが、本作『牧神の星』である。

ネタバレBOX

物語の舞台は1945年、若手将校を中心とした決起部隊に占拠されたとある放送所。しかしそれは劇中劇パートであり、2025年にとある地域で劇団を運営する俳優たちがその上演の稽古に挑む様子が同時に描かれる。

「歴史」を現代の視点から、また「現代」を歴史の視点から。時代を相互に往来する眼差しを通じて、都市部ではない地域で活動をする劇団の奮闘といった当事者性のある人間ドラマを交えつつ、生々しい実感を以て戦後80年という節目を縁取った作品であった。
社会における孤独や孤立、SNSの暴走、匿名で飛び交うヘイトコメントなども盛り込みながら、自身の劇団の現在地と社会や世界への懸念や疑問を一つの物語にぶつけたメタ要素を含む社会劇。また、そうした構造からさらに飛躍し、「過去」の過ちであったはずの戦争が実は「現在」と近い「未来」に起きている、という結末には今の世の中に対する危機感をもはっきりと感じた。
声を届けるための「放送所」という場の仕組みを活用した物語の流れや人間ドラマの抑揚も効果的であり、とりわけ声をあげるための場所で、声のあげられない弱い立場の人々が心身の危機にさらされていく描写は今日性のある喫緊の問題が忍ばされていると感じた。

本作において私が最も興味を惹かれたのは、やはり「戦争」を終わったもの、過去の歴史として描いていない点である。今の社会を見渡すと、それこそ戦前のような恐れを抱くことが日常的にある。そんな中で、「戦争」を単なる過去の過ちとしてのみ描くことはもはや不足を否めない。実際に世界では今もなお戦争は続いており、終わる気配もない。そうした状況下で戦争を「かつてあったもの」ではなく、「やがて始まるもの」として描いた点は、劇団UZという団体と時代との一つの対話とも言えるのではないだろうか。そのリアリティをより際立たせるべく、自身らにとって最も身近で普遍的である稽古場での日々を伴走させた点も理解ができた。

一方で、メタ演劇パートとなる稽古場や劇団のバックヤードを描いた箇所の強度がやや弱く感じられたのも正直なところであった。都市部ではない地域で劇団を運営する上での葛藤や苦悩、社会の矛盾などに触れることはできたが、その創作活動や表現活動が「戦争」という主題とどう繋がっているのかが見えづらく、予想を越えた演劇の風景には今ひとつ及ばなかったという実感が残った。
また、劇団を描く上で、いくつかの個人の物語をトピックとして盛り込む手法自体には好感を持てたのだが、そこにあまり広がりが見られなかった点も惜しく感じられた。戦時中の劇中劇で幸子、久保田、本多、頼子、尚子を演じたのがそれぞれ現代のサチコ、クボタ、ホンダ、ヨリコ、ナオコという設えになっているのだが、劇中劇のパートのそれぞれの印象が鮮烈であるだけに、現代を生きる個人の日々やその苦悩や葛藤が尻すぼみしてしまっていたように感じた。劇団以外に何で生計を立てているかということや、劇団に対してどんな不安や不満を抱えているかなど、膨らませようのあるリードは敷かれていたので、そこが粒立つことによって、時代との対話性はさらに強度の高いものになるのではないかと感じた。メンバーが個性的であるだけに、もう少し個人の背景に切り込んだ描写(※俳優個人の事実を盛り込むという意味ではなく、あくまで登場人物の造形として)があってもよかったのかもしれない。

とはいえ、地域性の持つあらゆる特質と向き合いながら、プラットフォームとなる場づくりに真摯に取り組む劇団の在り方には感銘を受けるばかりである。アクセス面での不便さや気候の厳しさを感じる観劇ではあったが、それも込みで、文字通り「山をひらいて場所を作る」ところから始まったこの公演に立ち会えたことは、これまでにない手触りの貴重な経験だった。
絵本町のオバケ屋敷 〜愛!いつまでも残るの怪!〜

絵本町のオバケ屋敷 〜愛!いつまでも残るの怪!〜

優しい劇団

高円寺K'sスタジオ【本館】(東京都)

2025/04/19 (土) ~ 2025/04/19 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

名古屋を拠点に活動する優しい劇団による大恋愛シリーズ第8弾。本シリーズは普段は別の土地で活動する俳優が公演当日の朝に初めて顔を合わせ、稽古、そして本番と“1日の限りの演劇”を上演する試みである。今回は名古屋から5名、東京から5名、計10名のキャストが出演した。

ネタバレBOX

物語の舞台は、絵本町という町に古くからある謎のお屋敷。ある住人(土本燈子)の語りから始まる。「絵本町と呼ばれているわりにはドライでシビアなこの町」を「メルヘンがまかり通る町」にしたい。そんな思いから彼女はこの町で唯一メルヘンの匂いを感じるこの屋敷を訪ねる。そして、そこで出会った老婆(尾﨑優人)からありとあらゆる可笑しくも愛おしいオバケたちの話を聞く。
劇中には今は亡き偉大な劇作家である唐十郎や天野天街が築いた作風へのオマージュも散見され、それらがただの模倣ではなく、リスペクトを前提に練り上げられたものであることを感じることもできた。

