安部公房の冒険 公演情報 安部公房の冒険」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
1-20件 / 34件中
  • 満足度★★★★★

    松枝作品だと...
    主人公がとにかく躍動するのが松枝作品。それを再確認した感じ。楽しめました。

  • 綺麗
    安部公房という人物が気になっている時に、この公演があることを知って観に行った。

    安部公房についての知識は全くないまま観たのだが、
    安部公房の人生をわかりやすく説明したような作品であったから、逆にそれが良かったのかもしれない。

    佐野史郎さんのセリフで何を言っているのか聞き取れないときがあったが、熱弁しているときのセリフだったから、それがまたリアルで良かったと思った。

    女性陣の美しさには息を飲むほどであった。

    とくに、縄田智子が脱いでしまうシーン。
    素直に綺麗な身体だと思った。

  • 満足度★★★★★

    前知識無しで観ましたが、
    台詞量の多い濃密な脚本にも関わらず、時代背景も物語もとても分かりやすく、終始楽しんで観られました。佐野さんが流石の圧巻、安部公房という私にとっては時代劇の中の人も(昭和って既に時代劇ですよね、)リアルにその場で生きていて。芝居ではなく安部公房その人を観ているよう。物語前半は男と女としても輝いていた安部夫妻が、時を経てつまらない男女になっていく姿に長い長い人生を見て、自分自身の人生と重ね、なんとも言えない切なさに包まれたり、恋愛感情で胸が痛くなってラストの縄田智子さんの慟哭とともに号泣したり。アロッタの作品としては1時間30分と異例の短さでしたが、そこには確実に人生と時代とが描かれていました。欲を言うと、私は松枝さんの持つ独特のフェティッシュ感が好きなので、やはり松枝さんの演出作品が観たいな、と。内田明くんが演じた道化が安部公房を「あべこべ先生」と呼ぶところがなんともアロッタ感に満ちていてとても好きでした。

  • 満足度★★★★

    演技の化学反応 見せ方の難しさ
    演技に関して非常に興味深い芝居だったといえる。それは4人の俳優がまるで異なった形式の演技をしていることだ。安部公房を演じる佐野史郎の緩急自在な演技。夫人を演じる辻しのぶの熱情的で新劇的な演技。愛人で女優を演じる縄田智子のどことなくアングラの詩情を思わせる、それでいて無機質な現代っ子を感じさせる演技。さらに道化の狂言回しを演じる内田明の妙に直線的で別次元のような演技。これらがまるで方向性の違う演技の質を持っていながら一つの世界を創り上げている。必ずしも調和が取れておらず、内田の道化に関しては客席とのコンタクトを拒否したかのような「ズレ」すらある。しかしこれが互いの相互理解や決定的な亀裂、嫉妬や憎しみを表すのに、結果的に効果を発揮したともいえる。

    ネタバレBOX

    松枝佳紀の企画、脚本による安部公房の評伝劇とでもいおうか。昨年突如刊行された山口果林『安部公房とわたし』(講談社、2013)の影響の非常に濃い作品と言ってよい。安部公房と真知夫人、そして安部公房スタジオの中心的女優にして安部の20年間の愛人で居続けた女の3人だけに焦点を絞り、愛情と芸術のはざまで苦悩し、互いを求め合う姿を描いた。



    日本の現代演劇の大きな転換点となる60年代から80年代にかけての20年間、アングラと一線を画し、世界的な視野で日本の演劇を芸術として通用させるべく奮闘する安部公房の姿と、それを支え、時には奪い合う女たち。極めて私的でともすると、暴露癖の単なる愛憎劇になりかねないが、日本の現代演劇の軌跡を多角的に検証しようという野心と使命感が作家の中に少なからず見えることによって、「見る演劇論」として成立していた。時代は異なるが、宮本研『美しきものの伝説』に通じる。芸術は恋愛や愛憎、そして政治に常に翻弄され、叩かれ、磨かれる。


