満足度★★★★★
原動力は自分に対する怒りと不安
混沌とした状況全てに斬り込む破壊力。世の中に氾濫することばが軽いのは、自分や世界を、掘り返し、回り込み、裏返して多面的多角的に見ることを恐れているからだ。今回それを凝視し続ける強さを後押ししているのは、野田秀樹の、自分を含めた私たち自身に籠められた怒りなのではないか。
この芝居には進行する時間と同様に、遡る時間、退行する時間が押し寄せる。その潮位を操作している物こそ、ことばだ。舞台の虚構性など存在しない。ことばが舞台に存在する限り、そこには質量を持ったことばが生み出した現実だけがある。野田芝居の疾走感は舞台上の事実を生み出す装置だ。
舞台の現実に巻き込まれる瞬間、観客はそれを嘘だとは捉えていない。寺山修司が『エッグ』を書き遺したのも現実。なぜなら寺山が『エッグ』を書かなかったのも、野田に愛人がいないのも現実と受け止めるのは、舞台上で野田が発したことばによるではないか。そこにどんな差があるというのか?
円の『ウエアハウス』に通づる橋爪功の鬼が棲む芝居が今回もシビれる。