1日で出会い、別れる俳優への手紙でもあるような台本、そして、その手紙への返事を9名の俳優が心身を以て応答するような熱く、眩しい時間だった。個性豊かなさまざまな「オバケ」が登場するが、オバケたちには当然それぞれが生きていた、それぞれの唯一無二の時間が、出会いが、思い出がある。その魂を一つ残らず抱きしめようとする物語の運びには、生まれた時から永遠の約束を持つことのできない私たちの人生や、ひとたび上演されれば終わってしまう演劇という営みへの深い眼差しが滲んでいたようにも感じた。2人1組のペアの物語をいくつか紡いでいきながら、その心情の集積がやがて全員を同じ場所へ、同じ歌へと誘われていく。その描写には人間を信じ、その生命を祝福する力があった。
別々の場所で別々の日々を生きる私たちが同じ空を見ているということ、同じ季節を生きているということ、同じ歌を歌うということ、同じ物語を読むということ。そして時に世界で起きている同じ出来事に喜んだり、悲しんだりすること。そうして、何かの拍子にあなたとわたしがどこかで出会い、やがて別れるということ。俳優も観客もそのことは同じであるということを、この演劇は力強い言葉と身体、そしてその時限りの瞬間瞬間を以て伝えてくれたように思えてならない。全体のグルーヴ感のみならず、ペアとなる俳優がそれぞれ名古屋と東京の俳優の組み合わせになっている点など、物語と演劇における構成にもその信条が隙間なく差し込まれ、1日限りでありながら、いや、1日限りであるからこそ叶えられる風景の連続がそこにはあったと思う。

そして、何より私が素晴らしいと感じたことは、この試みを通じて優しい劇団という団体が展望する新しい演劇の形、その可能性に触れられたことである。この国において演劇という表現活動を、俳優という生き方を選ぶことは決して容易なことではない。そんな中で、「演劇はいつどこで誰が始めてもいいのだ」と思える瞬間はやはりなかなかない。しかし、この作品は1日限りというパッケージによって、そんな普段は叶えられない、観られない演劇の「場」と「形」を実現していた。それは、「演劇」という営みの価値と可能性を見つめ直し、外へとひらいていくための一つのモデルの発明であると感じる。そのことはやはり希望であるのではないだろうか。普段は別々の土地で生活をしている俳優がエリアや世代を横断して集まり、1日限りの演劇を作りあげる。それは、「演劇がこうでなければならない」、「俳優はこう在らなければいけない」といった固定概念を解体し、新たな創作や場を作る挑戦そのものだと思う。地方出身の超若手劇団が、そんな前例のないことに果敢に挑み、同時に演劇の根本的な魅力を追求し、実現させていること。そのことはやはり今の演劇シーンにおいて貴重な在り方であり、ムーブメントであると思う。1日限りの演劇の終わりに客席から絶えず飛び交った大向こうを聞きながら、私はそんなことを強く感じた。
おかえりなさせませんなさい

おかえりなさせませんなさい

コトリ会議

なみきスクエア 大練習室(福岡県)

2025/03/14 (金) ~ 2025/03/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コトリ会議らしいチャーミングなパペットやその見た目に呼応したコミカルなやりとり。あるいは温かな灯りに照らされた趣深い純喫茶での日常。そうした柔らかな手触りの始まりからは全く想像もできない展開、劇世界へと誘われる、狂気と脅威の物語であり演劇であった。

ネタバレBOX

同時にそれらには「決してこの世界では起こり得ないとは思えない」といった生々しさがあり、終始胸を騒つかせ続けられる作品であった。愛らしい言葉の裏面にあるリアルでグロテスクなディストピア。ファンタジックな印象や情報を与えつつ、ファンタジーを全く描かないというその姿勢に作家の、そして劇団の覚悟を見るような思いに駆られた。タイトルにもまた同じことが言えるのではないだろうか。幼い子ども言い間違いのようなその印象は、観終わった時反転した鋭利さを以て心を襲う。「おかえりなさい」をさせません、と、「おかえりなさい」をなさい。この二つの言葉の組み合わせは、「自己を損なわず兵士になるか、自己を奪われ不死身になるか」という究極の選択を強いられた家族の帰る場所のなさと、されども帰る場所を求めるやるせなさが忍ばされているように感じる。家族というもの、家という場所がもたらす、ある種の「帰巣本能」というものについても、考えさせられる作品だった。

舞台となる近未来の日本は、もう今が何度目かの世界大戦かも定かではないくらい戦争が日常と化している。父・三好(大石丈太郎)、母・水(花屋敷鴨)、長男・椋尾(吉田凪詐)、長女・飛代(三ヶ日晩)、そして次女で末っ子の愛実(川端真奈)。5人家族の山生家が常連である純喫茶「トノモト」で家族会議を展開する。その議題は、飛代とその夫・一永遠(山本正典)が人間とツバメが合体した謎の生物「ヒューマンツバメ」になるという決断についてだった。この世界において、「ヒューマンツバメ」は徴兵を逃れる一つの手段であり、しかもほぼ不死身の身体になることを意味しているが、引き換えに記憶の7割が犠牲になる。その選択を巡って、家族がそれぞれの思いが交錯していく。そのことと同時に、子どもたち3人の間に性愛を巡る三角関係が渦巻いていることがぼんやりと知らされていく。時折カットインする、ツバメたちが口移しで餌を分け合うシーンがその手触りを生々しくさせていく。

戦争に行く立場と行かせる立場、あるいは行かせたくないとする立場。「誰の命を、あるいは記憶を犠牲にすべきか」といった命題を様々な角度から照射していく家族の会話が素晴らしいのだが、その家族を一歩外から見つめる白石(原竹志)の存在感がまた本作の大きなキーとなる。彼は、すでにヒューマンツバメになった側の元人間として、それがいかなるものかを家族たちに、そして観客に訴えていく。ある種のグルーヴから独立した非常に難しい役どころだが、時にコミカルに、しかしそのコミカルの積み重ねが至極シリアスに結びつくような白石の表現力は本作の主題の切実を物語っているようでもあった。

一方で、近親内での性愛の描写に対する消化不良感がやや否めず、生理的嫌悪というのではなく、複雑に交錯する愛情の矢印が一体何であったかを知りたいという気持ちになってしまった。要所要所に入るツバメの兄妹間の咀嚼行為にそのヒントが隠されているとは思いつつも、動物の戯れに回収されてしまうことで肩透かしをくらった感触が残った。愛情と性愛の境目というテーマ自体にはむしろ心を引かれたので、その詳細を追い、それがこの物語の根底でどう繋がっているのかを知りたいという思いに駆られたのだと思う。