    演技に関して非常に興味深い芝居だったといえる。それは4人の俳優がまるで異なった形式の演技をしていることだ。安部公房を演じる佐野史郎の緩急自在な演技。夫人を演じる辻しのぶの熱情的で新劇的な演技。愛人で女優を演じる縄田智子のどことなくアングラの詩情を思わせる、それでいて無機質な現代っ子を感じさせる演技。さらに道化の狂言回しを演じる内田明の妙に直線的で別次元のような演技。これらがまるで方向性の違う演技の質を持っていながら一つの世界を創り上げている。必ずしも調和が取れておらず、内田の道化に関しては客席とのコンタクトを拒否したかのような「ズレ」すらある。しかしこれが互いの相互理解や決定的な亀裂、嫉妬や憎しみを表すのに、結果的に効果を発揮したともいえる。


    疑問が多く残るのは演出である。いまや「カビ臭くなった」古いアングラの熱情のようなものを発掘して提示するなら徹底してやるべきだった。安部公房の時代の「貧乏だが熱狂があった」時代を感じるには隙が多く、単に舞台製作に金がないようにしか見えなかった。具体的には舞台の床を上下(かみしも)で色分けしたり、客席に向かって道化がセリフを投げかけたりするのに、舞台面が客席に対して高い。結果として客席との一体感を呼びかける道化の問いが、形式的なものなのか一体感を生むものなのか判別がつかず、中途半端な誘導になっている。


    また愛人と妻の両方がそれぞれ左右をテリトリーに交互に舞台に現れるのだが、真ん中にいる安部公房が、それぞれに向かう際に出はけや妙な暗転がある。愛に不器用な安部公房を表出するにしても、恋人の前で下着を脱いだ女が脱いだものを拾って退場するのは興ざめだし、さすがに間延びしている。脚付である基本舞台の連結をバラしてある左右の数ブロックは、活用されるわけでもなく、美術として活かされているようにも見えなかった。無造作すぎて美術的な配置とは思えない。俳優の健闘が目立ったので、「見せ方」には少し不満が残る。


    一口に現代演劇といっても、種類も、演技の形式も多様であるのは周知の事実だし、戯曲や上演空間の差や、俳優の身体能力についてはその違いや特徴が様々述べられている。


     しかし、巷で日々上演されている演劇のほとんどは、「新劇的な」演技の形式によって上演されており、言い換えれば「ふつうに演じる」ために俳優も観客もそれをスタンダードなものとして捉えているが、その「新劇的な」演技は、新劇という極めて茫漠としたイメージの集合体にすぎない。

    戯曲を上演することを「演劇」として絞って考えてみてもそうなのだから、世界一初演が多い都市とも呼ばれるほど演劇の上演が氾濫している東京一つとってみても、その演技の「形式」、あるいは「演じる」ということそのものの概念は、共有されているというのはほぼ幻想にすぎないことがわかる。これを多様性と言えばそれまでなのだが、その相違点を私的な背景から検証し理解しておくことは、その化学反応を計算して作品を生み出すためにも、戯曲回帰とプロデュース公演が主流となりつつある現在の日本の演劇界において決して無益なことではないはずだ。

  • 満足度★★★

    すごかった。
    前知識なく行きました。
    佐野さんのすごさを改めて感じました。
    女優さんお二人も、素敵でした。

    日曜午後の千秋楽だったのに空席があって、
    勿体なく思いました。

    ネタバレBOX

    観劇後、山口果林さんの『安部公房とわたし』を読みましたが、
    これ、原作本ですか?と言いたくなるような内容でびっくりしました。

    パンフレットを買わなかったので、
    チラシと当日パンフ(A4用紙)しか手元にありませんが、
    どこにも、特にそのような記述は無く・・・。

    でも、この本の文中に、
    お芝居のところどころがそっくりそのまま書かれているような部分があって。
    虚実ないまぜ?どのへんが?
    と、思ってしまいました。。。
  • 満足度★★★★

