ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる 公演情報 ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.6
1-11件 / 11件中
  • 満足度★★★★

    ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる
    満ちてた。
    アヴィニョンから帰還後の初観劇がこの作品で良かった。

    ネタバレBOX

    最後に彼女は死んだのかどうか。観客によって見え方は異なるようです。
  • 満足度★★★★

    愛しながら憎む最小単位の社会、家族
    シアター風姿花伝10周年記念プロデュース公演である。スウェーデンの作家・演出家ラーシュ・ノレーン(Lars Noren)作。富永由美訳。上村聡演出。

    おそらく本年の優れた作品として多くの観客の脳裏に焼き付いた事だろう。
     一つの家族の、長い長い一晩の話である。幕が開いた直後から、家族の「タブー」は、元女優で躁病の気があるほどしゃべり続けるモルヒネ中毒の母グンネル(増子倭文江)と、統合失調症で精神疾患の色濃い息子トーマス(前田一世)であることは明白となる。「タブー」を抱えることで生まれる矛盾や、それに対する欺瞞に満ちた家族の安寧が、壊れかけた弟の精神の決壊を機に、それぞれの心の堰を打ち壊し飲み込んで行くさまが実に克明に描かれて行く。

     そして今は独立して暮らす長女でトーマスの姉エレン(那須佐代子)のアルコール依存症が、もはや回復の見込みがないほど重症であることが、弟の病気以上に両親の最大の懸案事項であることが次第に判明する。

     一家団欒がこれほど苦痛であることが表現された舞台も珍しいだろう。当然だが、家族全員がそれぞれに対して愛情と憎しみを同等に持ち合わせ、拮抗するが故に笑顔と優しい言葉を吐き、苦しみを堪えている。捨てきれないからこそ家族なのであり、「血のつながり」という最小単位の社会である家族という構成要素に、動物として存在する限り本能によって帰依しようとしているようにも見える。それは長女が亡くした子供、彼女を捨てた夫という物質的には消滅した家族に未だに帰属している理由とも言える。しかしそれは彼女が自身を低く評価し、同時に自身が酒に溺れた廃人であると「正当化」する道具に使っているという人間の汚さ、弱さでもある部分にこの劇はかなりの時間を費やす。故にこの舞台の頂点は、泥酔した女の叫びという直視しがたい形で迎えるのだが、その直視しがたさこそ、この劇の価値なのだ。見応えのある舞台であった。

     人物が濃密に描き出されていた。俳優陣の作品に対する深い理解と、役の人物の内面の微細な部分を的確に現出させようとする責任感にも似た力(これを世に言う演技力とするならばそう呼んでも良い)が極めて顕著な舞台であった。
     
     目を背けたくなるような家族のグロテスクな場面を一つ一つ観客の前に丁寧に置いて行くようにも見えた。その丁寧さが時に残酷なテーマでありながら、家族であるが故に怒りと憎しみと同等の愛情で結ばれていることを、ふとした瞬間にその距離感や仕草でユーモラスに表現し、救われた。罵倒し合った後に家事の細かな引き継ぎをするこの家族以外には考えられない会話のつながりが極めて巧みに展開していた。それはまるでトーマスが無心に母親の写真を年代別に床に配置して行く、その行為そのままであるかのように。

     演劇的な「リアル」に注意を払わねばならない。劇的な表現としてのリアルさは、直接現実そのものを表している訳ではない。だから「あの会話がリアルだった」と言ったところで、それは現実にそうした会話がなされるということを表してはいない。あんなふうには言わないから共感出来ない、という感想を見かけたがそもそもこうした戯曲の上演をそういう風に見るものではない。演劇のリアルは表現なのであり、その文脈や意図が的確に現出された事を表す。今回はそうした事情をきちんと理解し一つずつ丁寧に検討したと思われる。

     ところが丁寧に検討し余すところなく表現しようとした結果、リアリスティックな描写に満ちた中に、突如象徴的で「思わせぶり」な行動が挿入され、それがところどころ饒舌すぎて展開を説明的に暗示した演出が冒頭に数カ所、幕切れ見えに数カ所見られた。家族の「事実」を淡々と追うだけで相当に劇的なので、それ以上の説明は過剰である。演出家はしばしば心配性だが、劇のことばの濃さを信じ抜かないと、観客は食傷気味に陥る。大きな磨りガラスを使った挿入的な場面はその懸念があたり、戯曲以上にショッキングな事態が想起されてしまった。行き過ぎると戻ってくるのが辛い。