しかしながら私は本作の核となっているのはやはり戦争問題。今世界で起きている様々な戦争に明確に意義を唱えた作品であると捉えた。そのことの意義はやはり大きく、それを独自の世界観の中で描き切ったことに本作の強度が示されていると感じた。近未来を舞台に描かれる、すぐそばにある戦禍。人間の身体とその生命に備わっている記憶、その「価値」が揺らぐ世界。「人間が人間でなくなっていく」その様にAIをはじめとするテクノロジーの侵食をもが浮かび上がる一面も興味深かった。
悲円 -pi-yen-

悲円 -pi-yen-

ぺぺぺの会

ギャラリー南製作所(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/31 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を下敷きに、劇作家自身の投資体験をもとに「新NISA」「投資」「FIRE」の3つのテーマによる現代性を掛け合わせた異色の社会批評劇。かねてより、歌舞伎の『毛抜』と三島由紀夫の『太陽と鉄』を掛け合わせた現代劇を上演するなど、斬新なアイデアと思考の深度によって観たことのない、そして同時に今日性を忍ばせた作品に果敢に挑む、ぺぺぺの会らしい新境地であったように感じた。

ネタバレBOX

この題材、この作品を上演するにあたって、最も効果的だったのは会場選びであるのではないかと思う。「ギャラリー南製作所」というその場所は演劇が上演されるスペースとしては決して頻度も知名度も高くない。私は過去に一度コント公演で訪れたことがあったので何とか辿り着け、そう慌てることなく席につけたが、今回の公演を機に本会場を知った観客にとっては驚きや戸惑いも大きかったのではないかと思う。しかし、そういった異質の空間をうまく活用し、視覚的な情報としてのみだけではなく、劇の内外含めて場の共振や反響を巧みに成立させていた。
中でもガレージを使用した車の入庫から始まる冒頭は抜群に鮮烈で、車で人物が登場する珍しさや新しさはさることながら、そのことによって舞台となるブドウ農家やその周辺の閉塞的なムード、車でやっとこ辿り着ける土地感のリアルが、文字通り演劇を“ドライブ”させ、物語への没入を大いに手伝っていた。入庫に始まるだけでなく、出庫に終わるラストもまた、場を乱すアウトサイダーの登場と退場という物語のうねりを示唆的に表現するに打って付けであり、起と結の運びとしてのその鮮やかさに目を奪われた。

ブドウ農家を営む田舎の一族の生活は決して華やかではない。そんな中、投資で一躍有名になったユーチューバーの義兄(亡き娘の夫)が女優の恋人を連れて訪れ、息子の良夫ちゃんは強い反発を覚える。「田舎にある実家に都会風を吹かせる親族の誰かが現れる」という設定や、そのことが生む分断や軋轢自体は物語の汎用性としては高く、そう珍しい展開ではない。しかし、本作ではその振る舞いが単なる「嫌味」ではなく、それを通じて現代における投資そのものの問題点や、「新NISA」の登場によって身近に見えている投資がその実資本主義社会の骨頂である点、そこから感じ取る労働や生活の無力さや皮肉を描いている点にオリジナリティが光っていた。「経済」の話に終始せず、そこから現代社会における孤独や不安、それと表裏一体の野心が忍ばされた社会劇だった。ダンスや劇中劇を多用し、ある種のエンタメとしてそれらを昇華しようとし、同時に消費しようともする様も批評性に富んでおり、興味深かった。

一方で、登場人物一人ひとりの人物造形や、「家族の物語」としての深掘りがやや甘く、時折置いてけぼりをくらった印象も受けた。そうしたぼんやりとした部分を『ワーニャ伯父さん』という物語やその人物相関図、あるいは他での上演の記憶から補填しようとする生理が観劇中に働いてしまったことが個人的にはもったいなく感じた。無論、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を下敷きにしていることを明言した上での上演であるため、観客のそうした作用を想定した上での構成なのかもしれない。しかし、個人のキャラクターやそれをものにしつつ独自の芝居体で表現する俳優陣の魅力が大きかったこともあり、そこから広がりが生まれなかったことで作品が小さくなってしまっている印象を受けてしまった。これはある意味では「もっと背景が知りたい」という人物への興味・関心の強さであるし、その個性や魅力を物語る感触でもあった。ぺぺぺの会的眼差しに期待を込めたい。

しかしながら特筆したいユニークさは他にもある。日経平均株価に連動するチケット価格もその一つで、「演劇」という営みが産業として捉えられづらいこの日本において、この試みは面白いだけでなく、実に批評的で、ある種のエンパワメントでもあるようにも私は感じた。劇中で俳優が株価をチェックするのも面白く、本作の主題が劇の内外を横断するその様でしか得られないリアリティがあったように思う。
なんかの味

なんかの味

ムシラセ

OFF・OFFシアター(東京都)

2025/04/02 (水) ~ 2025/04/09 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

昭和の家族風景を活写した小津安二郎の映画『秋刀魚の味』を一つのモチーフに、「父が娘に向ける普遍的な眼差し」と「多様な親子の在り方」を同時に現代から見つめた家族劇。

ネタバレBOX

『秋刀魚の味』よろしく結婚を控える娘と父のやりとりを中心に展開される、ホーム・スイート・ホーム物語。同時に、そのB面に、(結婚式の余興を利用して)「バンドやろうぜ!」に突っ走る父の無茶振りが進行している点が面白い。ある種の「あるある」や「やれやれ」といった感触を緒に、観客をグッと物語の内部に引き込む。