    らしいっちゃらしいけど。
    舞台を見た瞬間にアロッタファジャイナだなと思ったし、物語の静かな進み方と言葉の選び方もとてもアロッタファジャイナだった。

    ネタバレBOX

    ただ静か過ぎて女性の下着姿に生唾を飲むのもはばかれる程で困った。逆にとなりの中年の方の生唾を飲み込む音がよく聞こえた。

    最後の終わり方が少々盛り上がりに欠け、なんだかアロッタファジャイナじゃないなと、アロッタファジャナイナと思った。
  • 満足度★★★★

    想像とは違いましたが
    面白かったです。

    他の方も書かれているように、安部公房作品のような内容を期待して臨むと、
    あれ違うんだ、という印象から入ってしまうことになりそうです。


    その当時に創られていた舞台がどんなものだったか観てみたかったし
    その当時の演劇を取り巻く環境がどんな様子だったのか感じてみたくなりました。
    叶わぬことですが。


    あべこべ先生、今の時代に生きていたならどんなことをやろうとしたのかなー。

  • 満足度★★★★

    役者陣に魅了された
    役者陣に魅了された作品でした。特に縄田智子さんが良かった。すごく魅力的な演技でドキドキさせられました。

  • 満足度★★★★

    いくつもの対比を紡ぎ束ねる
    戯曲が描こうとするものの要素が、演出の手法とあいまって、舞台上に明確に伝わってきました、さらには、骨組の明確さを支える戯曲と舞台の仕掛けに、役者の描き出すものが、淡々と奥行きをもった生々しさをかもし出す舞台でした。

    ネタバレBOX

    小さいところでのお芝居を観ることが多いので、小劇場PITの空間はかなり広く感じる。
    特に前方の席だと高さに圧倒されたりも。でも、舞台が始まると、でも、その広さだからこそ4人芝居が描くものがすっとはまる。道化が綴っていく男の評伝的な部分も、ノーベル賞云々とすら言われた男の才のほどばしる姿も、家庭でのありようも、狡さとも感じられる男の姿も、その舞台の広さとともに混濁することなく研がれ、したたかに切り分けられて、舞台に置かれていく。前半には一人の男のパブリックな部分とプライベートな部分が、それぞれに羽を広げるスペースが舞台にあって、そのどちらの側面も、彼の一面として他の側面を浸食することなく舞台に置かれていく。

    舞台に彼を多面的に織り上げていく仕掛けがいろいろになされていました。まず道化が物語の輪郭を軽妙にくっきりと描き出す。主人公の外面というかパブリックな部分が紡がれる上手のリビングダイニングを思わせる舞台には光があり、静謐な中に内なる熱を育む研究室や書斎の押さえられた色調との対比が生まれる。鮮やかな赤と生成りの質感を持った白に色分けされた二人の女性の衣装の色がそれぞれに印象を刻む。消えものや小道具の有無なども観る側にとっての暗示になっていて、たとえば上手の食卓に並んだ朝食や手に取る新聞などが男の外面を導き、小道具をなにも持たず女性とある下手の空間には舫いを解かれた彼の内面の想いが広がる。

    それらの仕掛けの中に、緩急としなやかさをもって、男の姿が編み上げられていきます。舞台の表の部分の見せ場でもある、彼のあふれ出すような才気とその果実が熱と高揚とともに語られるとその裏側には、妻と、教え子の女学生との間を行き交う男の姿が置かれ、男の幼くすら思える姿が観る側を捉える。役者が語る台詞や所作にさまざまな一面を纏う男の感触が立体的に観る側の腑に落ちる。しかも、それらの束ねる役者が醸すものには、単に整合性をもって人物を組み上げるのではなく、少しずつ揺らぎが差し入れられて、生まれる密度の細微なほつれにキャラクターの実存感や内に抱くものの肌触りが育まれていく。
    終盤、かつて小道具をもたなかった女性が本を持ち舞台上の対比が崩れ、妻との別居も語られて、彼からエッジの効いた表裏が薄れ消える。その中での、二人の女性のそれぞれに彼を受け入れようとする姿も異なる光となり老境の彼を照らす。それは、主人公を一面にとどまらず引き出す表裏とは別に若い彼と老境の彼を浮かび上がらせる対比ともなって。幾重にも置かれたと作劇の企てと、そこに血を通わせていく役者達のお芝居の洗練に時間を忘れて見入ってしまいました。

