Shintaryoの観てきた!クチコミ一覧

1-12件 / 12件中
島 The Island

島 The Island

キダハシワークス

芸能花伝舎(東京都)

2015/09/06 (日) ~ 2015/09/13 (日)公演終了

満足度★★★★

力強く、素朴に。丁寧に戯曲を奏でることの面白さ
アパルトヘイト下(1973年初演)の南アフリカ。ケープタウン沖のロベン島にある政治犯刑務所には、人種隔離政策に抵抗した黒人たちも収監されている。ジョン(窪田壮史)は懲役10年、ウィンストン(野坂弘)は終身刑に服している。白人の看守たちによる非人道的な扱いに苦しみながら、数日後に控えた演芸会で『アンティゴネー』を演じ、白人支配に対する抵抗を示そうとするジョン。ウィンストンも渋々協力する。牢の中での奇妙な稽古が始まった――。

日本人が一般的に最も理解しにくい人種差別をめぐるテーマにどれだけ踏み込めるか、と身構える観客もいたはずだ。しかし、根幹にあるのは、どん底の極限状態における人間の尊厳をめぐるドラマに相違ない。

ネタバレBOX

「塀の外」、故郷の人々に電話する「ごっこ」をはじめ、牢の中で2人は幾度も「演劇」を繰り返す。人間は演じることで、困難な空間や環境を飛び越え、自らの精神の安寧を計る手立てを創出しうる。それは実に人間的な行為として演じられている。

『アンティゴネー』の構造(プロット)が頭に入らないウィンストンのために繰り返し説明するくだりは秀悦である。国家(ここでは為政者クレオン)と法、それに対峙する形での人道主義的な行動の正当性を、自由を叫んで収監されている2人が、どちらが正しいかを議論するのではなく、ひたすら「覚えられない」という芝居作りのプロセスとして滑稽に演じられることで、つまり第三者として客観視出来る立場である観客は、苦いユーモアを味わうのだ。完璧な閉塞感の中での笑いは、どことなくストッパード『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』のような不条理の演劇を想起させる。

事態が急転するのは、ジョンが減刑され、残り7年近い懲役が3ヶ月に縮まり、「自由」が現実味を帯びた時である。ここに永遠に拘束されるウィンストンとの決定的な違いが露呈する。劇的には非常に使い古された対比ではあるが、ジョンの未来を自分のことのように喜んでいたウィンストンが、自分には叶わぬ希望だと気づくまでの過程が、丁寧に、かつ実に残酷に描かれる。芝居後半の見せどころだ。

ジョンとウィンストンは「政治犯」としての理知的な面はほとんど感じられないのだが、かえって2人が社会の理不尽を訴えた普通の市民であることが浮かび上がり、やりきれない。社会と隔絶した「島」に閉じ込められ強制労働を強いられた結果、救済を待ち望む個人としての姿を垣間見ることが出来る。

翻訳を担当した黒川陽子のパンフレットでの文によると、役名と同名の2人の俳優と、劇作家アソル・フガードが共同で作り上げた「現場密着型の劇作」である。黒川はこの種の芝居は、初演俳優の手を離れ、フガードの言う作品固有の"the pure experience"(純粋なる演劇体験)に匹敵する異国の言語による再演は困難が伴なうと述べている。裸電球に照らされた真っ黒ながらんどうの空間に、2人の俳優だけが放り込まれたような演出は、俳優が文字通り裸で芝居にぶつかっていくことを自然と促した。その結果、2人が背伸びをし過ぎず、肌の感覚を大切にしながら演じているのに好感が持てる。観客は、素朴に純粋に、作り手が組み上げてきた芝居をじっくりと見つめることが出来る。

何もしない、のは照明や音響、演出にはなかなか難しいことなのだが、現代の観客の理解度を推し量るのは難しい。心理描写を追う明かりの明暗、黒人の化粧が汗で落ち、次第に俳優が「日本人」になり、最初は異国の言葉で行進していたのが最後には日本語になっていたりする。ややあざとく感じたが、これくらいはしたくなるのはご愛嬌。多少親切すぎるきらいはあったにせよ、「戯曲をきちんと奏でる」ことがこうした芝居の醍醐味をきちんと伝える唯一の手段だろう。劇作過程に倣ったような、戯曲と演出(田中圭介)と俳優たちのセッションに乾杯したい。
地獄谷温泉 無明ノ宿

地獄谷温泉 無明ノ宿

庭劇団ペニノ

森下スタジオ・Cスタジオ(お得に楽しむ会)(東京都)

2015/08/20 (木) ~ 2015/08/24 (月)公演終了

満足度★★★★★

明るい怪談 浸る舞台の 面白さ
北陸の山奥の思わせるすっかりひなびた温泉。観光客も訪れない温泉宿に、「人形芝居」を生業とする父子が訪れる。父倉田百(もも)福(ふく)は82歳、息子の一郎(辻孝彦)もそれなりの年齢のようだ。トランク一つの身軽な二人は、この宿の主人から余興の依頼を受けてやってきたのだった。しかしこの名もなき宿にははるか昔から主はおらず、村の数人が湯治宿として利用しているだけだ。タキ子という常連客らしき老婆(石川佳代)に一泊していくように勧められる二人。帰る手段がないので仕方なくその通りにする。ところがタキ子が泊まる部屋以外の部屋は病気で失明した若者、マツオ(森準人)との相部屋だった。やがてタキ子の部屋には芸姑のフミエ(久保亜津子)とイク(日高ボブ美)が三味線の練習の稽古にやってくる。唯一この宿の管理をしているものと言えば、無口の三助(飯田一朗)だけだが、誰一人として倉田父子に余興を依頼した手紙の主が思い当たらない。執拗に親子に話しかけ続けるマツオ。無言のまま客たちに奉仕する三助。離れた街へ余興に出かけていた芸子の二人が酔って帰宅すると、酔いに任せて倉田父子に「人形芝居」の実演をねだる。百福の異形と、一郎の虚無のような目に震撼していたタキ子も現れると、父子は人形芝居のさわりを演じ始める。その芝居を目の当たりにした一同は、それぞれに強い衝撃を受ける。ある者は感動し、あるものは恐怖し、ある者は欲情し、ある者は…。

