島 The Island 公演情報 キダハシワークス「島 The Island」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    力強く、素朴に。丁寧に戯曲を奏でることの面白さ
    アパルトヘイト下(1973年初演)の南アフリカ。ケープタウン沖のロベン島にある政治犯刑務所には、人種隔離政策に抵抗した黒人たちも収監されている。ジョン(窪田壮史)は懲役10年、ウィンストン(野坂弘)は終身刑に服している。白人の看守たちによる非人道的な扱いに苦しみながら、数日後に控えた演芸会で『アンティゴネー』を演じ、白人支配に対する抵抗を示そうとするジョン。ウィンストンも渋々協力する。牢の中での奇妙な稽古が始まった――。

    日本人が一般的に最も理解しにくい人種差別をめぐるテーマにどれだけ踏み込めるか、と身構える観客もいたはずだ。しかし、根幹にあるのは、どん底の極限状態における人間の尊厳をめぐるドラマに相違ない。

    ネタバレBOX

    「塀の外」、故郷の人々に電話する「ごっこ」をはじめ、牢の中で2人は幾度も「演劇」を繰り返す。人間は演じることで、困難な空間や環境を飛び越え、自らの精神の安寧を計る手立てを創出しうる。それは実に人間的な行為として演じられている。

    『アンティゴネー』の構造(プロット)が頭に入らないウィンストンのために繰り返し説明するくだりは秀悦である。国家(ここでは為政者クレオン)と法、それに対峙する形での人道主義的な行動の正当性を、自由を叫んで収監されている2人が、どちらが正しいかを議論するのではなく、ひたすら「覚えられない」という芝居作りのプロセスとして滑稽に演じられることで、つまり第三者として客観視出来る立場である観客は、苦いユーモアを味わうのだ。完璧な閉塞感の中での笑いは、どことなくストッパード『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』のような不条理の演劇を想起させる。

    事態が急転するのは、ジョンが減刑され、残り7年近い懲役が3ヶ月に縮まり、「自由」が現実味を帯びた時である。ここに永遠に拘束されるウィンストンとの決定的な違いが露呈する。劇的には非常に使い古された対比ではあるが、ジョンの未来を自分のことのように喜んでいたウィンストンが、自分には叶わぬ希望だと気づくまでの過程が、丁寧に、かつ実に残酷に描かれる。芝居後半の見せどころだ。

    ジョンとウィンストンは「政治犯」としての理知的な面はほとんど感じられないのだが、かえって2人が社会の理不尽を訴えた普通の市民であることが浮かび上がり、やりきれない。社会と隔絶した「島」に閉じ込められ強制労働を強いられた結果、救済を待ち望む個人としての姿を垣間見ることが出来る。

    翻訳を担当した黒川陽子のパンフレットでの文によると、役名と同名の2人の俳優と、劇作家アソル・フガードが共同で作り上げた「現場密着型の劇作」である。黒川はこの種の芝居は、初演俳優の手を離れ、フガードの言う作品固有の"the pure experience"(純粋なる演劇体験)に匹敵する異国の言語による再演は困難が伴なうと述べている。裸電球に照らされた真っ黒ながらんどうの空間に、2人の俳優だけが放り込まれたような演出は、俳優が文字通り裸で芝居にぶつかっていくことを自然と促した。その結果、2人が背伸びをし過ぎず、肌の感覚を大切にしながら演じているのに好感が持てる。観客は、素朴に純粋に、作り手が組み上げてきた芝居をじっくりと見つめることが出来る。

    何もしない、のは照明や音響、演出にはなかなか難しいことなのだが、現代の観客の理解度を推し量るのは難しい。心理描写を追う明かりの明暗、黒人の化粧が汗で落ち、次第に俳優が「日本人」になり、最初は異国の言葉で行進していたのが最後には日本語になっていたりする。ややあざとく感じたが、これくらいはしたくなるのはご愛嬌。多少親切すぎるきらいはあったにせよ、「戯曲をきちんと奏でる」ことがこうした芝居の醍醐味をきちんと伝える唯一の手段だろう。劇作過程に倣ったような、戯曲と演出(田中圭介)と俳優たちのセッションに乾杯したい。

    0

    2015/09/14 11:45

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大