昭和の風情の残るバーの店内で娘の迪子(橘花梨)と父の秋平(有馬自由)が会うところから物語は始まる。挙式を控えている迪子は幸せとは程遠い面持ちをしており、その原因が何であるかが明かされぬまま、しばしの間秋平の「バンドやろうぜ!」談義が続く。父に対する諦観と達観の狭間で揺れる娘と、そのことを微塵も気にもとめず自分の希望や願望ばかりを話す父。敏感と鈍感が同じだけ混ざり合った空間を瞬時に作り出す橘と有馬の舞台での居方が素晴らしいシーンであった。冒頭から見事にすれ違う娘と父の間に現れるのは、このバーのママである薫(松永玲子)だ。明け透けな関西弁で「バンドやろうぜ!」に参戦し、急激に距離を詰めてくる薫を溌剌と表情豊かに演じる松永に客席の温度がグッと上がるのが感じ取れる。そんな自分節をひた走る薫に圧倒されつつ、戸惑う迪子。その一方で、秋平とはやけに親密な間柄に見え、迪子は二人の関係を疑い始める。さらにパンクロック風のファッションに身を包んだバイトスタッフであり、薫の娘でもある璃(中野亜美)も現れ、迪子はますます本題に入れず、苛立ちを覚える。そして、そんな4人を巡る家族の真実が後半にかけて徐々に暴かれていく。

さりげなく思えたA面とB面の接着面が、実は家族の物語のクライマックスに大きく影響を及ぼす。そうした伏線の張り巡らせ方と回収の鮮やかさには物語の展開力、演劇の構成力の本領が光っていたように思う。「少数精鋭」という言葉が相応しい、俳優4名の技量の高さもまた本作の魅力であるが、私がとりわけ心惹かれたのは、本作において1対1の人間の関係が豊かに描かれていた点にあった。中でも、最初はコミュニケーションの交点をうまく見出せなかった迪子と璃が、それぞれの生い立ちやそこで重ねてきた苦労や複雑な葛藤を分け合うように話すシーンにはグッとくるものがあった。周囲に誤解されやすい璃が実は思慮深く心根の優しい人間であることが伝わるような、中野の声色や目つきの微調整も見事であった。

この物語に登場する人物は4人ともみんな、自分の思いや感情を容易には明かさない。その「明かさなさ」に通底しているのは、自分以外の誰かを思う気持ちであり、つまるところ「明かせなさ」という手触りとして観客に届いていく。そしてそれは必然的に家族というものからの逃れられなさ、他者と生きていく上での痛み、ひいては「生きづらさ」に繋がっていく。そうした人物の複雑な心中が、比較的明るい劇風景の中に忍ばされていくことで、「ポップな曲調であればあるほどに歌詞の切なさが身に沁みる」というような情感に私は導かれたのであった。そして最後、タイトルをも総回収するかのように、舞台上にある「家族の味」が出てくる点にも抜かりがなかった。

さりげない会話の連なりに、少しずつ違和感を差し込み、真実へと導く構成は実に清々しい。
しかし同時に、やや綺麗にまとまりすぎている印象を受け取ったのも本当のところであった。家族や夫婦がそれ一つの言葉ではまとめきれないほど多様化を辿る現代において、複雑な背景を持つ家族が描かれる上ではもう一歩「ままならなさ」や「やりきれなさ」、あるいは社会への風刺や皮肉を感じたい思いもあった。「優しさ」という主成分で構成されている劇世界に日頃のくさくさした心が包まれると同時に、わずかに「リアルはそうはいかないだろう」と思ってしまう自分との遭遇があったことも記したいと思う。
零れ落ちて、朝

零れ落ちて、朝

世界劇団

三重県文化会館(三重県)

2025/04/12 (土) ~ 2025/04/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

グリム童話の『青ひげ』を下敷きに、「戦時中に医学の進歩のために行われた生体解剖」という医者の功罪に着目し、生命倫理と人間の尊厳を問う意欲作。主宰で現役医師である本坊由華子ならではの着眼点や提題が忍ばされた代表作の一つである。

ネタバレBOX

俳優の身体に多くのことが託された本作において、その強度を確かなものにするためには相当な思考と鍛錬が必要であったと想像ができる。リフレインされる台詞やシーンが回を増すごとにより鮮明な風景として立ち上がり、同じ言葉を同じ言葉に聞こえさせぬ、同じ風景を同じ風景として見せぬ俳優の表現力と演出の工夫に引き込まれた。そうしたリフレインはやがて、同じ悲劇を繰り返してしまう人間の愚かさや、今もまさに世界で続いている暴力や戦争、その功罪を握らせていく。同時に、それらメッセージを「再演」というある種のリフレイン的試みを通じて、社会や世界に広く伝えようとする姿勢にも意気込みが感じられる作品だった。

医師としての功績を確かなものにしようと、患者を「人」ではなく「材料」として扱う青山(本田椋)の横顔には人命を救う医師の矜持のかけらも残されておらず、むしろ人命を奪うことで自身の地位や名声を挙げようとする独裁者の執心が色濃く滲む。しかし、それでいて平静を保っていられない彼の振る舞いには(肯定こそできないが)ある種の人間らしさが残る。「罪の意識が皆無ではない」ということが加害の生々しさをより詳らかにしていくように感じたのだ。そうした後ろめたさや不都合な真実を無効化するかのように、青山は妻(小林冴季子)に城の床を清く白く保つようにと命じる。青山のそばに罪をけし掛ける大佐(本坊由華子)という存在がいることもまたリアルな構図であり、こうした罪に手を染めた人間が決して一人ではなかったという医学界の世相、歴史の闇を切々と物語っているようでもあった。