     決して実際に光量を落とさず極めて的を絞った形で表現した照明は、終止うす暗く密閉された家庭という空間が表現され印象的(照明=賀澤礼子)。ろうそくの明かり、というと無駄にうす暗く、視覚がひどくくたびれる舞台が多いが、長時間にも関わらず負担はない。これこそ舞台の「リアル」である。
     この劇において、実は最も難しいのは、父親(中嶋しゅう)について語る事であろう。この家族という逃げ場のない空間に居ながらにして、実は存在価値としては既に「いない」父親を常識的で、安定感のある人物として作者は描いている。彼の家族に対する欺瞞や欠点そのものを本人が認めず、精神的には既に逃亡している事自体が、彼の決定的な人生の失敗であり、トーマスが直感的に彼を憎んでいる原因なのだ。この構造は「仕事で家庭を顧みなかった父」という最も陳腐な人物描写に陥りやすいが、中嶋のどこかユーモラスで、家庭の中に安住しているように錯覚させる柔らかな質感の演技が、父カールの最後まで隠された狡猾な一面を表立たせずに表現しており圧巻である。

  • 満足度★★★★★

    素晴らしき会話劇
    肌がひりつくような密度の高い会話劇でした。
    派手さはないけど終始目が離せず、息苦しいくらいなのに、まだ終わって欲しくないと思って観劇していました。
    昨年の空想組曲さん通いですっかり来慣れたシアター風姿花伝。
    このくらいレベルの高い芝居が何本も見れるなら今の倍以上歩かされてもきっと観に来ます。

  • 満足度★★★★

    大人の演劇
    崩壊する家族の1日の様子を描いたストレートプレイで、物語としては楽しくないものの、小細工を排した濃密な演技のやりとりが圧巻で楽しめました。

    会社経営者の父、元女優の母、アルコール依存症の姉、心を病んでいる弟の4人が一緒に観劇して帰って来た所から始まり、前半はほとんど会話になっていない会話が続き、後半は酒に酔って行く姉の独白で途中から父との対話が中心となり、朝になって姉以外は別荘に出掛け、残った姉はある決断をする物語でした。
    所々で同時多発的に会話や独白が行われるシーンがあり、バラバラな家族を印象付けていました。不思議なタイトルは弟の台詞として現れるのですが、話しの流れに沿わずに唐突に出て来てデノテーションとしては意味をなさないながらも、その意味の無さがお互いの思いがすれ違う家族を象徴するコノテーションとして強烈な印象がありました。

    4人の演技が素晴らしく、台詞で何度も出て来る通りの「不愉快」なやりとりに引き込まれました。台詞が無い場面でも視線の方向で感情が伝わって来ました。後半でネグリジェ姿で酔い溺れて行く様子を演じる那須佐代子さんが強烈でした。

    開演前に携帯電話や撮影等の諸注意のアナウンスをわざわざすることも無く静かに始まるのが、大人の雰囲気があって良かったです。

  • 満足度★★★★★

    圧巻!
    決して楽しい芝居ではないが
    凄いインパクトのある芝居。
    役者もうまい。
    父親役に共感できる点が多数。
    家族に押し潰されそうな気分。

  • 満足度★★★★★

    逃れられない小宇宙である家族という形態
    日頃から大ファンの3人の役者さんが結集する舞台で、しかも壮絶な家族劇が展開されるとの事前情報もあり、興味津々で劇場に向かいました。

    観終えてみたら、私からすれば、それほど壮絶でも過激なバトルでもなく、我が家も含めて、大変卑近感のある家族形態で、「何だ!普通じゃん!」と、その点ではちょっと拍子抜け。(笑い)

    まあ、それは少し大袈裟だとしても、増子さん演じる母親グンネルの言動が、相当自分に似通っていて、あるある感いっぱいで、観ていました。

    家族というのは、一度形成されてしまえば、どんなに自分の理想とかけ離れた状況になろうと、絶対死ぬまで逃れられない、小宇宙。

    親と子、夫婦は、時間の経過と共に、お互いの理想が相反し、ギクシャクしてしまうのが世の常。でも、気持ちはどこかで繋がっているので、結局は、そこに帰結して行く形態なのだと思います。