    まあ、正直なところ阿部公房の著作自体や舞台については知識があまりなく、私的には主人公の姿をより満ちたものとして受け取るための自らの素養が欠けていたように感じ、むしろそのことで、役者達がそれぞれに描き出す人物の貫きや揺らぎにより捉われたりも。一人ずつの役者の空間を纏って舞台にある強さと、その広さを力として戯曲の骨格の中に血を通わせていく刹那の繊細な紡ぎ方、なかでも男が老境に足を踏み入れる中での其々のロールに編まれた色の移ろいが印象に残りました。
  • 満足度★★★★

    面白く観たけど複雑な気持ち
    あの「壁」や「砂の女」の安部公房の晩年って、こんなだったのかなー。
    と、面白く、そしてやや複雑な気持ちで見ました。
    やや複雑なというのは、良識ある一般人の私としては、妻、夫、愛人といたら、フツーに妻目線で見ちゃうんですよ。笑。
    最後まで、私は妻目線で観つつ、舞台は愛人目線で進む。
    二人の女の大岡裁判(手を離したほうが本当のお母さん!)のような話でした。←ちがう。

    ネタバレBOX

    アメブロにもうちょっと長々書きました。

    http://ameblo.jp/imacoco2010/entry-11917042237.html
  • 満足度★★★★

    噛んでもすごい
    “芸術を媒介とした恋愛関係”は、その言い訳も高尚で芸術的だ(笑)
    “共通の志を抱いているのだ”という大義名分を信じればこそ、
    3人とも長きにわたって気持ちを保てたのだろうという気がする。
    家庭と愛人を行き来する自己中な男を、許し愛する2人の女の“縄張り”が
    美しいセットと照明によって浮び上る。
    理想と現実を近付けようとシャカリキになる中年男の台詞が質・量共にすごい。
    脚本家と俳優の力がストレートに感じられる舞台だった。

    ネタバレBOX

    安部公房(佐野史郎)は小説家として評価を得ている一方、
    大学で演劇ゼミを担当している。
    学生結婚した妻(辻しのぶ)は彼の芸術の良き理解者であり、
    彼の仕事に欠かせないパートナーでもある。
    にもかかわらず、安部公房は次第にゼミの学生あかね(縄田智子)に溺れて行く。
    ひとりの男を巡り20年間にわたって対峙する2人の女。
    芸術を媒介にした恋愛の顛末を描く…。

    佐野史郎さんの台詞は内面からほとばしるようで、芸術家の身勝手な理屈にも
    普遍的な男の欲望が感じられてどこか愛おしい。
    時折言い間違いや噛んだりするところもあったが
    それを吹き飛ばす感情の勢いが伝わってくる。

    妻役の辻しのぶさんは笑い声に満足感や優越感をにじませるのが巧み。
    言葉以外の方法で豊かな感情を表現するところが素晴らしい。

    大ベテランの流石の台詞術に挟まれて、愛人役の縄田さんの台詞は
    それがフレッシュな魅力と言えるのかもしれないが
    淀みない分若干表面的な印象を受けた。
    もっとしたたかな面を見せても良かった気がする。

    最初は少し違和感を覚えた狂言回しの道化(内田明)が、
    愛人に絡み始めてからは、やはり必要な存在なのだと感じた。
    ちょっと濃いソースがないと、有名人ではあるが所詮“三角関係”の話は
    普遍的なだけに“想定の範囲内の味”で終わりがち。
    その意味でメリハリのある声と台詞がとても良かった。

