ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる 公演情報 風姿花伝プロデュース「ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    愛しながら憎む最小単位の社会、家族
    シアター風姿花伝10周年記念プロデュース公演である。スウェーデンの作家・演出家ラーシュ・ノレーン(Lars Noren)作。富永由美訳。上村聡演出。

    おそらく本年の優れた作品として多くの観客の脳裏に焼き付いた事だろう。
     一つの家族の、長い長い一晩の話である。幕が開いた直後から、家族の「タブー」は、元女優で躁病の気があるほどしゃべり続けるモルヒネ中毒の母グンネル(増子倭文江)と、統合失調症で精神疾患の色濃い息子トーマス(前田一世)であることは明白となる。「タブー」を抱えることで生まれる矛盾や、それに対する欺瞞に満ちた家族の安寧が、壊れかけた弟の精神の決壊を機に、それぞれの心の堰を打ち壊し飲み込んで行くさまが実に克明に描かれて行く。

     そして今は独立して暮らす長女でトーマスの姉エレン(那須佐代子)のアルコール依存症が、もはや回復の見込みがないほど重症であることが、弟の病気以上に両親の最大の懸案事項であることが次第に判明する。

     一家団欒がこれほど苦痛であることが表現された舞台も珍しいだろう。当然だが、家族全員がそれぞれに対して愛情と憎しみを同等に持ち合わせ、拮抗するが故に笑顔と優しい言葉を吐き、苦しみを堪えている。捨てきれないからこそ家族なのであり、「血のつながり」という最小単位の社会である家族という構成要素に、動物として存在する限り本能によって帰依しようとしているようにも見える。それは長女が亡くした子供、彼女を捨てた夫という物質的には消滅した家族に未だに帰属している理由とも言える。しかしそれは彼女が自身を低く評価し、同時に自身が酒に溺れた廃人であると「正当化」する道具に使っているという人間の汚さ、弱さでもある部分にこの劇はかなりの時間を費やす。故にこの舞台の頂点は、泥酔した女の叫びという直視しがたい形で迎えるのだが、その直視しがたさこそ、この劇の価値なのだ。見応えのある舞台であった。

     人物が濃密に描き出されていた。俳優陣の作品に対する深い理解と、役の人物の内面の微細な部分を的確に現出させようとする責任感にも似た力(これを世に言う演技力とするならばそう呼んでも良い)が極めて顕著な舞台であった。
     
     目を背けたくなるような家族のグロテスクな場面を一つ一つ観客の前に丁寧に置いて行くようにも見えた。その丁寧さが時に残酷なテーマでありながら、家族であるが故に怒りと憎しみと同等の愛情で結ばれていることを、ふとした瞬間にその距離感や仕草でユーモラスに表現し、救われた。罵倒し合った後に家事の細かな引き継ぎをするこの家族以外には考えられない会話のつながりが極めて巧みに展開していた。それはまるでトーマスが無心に母親の写真を年代別に床に配置して行く、その行為そのままであるかのように。

     演劇的な「リアル」に注意を払わねばならない。劇的な表現としてのリアルさは、直接現実そのものを表している訳ではない。だから「あの会話がリアルだった」と言ったところで、それは現実にそうした会話がなされるということを表してはいない。あんなふうには言わないから共感出来ない、という感想を見かけたがそもそもこうした戯曲の上演をそういう風に見るものではない。演劇のリアルは表現なのであり、その文脈や意図が的確に現出された事を表す。今回はそうした事情をきちんと理解し一つずつ丁寧に検討したと思われる。

     ところが丁寧に検討し余すところなく表現しようとした結果、リアリスティックな描写に満ちた中に、突如象徴的で「思わせぶり」な行動が挿入され、それがところどころ饒舌すぎて展開を説明的に暗示した演出が冒頭に数カ所、幕切れ見えに数カ所見られた。家族の「事実」を淡々と追うだけで相当に劇的なので、それ以上の説明は過剰である。演出家はしばしば心配性だが、劇のことばの濃さを信じ抜かないと、観客は食傷気味に陥る。大きな磨りガラスを使った挿入的な場面はその懸念があたり、戯曲以上にショッキングな事態が想起されてしまった。行き過ぎると戻ってくるのが辛い。

     決して実際に光量を落とさず極めて的を絞った形で表現した照明は、終止うす暗く密閉された家庭という空間が表現され印象的(照明=賀澤礼子)。ろうそくの明かり、というと無駄にうす暗く、視覚がひどくくたびれる舞台が多いが、長時間にも関わらず負担はない。これこそ舞台の「リアル」である。
     この劇において、実は最も難しいのは、父親(中嶋しゅう)について語る事であろう。この家族という逃げ場のない空間に居ながらにして、実は存在価値としては既に「いない」父親を常識的で、安定感のある人物として作者は描いている。彼の家族に対する欺瞞や欠点そのものを本人が認めず、精神的には既に逃亡している事自体が、彼の決定的な人生の失敗であり、トーマスが直感的に彼を憎んでいる原因なのだ。この構造は「仕事で家庭を顧みなかった父」という最も陳腐な人物描写に陥りやすいが、中嶋のどこかユーモラスで、家庭の中に安住しているように錯覚させる柔らかな質感の演技が、父カールの最後まで隠された狡猾な一面を表立たせずに表現しており圧巻である。

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    2014/08/07 13:01

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