ネタバレBOX

名もない宿で名もない人々が過ごしたなんでもない一晩を、静かに、しかしどことなく背筋に冷たいものを感じさせながら描いた舞台だった。人々が文字通り裸の付き合いをしながら生きている田舎の、怠惰で終末観すら漂う停滞した空気。その反面、常に首元に剃刀の刃を突き付けられているような、緊張感。それはあきらかにこの異形の父子の到来に端を発しているのだが、冒頭ではあくまでユーモラスに、むしろ観客はこの異形の父子に感情移入しながら、ぽつりぽつりと現れる、身体的というよりどこか心に欠損を抱えているように見える人々に対して警戒する。マツオは見えていた瞳が見えなくなったこと、三助は言葉を話さないことという特徴が与えられている。しかし決して盲と唖は安易な対になっているわけではない。マツオの触覚への欲求は、次第に視覚の補完を越えて、性的欲望にも似たものへと変化する。それを残酷にも煽るのが百福と一郎の親子であり、彼を凌辱することで、父子はある種の支配欲を満たす。一方三助の無言は、義務的な労働と、本人の意志による献身的な行為に忙殺された結果ととらえることが出来まいか。実際演じた飯田は「動作が多くてしゃべる暇がない」「しゃべっていないことに違和感を覚えない」と述べている(デジタルパンフレットより)。言葉を持たない彼が人一倍性欲に振り回されるのは、その動物的な性質に起因するともいえる。
それに対して女性三人は親子孫の三世代にわたって自分の子供を持たないことへの後悔や不安、コンプレックスといったものが現在過去未来の三様に描かれているように見える。細かく特徴を見れば、タキ子の芸姑の夢への挫折が物語後半の女性陣の「回復」に強く影響を及ぼすのだが、全体としてはマツオ、三助に対してはやや曖昧で画一的な印象を受ける。タニノクロウはインタビュー(デジタルパンフレット)で、「今回は女性を丁寧に描いた」と言っていたが、もう少し明確に三人の、異なる心の闇が描かれていてもよいのではないか。特に年齢的に中間にあたるフミエの個性がやや埋没している印象を受けた。
 倉田父子の存在感が絶大だ。マメ山田は実年齢のひと回り上を演じているが、その年齢はおろか性別すらも観る者の判断力を失わせる妖艶さは恐ろしい。その繊細で柔らかな動作が時にユーモラスでもあり、セクシーでもあり、またグロテスクでもある。仙人のような長髪を束ねるしぐさを、部屋で、脱衣場で、露天風呂と三か所でする度に、それぞれ別の人物が目撃して、全く異なった感情を抱く。三助は柔和な動きと髪をかき上げるその背中を見つめて勃起してしまうのだ。タニノクロウは俳優にも観客にも本当にサディスティックな演出家である。ひとつの事象を多面的にとらえること。演劇にとってそれは極めて重要なことだ。しかしそれはしばしば図式的で説明的な空間づくりに陥りやすい。この作品では、それを見事に視覚化しつつも、そのまま観客に見せることに成功している。それが今回の舞台の特徴でもある、巨大な回り舞台として作りこまれた舞台装置である。宿の玄関、居室(二階家・上がタキ子の部屋、下が倉田・マツオの部屋)、脱衣場、岩風呂の4杯飾りはやはり圧巻だ。近年これほど作りこまれた舞台美術をスタジオ公演で観ることはない。舞台美術に感動することが出来るのも演劇の魅力である。本水を使用した岩風呂の意匠には多くの観客がどよめいていた。裸の俳優たちが次々と風呂に入ってくる。舞台の上の「ウソ」に手加減が見られないからこそ、演じる価値がある(美術=稲田美智子)。
 この芝居の中心はやはり倉田一郎である。タキ子が出会った瞬間から本当に戦慄したのは小人症の父ではなく、「普通」の男であるはずの一郎の瞳の奥の闇だった。異形の父を持ち、学校にも行けずに胡弓を弾きながら厳しい父の人形芝居の伴奏を続けてきた。しかし彼の心の闇の、さらにその奥でブラックホールのように渦を巻いているものは、その人形芝居の人形に対するコンプレックスではなかったか。父の身の丈ほどもある人形は、顔と手が以上に大きい、グロテスクな赤ん坊だ。フミエはあれも百福の子供なんだと気付くと、怖くなって目を逸らし、イクは食い入るように見続け、その興奮は三助とのセックスへと彼女を駆り立てた。異形の人形を息子になぞらえて戯れる父を、胡弓を弾きながらじっと見つめてきた一郎。心の闇は異常なほど奥の深い寛容を作り出す。無関心ではないが、すべてに関して無感動に見える彼の心の深淵は常人のものではない。ほとんど心の動きを見せないが、無感情ではない人間、一郎を演じた辻は相当な苦労をしたに違いない。好演だった(あえて怪演とはいうまい)。
 常に聞こえる虫の音や沸き続ける温泉の水音など、この舞台を支える音は極めて繊細だった(音響=さとうこうじ)。ひたひたと声の湿り気を感じさせる抑えたエコーが世界観を決定づけるほど効果的だったのは語り部の老婆によるナレーションである(田村律子)。前半はメタシアターの効果を、後半には芽生えた恐怖心によって舞台から抜け出ようとする観客の意識を無理やり引き戻すような、いわば桶につけた顔を上げさせないような腕の役割を果たしている。
文明から取り残されたような過疎の村が、タニノの執筆の契機になった新幹線の開通によって、迷い込む機会すら奪われてしまった日本全国の「忘れられた場所」が描かれている。開発が押し寄せるはずだったが、結局取り壊されることもなく、そのまま存在している、という「何も起こらない」チェーホフ的な明るい残酷さが最後まで尾を引く。唯一惜しむらくは公演期間の短さ。また、夏に観たい芝居である。
砂の骨

砂の骨

TRASHMASTERS

シアタートラム(東京都)

2015/03/06 (金) ~ 2015/03/15 (日)公演終了

満足度★★★★

現代版プロレタリア演劇が成り立つ時代の怖さ
現代の非正規労働者や格差拡大を、現実の若者に寄り添いながらストイックに描く。「貧乏」が人間の尊厳を脅かしていること、それに気づかないように、あるいは気づいても牙を抜かれた状態へと飼いならされた日本人に対する創り手の強い危機感、警戒が、直球の表現へと繋がっている。

その直球が、とにかく古い。古臭い。結果的に現代版に叩き直したプロレタリア演劇のそれである。労働と貧困、格差、連帯。芸術と変革。古くは平沢計七、くだって宮本研、坂手洋二の名までもが脳裏をよぎる。