劇中で、俳優の身体よりもその影が舞台側面で大きく映写される演出があり、私はその瞬間に最も引き込まれた。実体の見えないもの、つまり隠された罪をいくらなかったことにしようとしても、それらには必ず影が付き纏う。光の加減によって人物そのものよりも大きなものとして現れる影は、戦争犯罪の罪深さを、ひいてはこの世界に起き、今もまさに隠されているかもしれないあらゆる加害とその大きさを象徴しているように思えてならない。それらが「演劇」でこそ表現できる光と音、そして俳優の身体を駆使した風景として浮かび上がってくる様に私は本作の強度を感じ取った。他にも舞台上に侵食していく水や、頭上から降ってくる砂といった「片付けることの困難なもの」、「痕跡を拭い去ることが容易ではないもの」が多用されていた点も興味深かった。水に濡れた体はすぐには乾かないし、砂のついた身体からその粒子を全て取り除くのは難しい。「見えにくい罪」、そして、「語られにくい罪」を詳らかにするという意味で効果的な演出が随所に忍ばされていたところにも演劇の力を感じた。

一方で、言葉なくして鮮烈な感触を伝える俳優の身体の説得力が長けていただけに、発せられる台詞が時として宙ぶらりんになる瞬間があったようにも感じられた。観客に場や時の緊迫を伝播するフィジカルの力が強まる反面、詩的なモノローグや言葉遊びなどのテキストの魅力がもう一歩届きづらい構図になっている節があった。言葉と身体のバランスが首尾良く整理されていることによって見やすくはなっているのだが、多少ぐちゃっとしていても、言葉の飛距離が想像を越える様を見たかった、という気持ちになったのである。とはいえ、真っ先に言及したように本作の最たる挑戦はおそらく身体表現によって見えないものを浮かび上がらせる点にある。そうしたフィジカルシアターに「言葉の力」を過度に求めること自体が果たして正しいかわからない。その葛藤を前置きした上で、言葉が意味するところをつい追いかけてしまったことを観客の一人の実感として記録しておきたい。
湿ったインテリア

湿ったインテリア

ウンゲツィーファ

早稲田小劇場どらま館(東京都)

2025/05/19 (月) ~ 2025/05/27 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

結婚を巡るある男女の三角関係と、育児を巡るある夫婦の日常。そして、結婚、出産、育児というテーマに終始せず、そのさらに上の世代である親と子の関係や、その生い立ちから受ける影響にも眼差しを向けた快作、いくつもの手触りの「生きづらさ」や他者と生きる「ままならなさ」が濃密に紡がれた演劇であった。


ネタバレBOX

出産を控えるひと組のカップルジュウタ(黒澤多生)とチア(豊島晴香)が不動産屋の男(藤家矢麻刀)に新居の内見を案内されるところから物語は始まる。そこから結婚・家族生活が描かれると思いきや、早々に不動産屋の男がチアの元恋人・タクであったことが明かされる。さらにはジュウタの急死を機に、タクがチアとともに暮らし、ジュウタとの間に生まれたソラの父親になることを決意し、3人の新生活の様子が描かれていく。そこに訪れるのが、両家の母親。両家と言ってもチアとタクの母ではなく、タクの母・タナコ(根本江理)とジュウタの母・カキエ(松田弘子)であるからして、その鉢合わせを巡って状況はますます混沌を極めていく。ジュウタの死を受け入れられず、その喪失によってソラの存在が拠り所となっているカキエはやがて、ソラをジュウタとしてあやすようになる。そうこうしているうちにソラの体に亡きジュウタの魂が転移し、言葉を発し始める。一方で、タナコもまた「ソラは本当はタクとの間にできた子どもなのではないか」という想像に駆られる。さらにはチアとその親との不和も詳らかになり始め、3人の男女の三角関係から、それぞれが生い立ちによって背負った傷や葛藤、それがその後の人生に与えた影響が浮かび上がってくる…。

来る日も来る日も続く夜泣きからの疲弊、「子どもを宿し、産んだ」という実感を経て親になる母と、そうではない状況で親になる父との埋まらぬ価値観…。そういった、出産や育児という出来事がもたらす精神のバグや他者との不和や軋轢が(子どもを生み、育てている当事者としては)思わず「あるある」、「わかる」と言ってしまいそうな日常の一コマとして、リアリティを以て舞台上で展開される。さりげなくも綿密に練られたその会話と演出に作家・本橋龍の確かな技量を改めて見る思いであった。中でもポータブルスピーカーを赤子に見立てる演出は、その斬新さもさることながら、「家電に泣き声が宿る」といった点でまさに「湿ったインテリア」というタイトルを具現化していた点にも感銘を覚えた。(余談だが、私自身もかつて何をしても泣き止まない赤子の泣き声に狼狽え、スピーカーのようにその音が調整できたらと思った経験があった)

しかしながら、私が本作で最も素晴らしいと感じたのは、そういった「子どもを持ち、育てることの大変さ」がこの物語と演劇の核心ではなかった点である。
複雑に絡み合う人間関係の中でありありと浮かび上がってきたのは、「人をどう育てるのか」ではなく、「人にどう育てられたか」であったように私は思う。つまり、ジュウタとチアとタクの3人の親やその子育てをもに焦点を当てることで、本作は観客、ひいては社会に対してよりひらけたテーマを問おうとしていた気がしてならない。中でも印象的だったのが、カキエの愛情を存分に受け、手づくりの洋服を着せられて育ったジュウタが「愛されること、大切にされることの怖さ」を語るシーンである。親が育児に没頭できないことの罪深さだけでなく、親が育児に過度に没頭し、その愛と期待の重さによって子をがんじがらめにしてしまう様子には、一人の親として思わず背中が冷える思いであった。ソラを自分の孫であると信じたい二人の祖母の姿には、それ以前にタクやジュウタをどう見つめてきたか、どう見つめてこなかったかという母から子への関わり方や育児の履歴が忍ばされていたように思うのだ。家族や夫婦といったコミュニティにとどまらず、登場人物一人ひとりが背負うものへも視野を広げることで、「人間がいかに複雑な生き物であるか」という想像が観客へと手渡されていくようでもあり、シーンが変わるたびに、そこに生きるあらゆる人の背景に想いを馳せるような観劇体験だった。
 wowの熱

wowの熱

南極

新宿シアタートップス(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

メンバー全員が本人役として出演、オール劇団員キャストで送るSFメタフィクション。

ネタバレBOX

一人ずつがその名を呼ばれ、客席後方より舞台へと上がっていく冒頭の“登板”から、本作の役や物語が現実に侵食していく様を描いたクライマックス、そして、劇団や演劇、俳優そのものの当事者性を問うラストに至るまで、一貫して現実と虚構の横断を生々しい“熱”を以て描き切った意欲作。それらを全員野球ならぬ全員演劇によって力強く叶えた作品であった。