    小説と演劇、妻と愛人、理想と現実の間で、
    時に自説をぶち上げ、時に右往左往する安部公房が極めて人間らしく魅力的。
    いったいどんな舞台を作ったのだろう、ちょっと気になる。
  • 満足度★★★

    欲望の方が勝っていた印象
    個人的に安部公房氏のイメージは、劇作家より小説家の印象。
    舞台内容がどこまで真実なのかは不明だが、この舞台では妻より愛人(この例えが妥当かは微妙だが)目線。それゆえ奥さんの存在がやや不憫。
    不倫相手の成長と作家晩年まで淡々と進行したメロドラマと思えばよかったのか。火宅の人とは異質なダメ男にも思えたが、実際接するとそこがまた魅力的に見えて来るんだろうな。
    縄田さんの演技や、赤と白の対比させるような衣装、簡素だけど整然と見える配置の舞台セットが印象に残った。約90分。

    ネタバレBOX

    小説は読んでいるので、見た事のない安倍氏の舞台内容について触れてほしかった気も。
    公演プログラムが¥1500、読み応えはありそうな内容でした。価格が¥1000くらいなら購入したのだけど・・・。すみません。
  • 満足度★★★★★

    THE演劇
    これぞ演劇,質の高い舞台です。最初から最後まで演技に引き込まれていました。とてもとても満足の観劇時間でした。アロッタファジャイナ,やはりこの劇団は外すことはできない。文句なしです。

  • 満足度★★★★★

    とてもわかりやす
    安部公房ってこういうひとだったんだとわかりやすかったです。
    なんとも2人の女性に支えられての大作家なんだなと思った。
    佐野史郎さん やっぱり流石です。
    照明の使い方で、スムーズに話がすすんでいたと思いました。

  • 満足度★★★★

    不倫相手の成長
    安部公房の活動を鳥瞰するにはうってつけの内容。安部の不倫相手の成長も見所でした。あの冬彦さんを彷彿させる場面も。

  • 満足度★★★★

    解りやすかった文豪の後年期
    あんましヒネリを感じなかったなぁと思った90分

    (でも、しっかり記憶に残る作品でありました(^^)

    ネタバレBOX

    佐野さんでも台詞噛む(ほんの少しですが)んだなぁとか思ったデス(^_^;)

    ほんとストレートに晩年の安部公房という作家?劇作家?
    の生き様が観れたと言えます・・(とっても理解しやすかったと)
    <キッチリ開演時間で始まったトコもポイント高いです>

    舞台は左から書斎に置くような机に、中央が白いソファー+テーブル、
    右がキッチンテーブル&椅子×4脚と配置し、
    上からのスポットライトでその家具照らして舞台場面として進んでいきます。

    食事などはリアルに出してて、
    暗転?時の場面は黒子さんが音も立てずに片付けていかれましたね。
    (緊張感が半端なく伝わりましたデス)

    狂言回しに白服のユニークな男性が出てきて最初と最後に物語をまとめます(勝手に”白男”さんと命名(^^)=後半少し本編とも関わります)
    ~人を喰った話として作品を〆ていきました~

    話は忙しいと毒づく安部先生が目をつけた女優と、
    懇ろになって”アベコベ先生”が前立癌で死亡するまでの展開でした。
    (20年続いた愛人関係ってのも凄かった)

    舞台を理解して舞台に必須な本妻と、作品に合う女優である愛人・・・。
    直接対決もあり、ほとんど昼メロの展開を存在感の強い佐野先生を中心に舞台のセットを上からのスポットライトで限定して見せるユニークな表現はも白かった。基本3人の会話で進行する会話劇であり、劇評なども、憤る先生の台詞から推測するという限定芝居といえました。日本では受けなかった作品を現地=海外でのシチュエーションに変更して喝采を浴びたという話も刺し込み。作品の本質は言語や国では変えられない=本物はキチンと伝わるものだと確信するシーンには納得できたです。(OVAのBJで、拒食症の女優さんの話の中に出てきた嫌味なマスコミの男の台詞を思い出しました=「あたし程度の者が何を言ってもやっても”本物”ってのは潰れないものです」といったニュアンスの台詞でした=好きなんですよ、この記者の役(^^)