だが、そんな化石化したプロレタリアふう演劇で描くことがおそらく妥当だとしか思えない現実社会にこそ問題があるのだ。貧困や、社会不安が、今まさに符号してしまっているからである。現代社会への警鐘は、使い古された手法で若者たちの窮状と苦悩や葛藤を描くことで、歴史の記憶という大きな枠で見直した時に戦慄するほど過去に合致している。

プロレタリアふうに描くことが、歴史が繰り返し、何も解決していない、さらに過去に増して取り返しのつかない規模に膨張し、破滅へ突き進んでいる社会の状態であることを気づかせるための表現の方法であるとしたら、的確な手段かもしれない。

ネタバレBOX

震災後の日本人の価値観や、社会に対する偽善や欺瞞、政治に対する漠然とした(もはや明確になりつつあるが)不安を、具体的な例や数値を提示しているが、多少情報量が多すぎて渋滞を起こしている。さらに総じてそれぞれの挿話が分かりやすく、極めて予見しやすいため、二言三言で展開が読めてしまうのは、込み入った情報が錯綜する舞台全体を把握するには助かるが、消化不良。

結論が観客の想像に頼る話が多く、どれも結果的に予定調和な結末を期待させるため、結末が弱い。非正規雇用を守る組合の展望、震災婚した姉の離婚回避などなど。

さらにこの芝居唯一の国家への直接的攻撃である誘拐事件が曖昧な結末を迎えておきながら、敵対した上司の労働組合加入というこれまたぼんやりした挿話で象徴的に幕を閉じる。最後の5分から10分は予想の域を出ず、極めて退屈だった。そこまでエネルギーで押し切ってきただけに拍子抜けして残念。もはや2時間40分休憩なしなんだから、あと20分追加して描き切って欲しかった。3時間でも大して文句は出まい。かえって潔い。

ところで、最近気になるのでひと言。社会問題を扱っているからと言って、この芝居を「リアルだ」と評している者がいたら、もう一度演劇とは何か最初から考え直した方が良い。

演劇はこの芝居でも語っているが、「表現」である。現実にこんなにはっきりと自分の置かれた状況を「嘆く」ことの出来る若者は稀だし、「行動」や「言葉」に出来る若者もそう多くはいない。さらに「詩を詠む」と言って最終的にメガホンで絶叫する「表現」になるまで、常に朗唱している若者。骨がぶつかり、軋み、砕け落ちるような深い空虚を現すかのような空から落ちる砂。現実味のないこれらは「表現」であり、象徴だ。この芝居はことばで喋る、叫ぶ、怒ることをひとつの「表現」として用い、観客に訴えかける形式を持っている。決してドキュメンタリーやノンフィクションといったリアリズムでは生み出せない動揺を観客に抱かせることが、演劇の持つ本質である。それを「想像力」と呼ぶのだが、観客の想像力を引き出すためには、提示しすぎても、観客の想像力を過信し頼りすぎても表現とは呼べない。この芝居のように、訴えたいこと、叫びたいことが山ほどある時に、創り手は肝に命じていなければならない。
安部公房の冒険

安部公房の冒険

アロッタファジャイナ

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2014/08/23 (土) ~ 2014/08/31 (日)公演終了

満足度★★★★

演技の化学反応 見せ方の難しさ
演技に関して非常に興味深い芝居だったといえる。それは4人の俳優がまるで異なった形式の演技をしていることだ。安部公房を演じる佐野史郎の緩急自在な演技。夫人を演じる辻しのぶの熱情的で新劇的な演技。愛人で女優を演じる縄田智子のどことなくアングラの詩情を思わせる、それでいて無機質な現代っ子を感じさせる演技。さらに道化の狂言回しを演じる内田明の妙に直線的で別次元のような演技。これらがまるで方向性の違う演技の質を持っていながら一つの世界を創り上げている。必ずしも調和が取れておらず、内田の道化に関しては客席とのコンタクトを拒否したかのような「ズレ」すらある。しかしこれが互いの相互理解や決定的な亀裂、嫉妬や憎しみを表すのに、結果的に効果を発揮したともいえる。

ネタバレBOX

松枝佳紀の企画、脚本による安部公房の評伝劇とでもいおうか。昨年突如刊行された山口果林『安部公房とわたし』(講談社、2013)の影響の非常に濃い作品と言ってよい。安部公房と真知夫人、そして安部公房スタジオの中心的女優にして安部の20年間の愛人で居続けた女の3人だけに焦点を絞り、愛情と芸術のはざまで苦悩し、互いを求め合う姿を描いた。



日本の現代演劇の大きな転換点となる60年代から80年代にかけての20年間、アングラと一線を画し、世界的な視野で日本の演劇を芸術として通用させるべく奮闘する安部公房の姿と、それを支え、時には奪い合う女たち。極めて私的でともすると、暴露癖の単なる愛憎劇になりかねないが、日本の現代演劇の軌跡を多角的に検証しようという野心と使命感が作家の中に少なからず見えることによって、「見る演劇論」として成立していた。時代は異なるが、宮本研『美しきものの伝説』に通じる。芸術は恋愛や愛憎、そして政治に常に翻弄され、叩かれ、磨かれる。


演技に関して非常に興味深い芝居だったといえる。それは4人の俳優がまるで異なった形式の演技をしていることだ。安部公房を演じる佐野史郎の緩急自在な演技。夫人を演じる辻しのぶの熱情的で新劇的な演技。愛人で女優を演じる縄田智子のどことなくアングラの詩情を思わせる、それでいて無機質な現代っ子を感じさせる演技。さらに道化の狂言回しを演じる内田明の妙に直線的で別次元のような演技。これらがまるで方向性の違う演技の質を持っていながら一つの世界を創り上げている。必ずしも調和が取れておらず、内田の道化に関しては客席とのコンタクトを拒否したかのような「ズレ」すらある。しかしこれが互いの相互理解や決定的な亀裂、嫉妬や憎しみを表すのに、結果的に効果を発揮したともいえる。


疑問が多く残るのは演出である。いまや「カビ臭くなった」古いアングラの熱情のようなものを発掘して提示するなら徹底してやるべきだった。安部公房の時代の「貧乏だが熱狂があった」時代を感じるには隙が多く、単に舞台製作に金がないようにしか見えなかった。具体的には舞台の床を上下(かみしも)で色分けしたり、客席に向かって道化がセリフを投げかけたりするのに、舞台面が客席に対して高い。結果として客席との一体感を呼びかける道化の問いが、形式的なものなのか一体感を生むものなのか判別がつかず、中途半端な誘導になっている。