    そんなことを、近くの教会の鐘の音や、犬の遠吠えや、家族があまり利用しないのに、手放せない別荘などの、象徴的な事象で、ジワジワと観客の大脳に感じさせられる秀逸な舞台作品でした。

    最後のエレンの選択に、解釈が二通りできそうな印象を持ち、アフタートークの際、那須さんに「ご自身はどういう解釈で演じられたのか?」と伺ってみたところ、私の解釈と一致していたので、安心し、そう観客の私に、解釈どおりのエレンを体現して見せて下さった那須さんの演技力にも感服致しました。

    だいたい、増子さんと那須さんは、実際にはそれ程年齢が離れていないでしょうに、舞台上では、母子だということに全く違和感がなく、お二人の女優力にも、改めて感嘆ものでした。

    目に見える結末は、決して、ハッピーエンドではありませんが、でも私には、エレンは、家族の一員として、それを選択し、魂が安らいで行く穏やかな幸せを手に入れたのではないかと感じられて、悲劇的な作品とは捉えませんでした。
    本当に、アフタートークのゲストの鷲尾さんがおっしゃったように、観劇後、ジワジワと胸に迫る作品でした。

    本当の演劇ファンには、かなりおススメしたい舞台です。

    ネタバレBOX

    精神障害を持っている息子トーマスは、普通に会話している時は、とても柔和な表情で、他の芝居のように、あまり過剰な言動をしない演技を前田さんが、自然に見せていました。この点に関しても、アフタートークで、演出家の上村さんに伺いましたが、決して特異な存在として彼を登場させないという演出意図があったというご回答を頂いて、腑に落ちました。

    トーマスは、マザコン。エレンはファザコンのような、描かれ方だと解釈しました。

    もっと特異な家族形態のストーリーかと思いましたが、私の周辺には、もっと壮絶極まりない家族がたくさん存在しているので、那須さんと増子さんは、しきりに、日本ではあまりないと発言されていましたが、むしろ、自分には、とても普遍性を感じる家族の有様に映りました。

    演劇的に、大袈裟なバトル劇が繰り広げられるかと思いきや、むしろ大変写実的な脚本です。

    アル中のエレンも、母親も、父親も、どんなに気持ちが高揚しても、どこかで、最低限のルールを、自分の中で決めていて、相手を打ちのめすまでの攻撃的な発言は控えている伏がありました。

    かなり破綻した家族でも、内心お互いに親や子や、配偶者に対して、自然と滲み出る愛情や、憐憫の情を有しているのです。
    傷つけあいながらも、庇っている。それが、家族という、逃れられない運命共同体の姿なのでしょう。

    我が家は、普通の家庭じゃない、実に異常な家族だと悩んでいる方には、必見の舞台なのかもしれません。

    最後に、エレンは、たった2歳で亡くなった、生きていれば6歳の娘の母親として死を選ぶのではなく、このどうしようもない家族の一員として、離れていた自宅を死に場所と定め、、カールとグンネルの娘として、人生の幕を閉じようと、薬を持って、シャワールームへと足を進めます。
    このラストシーンに、「欲望という名の電車」の主人公を重ね合わせてしまいました。きっとエレンの魂は、浄化され、落ち着いていたのだと感じます。

    母親の愛情をトーマスに独り占めされ、孤独感にさいなまれていたエレンが、最後の日に、何度も、母親に対して、「ありがとう」と口にします。
    一方、母親のグンネルも娘に対して、頬を打ったことを素直に詫びます。
    母と娘が、最後の最後で、ようやく理解し得た、秀逸なシーンに、目頭が熱くなりました。