    静かな抑揚を抑えた作品でもあり、合わない人には眠気を催す話ともいえます=場内でしっかり寝てしまった人もいましたから・・・。

    隠し玉としての情報量の良さは好きなとこで、満州の国歌を歌った佐野氏に驚かされました。 って国歌あったんですね満州って!

    演劇の基本として利ザヤ出すには団体客が重要とか・・・いう情報も勉強になりました
  • 満足度★★★

    なかなかよかった
    もっと阿部の作品を織り交ぜながらやってほしかったな。ただの不倫ドラマみたかったな。

  • 満足度★★★★

    久しぶりの大舞台
    舞台美術に照明の使い方、妻と愛人の衣装のコントラスト、ため息が出るくらいきれいでした。佐野史郎さん、さすがの存在感。膨大な台詞をよくまー覚えたものです。さすが。愛人役の縄田智子さんもよかった。二人で客席に向かったまま話すシーンが好きです。
    愛人との関係は芸術か欲望かといわれると、私は欲望としてとらえました。単純にうらやましいだけ♪
    安部公房は詳しくありませんが、かなり忠実に再現されているようです。(ウィキペディアで調べてみました)

  • 満足度★★★★

    芸術家の感性というのは、私のような凡人には理解できない
    小説から演劇、女性から女性へと「冒険」を続ける安部公房。
    しかし、「冒険」と見るのは凡人である我々であり、「冒険」と感じないから、彼らは創作を続けることができるのだろう。

    ネタバレBOX

    芸術家の感性というのは、私のような凡人には理解できない。

    彼らの行為は、我々からは「自分たちと同じ」、いわゆる「普通の男」「俗物」だな、という視線でしかとらえることができない。
    しかし、彼の劇中での台詞が真の本心だとすれば、彼にとっては「創作」ことがすべてであり、ほかのことはまったく見えない。
    女性たちも、彼の内面のひとつである。俗物な普通の男も彼の創作の、ある見え方のひとつにすぎないということなのだ。

    安部公房は、新しモノ好きだったと思う。
    古きプログレファンには有名な、富田勲と同じシンセサイザーを趣味として購入していたというところからもわかる。
    しかし、創作においては、単に「新しモノ好き」ということからでは論じることはできない。
    それなりに評価をされていた小説の世界から一歩踏み出して、演劇の世界へと足を踏み込む。
    「小説家のお遊び」と評価される可能性も高いだけに、失敗すれば、確固たる地位を築いている小説に対してもダメージを加えかねない。

    それでも演劇に踏み込んでいく。
    それも、最先端を目指そうとする。
    「文字」でできることとその「限界」、「映像」でできることとその「限界」、そして「演劇」でできることに創作の先端を見出したのだ。
    「表現したいこと」は、どんな方法であっても構わない。
    他人から見れば、小説から演劇へ移ったように見えるが、安部公房にとってはその差はない。
    だから、そう思ったら止めることはできない。

    昔、何かの対談だったか、何かで読んだことがあるのだが、「小説というものは、意味まで到達しない、ある実態(状態)を表すものであり、読者はそれを体験するのだ」と安部公房が言っていたと思う(違っていたらスミマセン)。
    それを読んで(聞いて?)「なるほど」と思ったわけで、それ以降、小説に限らず、演劇などもそういう視点で見てきた。
    私に、創作物の見方のヒントを与えてくれたのは、安部公房だと思っている。