また愛人と妻の両方がそれぞれ左右をテリトリーに交互に舞台に現れるのだが、真ん中にいる安部公房が、それぞれに向かう際に出はけや妙な暗転がある。愛に不器用な安部公房を表出するにしても、恋人の前で下着を脱いだ女が脱いだものを拾って退場するのは興ざめだし、さすがに間延びしている。脚付である基本舞台の連結をバラしてある左右の数ブロックは、活用されるわけでもなく、美術として活かされているようにも見えなかった。無造作すぎて美術的な配置とは思えない。俳優の健闘が目立ったので、「見せ方」には少し不満が残る。


一口に現代演劇といっても、種類も、演技の形式も多様であるのは周知の事実だし、戯曲や上演空間の差や、俳優の身体能力についてはその違いや特徴が様々述べられている。


 しかし、巷で日々上演されている演劇のほとんどは、「新劇的な」演技の形式によって上演されており、言い換えれば「ふつうに演じる」ために俳優も観客もそれをスタンダードなものとして捉えているが、その「新劇的な」演技は、新劇という極めて茫漠としたイメージの集合体にすぎない。

戯曲を上演することを「演劇」として絞って考えてみてもそうなのだから、世界一初演が多い都市とも呼ばれるほど演劇の上演が氾濫している東京一つとってみても、その演技の「形式」、あるいは「演じる」ということそのものの概念は、共有されているというのはほぼ幻想にすぎないことがわかる。これを多様性と言えばそれまでなのだが、その相違点を私的な背景から検証し理解しておくことは、その化学反応を計算して作品を生み出すためにも、戯曲回帰とプロデュース公演が主流となりつつある現在の日本の演劇界において決して無益なことではないはずだ。

兄おとうと

兄おとうと

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2014/08/17 (日) ~ 2014/08/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

極めた舞台 時代の危機感鋭く
吉野作造と10歳年下の弟、吉野信次を中心に据え、その兄弟のそれぞれ妻である姉妹、先々で出会う人々を通して、明治、大正、昭和と23年に渡る激動の時代に生きたひとびとを描く。

大正デモクラシーの時代から関東大震災を経て、軍国主義の足音が聞こえてくる昭和初期を舞台にしているため、国家や法律、天皇と軍など、この芝居のもつテーマはたくさんある。議会の存在感の薄さ、憲法改憲や集団的自衛権の行使容認など、大震災を一つの契機として、「国家の暴走」を危惧させるような世の中になりつつある現在の日本。「普通の人々」が右傾化し、「常識」と言われてきたものが威勢のいいほうに流されていく社会。初演から11年、4回目の上演だが、今回ほどこの戯曲の抱える予言的な警告が、ストレートに観客の心を揺さぶる時代はないかもしれない。

ネタバレBOX

井上ひさしの戯曲は常に一種の「近代日本人論」であるともいえる。晩年は特にその色を鮮明にしていった作品が多い。2000年代以降、近代日本を扱った作品がほとんどを占め、この『兄おとうと』と遺作『組曲虐殺』が関東大震災前後、それ以外はすべて戦中戦後が舞台だ。どれも近代の「日本人」が形成されるうえで極めて重要な時期を、繰り返し扱っている。


われわれはどこからやってきて、どこに向かっているのか。それはとどのつまりわれわれは何者であるかを問うことを意味する。未来を展望するときに過去の過ちに目をつぶっていては同じ過ちを犯すに決まっている。演劇は、古よりひとびとが無意識に忘れ去ろうとしている記憶をつなぎとめる装置としての役割を果たしているのだ。
いま、単なる盲目的な護憲運動でも、日和見的な平和主義の擁護でもなく、この芝居がこうした社会装置としての演劇の役割を果たしているといえよう。それはなぜか。


そもそも「憲法」とは何か、なぜ必要なのか、「普通の人々」のしあわせとどうつながっているのか、という根本的な問いが発せられていて、それに誰にでもわかることばで明確な回答がなされているからである。「三度のごはん きちんと食べて 火の用心 元気で生きよう きっとね」という言葉にすべてが集約されている。国民主権の国家の役割は国民が「三度のごはん きちんと食べて」という最低限の人間的な生活の保障と、「火の用心」という、事件や事故によって命を奪われる危険を回避するための「法の下の秩序」を表している。この「国民の願い」を担保するものこそ「憲法」である。


重要な点は、幕切れ近い場面で、この真理に、民主主義学者の作造と、官僚主義者の信次が同時に気づくことである。同時に気づくがその解釈が正反対である。憲法は国民が国家に下した命令であるべきであると説く兄と、憲法に謳われた国民の生活を守るために、国家が法の網をめぐらせ、法律で管理するべきだと捉える弟。この決定的なズレと溝は埋まらないまま二人は最後に和解し、温泉の湯に浸かりに行くのだ。それはこの兄弟にとって最初で最後の機会だった。なんと愛しくも切ない場面であることか。


この戯曲で描かれる作造の弟信次は、実際に官僚から大臣や政府の高官を歴任した、いわば「国家」の代弁者でもある。この芝居においてはわかりやすいヒールを担っている。慈愛に満ちた兄のヒーローぶりを際立たせているのは、彼の国家の代弁者としての「正論」と、社会の「仕組み」を重視する「為政者」の論理だ。たびたび災難に見舞われるたびに頭をもたげる信次の論理「ごめんなさいで済めば警察はいらない」はまさに原理主義的な「法の下の秩序」であり、法が犯されることは近代国家の崩壊に直結する、とすぐ大騒ぎする滑稽で大げさな警戒感は、統治装置としての国家のメカニズムをよく表している。


対して終始飄々として、泰然自若の感がある作造が、憲法の原理を解く場面では、市川の青年会の前での演説練習の体をなして観客に直接講義がなされたり、終幕で直接的な軍国主義政策の危険性、議会制民主主義の危機への警鐘が叫ばれたりする場面では、リアリスティックな時空を超えた独白がなされるなど、ドラマウィズミュージックの軽快な作風の中に、伝えねばならないことは極めて鋭利な手法で際立たせている。演出と俳優の覚悟や決意が観客の胸を打つ。