一人ひとりの粒立った個性と存在感を明示するかのような連作コントを経てから『wowの熱』といった物語(すなわち本題)に突入する、という構成も会場の“熱”を高める上で効果的に機能しており、さらにはその連作コントで散りばめられたあらゆる伏線が後々本題の中で回収される、という鮮やかな連結にも作家、俳優、そして劇団そのものの表現力が光っていたように思う。
また、当日パンフレットの文字の大きさが非常に見やすく、かつひと目でキャストの名前、配役、そして顔写真によってそれらが一次情報のみで照合できるように作られている点も素晴らしい。
「スマホで調べたらわかる」と言われたらそこでおしまいだが、それが困難な観客も中にはいる。また、「素敵な俳優やスタッフに出会った時にその名前を覚えて帰りたい」という観客の気持ちやライブ性に寄り添った工夫も評価の一つに値する。

平熱が45度を越える中学生・ワオ(端栞里)を中心に繰り広げられるSF青春劇のパートでは、SF超大作を下敷きにテクノロジーの暴走を描いた『(あたらしい)ジュラシックパーク』や、恐竜の絶滅をテーマに青春の終焉と世界の終末をともに立ち上げた『バード・バーダー・バーデスト』などの過去作で確立した手法や見せ方が首尾良く活用されており、一つの作品として遜色のない独自の世界観に仕上がっていた。

しかし、私が最も心を打たれたのは、その終着点の見えかけているファンタジーにあえて切り込みを入れ、そこから先のまだ見ぬ冒険と挑戦に乗り出した点であった。
人と違う特性を持つワオやチャーミングなキャラクターたちの関わりや寄り添いを通じ、多様性や他者理解といった今日性を忍ばせながら、愛らしく切ない青春群像劇として完結させることもできたであろうところに「待った!」をかけ、文字通りその上演を舞台上で一度中止させることで本作はメタ演劇へと舵を切っていく。
そこから描かれるのは、『wowの熱』という公演がワオ役の端栞里の発熱によって中止となった後の世界線。スタッフをも舞台に上がる演出や劇団が赤字回収に悩む様子、メンバー同士のやりとりなどの“バックヤード”のリアルな側面を見せつつも、「だから劇団って大変なんです」といったある種のナルシズムな展開や結末を辿るのではなく、突然変異的に登場人物に俳優が、演劇に日常が侵食されるといったもう一つのSF展開を用意することで、物語や演劇を未知の領域へと飛躍させていた。そんないくつもの入れ子構造によって観客を鮮やかに裏切り、想像以上の世界へと誘っていた点に私は劇団の発展力を確認したのである。

そして、何よりその複雑な劇世界を劇団員フルキャストだからこそ叶えられる一体感と連携を以てして実現させていたこと。それでいて「身内ネタ」や「身内ノリ」に終始せず、そのマジカルなまでのグルーヴに観客をも取り込み、舞台と客席を越境し、相乗した熱気を生んでいたこと。それこそが本作の最たる個性と魅力であったのではないだろうか。それらは演出や演技といった劇の内側だけでなく、手づくり感の溢れる美術や小道具などの外側にも発揮され、細部に渡って抜かりがなかった。南極の持ち味である、群を抜いたデザイン力の高さを以てハード・ソフト面ともにますますの磨きをかけた力作。今後、南極という劇団がどう変化していくのか。本作に立ち会った観客がそんな待望を抱くに十分な作品であったと思う。
ハッピーケーキ・イン・ザ・スカイ

ハッピーケーキ・イン・ザ・スカイ

あまい洋々

インディペンデントシアターOji(東京都)

2025/03/13 (木) ~ 2025/03/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

高校時代に行方不明になり、その数年後に白骨死体で見つかった「ちぃちゃん」を巡って、卒業後はそれぞれの道を歩んでいる同級生や友人などが各々の立場から「ちぃちゃん」とその人生に起きた虐待の被害や凄惨な結末、そして、されども彼女が生きていた「生」とそんな彼女と過ごした「時間」を見つめる、見つめようとする群像劇。

ネタバレBOX

「見つめようとする」とわざわざ言い換えたのは、本作の伝えたいことがそこにこそ詰まっている気がしたからである。その点においてキーとなっているのは、「ちぃちゃん」と彼女を巡る事件を取り巻いているのが直接的に関わりのある知人や友人のみではない点にある。

「ちいちゃん」の事件は一部マスコミにも注目され、ライターの高務(櫻井竜)が読者の好奇心をそそるような文体で記事化しており、その取材活動をきっかけに散らばったかつての同級生が数年ぶりに繋がる、という流れがあった。さらに、時を同じくして同級生の一人で映像作家として活動する乙倉(松村ひらり)は、「ちぃちゃん」を題材に自身の監督作品を撮ろうとしており、同級生たちに聞き取りを行っていた。
この二つの出来事を巡って、“取材”に協力的である人間と反発を覚える人間に分かれ、それがそのまま「ちぃちゃん」との関係の深さを意味するところとなっている。