    どんなに、家庭に居場所がなくても、自分のできる範囲で、懸命に、良き父親でり、夫であろうとするカールの居住まいにも胸打たれました。

    この家族、私にとっては、相当、愛情溢れる素敵な関係性に思えます。
    拝見できて、幸いでした。
  • 満足度★★★★★

    深読みのできる舞台
     終始、アンダーな光の下で上演される。大方が家族劇と取るだろうが、自分は敢えて、その見方を採らない。

    ネタバレBOX

     家族等、とっくの昔に崩壊していると考えるからである。寧ろ、その崩壊こそ現代社会の進展の度合いを測る指標の一つと考えた方が良かろう。無論、エマニュエル・トッドのような分析が正鵠を射る社会は世界中にまだまだ沢山あることは承知しているが、欧米先進国と日本に於いてはこの定式は崩れつつあると考えるのだ。
     原作者、ラーシュ・ノーレンはスウェーデンの劇作家だが、ヨーロッパは、その高い経済力を世界中から収奪することで築いてきた。それは、アメリカ、日本も変わらない。無論、第一次大戦後、ヨーロッパの力は相対的に衰え、アメリカがその経済力を継承した。アメリカ経済も既に陰りが見えるとはいえ、未だ、最後のあがきの真っ最中であり、そのあがきを長引かせる為に、奴隷以下の身分に甘んじているのが、日本という名の植民地である。安倍という阿保は、その植民地に於ける最も無能なピエロだ。
     世界はどうあるか? と問うことは、我々はどんな世界に生きているかを問うことでもある。こんなことを問わざるを得ないのは、大多数の人々が、力を持たないからである。身も蓋も無いことを言ってしまえば、世界を統べるものは、力である。だが、自分自身は、力が無い。殆どの人がこう考えざるを得ないのは自分が最強ではないことを知っており、同時に力が世界を統べることを知っているからだ。一方、人々は最強でないのに生きている。生きている以上、意味が欲しい。だから、力の前では、屈せざるを得ないことを承知しつつ、様々なエクスキューズを編み出すのである。透視図法ではこのように描かれるのだが、このエクスキューズが、様々に煙幕の役割を果たし、自己欺瞞を許す。そして、この自己欺瞞無しでは殆どの人が自殺を選ぶしかない。神? だと! 何を下らない幻想を! そんなものは、ヒトが宇宙と絶対的に向き合うことを恐れるが故に発明した逃避に過ぎない。ヒトは裸形に耐え得る程に強くは無いのだ。
     ところで、人間は社会を形成する動物の一つである。だから、神など無くとも、上記で挙げた様々な要素の多様な関係の中で、して良いこと、悪いことが経験則として決まってくる。之を定式化したものが、道徳である。そして、知恵とは、この法則を正しく類推し身を処してゆく力である。ところが、先進文明国は、そうでない地域・国々からの富を収奪することで自国の富を増やし、豊かな生活を育んできた。先進国の中でも、大国と言われる国々が常に、その時代で最も破壊力の大きな武器を持って来たことは注目しておいて良い。現在は、それが、核戦力である。そして、対外的には核の破壊力で恫喝を掛け、国内的には、「敵」の恐怖を煽ることで、残虐極まる核兵器の保有を正当化している。その際、民心操作に使われるのは恐怖である。だから、イスラエルを始め、北朝鮮迄もが核武装に走っているのだ。アメリカも北朝鮮が核武装していなければ(無論、ミサイル技術などを含む)本気に相手にしはすまい。今、アメリカが狙っているのは、宇宙の軍事基地化である。それが可能になれば、唯一の超パワーとして好き勝手ができるからであり、それを狙っているのだ。だが、そんなことをする為には莫大な開発費が必要だ。現在迄、散々収奪してきた中南米諸国は、結束してアメリカに対抗し、露西亜も再び、アメリカの喉元、キューバで、軍事に直結する動きを活発化している。バーチャル経済で凌ぐしかない現在の弱体化した米経済を再活性化する為に、彼らは、亜細亜にシフトしたのだ。当然、中国は黙って居られない。彼らは、アヘン戦争の被害、日本による侵略など、一旦、資本主義が暴走すれば、どんなことをするか歴史的に学んでいるから、坐してはいられないのは普通だろう。現在の指導者、習氏がそんなに優秀だとは思わないが、BRICSで立ち上げることにした新開発銀行は、無論、アメリカを中心とする世銀、IMFの影響力を低下させる為であるのは、言を俟たない。本部が上海に置かれることも無論、重要な点である。さて、此処まで大きな力を持たないが、豊かな国々はどのようにしてその富を蓄えてきたのか? そこが問題である。本作に登場する過程の父親は、警備会社の社長である。警備である以上、軍、警察と関連が深いのは無論の事だ。そして、現在、アメリカやイギリス、イスラエルなどの軍・警備会社は深く連関している。アメリカなどでは、軍事の民営化が大々的に行われていることは周知の事実であろう。イスラエルは、植民者がイスラエル軍より酷いことをパレスチナ人に対して行ってきたし、現在も行っているのは、パレスチナ問題に詳しい人間には常識である。あらゆる意味で違法な入植者を守るという屁理屈を掲げて、イスラエル軍が、パレスチナ人の土地を収奪し、女。子供を含むパレスチナ人を虐殺してきたこと、今もしていることを問題化しないのが、西側先進国の「正義」なのである。この家族の父は、このようなことが直ぐイメージできるような警備会社の社長なのである。姉は、できの良い模範的な学生だった、頭の切れも良い。だから、気付いてしまったのだ。自分の父のしていることに。その社会的位置と意味・道徳的問題に。母は、それらを充分推測できる能力を持ちながら、表面を取り繕うことにも汲々としているので、姉からも感受性の鋭い弟からもその欺瞞を見抜かれている。そして弟は、その心優しさから、精神を病んでしまう。その結果は、互いが、互いを傷つけあうしかなくなる地獄だ。その有り様をかなりブラックでアイロニカルに描いて見せた作品と言えよう。舞台を終始暗く保ち、姉のアルコール依存症表現に凄みを持たせ、観客の想像力を最大化する演出が効果的である。同時に、舞台美術や配置転換も物語の進展に邪魔にならぬもので、役者達の演技を更に深いものにしていた。照明・音響効果もグー。
  • 満足度★★★★★