ただやや気をつけねばならないことがある。それはこの芝居が、護憲運動のむなしいカタルシスのはけ口になってしまわないようにすることである。再演であるがゆえに、観客のこの芝居に対する改憲や憲法解釈変更、集団的自衛権の行使容認など、「議会の外で行われている横暴」に対する怒りや不安はいつにも増して一層強い。だから幕切れにはそれ相応の演出の変更がなされていた。過去と現代の危険な一致を、芝居のイメージとして抽出できる、演劇の力を信じる者にとっては、やや食傷気味。ただ、特に若い世代など、眼前の舞台と現実のリンクに努力のいる観客にとっては非常に有効な手段なのかもしれない。『木の上の軍隊』でのオスプレイのヘリの音に通じる、今回の時事的な用語の視覚的な登場は、作り手の危機感は理解できるが、(『木の上―は蓬莱竜太作だが)井上戯曲の普遍的な力を信じ切れていない気もして個人的には複雑だった。とはいえ、演出も音楽も、また俳優陣の演じ方も、井上ひさしの眼差しを受け継ぎながら、自分たちの受け継いだ財産をさらに磨きをかけて披露するがごとく、旅公演を重ねて完成された舞台からは、作品に新たな息吹を感じさせるような、熱気というよりも覇気のようなものすら感じた。憲法や国家を論じることは大切だ。しかし実感を伴わないような鷹揚なことばに踊らされることなく、若い世代にもっと劇場に足を運んでほしい。劇場に来て、芝居を観て、感じて、それから考えてほしい。足元のおぼつかない、非常に高齢化した平日マチネの客席に、一抹の不安を覚えたのは杞憂であってほしいのだが。

ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる

ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる

風姿花伝プロデュース

シアター風姿花伝(東京都)

2014/07/15 (火) ~ 2014/07/30 (水)公演終了

満足度★★★★

愛しながら憎む最小単位の社会、家族
シアター風姿花伝10周年記念プロデュース公演である。スウェーデンの作家・演出家ラーシュ・ノレーン(Lars Noren)作。富永由美訳。上村聡演出。

おそらく本年の優れた作品として多くの観客の脳裏に焼き付いた事だろう。
 一つの家族の、長い長い一晩の話である。幕が開いた直後から、家族の「タブー」は、元女優で躁病の気があるほどしゃべり続けるモルヒネ中毒の母グンネル(増子倭文江)と、統合失調症で精神疾患の色濃い息子トーマス(前田一世)であることは明白となる。「タブー」を抱えることで生まれる矛盾や、それに対する欺瞞に満ちた家族の安寧が、壊れかけた弟の精神の決壊を機に、それぞれの心の堰を打ち壊し飲み込んで行くさまが実に克明に描かれて行く。

 そして今は独立して暮らす長女でトーマスの姉エレン(那須佐代子)のアルコール依存症が、もはや回復の見込みがないほど重症であることが、弟の病気以上に両親の最大の懸案事項であることが次第に判明する。

 一家団欒がこれほど苦痛であることが表現された舞台も珍しいだろう。当然だが、家族全員がそれぞれに対して愛情と憎しみを同等に持ち合わせ、拮抗するが故に笑顔と優しい言葉を吐き、苦しみを堪えている。捨てきれないからこそ家族なのであり、「血のつながり」という最小単位の社会である家族という構成要素に、動物として存在する限り本能によって帰依しようとしているようにも見える。それは長女が亡くした子供、彼女を捨てた夫という物質的には消滅した家族に未だに帰属している理由とも言える。しかしそれは彼女が自身を低く評価し、同時に自身が酒に溺れた廃人であると「正当化」する道具に使っているという人間の汚さ、弱さでもある部分にこの劇はかなりの時間を費やす。故にこの舞台の頂点は、泥酔した女の叫びという直視しがたい形で迎えるのだが、その直視しがたさこそ、この劇の価値なのだ。見応えのある舞台であった。

 人物が濃密に描き出されていた。俳優陣の作品に対する深い理解と、役の人物の内面の微細な部分を的確に現出させようとする責任感にも似た力(これを世に言う演技力とするならばそう呼んでも良い)が極めて顕著な舞台であった。
 
 目を背けたくなるような家族のグロテスクな場面を一つ一つ観客の前に丁寧に置いて行くようにも見えた。その丁寧さが時に残酷なテーマでありながら、家族であるが故に怒りと憎しみと同等の愛情で結ばれていることを、ふとした瞬間にその距離感や仕草でユーモラスに表現し、救われた。罵倒し合った後に家事の細かな引き継ぎをするこの家族以外には考えられない会話のつながりが極めて巧みに展開していた。それはまるでトーマスが無心に母親の写真を年代別に床に配置して行く、その行為そのままであるかのように。

 演劇的な「リアル」に注意を払わねばならない。劇的な表現としてのリアルさは、直接現実そのものを表している訳ではない。だから「あの会話がリアルだった」と言ったところで、それは現実にそうした会話がなされるということを表してはいない。あんなふうには言わないから共感出来ない、という感想を見かけたがそもそもこうした戯曲の上演をそういう風に見るものではない。演劇のリアルは表現なのであり、その文脈や意図が的確に現出された事を表す。今回はそうした事情をきちんと理解し一つずつ丁寧に検討したと思われる。

 ところが丁寧に検討し余すところなく表現しようとした結果、リアリスティックな描写に満ちた中に、突如象徴的で「思わせぶり」な行動が挿入され、それがところどころ饒舌すぎて展開を説明的に暗示した演出が冒頭に数カ所、幕切れ見えに数カ所見られた。家族の「事実」を淡々と追うだけで相当に劇的なので、それ以上の説明は過剰である。演出家はしばしば心配性だが、劇のことばの濃さを信じ抜かないと、観客は食傷気味に陥る。大きな磨りガラスを使った挿入的な場面はその懸念があたり、戯曲以上にショッキングな事態が想起されてしまった。行き過ぎると戻ってくるのが辛い。

 決して実際に光量を落とさず極めて的を絞った形で表現した照明は、終止うす暗く密閉された家庭という空間が表現され印象的(照明=賀澤礼子)。ろうそくの明かり、というと無駄にうす暗く、視覚がひどくくたびれる舞台が多いが、長時間にも関わらず負担はない。これこそ舞台の「リアル」である。
 この劇において、実は最も難しいのは、父親(中嶋しゅう)について語る事であろう。この家族という逃げ場のない空間に居ながらにして、実は存在価値としては既に「いない」父親を常識的で、安定感のある人物として作者は描いている。彼の家族に対する欺瞞や欠点そのものを本人が認めず、精神的には既に逃亡している事自体が、彼の決定的な人生の失敗であり、トーマスが直感的に彼を憎んでいる原因なのだ。この構造は「仕事で家庭を顧みなかった父」という最も陳腐な人物描写に陥りやすいが、中嶋のどこかユーモラスで、家庭の中に安住しているように錯覚させる柔らかな質感の演技が、父カールの最後まで隠された狡猾な一面を表立たせずに表現しており圧巻である。