    だから、安部公房にとっては、表現方法は小説でも演劇でもいいわけなのだ。
    今感じている「実態(状態)」を伝えることさえできれば、いいのだから。
    しかも、表現方法を変えることを彼は「リスク」とは考えていないのだ。
    「冒険している」とはまったく思っていない。
    社会との関係(評価など)を気にしながらも、彼にとって創造の前には何も立ちふさがるものがないのだ。
    だから表現者であり得るのだ。
    これは「冒険している」と感じてしまう、私たちには理解できないことだ。

    小説の世界でのパートナーは妻であり、新しい「演劇」の世界でのパートナーは女子大生だったあかねである。
    彼女たちは安部公房にとって、パートナーというよりは、創作そのもの、創作の源泉、彼自身の内面のひつとでもあったのだ。

    劇中で安部公房があかねを口説くようなシーンがある。
    これは、演出家とか芸術家的な口説きのテクニックかと、笑いながら見ていたが、どうやらそうではない。
    安部公房にとっては、切実な気持ちであり、「演劇」に踏み出し、創作を続けるためには彼女が必要だったことがわかってくる。

    「愛人」とかそういう卑近なレベルでの問題ではないだろう。
    もちろん他人や社会から見れば、有名小説家の下半身スキャンダルにしか見えない。
    そういう危険を冒しても彼女を自分の手元に置いておきたかったのだ。

    安部公房の冒険とは、新しい「創作」にすべてを捧げることで、リスクを取りながらも(本人はリスクとは思っていない)先に進みたいという欲求の現れであろう。
    小説から演劇、妻から愛人、そういうベクトルの先には「創作(意欲)」があったに違いない。
    しかし、「冒険」ととらえるのは、芸術家の心の中まではわかることができない、一般の、われわれの見方でしかないのだ。

    劇中では、安部公房の演劇に対する想いが語られる。
    それは、「今、それを舞台の上で演じている」ということが、ヒリヒリとしてくる。
    確かに「安部公房がそう言った」のであって、この作品が主張していることではない。
    しかし、やっているのは「演劇」である。
    つまり、安部公房役の佐野史郎さんは血を流しながら、その台詞を言っている。
    戯曲を書いた松枝佳紀さんも、ギリギリと歯を噛みしめながら文字を書いていったのだろう。
    本当はどうなのかは知らないが、彼らにはそうあってほしいと思うのだ。

    「頭の悪い観客たち」なんて言い放った安部公房の印象は、自分に対する絶対的な自信があること。
    彼の小説を読んでいた中高生の頃、何かで彼のそういう発言を目にして、その自信の強さに辟易した覚えがある。
    当時文庫になっていた小説と戯曲はあらかた読んでしまったこともあり、安部公房は遠ざけてしまった。

    読者は、観客は、安部公房の作品のみに接するべきであったのかもしれない。
    それは、私のような凡人には彼の内面を推し量ることができないからだ。

    この舞台では、それを再認識したと言っていいだろう。
    安部公房の外面(そとづら)ではなく、2人の女性に見せる、本当の姿、弱さが見える。
    自信があるように振る舞いながらも、社会の評価は気になってしまう。
    彼女たちがいないと創作活動が続けられない。外聞をも気にせず突っ走ってしまう。

    オープニングは、ウソとマコト、について語る。
    語りながら、安部公房の本当の年表を披露する。
    その虚実をないまぜにしたところは面白いし、エピローグの台詞も(きどった)演劇っぽくてなかなかいいと思った。
    思ったのだが、それらは蛇足ではなかったたか、と思う。

    この作品は、安部公房、その妻、あかねの3人が劇中の登場人物である。
    思い切って、この3人だけの「3人芝居」にすべきではなかったか。
    そうすることで、より3人の関係が濃密になり、観客のベクトルも向けやすい。
    また、その分、もっと彼らのエピソードや内面の吐露を増やしていけば、さらにもの凄い作品になったのではないかと確信する。
    熱い作品なだけに、そこがとてももったいないと思う。