    素晴らしい!
    登場人物4人の濃密で本格的な家族の会話劇、堪能しました。

    ネタバレBOX

    ストックホルムの一室、登場人物は家族4人。幼い頃から気に入らないことがあると突然凶暴になったり突飛な行動を取り、自閉症とか鬱とか、様々な診断結果を受けつつ現在は統合失調症ということになっている息子(弟)トーマス、もうすぐ30歳。勉強はできたが、トーマスの世話に忙殺された母親や事業に専念している父親にかまってもらえなかったため常に孤独で、20歳頃から約20年間アルコールに依存し、飲酒が原因で重い障害を持って生まれてきて死んだ我が子のことが忘れられない娘(姉)エレン、現在教師。元女優で、夫と結婚後に男と逃避行をした経験を持ち、現在は演劇を楽しみ支援する金持ちの奥様を演じつつ、トーマスの世話で疲れ果てている母親(妻)のゲンネル。妻に夫婦生活を拒否され、それが妻の更年期の一時的なものであったにも拘らずそのようなこととは露知らず、以後妻には一切手を出さなくなり、現在は買収されそうな自分の事業のことで頭がいっぱいの父親(夫)カール。

    劇場から戻ってくる図は普通の家族が外出から帰ってきたように見えましたが、実際はトーマスが退院したこともあり、一人暮らしをしているエレンを誘って観劇し、帰りたがるエレンを半ば強引に実家に連れてきて久し振りに家族4人揃った団欒を持とうとしたのでした。

    元々バラバラな家族はやはりバラバラでした。少しずつそれぞれのことが分かっていく過程が素晴らしかったです。何があっても家族の関係は切れないとの母親の台詞に、婚姻中に生まれた子どもの父親は夫と推定するとの民法の規定を再確認した最高裁判決があった翌日でもあり、重いものがありました。

    エレンは子供の誕生日である明日自殺しようと考えていました。本来は自分の家で死のうと思っていたのでしょうが、3人が別荘に行くと分かると、誘いを断り、最後は実家を死に場所と定めました。辛いことではありますが、やはり家族に発見してほしいと思うものかもしれません。

    突然凶暴になるトーマスの演技は素晴らしかったです。ここで中嶋しゅうさんが見られるのも驚きです。そして何より、エレンの少しずつ酔いが回っていく様は秀逸でした。シアター風姿花伝の支配人でもある那須佐代子さんの演技に惚れ惚れしました。