きさんじや

きさんじや

みなとまちMARKET

荻窪小劇場(東京都)

2013/11/27 (水) ~ 2013/12/01 (日)公演終了

満足度★★★★

芝居への愛が溢れている
芝居に対する愛の溢れかえった舞台だった。

タイトルの「きさんじや」は北斎の辞世の句「人魂で 行く気散じや 夏野原」から得ている。

が、戯作者、狂歌師の朋誠堂 喜三二などがちらとでも思い浮かんだ人は、何も知らない人より倍以上楽しめる、そんな「芝居好きによる 芝居好きのための芝居」だ。

筋は極めて明快で、若き鉄蔵(のちの北斎)が下駄商「伊勢屋」の婿主人佐七郎(のちの曲亭馬琴)のところに居候している、という設定で、鉄蔵を中心に取り巻く人々の群像劇である。それぞれの人物が重複することなく個性を発揮している俳優陣は見ごたえあり。歌舞伎の女形にある「世話女房」の型に乗っ取ってお百を演じた木下ますみが特に好演。

実在の北斎、馬琴、蔦屋重三郎と、北斎の次女お栄(のちの葛飾応為)を軸に、架空の人物を絡めながら虚実ないまぜの物語が展開する。

史料を駆使し、読み込み、ふんだんに盛り込まれたインテリジェンスを巧みに取り入れた劇作が、安定した会話劇としての構成を生み出している。観客はこの下地を理解して劇世界に入っていくわけだが、最初の段階で了解すべき事柄が予想以上に多く、物語の運びが最初の30分ほど停滞する。やや欲張りすぎた感はある。作者の予防線のような気がして、もう少しのびのびと自由に書いても、と感じてしまった。冒頭の場面の背景である、異常に多い改号の逸話と、終幕の没後の辞世の句を紹介する場面は刈り込んだ方が、中心となる物語により集中できる。

芸術家のスランプ、親子の愛情、すれ違う若者の恋・・・。そして見守る亡霊。物語の運びは「どこかで見た」ようなものが続き、真新しさはない。そう書くと批判に聞こえそうだが、観客は了解すべきことが多いので、それが安心して楽しめる要因ではある。ドラマを構成する様々な手段を次々に繰り出す手腕は優秀だ。独白は多用されず、おかれた状況と表情で心情の細やかな擦れ違いを描くのは、どことなく岸田國士を想起させる。

装置は一杯飾り。鉄蔵が居候している板の間が象徴的に造られた柱や壁で覆われており、全場面を通じて美しく機能的だ。奥行きのほとんどない劇場ではなかなか見られないしっかりした造りだ。欲を言えば劇場の狭さ小ささが残念。舞台空間全体を俯瞰してみることが困難な点だ。間近で観られるということは、舞台の細部まで劇空間を構成しているということだ。最前面の壁を表す太い欄干は裏打ちするなど現代の産物であるビスが堂々見えない工夫が欲しい。

また転換の都合もあるのだろうが、伝説的に「不潔」で有名だった奇人、北斎親子の部屋の異様がいまひとつ感じられなかったのは残念。飾りがこの親子の「奇人」ぶりと同時に「非凡さ」を表現し、俳優を援護射撃してほしい。

時代物を演じる時に問題になるのが、どこまで「時代劇」にするのか、という点である。衣裳は和装をふんだんに用いて、きちんと着こなしている。

ところが(というか当然ではあるが)頭髪に関しては男性は完全に現代のそれで、女性は後ろでまとめる、という一つのコードを形成している。北斎の剃髪というのは史実はどうであれ独自性があるのに佐七郎は、である。髷というのは省略されやすい部分ではあるが、ともすると身分や人物関係を表現するのに大切な「道具」である。江戸時代のコードにこだわった視覚効果にこだわるほど異化効果の役割を担うことになる。よく稽古されていても、歌舞伎俳優ではない出演者には仕草や身振りにも現代人の身のこなしが反映されてしまう。

装置、衣裳、江戸訛りにもこだわった秀作なので、頭髪を含め、衣裳や装置にもこの舞台空間限定のコードを取り入れるという逆転の発想で処理することも出来よう。

総じて優等生的にまとまった印象を受ける。それ故に世話物として安心して最後まで観られる良さはあるのだが、より際立った冒険と挑発、挑戦も見てみたい。

小野寺の弟・小野寺の姉

小野寺の弟・小野寺の姉

ホリプロ

天王洲 銀河劇場(東京都)

2013/07/12 (金) ~ 2013/08/11 (日)公演終了

満足度★★★★

爽やかな、軽さ
『小野寺の弟・小野寺の姉』良質で軽いコメディ。片桐はいり、向井理の姉弟に片桐仁の隣人、姉の同級生ユースケ・サンタマリアなんて非現実的な人々ながら劇中劇でまとめるオーソドックスなホームドラマ仕立が返って巧みに見える。猛暑の夏にぴったり。 

副題「お茶と映画」にちなんで、映画観てお茶飲んで帰るカルチャーに芝居を巻き込みたいように見える。巧みに仕組まれているが細部は破綻してウェルメイドほど厚みは感じない。その軽さがテレビ的消費物だが、映画、ラジオを引き合いに演劇の濃さを敬遠しているかの意図を感じた。

ラジオ、映画を絡めて舞台で描くテレビ的演劇。手作り映画やラジオへの投稿という確かな手触りを求める姿はメディアに囲まれた私たちには共感しやすい。それはあるしかけをスペクタクルとして、演劇的な切り札として使用した演出家の、演劇に対する不安にも見えたが効果はいかに。

ミュージカル『by the sea』

ミュージカル『by the sea』

公益社団法人日本劇団協議会

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2013/01/30 (水) ~ 2013/02/03 (日)公演終了

満足度★★★

音楽と時代の空気
 「文化庁委託事業 『平成24年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業』日本の演劇人を育てるプロジェクト」の劇作家部門として催された。創作ミュージカルの老舗、イッツフォーリーズと、新進の劇作家長田育恵のてがみ座のコラボレーションに文学座の俳優などが共演する、という構成。俳優の大半はイッツフォーリーズが占め、演出の坂口阿紀もこの劇団の出身者である。劇団の紹介には「日本の創作ミュージカルの第一人者、作曲家・故いずみたくが、ミュージカルを専門に上演する劇団として、1977年に創立し」たとある。