    例えば、今のままでは、妻の印象が悪い。
    あかねに対する嫉妬部分が見えすぎてしまうからだ。
    エピソードを重ねることで、さらに安部公房と妻の関係が深まっていくことになり、この作品自体が、単なる「愛人スキャンダル」に留まって見えてしまうこともなかったのではないかと思うからだ。

    また、先にも書いたが、この作品では安部公房の内側の姿が見える(安部公房と、その女たちを含めた「内側」だ)。
    だから、それを露わにするためにも、もっと外側との関係の安部公房も見せることができたのではないかと思う。

    狂言回しのようなキャラクターを入れることで、見やすくなったのは、「逃げ」ではないか、とまで思ってしまった。
    劇中で安部公房が語る演劇についての熱い想いを聞くにつれ、それに真っ向からぶつかっていく姿勢としても、そうあってほしいと思ったのだ。

    全体的に長台詞である。
    それが実に効果的であった。
    さらに彼らにそれを強いてほしかった。

    私にとっては、映画監督という印象が強い荒戸源次郎さんの演出は、オーソドックスなものであった。
    それが長台詞に耐え得るものであったと言っていい。
    緊張感もいい感じであり、間もいいし、長台詞を聞かされるときにありがちな、ダレることもない。
    台詞自体がいいということもあるだろう。

    役者は4人ともよかった。
    いい感じの熱さがあり、それが冷めることなくラストまで続く。

    佐野史郎さんは、安部公房の創作に対する姿勢、つまり、やや狂信的とも言える姿勢とともに、弱さもうまく表現していたと思う。
    妻役の辻しのぶさんもいい。きりっとしていて、安部公房をどうリードしていったのかをうかがわせる。少し強すぎるきらいはあるが。
    内田明さんは、歯切れのいい違和感がうまい。
    そして、あかね役の縄田智子さんが素晴らしい。
    どういう経歴の方かは知らないが、あかねという役と今の自分自身の重ね方がうまくいったのではないだろうか。
    演じているというよりは、「演じている自分」がいる。「役者を演じている」のではなく「役者になっている」とでも言うか、そういう印象だ。
    経験を積めばさらに輝くのではないかと思う。

    残念なのは、長台詞ということもあってか、各人1人につき、1回が2回ぐらい台詞を噛んでいたことだ。特にこの作品にとっては、それは大きなマイナスだ。
  • 満足度★★

    作品と作者は別物
    ミューズとしての愛人との関係を通して、芸術論と同時に男としてのみっともない姿が描かれていましたが、安部公房の小説や戯曲に見られる様な立場や価値観の逆転も見られず、安部公房的なテイストが感じられなかったのが物足りなかったです。

    大学の演劇のゼミに入って来た女学生と愛人としての関係を持ち、小説よりも演劇に力を入れる様になりつつも思った様には評価が得られず、妻と愛人、小説と演劇の間で悩む、人間的な卑近さを持った人物として描かれていました。
    安部公房・妻・愛人の3人のやりとりがメインで、そこに狂言回しを担う道化役が所々で絡む構成となっていましたが、道化役の立ち位置が中途半端に感じられました。
    安部公房の独特の世界観が好きで作品は大半を読んでいたものの作者のプライヴェートに関しては特に興味を持っていないので(個人的には、作家や画家や作曲家の作品が好きでも、その作者自身については知ろうとは思いません)、安部公房だったら書かない様な私小説的なドラマにはあまり惹かれませんでした。

    上手下手で床の色が異なっていて、左右に行き来することで異なる場所を表現しているのは二項対立に悩む安部公房の姿を視覚化していて良かったのですが、照明のコントラストが甘くて使っていない側のエリアで役者が捌けたり、スタッフが転換作業をしたりしているのが見えていたのが残念でした。
    中央のステージの両サイドに小さなステージが4つずつ並べられていたものの一度も使われることが無く、それを置いた意図が分かりませんでした。

    役者はそれぞれキャラクターが立っていて魅力的でしたが、台詞の言い間違いが目立っていたのが勿体なく思いました。

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