安部公房の冒険 公演情報 アロッタファジャイナ「安部公房の冒険」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    演技の化学反応 見せ方の難しさ
    演技に関して非常に興味深い芝居だったといえる。それは4人の俳優がまるで異なった形式の演技をしていることだ。安部公房を演じる佐野史郎の緩急自在な演技。夫人を演じる辻しのぶの熱情的で新劇的な演技。愛人で女優を演じる縄田智子のどことなくアングラの詩情を思わせる、それでいて無機質な現代っ子を感じさせる演技。さらに道化の狂言回しを演じる内田明の妙に直線的で別次元のような演技。これらがまるで方向性の違う演技の質を持っていながら一つの世界を創り上げている。必ずしも調和が取れておらず、内田の道化に関しては客席とのコンタクトを拒否したかのような「ズレ」すらある。しかしこれが互いの相互理解や決定的な亀裂、嫉妬や憎しみを表すのに、結果的に効果を発揮したともいえる。

    ネタバレBOX

    松枝佳紀の企画、脚本による安部公房の評伝劇とでもいおうか。昨年突如刊行された山口果林『安部公房とわたし』(講談社、2013)の影響の非常に濃い作品と言ってよい。安部公房と真知夫人、そして安部公房スタジオの中心的女優にして安部の20年間の愛人で居続けた女の3人だけに焦点を絞り、愛情と芸術のはざまで苦悩し、互いを求め合う姿を描いた。



    日本の現代演劇の大きな転換点となる60年代から80年代にかけての20年間、アングラと一線を画し、世界的な視野で日本の演劇を芸術として通用させるべく奮闘する安部公房の姿と、それを支え、時には奪い合う女たち。極めて私的でともすると、暴露癖の単なる愛憎劇になりかねないが、日本の現代演劇の軌跡を多角的に検証しようという野心と使命感が作家の中に少なからず見えることによって、「見る演劇論」として成立していた。時代は異なるが、宮本研『美しきものの伝説』に通じる。芸術は恋愛や愛憎、そして政治に常に翻弄され、叩かれ、磨かれる。


    演技に関して非常に興味深い芝居だったといえる。それは4人の俳優がまるで異なった形式の演技をしていることだ。安部公房を演じる佐野史郎の緩急自在な演技。夫人を演じる辻しのぶの熱情的で新劇的な演技。愛人で女優を演じる縄田智子のどことなくアングラの詩情を思わせる、それでいて無機質な現代っ子を感じさせる演技。さらに道化の狂言回しを演じる内田明の妙に直線的で別次元のような演技。これらがまるで方向性の違う演技の質を持っていながら一つの世界を創り上げている。必ずしも調和が取れておらず、内田の道化に関しては客席とのコンタクトを拒否したかのような「ズレ」すらある。しかしこれが互いの相互理解や決定的な亀裂、嫉妬や憎しみを表すのに、結果的に効果を発揮したともいえる。


    疑問が多く残るのは演出である。いまや「カビ臭くなった」古いアングラの熱情のようなものを発掘して提示するなら徹底してやるべきだった。安部公房の時代の「貧乏だが熱狂があった」時代を感じるには隙が多く、単に舞台製作に金がないようにしか見えなかった。具体的には舞台の床を上下(かみしも)で色分けしたり、客席に向かって道化がセリフを投げかけたりするのに、舞台面が客席に対して高い。結果として客席との一体感を呼びかける道化の問いが、形式的なものなのか一体感を生むものなのか判別がつかず、中途半端な誘導になっている。


    また愛人と妻の両方がそれぞれ左右をテリトリーに交互に舞台に現れるのだが、真ん中にいる安部公房が、それぞれに向かう際に出はけや妙な暗転がある。愛に不器用な安部公房を表出するにしても、恋人の前で下着を脱いだ女が脱いだものを拾って退場するのは興ざめだし、さすがに間延びしている。脚付である基本舞台の連結をバラしてある左右の数ブロックは、活用されるわけでもなく、美術として活かされているようにも見えなかった。無造作すぎて美術的な配置とは思えない。俳優の健闘が目立ったので、「見せ方」には少し不満が残る。


    一口に現代演劇といっても、種類も、演技の形式も多様であるのは周知の事実だし、戯曲や上演空間の差や、俳優の身体能力についてはその違いや特徴が様々述べられている。


     しかし、巷で日々上演されている演劇のほとんどは、「新劇的な」演技の形式によって上演されており、言い換えれば「ふつうに演じる」ために俳優も観客もそれをスタンダードなものとして捉えているが、その「新劇的な」演技は、新劇という極めて茫漠としたイメージの集合体にすぎない。

    戯曲を上演することを「演劇」として絞って考えてみてもそうなのだから、世界一初演が多い都市とも呼ばれるほど演劇の上演が氾濫している東京一つとってみても、その演技の「形式」、あるいは「演じる」ということそのものの概念は、共有されているというのはほぼ幻想にすぎないことがわかる。これを多様性と言えばそれまでなのだが、その相違点を私的な背景から検証し理解しておくことは、その化学反応を計算して作品を生み出すためにも、戯曲回帰とプロデュース公演が主流となりつつある現在の日本の演劇界において決して無益なことではないはずだ。

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    2014/09/05 18:03

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