 創作ミュージカルというジャンルと普通のミュージカルの違いを明確な定義をもって理解していないが、創作という語には「オリジナルの脚本で」という意味合いが込められており、非オリジナルなものとして想定されているのはいわゆる海外からの輸入ミュージカルである。ならば堂々と日本のミュージカル、と名乗れば良いと思うが、そうはいかない理由があるのだろう。門外漢なので率直に指摘するが、今回の作品に関する限り、台本は極めて日本の現代演劇に寄っているのに音楽は極めて海外ミュージカル志向である。この感覚のズレが違和感を引きずった。

 物語は1968年と1990年、近未来の2020年を舞台に進行する。パンフレットのインタビューで長田が語っているように、「60年代の熱を発火点に、ほかの時代も俯瞰していくような仕立て」であるとするならば、68年の熱の描写が生煮えだ。その影響は全体に及ぶ。 

 思いつくだけでもこの年には、1月に国内では東大闘争、成田空港闘争、新宿駅占拠、海外ではベトナム戦争においてテト攻勢が始まったのを皮切りに、北爆停止、キング牧師暗殺、フランス五月革命、中国は文化大革命の真っ最中など時代の転換期であり、誰もが変革を夢見た時代だ。その時代の空気をミュージカルで表現し、かつ3つの時代をつなぐ鍵として重要な歌が作曲されるのだから、音楽の同時代性は極めて重要である。しかし歌の調子やリズムといったものは極めて現代的であり、違和感は否めない。1968年のヒット曲には「帰って来たヨッパライ」や「サウンド・オブ・サイレンス」などがあり、音楽を志して上京する雅臣もギター1本を心の支えとしている。長田の紡ぐセリフには、当時の繊細な若者たちの内なるエネルギーを詩的に表現しているが、こと音楽だけが全くの時代性を無視している。若者が地方の停滞感と都会の躍動感に期待と失望を感じるのは今も昔も変わらないが、当時のそれを現代的な熱で処理するのは誤りだ。演出と音楽に大いに疑問が残る。

 もう一つの違和感は実在する二つの時代と、架空の近未来の間の整合性である。架空の街相浦(あいのうら)は2020年には高潮によって被害を受け、単線ローカル線の線路が水没し新しい港湾の設計が必要となっている。2013年に生きる私たちにとって、高潮の被害は明らかに震災の津波を連想させる。ただし演出の坂口は父の実家である能登半島の内浦を連想していたと語っているし、西に沈む夕日の方角に「あしか」に見える岬がある設定だから、高潮は西から襲ってきたことになり、相浦は太平洋側とは考えにくい。だが、この時点で私を含め観客は相浦の位置を自然と東日本のどこかに想定しがちだ。しかし衝撃的な単語が飛び出す。岬の番人を自負する「サキ爺」は海の向こうの理想郷として「ニライカナイ」と言う。「ニライカナイ」とは奄美、沖縄地方で信仰されている楽土のことで、その他の地方ではこの単語を用いない。サキ爺の戯言だったとしても唐突過ぎて混乱を生じ、笑いには還元されなかった。単線の鉄道が走っている時点で沖縄地方でないことは明確であり、観客がそれぞれおぼろげながら構築していた相浦のリアリティは不信感に変わる。さらにこれは音響の問題点だが、単線ローカル鉄道は非電化区間であることがほとんどで、「電車」ではない。コンプレッサーの音や走り去る車両の音が軽快な都市部の鉄道の音であるなど、演出上の「芝居のうそ」のつき方が不器用な面が多々見受けられた。近未来という大きな「うそ」をつく以上、丁寧な裏付けが必要だ。


僕が甘やかしすぎましたもので

僕が甘やかしすぎましたもので

Moratorium Pants(モラパン)

渋谷センター街の洋服屋ARTON(東京都)

2013/01/16 (水) ~ 2013/01/31 (木)公演終了

満足度★★★★

洋服屋という場所
昨年結成の演劇プロデュースユニットで、今回は「演劇 洋服屋 ART」をキャッチコピーに、渋谷センター街の‘ARTON(アートン)’いう洋服店を舞台に公演を行っている。

「POPに飄々と世界を模索し、見つけた面白いモノをモラルに捉われずに追求。 発信していく事で、 世界と、いまと、空間と、人と人とを繋いでいく。 果ては、パンツの果てまでも(公式HPより)」。

モラトリアム(moratorium)とは、精神分析学者エリクソン(E. H. Erikson, 1902-1994)が用いた語で、人間の発達の段階で、自己同一性を確立する準備段階において、社会的責任を一時的に免除される青年期をさす。年金の支払いを免除される、といった本来は「支払い猶予期間」を示す語であった。現代人は、この猶予期間を引き伸ばし、大人になろうとしない、つまり自己同一性(アイデンティティ)を確立しようとしない「モラトリアム人間(moratorium personality)」の傾向が強い。

従って‘moratorium pants’とは「パンツへの猶予期間」ということになるが、目指すは「パンツの果てまで」という広がりのあるイメージとして用いている。これはどう解釈すべきか。どことなくモラトリアムを猶予、というよりも、そちらに寄った依存という単語と置き換えたほうがしっくりくる印象である。

「パンツに依存していたい」、という意思表示に示されるパンツとは、つまり内的な幼児性、「中二病」と言われる夢見がちな志向性を示しているのかもしれない。岡田利規のチェルフィッチュに通じる自虐性に似た名称である。チェルフィッチュ(Chelfitsch)とは、自分本位という意味の単語セルフィッシュ(selfish)が明晰に発語されずに幼児語化したという意味合いを持つ造語である。現代の日本の若者の自己規定に共通する自嘲する自己顕示欲である。

『僕があまやかしすぎましたもので』は、「モラパン」の彼ら自身が標榜する通り、ポップでカラフルであり、都会の若者が好きそうな趣味がいっぱいに詰まっている。しかし作品構成は至って正統派である。ここでいう正統派とは、物語が登場人物のことばで進行していくという台詞劇であるという点である。これが広い意味では、現在の気鋭の若者の演劇が、新劇とのモラトリアム関係であることを間接的に示している。今回の作品も、このスタイルを貫き通すというより、劇空間をさまざまな場所に移すことによって真新しさを演出しているが、観客と演者の関係性というものを演劇の本質として捉え、発信するという根幹はぶれていない。これが安定した楽しさを提供できる原動力となっているのではないか。