    子供を抱かなかったからいけないのか、抱き過ぎたからいけなかったのか、難しく、考えさせられました。
  • 満足度★★★★★

    これでも家族です!
    翻訳劇で崩壊していく家族の話は色々観てきたが、最初から崩壊してる家族は珍しい。
    何しろ会話が会話として成立しない。無茶苦茶!
    そして普段の会話では決してと言っていいほど使われない汚い言葉、心を刺す台詞。
    演出、俳優陣の演技には深みがある。素晴らしい!舞台セットもらしさがでてる。
    翻訳劇に興味がある方は観劇お勧めします(余談だが、俳優平岳大が観に来ていた)。ラストは翻訳劇によくあるパターン。
    これでも家族か思うくらいひどい、そして怖い、こんな戯曲よく書けたものだ。
    ラーシュ・ノレーンの名前覚えました!

    ネタバレBOX

    4人の会話が弾まない、空気そのものがそれを感じさせる。言葉を発しても話がまったく噛み合わない。皆自分の話だけして自分以外の人の質問に答えることはない。登場するのは、元女優で芝居好きの母親グンネル、仕事にかまけて家族を顧みなかった父親カール、教師で一人娘を4年前に亡くし離婚歴のある女教師で娘の死後アルコール依存症、もうすぐ40歳になる姉エレン、自閉症で突然暴力的になる弟トーマス。現在に至るまで皆心の底に瑕を追っている。
    罵り合い、傷つけあっても、家族は家族、離れることはできない。
    夜通し続いた様々な会話も果て、夜が明ける。皆話しつくしたのであろう人間本来の優しさをもち始める。
    折角揃った家族は別荘に行こうとするが、エレンは家に残る。
    そして、昨晩の会話の中で「明日死ぬわ」といっていたエレンは花束をテーブルの上に載せたあと、睡眠薬もってバスルームへ、そして自殺!
  • 満足度★★★★

    大人のための濃密翻訳劇
    ほんとの知的財産とは、こんな劇体験のことを指すのだろう。

    立体化した戯曲である。
    アフター•トークでカール役の中嶋しゅう が「こんな小さな空間なので、とにかくライブ感だけを考えています」と おっしゃっていたが、確かにこの作品は純然たる「会話劇」には程遠い。
    翻訳劇ゆえ「記号」をばら撒いたわけでもない。
    この「バラバラな会話劇」(那須 佐代子)は「狂い」と「受容」の白線に立つ、登場人物たちの激情描写だ。
    「この家族には誰も 俺の質問に答えるものがいない」という台詞があったが、違う。それは「無視をする」愛情法である。

    すなわち、序盤に「硬派」かと わずかばかり感想を抱きつつ、実のところ、三幕を通し、小宇宙(家族)の「友愛」も また捨てきれない、登場人物たちのピュア•エナジーが伺えたのである。そんなカオスが『ボビ―・フィッシャーはパサデナに住んでいる』の愉快さだ。

    ネタバレBOX

    美術、音響、小道具、照明は六角形のごとく、いずれも他ジャンルを邪魔せず、完全に近い調和を図っていた。特に第二部は そうだ。
    時刻が深夜の「2時30分か3時30分」だった設定もあり、ほとんどステージの「火」(ロウソクの炎)を幻影的な それとして活用していたように思う。
    暗がりのなかに映った「狂いドミノ」だった。


    私は、同じ上村 聡史 演出で、中嶋しゅう が今作と似た役で出演した、翻訳劇『千に砕け散る空の星 』を2012年7月に観劇している。ちょうど2年前だ。佐村内さんの「耳が聞こえるようになった」半年後だろうか。素っ裸に なった彼の老体は美術館に収納されるべき 「肉体 美」だった。欲を言えば博物館がお勧めだ。


    「舞台は生もの」 ̄高級レストランのシェフが活きた海老を裂くように、役者は1秒、2秒の「タイム•キーパー」でなければならない。
    もちろん「翻訳劇」も。しかし、中嶋しゅうは 大袈裟にリアクションしているようだったが、共演者が認める役割は、彼は舞台全体における「権威付け」であったことだ。
  • 満足度★★★★★

    圧巻
    迫力ある演技力であり、とても圧巻でした。
    観る人すべてを引き付ける舞台に感動しました。

    演技力は抜群で、まさにそこに現実的に時間が流れている現場に遭遇したように思え、非常に感動しました。

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