こうした場合、上記に挙げた2名のような人物は分かりやすく悪人のように扱われることが多いように思うが、私が本作で心を打たれたのは、その存在が複雑ながらも一つの希望や祈りとして描かれていたことである。無論、当初はその取材や映像化に異論や反発が飛び交い、「当事者でない人間が当事者の人生を消費すること」についての会話や議論が交わされていた。しかし、結果的に本作は「当事者でなくてもできること」に手先を伸ばし、やがて「当事者でないからこそできること」までを手繰り寄せようとしていたように思う。その過程の時間は、不在である/不在とならざるを得なかった「ちぃちゃん」という一人の人間を、人生を、そしてその消費を見つめようとする行為に他ならないのではないだろうか
作・演出、そして、ちぃちゃん役として出演した主宰の結城真央さんはご自身が虐待サバイバー当事者であることを開示した上で本作の創作に取り組んでいる。この事実が作品に与える、それこそある種のインパクトのようなものは大きいかもしれない。しかし本作はその経験をただ生々しく描くのではなく、もう一歩先の景色を掴もうとされていたように思う。
あらゆる作品の題材として、虐待やその被害が時に“甘いケーキ”のように“おいしく”消費されてしまうこと。その暴力性に抵抗を示すと同時に、虐待サバイバー当事者でありながら同時に表現者の一人でもある自身が今見つめるべきことに手を伸ばされているように感じた。
「当事者じゃないからわからない」と言って黙ることで傷つけずに済む人がいることも確かだろう。しかし、「当事者じゃないからわかりたい」と声を重ねることに救われる人もいるかもしれない。そういった物語や人物の眼差しに観客として気付かされることも多かった。

ちぃちゃんと同じ境遇であった仁子(チカナガチサト)の痛みが同期したかのような表情、同じくらいちぃちゃんと交流が深く、現在は児童養護施設で働く綾瀬(松﨑義邦)の戸惑いを隠せぬ振る舞い、そしてちぃちゃんが夢中になったアイドル、レモンキャンディ(前田晴香)の極めて解像度の高いアイドルパフォーマンスなど、俳優陣の表現力も高く、かつ随所に散りばめられたギャグや小ネタも観客がシリアスな題材を受け取る上で効果的に機能していた。一方で、全員が一堂に会すシーンでは観客を引き込むのにやや苦戦している印象を受け、個人としての技術が高い一方で、集合した際の場の説得力のようなものにもう一歩不足が感じられた。そのあたりに今後飛躍する可能性と期待を寄せつつ、開示と思考の痛みを伴う創作にカンパニー一丸となって乗り出されたことに、一人の観客として敬意を示したいと思った。
楽屋 ~流れ去るものはやがてなつかしき〜

楽屋 ~流れ去るものはやがてなつかしき〜

ルサンチカ

アトリエ春風舎(東京都)

2025/02/15 (土) ~ 2025/02/24 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

朝起きて、歯を磨き、まずぬるま湯を飲む。
それから少しの果物とナッツとヤクルト、レチノール入りのビタミンCとビタミンE、ビタミンB群、さらに亜鉛と大豆のサプリメントを飲む。その全てを一発で無効化してしまう喫煙の欲求と格闘し、どうにもこうにもいかない日には白旗のごとく白い煙を吐く。なかったことになったことをさらになかったことにするように換気扇が素早くそれを吸い込んでいくのを見て、少し心を落ち着かせる。
それから顔を洗ってCICAパックをして、美顔器を10分当てる。EMSの振動が奥歯に響く不快さとともに、この一通りのルーティーンを「女優か」と鼻で笑った男がいたことを思い出す。
鏡の前でため息を一つ吐く。
弱い皮膚、ちょっとしたことですぐ荒れてしまう肌を隠し、そして守るための化粧をしなくてはならないことを憂鬱に思うけれど、そうしなくてはもっと憂鬱になることが目に見えているので今日も今日とて私は化ける。アイラインを引く。リップをつける。手強い相手と会わなくてはいけない時、それらを握る手には自ずと力が入り、黒は長く、赤は濃くなる。そしてとびきりの衣装に身を包み、心の中で「ナメられてたまるか」と威嚇する。奮い立たせている。
ここまでしなければ、私は外の世界に出ていくことができない。
だったら中の世界にいたらいい、というわけにもいかない。私にも生活がある。仕事がある。
出番がある。

この小さな洗面台や雑多な台所がなんら「楽屋」と変わりがないような気がしてくるのは、昨晩、日本演劇史上最も有名な戯曲の一つである『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』を観たせいだろうか。
違う。ルサンチカ『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』を観たからだ。

それは、女優たちの物語でありながら、女優たちだけの物語ではなかった。
私はそこに私を見た。
取り残されなかった、と感じた。
『楽屋』を観てこんな気持ちになったのは初めてのことだった。

以下ネタバレBOXへ

ネタバレBOX

ルサンチカは演出家の河井朗さんが主宰し、演出する舞台芸術を制作するカンパニーである。
劇団の主宰が作・演出をともに手掛けることが多い中、「演出」に注力したアーティストによるカンパニー自体が珍しい。さらにルサンチカは「過去」の戯曲を上演する新たな形式とその広がりをテーマに据えるとともに、今、そこにいる観客、現代を生きる観客に向かって「過去の言葉を、戯曲をどう扱うか」を問うことを決してやめない。
私はかねてよりその姿勢、演劇を通じて社会や世界、そして個人の重なりであるそれらを見つめる眼差しの深さに強く感銘を受けていていたのだけれど、本作でそれはより強固なものになった。

清水邦夫による『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』。
あくまで持論だけど、私はこの戯曲を、(原作に則りあえてこの書き方をするが)、「女優」という生き様における「狂気」と「正気」が不可分に交ざり合う様を描いたものととらえていた。
そして、今回の上演はその点において新たな発見と体感に溢れたものだった。

