満足度★★★
音楽と時代の空気
「文化庁委託事業 『平成24年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業』日本の演劇人を育てるプロジェクト」の劇作家部門として催された。創作ミュージカルの老舗、イッツフォーリーズと、新進の劇作家長田育恵のてがみ座のコラボレーションに文学座の俳優などが共演する、という構成。俳優の大半はイッツフォーリーズが占め、演出の坂口阿紀もこの劇団の出身者である。劇団の紹介には「日本の創作ミュージカルの第一人者、作曲家・故いずみたくが、ミュージカルを専門に上演する劇団として、1977年に創立し」たとある。
創作ミュージカルというジャンルと普通のミュージカルの違いを明確な定義をもって理解していないが、創作という語には「オリジナルの脚本で」という意味合いが込められており、非オリジナルなものとして想定されているのはいわゆる海外からの輸入ミュージカルである。ならば堂々と日本のミュージカル、と名乗れば良いと思うが、そうはいかない理由があるのだろう。門外漢なので率直に指摘するが、今回の作品に関する限り、台本は極めて日本の現代演劇に寄っているのに音楽は極めて海外ミュージカル志向である。この感覚のズレが違和感を引きずった。
物語は1968年と1990年、近未来の2020年を舞台に進行する。パンフレットのインタビューで長田が語っているように、「60年代の熱を発火点に、ほかの時代も俯瞰していくような仕立て」であるとするならば、68年の熱の描写が生煮えだ。その影響は全体に及ぶ。
思いつくだけでもこの年には、1月に国内では東大闘争、成田空港闘争、新宿駅占拠、海外ではベトナム戦争においてテト攻勢が始まったのを皮切りに、北爆停止、キング牧師暗殺、フランス五月革命、中国は文化大革命の真っ最中など時代の転換期であり、誰もが変革を夢見た時代だ。その時代の空気をミュージカルで表現し、かつ3つの時代をつなぐ鍵として重要な歌が作曲されるのだから、音楽の同時代性は極めて重要である。しかし歌の調子やリズムといったものは極めて現代的であり、違和感は否めない。1968年のヒット曲には「帰って来たヨッパライ」や「サウンド・オブ・サイレンス」などがあり、音楽を志して上京する雅臣もギター1本を心の支えとしている。長田の紡ぐセリフには、当時の繊細な若者たちの内なるエネルギーを詩的に表現しているが、こと音楽だけが全くの時代性を無視している。若者が地方の停滞感と都会の躍動感に期待と失望を感じるのは今も昔も変わらないが、当時のそれを現代的な熱で処理するのは誤りだ。演出と音楽に大いに疑問が残る。
もう一つの違和感は実在する二つの時代と、架空の近未来の間の整合性である。架空の街相浦(あいのうら)は2020年には高潮によって被害を受け、単線ローカル線の線路が水没し新しい港湾の設計が必要となっている。2013年に生きる私たちにとって、高潮の被害は明らかに震災の津波を連想させる。ただし演出の坂口は父の実家である能登半島の内浦を連想していたと語っているし、西に沈む夕日の方角に「あしか」に見える岬がある設定だから、高潮は西から襲ってきたことになり、相浦は太平洋側とは考えにくい。だが、この時点で私を含め観客は相浦の位置を自然と東日本のどこかに想定しがちだ。しかし衝撃的な単語が飛び出す。岬の番人を自負する「サキ爺」は海の向こうの理想郷として「ニライカナイ」と言う。「ニライカナイ」とは奄美、沖縄地方で信仰されている楽土のことで、その他の地方ではこの単語を用いない。サキ爺の戯言だったとしても唐突過ぎて混乱を生じ、笑いには還元されなかった。単線の鉄道が走っている時点で沖縄地方でないことは明確であり、観客がそれぞれおぼろげながら構築していた相浦のリアリティは不信感に変わる。さらにこれは音響の問題点だが、単線ローカル鉄道は非電化区間であることがほとんどで、「電車」ではない。コンプレッサーの音や走り去る車両の音が軽快な都市部の鉄道の音であるなど、演出上の「芝居のうそ」のつき方が不器用な面が多々見受けられた。近未来という大きな「うそ」をつく以上、丁寧な裏付けが必要だ。