演者たちの身体性も極めてオーソドックスであり、台詞は安定して聞きやすい。口語的な表現は言葉の発信者としての技術を最低限持ち合わせていなければ困難である。

カフェや倉庫、美術館や路面電車に至るまで、劇場空間以外を演劇の上演場所として用いることは、古今東西で行われており、特に真新しいことではない。特に劇空間を戯曲の舞台とする場所に当て込み、現実と重複させる方法は繰り返し行われてきた。近年話題性のあるところでは、昨夏東京都美術館で上演された平田オリザ作『東京ノート』である。フェルメールの作品が展示されている美術館という設定が、現実に成立する場所として上演された。また数年前だが、演劇集団モケレンベンベ・プロジェクトという団体が、原爆投下前後の広島で路面電車に乗務した女学生を描いた『桃の実』という作品を、現存する被爆電車の車内で上演した。今回の『僕が甘やかしすぎましたもので』も、父が高校生の娘と営む洋服屋を、実際の上演の場であるARTONとして二重性を出している。

では「実物」で上演することのメリットとは何か。話題性以外の劇的な効果は何か。この公演が狙ったのはおそらく「親密性」である。観客と演者の関係性を保ちつつ、極限まで狭めることにこの空間を使うという演劇的な意味合いが成立している。

劇場と洋服屋の相違点は何だろうか。共通点は、劇場では演者と観客、洋服屋では店員と客という異なる性質を持つ人間が存在することで、片方は空間の所有者で、もう片方が訪問者である関係性だ。語弊を恐れずに言えば、どちらも人が集う場所である。

異なる点は、劇場では訪問者である観客が、空間の所有者である演者の変身を観察する立場であるのに対し、洋服屋は訪問者である客のほうが自らの変身を欲してやってくる。劇場の観客が積極的でないというわけでは決してないが、本質的に受容者であるという受け身の立場は否めない。それに対し洋服屋を訪れるという行動は、本質的に自己の変容を求めるものである。つまり洋服屋を訪れるという能動的な行動が象徴されている。劇中に犬を連れてやってくる男性客は非常にポジティブであり、店を去って別居する母にもはっきりとした拒絶の意思がある。これは先に述べた観客と演者の関係性に還元した際にも言えることで、この芝居が、単なる傍観者ではなく、観客の積極性を期待していることは間違いない。こうした空間づくりに一貫した思考があることが観客と一体となった芝居作りに相乗効果を生んでいるのだ。

空間と演劇の二重性に関して述べてきたが、テクストにも意図的な二重性を読み解くことが出来る。飼い犬アイコと一家の母、男性客の飼い犬と、母が不倫している相手の恋人の女性をそれぞれが二役演じる。時間の流れは主に2つあり、現在の洋服屋での犬同士のやりとり、過去の人間の女同士のやりとりが交錯しながら進展する。犬の関係性が人間同士の関係性にリンクし、次第にひとつに重なっていく手法は巧妙(作:おおがきなこ)だが、まとめようとする過程で予見される終盤がやや食傷気味。とはいえ、あくまで「モラトリアム」という名称に込めた、依存した存在としての人間に対する温かいまなざしでまとめ上げた橋本の演出意図は明確に伝わってくる。テーマ主義に陥る危険性はあるが、無節操に奇抜な企画が乱立する中で、ポップな色彩にまぶした、テーマの堅実さが光る団体が一つくらいあってもいい。ここまでばらしては営業妨害かもしれないが。

エッグ

エッグ

NODA・MAP

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2012/09/05 (水) ~ 2012/10/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

原動力は自分に対する怒りと不安
混沌とした状況全てに斬り込む破壊力。世の中に氾濫することばが軽いのは、自分や世界を、掘り返し、回り込み、裏返して多面的多角的に見ることを恐れているからだ。今回それを凝視し続ける強さを後押ししているのは、野田秀樹の、自分を含めた私たち自身に籠められた怒りなのではないか。

この芝居には進行する時間と同様に、遡る時間、退行する時間が押し寄せる。その潮位を操作している物こそ、ことばだ。舞台の虚構性など存在しない。ことばが舞台に存在する限り、そこには質量を持ったことばが生み出した現実だけがある。野田芝居の疾走感は舞台上の事実を生み出す装置だ。

舞台の現実に巻き込まれる瞬間、観客はそれを嘘だとは捉えていない。寺山修司が『エッグ』を書き遺したのも現実。なぜなら寺山が『エッグ』を書かなかったのも、野田に愛人がいないのも現実と受け止めるのは、舞台上で野田が発したことばによるではないか。そこにどんな差があるというのか?

円の『ウエアハウス』に通づる橋爪功の鬼が棲む芝居が今回もシビれる。

ねぼすけさん

ねぼすけさん

バジリコFバジオ

サンモールスタジオ(東京都)

2012/09/27 (木) ~ 2012/10/02 (火)公演終了

満足度★★

狂おしいほど静けさが欲しい
漫然とした日常への違和感に叫びたくなる、その原因を社会生活の外部に設定したのは良かったかどうなのか。ただそれが真骨頂なのだろうから如何ともしがたいが、いずれにしてもその一番大事な点にイベントが多すぎて、味気ない日常に飽和状態になる心理が見えにくいのは残念。

自分の生活が見えないものによって制御されているという感覚を、現実の我々が共感するためには、異物は「静かに消される恐怖」が欲しい。プチ・グロの効果は強すぎて返って後半の芝居を見る観客に警戒感を持たせる。戯曲の入れ子構造はやや乱暴な印象。その無骨さが魅力かもしれないが。

俳優陣の味付けの濃い掛け合いは小気味良いが、セリフが身の丈に合っておらず浮いている箇所も。その点長男役の三枝貴志がラフでいながら跳躍力のある伸びやかな芝居で牽引している。家族団欒の時代として昭和30年代を選んだとすると言葉や衣裳にもう少し現実味が欲しい。

必然性という言葉はあまり好まないが、戯曲としての中身を盛り立てるタイトルにももう少しひねりが欲しい。とまれヴァーチャルとリアル、仮想と現実という我々が直面している問題にもう少し肉薄する視点が欲しい。つまりメメオの身体的二重性を感傷的に描くのでは何も解決しない。

肉体と精神の話になると途端に抽象的で感傷的になったのが残念。肉体的な欲求を精神世界で、つまり仮想現実で満たそうとする現代の人間のイタイところを突きかけたところでお定まりのカタルシスとなってしまった。その自慰行為の醜さを描いてこそのグロテスクだ思うが行き過ぎか。

このページのQRコードです。

拡大