自分が未熟だったことも多分に影響しているだろうが、今まではその「狂気」と「正気」の源流が一体どこなのかがわからず、「女優の業のようなもの」にただただ圧倒されるに終始していた。
言い換えると、「そりゃ俳優のやりがいのある作品だよなあ」いう気持ちになるにとどまってきた、とも言える。
でも、本作を観て、「狂気」と「正気」の源に初めて触れた気がした。私はそれを女優という生業の「恐ろしさ」と「恐れ」だったのではないか、と感じるに至った。その二つは似て非なるもので、観客の私が彼女たちを「恐ろしく」感じる傍らで、彼女たちもまた自身の生き様(≒死に様)にそれぞれ多寡はあれども「恐れ」を抱いているのではないか、という実感だった。
そして、そのときたちまち彼女たちは舞台と客席、楽屋とその外を飛び越え、私の前にようやく現れたような気がした。私は初めて彼女たちをとても身近に感じたのだった。
伊東沙保さん、キキ花香さん、日下七海さん、西山真来さんの4名の素晴らしい俳優がそう感じさせてくれた。

この戯曲、その上演において私にはもう一つ持論があった。
それはこの戯曲を上演する限り、4名それぞれの俳優の個性やその魅力をどこまで引き出せるか、にかかっているのではないか、ということだった。少なくとも私にとって、「俳優に魅了されること」はこの作品において何よりも重要な意味を持っていた。
そして、本作はそれをおつりが出るほどの強度で成し遂げていたように感じた。今まで観た中で最も俳優に魅了された『楽屋』だった。
4名がそれぞれの肉体を以て、不可分に混ざり合う「狂気」と「正気」を、「恐ろしさ」と「恐れ」を体現していた。
それはやはりとても恐ろしい光景だった。

「生きていくこと」と「働くこと」をかけ離すことはできず、それに苦心しているうちに、生きていくために働くはずが、働くために生きていきている状態に逆転する。そしてやがて生きていくことよりも、働き続けていくことの方を優先する体や心になっていく。
それは、「女優」に限ったことではない。
私や家族や友人、客席で隣に座る見知らぬ誰かもまたきっとそうかもしれないと思う。

いつかくるかもしれない出番を待ち望み、なくなるかもしれない出番を恐れ、短いターンで何度もそれを繰り返しながら生きていく。それは、生きていくことを熱心に進めながら、死んでいくことに着実に向かっていくことそのもののように思える。自分よりもそれから遠く見える他者、その躍動に細胞レベルで焦りを抱くとき、私は他者を「恐れ」、そして、自分のことを「恐ろしい」と思う。

「生きていかなければ」
「働かなくちゃ」
そのセリフがこんなにも実感を伴って劇場に響くのを私は初めて聞いた。
心の中で私はそこに私の声を重ねる。取り残されなかった、と感じた印に。
昨晩『楽屋』は私にとって、女優たちの物語でありながら、女優たちだけの物語ではなくなった。

今日も今日とて「女優か」と鼻で笑われた一通りのルーティーンを終え、長い黒や濃い赤、とびきりの衣装で私は武装する。生きていくために。働くために。
小さな洗面台や雑多な台所を通り越して、ドアを開ける。
私には出番がある。
そう信じたい一心で外に出る。
ユーのモ熱132

ユーのモ熱132

セビロデクンフーズ

シアター711(東京都)

2025/03/14 (金) ~ 2025/03/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

観終わった後、モヤモヤして、数日経ちモヤモヤの正体がはっきりわかった。

「映画監督のカンパニーだからきっとこんな感じかな」
それは勝手にそう思っていた自分へのモヤモヤだった。

想像の何倍もイカれた演劇だった。荒唐無稽で支離滅裂で、それは人間やその人生そのものだった。なにより演劇でしかできない無駄≒勿体なさを信じ、愛している演劇だった。それが登場人物たちの死生観につながった瞬間、あんなにも荒唐無稽で支離滅裂な物語がひとつの説得力を持たせるのだった。理屈ではない、エネルギー由来の説得力。

私が目撃したのは、地球が終わる前夜の終末論に見せかけて宇宙が生まれる前夜の出発論だったのかもしれない。
死の瀬戸際の哀しみと思いきや、生の間際の歓びだったのかもしれない。そんなことを思った。
そして、そんな生と死を飛び越えてでも、あるいは繰り返してでも果たしたい出来事はあって、それは友だちと食べきれないほどの料理を作ってみるだとか、それを「やっぱ食べきれないね」なんて言いながら沢山時間をかけて食べるとか。そういう無駄なき無駄だったりする。なんてことない営みと愛すべき勿体なさを繰り返しながら生きて死ぬし、多分死ぬまでそうやって生きている。生きていく。生きていたいなと思う。

Woodman

Woodman

Nanori

SCOOL(東京都)

2025/02/28 (金) ~ 2025/03/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

この面々でこの試み、見逃すことなどできようか(反語)。
これまでのキャリアで培われた、一人ひとりの個性や強み。そんなたしかな力を活かしつつも、力ある俳優ゆえ”脱力”もまた大いなる見どころで、他作品では見られぬ魅力を堪能しました。
短編の重なりや順番、そのグラデーションの効果、そして最終作の哀愁と余韻へ。
短編連作小説の様な読後感。コントの文学的深みを実感しました。追いたいカンパニーです!

はだかなるおとなども

はだかなるおとなども

ENBUゼミナール

小劇場B1(東京都)

2025/02/28 (金) ~ 2025/03/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

具体的じゃない人生なんて、同じ苦しみや喜び、生きづらさや生きがいなんて一つもなくて。15人が自分だけの人生と言葉それから生命を抱きしめてそこにいた。在った。
"ぼくらはみんな具体的に生きている"。本当に、本当にそうだと思った。
俳優が今自分が持っているものを全て放出して、一つ一つのシーンに立ち向かう姿が勇ましく、美しかった。
誰かの人生の一つの区切りやターニングポイントに立ち会うということは、なんと素晴らしく、そして、果てしないことなのだと痛感した。岡本昌也さんらしい鋭く、それでいて温かい眼差しに溢れた公演だった。

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