満足度★★★★
洋服屋という場所
昨年結成の演劇プロデュースユニットで、今回は「演劇 洋服屋 ART」をキャッチコピーに、渋谷センター街の‘ARTON(アートン)’いう洋服店を舞台に公演を行っている。
「POPに飄々と世界を模索し、見つけた面白いモノをモラルに捉われずに追求。 発信していく事で、 世界と、いまと、空間と、人と人とを繋いでいく。 果ては、パンツの果てまでも(公式HPより)」。
モラトリアム(moratorium)とは、精神分析学者エリクソン(E. H. Erikson, 1902-1994)が用いた語で、人間の発達の段階で、自己同一性を確立する準備段階において、社会的責任を一時的に免除される青年期をさす。年金の支払いを免除される、といった本来は「支払い猶予期間」を示す語であった。現代人は、この猶予期間を引き伸ばし、大人になろうとしない、つまり自己同一性(アイデンティティ)を確立しようとしない「モラトリアム人間(moratorium personality)」の傾向が強い。
従って‘moratorium pants’とは「パンツへの猶予期間」ということになるが、目指すは「パンツの果てまで」という広がりのあるイメージとして用いている。これはどう解釈すべきか。どことなくモラトリアムを猶予、というよりも、そちらに寄った依存という単語と置き換えたほうがしっくりくる印象である。
「パンツに依存していたい」、という意思表示に示されるパンツとは、つまり内的な幼児性、「中二病」と言われる夢見がちな志向性を示しているのかもしれない。岡田利規のチェルフィッチュに通じる自虐性に似た名称である。チェルフィッチュ(Chelfitsch)とは、自分本位という意味の単語セルフィッシュ(selfish)が明晰に発語されずに幼児語化したという意味合いを持つ造語である。現代の日本の若者の自己規定に共通する自嘲する自己顕示欲である。
『僕があまやかしすぎましたもので』は、「モラパン」の彼ら自身が標榜する通り、ポップでカラフルであり、都会の若者が好きそうな趣味がいっぱいに詰まっている。しかし作品構成は至って正統派である。ここでいう正統派とは、物語が登場人物のことばで進行していくという台詞劇であるという点である。これが広い意味では、現在の気鋭の若者の演劇が、新劇とのモラトリアム関係であることを間接的に示している。今回の作品も、このスタイルを貫き通すというより、劇空間をさまざまな場所に移すことによって真新しさを演出しているが、観客と演者の関係性というものを演劇の本質として捉え、発信するという根幹はぶれていない。これが安定した楽しさを提供できる原動力となっているのではないか。
演者たちの身体性も極めてオーソドックスであり、台詞は安定して聞きやすい。口語的な表現は言葉の発信者としての技術を最低限持ち合わせていなければ困難である。
カフェや倉庫、美術館や路面電車に至るまで、劇場空間以外を演劇の上演場所として用いることは、古今東西で行われており、特に真新しいことではない。特に劇空間を戯曲の舞台とする場所に当て込み、現実と重複させる方法は繰り返し行われてきた。近年話題性のあるところでは、昨夏東京都美術館で上演された平田オリザ作『東京ノート』である。フェルメールの作品が展示されている美術館という設定が、現実に成立する場所として上演された。また数年前だが、演劇集団モケレンベンベ・プロジェクトという団体が、原爆投下前後の広島で路面電車に乗務した女学生を描いた『桃の実』という作品を、現存する被爆電車の車内で上演した。今回の『僕が甘やかしすぎましたもので』も、父が高校生の娘と営む洋服屋を、実際の上演の場であるARTONとして二重性を出している。
では「実物」で上演することのメリットとは何か。話題性以外の劇的な効果は何か。この公演が狙ったのはおそらく「親密性」である。観客と演者の関係性を保ちつつ、極限まで狭めることにこの空間を使うという演劇的な意味合いが成立している。
劇場と洋服屋の相違点は何だろうか。共通点は、劇場では演者と観客、洋服屋では店員と客という異なる性質を持つ人間が存在することで、片方は空間の所有者で、もう片方が訪問者である関係性だ。語弊を恐れずに言えば、どちらも人が集う場所である。
異なる点は、劇場では訪問者である観客が、空間の所有者である演者の変身を観察する立場であるのに対し、洋服屋は訪問者である客のほうが自らの変身を欲してやってくる。劇場の観客が積極的でないというわけでは決してないが、本質的に受容者であるという受け身の立場は否めない。それに対し洋服屋を訪れるという行動は、本質的に自己の変容を求めるものである。つまり洋服屋を訪れるという能動的な行動が象徴されている。劇中に犬を連れてやってくる男性客は非常にポジティブであり、店を去って別居する母にもはっきりとした拒絶の意思がある。これは先に述べた観客と演者の関係性に還元した際にも言えることで、この芝居が、単なる傍観者ではなく、観客の積極性を期待していることは間違いない。こうした空間づくりに一貫した思考があることが観客と一体となった芝居作りに相乗効果を生んでいるのだ。
空間と演劇の二重性に関して述べてきたが、テクストにも意図的な二重性を読み解くことが出来る。飼い犬アイコと一家の母、男性客の飼い犬と、母が不倫している相手の恋人の女性をそれぞれが二役演じる。時間の流れは主に2つあり、現在の洋服屋での犬同士のやりとり、過去の人間の女同士のやりとりが交錯しながら進展する。犬の関係性が人間同士の関係性にリンクし、次第にひとつに重なっていく手法は巧妙(作:おおがきなこ)だが、まとめようとする過程で予見される終盤がやや食傷気味。とはいえ、あくまで「モラトリアム」という名称に込めた、依存した存在としての人間に対する温かいまなざしでまとめ上げた橋本の演出意図は明確に伝わってくる。テーマ主義に陥る危険性はあるが、無節操に奇抜な企画が乱立する中で、ポップな色彩にまぶした、テーマの堅実さが光る団体が一つくらいあってもいい。ここまでばらしては営業妨害かもしれないが。